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2023年6月 ミサ説教

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年間第12主日

髙祖 敏明 神父

6/25(日)10:00- 年間第12主日


 本日は皆さんもご存知のように、午後、この教会で堅信式が行われます。菊地大司教様がお見えくださいまして、108人の方が堅信式を受けることになっています。
 司教様お一人で108人を担当するのは大変ですから、私もお手伝いして、今4人の方が油を塗るようなお手伝いをさせていただく予定です。どうぞ皆様、この108人の方、また代父・代母をお務めくださる方々のために、聖霊が豊かにくだりますようにお祈りしていただければと思います。


2023年6月25日 年間第12主日 説教台の髙祖神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 本日の3つの聖書の朗読をお聞きになられて、皆様もすぐお気づきになっていらっしゃるでしょう。
 今私が読み上げました福音の朗読と第一朗読のエレミヤの預言のエレミヤの告白といわれてるところですが、そこが対応しているということはお気づきだと思います。エレミヤの場合、皆様がお手元に持っている聖書と典礼の下の方にも説明は書いていますが、ユダ王国の救いではなくその滅亡を預言した。人々が期待しているものとは違った方向の預言をした。期待にそわない。


 しかしエレミヤは主の言葉を忠実に伝えた。そのために迫害を受けることになってしまう。そこで、エレミヤが主に嘆願しているというところが読まれました。今日の福音も「人々を恐れてはならない」ということから始まっていますが、その直前には弟子たちが直面するであろう迫害をイエス様が予告している場面が書かれています。


 「私はあなた方を使わす。それはオオカミの群れに羊を送り込むようなものだ」という言葉で始まって、「家の主人がベルゼブル、悪魔の頭領と言われるのなら、その家族のものはもっとひどく言われることでしょう」と結んで、それを受けて「人々を恐れてはならない」と今日の福音が伝えています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と福音はすすめています。


 何をその根拠にして、「恐れるな」とおっしゃっているのかということを少し考えてみました。第一は、もう申し上げることなく、今読み上げた通り、神様は私たちの生殺与奪(せいさつよだつ)の権を持っています。私たちの身体だけではなく、魂も滅ぼす力を実際は持っていらっしゃるということが、第一の理由でしょう。


 そして、今日の聖書を読み合わせますと、第二の理由として、第一朗読のエレミヤの言葉にありました。「しかし主は、恐るべき勇士として、私と共にいます」。「正義をもって、人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ」。「私の訴えをあなたに打ち明け、お任せします」。「主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される」というこのエレミヤの預言の言葉の中にも「人々を恐れるな」という一つの理由を読み取ることができるように思います。


 もう一つ、今日の朗読で私たちも祈りの中で深めたらいいなと思ったのは、「恐れるな」という言葉に続く話のところです。雀の話が出てきますが、そこでは「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。髪の毛についてもそうおっしゃっていて、神様はそれも1本残らず数えていらっしゃるということと、天の父という言葉を使っておられる。ここにも何か秘密があるように思います。


 私たちは、主の祈りで「天におられる私たちの父よ」と、いつも祈りを唱えます。そしてマタイの福音書でそう教えられてます。ですから、それをイエス様が「あなた方の父」とおっしゃるのはごく自然のように思います。


2023年6月25日 年間第12主日 奉納 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 しかし、ちょっと調べてみると、古代オリエント、ギリシャやローマの世界でも、父親がその家族全体、社会全体で権威と力を持っている時代ですので、最高の神を父と呼ぶ伝統は、古代のオリエントやギリシャ、ローマでもあったそうです。そして、ローマのゼウス、ギリシャのジュピタ、この神は「神々と人々の父」と呼ばれていたと本には書いてあります。


 日本の場合皆様ご存じのように、人が死んだら神様になると言われています。豊臣秀吉のためには豊国神社、徳川家康のためには東照宮ができたりという形で、人が死んだらその魂が神になるというのが一般的になりますし、八百万の神ということでさまざまな神を見ますが、キリスト教で言っている神とはかなり意味や内容が違うようです。そして、日本では神様を父と呼ぶような伝統はないようです。


 では旧約聖書はどうか。旧約聖書は人と神の存在を非常に区別して描くのが大きな伝統だそうで、神を父と呼ぶ例はごく稀にしかないそうです。むしろ、神は厳格な十戒や立法を与えた厳格な立法者、それに背いた人を裁く、罰するというイメージの強い神。しかし旧約聖書の中でも、詩編の中には、たとえば、父がその子を哀れむように、主は主を恐れる人を哀れんでくださるという、哀れみの父というイメージをその中で伝えている箇所もあります。また箴言の中には、かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめるということも描かれているそうです。


 そういうことを背景にしながらも、ここでイエス様が「あなた方の父」とおっしゃっているところには、何かもっと深い意味があるように私は思ったのです。といいますのは、皆さん、ご復活の後のヨハネの福音書のことを思い起こしてみてください。マグダラのマリアにイエス様がご出現されて、マグダラのマリアがイエス様のそばにいたいと思っているときに、イエス様が 「私の兄弟たちのところに行って、こう言いなさい」とおっしゃいます。「私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところに私は昇ると兄弟たちに告げなさい」。


 あなた方の父の中には、厳格な父というイメージも一方であるでしょうけれど、もっと私たちのことを気にかけてくださる、私たちが本当に人々を恐れず、神様に仕えることができるような生活が送れるように支えてくださる。「いつも共にいてくださる」という言葉がここに込められてるように思います。もちろん、「私の父であり、あなた方の父、私の神であり、あなたの神」とおっしゃるときには、イエス様が十字架の道の苦しみを経て、ご復活されたというプロセスがあるということも、同時に抑えておく必要があると思います。


2023年6月25日 年間第12主日ミサ 遠景の主聖堂 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 その意味で、今日、第二朗読のいちばん最後にありました「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのだ」とパウロが言っているのも、それらをつないで理解することができるかなと思います。ただ、そのように私たちをいつくしみ、私たちを支えてくださる神様ですが、今日の福音朗読の最後の「だから…」というところでおっしゃっている結びの言葉は、私たちにある意味での厳しさも教えています。


 「だれでも人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表す。しかし、人々の前で私を知らないという者は、私も天の父の前で、その人を知らないと言う」。


 ここで言われていることは、ただ口で知ってる、知らないと言うことだけではないでしょう。私たちの祈りの中で、典礼の中で、活動の中で、人々との交わりの中で、生活の中で、「イエスの仲間だ」と私たちが表明しているかどうか。そういうことがここで問われてるように思います。そして、それとのつながりで私として心に残ったのは、エレミヤが復讐ということを言ってるところです。私たちの毎日の生活の中、さまざまな生活の中で、自分から見ると理不尽と思われるようなさまざまな圧迫、問題を抱えることがあります。そして、復讐心に燃えることがあります。正義の裁きを求めて、自分が復讐してやろうという思いに駆られることがあります。


 しかし、エレミヤは「復讐は私が行うのでなく、神に任せる。私の訴えを神様に伝えて、その後は神様に委ねる」という姿勢を今日示してます。


 パウロのローマ書の中にも、それを後押しするような言葉が書かれています。「できれば、あなたがたは全ての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること。私が報復する』と主は言われる」と書いている。「悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい」とパウロは教えています。


 私たちの今日の御言葉が私たちに語りかけるメッセージを心の中でよく味わいながら、パンと葡萄酒の祭儀の中で、私たちの祈り、願いを神様が強めてくださいますように。そして、自分の心だけではなく、今、世界のさまざまなところで、復讐という名のもとでさまざまなことが行われています。それらが神様の癒しによって、神様が導かれる方向での癒しによって、神の国の到来へと一歩でも近づきますように。世界の現状を見ながらお祈りしたいと思います。


午後に堅信式が行われました。
受堅者の皆様おめでとうございます!


年間第11主日

ハビエル・ガラルダ 神父

6/18(日)10:00- 年間第11主日


 今の福音の前半についてご一緒に考えてみたいと思います。「イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と書いてあります。イエス様の見る目は深い。心を開いて彼らと一緒におられたので、悩んでいる人の立場から物事を見ることができます。人の立場から物事を見るためには、その人に近くならなければできません。その人に近寄れば、そのとき初めてその人の立場から物事を見ることができます。


2023年6月18日 年間第11主日 説教台の ガラルダ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエス・キリストは深く鋭い目で彼らを見て、身体も心も疲れ果てていることがわかりました。そして目の涙だけでなく彼らの心の涙も見ることができました。彼らの声だけでなく、心の声も聞くことができました。深く見ましたので深く憐れまれたのです。そして、憐れみをもってすぐ行いに移りました。


 虚しい憐みではなく、虚しい同情でもなく、本当に大変だと思ったらすぐに、できるだけのことをその人のためにすることは本当の憐れみです。虚しい同情ではなくて、行いに結びついている憐れみです。私たちは人をあまり深く見ないですね。浅く見る。なぜかというと、悩んでいる人から遠ざかっているのです。もしかしたらわざわざ避けているかもしれません。よいサマリア人のたとえばなしのように、1 番目と2番目の人が怪我人を見てなるべく避けたんですね。道の向こう側を通って行ったと書いてあります。私たちもそうかもしれません。悩んでいる人はホームレスだけではなく、近くにいる人たちも悩んでいるときが多いです。深く見ることができればそれがわかるでしょう。


 でも私たちは遠くにいるし、もう一つの私たちの欠点は、自己中心ということです。自分のことしか考えない。人のことを考える余裕はないのです。だから人の涙などがわかりません。しかしイエス・キリストはわかりました。そしてこう言いました。「収穫は多いが、働き手が少ない」。収穫とは何でしょうか。イエス・キリストがそのときに見ていた群衆、飼い主のない羊のように弱り果て打ちひしがれている人たち、つまり悩んでいる人は収穫です。収穫は多いです。この世の中にはいろいろな理由でとても悩んでいる人が多いです。収穫は多いが働き手は少ない。働き手は誰かと言いますと、その人たちを制覇する人。その人たちを助ける人は残念ながら少ない。だからあなた方は働き手になりなさいとイエス様が言うんですね。


2023年6月18日 年間第11主日ミサの主聖堂 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 それだけではなく、イエスキリストは働き手に関しては2つのことを言いました。今の福音に書いてあります。「あらゆる病気や患いをいやす権能をお授けになった」と書いてあります。人を癒す権能は私たちには与えられているでしょうか。人を癒すことができないが、権能が与えられています。悩んでいる人の隣にいてともに悩むという権能を授けられているのです。癒すことはできないけれど、そばにいて一緒に悩む。そうすればその人の心の元気が湧いてくるでしょう。


 もう一つ言いますね。「収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい。働き手が増えるように祈りなさい」。私はこの言葉が大好きです。イエス様にとってはこの話の中心は働き手ではないのです。中心は収穫です。つまり助ける人がポイントではなく、ポイントは助かる人。悩んでいる人が中心です。この言葉がありますね。純粋な愛が求めるのは、「私が人を助ける」ことよりも「人が助かる」ということです。だから祈りなさい。たとえ私たちは一生懸命に働き手になっても手が回りません。悩んでいる人が多すぎます。ですから祈りなさい。イエス様が求めるのは、あなたは働き手になって深い喜びを感じて、後で救われて立派な人になるということよりも、悩んでいる一人でも多くの人間が癒されること。これはイエス・キリストの生きる目的です。


 悩んでいる一人でも多くの人間が癒される。悩んでいる人が中心です。私たちの純粋さは中心ではない。悩んでいる人を中心にして考えて、時々私たちはこの欠点があると思います。私たちは貧しい人のことを大切にする。それは働き手を褒めているのです。問題は、悩んでる人が多すぎることです。イエス・キリストが悩んでいるので、あなた方も人が助かるように祈りなさい。


2023年6月18日 年間第11主日 主聖堂とアジサイ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 私たちの洗礼の意味はこれです。キリストのように、キリストとともに悩んでいる一人でも多くの人間が癒されるということです。たしかに私たちが洗礼を受けたときにはこの純粋な動機に基づいて洗礼を受けたとは限りません。むしろ、なぜ洗礼を受けたいかというと「なんとなく」という返事もあるし、「心の虚しさを埋めたい」、「心の不安」、「救われたいから」といったことが動機になっていますが、自己中心的な動機ですね。キリストが求めているのは「悩んでいる人を中心にしなさい」ということです。


 しかも私たちは自分の家族にも自分の周りの仕事でも今の日本にはカトリックは少ないです。カトリックであるあなたはカトリックではない人に囲まれている場合がほとんどですね。家庭の中で、あなたは家族にしつこく「洗礼を受けなさい」と言って嫌われるかもしれません。むしろキリストの根本方針を行って、悩んでいる一人でも多くの人間が癒されることに力を入れれば、カトリックでない人との接点になります。洗礼を受けなさいというと嫌われるかもしれません。でも、一緒に悩んでいる人のために何かしましょうということはつながりになると思います。とにかくイエス・キリストのようにイエス・キリストとともにこの生き方を願い求めましょう。


キリストの聖体の祭日

酒井 陽介 神父

6/11(日)10:00- キリストの聖体の祭日


 今日、私たちはキリストの聖体を祝っています。それはキリストとのつながりを思い起こして祈念する日です。この祭日にあたって、2つの点から私は皆さんと分かち合いをしたいと思います。


 1つ目は「食べること」です。ユダヤ教のように「コーシャ」と呼ばれる食物規定がないキリスト教、その中でもとくにカトリック教会は、食べることを大切にしていると私は思います。食べるといってもそれは「孤独のグルメ」ではありません。最近は、「ボッチ」とか言ったりしますが、そういうものではないのですね。もちろん、現実は一人暮らしの人もいれば、場合によってさまざまな事情のために一緒にご飯を食べられない人たちもいます。とはいえ、それは「共に食べる」ということの意義をなくすことではありません。ですから、あえて「食卓を囲む」「共に食べる」ということにフォーカスをあててみたいと思います。


 イエスは弟子たちと、それも自分を裏切ることになる彼らと、彼の人生でいちばん大切な最後の食卓を囲みました。そして、その席上で「どうか、みんなのために命を捧げようとしている私のことを忘れないで思い出してほしい。そして、これからもこのパンを食べ、この杯を飲むごとに、この絆を祈念し続けてほしい」と願いました。


2023年6月11日 キリストの聖体の祭日 説教台の 酒井陽介神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 共に食べること、共に食卓を囲むことは、目に見えなくともかけがえのない絆を育むことであり、「共に分かち合いたい」、「時を共にあなたたちと過ごしたい」という思いの表れにほかなりません。


 私は実家に両親がいます。母はたまに、気が向いたときLineで「夕ご飯食べた?」と聞いてきます。私がLineで返信して「食べたよ」と答えると、「よかった」と言って安心します。私が何かひどい環境で生きているかと思っているのでしょうか。わかりませんが、SJハウスにはご飯があります。母は、自分たち2人の食べた、またこれから食べようとしているご飯を教えてくれるのです。


 そして、たまに私が実家に帰ると、「何が食べたいか」と必ず母は聞きます。私は母の手作りの「あれがいいな」「これがいいな」とお願いします。そして、父と母と食卓を囲んで夕食を食べます。共に食べるとき、その食卓はあえて口にしなくても、家族の、そして親子の絆を祈念している大切な営みになっています。大切な時間になっていると思います。有名レストランで食べなくても家のご飯を食べる食卓で、絆がもう一度思い起こされています。


 そう考えると、教会に来てミサにあずかり、ご聖体をいただくことは、キリストとの絆を深めることになります。それは第一義的には「ちゃんと食べているかな」「元気でいるかな」と私の生活に心を配ってくれるキリストとの絆を強めることにほかなりません。そしてさらには、ご聖体をいただきキリストを私という存在の中に迎え入れる、私の人生の歩みの中に来ていただく、共に歩いていただくということです。


2023年6月11日 キリストの聖体の祭日ミサ ご聖体とぶどう酒をささげる司式司祭 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ですから、先ほど読んだ福音の中でも「あなたが私を食べるなら、私はあなたがたの中にいるよ」というキリストの言葉がありました。しかしそれは、私とキリストという関係だけに限定されはしないと思います。教会に来て食卓を囲む仲間とつながることでもある。ここは、とても大切だなと思います。それが教会だからです。


 「私とキリストの関係が充実すればいい。私の聖体拝領こそが一番大切なのだ」ということになると、それは共に食卓を囲む仲間をあまり意識せず、心を配ったり配慮したりすることがない行為となってしまうかなと思います。それは少々エゴイスティックになってしまうかなという気がしなくもありません。


 私たちは、教会なのです。教会は私たちのことです。ご聖体をいただく私たちは、教会におけるイエスの食卓に共にあずかる仲間たちへの配慮や絆を育めるかというチャレンジを受けていると思います。そして、皆さんはご聖体をいただいたあと、どんな時間を過ごしていますか。司祭が拝領祈願を唱えるまでの短い間かもしれませんが、ご聖体をいただいた後の自分の中の短い祈りですが、私はその日心にある人々を思い出して祈ったり、ミサに参加している人々を思い出して祈っています。
 ご聖体をいただくことは、キリストの心、キリストの配慮である「元気でいるかな」「ちゃんと食べているかな」「元気でいてほしいな」という心を他者と分かち合うことにほかならないと思います。


2023年6月11日 キリストの聖体の祭日ミサ 聖体拝領 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 2つ目のポイントは、食べる行為そのものではなく、もう少し私たちの内的な部分、信仰の言葉を使えば、魂に目を留めたいと思います。第一朗読の「申命記」にあるように、どれだけ自分の飢えと渇きを思い起こせるかという招きです。キリストに出会ったとき、洗礼を受けたとき、またその後の人生の中で体験した、私の魂の飢えと渇きはどんなものだったのだろうかと思い起こすチャンスだと思います。そして、「飢えと渇きをだれと分かち合ってきたのかな」「共にいてくれたのはだれだったかな」「どのように神は私の飢えを満たし渇きを生かしてくれたのだろか」と思い起こすことです。それは、私がかつても今も、そしてこれからもキリストの体によって養われていることを確認するときです。私の魂の飢えと渇きは、キリストによって癒されていくのだということを改めて思うときです。そして、「飢えと渇きを共に癒していく仲間がいるんだ、共に育んでいく仲間がいるんだ」ということを忘れないようにしたいと思います。その仲間もまた、あなたと同じように私と同じように、魂の飢えと渇きを感じている。感じ続ける。だから教会に来る。だから主の食卓にあずかる仲間なのです。


 パウロはこう言っています。「パンは1つだから、わたしたちは大勢でも1つの体です。皆が1つのパンを分けて食べるからです」。ですから、キリストの聖体は、まさに教会をつくり上げる営みそのものです。そのダイナミックな営みに、体験に、私たちは参加している。私たちがご聖体にあずかるとき、主の食卓を囲むとき、教会がつくり上げられている真最中だという感覚は、どうか持ち続けていきたいなと思います。


三位一体の主日

李 聖一 神父

6/4(日)10:00- 三位一体の主日


 今日は、三位一体である神を賛美し、また聖イグナチオ教会の献堂を記念する日ですので、一言皆さんにお話をしたいと思います。

2023年6月4日 三位一体の主日 説教代の 李聖一神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 この教会の門を出て左側にある芝生の庭に、シロツメクサがたくさん生えているのを皆さんご存知だと思いますが、先々週のNHKの朝ドラでシロツメクサが話題になっていました。シロツメクサはクローバーと呼ばれていますが、シロツメクサの名前の由来、そして四つ葉のクローバーがなぜ幸運なのかを説明してくれる場面がありました。


 なぜシロツメクサと呼ぶかというと、元々江戸時代に、オランダから送られたガラスの器をきちんと保管するため、ガラスは割れやすいのでシロツメクサを中に詰めて保管したところからシロツメクサというそうです。ドラマの中では、旅行にいくとき旅行カバンにシロツメクサを詰めて、隙間ができないようにするという説明がありました。 四つ葉のクローバーはなぜ幸運かというと、葉っぱが4つそろうと十字架の形になるので、十字架の印というところから幸運がもたらされるという説明をしており、朝から深い祈りに引き込まれたような気がします。


 三位一体について考えるときも、シロツメクサ、クローバーは象徴として語られます。三位一体というと、父と子と聖霊が神で、神は唯一なのになぜ3つ神があるのかという議論はかつて非常に厳密な教義を確定するときに話題になりましたが、実際の信仰生活の中には、信じるもの一人ひとりに密着した信仰だったということを私たちは知ることができます。シロツメクサ、クローバーは3つの葉ですが、それを「父と子と聖霊」に例えることはキリスト教の国々では一般的なことでした。アイルランドの聖人、聖パトリックは、クローバーを「キリスト教の徳として大事な3つの徳『信仰、希望、愛』を示す」と言いました。キリスト教の国々では広まっていることです。

2023年6月4日 三位一体の主日 中庭のクローバー カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 信仰生活に密着した「三位一体」という教えは、私たちが信仰生活を生きる上での基本だということを心に留めておかなければならないでしょう。「神そのものが3つの構造をしている」と最近よく言われますが、これは神の救い、恵みが人に与えられるとき、必ずキリストを通して聖霊の促しにおいて与えられるという構造を示すと言われるようになりました。私たちのキリスト教信仰は、信仰の実践においても、あるいは祈ることにおいても、そして教義の上でも、必ず神はイエス・キリストを通して聖霊の促しのうちに私たちに与えられるということをしっかりと心に留めておけば、いつも私たちは信仰を生きることができるのだろうと思います。


 今日の聖パウロの言葉にあるように、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、いつもあなたがたと共にあるように」という言葉も、まさにそれを表しているものですし、私たちがミサの最初のあいさつを交わすときも同じ言葉が使われています。私たちの信仰の基本的な構造だということを知っておけば、それほど難しいことではないだろうと思います。私たちが神様に祈るときには、必ず聖霊の促しを通してキリストに至り、キリストを通して神へと至る祈りをしているということでしょう。


 聖イグナチオ教会の名前である聖イグナチオは、三位一体について特別な信心を持っていました。彼の自叙伝を読むと、三位一体について何度も言及しています。三位一体のことを考えるたびに涙があふれたと書かれています。そして、マンレサというところにカルドネル川という小さな川が流れていますが、その川の上流にある教会の近くにいたとき、「三位一体のビジョンを見た」と書いています。どのような形で見たかというと、「鍵盤楽器の3つの鍵盤が1つの和音を成している形で、三位一体のビジョンを見た」と彼は言っています。非常に面白く、なんとなくピンときますね。ピアノの鍵盤もオルガンもギターも3つの音を同時に押さえると、とてもきれいな和音になって奏でるということを私たちは知っています。

2023年6月4日 三位一体の主日 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イグナチオはビジョンを見て「三位一体というのはそういうことだと気づいた」と言っています。私たちがこの三位一体の主日を、そして三位一体の神を賛美するときに、「イグナチオのそのような体験を通して、私たち自身が日常生活の中で味わうことのできるものだ」と言ってもいいだろうと思います。聖堂を出られましたら、芝生のところに行って、シロツメクサをじっと見て1つ手に取って、「父と子と聖霊」とか 「信仰、希望、愛」とか「あなたと私とこの人」と祈ればいいと思います。多分1つずつ持って帰ってもそれほど被害にならないと思います。


 最後に1つ付け加えますが、私は幼稚園のときに四つ葉のクローバーを探そうとしてもなかなか見つけられなかったことを思い出します。四つ葉のクローバーを見つけるには秘訣があるそうです。クローバーは変異を起こして四つ葉になります。普通は三つ葉ですが、四つ葉のクローバーを探す名人は、足で踏みつけられているあたりのクローバーを探すと見つかるそうです。非常にシンボリックですね。踏みつけられたシロツメクサの周りに四つ葉のクローバーがあるそうです。今日試してみましょう。多くの苦労、苦難、難しさがあるところに幸運を示す四つ葉のクローバーがあるということも、私たちの信仰に示唆を与えてくれる気がいたします。


 日曜日ですので、皆さんと共に「父なる神、主なるイエス、そして聖霊」を通して私たちが神を賛美することができるように、その賛美がこの教会における祈りを通して行われるようにご一緒にお祈りいたしましょう。



ミサの終わりに6月からイエズス会日本管区長に就任した佐久間神父様の歓迎セレモニーがありました。
これからよろしくお願いいたします!

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