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2020年9月 ミサ説教




2020年8月 | 2020年10月


年間第26主日


ハビエル・ガラルダ神父

9/27(日)10:00- 年間第26主日(手話・一部字幕付き)


 今日の福音はわかりやすいので、むしろ第2の朗読の聖パウロの耳の痛いことばを聴きましょう。 フィリピ2章3節と4節ですけれども「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」これについて考えましょう。


 わたしたちが経験していることですが、時間がたつにつれてわたしたちの体の何もかもが弱くなってきます。遅かれ早かれ筋肉が弱くなり、疲れの回復は遅くなり、健康が弱くなり、耳も目も健康も、記憶力も、おもに具体的な名前を思い出すのが大変になる時もあります。すべてが弱くなります。これは仕方がないです。むしろ生きていることで感謝すればいいと思います。
 ところが、弱くならないことがあります。それは虚栄心と利己心、エゴイズムと高慢。これは弱くならないどころかますます強くなって、ますます丈夫で長持ちのようなものになってきたような感じがします。だから聖パウロのことばはズバリ当たります。エゴイズムと高慢は諸悪の根源です。 思い出してみましょう。あなたにちょっと大きな悩みがあったとか、誤解があったとか、喧嘩とかいろんな不愉快なことがあったでしょう。少し追求してみてください。なぜそれが起こったかというと、結局エゴイズムと高慢のせいですよ。自分の利己心、あるいは相手の利己心と高慢か、あるいは両方とも。たいていそれらが諸悪の根源です。結局アダムとイブの原罪は、つまり罪の根源はこれですね。エゴイズムと高慢。
 パウロが3節で言いますね、「何事も利己心や虚栄心からするのではない」。ところが難しいですね。非常に難しい。エゴイズムと高慢は骨まで入り込んでいるので、それを取り除くことは簡単ではありません。ですからむしろ取り除こうとするよりも、反対行動をとることにしましょう。その方が少しできるかもしれません。利己心と虚栄心の反対語。


 では利己心に関してどうしましょうか。この方法があります。聖書に、福音に書いてありますね。人からしてもらいたいことを人にしなさい。人からしてもらいたくないことを人にしないように、ということばは、本当はイエスさまのオリジナルではありません。ヒレル大先生、ヒレル、ステーキの種類のヒレではなくて、ヒレル先生の言葉です。立派な言葉ですね。本当にみんなこうすればいいですね。してもらいたいことはしてあげなさい、してもらいたくないことはしないように、こうすればこの世の中明るくなります。
 ところが厳密にいえばここにはちょっと自己中心があり得るのです。たとえばある人が言う、わたしは納豆が好き、だから友達から納豆をもらいたい。それでわたしはもらいたいことを人にするようにしますので、わたしの友達に納豆をあげます。ところがその友達は納豆が嫌いかもしれません。失敗ですね。基準は、自分の望みを基準にするのは危ない時もあります。ですからその文章はそのままでいい、素晴らしいことですけれどもそれに付け加えまして、よくわたしたちが日本語でいう言葉を付け加えましょう。人の立場からも物事を考える。これは他人中心ですね。人の立場からも物事を考えて、自分がもらいたいことを人にするように。ところが人の立場から物事を考えることができるためには、その人の近くにいなければならないんですね。今この教会の門にいる人がいるとしますね。その人の立場から物事を見るには、わたしはそこまで行かなければわからないんですね。ですからその人に近寄る必要性があるし、そして空間的に近くなるだけではなくて心で近くならなければ、相手の立場から物事を考えることができない。だから利己心の反対行動はこれです。してもらいたいことをするし、そして相手の立場から考える。これを行いでやってみましょう。


 今度は高慢のことです。虚栄心。聖パウロが言う「へりくだっていなさい」。素晴らしい。ところがへりくだってといっても、表ではへりくだることができるけれども、内は全然へりくだってないこともあり得ます。たとえばある人が言うとします。わたしは謙遜です。わたしは周りの人たちと対等に付き合います。周りの人たちはわたしより程度がうんと低いのにわたしが無理して彼らに合わせまして、低くして対等に付き合います。謙遜でしょ。とんでもないことです。それは超感じの悪い高慢じゃないですか。心からへりくだるのは難しい。
 どうすればいいでしょうか。パウロが鋭いことを言うんです。「互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。」互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい、相手の方が上と考えなさい。普段は逆ですね。わたしは相手より上だと思いたがっているので。これはどういうふうにできるかといいますと、2つのコツを考えました。
 相手がわたしより上ということを本当に考えるには、1つのコツはこれです。わたしたちはたいてい、人と自分を比較するときには、おもにライバルの人、あまり好きではない人、あるいはわたしのことをちょっと無視している人、その人と比較するときにはたいてい自分の長所、相手の欠点を比較する傾向があるんじゃないですか。自分の良いところと相手の弱いところを比較すれば、もちろん結論は明らかですよ。わたしの方が上ですよ。ですからコツとしては逆にするということです。自分の欠点を相手の長所と比較すれば、相手の方が上になることになります。
 もう1つのコツ、わたしたちは人の価値を定めるには普通自分の長所を、自分の強いところを基準にして、その基準に従って周りの人の価値を定める傾向があるんじゃないでしょうか。たとえば、フィクションでいきましょう。ある学生、男子学生は優等生だとします。彼は自分のクラスメートの価値を判断するときにはこのように考えるとします。何々君はスポーツはうまい、でも成績が悪い。ペケ、ペケ。何々君は格好が良くて女子学生にすごい人気があるけれども、頭はパー。ペケ。何々君は明るくて愛想がよい人ですけれども、勉強はできない。ペケ。結局自分が一番ですよ。それは当たり前ですよ、基準は自分の良いところにしたので、自分が上になるに決まっています。そうではなくて基準はもっと広くにしましょう。自分の特徴だけではなくてほかのことを基準にすれば、それぞれ人の価値を定めることができると思います。


 つまり、結論。謙遜に、人が助かるために人に仕えるという生き方にしましょう。謙遜に、人が助かるために人に仕える。ただ人に仕えるということはちょっと危ないと思います。なぜかというと、純粋な愛が求めるのは、わたしが人を助けることよりも、人が助かるということです。わたしが助けると思ったら自分が主人公になるんです。感謝されます。褒められます。そうではなくて、わたしが褒められなくても、感謝されなくても、人が、人が助かりさえすれば、わたしが目立たなくてもいいという純粋な愛で行く、つまり人が助かるために人に仕えるという生き方を求めましょう。
 最後にパウロが言うんです。「これは、この生き方はキリストにもみられるものです」。この生き方はキリストにもみられるものです。イエス・キリストの生き方はこれこそ、これこそイエスキリストの生き方です。ですからわたしたちはキリストのように、キリストと共にへりくだって人が助かるために人に仕えることを願い求めましょう。




年間第25主日


住田省悟神父

9/20(日)10:00- 年間第25主日(手話・一部字幕付き)


わたしたちは幸か不幸か競争の社会、あるいは評価される、する社会に住んでいます。そこでは個々の業績によって他の者よりも良く評価されることが重要なポイントになります。わたしたちも人を評価する立場に置かれるでしょう。少なからずそのことに影響されていると思います。そしてそれを否定することはできないでしょう。今日の福音の「わたしはこの最後の人にも、あなたと同じように支払いたいのだ」という神の気前の良さ、これについては評価社会の重要なポイントである業績という観点からは決して理解することはできません。

 わたしたち一人ひとりは評価社会に住んでいます。わたしの本質的な、あるいは根本的な価値、それはどこから来ますか。何かが優れているんですか。あるいは何かが優れているからですか。比較して自分をほめるという世界に入ってしまうと、さげすみや嫉妬は大きくなります。わたしにはこれができる、あれができる。あるいは逆に、わたしはこれもあれもできない。自分自身のことを配慮するためのスペースは大きくなります。けれども神のために割かれるスペースは本当に小さくなってしまいます。


ところでわたしたち一人ひとりはすでに神の気前の良さを経験しています。いつどのように体験したんでしょうか。独りよがりのわたし自身の世界からわたしが導き出されたとき、きっとわたしたちは神の気前の良さを体験したんでしょう。つまり独りよがりのわたし自身の在り方があらわにされ、それを神の慈しみと憐れみのもとで認め、受け入れ、わたし自身がいったい何者であるかということを深く悟らされたとき、それは神の気前の良さの体験だったんでしょう。だから独善的なわたし自身の世界から導き出されて神との関わりからすべてを見る、そのような視点をわたしたちは与えられています。だからあなたは誰ですかと問われるとき、わたしたちはきっと次のように答えるでしょう。わたしは罪びとですと。
 けれども同時に主イエスの友として招かれた者です。人間が誰であるのかというこの定義こそ神の気前の良さから来るんでしょう。主イエスはこの定義を生きることを望んでいます。わたしは罪びとです、けれども同時に主の友として招かれている、この定義を生きてくださいと。それはイエスが望んでいることです。
けれどもわたし自身の身勝手なエゴは依然として生きています。以前と比べるならばわたし自身のエゴは小さくなっているかもしれません。わたしに関して言うならばなかなか小さくならないんですけれどもね。そしてそれは自分自身の中に活発に生きているということが分かります。たとえばミサに早く来たとします。そして多分わたしの特定席があるのかもしれませんね。でもそこに人が来てもう座っていると。ああ、それはわたしの席です、と心の中で言いたいかもしれません。その時にもうすでにわたしのエゴは活発に生きているいうことですね。それでわかるんでしょう。わたしのエゴはまだ活発に生きていると。わたしの指定席なんてどこにもないんでしょう、教会の中に。
 幸いに日常においてはそのエゴに気づき、それに死ぬチャンスはたくさん与えられます。感謝や評価されることのない苦労、仕事、あるいは使い減らされた、犠牲とされた思い、あるいは失望や失敗、理解されないこと、屈辱感、多々ありますね。こういったことは不可避的にわたしたちに与えられるものです。でもこのようなときにわたしのエゴは評価や理解や言い訳を求めて活発に動き始めますね。なぜこのわたしがこのようなことに?

 他方ではこのことは自分自身の勝手なエゴに死ぬチャンスでもあります。
自分ではどうにもならない、こういう不条理なことを受け入れていこうとするときに、自分自身のエゴの死でもあるわけですね、それは。わたしがわたし自身のエゴに死ぬとき、わたしは神と関わっていくプロセスに入ります。自分が中心となっているところから出て、神が中心となるスペースに入っていく。そのためにはどうしてもわたしは死ななければならない、どこかで。わたしが中心となっているその中心が外される、それはわたしが死ぬということを意味しています。わたし自身が死ぬとき、そこに何が生じるんですか。何が生まれるんですか。人の理解や評価に基づかない、あるいはそれを必要としない、まことのわたしがそこにあるんでしょう。神との関わりの中で見いだされる者、それはまことのわたしですね。神の気前の良さに触れているまことのわたし、そして神に飢え渇いているそのわたしでもあるわけです。
どこかでわたしたちは死ななければならない、日常の生活の中で神と深く関わっていくために、あるいは神との関わりに入っていくために、そういうチャンスを求める必要がありますね。でも求めなくてもかまいません。なぜならそういうチャンスはたくさん与えられます。家庭においても職場においても、あるいは教育の現場においてもわたしが否定されることはたくさんあるでしょう。あるいは面目を失う機会、それはたくさんありますね。そのときにわたしは死ぬことができます。わたしの意識によって。


 神が中心となる関わりに入っていくために、そしてまことの自分自身を見出していくために、そして神の気前の良さを味わっていくために自らのエゴに死ぬ、自らに死ぬというチャンスを逃さないようにしたいと思います。このことを今日一緒に、皆さまと共に神さまにお捧げしましょう。




年間第24主日 (子どもとともに捧げるミサ)


ホアン・アイダル神父 (司式:ボニー・ジェームズ神父)

9/13(日)10:00- 年間第24主日(手話・一部字幕付き)


 今読んだ箇所は少し長いんですけれども、とても面白いストーリーだと思います。あとで皆さんゆっくり自分の家でも読んでください。

 このストーリーは面白いだけではなくて、とても大切なことをわたしたちに教えようとしています。それは赦しについてです。大切というのは、イエスは何回も何回も弟子たちに、そしてわたしたちに人を赦しなさいと繰り返します。いろんな、たとえば今日みたいにストーリーも作って弟子たちにこれを教えるんですけれども、罪びとに対して優しくしなさい、罪びとを赦しなさい、イエスはこれをよく繰り返します。だからわたしが思うのは、わたしたちみんな赦しの専門家にならないといけません。人を赦せない人はイエスの弟子になれないと思います。イエスは何回も人を赦しなさいと言っているから。
 しかし人を赦すことはとっても難しいことです。皆さん、もしですね、誰かが皆さんに対して悪いことをしたなら、その人を赦すことはどれほど難しいことかわかっていると思います。一般の人でイエスのことをあんまり知らない人たちは、多分この教えを聞いて、人を赦しなさいという教えを聞いたら、うーん、どうかなと思うと思います。多くの人たちが思うのは、何で人を赦さなければいけないんでしょうか、人を赦せば、悪いことをした人を赦せばその人はさらに悪くなるんじゃないんですかと多くの人が思うと思います。
 だからわたしたちはちゃんとこの教えを理解して人々に説明できるまでちゃんと聞く、考える必要があると思います。多くの人が多分思うのは、たとえばですね、わたしのスマートフォンを盗んだ人がいて、すごい悪いやつがいて、わたしのスマートフォンを盗んだ。わたしはその人に、いいよいいよ、赦しますと言ったら、その人はそれでしたら時計もくださいと言うかもしれません。あるいはほかの人のスマートフォンも盗むかもしれません。だから何で人を赦さないといけないんでしょうか。
 あるいはですね、わたしたちはお母さんに、今日は勉強したくないんです、今日は寝たいんです、10時までに寝たくて勉強しませんと。するとお母さんが、いいよいいよ、寝ていいよと赦したら、皆さんが、それでしたら明日もまた10時までに寝ますよと言うかもしれません。
 だから赦しがどこがいいんでしょうか。なんでイエスは赦しなさい赦しなさいと、それでどんどん人は悪くなるんじゃないんですかと思う人が多いと思います。だからわたしたちはちゃんとこのイエスの教えを理解する必要があります。


 イエスはもちろん人がどんどん悪いことをすることを望んでいません。イエスの教えようとしていることはこうだと思います。
 わたしたちは罪を絶対赦してはいけません。しかし罪びとをいつも赦さなければなりません。だから皆さんよく覚えておいてください。イエスの教えはこうです。罪を絶対赦してはいけません。しかし罪びとをいつも赦さなければなりません。罪を絶対赦してはいけませんということは何であるかというと、誰か悪いことをしていればその人をすぐ止める必要があります。
 たとえば誰か友だちをいじめていればそのいじめている人を止める必要があります。友達がいじめられないようにわたしたちは一生懸命頑張らないといけない。罪を赦してはいけません。自分が悪いことをしていれば一日も早くやめないといけないし、人は悪いことをしていればその人を止める、頑張って何でもいいんだけれども止める必要があります。だから罪に対してすごい厳しい態度をとらないといけない。

 しかし罪びとは違うんです。その罪をおかした人に対してわたしたちは優しい態度をとらなければいけないのはイエスの教えです。
 たとえばですね、ある人は悪いことをしたからもう2度と挨拶しませんと、そのようにやる人がいます。それはだめだとイエスは言っています。わたしたちは悪いことをした人を見捨てればその人はどんどん悪くなりますし、みんなその人を無視すればその人はかわいそうすぎる、その人は全然変わる心がないと思います。
 だからイエスが言っているのは、罪はもちろん批判しないといけないし、止めないといけない。罪に対して厳しい態度をとらないといけない。しかし罪びとが良くなるためにわたしたちは優しくしないといけないし、その人のために祈らないといけないし、その人を絶対見捨ててはいけません。イエスはそうやっていました。イエスはすごい厳しい態度を罪に対してとっていたんですけれども、人を赦したあとその人を自分の弟子にしたりとか、友達にしたりしていました。だからわたしたちも同じことをやらなければいけません。そうすれば世界が良くなると思います。
 人はだいたいその逆のことをやっています。人はだいたい罪を無視にしてだれか悪いことをしていれば知らん顔をするんですけれども、逆に人をものすごく批判する。誰か悪いことをすればこの人はどうのこうのとか。わたしたちはそうやってはいけません。わたしたちは罪に対して厳しい態度をとって、しかし罪びとをいつも助けないといけません。良い人になるまで頑張らなければなければなりません。そのような心をイエスに願いましょう。

 そして皆さん、赦しの専門家になってください。罪に対してとても厳しい態度をとって、罪びとに対していつも優しい、イエスのような心をもって人に優しくしてください。




年間第23主日


李相源神父

9/6(日)10:00- 年間第23主日(手話・一部字幕付き)


 ここに入るときプリントをもらいました?聖書と典礼、そしてもう一枚のプリント「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」。今日はこれの使い方について分かち合いたいなと思いまして。


 これをいただいたらまず絵を見るの。じーっと見つめるの。そして右側に書いてある「あなたがわたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」。ああ、今週のテーマはこれにしよう。祈りの方向をこれに持っていこう、というふうに決めるの。
 そしてこの中を見ると第一朗読、第二朗読、福音があるじゃない。それを全部読むんですけれども、わたしは長い方が嫌い、だから選ぶのは短い方を先に気楽に選んで読むんです。
 あとは祈願文があるんです。4つあるんですけれども、集会祈願、共同祈願、奉納祈願、そして拝領祈願。椅子に座って、どこかに行って食事をして、部屋に帰ってきたらまず十字を切って、どれかを唱えるんです。祈願のどれかは関係ない。4つのうちから1つ、2つ、3つ、これを唱えるんです。
 あとは歌のことなんですけれども、答唱詩編があり、アレルヤ唱があるの。
 わたしは答唱詩編が好きで。今週の答唱詩編はちょっと低めなんです。「神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう~♪」こういうふうに。これをずーっと歌うんです。歩きながらも散歩しながらも。今週はこれでやるから。エレベーターを待ちながらもこういうふうに(ボタンを押しながら)「神に向かって喜び歌い~♪」こういうふうにする。何で来ないの?早く、というふうに。階段を昇るときも1段じゃなくて2段をこういうふうに(1段とばしながら登るジェスチャー)、「神に向かって喜び歌い~♪」こういうふうにするの。部屋でも。歌が下手なの。楽譜を見ても読めないし、今週の答唱詩編はわたしにとって低くて難しいので「神に向かって喜び歌い~♪」(手を横にして音の高さに合わせ上下する)このようにするんです。するとうちのボニー神父さんが「李神父さん、今歌っているよ」と言う。K-POPじゃなくて答唱詩編なの、と言いたくなるんです。このようにやっている。
 最後、寝るときは「聖書と典礼」をベッドまで持っていって、寝る前に拝領唱を唱えるんです。単に短いからそれを選んだだけなんですけれど、自分にとって決めたのは、寝る前に、朝起きた途端にスマホは絶対手にしない。寝る前にLINEとか絶対しないで拝領唱を唱える。朝起きたら、あー、もう新しい1日だと気が付いたときはスマホじゃなくて「聖書と典礼」を、朝ですから入祭唱を唱える。そうすると今週は「裁きは正しい」。神の裁きは正しい、それを感じながら、自分は裁かれるだろうか、ちょっと少し考えてみる。神さまにわたしは裁かれる?いや、裁かれないだろうとか。そういうふうにして朝が始まるんです。自分にとっては朝最初、夜最後は必ずこれをする。スマホじゃない、これだけ守ろうとしているんです。

 あとはずーっと「聖書と典礼」をパソコンのマウスのパット、シートにしているんです。そしてそこに置いて、どこかに行くときは持っていくというふうに。1週間ずーっとこれで遊ぶの。これが神と遊ぶ、ということになるんです。ミサが終わったら皆さん、自分の席のところを見たらこれがポーンと置いてあるの。悲しい。これは神さまと一緒に遊べるいい道具なのに。


 表紙の絵を見ると何が描かれているか。預言者エゼキエルが描かれているんです。これはモザイクなんですけれども。エゼキエルが耳元に両手を当てて神さまのことばを聴こうとする、その身構えていることがあるじゃないですか。預言者は神さまのことばをまず聴く。そしてそれを民に伝える。これが預言者の在り方なんだ、それがこの絵になっている。ずーっと1週間これを見つめるの。エゼキエル預言者の右上を見ると、大きな光に包まれたキリストが描かれているんです。見える?キリストが。そしてキリストの4か所に人、獅子、牛、鷲が描かれているんです。この中に。旧約聖書の預言者、新約聖書のキリスト、そして4つの福音書がここにあるの。見える?見えない?おお、信仰の薄い者よ(笑)。これがこの1枚に全部含まれているんです。神さまが預言者に語る、イエスさまが弟子たちに語る、それから今度我々に声をかけていらっしゃる。それがここに描かれているんです。それを1週間、ずーっと見たら心が温かくなるんです。
 これをずーっと1週間やったらポイと捨てるんです。なぜならばもう全うしたから。また1週間、次の聖書と典礼が待っているから。それが神さまと遊ぶという私のやり方です。一番心が痛むのは、これをこういうふうに置いていく人が一番悔しいということになります。


 これが今日のことで、もう1枚もらったと思うんですが「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」。今日の「聖書と典礼」を見ると、入祭唱の右側に「被造物を大切にする世界祈願日」と書いてあるんです。見るたびに、ああ、世界祈願日かと思い起こすこともできる。
 「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」を9月1日から10月14日、アッシジのフランシスコの記念日まで1か月以上祈りましょうと司教団から呼びかけられています。


 今日最初にお祈りするんですが、このいのちを守ると言ったとき、わたしにとって一つの聖書のイメージは、アモス書の6章の6節なんです。あとで見てください。「しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがなかった」。この破滅という言葉はもともとは骨折という言葉なんですって。骨折というのは高いところから落ちたり転んだりして骨が折れることじゃない?骨が、足が、手が折れたら痛いはずなんです。なのに痛くない、痛くない、痛くない。無関心であるということを預言者アモスが訴えているわけ。国が、社会が、戦争が我々に骨折を起こしているのに、痛くない、痛くないということ。我々が今、破滅、骨折を起こしているのに、心を痛める人がいなかった。無関心であることなので、この祈りを唱えるとき、一つのキーワードがあります。無関心という言葉。それを大事に、大切にしてこの祈りを一緒に唱えたいと思います。




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