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2023年12月 ミサ説教

2023年11月


聖家族の祝日

関根 悦雄 神父

12/31(日)10:00- 聖家族の祝日


 今日、私たちは聖家族の祝日を祝っています。しかし、福音書の中にこの聖家族、マリア、ヨセフ、そしてイエスというこの家族がどのように具体的に暮らしたか、ということについてはほとんど書かれていません。今日の福音はこのイエスがエルサレムで神殿に奉献されたこと、その日のことが記されています。今読んだところです。そしてその後にくくりとして、「親子は主の律法に定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」これだけです。


 さて、私たちは皆どのように育ってきたのか。これを考えてみると、誰でも家庭で育ってきたと言っていいと思います。もちろんいろんな例外が少し、どこにでもあるとは思いますが、大抵の場合、両親のもとで育てられる。その育つという意味はどういうことなのか。その家族の中で何が大切なのか、育つという時には、何を人間として身につけなければならないのか。こういうことも考えてみたらいいのではないでしょうか。


2023年12月31日 聖家族の祝日ミサ 聖イグナチオ教会

 皆さん、今、子どもの数が少ないであるとか、それだけではなくて子どもが健全に成長するような環境が整っていない、ということも言われています。皆さん一人ひとり、どういう家庭で育ったかわかりません。例えば私の場合には、生まれた時に両親、祖父母、兄がいました。私の後にもう1人弟ができたので、いわゆる7人家族ですね。その中で人間として、人として大切なものは何なのかというようなことを、まずはこの家庭の中で伝えられたのではないかと思うんです。今や多くの家庭は、特に都会においては核家族というような、このイエスの場合と同じように両親と子ども1人、このようなことが多いのかもしれません。


 しかし、この両親は十分に時間があるのでしょうか。ヨセフは自分の家を起点として大工の仕事をしていたと思われます。ですから毎日帰って子どもと接したでしょうし、奥さんであるマリアとも接触したでしょう。そういうやりとりの中で、人間として大切なものは何かというようなこともイエスは学んでいったと思います。ところが今の多くの家庭の場合、父親も母親も働きに出ている。子どもが1人残されて暮らさなければならないという場合も多いと聞いています。それだけではない。夕方には帰ってきて一緒に食事をするというようなこともなかなか難しい。その中で両親は子どもに本当に、人間としてこの社会の中に生きていくために必要なものを十分に与えられるのでしょうか。そういう子どものことを、子どもの数が少なくなってきて、子どもがいろいろ問題を抱えるようになってきたということを見て、日本の政府は子ども家庭庁を作りメッセージを発していますが、それで十分なのでしょうか。

 子どもたちは私たちの次の世代を担う担い手です。これは人間の社会です。その中で一人ひとりが人間社会、互いに他の人を生かすような生き方ができるのでしょうか。社会状況もいろいろ変化して、信頼するよりも他の人からの害を受けないように、そのことがメインになってしまっています。ですから、知らない人には声をかけない。声をかけられても逃げるとか、おかしなことになってしまっているのではないかと思うんです。


2023年12月31日 聖家族の祝日ミサ 司式の関根神父 聖イグナチオ教会

 私が思うのは、人として一番大事なのは、まずは信頼するということ。私たちは、もし人が信頼できなければ生きていくことができないと思うんです。その辺を歩いていて、ある時に向こうからやってくる人が危ない人で、出会い頭に私に暴力を振るうかもしれない。そんなことが普通にあったら、恐ろしくて外に出られないでしょう。今は交通ルールもいろいろある。しかしそれを守らない人がいて、いつ何時私に向かって突っ込んでくるかもしれない。そしたら危なくて外に出られませんよ。でも人として、人間として大事なのが信頼することなんだ。もし信頼できなければ、この世でまっとうに暮らしていくことができない。そうなってしまうでしょう。
 私の家はよくある田舎の仏教徒の家で、そこでやはり自分の家族だけでなくて、周りの人たちをも信頼する。そういうことが必要だということを、それなりに学ぶ機会があったのではないかと思っています。それに、家の中でも互いに家の仕事をある程度分担したりしてやっていく。そういうことが行われてきた。もちろん足りない面も多々あったでしょうが、今の家庭でそれがちゃんとあるのかどうか、これを考えたいと思うんです。


 今日のこの集会祈願の中に「聖家族を模範として与えてくださいました」とあります。聖家族の基本的な有りようはどうだったんでしょうか。ヨセフはこの生活を支えるための仕事を中心にして働き、そして家族と関わってきた。マリアもイエスを育てるということ、それから家庭の中で必要な仕事、これを淡々としてきたでしょう。しかし、自分の考えを押し付けるというようなことはあまりしなかったんじゃないかと思います。親から見て子どもがなかなか理解できないという、こういうふうな時もあると思うんです。


2023年12月31日 聖家族の祝日 聖イグナチオ教会

 今日の福音の続きにはそのことも出てくるんですね。イエスは12歳の時に家族と離れてエルサレムに残って、律法学者たちとか、学者たちと議論していた。そういうことをしても、両親はなぜそういうことをしたのかわからなかった。マリアにはイエスの行動がなかなか理解できないところもたくさんあった。しかし、マリアはそのことを自分の心に留めて思い巡らしていた。そういう記述があります。ですから、一方的に何かを教えればいいということではないと思うんですね。自分たちがその模範として、信じることの大切さ、すべての人と仲良くしていくことの大切さ、そういうことをしっかりと伝えていくことができるよう、そういう恵み、導きを願いましょう。

 そして、これは別に子供が小さいからということだけではなく、老人になっても互いに学び合うことがあるでしょう。そういうものをお互いに伝え合いながら、人としてよりよく生きる。そして神の子として日々成長するように生きる。そういうことの大切さが伝えていけるように、そういう恵みを今日また一緒に祈りたいと思います。


主の降誕(日中のミサ)

髙祖敏明 神父

12/25(月)10:00- 主の降誕(日中のミサ)


 改めて皆様、メリークリスマス。
 ミサの聖体拝領の前に「私は平和を残し、私の平和をあなた方に与える」とイエス様が仰っています。その平和が私たち一人ひとりに、世界に届きますように、ご一緒にお祈りを進めたいと思います。


 今日の大きな祝日に当たりまして、今、ヨハネの福音書の冒頭が読まれました。「初めに言(ことば)があった」。これは、聖書の1番最初にある創世記の「初めに神は天地を創造された」というこの言葉と対応しているというふうに普通説明されています。神の似姿として創造された人間、それだけでも尊い存在ですけれども、神の言であるイエス・キリストの降誕に始まる救いのわざ、贖いのわざによって、私たち人間はさらに尊いものとなりました。これが私たちのキリストが教える人間の尊厳の根拠であります。それをかなり意識しているかと思いますけれども、先ほど唱えました集会祈願にも「父である神は、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通してさらに優れたものにしてくださった」というふうに祈りました。今日は、皆様がお手元に持っていらっしゃる聖書と典礼の表紙の絵を手掛かりに、今の言葉の意味、主のご降誕の意味を味わってみたいと思います。

主の降誕(日中のミサ) 聖書と典礼の表紙 聖イグナチオ教会

 聖書と典礼の表紙の絵をご覧ください(2023年12月25日 主の降誕(日中のミサ)表紙絵解説/オリエンス宗教研究所 ) 。真ん中、マリア様が身を横にしていらして、半身を起こしている姿ですけれども、右手で乳飲み子を指し示しているようです。そしてマリアのその手の先、乳飲み子の上には2匹の動物がいます。後でこの動物が一体何かということも少し調べてみたいと思います。布にくるまれて、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子のイエスがそこにあります。ヨセフはというと、耳に手を当てて耳を澄ましているのか、妻が旅先で出産して困ったなという困惑の表情、あるいはこれからどうするかという思案の表情をしているのでしょうか。


 この上の方には2人の天使がいまして、手を胸のところに当てて何か祝福しているのか、そして2匹の動物の上には大きな星が彫り込まれています。そしてよく見ると、右側の真ん中の方にも、背中に羽を着けた天使がいまして、顔をのぞかせて羊飼いたちに語りかけています。すぐ下の2人に語りかけているのかと思ってよく見ると、この天使の視線の先には腰を下ろした羊飼いがいて、羊の番をしている様子です。では、この右手の下の2人の羊飼い、これをよく見ると、顔の表情、腕や体の様子から何かにびっくりしている。驚いているということで、目を見張っている。そういう様子を読み取ることができます。


 皆さんも昨日からの聖書をお読みになっているでしょう。救い主が生まれた、という天使の声を聞いて、主が知らせてくださったその出来事を実際に見に行こうじゃないか、ということで羊飼いたちがベツレヘムへと急いで行きました。そしてマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て、天使に告げられた通りであった、そのことを驚いている彼らの姿のようにも見えます。この驚いている2人の羊飼いは、マリアの視線とも合致するように見えるのですが、マリア様の顔をよく見ると、この2人を見ているというよりも、浮き彫りのこれを見ている私たちに目を向けているようにも見ることができます。そして、この子を見よ、この飼い葉桶に寝かされた乳飲み子を見よ、というふうに私たちに勧めているようにも思います。


 では、飼い葉桶に顔をのぞかせているこの2匹の動物は一体何でしょうか。日本語で馬小屋と言いますので、馬がいるのかなと思いますが、よく見てみるとこの動物の左側の方は角がありますので、どうも牛のようですね。では右側のこの動物は何でしょう。馬なんでしょうか。しかし、馬面という馬にしては何か顔が短い気がします。実は日本語でこれを馬小屋と言いますけれども、ヨーロッパやアメリカの言葉では、クリッブ(crib)プレセピオ(presepio)、飼い葉桶というふうにこの場面を呼んでいるのです。そして、そのクリッブプレセビオ、飼い葉桶というヨーロッパの伝統的な絵の中に描かれる動物は、牛とロバなんです。馬ではないんです。ですからそういう目で見ると、確かにロバのような顔が見えますよね。


主の降誕(日中のミサ)  聖イグナチオ教会

 これはイザヤの預言書のごく初めの方に、1章3節ですけれども「牛は飼い主を知り、ロバは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない」という、この言葉が念頭にあると言われています。この飼い葉桶と、牛とロバということがこの連想とつながっているんでしょう。という目で見ていきますと、牛とロバは羊飼いと同じように、マリアが示す救い主が生まれたということについての忠実な目撃証人、というふうにも言えますし、この動物が代表して幼子を礼拝してのぞき込んでいる、ということもこの象牙の浮き彫りから見ることができます。


 では、「イスラエルは知らず、私の民は見分けない」という、この民についてはどうなんでしょうか。ヨハネの福音はこの民の姿に呼応しているように思います。「言の内に命があった。命は、人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。救い主の到来を見分けることができなかった。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。これはルカ福音書が示す「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ということも、これと呼応しているように見えます。しかし、泊まる場所がない、自分の民のところに来たけれども民は受け入れなかった、というのは昔の話ではありません。現在もそうです。私たちもその中に入っているかもしれません。現在の地球の姿を見ると、この暗闇の中に光が来ても、光としては認めないという状況がいろんなところで実際には続いています。


 ヨハネは言います。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。今日のイザヤ預言書のごく最初のところに「良い知らせを伝える人の足は美しい」ということがありましたが、そこの恵みの良い知らせとか、神の救いというのは、ヨハネの福音書と見合わせますと、神の子となること、神の子となるそういう資格を得ることというふうに読むことができます。そしてそれは血のつながりとか、人間のつながりによって生まれるのではなくて、神によって生まれる神の子だと。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」。この方はイエス・キリストですけれども、独り子として恵みと真理に満ちており、この恵みと真理がイエス・キリストを通して私たちのところに現れた。
 ヘブライ書も、これまで預言者が神様から言葉を託されていろいろ話してきたけれども、ついに最後、神様の御子が私たちに語られた、と言っています。言は肉となって、人間となって私たちの間に宿られ、私たちに語られ、人間としてどういうふうに生きたらいいのか、どういうふうに人と付き合ったらいいのか、どういうふうに人生を全うしたらいいのか、という模範を示してくださいました。


主の降誕(日中のミサ)司式の髙祖神父  聖イグナチオ教会

 主のご降誕、クリスマスは、イエス・キリストが罪を別にしまして私たちと同じ人間になり、私たちの間に宿られ、神からの恵みと真理をもたらされたことを喜び祝う日であります。神の側からの働きかけ、私たち人間を慈しんで実現されたそのわざに、神様の私たちへの愛、慈しみを知ることができますし、味わうことができます。その意味でいきますと、神の目からは人間が滅ぶのは本当に惜しいこと、滅んではならない尊い存在だというふうに神様は語りかけています。それが今日の説教の初めに申し上げましたように、私たち人間の尊厳の土台です。

 日本ではよく、人間は人間だから尊いんだという言い方をしますけれども、人間は神の似姿であること、そしてキリストの血によって贖われた尊い存在であること、それによって人間の尊さということが根拠づけられていますし、贖われた人間であるからこそ、どんなに苦しい状況になっても私たちには希望がある。神のもとに、神の子となる、神の子として生きるその希望が与えられている。その根拠が今日の主のご降誕のお祝いの意味でもあります。


 改めて集会祈願にありました「人間を優れたものとして造り、救いのわざを通してさらに優れたものにしてくださいました」という祈りを、私たちの心で繰り返し、主の平和が、主のもたらした救いが私たちに、また世界に染み渡りますようにと祈りながら、今日のこの御ミサをご一緒に続けたいと思います。


主の降誕(夜半のミサ)

髙祖敏明 神父

12/24(日)19:00- 主の降誕(夜半のミサ)


 皆様、改めてクリスマスおめでとうございます。
 このクリスマスは、言うまでもなくイエス・キリストの誕生、新しい命の誕生を喜びを祝う記念の日です。皆様の持っていらっしゃる聖書と典礼には「主の降誕」というふうに書いてございますけれども、イエスの誕生をなぜ降誕と表現し、それを喜び祝うのでしょう。今の世界の現実を見てみますと、イエス生誕の地ベツレヘム、これはパレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区にあります。そのベツレヘムから流れてきたニュースですが、恒例のクリスマス行事が今年は中止になったと言われています。そこにはカラーの写真が付けられてまして、その写真には積み重ねられた瓦礫の真ん中に、先ほど私が捧げ、持ってまいりました赤ちゃんが置かれている。そしてその記事の見出し語は、「祝祭のはずが」というタイトルです。本来のクリスマスの趣旨が生かされないというふうに、配信者はそれで主張しているようです。 主の降誕(夜半のミサ) 司式の髙祖神父 聖イグナチオ教会

 では、祝いができない、そういう現実がありながら、なぜ私たちは「おめでとう」と言って祝い、喜び合うのでしょう。キャンドルサービスでこのミサを始めましたけれども、実は幼子を迎える喜びを、ろうそくの光をもって表現しています。それは聖書のメッセージを追体験することでもありますので、ここで少し聖書に書かれていることをご一緒に振り返ってみたいと思います。


 最初のイザヤの預言書の冒頭に「闇の中を歩む民、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」というふうに言われていました。そして、深い喜びと大きな楽しみが与えられ、人々は神のみ前に喜び祝った、というふうに預言書は伝えています。ですから深い喜びと大きな楽しみを得た理由は、闇の中を歩む民、死の陰の地に住む者の上に輝く光として、1人のみどりご、1人の男の子が神様から与えられた、それが理由のようです。ガザに限らず、ウクライナ、ミャンマーなどでの戦争、内乱。世界各地で人を人として扱わない、差別や分断と憎悪。痛めつけられる地球環境など、今の私たちの世界、この地球の人類は、まさしく闇の中を歩む民、死の陰の地に住む者、という状況に当てはまるのではないでしょうか。そうした闇の中に輝く光として、1人のみどりご、1人の男の子が私たちに神様から与えられた。

主の降誕(夜半のミサ) 司式の髙祖神父によって幼子イエスさまがまぶねに寝かせられる 聖イグナチオ教会

 先ほど私が読み上げました福音書にも、宿屋に泊まる場所がなく、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちが天使からのメッセージを受けていることから、夜のことでしょう。よく読んでみると、生まれた時間は書いてないんですよね。でも、夜のことなんでしょう。「マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」。私たちは思います。いくら旅先のことであり、宿屋に場所がなかったとはいえ、飼い葉桶が生まれた赤ちゃんのベッドとは、これをどう解釈したらいいのでしょうか。これは神から与えられたみどりごを受け入れる、しかるべき場所がない、ということを示唆しているのかもしれません。


 しかし他方で、この飼い葉桶こそが闇の中を歩む民、死の陰の地に住む者の世界を暗示しているようにも思います。福音書の中で天使たちが羊飼いに告げました。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町ベツレヘムで、あなた方のために救い主、メシアがお生まれになった。しかし、そのしるしは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子。これがあなた方へのしるしとなる」。決して王宮だとか、ふかふかした布団の中に寝ている赤ちゃんではないんです。人間扱いされてないような、そこにこの赤ちゃんは寝かされている。それが大きな喜びの救い主が与えられていることのしるしなんだ。このことは、私たちはよく祈りの中で考えてみたいポイントだと思います。こうして本日の朗読聖書は、この乳飲み子は飼い葉桶に置かれるという状況を受け入れ、そうであっても、いや、そうであるからこそ、私たちの世界に生まれ、闇の中を歩む民、死の陰の地に住む人々に寄り添いたかった。そういうことを伝えているようにも思います。


主の降誕(夜半のミサ) キャンドルサービス 聖イグナチオ教会

 では、なぜそうまでしてこの世に生まれたかったのか。なぜ私たちにそうまでして寄り添おうとしているのか。闇の中、死の陰の地に住む人、私たちに深い喜び、大きな楽しみをもたらす光となるために。キャンドルサービスはこのことを追体験する1つの場でもありました。しかも、その光はイザヤの預言書の1番最後に書いてございましたように、「万軍の主、神の熱意がこれを成し遂げる」。つまり、神ご自身からの私たち人間へのプレゼントなんです。私たちの、何か功徳があったから、いいことをしたからそのお返しとしてじゃなくて、神様の方から私たちに一方的なプレゼントとして与えられているんですよ。神から与えられた救い主の誕生なので、降誕、降って誕生したという言葉が使われています。イエスの誕生によって神と人とが1つに結ばれる。闇の中、死の陰の地に住む私たちが、神の子、光の子となる道、救いへの道が切り開かれたことを喜び感謝する日。それが今日、クリスマスです。第2朗読のパウロは、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と端的に表現しています。すべての人に救いをもたらす神の恵み、それが私たちの深い喜び、大きな楽しみの理由であり、クリスマスを祝っている理由でもあります。


クリスマスにプレゼント交換が行われます。1番最初に、闇の中にいる私たち人間への神様からプレゼントが届いた、ということが出発点です。サンタクロースの持ってくるプレゼントは、その神様からのプレゼントを私たちの世界の中で実現しようとするものともいえます。その意味では私たち自身も、どんな苦しい状況、どんな逆境、何もいい方向に導かれていないというふうに見える現実に直面していても、誰か他の人に喜びや楽しみを与える人になるように、平和をもたらす人になるように、と私たち一人ひとりが今日のクリスマスによって招かれています。主のご降誕をこうしてご一緒にお祝いしながら、後ほど、私たちが世の光となれますようにと共同祈願をいたしますけれども、私たち一人ひとりが世の光となって人々を、そして世界を照らす存在になることができますように幼子イエス様に心を合わせてお祈りし、また私たちがその恵みを生きることができる、その力も神様にお願いいたしましょう。



待降節第4主日

ボニー・ジェームス神父

12/24(日)10:00- 待降節第4主日


 ほぼクリスマスおめでとうございます。
 今年度は待降節第4主日がクリスマスイブの日に当たっています。今日第4主日の朗読は、私たちにとってクリスマス、あるいはこのキリストの誕生の出来事、救いのその出来事の意味を私たちに語ってくれる聖書箇所です。マリア様の受胎告知の場面なんですね。ここに出てくる3つの言葉をもとにして話したいと思います。

待降節第4主日ミサ 聖イグナチオ教会

 天使の言葉ですが、1つ目は「主があなたと共におられる」という言葉です。天使は現れ、この若い女の子のマリア様に言うわけです。主があなたと共におられる、と。これはマリア様にとって大変大きな衝撃を与えたと思います。神があなたと共におられるという話ですね。普段から見てみても、神様は我々と共にいるとか、そういった話を誰かから聞いたとしても私たちは驚きますね。これが2000年前はもっと強い表現だったと思います。神様が人間と一緒に住む、あるいは一緒にいるとか、そういった概念はありえないことだったわけです。神様というのはいつも上に立っている存在であって、そして見下ろす、恵みを与えるというようなことだったんですね。今日の第1朗読の中でも少し触れるんですけれども、神は人々の中に住まわれるとか、そういった話が出てきます。別のところには、神は民の中にテントを張るとか、そういった話も出てくるんですね。
 それがマリア様にこの話があったわけです。マリア様にとって大きな出来事だったでしょう。もちろん恐れていたでしょう。そこで天使がマリア様に言います。「恐れることはない」。私たち誰もがおそらく聞きたい、いつも聞きたいことだと思います。私個人として、様々な難しいことに立ち向かう時とか、あるいはそういう問題に関わる時とか、いつも祈るんですね。祈るというか、このような心の態勢をするんですね。自分自身を力づける、恐れることはないと自分自身に言い聞かせる。そういうふうにする時がありますね。皆さんもそういうことがあると思います。しかも天使が現れてきて、恐れることはないと言われると、マリア様に大きな自信を与えただろうと思われます。


待降節第4主日ミサ 聖イグナチオ教会

 それから、そういうふうに天使の話を読んでいくと、1番終わりのところにこう書いてあります。「神に出来ないことは何一つない」と。恐れることはないと何かすごい言葉を言われたわけではなく、神に出来ないことがないからやる、ということなんですね。神様を信じている限り、私たちは恐れることはない、という大きな慰めというか希望の言葉なんです。この2つの言葉は、私たち一人ひとりがいつも心に留めたい言葉だと思います。恐れることはない。神に出来ないことは何一つないと。
 それに対してのマリア様の答えは、多分、この福音書の頂点だと思います。こういうふうに言いますね。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と。これが私たちにとっても、同じような心の態勢を持つように、持つことができたらいいなと思う時があります。神様が望んでいる通りに、神様の言葉通りに行いますように。でも、これをこのように祈るために本当に心の謙遜さ、謙遜な心を持たないと、こういう態勢ができないですね。私たちの祈りとか、そういった様々なところでお祈りしたりとかします。自分が思う通りにいかない時もあると思います。でもその時も、私が主のしもべです。お言葉通り、それはどんな状況で神様が私たちに何を決めても、その通りに行いますように、という心の態勢ですね。これがマリア様が教えてくれる1つ大きなメッセージだと思います。


 今日はこのクリスマスに向かって、私たち一人ひとりが心の準備をしているところだと思います。そのところでこの天使の言葉を思い起こしましょう。主があなたと共におられます。しかし恐れることはない。なぜなら神に出来ないことは何一つない。でも、それと同時にマリア様と同じように、神様の望み、神様の希望、神様が私たち一人ひとりにとって思っていること、計画。それは何であってもそれを受け入れる。そしてそれを受け入れて感謝の心をもって生きる。そういうふうに自分の心を整えましょう。改めてクリスマスのキリストの誕生に向かって、私たち一人ひとりが心を整えていくことができるように、このミサの中でお祈りしたいと思います。


前日の12/23(土)は子どもと家庭のクリスマスミサでした。


待降節第3主日

サトルニノ・オチョア神父

12/17(日)10:00- 待降節第3主日


 ミサの初めに申し上げたと思いますが、今日は日曜日で待降節の第3主日にあたります。この話では、初めに今日の特別な典礼について1つのこと、それから後で待降節の精神について皆さんと一緒に、共にしたいことがあります。

待降節第3主日 司式のオチョア神父 聖イグナチオ教会

 まず第1に、待降節。待降節はクリスマスの準備の季節です。待降、文字通り、待つ。待ちながら、待ち望みながら、待ちかねるぐらいのような気持ちでイエス・キリストが生まれることを待つ、そのような心を表している言葉です。ラテン語で昔から、それから今の日本でもプロテスタントの兄弟たちは、待降節よりもアドベントという言葉を使います。アドベントは「主が来ますように」という意味であります。この待っている間に私たちは心の準備をします。心の準備として、いろんなことでちょっと犠牲をして、典礼の中では祭服は紫になります。けれども、今日はご覧になると紫ではないですね。本当にバラの色みたいな、ピンクみたいな色になっている。これは昔から、中世期の時からです。この第3主日は、私たちはもう待っていてですね。この第2朗読の聖パウロの言葉を使って「皆さん、いつも喜んでいなさい。絶え間なく祈りなさい。どんなことでも喜びなさい。」これは昔のラテン語で、これですね。“Gaudete in Domino semper : iterum dico, gaudete.”
 gaudeteはラテン語ではですね、喜びなさい、ということです。それでそのような気持ちを表すために、もう紫じゃなくてこれ(バラの色)をしましょう。それで歌って本当にすぐ生まれるから、私たちはあと1週間だけですので。

 この1週間はもう1つの典礼の面白いことが出てきます。それは暦のいたずらです。クリスマスは本当に12月の25日ですか。日にちは知っていますけれども曜日はわからない。もしかしたら今年のように、今年は25日は月曜日に当たります。それで、クリスマスの前の4つの日曜日は待降節ですので、今年はその暦のいたずらによれば待降節は一番短いです。第4になると、次の日はクリスマスになります。逆に、もしかしたらこの25日、クリスマスの日が本当に日曜日に当たるんだったら、その時、待降節は1番長くなります。4つの日曜日を数えなければならないのです。これはですね、今は典礼はすごく変わって、言葉も変わったので。けれどもこのような伝統があるということ。その伝統はとっても美しいことです。私たちはもう本当に、冬の中で温かい心をもってイエス様を待っているのです。


待降節第3主日 待降節第3主日ミサ 聖イグナチオ教会

 待降節の精神・心は、典礼の中で何回も何回も2つのキーワード、2つ言葉で表されています。第1の言葉は、待ち望むということです。ただ座って待つということではなくて、待ち望む。自分の体内の子供が生まれる女性のように待ち望む。ただ時間をもって待つということではなくて、望みながら、希望しながら、いろんなことを神様に祈りながら待ち望むのです。もう1つの言葉があります。今日の典礼でよく出てきますが、探し求める。この道、あの道、このようなところへ何をしなければならない、準備しておかなければならない。私たちの探しているのは、神が来られるということは、神との出会い。そのクリスマスは、神ご自身は私たちの世界に入って、私たちの社会の中に入っているけれども、まだ私たちは出会っていないですね。


 今日のヨハネの福音では、ヨハネの言葉によると「私は水で洗礼を授けるが、あなた方の中にはあなた方の知らない方がもうすでにおられる。その人はわたしの後から来られる方です。」私たちは探し求める。もう私たちの中にいらっしゃるこのようなイエス・キリストの姿です。名前を知っているかもしれないけど、本当の出会い、心の出会いはまだです。それでそのクリスマスの時は、私たちは心の中でこのイエス・キリスト、私たちの子、私たちの救い主、私たちの弟みたいな人との出会いを待ち望みながら、探し求めているのです。
 言葉だけではなく、待降節の2人の模範と言いましょうか、そのような方があります。言うまでもなく前の日曜日のことだったんですが、1つの模範はマリア様です。静かに何も言わないんですけれども、自分の中で行われている神秘を待っている。素晴らしい姿です。喜んでいます。待っています。それから心配しています。この子は一体どんなことでしょう。


待降節第3主日 祭壇前のマリア様とヨセフ様。イエス様の誕生を待ち望む 聖イグナチオ教会

 もう1つの模範としては、今日の洗礼者ヨハネです。マリア様と全く違う人で、あの人は厳しくて砂漠へ行くんです。砂漠で厳しい生活を送りながら、私たちに「道をまっすぐにせよ」と言います。その道は多分、神様への道ではなく、私たちの心への道です。神様が簡単に、完全に私たちの心に来られる妨げになっていることを捨てて、心の準備をいたしましょう。この謙遜なヨハネの姿。私はメシアではない。わたしはあの人、あの預言者、それは来られるメシアですが、あの預言者ではない。私の後に来る人、私はただあの人の証しをします。私たちの中でもすでにいる。探しなさい。準備しなさい。望みなさい。このヨハネの姿で私たちは本当に励まされる、教えられることもあります。どうして洗礼を授けるのか。私はただ清めの洗礼です。水です。でもあの預言者が来ると、水だけじゃなくて、火によって洗礼を授ける。霊によって洗礼を授ける。私たちの受けた洗礼はこのヨハネの洗礼ではなく、イエス・キリストの洗礼です。清めだけではなく、あとで燃えるように、熱心さ、本当に私たちの心のいのちになることです。

 今日はミサの間、私たちもヨハネのように謙遜に、清めだけじゃなくて愛の火を求めましょう。一人ひとりのためにだけではなくて、みんなのために、教会のために、教会以外の人たちのために、人間のために。特別に、幸福になっていない、不幸の中で、今戦争の中で住んでいる人たちのためにお祈りいたしましょう。


待降節第2主日

柴田 潔 神父

12/10(日)10:00- 待降節第2主日


 第1朗読のイザヤ書は「慰めの書」と呼ばれています。「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる」。神様は慰める方です。どのように民を慰めたかというと、紀元前6世紀、バビロンで捕囚にされていたイスラエルの民は、エルサレムへと戻される時、特別な近道を神様がお作りになりました。普通はユーフラテス川沿いに北上するルートを使うのですが、民を慰めるために、まっすぐ西に進ませる近道を作って、早く帰国させました。


待降節第2主日 司式の柴田神父 聖イグナチオ教会

 神様は抽象的なことを語るのではなく、中身のある実感できる「慰め」を与えてくださる。イザヤ書では繰り返しそのことが語られています。
 福音書では、洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受けに、ユダヤ全土から人々が押し寄せていました。集まった人たちは、自分自身では律法を守れない、惨めさを自覚した人たちでした。洗礼を受けるまで、何時間も、何日間も待たされました。待っている間、自分たちの罪を思い浮かべて、それでも、何とかして救われたい、この洗礼によって生まれ変わりたい、と思いながら長い時間並んでいました。


 「何とかして救われたい、でも自分には自分を救う力がない」。同じ体験をわたしもしていました。今から25年前。名古屋で営業の仕事が忙しかった頃、夜10時の南山教会のイブミサに与りました。9時まで仕事をしていて、その日最後のイブのミサに何とか間に合いました。満員で立ち見でした。でも、「自分にはクリスマスのお祝いは訪れないのではないか?」と内心不安がありました。というのも、やっと与ったこの前のミサで「日本人は働き過ぎ。日曜日は休んでミサに来なくてはいけない」と説教されたからです。日曜日に仕事をするわたしには救いが来ないような、がっかりした気持ちで帰っていました。 


 けれども、イブのミサの説教は違いました。神父さんはこう語られます。「クリスマスイブのミサに来られた皆さんは、必死で頑張っておられる。それなのに、誰も認めてくれない、労ってもくれない。なんのために生きてるんだろう?そう思っておられる方もいるかもしれない。そんなあなたのためにイエス様はお生まれになりました。

待降節第2主日 10時日本語ミサ 聖イグナチオ教会

 イエス様がお生まれになって最初に掛けられた言葉は『おめでとう』でした。皆さんも同じです。『おめでとう!』と言ってお祝いしてもらいました。頑張っても報われない、自分なんて価値がない。その思いを拭い去るためにイエス様はお生まれになるのです。あなたもイエス様と同じ、『おめでとう!』と歓迎されています。クリスマスはこの『おめでとう!』を思い出す日です。大人になった今のあなたを神様は『おめでとう!』とお祝いしてくださる。洗礼の時もそうでした。新しい命をいただきました。そして今、頑張っていることを神様は労ってくださる。神様からのお祝いの声を聞きましょう。それがあなたのクリスマスです。」わたしたちの誕生の喜びを思い出すために、イエス様は幼な子として誕生する。受肉の神秘です。神様は慰める方。クリスマスに慰めを期待しましょう。慰めをいただける良い準備をしましょう。
 お祈りをする。貧しい人のために献金をする。また個人的には音楽を聴いています。


 イエス様の誕生のお祝いを音楽家たちが表現しています。神様は、慰める方。絵空事ではなく、中身のある慰めをくださる方。そう実感できるクリスマスになりますように。



待降節第1主日

李 聖一 神父

12/03(日)10:00- 待降節第1主日


 さて、今日は待降節の第1の主日ですので、皆さんに2つのことをお話しします。1つはどのようにして主の降誕を準備すればいいかということ。もう1つは、今日記念するフランシスコ・ザビエルについてです。


待降節第1主日 司式の李神父 聖イグナチオ教会

 毎年、私は待降節に入るといつも説教しているんですけれども、待降節を豊かに過ごすために3つのことをなさったらいいと言っています。


 1つは家庭でもいいし、自分の職場でもいいし、どこでもいいんですけれども、馬小屋を飾りましょうということですね。どんな小さなものでも構いません。教会にある大きくて立派なものでなくても、幼子だけとか、そしてヨゼフとマリア様がいるような小さな人形でもいい。そういうものを玄関先とか、そういったところに飾るといいですね。私は事務室を2つ持っていますけれども、その2つともに必ず馬小屋を作って、そしていろんな工夫をします。幼子イエスは24日までまだ隠しておかなきゃいけませんが、そこにお菓子を置いたりですね。今年、私は金平糖に凝っていますので金平糖を置こうと思ってますが、そうやって何か主を迎える準備っていうのを自分の生活空間の中で1つ作っておくっていうのは、とってもいいことだと思います。


 2つめはイルミネーションを見に行くこと。今はどんな地方に行ってもいろんなイルミネーションの工夫をしています。私は広島出身ですが、最近、広島の平和大通りというところにもドリミネーションというのをやっていて、最初はものすごくしょぼかったんですけど、だんだん豊かになってきました。東京は大都会ですから、丸の内に行っても、あるいはけやき坂に行っても、本当に素晴らしいイルミネーションを見ることができますが、やはり、光を見ることによって私たちの心が温かくなるっていう、そういう経験をしたらいいんじゃないかな、といつも思っていますので、夜はちょっと寒いですけど、少し着込んで、そしてイルミネーションをどこか探して見に行く。これが2つめです。


 3つめは、これはなるべく広げていきたい、広めていきたいと思っていることなんですけど、ルカ福音書を1日1章読み進めるということです。ルカの福音書は24章ありますので、12月1日から始めて1章ずつ読んでいくと、ちょうどクリスマスイブの24日の朝に全部読み終えるということですね。そうすると、この今からお祝いする幼子誕生という、この方は一体どういう生涯を終え、一体何を語っておられたのかということを、また何か新たな目で見ることができます。私は今回で3度目になるんですけれども、今日3日ですから第3章を読んできましたが、やはり一章一章読み進めていきながら、イエスがそこで何を語り、何を思い、そしてこの幼子誕生が私たちにとってどういう意味を持っているのか、そんなことを思いながらこの1日1章を読む。こういったことがもっと広まったらいいなと思っています。もし、よし、やってみようという方がここにおられたら、今日3日ですから、今日は3章まとめて読んで、明日から4章というふうにしていけばまだ間に合います。とってもいい準備になるんじゃないかと私は思っています。


待降節第1主日 キャンドル 聖イグナチオ教会

 そのようにして待つ心っていうのを私たちは深めていくということなんです。待つというのは、とても面白い行為で、待っているものに対する、人や物や事柄っていうものに対する思いを高めていくっていう行為なんですね。ゆえに、待つという言葉を通して、昔からこれらは世界中どこでもそうですが、待っているものに対する思いを高めていくっていう意味で、恋愛の歌としても歌われたり、あるいはまた子どもがですね、何か大きなものを期待しながらひたすら待つっていうことを通して成長していく。そうした事柄につながっていくんだろうと思います。私たちもこの待降節は、待つというその姿勢と言ってもいい。そうしたものを深めていくことができれば、いい準備になるんじゃないかと思います。


 もう1つ、フランシスコ・ザビエルについてもお話をした方がいいなと思うんですけれども、言うまでもなく、日本に最初にキリスト教を伝えた宣教師です。ところが、フランシスコ・ザビエルの書簡っていうものを丁寧に読んでいくと、時々不思議な言葉に出会うんですね。私は、これ、どんな思いでフランシスコ・ザビエルは書いたんだろう、という1つの言葉があります。1551年の11月15日に、ザビエルは豊後の港を出発してインドに帰っていくんですね。1549年の8月15日に鹿児島に上陸し、それから2年とちょっと日本に滞在して一生懸命宣教していくんですけれども、彼の宣教は必ずしも華々しい成果を上げたというわけではありませんでした。そこで一旦インドに戻り、さらにこの日本に対する宣教をもっと可能にしていくために、まず中国ということを考え、その準備をしていく中でその生涯を閉じていくわけですが、日本を去ったザビエルはどんな思いで去っていったんだろうか、というのを私は時々思うんですね。


 そして、この1552年でしたか、1月29日に彼がイグナチオに宛てて書いた手紙が残っています。たまたまインドに再び帰る途中にマラッカというところに立ち寄って、そこでイグナチオからの手紙を受け取るんです。そしてイグナチオがいろんなことをアドバイスしていく、そういった手紙なんですけれども、その返事としてザビエルは日本での宣教のこと、あるいは日本について非常に詳しく長く書いています。そして、できればイグナチオ、あなたにもう一度会いたいという手紙を書いて、その手紙の最後に、フランシスコというサインを書くわけですが、その添え書きなんです。その添え書きに私は非常に注目したわけですね。そこには何て書いてあったかというと、「最も小さな子であり、最も遠くに流されているフランシスコ」という添え書きをしているんです。私は「最も遠くに流されている」っていうこの表現の中に、ザビエルが日本を後にした何か物足りなさというか、自分がこの日本で一体どんなことをしてきたんだろうという、そういった思いが、この「最も遠くに流されている」っていう言葉の中にあるような気がしたんですね。
 そしてこの手紙にイグナチオはすぐに返事を書くんですけれども、その返事をザビエルは読むことがなかったんです。すでに中国を目の前にした上川(サンシャン)島でその生涯を閉じるからです。そして、そのザビエルが読まなかったイグナチオの手紙には、中国に行くことはもう一度考え直した方がいいとか、あなたは日本の、あるいはアジアの様子について、ヨーロッパに戻ってきていろいろ私に直接報告してほしいとか、そういったことが書かれていたわけですけれども、すでにザビエルはこの世にその生涯を終えて、神さまのもとに行ったという、そういったことです。手紙の自分自身のサインに添え書きをして、私が今どういう状況なのかということを伝えたザビエル。この私は最も小さな子です、そして最も遠くに、あなたのあのローマから最も遠くに流されているんです、という思いは、ザビエルがその生涯をかけてインドや東南アジア、あるいはまた日本にまで一生懸命宣教してきたその思い、そしてそこから得た実りっていうものを自分自身が評価した時に、最も遠くに流されてしまっているっていう思いが彼の中にあったのかな。決して宣教という使命は、燃えて、そしてそこで何かをしようとしても、必ずしも思うような成果が上がらないということは、これは多くの宣教師が経験していることなんだろうと私は思います。


 日本にもその後多くの宣教師がやってきて、そして今でもその宣教師の方々は一生懸命その命尽きるまで働いておられますけれども、華々しい成果を上げたっていうようなことを言える、そういった宣教師はそれほど多くはないだろうと思います。しかし、それでもそうした彼らの働きっていうものを神さまご自身が受け取ってくださり、そしてそうした生涯をまた誰かが受け継いでいく。そういう意味で、私たちは宣教師のために祈らなければならないし、そうした宣教師がまた生まれてくることを強く望むのだろうと思います。


 今日は皆さんと一緒に、この主の降誕を待ち望む心をもっともっと深め、豊かにしていくことができますように、そして多くの宣教者、神の言葉を語るっていう人が多く与えられますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。



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