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2021年10月 ミサ説教




2021年9月


年間第30主日(幼児洗礼式)

英 隆一朗 神父

10/24(日)10:00- 年間第30主日(手話、一部字幕付き)


 今日は幼児洗礼式ということで、小さなお子さんたちが何人か来ておられます。まだ始まってないですけど、泣き声とか子どもの仕事みたいなものなので、騒いだり泣いたりするのは子どもの賛美歌だと思って共にこのミサで捧げたいと思います。あまり気にせずこのミサを与っていきたいと思います。

 今日の福音書ではバルティマイという目が見えない人が、目が見えるようになったというお話なんですね。目が見えないっていうことなんですが、なかなか考えさせられる。目が見えないとか、何かいろいろなことがわからないということですけれども、確かに小さな子どもたちはあんまり物が見えてないし、わかっていないというのは確かですよね。よく分かっていないところばっかりだろうと思いますが、でも大人の方が果たして本当に見えているのか、わかっているのかということも実は案外それほど確かなことじゃないんじゃないかと思います。今コロナですけど、コロナがこんなに収束したっていうこと自身が専門家ですら誰も説明できないわけで、来月どうなるかも誰も分からないということですから、実際のところわたしたちはいろいろなことがわかっているようで実は見えていないことがたくさんあるということですよね。ついでに言うと今の感染者は東京都の1日の交通事故の件数の半分くらいまで減っていますから、交通事故に遭うよりも少なくなっているわけです。特にこの教会は千代田区なんですけれども、千代田区はとうとう入院患者0、自宅療養者0になりましたから、この千代田区でコロナ患者すらもういないというくらい減りました。何で減ったのかわからないし、でも突然また増え出すかもしれないし、実際のところはまったく見えないというわけです。

 そして今日来られているお父さんお母さん方がそうですけど、子育てっていうのはわたしはしたことがないのでわからないですが、皆さん初めての経験でわからないことだらけの中でなさっているんだろうと思うんですよね。小さな子どもとか、赤ちゃんは赤ちゃんで大変でしょうし、動き出すとちょろちょろして大変だし、まったくよく分からない経験がないことを、子育てということをされているというだけで僕はものすごく尊敬する気持ちです。でも結局、わたしたちはわからないっていうことなんですよね。どう子育てしたらいいか、いろいろ失敗もされるでしょう。先輩の信者さんがおっしゃってたんですけど、子育てする時にいっぱい間違いや失敗をしたんですよね。いろいろ経験を積んで、これからだったら子育てがうまくできると思った時はもう大きくなって卒業、できると思った時はもうやらなくていいということになって、できない時に必死にやらなければならないという、そういうわたしたちは矛盾というか現実の中に生きている。


 だからこそ今日の福音書で、イエスさまによって目が開かれた、目を開いてもらって歩む道がわかったということは、本当に大きなお恵みだと思うんですよね。わからないことだらけの中で神さまに教えてくださいとか、これはどうしたらいいんでしょうかとか、神さまに、あるいは周りの人に聞きながら、でもほんのちょっと先が見えるだけでわたしたちはそこを歩んでいくことができる。全部のことはわからないけど、でも神さまに依り頼みながら、ああかなこうかなと思って次の1歩、2歩を進めていけるっていうことが、やはり神さまのお恵みじゃないかなと思いますね。

 今日のこのバルティマイはとてもしつこい人なんですね。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めて、多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます大きな声で「憐れんでください」と叫び続けたっていうんですけど、子どもみたいなものですよね。子どもは「黙れ」と言っても黙れないけど。でもこういうしつこい人っていうか、押しつけがましい人に神さまの恵みが開かれるっていうことなんですよね。こういう人のことをヘブライ語でヌドニックっていうんですけどね。ヌドニック、これはなかなか英語にもしにくい言葉なんですが、日本語で言ったら押しつけがましい人というか、でもそういうヌドニックな人に神さまが応えてくださってるんですよね。だからわたしたちはわからないことがあったら神さまにしつこく、周りの人にしつこく、押しつけがましいというかしつこく頼ったり願ったりしている中で開かれてくることがあるっていうことなんですね。

 「あなたの信仰があなたを救った」っていうんですけど、言い換えれば「あなたのしつこさが、あなたの押しつけがましさがあなたを救った」みたいなことに言い換えることができるんです。だからわたしたちは、特に子育ては忍耐と体力と気力と、いろんなことがないと本当にできないと思いますけど、でもそういうヌドニックがあって神さまの力が働いてくる。そこにわたしは信仰の意味があると思いますね。わからない時に必死に聞きながら、助けてもらいながら行く中で、やはり子育てと神の恵みが開かれてくると思います。


本当にこの小さな子どもたちを見ていると、将来に大きな希望をいつも感じますけれど、本当のところは神さまが実際は子どもを育ててくださるんだと思います。わたしたちは単なる協力者にすぎないと思うんですが、この子どもたちが神の恵みを受けて、神の子として、いろんな困難もあるでしょうけど、それでもすくすくと育っていることができるように、このミサで心を合わせて恵みを願いたいと思います。


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年間第29主日

マヌエル・シルゴ 神父

10/17(日)10:00- 年間第29主日(手話、一部字幕付き)


 聖イグナチオの霊操の中には、終わりの方ですけれども、「愛を得る観想」という祈りがあります。そこの中に彼はこう書いたんですけれども、神さまにお願いすることですね。言葉はこうなっています。「望んでいるものを願うこと。ここ(第4週目)では、神の恵みを余すところなく認め、すべてにおいて主なる神を愛し、仕えることができるために、いただいたこれほどの恵みの内的知識を願うことである。」と。いわばいただいた恵みを神さまに感謝しながら、その恵みを生かして人々の助けとなるわけです。人を、神を愛し、そして仕える。ご存じかどうかわかりませんけれども、今のイエズス会の中ではこのテーマが非常に全世界で強調されています。神を愛し、また人々を愛し、そして神さまと人々に仕える。イグナチオはスペイン語で“amar y servir”、“to love and serve”という言葉を使っています。


 今日の福音書でイエスは、わたしたちにも同じようなことを教えてくださったわけです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」とおっしゃるわけです。その場面は皆さんもさっきお読みになったでしょう。ヤコブとヨハネは、自分たちは偉くなりたいということでイエスのところに近づいて、「わたしたちの1人は右、1人は左に座らせてください」と言うんですね。それでイエスはそれに対して、非常に彼らをチャレンジする言葉をもってお話しになりました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。2人に対するイエスのチャレンジですよね。わたしたちはこれから受難を受けるということで、そういう生き方ができるか、と。それに対して彼らは、どこまでわかっていたかわかりませんけれども、自信を持って「できます」と言うんですよね。やがて何年も後だったら、2人ともイエスのために命を捧げたことになりますけれども、この時点でまだ自分たちにはピンとこなかったでしょう。ただ、どうしてもイエスのそばにいたいということだけでした。

 ところがその後の10人の仲間ですね。それを聞いて腹が立ってイエスに言うんですよね。そして自分たちも2人と同じように、あるいはそれよりイエスのそばにいたいと。競争ですね、よく社会の中にもあるんですけれども。それでイエスは彼らに対して今度は話をするわけですよね。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、みんなに仕えるものになりなさい」と。考えられないですね。人間の頭だけで考えるとすれば。考えられないでしょう。今のわたしたちの社会の中ではこういう生き方をしたら通じないことが結構あるでしょう。人に仕える。自分の好み、自分のことは後にして、人を大事にして、何よりもその人たちのために、すべての人のために仕える。自分を尽くすということ、これはイエスの生き方。これが本当のイエスの姿。そしてこれはイエスがわたしたちキリスト者に望んでいる姿でしょう。

 自分を中心にしていけば、わたしたちはまず幸せになりません。そして人々を幸せにしない。イエスは自分を与えて、自分のすべてを人々に捧げることによって、人々を生かして幸せにするわけです。そしてそれをイエスは生き方としてわたしたちに残してくださった。またわたしたちもそれにチャレンジされています。もしわたしたちが自分の日常の生活の中でわたしたちの、キリスト者としての生き方が自分中心だけだったら、だいぶイエスから離れていますね。わたしたちの力だけでこれはできるわけではないんですけれども、でも頭を下げて神さまにお願いしながら、努力しながら、何とかなるでしょう。人のために生きる、人と共に喜ぶ、人と共に悩む。


 何回も何回もわたしたちは、教会の中で歌った聖歌なんですけれども、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」これなんですよ。イエスがあの2人におっしゃる通り、弟子たちに求めていたのはこれなんですよ。わたしのように考えなさい。わたしのように話しなさい。わたしのように行いなさい。わたしのように人々を愛しなさい。これが今日、イエスがわたしたちみんなに残してくださるチャレンジなんですよ。わたしたちは完璧なことはできませんけれども、でも、これに近づこうとする心がなければイエスの弟子と言えないかもしれません。わたしたちの力だけでこれはとてもできないものですから、今日ミサの中で、ここに集まっている皆さんのためだけではなくて、すべての人のために、そして特にすべてのキリスト者のために神さまにお願いして、こういう生き方、キリストのように行い、キリストのように話す、キリストのように愛する。これをできるために、お互いのために、今日ミサの中でお祈りしましょう。


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年間第28主日 教会祭:国際ミサ

英 隆一朗 神父

10/10(日)10:00- 年間第28主日 国際ミサ(手話、字幕付き)



 今日は教会祭のインターナショナルミサなので、説教は4つの言語で行いたいと思います。わたしが4つするわけじゃないので、ちゃんとそれぞれの言語の方が、神父さんも交替して4つの説教をごく短くいたします。わたしは日本語でいたしますね。

 今日の福音書では一人のお金持ちの人がイエスさまのところに来て、「永遠の命を得るには」ということを言われて、でも「欠けていることが1つある」とチャレンジをされるんですけど、このチャレンジに応えることができなかったという、ちょっと残念なお話です。


 今日の教会祭のミサと、このあとのイベントのテーマは「希望」ということにしてあるんですけれども、どこにわたしたちは希望を見出すのか、そしてイグナチオ・ロヨラはどこで希望を見出したのかと言うとですね、チャレンジがあった時にこそ希望が生まれるんですね。チャレンジというより行き詰まった時に。
 彼はもともと兵士で、負傷して兵士になれないかもしれないという、いったん駄目になったところからイエスに従う道が開かれる。そしてそのあと彼は回心して巡礼者になって、エルサレムに永住したいと思うんですけど、断られてヨーロッパに戻ってきてしまう。そこで彼は、出来なくなったから、じゃあ今度は司祭になって勉強しようと思うんですよね。実は勉強するところも、勉強を始めるんだけどいろいろトラブルがあって、1つのところでうまくいかないんで、結局パリでフランシスコ・ザビエルとかいろいろな人に会うんです。
 彼の人生を見ていると、自分の望み通りになったことは1度もないんですよ、実際のところ。プランAは全部だめなんです。彼の人生で成功したのはプランBばっかりなんですね。希望はどこにあるのか。行き詰まった時に、出来なくなった時に、そこからどうしようかと思う時に希望というものが生まれるということですね。だから、最近聞いた話で、イグナチオ・ロヨラは「プランBの聖人」だっていうんですね。プランAは出来なくても、プランBにいつも希望を見出して新たな展開があるということですね。

 わたしたちも諦めずに、プランAがだめなことはよくあると思います。でも、そこで諦めるんじゃなくて、プランBは何なのか、そこに神さまの新たな希望と導きを見出して歩んでいきたいと思います。


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年間第27主日

ヘネロソ・フローレス 神父

10/3(日)10:00- 年間第27主日(手話、一部字幕付き)


 今日のミサの朗読はとても深いところがあるんですよ。イエスさまは福音書の中で、創世記のこと、神さまがこの世を造ったことを話します。人が独りでいるのはよくない、彼に合う助けるものを造ろうと神さまは言われます。土で物を造って、神はそれからその鼻にフーっと息を吹いて、この土は生きたものとなった。これです。

 その前に神さまはいろいろお造りになった。でも、造ったのは言葉によってだけです。だから土から造って息を吹きかける、こんなことないんです。「光あれ」光があった。「山あれ」山があった。しかし、人を造るときにただ言葉で「あれ」とは言わないんです。他のもので神さまはそんなことはしない。太陽、月、素晴らしいものでしょう。けれども言葉だけで「あれ」と言うと、あった。人間の場合、神にかたどって、神に似せて人を造ろう。月と太陽はそんなことないんですね。わたしたち人間は神にかたどって造られた。けれど神は愛です。愛と言えば誰かとだから、そこで我々の神、三位一体という父と子と聖霊。人格は3つだけれども唯一の神。愛によって1つとなるんです。それにかたどって神さまは男と女を造った。


 人は独りではだめですから、何か相助けるものをと、神さまは動物を造り、連れて来てアダムに見せた。アダムはこれを見て名前を付けた。1つのジェスチャーですね。けれどもこれは相助けるものにはならないんです。心から心へ通う、1つになっていくことは動物とはできません。それで神さまは人を眠らせて、あばら骨を取って、女を造った。そして女を連れて行って、アダムがこれを見ると「ついにこれこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言いました。「イシュ(男)」から出たから「イシャ(女)」と呼ぼう。そしてこういうふうに一体になる。男は父母を離れて女と一つになり、一体となる。これは対等であるということと同じです。それだけでなくあばら骨。他のものでなくてあばら骨です。あばら骨は心臓、心、ハートのそばにあるものだから愛。


 人間が造られたのは何のためですか?我々は何のために存在させられたか?人間の完全な幸せ、愛されるため、愛するためです。これは我々の目的、人生の旅路です。完全に神の愛に与って、愛される、愛すること。だからまったく対等であるということですね。男と女、お互いに相助け合うため。お互いに我慢し合うため。神のようにお互いに一致する。神は3つの人格だけれども1つの神ですよ。その一致。そのためにイエスは教会を造った。全人類をキリストによって1つになるように。皆さん、その愛によって一致するということ、これは神の計画です。わたしたちはこれを理解して、これを悟って、これに生きる恵み、勇気を願いましょう。願えば与えられるから。

 1つになる。このような目で、わたしたちは日常生活で人を見るはずでしょう。この人もわたしのように神にかたどって造られた。この人も愛される、愛するために存在させられた。このミサでこれを願いましょう。我々のため、一人ひとりのため、我々の家庭のため、社会のため、全人類のためです。


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