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2026年9月 ミサ説教

2026年8月 | 2026年10月


年間第26主日

関根 悦雄 神父

9/27(日)10:00- 年間第26主日


 今日の福音は、私たちにどういうことを望んでいるのかはっきりと示していると思います。まず今日のこのたとえ話では、兄は最初「いやです」と答えました。「ぶどう園に行って働きなさい」。それに対して「いやです」。しかし、後で考え直してぶどう園に行って働いたということです。同じことを弟の方にも言いました。「ぶどう園に行って働きなさい」。そうすると、返事がいいんですね。「お父さん、承知しました」。しかしその通りにしなかった。出かけなかったということです。


9/27(日)10:00- 年間第26主日 説教台の関根神父 手振りをする

 イエスはこのたとえ話で何を言いたいのか。後の方でちょっと説明もありますけれども、イエスがこの世に来て、神の国のことを人々に告げ知らせました。しかし、それを信じて神の国に入ろうとしたのは徴税人や娼婦たちでした。徴税人や娼婦たちというのは、ユダヤの社会からは除外され、排斥されていた人たちです。自分たちの人権、そんなものはなかった。そういう人たちはこのイエスの言葉を信じた。


 イエスは直接自分のことと言わずに「(洗礼者)ヨハネが来て義の道を示したのに」というふうに言っていますが、イエスの福音も同じ態度を示したでしょう。自分たちはもう代々神の子孫であると信じていた。そして、神に礼拝を捧げること、いけにえを捧げたり、決められた律法を厳しく守ること、そういうことをやってきた。しかし、イエスが来て教えたのは、そういうことが最も大切なことですか?そうじゃないでしょうということです。神の国、神の本質は愛です。私たちが互いに愛し合って、助け合って、生きることに苦しい人がいればその人を助けて生かすようにする。これがイエスの道でしょう。そういう道を信じたのは、やはりその社会からのけ者にされていた徴税人や娼婦たち、いわゆる罪人とされていた人たちだということです。


 これはイエスの時代にそうであった。私たちは、今の私たちが住んでいる世界を見る必要があると思います。神は、今でも私たちに様々な出来事を通して語りかけています。今、この世界で起こっている様々な出来事も、神から私たちへの呼びかけなのではないでしょうか。何が起こっているのか。1つ大きなことを言えば、戦争が起こっていますね。どうしてそういう戦争が起こるんですか。国と国の利益の対立、力の強い者が一方的に弱いところから搾取をするという、残念ながらそういう構造ができてしまっている。そういうことに対して神は私たちに何を求めているんでしょうか。


 私たちはイエス・キリストとの出会いがあって、洗礼も受け、ミサにも真面目に与っている。それで安心できるのでしょうか。私たちの周りには、愛に飢え、生きる力を失い、生活に困窮している人たちが多くいる。政治もそのような人たちの救済のためにするのではなく、自分たちの利益になるような人たちのことばかりを考えている。そして、そのようなことを求めている。これが現実でしょう。そういう現実の中で、貧しい人がますます貧しくなる。そういうことが起こっている。


9/27(日)10:00- 年間第26主日 主聖堂中央 祭壇へ続く通路から見た会衆席と祭壇。祭壇には関根神父

 私たち一人ひとりが今日考えなければならないのは、キリストの弟子として、キリストの福音に従う者として何が求められているのか、これをしっかり見極めることだと思います。イエス・キリストなら、そういう人たちに対してどうするでしょうか。もちろんキリストとまったく同じことを私たちがすることはできないかもしれない。しかし、私たちにできることは何かないのか。それを少しでもしていく。そのような具体的な行動に向かうようにキリストは励ましているんじゃないでしょうか。


 今、世界でいろいろなことが起こっています。その出来事のために本当に生きる力を失っている、生きる場所さえも失っている人たちがたくさん出てきている。そういう人たちに対して私たちはまったく関係ないんでしょうか。もちろん私たち個人的にできることは限られているでしょう。しかし、それをしていくというのが私たちにとって大切なことではないかと思うんです。


 今日、私たちは、「世界難民移住移動者の日」を祝ってもいます。今、世界に難民移住移動者がたくさん出ていることは私たちも知っていると思います。私たち日本の社会も、今、外国からのそういう人たち、難民でなくても外国からの労働者がいなくなると日本の社会は成り立たないでしょう。今、コンビニに行ってもそこで働いている人はほとんどが外国人であるとか。コンビニだけじゃないです。あらゆるところにいる、工場とかでもそうかもしれない。そういう人たちが本当に正しく受け入れられているかどうか。


 今日のパンフレットの最後のページに、「祈りは、私たちを通して実を結ぶ」ということを、わたぼうし教室代表の大元さんという人が書いています。そこに、ちょうど上の方の真ん中あたり、「一つの気づきがありました。それは私が身元保証人になれば、私の祈りはかなうのだということです。それと同時に、私は初めて自分の本心に気づかされたのです。私は自分の手を汚さずに、祈りがかなうことを望んでいた、と」。これは過去の大元さんです。私たちもそういったことを確かに望んでいる。そうなってくれればいい。そのために何か具体的にすることがないんでしょうか。これを探して、それをしていくということが私たち一人ひとりに求められているんだと思うんです。


9/27(日)10:00- 年間第26主日 祭壇で手に持つご聖体をかかげる関根神父

 今、日本の現状を見ると、皆さんどう思っているでしょうか。最近また報道されましたけれども、世界報道機関の報道の自由度というのが発表されましたね。日本はなんと先進国の中では下の方。全体の中では真ん中くらい、62位でしたか。報道機関も政府のやっていることに対して、それでいいんですかという問いかけをあまりしない。政府に言われたことをそのまま受け入れてしまっている。そういう状況です。そして、現実で困っている人がいてもあまり動かない。そういう状況の中で私たち一人ひとりができることというのは、また、自分一人でそれをやろうと思ってもできないかもしれない。そうしたら仲間を探して一緒に何かをする。こういうことも具体的に望まれているのではないでしょうか。


 私たちのキリスト者としての最終の目標は、キリストの国をここに実現することでしょう。つまり、愛の原理によってみんなが暮らしていけるように、生活できるように、生きていけるように、それを願っているはずです。そのために私たちに今できることは、私たちの状況の中で何かをしていくこと、それを今日はご一緒に決心したいと思うんです。


 もしそういうことが自分一人で分からなければ、仲間と、知っている人と話し合って、何かできることはないでしょうか。今、私たちの周りで必要なことは何でしょうか。あるいは世界の中で何が一番、誰が一番困っているんでしょうか。そこへ何かできることはないでしょうか。ただ自分たちが直接するということだけでなくても、例えばその国の政府が何もしていないのであれば、それをするように働きかけるとか、何ができるか、自分たちができることを探してそれを実践していくことができるように、そういう恵み、導きを今日ご一緒に願いましょう。



年間第25主日

柴田 潔 神父

9/20(日)10:00- 年間第25主日


9/20(日)10:00- 年間第25主日 お説教をする司式の柴田神父

 日本のカトリックの教会は、毎年9月1日から10月4日まで「すべてのいのちを守るための月間」としています。


 今日はイグナチオ教会のヨセフホールで日本赤十字による献血が行われています。私たちの仲間の中にも、抗がん剤治療を受けている方がおられます。抗がん剤治療には大量の輸血が必要です。献血は人の命を助ける身近で大切なお手伝いです。輸血を受けると、起き上がるのがしんどくても体がポカポカしてくるそうです。


 自分の献血で誰かが元気になるのを見られるわけではありません。目で見える報いはないかもしれません。でも、誰かの生きる希望になります。午前中は11時まで受付をしています。10時のミサの後、ぜひヨセフホールに行って献血のご協力をいただければ、と思います。配信でご覧になっている方も、12時半から16時半までイグナチオ教会のヨセフホールで献血の受付をしています。ぜひ、病気の方の「命を守る」お手伝いをしていただければと思います。


 今日の福音では、働いた時間に対して賃金がふさわしいかどうかをめぐって「神の国」がたとえで語られています。夜明けから12時間働いた人も、夕方から1時間だけ働いた人も同じ1デナリオンの賃金。それは不公平ではないか、と長く働いた人たちが不満を漏らします。この「不満」「不公平」について考えてみました。


 教会では、司祭叙階50周年、金杯のお祝いがなされます。それは素晴らしいことです。ただ、頑張ってもお祝いの日が来ない人もいます。おそらく私もその一人。英語ではLate Vocation「遅れてからの召し出し」と訳せるでしょうか。私の場合、36歳でイエズス会に入会し、46歳で叙階されました。金杯の96歳まで生きられるとは思っていません。一方、この前、日本語能力検定2級を合格したソアレスさんはまだ33歳、可能性がありそうです。


9/20(日)10:00- 年間第25主日 柴田神父のお説教を聞く会衆。

福音書の中では、朝早く働いた人も、遅くから1時間働いた人も同じ賃金が支払われます。不公平感があります。一方、司祭叙階の年数はしっかり計算されます。私がイエズス会に入会するまで遊んでいたかというと、そうでもありません。売れなかったら解雇される、首になる。そのようなプレッシャーを受けながら12年働いていましたが、その期間は当然、司祭叙階からの年数には加算されません。ぶどう園で働くにしても、司祭叙階からのお祝いにしても、早いか遅いかで不満が起きてしまいます。すると、このような言葉に出会いました。


 「司祭叙階が何年かを数えたりする。何周年記念の効果を認めても、実際には、司祭に叙階されるということは永遠に入ることだと思う。年数はそれほど問題ではない。私たちは究極的なもの、永遠のものにすでに触れているからである」。来日された時のカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿のお話でした。私を励ましてくれる言葉です。叙階何年とか、長さが本質ではなく「永遠に触れること」「永遠に入ること」が大切です。


 同じことが教会に来られている皆様にも通じるでしょう。教会の中で、あるいは社会の中で、長い、短いによって不満が生まれる。「先を越された」と感じたり、「自分は評価されていない」と感じたり。そんな時こそ「永遠に触れている」「永遠に入っている」時かもしれません。長い、短いにとらわれないようにしましょう。


 逆説的ですが、「天の国」に入ることと不公平はセットなのかもしれません。不平を言う労働者に、主人は「友よ」と呼びかけています。きっと「友よ、永遠に触れなさい。永遠に入りなさい」と言いたかったのでしょう。先か、後かではなく、働く時間を超えて「永遠に触れる」「永遠に入る」私たちになっていきましょう。



年間第24主日 子どもとともにささげるミサ

ボニー・ジェームス 神父

9/13(日)10:00- 年間第24主日


9/13(日)10:00- 年間第24主日 子どもとともにささげるミサで十字架を手に持ち、祭壇で子供たちにお話をするボニー神父。祭壇前には子供たちが座っている。

 皆さん、今日のミサのテーマですが、見てください。このしおりの表に書いてありますが、「怒るより一緒に笑おう」となっています。いいテーマですね。怒られたことがある人いますか?たくさんいますね。ありがとうございます。私も怒られたことがあります。怒られると気持ちが落ちてしまうんですね。いろんな理由があるかもしれませんが、私たちを直してくださる怒り方もあると思います。例えば先生たちとか、他のそういう立場にいる人たちがいろんなことを直してくださる。そういう怒り方もありますけれども、そうじゃないこともありますね。私たちの間違ったところではないのに、それでも私たちが怒られた、悪いことを言われたとか、そのように思う時はあるかもしれません。


 その時、どういうふうに私たちはそれに対応すればいいのか。難しい問題だと思います。難しい問題だからこそ簡単に見てみようと思いますが、私が皆さんと同じように教会学校で学んでいた時のことを少し話したいと思います。その時、教会学校ではシスターたちが教えてくださったんですね。あるシスターはこのような話をしてくださいました。もちろん私たちは学生、こういう子どもたちでお互いに少し喧嘩したりとか、そういうことがあったので、赦すことに関して話をしてくださったんですね。皆さんが赦したいと、あるいは誰かから悪いことを言われた時、どうすればいいかというと、十字架を切ればいい。それはどういうことかというと、例えば誰かに悪いことを言われて、私たちが言い返したい。その時ちょっと落ち着いて口元でこうやって十字架を切る。十字架は力があるものだと教えてくださったんですね。


 それからもう1つなんですけれども、私たち男の子同士でね、ケンカしたりとか、たまに殴ったりとか殴られたりすることもあったんですね。それは悪いことですけれども、その時、やり返したいと思うことがあるかもしれません。その時はどうするのか。例えばこの手でやり返したいよね。そういうふうに思った時、その手のひらでこうやって十字架を切る。そうするとその気持ちが少し落ち着いて、楽になるんじゃないかという教えだったんですね。もちろんシスターが教えてくださったことなんですけれども、でもシスターも授業では時々怒っていたのでね。そういう教会学校でシスターに怒られた時も、やっぱり十字架を切って、自分も怒らないようにと思ったことがあります。そういうふうにですね、十字架を思い出すというのは1つのいい方法だと思います。


9/13(日)10:00- 年間第24主日 会衆席で祈る親子。お母さんと2人の子ども

 でも、どうして十字架なのかっていうことなんですよね。どうして十字架を思い出したらそういうふうに赦す気分になるのか、ということです。皆さん、この前に十字架が置いてあります。ちょっとそれを取りたいんですが…これ十字架ですね。どこの教会に行っても見ることができます。小さいので見にくいかもしれませんが、これはイエス様が十字架にかけられて、苦しみを受けたその場面が描かれています。ちょっと苦しい場面なんですけれども、私たち全ての人々のためにイエス様が十字架につけられたという話なんです。その十字架は今度、十字架から復活のイエス様に変わっていきます。ここに復活のイエス様の御像がありますけれども、十字架から復活の喜びに変わる。何か赦されないという希望から赦すことができるという気分に変わっていく。これが十字架から学ぶことなんですね。


 ちなみに十字架というものは、その時代一番嫌われたものだったんですね。今私たちは十字架を飾り物として部屋の中に置いたりとか、あるいはこうやってつけたりとかしますけれども、その当時はそういうふうにしなかったんですね。なぜならそれは人を死刑にするものなので、あまり目の前に出すようなものではなかった。でも、その十字架は今度、イエス様の救いによって救いのしるしに変わっていきます。一番大きな恥のシンボルというか象徴だったこの十字架は、今度は神様の恵みの象徴に変わっていきます。


9/13(日)10:00- 年間第24主日 祭壇前で子どもたちからのささげものを受け取るボニー神父

 それと同じように、どんなに大きな怒り、あるいは人に対して思うこととか、悪いことでもどんなに深いものであっても、それは十字架のように変わっていくことができるというのがその十字架のシンボルの意味ですね。だから、キリスト教の中で十字架は大事にしているわけなんです。その十字架の見苦しいところではなく、そこから復活のイエス様に変わっていく。その思想というか、アイディアというか、それによって私たちの人生も変わっていく。人々に対して私たちの思うこととか、いろいろ聖なるものに変わっていく。あるいは少なくとも気持ちが楽になっていく。そのようにして人を赦す気分になっていくのではないか、というのが今日の福音のメッセージだと思います。


 やっぱり人を赦すこととか、そんな簡単なことではないですね。神様の恵み、聖霊の導きがあってできることだと思います。なので、話を戻しますと、こういうふうに思ってください。誰かに対して何かを言い返したいとか思った時、十字架を切る。そしてその他のところでも十字架を使う。それによって私たちの気分が変わっていくかもしれません。今日のテーマをもう一度読んでみますと、「怒るより一緒に笑おう」という話です。だから怒ることから、一緒に笑おう、一緒に喜ぶ。そういう気分に変わっていく。そのような恵みのため、私たちは毎日の生活を生きる中で出てくる様々な面で、この恵みを生かしていくことができるように祈りましょう。



年間第23主日

ハビエル・ガラルダ 神父

9/6(日)10:00- 年間第23主日


9/6(日)10:00- 年間第23主日 説教台の笑顔のガラルダ神父と背景にステンドグラス

 今日の福音についてご一緒に考えてみたいのですが、まず忠告について話があります。その後はみんなで祈ることについて。その2つのことについて考えましょう。

 まず忠告、警告。真実は最高の親切です。ところが、その真実は相手のプライドに傷をつけるんです。つまり、相手が悪いことをしているのか、悪い道を行っているのか、それともその人の欠点はますます悪くなっているのか。このようなことだったら、真実を言うのは最高の親切です。逆に言えば、言うべきなのに、言いたいのに怖くなって言わないなら、その人は一見親切に見えるけれども、本当は一番不親切な人だと思います。我慢できなくなって、全部一遍に言い過ぎるから、早めに素直に真実を言った方がいいです。


 ところが、言わない方がいい時もあります。知らぬが仏。微妙ですね。極めて微妙。では、これについて考えましょう。まず、言うべきかどうかということを考えた方がいい。手短に言ってみますと、そのことを言うのは必要であるかどうかとよく考えるべきです。大事なことであるかどうか、そうでなければ言わない方がいい。放っておいた方がいいです。あるいはまた、その人が言われて直る見込みがあるかどうか。直る見込みがなければ言わない方がいい。あるいはまた、その人にそのことを言う時にはどうしても傷をつけることになる。その傷が深すぎると言わないほうがいい。その判断をしなければならないんです。


 言うべきだと思って言う時ですけれども、どういう姿勢で言えばいいのか。どういう心で、どういう姿勢で言えばいいのか。それは一言で言いますと、その人を愛して言うべきです。ところが、愛してと言っても難しいですね。私の姪の一人の娘が、反抗期の時に親に手紙を書いたんです。お父さんとお母さんが私を愛してくださることはよくわかります。しかし、あなた方の愛の仕方は下手ですと言ったんですね。ですから、そう言われないためにこれを考えればいいと思います。まず、その愛が通じるように、相手が愛されているということを感じさせるべきです。一方的に愛するだけではなくて、相手がそれを分かるように、感じるように、それなら信頼感が生まれるんですね。


9/6(日)10:00- 年間第23主日 祭壇でご聖体と葡萄酒をささげるガラルダ神父と柴田神父

 そのことを言う時にはその人のいやし、その人がそれを直すことを深く望むように。ただ言っただけではなくて、本当にその良い結果を期待して望むこと。それから、この人は直すことができると信じる。そして信じさせる。あなたはそれを直すことができます、その道に戻ることができますと。それから忍耐。焦らないで、時間をかけて。それから協力する。ですからお父さんは子どもに向かって、成績が悪かったので日曜日は出てはいけない、遊んではいけない。勉強しろ、と言ってからお父さんはゴルフをしに行くとしますね。それはダメですね。お父さんは残って、子どもと一緒に勉強の仕方を教えたりしていればいいんです。


 そして最後に言いたいんです。言ってから、前よりも仲良くなるということです。それは忠告の実りです。前よりも仲良くなるということです。ですから助け合って成長する。1つ言い忘れた、大事なことです。言う目的、何のために言うんですか。その人の成長と幸せのために言うんです。その目的を忘れてはいけない。その人の成長と幸せ。


 それでは今度は後のところについて考えましょう。書いてありますね。「二人または三人がわたしの名によって心を一つにして祈れば、御父がかなえてくださる。そしてわたしもその中にいる」という言葉を聞くと、やっぱりミサのことを考えますね。今の私たちはみんなキリストの名前によって、心を合わせて祈っています。ミサを大切にしましょう。そして信者のために、週1回、できることなら日曜日、ミサに与ることは選択科目ではなくて、必修科目ですね。出なければならない。もちろんどうしても来られないことも時にはあります。それは別ですけども、ただ学生の授業みたいに、今日出ようかな、どうしようかな、そういうことではなくて、絶対出なければならないということを考えてください。


主聖堂の平和のあいさつをするイエス様のご像

 そして意味がないと言わないでください。意味はあります。スピノザという思想家が言ったように、まともなことは意味の可能性はあります。しかし、その可能性に自分の努力を注いで、その可能性を実現しなければならないんです。その努力をしなければ、可能性としては素晴らしい、でもあまり意味がない。このミサもそうです。私たちはただ形の上で、義務を果たすために来ていればあんまり意味がない。ここに来るのは義務の上ではなくて、みんなで一緒に歌ったり祈ったりする、その必要性と喜びを感じる恵みを願い求めましょう。その必要性と喜び。義務だけではなくて必要です。やっぱり少なくとも1時間、週1回、心を開いてみんなと一緒に、キリストのように、キリストと共にいる。そのことを味わうのは必要ですし、そして嬉しいことです。


 どうぞ、なるべくキリストのように、キリストと共に、喜んで御聖体を拝領して、一緒に祈ることにしましょう。


9/6(日)10:00- 年間第23主日 ミサ後の避難訓練 主聖堂から並んで退堂する会衆

雨の中避難訓練へのご参加をありがとうございました


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