トップページ主日ミサ配信2020年5月の主日 説教

主日ミサ ライブ配信

 新型コロナウイルスによる感染症が拡大し、公開ミサの禁止が続いています。離れていても心をあわせて祈りを捧げることができるように典礼のライブ配信をします

  • ライブ配信は東京大司教の認可を受けています。
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2020年5月の主日ミサ説教





2020年4月 | 2020年6月


聖霊降臨の主日

英隆一朗神父

5/31(日)9:00- 聖霊降臨の主日(手話、字幕付き)


 今日は、先ほども言いましたけど聖霊降臨の出来事をお祝いしています。
 第1朗読の使徒言行録2章にあったように、このお祭りの時に、人々が集まっている時にですね、非常に不思議な形で彼らに聖霊が注がれたという出来事が語られています。そしてこの聖霊が最初のメンバーにくだったその後から、ここに集まった人々は励まされてですね、この聖霊の力によって多くの人々に福音を伝えるようになった。そしてこの聖霊の力がどんどんと広がっていくわけですよね。その最初の出来事が描かれているわけです。

 この聖霊のことを考えれば考えるほど、ちょっと変な例で悪いですけどコロナウイルスと似ているっていう気持ちがちょっと、無きにしも非ず。
 最初にですね、聖霊に感染したのは本当にごく少数だったわけですが、それが、ほんのちょっとの人が聖霊を受けたんですが、それがどんどん多くの人に広がっていったわけですね、信じられないほど。最初はこれ三密だったと思いますけど、この集まりはですね。みんな密封密接密集していた中で聖霊が働いて。結局この後どんどん人を通してですね、まさしく人を介して聖霊が広がっていったわけですよね。コロナウイルスが流行るもっと前に聖霊が流行っていたというか聖霊の感染症がですね、多くの人々に広がっていったということですよね。聖霊は目に見えないですし、いつ感染したかもわからないですよね。
 コロナウイルスにかかったらすぐはわからないけどだんだん体の調子が悪くなったり熱が出たりでわかるわけですが、聖霊に感染するとだんだんと心に平和な気持ちが、喜びがあふれてきて幸せな気持ちにどんどんなるわけですよね。それをわたしたちは今思い起こしましょう。
 つまりコロナウイルスは感染を止めなきゃならないですけど、明らかに、三密を避けたり。でもその代わりにわたしたちは聖霊の感染を広げなきゃならない。
 今こそですね。いろんな人々が不安に思ったり、再開と言ってもなにか中途半端でですね。まあ何とも言えない気持ちの中でこそ、三密で聖霊を広げるわけにはいかないですけれども、わたしたちは今こそ聖霊の恵みを、コロナウイルスの代わりに広げていく必要性がやはりあるのではないか。それをですね、心がけたいと思います。


 コロナウイルスが流行るのにスプレッダーとかスーパースプレッダーっていう人がいるっていうんですよね。つまりコロナウイルスがみんな感染させるんじゃなくて、ある特定の人がたくさんの人に広げているように聞いていますけれども、聖霊もそうかもしれないですよね。やっぱりスーパースプレッダーの人が聖霊をみんなに。まあスーパーまでいかなくても皆さん一人一人がですね、このスプレッダーとして聖霊を感染させていくっていう、そういう気持ちがあれば、今のわたしたちに一番大切なことじゃないかと思います。
 ついでに言うと、コロナを見てると本当に面白いんですけどね、聞いた言葉で難しい言葉ですが、実効再生産数というのがあって、実効再生産数、これが一を上回っていたら、つまり一人の人が一人にうつしている。だから実効再生産数が一を上回ると、感染が広がっている。この数字が一から下に下がったら広がりを抑えられているという数字ですよね。政府はこのコロナウイルスの実効再生産数を一より小さく、それをわたしたちもそう願ってますが、クリスチャンはですね、聖霊の実効再生産数を一より上に上げなきゃならない。
 つまりわたしたちに出会った人に一人以上に聖霊の恵みが感染されないとキリスト教はやっぱり流行らないわけですね。つまり福音宣教ってそういうことだと思います。聖霊を周りの人に感染させていくっていう使命がわたしたちに与えられているということですね。それを心がけましょう。

 今日の福音朗読である通りなんですよね。父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす。皆さん一人一人はイエスの弟子として遣わされてるものだってことですよね。遣わされてる、自分の置かれている場で、あるいは出かけて行く場で。そこで聖霊の恵みを分かち合う、感染させてくるっていうんですかね。平和の心、喜び、赦し、癒しの気持ちを周りの人に分ち合っていく、感染させていくことが今一番大事だと思いますね。自分自身ももちろん平和と喜び、聖霊の恵みを生きていくということ、それをですね、この聖霊降臨の日にあたって特に願いたいと思います。


 そしてもう1つプラス言うならば、聖霊の恵みを生きる上でですね、ある人はあまり聞いたことがない言葉かもしれないですけど、識別ということが非常に大事なんですね。識別というんですが。

 これはイエズス会の中でよく言われていることで、ここもイグナチオ教会ですから皆さん一人一人が識別できる人になっていただきたいと前から思ってることなんですが、何かというと聖霊の導きを自分自身が見出して日々の生活の中で聖霊の導いている方向性に向かってわたしたちが生きるということなんですね。特に今のように、完全に教会をシャットダウンして誰も来るなというのはある意味簡単ですよね、みんな家にステイホームですから。でもこのように部分的に開いてきた中でどれだけ家に閉じこもるのか、どれだけ教会に来るのか、どれだけ仕事場に行くのか出かけて行くのか、感染のリスクを考えながらどうするか。もうこれは本当に思いますけど、皆さんの一人一人の識別によるしかないということですね。

 高齢者の方とか基礎疾患のある方が教会に来るかどうか、わたしがみなさんにお願いしたいのは皆さん一人一人の識別が大事だということですね。
 もちろん司教さんとか何かがある基準を出していて、多分これももう少ししたら緩和されたりいろいろするでしょうけど、でもそのことも参考にしながら皆さん一人一人の信仰生活において聖霊の導き、促しでどうするのが信仰生活においても、教会に来るか来ないかにおいても、仕事場でどのようにどう人と関わるのか、感染リスクの中でそれとの関係の中で、あるいは家族のつながりとか家族の中に高齢者がいるとか様々な要因の中で一人ひとりがしっかりと識別をして、聖霊の導きはこうだから自分がこのようにするというですね、主体的な責任のある生き方をするというのは今、極めて大切なことだと思います。
 今こそ聖霊の導きに耳を傾けて、何をするんでもリスクがありますから。たとえば教会の態度に対しても、ある人は慎重すぎるとかある人はそれでいいのかとか、多分司教さんのところにも今文句が、文句というかまあいろいろ。いろんなところからいろんな人が教会の方針に対してですね。あるいは政府とか東京都の方針に対して緩すぎるとかきつすぎるとか人それぞれみんな意見がありますよね、皆さんも。いいとか悪いとかやりすぎてたとか甘すぎるとかですね。


 でも大切なのは皆さん一人ひとりがどうするかでしょう。教会がどう決めてるとか、政府がどう決めてるとかじゃなくて、この危機の中で一人ひとりが神の声を聞いてそれを皆さんが責任をもって自分で選んで行動していくしかないわけです。1年2年このあやふやな状況は多分ずっと続くでしょうから、今こそ皆さん一人ひとりの識別力、一人ひとりの責任ある自分の決断による判断と行動が極めて重要だと思いますね。
 だから皆さん聖霊に心を開きましょう。神様がどのようにするように自分に呼ばれてるのか、教会がどうのこうのとか政府がどうのこうのとかじゃなくて、まあそれを参考にしたらいいですけど、自分がですよ。神の導きで祈りのために教会に来る方がいいのか悪いのか、あるいは仕事に行くか行かないかとかボランティアを再開するかしないか、教会の奉仕活動を続けるかまだやめておくか、皆さん一人ひとりの識別にかかってると思います。


 神の声を聴きながらその一人ひとりが神様の御目にかなった、それも全然一人ひとり違いますからそれを大切にして歩めるように、共に祈りながら進んでいきましょう。


主の昇天

酒井陽介神父

5/24(日)9:00- 主の昇天(字幕)


 今日祝う、主の昇天の出来事の中心には、主イエスが、ご自身の使命を弟子たちに委ねるということがあると思います。この世における、主から弟子への福音宣教のバトンタッチです。こんな言葉が第一朗読に書かれています、「あなた方は、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、私の証人となる」。福音書には、「あなた方は行って、すべての人を弟子にしなさい。」とあります。教会のダイミナミックなところは、このバトンタッチが、絶える事無く世界中で受け継がれているということなのですね。私は、以前、フランシスコ・ザビエルの出生地のスペイン・パンプローナ州にあるハビエル城に行きました。そこには、ザビエル家が代々使用していた聖堂があって、石の洗礼盤があります。そこで、ザビエルは、洗礼を受けたのです。その洗礼盤に手を置いて、少し祈ったとき、今まで味わったこともないような力強い感動を得ました。「彼の受けた洗礼と私の受けた洗礼に何ひとつ違いがないのだ。赤ちゃんのザビエルが受けた洗礼は、彼が、その後、遠い日本にまで宣教に来てくれて、この日本に生まれた自分にもつながっている。」深い感謝を感じました。実は、それと同じような経験が、長崎の外海の遠藤周作文学館から望む海岸線と五島灘を見たときに、当時キリシタンと呼ばれた人々と命がけで働いていた宣教師たちのイメージが湧きました。そして、「彼らが守り、受け継いだ洗礼と私の洗礼は、同じだ。つながっているのだ。」と思ったのです。


 洗礼を受けた私たちはみな、「福音を告げる」というミッションをもらっています。じゃあ、福音ってなんでしょうか。福音とは、ご存知のように、良き知らせ、良き便り。それは、神さまから、私たち一人一人、人間とこの地球環境に宛てられた、言ってみれば、ラブレターです。あなたのことを大切に思っている、あなたのことを忘れない、命がけで愛しているということです。

 その愛あふれる便りを人間は、どう受け止めたらいいのでしょうか。こう思いました。「生きていれば、いろいろなことがある。“それでも”、私たちは、神につながっている。キリストが、最後までともにいてくれる。」ただ、それだけに気づくこと、そこに励まされることが福音を受けることなのではないかと。そして、これを他の人に分かちあおう、こんな凄いこと独り占めにできないと思って、「あなたも、神さまに愛されているんだよ。」と伝えていく。でも、もちろん、人生いろいろな時がありますから、そう感じられない日もある。その時は、はじめのころの愛を思い出せばいい。私が神様に、キリストに出会ったときの愛を思い出す。はじめの頃の慰めを味わいなおすということです。


 さて、福音を分かち合うとき、注意しなければいけないのは、言葉で人を説き伏せるとか、正論を語って、相手の間違いをただす、とかではないような気がします。そこには、「自分」しかいなくて、相手が見えなくなってしまい、「良き便り」はもうないからです。ある時期まで、教会は、そうした態度が強かったかもしれません。でも、神の民は、前進し、成長していかねばいけないのです。だから、自分の生き方が大事かなと。公明正大に、咎められることなく生きなさいというとも少し違う。それは、自分の小ささを嘆くことがあっても、自分の弱さに打ちひしがれても、神につながっていたい、キリストがともにいてくれると信じたいと思うことから、始まると思うのです。自分で無理して作る笑顔や、虚勢ではなく、自然と存在から、関わりから滲み出てくるようなものかもしれません。それを、教皇フランシスコは、「福音の喜び」と呼んだのではないでしょうか。


 イエスが離れていくとき、弟子たちは、「天を見つめ、天を見上げた」とあります。一緒に行きたいという気持ちもあったように思いますし、行かないで、という深い寂しさも感じたと思います。これは、キリスト者である私たちの根本的なあり方を示しているような気がしてなりません。心のどこかで、天を望み、それでも、この世の現実に生きていく。イエスと天に一緒にまだ行けないのです。なぜなら、天使じゃなくて、人間だからです。だから、この地上を離れることはできない。私たちは、地に足をつけて生きるしかない。でも、主を見つめるその「まなこ」を持って生きる、すなわち「心をあげる」のです。Sursum Corda(スルスム・コルダ)。ミサの叙唱にある「心をあげて、神を仰ぎ」ということです。私たちは、この地上から、天に帰るそのときまで、地に足をつけて、心をあげて生きるものたちなのです。


 昨晩、この聖堂でイエズス会の前総長ニコラス神父様の葬儀が行われました。彼は、その最期の時まで、地に足をつけ、心を主にあげた人でした。その彼が生前、総長時代に若者たちにこう言ったのでした。「キリンには、長い首と大きな心臓がある。キリンのように長い首を持って、周りを見渡し、取り巻く世界の状況に目覚め、大きな心臓で、勇気と愛をいっぱい持って創造的に生きよ。」と。これは、キリストの生き方だと思います。私たちにできることは、見上げること、頭を上げること。キリストの向かう方向に、心をあげること。

 自分の小ささに落ち込むとき、射祷のように「スルスム・コルダ」と言ってみてください。現実に埋もれて、息苦しく感じるとき、かつて天を仰いだ、弟子たちに倣い、そして困難な長旅を経て日本にたどり着いたザビエルの心意気を思い出し、命と引き換えに、信仰を私たちに繋いだ先達を思い出し、「スルスム・コルダ」と言ってください。そうすれば、必ず、私たちは、東京ばかりでなく、この日本の全土で、また地の果てに至るまで、キリストの証人となります。そこで出会う人々が、私たちの生き方に触れ、喜びに触れ、イエスの弟子になっていきますように。


復活節第6主日

ハビエル・ガラルダ神父

5/17(日)9:00- 復活節第6主日(字幕)


「あなたがたがわたしの内におり、わたしはあなたがたの内にいる。」これは素晴らしい言葉ですね。どんなことがあってもわたしたちがイエスの内におり、イエスがわたしの内におられる。この事実に感謝と認識を深めましょう。 今みなさんはご聖体から離れていらっしゃるけれども、でも、今もいつもどこにも、どのような時にもイエスさまがいつもあなたがたと、わたしたちと共におられるということに認識と感謝を引き起こしましょう。
 ところがイエスさまがわたしたちの内におられるということだけではなくて、わたしたちと一緒に働いてくださると書いてあります。ですから、わたしたちがただイエスさまと一緒にいるだけではなくて、イエスさまの価値観に従ってイエスに協力して一緒に働くことになっています。


 では今のわたしたちには二つの課題があるんです。その課題に取り組むべきです。二つの危機があります。その危機に直面してますので、イエス・キリストと一緒に働きましょう。
 一つの危機は今の新型コロナウイルスを乗り越えるということです。二番目の課題はそのあとの状態です。ですから今は地震のような状態で、そのあと恐ろしい言葉ですけれども、経済的な津波という危機が来るでしょう。その二つの課題に取り組むべきです。


 ではまず今の危機を乗り越えるには忍耐が必要です。もうちょっと忍耐が必要です。
 でもこれについて四日くらい前に、ドイツの首相アンゲラ・メルケルがさすがにいいことをおっしゃいました。今のコロナウイルスを乗り越えるにはもちろんマスクと換気と距離は必要です。でもそれよりも人を尊敬しなさい。これは何よりです。まさにその通りですね。人を尊敬すれば、人を大切にすれば、あとは全部守ることになります。尊敬がなければ時々は守るけれども、結局は必要な時には悪いことをすることになります。ですから今の問題を乗り越えるには忍耐と尊敬です。


 ところがそのあとの経済的な津波をどうやって乗り切ることができるでしょうか。そこには一番大切にすべきなのは、一番考慮すべきなのは貧しい人ですね。弱い立場に置かれている人こそ困ります。わたしたちは、普通の暮らしを送っている人にとっては、これからの経済状態ではもうちょっと質素に暮らすことになるでしょう。
 ところが今貧しい人にとってはもっと質素に暮らすということではなくて、食べることができなくなるという状態に入るんですよ。たとえば低い声、耳のいい人にとっては低い声は聞きづらい。ところがわたしのように耳の遠い人にとってはその声は全然聞こえません。この状態ですよ。わたしたちはもうちょっと質素でいい。でも貧しい人は食べることができなくなります。
 ですから平等、もっと平等な世界をつくらなければならない。キリストと一緒に働くんだったら、イエスさまはその平等をぜひつくりましょうと思ってらっしゃるんですよ。平等と言っても、たとえば池がつくる平等のような、池、湖は表は平らですね。でも下はでこぼこですよ。池は深いところに一杯水を入れて全体は平らになる、このような平等です。あるいはまた仲間で山登りするとします。みんなは足の弱い人にペースを合わせるんですね。それで一緒に登るんです。決して早い人は頂上に行ってそこでビールを飲みながら、おにぎりを食べながら写真を撮ったりして弱い人を待つということではなくて、弱い人に合わせて一緒に登るということが平等、ということは友情ですね。その社会をつくりましょう。


 ところが難しいですよ。なぜ難しいかといいますと、わたしたちは利己主義でエゴイストで、わたしさえよければという気持ちがあまりにも入り込んでいるので難しいです。
 たとえば今ニュースを読むと、テレビとか新聞を読むと新型コロナウイルスの話ばっかりですね。感染者の数とか死者の数とか詳しく教えてくださるんです。しかし昔から世界には栄養不足で薬がなくて死んでいる人がやたらに多いのに、それについてマスコミは取り扱わないんです。なぜでしょうか。マスコミが悪いということではなくて、悪いのはわたしたちです。マスコミがわたしたちの興味に合わせてニュースを流すんじゃないんですか?私たちは他の人たちが死んでいることについて興味がない。関わらないから、自分の利益に響かないから興味がない。ですからこの精神がある限り無理です。
 したがって分ち合いでもって、分ち合いの精神でもって新しい世界をつくるように働きましょう。これをきれいに表す物語がありますけれども、たぶんそのあたりはもう皆さんがご存じですから、もう一度言うと気になります。でも昔みたいに皆さんがここに全部いるとしたらかわいそうです。また始まったと思って我慢するしかないけれど、今は簡単ですよ。面白くないと思ったらワンクリックでピッとアウト。ですからよろしければ聞かないで、でも面白い話ですから。この物語です。


 ある人は、わたしは地獄を見学したいと思いますが、よろしいでしょうかと。はい、どうぞ。で、入ります。
 広い穴があって、二メートルくらい深い穴があって、その上に救われなかった人たちは足を中に入れて、橋で座っているんです。二メートル深いところにあるのは恐ろしい拷問ではなくて、素晴らしいごちそうですよ。もう素晴らしい。人々が二メートルの長さの箸を持っています。ところが片腕を縛られているので一つの手しか使えない。彼らはものすごく飢えていますので、自分の好きなものをつかむことはできるけれども、さて、口に入れようと思ったらできない。長すぎる。その悔しさが地獄の罰だと言われて、なるほどなるほどよく考えたことですね。納得納得。
 では今度は天国を見たいと思いますけどよろしいでしょうか。はい、どうぞ。で天国に入ってみるとなんと素晴らしいところだと思ったら、なんと同じじゃないですか。穴があってみんな座って箸をもって素晴らしいごちそうがあって。なんかつまらないじゃないですか。同じだ。ところがよくよく見るとなるほどと思った。天国の人々は、自分の…何にしましょうか、中トロの手巻きを取って周りの人に与えるんですね。その人は自分の松阪のステーキを取ってその右の人に渡す。右の人には、自分の…何にしましょうか、おでんの大根を取って、他の人はアチアチと言うでしょうけど渡るんでしょう。この人は取ってチョコレートケーキをあげる。それでみんな満腹。
 ということはこの世の中を天国にするのか、地獄にするのかはわたしたちの分ち合いの精神次第です。みんな分ち合いしてればみんな満腹。ケチって自分のことばっかり考えればみんな空腹になります。

 ではキリストと共に、キリストのように新しい世界をつくるように働きましょう。


復活節第5主日

酒井陽介神父

5/10(日)9:00- 復活節第5主日(子どもとともにささげるミサ)


 みなさんこんにちは。酒井神父です。
 さて、今日はみんなとこうやって一緒にミサをささげることを、インターネットを通してわたしたちは神さまの言葉を分かち合っていきます。神父さんはゴールデンウィーク中、少し気分転換をかねて、今日みんなと神さまの言葉を分かち合うために絵を描いてみました。ちょっとこの絵を見ながら一緒に分ち合っていきましょう。

 さて、ここに描かれている人たちは、最近みんながよく耳にするエッセンシャルワーカーという人たちです。みなさん聞いたことがありますよね。知っていますか?知っているお友だちは今、画面の前で手をあげてください。おお、よくあがっています。よくあがっています。みんな知っていますね。なるほど。みんなが毎日元気に生活するために、いなくては困ってしまう、なくてはならないお仕事をしてくれる人たちのことです。みんなの毎日を見えないところで支えてくれている人たち。
 ちょうどこの絵にあるのは、病院で働く人たち、お掃除をしてくれる人たち、食べ物を作ったり売ったりしてくれる人たちなど、みんなが生きていくために彼らの助けがないとどうにもならないというくらい大切なお仕事をしてくれる人たちです。特に今はこうしたお仕事をみんなに代わってしてくれる人たちがいて、みんなが元気におうちで生活できるように、最前線と言われる一番大変なところでわたしたちのことを守ってくれています。
 神父さんは40人くらい他の神父さんたちと一緒に生活していますが、やっぱりそこでも毎日ご飯を作ってくれる人やお掃除をしてくれる人がいるおかげで元気にしていられます。


 さて、エッセンシャルワーカーは、実は今の時代だけにいる人ではなかったと思います。イエスさまの生きていた時代にもいたみたいです。

 まず、どんなお話がさっき読まれたか思い出してみましょう。
 弟子たちはイエスさまについてのお話をいろんなところに行ってすることになりました。だから毎日忙しくなってなかなかそこに残ることができません。たくさん信者も増えてイエスの弟子たちも増えてきました。だから彼らのため毎日のご飯や身の回りのことをするのが難しくなっていったんです。
 そこで彼らの代わりにご飯の世話や身の回りのお仕事をする人たちが必要になったと聖書に書いてあります。それがこの人たちです。今のエッセンシャルワーカーたちと似ていますか?ちょっと見てください。どうですか、似ているでしょう?弟子たちがイエスさまについてお話しするお仕事はとっても大切なことなんですが、でもそれは毎日元気に気持ちよく生活ができて初めてできることなんですよね。だからそのためにしっかりご飯を食べ、気持ちよく生活することが大切になります。だから今読まれた聖書には、できたばかりの教会にはエッセンシャルワーカーが必要だった、そのために7名の人が選ばれたと書いてありました。イエスさまについてするお話が多くの人に伝わるためにお話をする弟子たちだけではなくて、毎日のお世話や助けをする人たちの存在がどうしても必要になる。そういうことですね。


でも、ちょっと待ってください。実はみんなの近くには忘れてはいけないエッセンシャルワーカーたちがいますよ。

 それはみんなのおうちのお母さんやお父さんです。みんなの大切な命を一番近くから預かって守ってくれる人たちがいます。ご飯を作ってくれたり、遊んでくれたり、勉強を見てくれたり、みんなの身の回りのことをしてくれたり。また今はおうちでお仕事をしたり、時にはお仕事のために外に出かけなくてはいけなかったり。それは全部みんなが元気でいられるように、お母さんとお父さんが精一杯頑張っているんですよね。
 だからエッセンシャルワーカーというのは何か遠いところにいる存在、遠い場所のお仕事だけではなくて、実はすごく近くにもいるんです。それに今、毎食ご飯を作るのってとっても大変なことなんですよ。今日は特に母の日ですから、お母さんたちにありがとうと伝えてくださいね。
 そしてこうやって今みんなのもとにミサをYouTubeで届けていますが、そこにはみんなには見えませんけれども縁の下の力持ちがここに数人いるんです。考えてみるとこの人たちもイグナチオ教会のこのオンラインのミサのエッセンシャルワーカーなんです。ありがたいことですよね。

 イエスさまの時代も今の時代もわたしたちの命を大切に育て、世話をしてくれる人たちがいます。それは命をかけることができる相手がいるからなんです。でも命をかけると聞くとちょっと大げさに聞こえるかもしれません。でも本当なんです。自分の命のことだけではなく、大切に思う相手の命、また困っている他の人たちの命を大切にすることなんです。そういう相手がいるところに必ずエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちがいるんです。

 ああ、そうそう、ここまで話して決して忘れてはいけないエッセンシャルワーカーがいます。それがイエスさまです。さっき神父さんが読んだ聖書の中にこんなイエスさまの言葉がありました。わたしはみんなのために場所を用意しに行く、わたしは道であり、真理であり、命である。ちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、別の言葉で言うとイエスさまは命そのもの、愛そのものだということなんです。それはイエスさまのくださる命につながっていればみんなの命がパワーアップするんです。みんなの命がかけがえのないもの、とっても大切なものだということをイエスさまは知っています。
 だからイエスさまは自分の命をかけて守ってくれます。イエスさまは一番のエッセンシャルワーカーなんです。わたしたちは今、できることをしていけばいい。そして今、できないこともたくさん出てきている。でも心配する必要はありません。イエスさまはわたしたちに代わってみんなの命を引き受け、守ってくれるからです。イエスさまは今も、これからもずっとみんなの命を生かすために近くにいてくれます。それはみんなの命が大切だからです。エッセンシャルという言葉はかけがえのない、大切なという意味ですから、エッセンシャルワーカーは大切な命を守る人たち、そしてイエスさまはそれをもっと上から、もっと大きく、もっと近くから守ってくれる人なんです。

 イエスさまの時代でも今の病院でも、お掃除をする場所でもスーパーでもおうちでも、多くの人たちが他の人の命を大切にして、自分の時間を、命をささげています。そういう人たちはみんなイエスさまの弟子です。イエスさまが言う「わたしはいのちである」ということは「神は愛」ということと同じことだと思います。だから愛しているという意味は、あなたの命を大切にするということです。お友だちのことを大切にする、大事にするということですよね。人はそれぞれ愛の表し方が違います。だから命のささげ方、命のかけ方も違ってきます。いつかみんなも誰かのために、大切な人のために命をかけることがあるでしょう。その時まずお母さんお父さんを思い出してください。そしてイエスさまを思い出してください。イエスさまは愛そのものだということをどうか忘れないようにしてください。
 いつかみんなが誰かのために命をかける時、みんなもその時エッセンシャルワーカーになっていきます。みんなが元気で今この時を過ぎ越していけるように、イグナチオ教会の神父さんたちと、このオンラインのスタッフのメンバーたちはみんなこのミサの中で祈っています。


復活節第4主日

マヌエル・シルゴ神父

5/3(日)9:00- 復活節第4主日(字幕)


 だいぶ昔、中学生だったと思いますけれども、わたしは夏休みの間、あの頃はスペインには何もなかったんですけれども、友達に誘われてスペインの田舎の方に、何もない本当に小さな村で夏を過ごしたんです。そこでは何があったかといいますと、人々は畑を耕して、いろいろなものを集めてそれを売って生きていたわけです。非常にシンプルな生活であまり贅沢がないですね。その時よく見たのは、今日の福音書に描かれている羊飼いと羊たちですね。


 福音書を読みますと、イエスだからきれいに書いてくださったんですけれども、本物の羊というのは本当に馬鹿な動物ですよね。何をしてるかさっぱりわからないですね。頭が悪いというかですね。可愛いかもしれませんけれども、ずーっと一緒にいますと、ちっとも可愛くないですよね。臭くて。でも、そういう動物をイエスはたとえにして、どうしてこれを話されたかと言いますと、あえて言えば羊にあるのは素直さ。羊飼いの声に耳を傾けて、言われる通りに動く。言われるというか、時々声だけですよね。場合によっては一笛ヒュッと吹くんですね。あるいは犬を使って動かすんですね。その素直さで羊飼いを簡単にと言いましょうか、人間の目で見れば受けとめているような気がします。受け入れるんですね。
 今日の福音書には、イエスは最初のところにはそういう羊を描いてくださるわけですよね。羊は頭が悪いかもしれませんけど素直に牧者についていく。

 同じヨハネ福音書10章の、今日は読んでいないけれど、後からもっと細かく良き牧者の話があるわけです。今日はその話に入る前にイエスは一つのイメージをお使いになったわけです。「門、羊の門である」とですね。その門というのはイエスは自分にたとえるわけです。
ご存じかどうかわかりませんけど、ヨハネ福音書にはイエスはご自分のことを弟子たちに話されたときに、7回、自分のことを紹介したときにいろいろなことをおっしゃる。一つはわたしは羊の門である、もう一つはわたしは羊の牧者であるなどいろいろなこと。わたしはパンであるとかわたしは道であるとか、7回イエスはそういう表現を使って自分のことを弟子たちに紹介してくださるわけですよ。
同じ福音書には他の7回には、イエスはご自分は神であるということをですね、旧約聖書に使われた、神さまはわたしであるという表現が7回ヨハネ福音書にあるわけです。わたしたちのためにどういう方かを表すときに、イエスはその7回をわたしは羊の門である、羊飼いであるとか。そして今日はその一つだけなんですね。羊の門であるとイエスはおっしゃるわけです。
どうしてイエスがこのようにおっしゃったかというと、神さまに近づきたい人はイエスを通らなければ神さまに近づくことはできない。神さまが人間になられたことはこれなんですよ。わたしたちが人間として神さまとかかわりを持つことができるために、神さまはわざわざ人間となってくださった。人間となってくださった神イエスは、わたしたちにとって神さまに近づくチャンスと言いましょうか可能性を与えてくださるわけです。そういったことをイエスはこういうイメージを使っておっしゃるわけですよね。わたしは門である。イエスを通らなければ御父に近づくことはできない。イエスを通らなければわたしたちは本当の神さまの愛を味わうことはできないですね。

 だいぶ前のことですけれども、わたしはアメリカで勉強したとき、一つの教会で少し働いていたんですけれども、その教会には聖霊運動のグループがあってわたしは誘われて参加したことがあります。
そしてそのあと一つの集まりがあって終わったときに聞かれたんです。神父さまどう思いますかと。そしてわたしは、いいですよと。ただ一つ、そこにはイエスが入ってなければ、自分と聖霊だけだったら、イエスが入っていなければ本当のキリスト教じゃないよと申し上げたんです。ちょっとびっくりなさったらしいですけれども。
どうしてかと言いますと、これなんですよ。神さまに近づくときにわたしたちはイエスを通って行かなければならないですよね。だからわたしたちにとってイエスはそういった意味では欠かせない、神さまに近づくための欠かせない道と言いましょうか。ご自分もあとで同じ表現を使っていますね。わたしは道である。イエスを通らなければわたしたちは神さまに近づくことはできない。
今度はわたしたちのためにイエスはこんなことをおっしゃってくださったから、わたしたちの角度から見ると、門となってくださったイエスに心から感謝しながら、その門を通ってわたしたちは神さまに近づくように生きたいと思います。

 今日のミサの中で皆さんと一緒にわたしたちはイエスを通して神さまに近づいて、そしてイエスと共にイエスの群れの羊としてイエスと共に人々にイエスを、その門を紹介する。その門まで人々を連れてくる。そしてどうぞお入りくださいと誘う。そういうことをわたしたちはキリスト者としてできるように、今日皆さんと一緒にその恵みを願いたいと思います。
わたしたちキリスト者は自分のためにキリスト者になったわけではない。もちろん自分も救われるんですけれども、人々のためにイエスと共に呼ばれた。わたしたちはキリスト者としてイエスの指示に従ってですね、人々をその門まで、イエスの門まで導くことができるように、その力を今日皆さんと共にお祈りしたいと思います。

 そして今、全世界にはコロナウイルスのことで悩んでいる人たちがたくさんいらっしゃるわけですよね。わたしたちはいろいろなことは具体的にできないかもしれませんが、できるのはその方々のために祈る、病気になる人たちだけでなくて、亡くなられた人たちだけでなくて、一生懸命働いている方々のためだけでなくて、病人の家族、ときどきわたしたちはそれを忘れるんですよね。また自分の大事な人をその病気で見送った方々のために、今日皆さんと一緒にお祈りしたいと思います。



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