御言葉を聴きましょう

御言葉を、ゆっくりと繰り返し味わってください。もし、その中の言葉や節が あなたの心にひびいたら、味わいがなくなるまで、次に進まないで、そこに留ま りましょう。

それは、飴を味わうことに似ています。口に入れる前に飴の成分を分析しないの と同じように、みことばの分析をしないでください。

というのは、それに引きよせられていることの理由に気づく前に、私たちの心は すでに魅せられているのです。だからこそ、頭で分析しようとするのではなく、 できるだけ長くそこに留まってみことばを味わうのがよいのです。

祈りの中で、私たちの心が「雑念」に悩まされることがあるかもしれません。し かし、それは必ずしも悪いことではなく、祈りの糧にもなりえます。意識、思 考、記憶、内省、夢想、希望、野望、恐怖など、混沌とした内なる世界を照らす 光に聖書はたとえられます。ですから、神のことばと私たちの内なる感情や思考 との出会いから祈りは生まれてきます。

雑念         照らす光としての聖書






































雑念

このように祈っていると、心が疑問や雑念の渦に巻き込まれることがあるかもし れません。―私は自分自身を欺いているのではないか?これらは本当に神の言葉 なのだろうか?神は、みことばをとおして、本当に私と関わろうとしているのだ ろうか?私は神を信じているのだろうか?―もっともな疑問ですが、今はそのま まにしておきましょう。夜を恐れる子供は、「だいじょうぶよ」という母親の声 で落ち着きを取り戻します。しかし、その子が「お母さんの主張は何が目的なの でしょう?」とか、「お母さんの主張を裏付ける実証的証拠は何ですか?」と返 したのなら、どうでしょう。自分と主の関係が明らかになるまで神の声に耳を傾 けないというのなら、私たちは、祈りにおいて、夜を恐れる子供のようなもので す。神とのまじわりは心から始まります。心には、理性にはわからないもっと深 い理由があります。

では、心に押し寄せて来る雑念にどう対処すればよいでしょうか。ガスをつけっ ぱなしにしなかっただろうか、メールを出し忘れてはいないだろうかと疑い始め たとき、それがガスのように緊急のことなら、すぐに行ってチェックするのがい いでしょう。急を要さないものであれば、書き留めておくのもいいでしょう。そ れ以外、心に浮かんでくるものは、雑念どころか、祈りの糧となる可能性があり ます。


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照らす光としての聖書

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とい う聖書の始めの言葉は、「過去」ではなく「今」を語っています。そして、私が 聖書をとおして祈るとき、神の霊が私自身のカオスや闇の上に漂っているので す。

私のカオスに神の言葉を迎え入れるとき、何でも起こりえます。なぜなら、主な る神は驚きの神だからです。内なる世界を、主の言葉や自分自身に隠さないこと は大切です。また、私たちは、往々にして祈りに否定的な感情、特に、神に対し て否定的な感情が入るのを悪いことだと教えられていることがあります。私たち は、すべてを受け入れてくださる寛大な神の前で、感情や思いを自由に表すこと を学ばなければなりません。私たち自身以上にわれわれのことを知っている神の 前で、自らを演じる必要はありません。

神の言葉に照らされて、あなたの考え、感情、望みの中で、祈りになりえないも のは何ひとつありません。それは、神が不完全なあなたを愛し、あなたの中に聖 霊が働いているからです。

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