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2021年3月 ミサ説教




2021年2月 | 2021年4月


受難の主日(枝の主日)


英 隆一朗 神父

3/28(日)10:00- 受難の主日(枝の主日)(手話・一部字幕付き)


 今日は受難の主日ということで、この受難物語のところが朗読されました。時々思うんですけれども、宗教というのは一体何のためにこの世に存在するのか。死者を葬るためとか死者のためにお祈りするとか、いろんな理由があると思うんですが、1つの宗教の役割は苦しみをどうわたしたちが受け止めればいいのかっていうですね。嬉しいことは別に構わないんですけれども、この世には様々な苦しいことがある。その苦しいことをどう受け止めればいいのかということに対してですね、大体どの宗教も答えというか考え方を提供しているわけなんですよね。一番典型的なのは、ユダヤ教は特にそうですが、普通の宗教は何でわたしたちが苦しむのか、それはわたしたちが悪いことをしたからだと。悪いことをしてその罰として苦しみが与えられているというですね、ある意味一番合理的な考え方かもしれない。だからわたしたちはどうすればいいかって言えば、改心して良いことをしましょうと。改心して良いことをすればそのうち良いことがわたしたちに来るという考えですね。これは非常に一般的な考えかもしれない。

 違う考え方を与えているものはわたしの知る限り2つだけで、1つはお釈迦さんですね。お釈迦さんはどう考えるかといったら、何でわたしたちが苦しむのか、それはわたしたちに執着心があるからだっていうのがお釈迦さんの答えですね。原始仏教として考えればですけど。だからお釈迦さんの答えは、執着さえなくせば苦しみは無くなる、そのためにお経を唱えたり悟りを開きましょうっていう、それはそれですっきりした考えかなと思うんですけれども。 じゃあわたしたちキリスト教の場合はどうなのか。何でわたしたちは苦しいことがあるのかということに対してイエスさまが示した1つの答えは、今日の受難物語に繋がるんですが、それはちょっと驚くべき答えだと思いますが、自ら苦しまれた、イエスさまご自身が。十字架に向かう前に、十字架上で自ら苦しまれたっていうのがわたしたちに与えられている答えであり、問いかけでもあるのですね。しかも神さまが苦しまれたとその事実を受難物語はわたしたちにつきつけているということですね。わたしたちはそれをしっかり受け止めていくっていう、そこからキリスト教が始まるというか、わたしたちの信仰が出発するというふうにも言えるかもしれないと思います。


 たとえばわたしはいろんな本を読むのが好きなので、いわゆるニューエイジ系の本も時々目を通すんですが、そこにもイエスさまが出てくるんですよね。それでいろいろしゃべったりしてるんですけど、ニューエイジのイエスさまとキリスト教のイエスさまとどこが違うのかと言ったらこれもはっきりしていて、ニューエイジに出てくるイエスさまは苦しんでない神さま。神さまというか、まったく苦しんでないんですよね。大天使の親分みたいな感じで神々しい感じでは出てきますけど、苦しむ姿はまったくない。逆にわたしたちキリスト教のイエスさまはどういう方かというと、苦しまれている方だと。だからこのように受難の主日をお祝いして聖週間をさらに荘厳に迎えるということですね。わたしたちに与えられているのは、苦しみの神秘が与えられている。苦しみをわたしたちが受け取ったり乗り越えたりしていく時に、まずイエスさまが苦しまれて十字架で無実の罪を着せられてですね、多くの人の非難や悪意を受け止めながら非業の死を遂げたという、そこからわたしたちはわたしたちの祈り、わたしたちの信仰を出発させていくっていう、その大いなる恵みが与えられているということですね。


 これは時々黙想することですけれども、あまりの恵みっていうかあまりの神秘っていうかですね、苦しみそのものをこれだけ深く捉えるというか、受け止めていくその神秘を示してくださっているのはイエスさま以外にあり得ないというふうに思います。それが聖書に、今日の朗読のようにあまりに細かく書かれている。微に入り細に入りそれが記されているわけですね。だからこそわたしたちは苦しい時、つらい時にこそこの苦しみを受けられたイエスさまに心を向けることができるっていうことでしょう。

 でも残念ながらクリスチャンになった後ですね、キリスト教をやめる人は時々おられるんですよね。手紙をもらったりして。でもほとんどの人の理由は何かといったら、苦しみの中で神さまが助けてくれなかったということに結局尽きてるんですよね。こんなに苦しいのに、洗礼を受けたけど結局何も良いことがないし、神さまはぜんぜん助けてくれなかったと言って去っていく人は少数ながら実際おられるんですよね。それは心が本当に痛むことで、どうすればいいかいつもわからないんですけれども。でも、確かな答えは、あなたが苦しむ前にイエスさまが苦しまれたという答えしかわたしたちに与えられてないと思いますね。この不思議な神秘をイエスさまの十字架と共に担いましょう。

 何でコロナがこんなにはやったのか、何でわたしたちがまだコロナで苦しまなきゃならないのか、どういう悪いことをしたからこうなのかとか、問うても分からない。でもイエスさまが苦しまれたその苦しみを通して、わたしたちはどう苦しみを受け止めて苦しみを乗り越えて、苦しみの中でもどうやって生きていけばいいかイエスさまが確実に教えてくださると思います。一人ひとりに対してですね。多分与えられる答えは違うかもしれないですけれども。でも苦しみからわたしたちは逃げる必要性もまったくないということです。イエスさまの十字架の先にあるのは復活の恵みですから、そこにわたしたちが向かって行く道のりを歩むことができるということですね。それをあらためてこの受難の主日に心に刻みたいと思います。


 知り合いのある女性でしたけど、あまりに苦しいことが続いてもう生きていくのも嫌になって、出かけていて家に帰る力も、途中で歩く力もなくなった時に、非常に神秘的な体験だったでしょうけど、はっと横を見たら十字架を担いでいるイエスさまが横を歩いていたっていうんですね。その髪の毛の生え際まではっきりわかるぐらいそれが見えた。ちょっと不思議な体験ですけど。でも自分の横を十字架にかかったイエスさまが共に歩いてくださっているっていうことがわかっただけで、彼女は力が与えられて、そこから歩んでいく恵みというか力が、すべての問題が解決したわけじゃないですけど、でも明らかに共にいてくださる神さまが自分に力をくださったと、分かち合ってくださったことがあります。そのようにはっきりともちろん見える人はそれほどいないかもしれないですが、イエスさまが共に苦しんでくださっているということですね。皆さんの一人ひとりの苦しみと共に。本当にこの大きなお恵みは、それは神の愛から来てるからですけれども、その恵みの大きさは本当に計り知れないと思います。
 そのイエスさまの苦しみをしっかり受け止めて、わたしたちも日々の大きな、小さな苦しみを受け止めながら歩んでいけるように、このイエスさまの受難を心からお祝いし、祈り、その十字架のイエスさまに共に歩んでいける恵み、力を願いたいと思います。



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四旬節第5主日


ヘネロソ・フローレス神父

3/21(日)10:00- 四旬節第5主日(手話・一部字幕付き)


 今日のミサの朗読はすごく豊かで、いくつかのことをご一緒に考えてみたいと思います。 1つは我々にとって面白い祈り方です。このギリシャ人たちはイエスを見たかったんですね。異邦人であって、イエスは有名です。彼らが言ったのは「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」この祈りをわたしたちも言いましょう。一番イエスを知るのは言うまでもなく母親、マリアさま。それから父親、ヨセフさま。ご存じのとおりカトリック教会はちょうど今年をヨセフさまの年として、全世界で特別にこの素晴らしい男のことを思い出します。彼のとりなしによってわたしたちも「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と祈りましょう。これが1つです。


 もう1つの教えは非常に難しい、わかりにくい、そして実際にこれは受けにくいものですよね。イエスが言うのは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これは、イエスさまは自分のことを、これから彼はご受難に入りますと。大変なこと。イエスは人間になった神。神として将来のことを知っています。これから受難、恐ろしい十字架まで。彼は神としてこれを知って、人間としてもちろん恐ろしい。恐れと抵抗。神は人間になって、本当の人間でしょう。罪がない、けれども人間の感情、人間のすべて、我々と同じ。だから死に近づく時、自然に死は面白くないんです。彼はそれに抵抗する。「心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』」これはゲッセマネでの祈りでした。覚えていますか。マルコが言うのは、イエスは汗を出して苦悩で「父よ、アッバ」お父ちゃんですね。「アッバ、父よ、あなたにはできないことはありません。わたしからこの杯を取りのけてください。しかしわたしの思いのままにではなく、思し召しのままに。」
 麦の一粒は死ななければ実を結ばない。イエスは死ぬことによって人間として、われわれには罪の赦しを与えてくださる。罪は死の源でしょう。死がきたのは罪のためです。だから罪を赦すこと。そのために彼は死んでくださった。これを忘れてはいけません。彼はその死のおかげで復活させられた。わたしたちも、死ななければならないけど死んで復活させられる。死ななければならないこの命が終わって、終わらない命は永遠の命、神の命になるという復活。われわれはそれを天国と言いますね。これですよ。イエスは死ぬことによって、新しい命をわたしたちのために設けたわけです。


 第1の朗読はエレミヤの預言、これは新しい契約ということ。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」 これはイエスによる新しい契約ですね。ご存じのとおりシナイで神はモーセを通して、イスラエルという民と契約を結んだ。契約といえばやっぱりサインが必要でしょう。昔はサインということじゃなくて血を流す。なぜかというと昔の人々は、命は血液、血にあるからです。だから血を流して、サインです、契約。その契約は親しい交わりです。このような契約によって、イスラエルは神の民になる。そして神はイスラエルの神になる。そのような親しい交わり。そして何をすればいいか、神はちゃんと十戒を、父母を敬う、盗むな、嘘を言うな、殺すなという十戒を与えた。問題はイスラエルはそれを守らなかった。破ったわけ。神さまはもちろん怒る。そして罰を与えるけれども、それは回心させるためです。
 エレミヤ預言者を通して神は言います。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」古い契約。「わたしが彼らの主人であるにもかかわらず、彼らはこの契約を破った。」主がこう言われますね。「わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」んです。これは新しい契約。ですから神との親しい交わりはもっと深くなる。今度はもちろん神を敬うけれども、親子関係になります。教会、神の家族。神が親であって、キリストを信じる人々はみな兄弟姉妹である。われわれは兄弟姉妹です。キリストを信じるから。このような新しい契約。


 古い契約の時は十戒を守らなければならなかったでしょう。新しい契約は、これはイエスの言葉ですが「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」結局兄弟姉妹ですから、神の家族。そしてこれは罪の赦しのおかげ、キリストの死と復活のおかげです。キリスト教はご覧の通り、これですね。教会は第二バチカン公会議で言われましたね。教会はもちろん組織、組織が見える。ローマとか司教とか小教区とか。けれども教会は神秘です。何の神秘?親しい交わりの神秘。人と神との親しい交わりの神秘、親子関係。そして同時にこのような親子関係の中でみな人と人との親しい交わりの神秘。これは教会です。これはイエスの死と復活のおかけです。
 今日のミサの集会祈願で「ひとり子イエスはあなたへの愛と従順を貫き、すべての人の救いのために、すすんで受難の道を歩まれました。わたしたちもあなたに対する信頼をもって、恐れることなく主の道を歩むことができますように。」
 死は面白くないけど恐れることはないんです。死ななければ復活もないんです。われわれは復活のために造られています。だからこれを心から願いましょう。願えば与えられる、これは神の約束です。



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四旬節第4主日 (子どもとともにささげるミサ)


李 相源 神父

3/14(日)10:00- 四旬節第4主日(手話・字幕付き)


 先ほどボニー神父さんが伝えてくださったことなんですが、今度復活祭のあと異動になりました。どこに行くかというと、うちのイグナチオ教会は中学生になったら3年に一度山口・広島に巡礼に行きます。津和野教会、ザビエル教会、そして広島で祇園教会というところに泊まるんだけど、その広島の教会に今度行くんです。だからそこでみなさんにお会いできると思います。リーダーも一緒に来て、ワーワー楽しく過ごしたいなと思います。


 今日、子どもとともにささげるミサ、自分にとっては最後ですから、みなさんに伝えたいことが2つあります。男なら一度は神父になるということをまじめに考えてみてほしい。女なら一度まじめに真剣に、自分はシスターになりたい、そういうふうに自分と向き合って考えてください。男なら神父になりたい、としたらイエズス会を考えてください。女なら自分が通っている学校のシスターのところか、教会で出会ったシスターのところ、それを考えてみてください。まじめに、真剣に、一度は。日記にこういうふうに、ぼくは神父になる、わたしはシスターになるということ。それを一度ぜひお願いしたいなと思います。


 それが1つと、2つめはわたしの友達が考えている神さまのことなんです。もうほぼ50年前のことなんですが、小学4年生だった時、あの時代は、今は考えられないけども平気で、「お父さんいない人」というふうに聞くわけ。今の時代はあり得ないけれども、あの時は平気で言ってた。「お父さんいない人」と。みんな下を向いたけれども、1人の子が堂々と手をあげた。その人はどういう人だったかと言ったら、教会の信者でこの「子どものカトリックの要理」を勉強したと思う。これは70年前にできた本で、同じものが今もサンパウロで売っている。
 「子どものカトリック要理」に書いてあるんですが、リーダーからもみなさん教わったと思う。神さまはわたしの親、親の親、すべての人の1番の親と書いてあるんです。だからその子、わたしの友達にとっては「お父さんいない人」といったら、亡くなられて自分のお父さんはいないけれども、わたしの父は神さま、天の父、お父さん、そういう言葉が宿っているわけ。小学生なのに。わたしのことを見ると、4年生の誕生日にあれがほしい、これが欲しいと言っていたのに、同じ年の人が「お父さん、わたしの父は神さま、天の父、お父さん」という言葉。それがわたしにものすごく今、訴えているんです。彼女は「お父さんいない人」といったら躊躇なく手をあげたわけ。その神さまのこと、その言葉をみなさんに伝えたかった。これが2つめなんです。


 ちょっと外れていくんですけれども、誕生日といったら一昨日わたしは誕生日だった。60になりました。ついに還暦になってしまったんですけれども、誕生日といったらどういうプレゼントがもらえるか、そういう時もあった。もう1つみなさん、誕生日が来たら、誕生日はお母さんに感謝する日、お父さんに感謝する日、そういうことを大事に、大切にしてください。わたしは父も母も帰天したので、言葉ではできない。それで音楽を聴くんです。自分の好きな母への音楽は「母に贈る歌」という曲があるんですが、それを聴きながら思い起こすの。お母さん、というふうに。なぜか父に対する歌は、これだという歌はいまだに見つからないんです。持って来るんですよ、これはどうですかと聴いてみて、いくら聴いても父に関する歌はあまりなかった。お父さんって、父って、朝から夜まで働いて1曲さえももらえないかなと思うぐらい。だからみなさん、お母さんとは喧嘩してもいいの。けれどもお父さんとは喧嘩しないで。そして1曲もこれだという曲をもらえないお父さんですから、それがわれわれ男の宿命かもしれないけれども、後ろの姿を見てみなさんがお父さんに「ありがとう」この一言。あれでお父さんは救われると思うんだ。これが土学、日学のみなさんに伝えたい言葉。


 最後は、さっき見たらリーダーもいるし中高生もいるから。自分が中学生、高校生の担当だったとき、唯一しんどかったのはキャンプだった。それが大変だった。今も。だからキャンプをリーダーたちが本当によく準備してくれてありがとう。それでリーダーがおいでといったら行きます。帰れといったら帰る。そのように6月・7月になると、ああ、キャンプが来るかということ。あれだけはもう、ごめんねということを謝りたいと思って。日曜日の桜の日だった。中高生たちが四谷の土手に行って花火をしている。わたしは日曜日ですから忙しいし次の会議もあるから、上に行って一緒にしないで知らん顔してサーっと逃げたの。そうしたら土手から、後ろから「いいちゃん、君が好きだー!!」という声が聞こえて。あの声を聞いてわたしは癒され、救われたということ。自分が中高生でやってたのは、これ1つかなと思うのは、日曜日が終わったら一緒に食事に行く。あれが楽しかった。毎週毎週リーダーと一緒に集まるからそれを待ってて、いつ終わるのいつ終わるのって、それを待ってから一緒に食事をするという3年間でした。それは幸せでした。これが土学日学、そして中高に対するわたしの思いでした。


 これで終わりになるんですけれども、やっぱり聖書の言葉を、30秒でサーっとやって終わるからちょっと待ってて。子どもの時、イエスさまのお顔が見たかった。でもなかなか見せてくれない。映画の「ベン・ハー」を見た時も、ここ(顔の近く)まできて、あっ、ついに顔が見れるんだと思ったら画面がパーンと変わるの。なかなか神さま、イエスさまの顔を見せてくれなかった。後ろの頭は見たことあるけれども、真正面の顔が見たい。それで一応終わった。神父になろうとしてイエズス会に入りました。黙想しました。やっと横顔は見ることができた。もうちょい頑張って真正面の顔を見ようとしたらよけてしまうから、なかなか見せてくれなかった。ある日でした。聖書を読んだら「イエス、独り子」といった時、「独り」が平仮名だったのに今日の聖書みたいに「孤独」の「独」の漢字があるわけ。今日は3回出た。ああ、そうか。イエスさまの顔なんて孤独の苦しみの顔だったか。「独り子」といったとき。その時わたしはわかった。イエスさま、あなたの顔を見せてくださいというふうに子どもの時からずっと思っていて、それがやっとこの1つの言葉で解き明かされた気がする。苦しみがあった時、顔を見てみて。それがイエスさまのお顔なんだ。そして鏡を見てニコッと笑ってみて。それも神さまのお顔なんだ。わたしはイエスさまの顔を見ました。それは今日の聖書によると孤独。苦しみの顔もあった。だからその顔は自分も持っているから鏡を見て、あー、これがイエスさまのお顔なんだ。笑う時の鏡を見ても、これもイエスさまの顔なんだ、そういうことを大事に、大切にしていきたいなと思います。



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四旬節第3主日


ハビエル・ガラルダ神父

3/7(日)10:00- 四旬節第3主日(一部字幕付き)


 まず福音について3点を軽く確認しますが、イエスさまは鞭を作りましたね。でもその鞭で人を打ったとは書いてない。動物を追い出すためですね。それにもシンボルがあります。動物はいけにえですね。そこで殺されるために待っていただけです。その動物を追い出して自由にしたということです。これから、いけにえはわたしだけですと彼は言いたかった。もう動物をいけにえにすることはやめなさい。わたしは最終的ないけにえになります。もう1つ、お金を散らしたんですね。そのお金は汚いお金でした。村から歩いてくる貧しい人々がまさか羊を持って来るわけないですね。神殿の境内で買ってささげる。ところが値段がすごく高かった。そのお金は黒いお金ですから、イエスさまはこの神殿でこんな商売をしてはいけないぞ、ということをするんですね。そして最後にイエスさまがこの神殿を清めるということは、あの当時のユダヤ教の宗教を清めることになります。ですからわたしたちの人生にも、この教会とカトリック教会にも時々イエスさまが来られたのはいいことですね。清めるのが必要かもしれません。


 でも今日は、ご一緒に考えたいことは嫉妬について、嫉妬心について考えましょう。なぜかと言いますと、第1朗読の出エジプト20章5節に書いてあることですが、神がおっしゃる。「わたしは熱情の神である」。つまり嫉妬深い神です。実はわたしは前から気になっていた言葉です。あんまり好きじゃないんですね。どうして神さまは嫉妬深くなければならないか。ところが今の福音のところを見てください。17節。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあります。また熱意が出てくるんですね。また嫉妬、同じ。これを見て、あ、ひょっとしたら嫉妬心には2つの意味があるんじゃないんですかと。で、調べてみたらなるほどそうですよ。嫉妬という言葉は、最初難しいですけれども、ギリシャ語とラテン語ではゼルスという。zelus、ゼルス。嫉妬ですね。ところがその言葉には2つの意味が出てくるでしょう。1つはジェラシー。見るからにゼルスから出てくる、ジェラシー。その嫉妬心、つまり自己中心的に所有欲と自分が高くなりたい、自分が上になりたい、その嫉妬心。自己中心的なことですね、それはジェラシー。
 でも他の言葉も出てきます。それはゼルスからzeal、ジール。ジールというのは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」、この熱意です。ですからジールという意味は守ることです。他者中心の気持ちです。守ることです。その人の幸せを求めることです。その人を大切にする、つまり愛することですね。ジール。イメージとしては、赤ちゃんを抱きしめているお母さん。これはジールのイメージです。命でもってこの子を見守る。絶対不幸と病気がこの子にこないように命でもって見守る。これはジールですね。大切にする。


 たとえばある家の家族のことを考えましょう。長男の高校3年生は家出するとします。暴走族の仲間に行ったりして親はすごく引き留めようとするけれどもだめで、やっぱり行ってしまったとしますね。ではそのお父さんの気持ちを考えましょう。2つの意味で悲しいです。1つはジェラシー、やっぱりありますね。あのグループ、仲間はこの家族よりいいというのか、あの連中がわたしよりいいというのかという、何か自分のプライドが傷ついたという、ジェラシーの上の痛みを感じます。ところがそれよりももっと深い痛みを感じる、それがジール、愛の意味です。つまりお前はこの家に残ったならば幸せになったはずなのに、あそこに行って不幸になるんじゃないんですか。わたしと一緒に残っていれば幸せになったはずなのに不幸になる。そのことで悩むんです。愛の上で悩む。


 では神さまがどういう意味で嫉妬深い神さまかと言いますと、ジールの意味ですね。愛の意味です。つまり、あなたは愛である神と一緒にいる限り幸せになります。神から離れて他のものを神々にして、他のものを自分のすべてにすると自分が不幸になるので神さまは悲しい。ですから神さまは自己満足のため、所有欲のためにわたしたちを自分のものにしたいというのではなくて、わたしたちの幸せを求めて一緒に残りなさいと言っています。すばらしいことですね。 ではわたしたちはどうしましょうか、この嫉妬に対して。嫉妬心を感じる、すごく感じます嫉妬心。その嫉妬心に愛を入れ込めばいい。嫉妬心に愛、ジールを入れ込めばいい。

 例で言います。聖イグナチオ・デ・ロヨラはイエズス会を設立する前に戦争で怪我をしましたね。自分の城、ロヨラの城のあの有名な部屋に長くいて、いろんな本を読んでいた。たまたま聖人の本が手に入ってその本を読んでました。読んですごく刺激を感じた。聖ドミニコがこんなことをしたので、わたしもできるはずだ。聖フランシスコはここまで素晴らしいことをしたので、わたしも負けるかよという気持ちで本を読んでました。これはいいことですよ。ですから人の良さが自分の向上心の刺激になってました。決してイグナチオは「聖ドミニコはここまで上がった。わたしはここです。でもね、聖ドミニコは自己満足のためにやってたんじゃないんですか、人に褒められるためにやってたんじゃないですか、しかも他の欠点もあったんじゃないですか。」聖ドミニコを落として自分が上になることはしませんね。聖ドミニコに対してすごく感動して、素晴らしいと思って、わたしはそこまでいく、じゃないんですか。彼ができた、同じ人間なんだからわたしもできるんじゃないですか、この刺激は素晴らしいことです。


 わたしたちにもこのようなライバルの意識がなければ怠けますね。ですから大学の同級生がここまでいったならば、職場のこの人がこれだけできるのにわたしはどうしてできないんですか。できるはずだという、熱意という嫉妬心が、愛に満ちる嫉妬心がいいですね。
 ところが自分を高めようと思って、結局相手の上になる時もあります。その時には威張って見下す危険性はあります。そうしないで、威張らないで感謝して、わたしにはこの能力があることで感謝して仕えるようにしましょう。才能を人のために役立つという目的のために使いましょう。威張らないで仕えることにしましょう、自分が上の場合には。ところが他の時にはわたしの方が下ですね。同級生とかその会社の人がわたしより上。その時には妬む危険性がありますね。そこで妬まないで人の成功を喜ぶ。妬まないで人の成功を喜べば、愛に満ちた嫉妬心になります。こういうふうにしてみましょう。

 でも何よりも神さまからも、そして人からもこういうふうに愛されていることを信じて感じればいいですね。神さまがこんな純粋にわたしを愛してくださいます。自分のためにしたいのではなくてわたしの幸せを求めてわたしのそばに残りなさいと言ってくださる愛は素晴らしいことで、これを感じると安心感と自信がわいてきますね。ではこの自信、安心感をもって喜んで生きることを願い求めましょう。



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