トップページ おしらせ ライブ配信2020年12月の説教

2020年12月 ミサ説教






2020年11月 | 2021年1月


聖家族の祝日


ヘネロソ・フローレス 神父

12/27(日)10:00- 聖家族の祝日(手話、一部字幕付き)


 今日は聖家族の祝日で、これは家族という概念を思い出させる助けになると思います。ヨセフ、マリア、イエス、聖なる家族です。それは教会が典礼の中で言うように我々にとって模範です。今日はわたしたちは家族ということを深く考えて、家族のために祈る。でも家族ということは実際には3つの概念があるんですよ。


 1つは1番根本的ないわゆる血の絆があるんですね、我々の家族は。聖家族はそうでした。聖パウロ6世はナザレに行った時、彼はナザレの聖家族の生活はどのような雰囲気だったでしょうと。彼が言ったのはひとつの明るい、温かい雰囲気ですよね。静けさと明るさ、温かみがあった。それから祈りの雰囲気もあったに違いないですよ。そして真面目に仕事をする。ヨセフは大工さん、マリアは主婦の、そして母親のいろんな世話、イエスは我々にとって大きな神秘。長いそのような生活で父と母を手伝い、従っていた。
 そしてもう1つはその雰囲気の中でお互いの心遣いです。相手のことをできるだけ手伝う、赦す、これです。ですからその面で先ほど申し上げた家族の概念、3つあると申し上げたでしょう。第1の概念はこのような血の絆があってですね、それはやっぱり愛の雰囲気でしょう。家族の中で。そして愛と言えば皆さん、具体的にどういうふうに現れるか。まず第1に尊敬、相手を尊敬する。相手をありのままに認める、愛する。家族の中で兄弟とか親子、いろいろ欠点もありますけどお互いに尊敬する、ありのまま。弱さとか認めるけれども赦す。理解がありますから赦しもあるんです。そしてもう1つは先ほど申し上げた心遣い。相手が成長するようにこちらは何か貢献する。これですよ。

 第2の概念の家族は教会。教会は神の家族と言われています。絆は信仰、希望、愛。信望愛の絆で教会は一つの家族です。これは典礼、ミサの中でも何回も出てくる。神の家族、教会。

 そして3番目の概念はやっぱり人類。これも家族として。神はご自分にかたどって、ご自分に似せて人類、人を造った。親は神です。

教皇フランシスコが言ったのは“Fratelli tutti,sorelle tutte(兄弟姉妹である皆さん)”。人々、みんなは兄弟姉妹です。親は神ですから、人類も家族。そして実際にイエスさまが来て、神の御ひとり子、彼は長男です。他のすべての人々は兄弟姉妹である。ご覧の通りこの家族という概念は最終的に愛の絆ですよ。相手を本当に尊敬する、ありのままに受け入れる。そして相手を理解する。だから赦す。いろいろあるのは当たり前のことです。みんな違うから。いろいろな変化とかあるけれども赦し合う。そしてお互いの心遣い、相手に対して。相手が成長するためにわたしは何か貢献できることをやります。


 今日は感謝の祭儀でこれを親である神に願いましょう。そしてキリストである我々の兄貴、我々の長男イエス。わたしたちは本当に兄弟姉妹ということを大認識してお互いに尊敬、お互いに赦し、お互いに心遣いを持つ。この恵みを願いましょう



  • Share!


主の降誕(日中のミサ)


ヘネロソ・フローレス 神父

12/25(日)10:00- 主の降誕(日中のミサ)(手話・一部字幕付き)


 クリスマスおめでとうございます。今日このミサの福音書で、キリスト教の中心のことを神学で「受肉」という言葉があります。肉を受ける、受肉。神は霊である。別世界です。神秘です。我々はわかることが、知ることができないんです。けれどもこの神は、わたしたちが今日記念する天地の創造主であり、人類の造り主である神は人を造った。愛のためですよ。だからご自分にかたどって、ご自分に似せて人を造った。人を愛してものすごく人と一緒にいたいんですね。けれども霊です。別世界のことで、どうすればいいか。肉となってくださった。今日はこの赤ちゃんを見て。神はこの天地創造主、人類の造り主。女から生まれた、この赤ちゃんは。神は人となってくださった。愛のためです。そこまで、これほど愛してくれるか。本当に神の想像、イマジネーションはすごいですよ。人となる。すごいですよ。 個人的なことを言ってすみませんけれども、わたしは犬が大好きです。戌年でもある。けれども一度も犬になりたいなとはぜんぜん考えたことないですよ。神は天地の創造主、人を造って人を愛する。そして人になりたいと思って人となった。今日はこれですよ、この愛の記念、お祝いです。だからクリスマスは必ず喜びと感謝、この気持ちで。いくらコロナウイルスがあっても心の中で感謝、喜び。神は人となった。そこまで愛しているか。親ばかと言ってもいいですよ、その面で。


 そしてどのような人となったか。やっぱり貧しい人、本当に貧しさ、それからもちろん愛されたこともあるけれども裏切られたこともある。不正な裁判、不正な判決で殺害された人、イエス・キリスト。そこまでわたしたちを愛した。もちろん幸いに復活させられた。その復活は我々の復活も保証していますよ。だからわたしたちは喜びと感謝。でもやっぱりその愛。今日は何よりもこの感謝の祭儀で感謝する。そこまでわたしを愛してくれた。

 聖ベルナルドは12世紀の人ですけど、非常に素晴らしい文学の作品の著者です。ラテン語で面白い文章があります。面白いですけどちょっと考えさせられる。 “amans quando que amens videtur sed ei qui non anate.” ラテン語でアマンス(amans)は愛する人という意味でしょう。アメンス(amens)は馬鹿という意味です。だからベルナルドは言葉の遊びで、アマンスは時々アメンスに見える。本当にただ愛さない、愛を知らない人にとっては馬鹿に見える。だからその面で神はそこまで愛してくれる。馬鹿に見える。それだけでなくて神は人となって、そしてイエス・キリスト、ナザレのイエスは人と一緒にいたいんですね。でもしばらくのあいだ宿られただけでなくて、人に食べられたい、人に飲まれたい、そこまで。馬鹿に見えるけど、ご聖体、パンとぶどう酒にもなってくださる。そこまで神の愛は、受肉も、エウカリスチア・ご聖体もそこまで。


 今日は心から願いましょう。その神の愛を少し悟ること、深く味わうことができるように。神は愛である、ヨハネはそう言うんですね。神は愛、愛そのものです。だからアマンスは時々アメンス、愛する人は時々馬鹿なことをやる。愛さない人にとってそう見える。愛する人、愛を知る人は何とかわかる。そこまで。神の愛のためのイマジネーション、想像はそこまでいくんですよ、受肉まで。女から生まれるあの赤ちゃん。それから十字架で我々のために命をささげる、殺害されたあの男。愛、それから復活する。だから集会祈願に言われているように「人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちを与える。」だからクリスマスは復活に向かって、もちろんご受難があるけれども、復活です。我々は人、人間。そして造られたのは神のようにされるためです。復活のこと。では今日はわたしたちは神の愛を少しでも味わう、悟ることができるように願いましょう。



  • Share!


主の降誕(夜半のミサ)


英 隆一朗 神父

12/24(日)19:00- 主の降誕(夜半のミサ)(手話・一部字幕付き)


 イエスさまが誕生される時にいろんな意味でハプニングがあったと言えるでしょう。住民登録のためにベツレヘムに行かなければならなかった、そしてそのベツレヘムでマリアさまがイエスさまを生まざるを得ない、そういう状況になったわけですね。しかも宿屋ではなくて、住民登録で人が移動していたからでしょうけれども宿屋に泊まる場所がなかったので、イエスさまを馬小屋で生まなければならなかったということですね。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」というふうに記してあります。


 特にこの2020年のクリスマスは泊まる場所がなかった、もっと言えばあるべきところに居場所がなかったというかですね、それは多くの人が感じたことではないかと思います。教会では今日もそうですが、例年ならば人でいっぱいでというところが非常に厳しい入場制限をせざるを得なかったわけですが、この期間ずっとそのようにしているわけです。高齢者の方であったり基礎疾患のある方、そして特にですね、この教会はグループになってミサを申し込むようにしてありますので、いろんな理由でグループが作りにくかった方々、思うように教会に来ることができなかった方は非常に多かったと思いますね。本当に教会を、今までは教会が自分の居場所だと思っていたところが突然ミサに来れなくってですね、教会にも自分の居場所がないのかという、そういうつらい思いをした方がたくさんおられると思います。その点については本当に主任司祭として皆さんに謝りたいというそういう気持ちですけれども。残念ながら感染症対策やさまざまなことで制限せざるを得なかったわけで、本当に居場所が無いというそのような気持ちになられた方がおられると思います。大学生でも、隣の大学でもそうですがほとんど人が来ていない。大学生でも大学という居場所に行けないまま1年が過ぎようとしている方々や、さまざまな形で里帰りができないとか。病院にすらお見舞いに行けないんですけどもね。司祭として全く、ほとんど病院に行くこともできなかったですけれども。本当に、居場所がなかったという苦しみを感じられた方々は多かったのではないかと思います。マリアとヨセフも居場所がなかったという、そういうある意味苦しみの中でイエスさまを生まざるを得なかったわけですね。


 思いますけれどもベツレヘムで救い主が生まれるというのは預言がありましたから、それはそうせざるを得なかった神の計画ですが、でも宿屋に泊まる場所がなかったことすら神の計画だったのか、たまたまそうなってしまったのか一体どうなのか。居場所がなかった、ということでクリスマス前はそれを黙想してたんですけれども、でももしヨセフとマリアにですね、宿屋に泊まる場所があって泊まっていたら一体どうなったのかということも考えたんです。もしマリアとヨセフが宿屋に泊まっていたら、赤ちゃんが生まれるわけですから宿屋の人々みんなで多分お祝いということになったでしょう。そして羊飼いとか、特に東方の三博士が来て宿屋中が大騒ぎっていうか、遠くから来た博士が、しかも黄金とか乳香とかとんでもない高価なものを、多分ヨセフもマリアも見たことないぐらいの宝物だったでしょうけれども、そういうものを突然見て宿屋中結局大騒ぎになったと思いますね。それはそれでよかったかもしれないですけど、でも宿屋に泊まっていた人々は全員旅人ですから、今のようにSNSですぐ情報が流れるわけじゃないでしょうけど、宿屋に泊まった人々が、エルサレムから来てる人もいたでしょう。結局もし宿屋に泊まっていたら、特別な子供が生まれたというニュースはあっという間にイスラエル中に散って、ヘロデ王のところにもそのニュースはかなり早く伝わったんじゃないか。そうするとヨセフさま、マリアさま、生まれたイエスさまの命はかなり危なかったんではないかというふうに思われます。やはりイエスさまを守るために、よくよく考えたらやっぱり馬小屋で生まれなければならなかった、イエスさまは。つまり秘かな形で、羊飼いたちも秘かに来て、東方の三博士も秘かに来てですね、全く宿屋の人にわからない形で多分その訪れがあったんだろうと思いますね。それを思うとイエスさまが馬小屋で生まれたのも、やはり神さまの何か計画の中にある出来事だったんじゃないかと強く思うようになりました。でも多分、本当に大事なことはそのように密やかな形で、いわば多くの人に知られない中でひっそりと生まれる、あるいは誕生するものではないかというふうにも思います。


 今年は先ほど言ったように多くの人が日常とずれてしまって、本来ならこうするところがずれてしまう。居場所が無いというかですね、そのようなことを経験された方はいっぱいおられると思います。でも居場所が無いということそのものも、神の御手の中にあるものとしてわたしたちは受け取ることができるかもしれない。ヨセフとマリアさまはとんだハプニングに巻き込まれて大変だともちろん思ってですね、何でこんなことがと思ったでしょうけれども、でもそれすら神の御手の中にある出来事だったように思います。
 コロナのとんでもないこの1年のすべての予定がいろんなことが変わってしまって、本来できることができない、本来いるべきところにいられない、さまざまなことがわたしたちから見ればとんでもないハプニングです。でもこのようにですね、何かいろんなものがずれて居場所が無いように見えたそこでこそ、密やかな形で本物が生まれているかもしれない。そのようにこの1年を見つめ直してみたらいいのではないか。与えられたしるしは飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子。本当に小さな小さな、ほとんど誰にも知られず、そのようなしるしとしてイエスさまはやってきた。わたしたち自身の中に与えられている恵みや新しい気づき、新しい出発もものすごく小さなしるしとして、ほとんど気づかない形でわたしたちに与えられているのではないかと思います。イエスさまの誕生の際にわたしたちに与えられている希望の小さなしるし、それを見出して歩んでいけたらいいのではないかと思います。
 イエスさまは聖堂のここで誕生されただけではない、特にネットで視聴されている方々の日常生活の、しかもちょっとずれてしまった何かその中でこそ、イエスさまがものすごく密やかな、人に知られない形で誕生されたんじゃないか。それをわたしたちはお祝いしたいと思います。それを見出して歩んでいきたいと思います。


 わたしの1年にそういうしるしがどこにあったのか。人によって違うでしょうけど、実はわたしはですね、特に緊急事態宣言でどこにも行けないんでこの辺りをぐるぐる散歩してたんです。この辺りはビルばっかりで何にもないと思っていたんですけど、あっちこっちに緑というか自然がやっぱりあって、それを見出したのがわたしにとって大きな恵みでした。信じられないと思いますけど、ここから歩いて5分のところにビオトープといってですね、自然循環システムを作っているところがあって、なんと夏に蛍が飛んでるんですよ。ここから歩いて5分のところですけれども、信じられない、ほとんどの人が気づいていないですけれども。不思議なしるしがやっぱり、それに触れた時にわたしは本当に大きな慰めや希望を感じるようになりました。この周りにある、ちょっと歩いたところにある自然に触れる喜びっていうんですかね、今年わたしがいただいた小さなしるしでしたけれども。だから自然とのつながりをもっと大事にしたいというのが個人的な願いではあります。皆さん一人ひとりに小さなしるしがやはり与えられていると思います。それを見出してそれを祝い、それを生かして希望のしるしとして歩んでいけるように、互いのために祈り合いたいと思います。



  • Share!


待降節第4主日


英 隆一朗 神父

12/20(日)10:00- 待降節第4主日(手話・一部字幕付き)


 今日の福音書はルカの1章、非常に有名なところだと思います。マリアさまがですね、天使ガブリエルからのお告げを受けてイエスさまを懐妊される。そのマリアさまが神の呼びかけに対して受諾するところですね。マリアさまの「お言葉どおり、この身に成りますように」と、ガブリエルを通した神の呼びかけに対してマリアが「はい」と応える。ここから救いの歴史が開始して、そしてこのことがあってこそイエスさまがこの世に誕生されるわけですね。「お言葉どおり、この身に成るように」というですね、その神さまに委ねる気持ちということはわたしたち皆にとって、信仰者の言わば基本的な心の態度というか、信仰の置きどころじゃないかと思います。


 でもそれはマリアさまにとって、あるいはわたしたちにとってもそうですが、やっぱり乙女の女性が、今の日本語で言ったら処女の女性がですね、聖霊によって身ごもるというのはなかなか考えにくいことで、信者じゃない人にも説明しにくいことですけれども、実際のところマリアさま自身がそれを驚いたわけですね。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と言ってですね、マリアさま自身がそれを信じられないという気持ちだったわけですが、それに対して天使が丁寧に説明をしたので、あるいは天使とマリアさまが話し合って、それで結局マリアは受諾するということですね。
 わたしはこの「どうして、そのようなことがありえましょうか」という言葉がなかなか大切だという気持ちがあります。この後マリアさまはエリザベトのところに行ったり、あるいは子どもが生まれるのがベツレヘム、しかも馬小屋でということになるわけですが、その度にマリアさまは心の中で「どうして、そのようなことがありえましょうか」とつぶやかざるを得なかったんじゃないかと思います。そのあとはエジプトに逃げなきゃならなかったということで、マリアさまの人生を見たら実際はハプニングの連続、その度にどうしてこんなことが起こるんでしょうかと言わざるを得ないことが何回もあったと思いますね。それに対して、その度ごとに「お言葉どおり、この身に成るように」というふうに毎回毎回ですね、神さまに委ねる気持ちを新たにしながら歩まれたんじゃないかと思います。それは本当にわたしたち皆の信仰の心構えじゃないかと思いますね。


 今年は本当にコロナのことで、どうしてこんなことが、とみんな思っているわけですけれども、でもそれを受け止めて「お言葉どおりになるように、神のみ旨を果たせるように」というふうに気持ちを神さまの方に向けられるかどうかでしょう。コロナだけじゃない、一人ひとりの人生に様々な困難や難しいことが起こってくることが多いですけれども、その度ごとにやっぱりわたしたちは「どうして、そのようなことがありえましょうか」という気持ちになりますけれども。でもそこで神さまとの対話、あるいは自分自身との対話を通して「お言葉どおり、この身に成るように」というふうに受諾して自分の道をはっきりと歩めるかどうか。わたしたちの信仰というのは、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と「お言葉どおり、この身に成りますように」という、この2つの言葉の距離感というんですかね、両方があるわけで、その両方の言葉の距離をどう縮められるかっていうところにわたしたちの信仰の質が決まってくると言えるのではないかと思います。ガブリエルとの対話は5分くらい、10分くらいだったかもしれない。そんなにすぐわたしたちは切り替わらないですから、大きな何か事があって、1か月も2か月も、下手したら何年も「どうしてそのようなことが」っていう気持ちになることもありますけれども。神との対話を進めていく中で「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えた時に、わたしたちはまた新しい一歩を踏み出すことができるのではないか、それこそがわたしたちに与えられている信仰の恵みそのものではないかと思います。


 今年はコロナの年なんですけれども、わたしはクラシック音楽ファンなんですが、クラシック音楽ファンにとってこの2020年はベートーヴェンイヤーなんですよね。ベートーヴェンの生誕250周年のお祝いで、しかも正確には250年前の12月16日に生まれたんですよね。だから先週が250年の誕生日のお祝いで、クラシックラジオとかクラシック番組とかずっとベートーヴェンなんですよ。特に本当にベートーヴェンばっかりだったんですね。もうどの音楽聞いてもとにかくベートーヴェン特集で、ベートーヴェン、ベートーヴェン、ベートーヴェンというくらい、コロナよりベートーヴェンばっかりという。クラシックファンの人はですけど、ベートーヴェン一色に染まっていたんです、実際のところはですね。
 それでいろんな番組でベートーヴェンのことばっかり聴いていたんですが、やはりある程度皆さんもご存じでしょう。僕も詳しく知らなかったんですが、ベートーヴェンはものすごく大きな苦しみを背負いながら生きてたわけなんですよね。音楽家でありながら難聴、そして結局最終的には耳が聞こえなくなったんですよね。いわゆる聴覚障がいだったわけなんです。音楽家であって耳が聞こえないというのは致命的だったんですよね。結局彼は30代の前半くらいですけど「ハイリゲンシュタットの遺書」という有名な遺書を実は書いてるんですよね。32歳ぐらいですけれども。自分がもう駄目だと、6年くらい耳がだんだん聞こえなくなって音楽活動ができないということだけじゃなしに、彼は社交的な人間で人と会ってしゃべるのが好きなタイプなんですけど、とにかく人と会っても何も相手の言っていることがまったく聞こえなくて、それがどんなに苦しいかっていうことを遺書に書いてるわけなんですよね。今みたいに補聴器もないし、手話もそれほどなかったのかもしれない、はっきりわからないですけど。コミュニケーションの手段がなかったので、結局彼は人にだんだん会わなくなってどんどん孤立していくんですよね。しかし彼にとってそれは本心じゃない、本当は人と会ってしゃべりたいんだけどだんだんしゃべれなくなって、人に会って何にも相手の言ってることが分からないから、それで絶望的になって遺書を書くんですよね。何で彼が遺書を書いたのか、もちろん細かいことはわかってないんですけれども、財産は自分の弟に譲るとか、遺書ですからそういう財産分与のことも書いてるんですが、でも結局のところ彼は死ななかったんですよね。遺書を書いて死ぬつもりだったのか、あるいは自殺をし損ねて自分の音楽家としての人生が終わりだから区切りとして遺書を書いたのか、とにかく遺書を書いた理由と前後のことはわからないんですが、彼は本当に死を意識して、とにかく自分の人生をここでやめる決意をして遺書を書くんですけれども。
 でも遺書を書いた後から、耳がぜんぜん聞こえなくなってから彼の本当の名作がその後から出るんですよね。皆さんがよくご存じの、よくベートーヴェンで聞く有名な曲はその後なんです、全部。そして遺書を書いた後、傑作の森と言われるんですけど、どんどん傑作の作品を書いたのはその後なんですね。だから彼が作曲した有名な曲は彼自身は一度も聞いてないんですよね、生きてる間は。頭の中ではもちろん楽想というんですかね、それがもちろんあったから書けたわけですけど、実際の演奏は何一つ聞いてない。傑作の数々ですね。実際は遺書を書いてから25年後に亡くなるんですけどね。だからもうある程度の年で亡くなるんですけれども。彼は本当に「どうしてそんなことがありえましょうか」という苦しみをずっと背負いながら、でも彼も信仰が篤かったですからやっぱり神さまに信頼して、彼にとっては耳が聞こえなくても作品を生み出すと。もともとピアニストだったんですよね。ピアニストもできなくなる、聞こえないからそれもやめちゃうんですけど、作曲に専念してそこから大きな実りをもたらすわけですよね。多分その遺書が1つのきっかけになったんではないかと言われてますけど、どういうきっかけかというとそこで言わば自分の囚われをすべて置いてですね、「お言葉どおり、この身に成りますように」という気持ちが決まったのはその後からかもしれないですけどね。神さまにすべてを委ねて、そこでいろんな困難を委ねて、そこから本物が生まれてくるとも言えるでしょう。


 彼は本当にクリエイターですよね、わたし自身も時々本を書いたりこうやって説教したり、ちょっとやっぱりクリエイターの気持ちがあるんですが、生み出すっていうことなんですよね。それはどれほど神さまに委ねないといいものが生み出せないかっていうことは自分自身がよく思うことでありますけれども、でもベートーヴェンは本当に死を意識して自分が駄目だと思って神にすべてを委ねた後から本物を生み出すことができるようになった。マリアさまもイエスさまを生み出したのは、そういうすべて神に委ねた気持ちからイエスが生まれたんだと思いますが、その気持ちにわたしたちも倣いたいと思います。 コロナのことや一人ひとり難しいことも多々あるかもしれないですけれども、神にすべてを委ねきった時に、新たな何かが皆さんの存在から、皆さんの働きから、皆さんの活動や生活から新たなものが生まれてくるでしょう。それこそ本当はクリスマスでですね、お祝いできたら素晴らしいんじゃないかなと思います。マリアさまに倣って。


 そしてベートーヴェンって実は朝はあんまり聞けないんですね。朝はモーツァルトしか聞けないんですよ、気分よく1日をスタートするには。ベートーヴェンみたいにガーンと来るのは夕方くらいじゃないと聞けないんですけどね。人間ってしんどいよなっていう気持ちの時にベートーヴェン、朝はモーツァルトで軽やかにスタートって毎朝してるんですが。誰に倣うかはともかく、神さまにすべてを委ねてですね、待降節とクリスマスを迎えられるように心を込めて共に祈りをささげたいと思います。



  • Share!


待降節第3主日


李聖一 神父

12/13(日)10:00- 待降節第3主日(一部字幕付き)


 ミサの初めに申しましたように、今日はレターレという祝日と言うんでしょうか、日曜日ですので、第1朗読も第2朗読も喜びに満ちたメッセージというものを朗読するようになっています。もともとこのレターレ・喜びの主日という風に言われるのは、カトリックの教会の伝統の中では、待降節と四旬節は紫色の祭服を着て、そして主の降誕あるいは主の復活を準備するためそれなりに犠牲というものを意識し、特別な思いでその喜びを迎えるために何か自分の生活の中で節制をするとか、そうした習慣がある中で、真ん中ぐらいになると少し休みましょうか、というような、そんな意味もあったようです。


  もうずいぶん昔になりますけれども、御殿場に神山復生病院という病院がありました。ハンセン病の元患者さんたちが暮らしておられる病院でしたけれども、そこにこの時期実習に行ったときにカトリックの患者さんたちの多くは好きなタバコを断ったり、何か特別にロザリオの祈りの回数を増やしたりというような工夫をしておられました。そういったカトリックの習慣から、待降節の第3番目の主日と四旬節の第4番目の主日は喜びの日とし、そしてミサの中でも少し華やかな祭服を着て、皆さまと共にミサをささげるという習慣があったということです。
 ただ、今わたしたちの置かれている状況の中で、喜びのうちに準備しましょうねと言っても、毎日過去最高の感染者数が記録されましたというようなことが伝わってくると、わたしたち自身の気持ちもふさがってしまい、あれもしちゃいけない、これもしちゃいけない、これも控えましょう、あれもやめておきましょうという状況です。そういう中でどうやって喜びのうちに主の降誕の準備をしますか、そういう問いは確かにあるんだろうと思います。しかし物は考えようで、何か自分の中で工夫するということが大事なんだろうと思います。そこでわたしは皆さんにいくつかのことをヒントとしてお話ししたいと思います。


 まず1つは自分の部屋でもいいし、家庭の中でもいいし、玄関先でもいいし、職場に出かける人はあんまり今はいないでしょうけど、もし出かけるとするならば事務所のどこかに馬小屋を飾るということです。
 10年前にちょっとした機会があってスペインで過ごすことがあり、スペイン語の勉強も兼ねて行ったんですけれども、勉強しているとすぐに習った言葉が「馬小屋飾った?」というそういう挨拶があるんですって。“Has puesto el belén?”というふうに言うんだそうですが、クリスマスが近づくと「あなたはもう家に馬小屋飾った?」というのが挨拶の言葉だと。そんなふうに習ったのでスペイン人にすぐに聞いてみました。“Has puesto el belén?”て言ったら「何それ?」って言われました。やっぱり時代は変わるんでしょうね。ただ市場に行っていろんなクリスマスに関係するものが売っているところに行くと、必ず馬小屋に関するもの、何か今年はこんな工夫をしよう、あんな工夫をしようと新しい人形を買ったり、水車を見つけて買ったりしている、そんな人たちをたくさん見つけました。カトリックの習慣の中でこの馬小屋を飾るというのはアッシジのフランシスコのときから始まったと言われていますけれども、何かクリスマスを準備するのにいいものだなと思います。


 わたしは長く広島の中高で働いておりましたけれども、そこで働くひとりのブラザー、このブラザーはもう60年もその学校で働いていますが、毎年趣向を凝らした馬小屋を作ることで有名でした。その年その年何か流行ったこと、あるいは何かを象徴的に示すようなこと、そうしたものを取り入れて馬小屋を作る。わたしたちは今年どんな馬小屋を作るんだろうと楽しみでした。今年もその馬小屋を作ったようで写真が送られてきましたけれども、なかなかいいなあ。何か部屋にこもってイエスの誕生の姿を眺めている、そういうような馬小屋でしたけれども。
 そうしたその年を表すようなことを取り入れて馬小屋を作る。わたしたちにはそういったことはなかなかできませんけれども、英語でプレセビオと言ったりスペイン語でベレンというふうに言ったりしますけれども、そんなものをどこかに飾ったらいいんじゃないでしょうか。教会にももう庭のところに準備がしてあります。わたしが働いている上智大学でもそのようなものを作りました。わたしが働いている事務室にも置きました。そして自分の部屋にも置こうかと思っています。何かそういう準備をするというのは降誕を待つわたしたちの心を励まし、そしてまた何か大きな期待というものを膨らませていく、そんな準備になっていくんじゃないかなあと思います。


 もう1つは、これは実は12月1日から始めていることなんですけれども、ルカの福音書を毎日1章ずつ読むということです。 これはわたしの知人のグループが始めたことで、わたしもそれを知って、いいなあと思ってやっています。そして一緒に働いているスタッフたちにも呼び掛けて、毎日1章ずつ読む。いっぺんに読むことはいつか時間があれば可能ですけれども、1日1章だけ毎日読むというのは実は大変なことなんです、簡単なようで。1章だけでいいんです。そして今日はもう13日で、昨日までに12章読みました。ルカの福音書は24章ありますので、1章ずつ読んでいくと24日を迎えるということになるわけです。今からでも遅くありません。そしてわたしは、じゃあ今日はとにかく1章から12章まで読んで、ということを言いません。今日13日ですから13章から読んでみてください。ちょうどルカの福音書が、イエスがいよいよエルサレムに向かって行き、そしてその苦しみを受けられてという、そういう道を歩み始めていく場面に切り替わりますので13章から読み始めてもいいだろうと思います。そのようにしてクリスマスの日を迎えていく。これも1つの工夫です。


 そして最後の3つ目ですけれども、光を見に行く。残念ながら外出は自粛ということになってますけれども、1人でいいだろうと思います。誰と一緒というのではなくて、マスクをして1人で光を見に行く。わたしは今日それを、今日の夕方からしようと思っています。光っていうのはわたしたちの心を温めてくれる。暗い未来を明るくしてくれるというものです。わたしは神戸にも長くいましたが、神戸の震災の後にルミナリエというものが始まって、そしてその光がその被災した人々に本当に大きな喜びと希望と、それらをもたらし、涙なしでは見ることのできない行事でした。残念ながら今年はコロナのせいで中止となったようです。そのような状況ですけれども、光を見に行くっていうのがいいんじゃないかと思うんです。わたしは今日暗くなる頃に多分けやき坂に行こうと思ってますが、そのうち丸の内のあたりに行ったりですね、そうして光を見に行こうと思っています。そのようにして自分自身に光を灯す、自分の心に光を灯すと同時にその光の持つ温かさを人々に伝えていく。そういった心で散歩するというのはいい準備になるんだろうなと思います。


 そのような工夫をしながら喜びのうちに主の降誕を迎えることができたら、それはそれでこの2020年というのは思い出の年になるだろうし、わたしたちは神さまがもたらす光というものの意味を強く感じ取ることができるんじゃないか。わたしはそう思います。 今年のクリスマスのミサはなかなか参加できないので、これはあんまりいい言葉じゃないかもしれませんが、クリスマスミサ難民という言葉があるんだそうです。そしていろんな教会は工夫してYouTubeを通して公開するとか、発信するという努力を続けていくようですけれども、そんな時代にあってもわたしたちは本当に心豊かに、そしてまた希望を持って主の降誕を喜びのうちに迎えることができますように、今日ご一緒にお祈りしていきたいと思います。


  • Share!


待降節第2主日


ハビエル・ガラルダ 神父

12/6(日)10:00- 待降節第2主日(手話・一部字幕付き)


 待降節です。イエス・キリストが来られる、イエス・キリストを待ち望む期間です。実は人生そのものは待降節です。イエス・キリストを待ち望む姿勢について考えましょう。


 先週の日曜日の福音では、目を覚まして待ち望んでいなさいと言われました。今日の福音には主の道を整えて待ち望んでいなさいと。主の道を整える、洗者ヨハネは主の道を整えました。悔い改めの洗礼を授けてユダヤという国のみんなを清めて、一日も早くメシアが来られるためにみんなを清めるつもりでした。そのために悔い改めの洗礼を授けたんです。水で授けたんですけれども、清めるのは水なのではなくて、人間を清めるのは心からの悔い改め、回心です。そのしるしとしては水を流すということです。

 わたしたちもこの悔い改めの洗礼を受けています。水と聖霊ですけれども、水も受け入れています。というのは悔い改めなければならない、彼らが告白していましたね。わたしたちは少なくとも心の中で認めることにしましょう。悪いことをしたということを認めることにしましょう。自己弁護は置いておいて、そしてその悪いことの原因を探しましょう。なぜわたしはこの人とうまくいっていないんですか。なぜ家族にはこの嫌な雰囲気があるんですか。なぜ会社では・・・その理由があります。その理由を追求するのが悔い改めです。それでもって原因が分かっていれば解決は現れるかもしれません。 とにかくイエス・キリストが歩んでいる道には邪魔があります。わたしたちへの心には道があるんです。邪魔がありますので、石とかゴミとかいろんなものを取り除いて、イエス・キリストが堂々と入ることができるために準備しましょう。それで今度イエス・キリストが水と聖霊の洗礼を授けます。


 水、やっぱり悔い改めも必要ですけれども、聖霊、なぜ聖霊が出てきますか。ここに三位一体の神秘が絡んでいます。わかりにくいですけれども。あとでグラチア(gracia)ということについて話します。 グラチアという恵みをもたらすのは聖霊です。聖霊が、イエス・キリストが勝ち、獲得したグラチアを心にもたらしてくださいます。それを感じるわたしたちは神さまに向かってアッバ、聖パウロが言うようにアッバという。アッバというのはお父様ではなくてパパですね。父ちゃん。親しみやすい、近くなっているお父さんになるんです。グラチアのおかげで。聖霊がキリストのグラチアをわたしたちの心にもたらして、それを感じるわたしたちは神さまに向かってアッバと言うんです。これがグラチア。


 でもグラチアについて少し考えましょう。というのはすごい中心的な専門用語であんまり知られてないので。難しいからなるべく簡単に、非常に簡単に説明させていただきますが、グラチアというのはひと言でいえば神さまにハグされる、抱きしめられるということです。言い換えれば愛されている実感、愛したい望みを深めてくださる恵みです。愛されている実感、愛したい望みを深めてくださる恵みはグラチアといいます。グラチアというのは恵みですけれども、ありがたい雨というような恵みよりも深いものです。愛されている実感、愛したい望みを深めてくださる恵みです。つまり他の言葉で言えば、遠い存在のように思われる神さまの身近な温かさを感じさせてくれる恵みです。遠い存在のように、ちょっと怖いほどと思われる神さまの身近な温かさを感じさせてくださる恵みです。そして愛したいという望みを深めてくださる恵み、人間からも神からも愛されている、神に対しても人間に対しても自然に対してもわたしたちの愛を清めてくださる恵みです。これはグラチアですね。


 マリアさまはグラチアに満ちておられます。”Ave Maria, gratia plena”という。アヴェ・マリア恵みに満ちた方、「恵み」という恵みはグラチアです。そしてイグナチオ・デ・ロヨラの祈りがありますね。おなじみの自分をささげる祈り。「あなたの愛と恵みを与えてください」と祈りますね。あなたの愛と恵み、グラチアを与えてください、つまりあなたの愛、あなたからの愛、あなたへの愛、神への愛を与えてくださるだけではなくて、もうすでに与えてくださったことを感じさせてください、これはグラチアですね。その愛を感じさせてくださるグラチア。これをもたらす。これはイエス・キリストが勝ち取ったグラチアで、聖霊がもたらしてくださって、わたしたちが待ち望んでいるグラチアです。


 最後にどういうふうに待ち望んでいればいいのかといいますと、イザヤ預言者が言いました。主はあなたの呼び声に応えて必ずグラチアを与えられる。神があなたの呼び声、あなたの祈りに応えて必ずグラチアを与えられる。つまりグラチアを願うということです。祈る。恵みを勝ち取るんではなくて恵みを願うんですね。願うと同時にグラチアを生きることにしましょう。グラチアを生きる。つまり待っていてグラチアを感じたらその時グラチアに満ちて生きることにします、ということではなくて、もうすでにグラチアに満ちていると意識して、信じて、感じて、そしてその通りに生きることにしましょう。すでにあるグラチアを生きるようにしましょう。目を覚まして道を整えて、グラチアを持ってきてくださるイエスの、イエスのグラチアを待ち望んで生きることにいたしましょう。



  • Share!

PAGE TOP