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2021年5月 ミサ説教






2021年4月 | 2021年6月


三位一体の主日

マヌエル・シルゴ神父

5/30(日)10:00- 三位一体の主日(手話・字幕付き)


 今日は三位一体の祝日で、わたしたちは集まってわたしたちの神さまのことを考えながら一緒に祈ります。覚えていますけれども、わたしは日本に来る前にはスペインのイエズス会の哲学院で勉強していて、それでいろんなテーマを与えられて試験の前に準備したんですけれども、その1つのテーマは関わりについてでした。あの時はさっぱりわからなかった。関わりって何でしょうか。いろいろ考えて学んだけれども、なかなかピンとこなかった。日本に来てからいろいろな仕事をして、しばらくの間ある夫婦の方々と付き合っていて、その時わたしたちの間でよく使われた言葉の1つはこれなんですよ。関わり。なるほどなと思ったんです。
 今日の祝日は、三位一体の神さまは関わりであるという祝日なんですよ。関わりというのは父と子と聖霊との間の関わりですね。神さまはそういった意味で、もちろん人間の言葉を使いますからまったくそのままに当てはめることはできないかもしれませんが、神さまはわたしたちにとってある意味で家族のようなものですよね。3人は1つの神、そういった意味で神さまの中には父と子の間、また父と子と聖霊の間には関わりがある。わたしたちの神さまは関わりの神さまなんですよ。ヨハネ福音書でイエスはおっしゃった。わたしと父とは1つである。また他のところには、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊。その3人のことはヨハネ福音書で言われています。
 今日は先ほど申し上げたように関わりの祝日、あるいは言い換えれば神さまの家族の祝日。父と子と聖霊の関わり、3人の間にはどういう愛の心が動いているかわたしたちにはわかりませんけれども、そういうことを考え、祈りながらわたしたちの神というのは1人ではない、1つの家族だと。神学者はいろいろな方法でこういうことについて話し合って、あるいはいろいろな論文も書いてています。いろいろなことを考えていろいろな提案をしますけれども、説明するのは難しいですね。説明するよりも今日の祝日の一番大事なことはこれですね。神さまは関わりであり、神さまはわたしたちと関わりたい。人間は神の似姿に倣って造られたものだ、だからこそ人間も関わりである。


 偶然かもしれませんが、わたしは日本に来た時に初めて気がついたんですけれども、日本語では人間と言いますね。人と間。それこそ人間を定義することができるんです。人との間。「人」だけだったら動物についても言える。「人の間」ということは人間だけですね。その人との間、神との間、今日の祝日はそういうことを祝っているような気がします。
 神さまは1人ではない。神さまはご自分の間には愛されて、愛を注ぐ。そしてわたしたちも家族の中に入れてくださったわけですよ。わたしたちは神さまの子どもとして関わりを持つように招かれているわけです。神さまとの関わりだけでなくて、わたしたちの間の関わり。そういうことをわたしたちは人間として呼ばれているわけです。ですからわたしたちの信仰は自分のことだけでなくて、自分を救ってくださればそれでいいということではなくて、わたしたちはキリスト者として人と共に救われる、人と共に生きる。人と共に、これが今日の祝日なんです。1人ではない。家族です。家族の祝日として今日わたしたちは神さまにまず心から感謝して、こういう神さまがわたしたちの神さまである。関わりのある神はわたしたちの神さまである。そしてこの神さまはわたしたちにも関わるように呼んでくださるわけです。それで今日のミサの中で皆さんと一緒に神さまに心からお願いしたいのは、そういう神との関わりをわたしたちの心の中に強く育てられるように。そのためにはわたしたちは神と関わらなければ。祈りですね。いろんな方法はあるんですけれども、関わらなければ神との親しみをわたしたちは味わうことができません。


 もう1つはわたしたちの間の関わり。関係がないということはわたしは日本に来てから何回も何回も聞きましたけれども、本当のことを言いますと、イエスの目で見ますと、関係がないということは言えないと思いますね。わたしたちは人間として他の人間に起こることは何らかの形でわたしたちと関係があるんです。そしてさかのぼってどうしてそれかと言いますと、神さまはわたしたちを1つの家族として造ってくださったんですよ。神さまご自身はそういうものであり、神さまがわたしたちに望んでおられるのはそういう人間の家族、人間の位置。今日のミサの中で神さまに感謝しながら、わたしたちはまず自分たちと神との関わりはそういうふうに家族的なものであるように祈りたいと思います。

 そしてあとは祈りの中にもわたしたちの間に家族的な関わり、親しみのある、温かさのある、助け合う、そういう関わりができるように、そのための力、恵みを願いたいと思います。今の社会の中ではわたしたちは何ができるか。その1つはこれなんですよ。温かさや関わりを社会に持っていくわけです。どうか今日のミサの中でこのことを考えながら、神さまに助けてくださるように、導いてくださるように、発破をかけてくださるように一緒に祈りたいと思います。


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聖霊降臨の主日

グエン・ヴァン・トアン助祭(司式:英隆一朗神父)

5/23(日)10:00- 聖霊降臨の主日(手話・字幕付き)


 こちらにいらっしゃっている皆さん、そしてライブ配信をご覧になっている皆さん、こんにちは。3月の初めに助祭叙階されました、ベトナムから参りましたトアンと申します。今日初めてこちらの教会でみ言葉を分かち合うことになりました。


 コロナウイルス感染拡大のために、教会ではミサはまだ公開されていません。普段だったらこの教会のミサは満席になるはずなのに、今は数えられるほどの人数しか参加者がいません。多くの人がミサに参加したくても参加できません。わたしたちがミサに参加できないということをサタンたちは大いに喜んでいると思います。なぜならミサは全教会にいるキリスト信者一人ひとりの信仰生活の泉だからです。教皇ベネディクト16世は次のように述べています。
 「信仰は復活した主との恵みに満ちた出会いの中で養われ、成長します。そしてこの出会いは秘跡の中で行われます。信仰は典礼によって表現され、典礼は信仰を力づけ強めます。だから祭壇の秘跡は常に教会生活の中心です。聖体によって教会はいつも新たに生まれ変わります。神の民は聖体への信仰が生き生きとしていればいるほどより深く教会生活に参加し、キリストが弟子たちに委ねた使命にしっかり結ばれたものとなります。」

 ですから、わたしたちが神に近づくのを望んでいないサタンたちは、わたしたちを神から引き離すいろいろな方法を探しています。その方法の1つはミサの典礼に与らせないことです。ミサにさえも参加できないという現在の状況は、ある意味ではサタンの勝利だと言えそうです。しかし、聖霊降臨の主日における朗読、典礼を通してわたしたちは今経験しているサタンの支配に止まらされることなく、聖霊の働きによってどんな状況に置かれても神への信頼をもってこの状況をきっと乗り越えることができると信じています。


 聖霊はどのように働いているのでしょうか。福音の朗読ではイエスは聖霊のことを弁護者、そして真理の霊と呼んで、ご自分が話したことをわたしたちに思い起こさせ、まだ理解していないことをすべて教えてくださると教えておられます。聖パウロが「だれも霊によらなければ『イエスを神の子』と呼ぶことはできない」というほどです。教皇フランシスコは聖霊についての説教の中で「聖霊は何か別の教えをもたらすのではなく、イエスの教えが時の流れの中で失われたり弱められたりしないように、その教えを生き生きと息づかせ実現させます。聖霊はイエスの教えをわたしたちの心の中に注ぎ込み、わたしたちはそれを呼吸し、自分の一部、自分の肉体の中の肉にするのを助けます。」と教えています。要するに今日わたしたちが耳にした福音の朗読におけるイエスが約束された聖霊は、第1朗読で実現されました。すなわちこの聖霊がイエスの復活のあと50日目に弟子たちの上に降ったのです。彼らの上に与えてくださった聖霊の働きによって、弟子たちは恐れから勇気へ、不安にとらわれ身を隠しながらイエスについて語ることのできない人々から、「あなた方が殺したイエスこそ神の子である。そして十字架につけられ死んだイエスは復活して、今生きておられる。」という内容を語る人々へと変えられました。聖霊降臨によって新しい時代、聖霊の時代、教会の時代が始まったということであり、これによって地上でイエスがなされたわざが人々に思い起こさせられ、また特に人々を救うための宣教を、教会という皆さんの一人ひとりを通して続けておられます。


 ご存じのように聖霊降臨という出来事において、弟子たちは耳で激しい風が吹いてくるような音としての聖霊を経験し、また目で炎のような舌が分かれ分かれに現れた聖霊を見ました。この2つのしるしを通して、人間の五感で聖霊の働きを経験することができます。言うまでもないんですが、聖霊をわたしたちは直接目で見ることはできません。しかし、木が揺れる様子を見るとそこに風が存在しているのを感じるように、教会の存在や聖書を読むことを通して、ミサという典礼に与ることを通して聖霊の働きを目にし、そして実際の信仰生活を通して聖霊の働きを経験することができます。
 特に今、コロナウイルス感染拡大を防ぐためにミサに参加することができないという状況の中で、聖書を読む必要性を忘れないようにとの聖霊の働きを強く感じ、体験しているのではないでしょうか。聖パウロが言ったように、聖霊の働きがなければミサに参加したい、ご聖体を拝領したいといったような望みはわいてこないでしょう。聖霊が働かなければ教会は今日まで存在しなかったでしょう。言い換えれば、わたしたちが信じなければ聖霊は存在しないというようなものではなく、むしろ聖霊は存在し、聖霊が働くことによって教会があり、それでこそミサという典礼が守られ、そこでイエスが地上で述べた福音が語られ続けています。聖霊に従って生きるなら、聖パウロが教えたように、わたしたちは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という霊の結ぶ実を感じることができます。これらの霊の実をまだ感じていない人々が感じるように祈りたいと思います。


 そして3日前にイグナチオ年を迎えたイエズス会とその協力者の一人ひとりが、キリストを通して、そして聖霊の働きによって、すべてが新しく見え、豊かな1年になりますように祈りたいと思います。


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主の昇天

マヌエル・シルゴ神父

5/16(日)10:00- 主の昇天の祭日(手話・字幕付き)


 今日は主の昇天の祝日です。イエスは天にお帰りになる前に弟子たちと話し合いながら別れを告げるわけです。だからある意味で、今日の福音書の内容はイエスが弟子たちに話された別れの言葉。内容としては何をおっしゃるか。わたしが出かけてから何をしてほしいか、そういうことをイエスはお示しになった。それでいくつかのことを弟子たちにおっしゃるわけです。


 まず自分があなたたちを選んだから、あなたたちがいただいた恵みを、いわゆる福音、その知らせを人々に伝えなさい。イエスはこういう言葉をもって弟子たちを派遣してくださるわけです。福音を宣べ伝える。福音というのは良き知らせ。わたしたち人間はどんなひどい目にあったとしても救われている。神さまはわたしたちと共におられる。神さまはわたしたちの仲間であるとか、平和と喜びを与えてくださる。また、わたしたちは神さまに心から愛されている、こういう福音をイエスは弟子たちにお任せした。そしてわたしたちもイエスの弟子としてその務めを受けたわけです。わたしたちもキリスト者として人々にそういう喜び、平和、愛のメッセージを伝えていかなければならない。わたしたちのメッセージとしてではなくてイエスのメッセージとして、イエスはわたしたちを通して人々にご自分の愛を、ご自分の心をそういうふうに表してくださるわけです。


 イエスは弟子たち11人に、こういうふうにしなさいと。あなたたちから話を聞いて信じてくれる人もいるだろう。信じてくれない人もいます。あなたたちはどんなことがあってもまず人々のために自分を尽くす、人々のために悪と戦う。悪霊を追い出すという福音書の言葉。悪と戦い、悪に勝つというメッセージと言いましょうか、そういう力を与えなさい。具体的にイエスはいくつかのことをおっしゃったわけです。限界を解きなさい、言葉を語るときには人を生かす。人を殺すということではなくて人を生かすために話しなさい。人を大事にして大きくするように自分たちの言葉、自分たちの行いもそのために使いなさいと。わたしはあなたたちを守りますよ、どう転んでも何とかなりますよ。蛇を捕まえても大丈夫だよと。霊的な具体的なことですけれども、イエスは彼らに何よりも安心させたかったんです。信じてくださいと。もう1つは病人をいやす。人の悩み、人の苦しみをやわらかくする。

 これこそイエスの福音の内容です。わたしたちはキリスト者として、弟子たちと同じようにわたしたちもこの福音を伝えていかなければならない。人を生かす、人のために働く。愛と戦い。愛に勝つ。その役割はわたしたちに弟子たちを通して与えてくださったと思います。これこそ福音です。もし、悪との戦い、喜ばしい知らせ、平和の知らせ、愛の知らせを今の教会が伝えていなければ、イエスの希望に応えていないと言うしかない。だけどわたしたちの力だけでこれはとてもとても無理です。だからイエスは彼らには、彼らと共にいる、わたしはあなたたちと共に働くと約束してくださったわけです。わたしたちはキリスト者としてイエスのメッセージを今の社会に伝えようと思ったら、自分たちの力だけではとても無理です。言うんですけれども通じません。誤解されることもあるし、福音書を読めばそういう反応はイエスの時にもあったでしょう。イエスの話を聞いて、これはとんでもない話だと反応した人はたくさんいたわけです。今もそんなことです。わたしたちと共に働いておられるのはイエスです。そのイエスを信じてわたしたちはキリスト者として、イエスの弟子としてイエスのメッセージ、愛の知らせ、その喜び、その平和を人々に伝えていかなければならない。


 これは何か抽象的に聞こえるかもしれませんけれども、今の社会の状況を見ますと、こういうメッセージは今の人たちにはどういうふうに言ったらいいか。マスメディアを見ますとあちこちコロナウイルスのことで悩んでいる人はいるし、死んでいく人もいるし、イエス・キリストの生まれたあの地域では戦争も始まった。いろいろなところには平和のない社会、その社会にわたしたちはキリスト者として、イエスの弟子として派遣されている。何ができるか。喜び、平和、愛のメッセージを自分の身をもって人々に伝えていかなければならないです。これはわたしたちの力だけでとてもできないことですから、イエスを信じて、共にいますよ、共に働きますよ、その言葉を信じてわたしたちはキリスト者としてイエスと共にそのメッセージを人々に伝えるよう努めなければならないでしょう。 今日のミサの中でわたしたちが任された、与えられたこの使命を果たすことができるために心を合わせて祈りましょう。


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復活節第6主日(子どもとともにささげるミサ)

柴田潔神父

5/11(日)10:00- 復活節第6主日(手話・字幕付き)


写真付きのお説教全文はこちら

 子どもと共に捧げるミサのテーマは“お友だちを大切にする”です。どんな“お友だち”を大切にするのか考えました。
イグナチオ教会に来る前、わたしは山口県の周南市で園長先生をしていました。その時のお話をご紹介します。
幼稚園では、“園児”とは呼ばず“お友だち”と呼びます。年長の“お友だち”は、新しく幼稚園に入ってきた年少の“お友だち”のお世話を一生懸命します。年少の時に自分がしてもらったことを「今度は自分たちがする番だ!」と張り切っています。モンテッソーリ教育の縦割りの良さが発揮されます。
幼稚園では、クリスマスの募金を難民のためにお捧げしています。年長さんはクリスマスにイエス様のご誕生、聖劇を演じます。イエス様も難民の子として生まれました。そのイエス様に募金をしようと呼びかけています。


 スライドを用意してきたのでスライドをご覧ください。

【補足】ミサ中に使われた写真付きのお説教全文は柴田神父様のブログでご覧いただけます

 2015年、トルコの海岸でアイラン君が砂浜に打ち上げられました。シリアからギリシャに逃げる途中、ゴムボートに穴が開いてボートは沈んでしまいます。2人の男の子とお母さんは亡くなり、お父さんだけが生き残りました。この写真をきっかけに、難民のお友だちへの募金が始まります。わたしは幼稚園のお友だちに募金がどのように使われるのか、説明しました。みんなの募金が、寝るところ、食べるもの、お風呂にはいれる、言葉が覚えられる、そんなお手伝いになることを説明します。
幼稚園の先生は、絵本を使ったり、ご自身でわかりやすい資料を作ってくれました。


 難民のお友だちの“お水”。きれいなお水じゃないけど、遠くからくみに来て大事に運んで持って帰ります。日本のお友だちの“お水”。蛇口をひねればすぐにきれいなお水が出てきます。
難民のお友だちの“ごはん”。小魚とトウモロコシの粗末なごはんだけど、とてもうれしそうにいただきます。日本のお友だちの“ごはん”。お肉、お魚、野菜、デザートまである日があります。
難民のお友だちの“おうち”。狭いテントで強い風が吹いてきたらどうなるのか心配です。日本のお友だちの“おうち”。強い台風が来てもおうちがみんなのことを守ってくれ、安心です。


 先生がお話をしてくれた後、子どもたちは資料を読み返します。
欲しいものを我慢したり、お手伝いしたことを募金に変えてお祈りをしています。


 りまちゃんのお祈り。(山口天使幼稚園)
「こまっているおともだちが あぶないくにから あぶなくないくにに もどれますように」
戦争だったり、命が危なくなって日本に逃げてきたけど、本当は自分の国に帰りたいはず。その願いが叶えられるようにとお祈りしました。


 みゆうちゃんの運動会でのお祈り。
「せかいじゅうのこまっているおともだちが うんどうかいできる へいわがきますように」
閉幕式でのお祈りでした。大人も心を打たれて聞き入っていました。もちろん、みゆうちゃんが自分で考えたお祈りです。「今日は、楽しい運動会ができた。楽しかった。世界中のお友だちにもこんな楽しい運動会をして欲しい!」 真っ直ぐな心でお祈りしました。


 マリア祭でも、難民のお友だちのためにお祈りしてくれた、さえちゃんの言葉です。
「えんちょうせんせいがつくった きょうりゅうチョコ なんみんのおともだちといっしょに たべられたらいいね」


 イエズス会の第3修練、オーストラリアでわたしは恐竜が好きになりました。それをチョコレートにします。板チョコを刻んで溶かして型に入れて、アーモンドを入れて冷やしてはずします。イグナチオ教会のパントリーでも作りました。板チョコ60枚で100個の恐竜チョコを作ります。トリケラトプス、ティラノザウルス、プテラノドンがいるね。この恐竜チョコを先週の木曜日、難民支援協会さんに届けました。コロナがあって、難民のお友だちと一緒に食べることはできなかったけど、きっと喜んで食べてくれてるはずです。


 もしさえちゃんの言葉、「なんみんのおともだちといっしょに たべられたらいいね」。この言葉がなかったら、恐竜チョコは、日本のお友だちのためだけでした。でも、今は、難民のお友だちも恐竜チョコを食べられます。楽しいことを分かち合う、広い心、柔らかい心を幼稚園のお友だちからもらいました。教会学校のお友だち、リーダーたちとも一緒に恐竜チョコを作って難民のお友だちを応援できたら、と思っています。


 子どもたちの心になると、大人では難しいなと思っていることがやさしく感じられてきます。国際紛争の解決は、国と国が仲良くなって“お友だち”になること。隣人愛の実践は、困っている人の“お友だち”になること。子どもも、大人も困っている人の“お友だち”になる。そんなすてきな神さまの国をつくっていきましょう。


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復活節第5主日

ハビエル・ガラルダ神父

5/2(日)10:00- 復活節第5主日(手話・一部字幕付き)


 キリストにつながって実を結ぶということについて考えましょう。実を結ぶということは何だと思いますか。わかったようなわからなかったような表現ですね。イエスさまがよく使う表現ですけれども、イマイチわかりにくいです。何だと思いますか。考えてみてください。実を結ぶこと。これはテレビのゲームではないんですね。ですから当たったらドッパーとやってみんなワーワーと、そういうことではないんです。でもちょっと考えてみてください。実を結ぶということは何でしょうか。ヒントとして、イエスさまが中心的に繰り返す表現です。ちょっとだけ思い出しますけれども、たとえば種を蒔く人が種蒔きに出かけて、ある種は道端に落ちて実を結ばなかった。ほかの種は石だらけのところに落ちて根がなくて実を結ばなかった。ほかの種は茨の多いところに入って実を結ばなかった。ほかの種は良い土地に入って実を結ぶようになった。実を結ぶ、何でしょうか。 もう1つの例ですけれども、イエスさまが自分自身について話す言葉ですが、一粒の麦が地に落ちて死ねば実を結ぶようになる、ということはイエスさまにとってはすごく大切な表現です。大切なことです。

 では根本的なことですので、聖書の根本とキリストの死の根本を探ってみればわかるようになると思います。聖書の根本は何ですか。イエス・キリストの言葉から言えば、そしてみんなの言葉から言えば、根本は「聞きなさいイスラエル、心を尽くして神を愛しなさい。そして隣人を愛しなさい。」愛するということは根本ですね。そしてキリストの教えは1つです。愛し合いなさい、これがわたしの掟である。ということはイエス・キリストにとって根本なことは愛するということです。ですから実を結ぶということは、愛することに決まってるでしょう。ところがもっと厳密に考えてみれば、愛することよりも愛の結果は実だと思います。このことがありますね。純粋な愛が求めるのは、わたしが人を助けることよりも、人が助かることです。わたしが助けるということは自己中心、主語は「わたし」ですね。助かることを求めるんだったら、助かるは他人中心です。ですから実を結ぶということは愛の行いが感じさせる喜び、純粋な喜び、心が望む喜び、心を満たす喜び。純粋な愛の行いが感じさせる純粋な喜びは実ですね。その喜びは実です。


 少しだけ思い出しましょう。先ほど言い忘れたことがあります。今、言います。先ほど言ったのは愛することは実を結ぶことですね。マタイ25章を思い出しましょう。最後の審判。わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、家がなかった時に宿を貸し、寒かった時に服を着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからである。これですね。これは実を結ぶ。ところが先ほど言ったように、愛することよりも愛の結果は実です。たとえば、また思い出しましょう。ルカの7章に書いてあることですけれども、ヨハネ預言者は逮捕されてた、牢屋に閉じ込められていたんです。そして疑い始めたんですね。このイエスは本当のメシアであるかどうか。どうかなと思って弟子たちを送って聞いてみてください、本当にあなたがメシアですか、それとも他の人を待たなければならないんですか。弟子たちはそれを聞いたんですね。イエスさまの答えはこうです。見てごらんなさい。あなた方が見てること聞いてることをヨハネに答えて、それがわたしの身分証明書です。わたしのメシアとしての身分証明書です。何を見ているかというと、目の見えない人が見えるようになる。ここですよ。わたしが目の見えない人を目が見えるようにするではなくて、わたしがするのではなくて、目の見えない人が見えるようになる。他人中心ですね。足の不自由な人が歩けるようになる。重い皮膚病を患ってる人は清くなる。耳の聞こえない人が聞こえるようになる。貧しい人々に福音が宣べ伝えられている。全部わたしが助けるよりも人が助かることが本当の愛ですね。ですから実を結ぶということは愛の行いが感じさせる深い喜びです。わたしたちはすでにたくさんの実を結んでいますよ。たとえば普通のお母さんは家族のためにおいしいご飯を作ったりする、それはみんなの喜びを思って、それも実を結ぶことです。あるいはまた犬を散歩に連れていくということも犬の喜びでしょう。それも実を結ぶ。植木に水をあげるということも植木の喜びでしょう。それも実を結ぶことになる。


 ところが、後半に入りましょう。キリストにつながって実を結ぶんです。ということは何でしょうか。枝と木はつながっています。つまりわたしたちは洗礼によってご聖体の拝領と秘跡によってキリストに特別につながっています。けれどもここに書いてある通り、つながっている枝の中にはつながっていながら実を結ばない枝もあります。これは問題ですね。わたしたちはつながっていますよ、イエス・キリストに。でも実を結ばないかもしれません。どうやってつながって、どういう意味でつながっていれば実を結ぶことができるかというと、まずキリストの掟を、つまり愛し合いなさいという掟を心に受け入れ行いで実現する。それからつながっているためにはキリストと共に生きることが大事ですね。キリストとよく話し合っていい友達になること。仲良くなること。キリストを最高の友達にする。これは本当につながることになります。そしてキリストのいのちに生かされる。それはそうですね。枝が木につながっていれば木の液体によって生かされるんじゃないんですか。わたしたちもキリストによって、キリストのいのちによって生かされる。


 最後にわたしたちがキリストに従って生きるということよりも、聖パウロが言うように、わたしが生きるのではなく、キリストがわたしに生きる、これですね。キリストがわたしに生きる。なぜわたしはこの人にしてあげたんですか。それはキリストがそうしたかったからです。わたしがキリストに従うということよりも、キリストがリーダーシップをとってわたしを連れていく。キリストが生きる。これがキリストにつながっていることです。ですからキリストにつながって感謝しながら実を結ぶことができるように願い求めましょう。



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聖ヨセフの記念ミサ

英 隆一朗 神父

5/1(土)12:00- 聖ヨセフの記念ミサ(一部字幕付き)


 ヨセフのミサをするにあたり、本当は少しでも信者の皆さんと一緒にこのミサをささげられたらいいと思ったんですが、緊急事態宣言の中でちょっと厳しい状況になってしまったので、非公開ミサということで役員の人や関係者の方ごく少しだけのですね、聖堂ではそういう形でミサをささげることになりました。多くの方はYouTubeを通して参加されていることだろうと思います。ヨセフのことを考えるとこのような形の中でミサを行うということも、何かどこかふさわしいような気もします。


 ヨセフはご存じの通り、今朗読した婚約の時の混乱もありますが、結局イエスさまを生む時、あるいは生まれた後のエジプトへの避難というかですね、様々な苦難の中にヨセフはおられたわけで、苦難の中にあるわたしたちが苦難を乗り越えながら歩まれたヨセフのミサをこうやって祝うことは非常にふさわしいような気持ちもします。

 今朗読したところは婚約当時の、自分と関係なしにマリアが妊娠したという非常にスキャンダラスというか、ヨセフにとっても衝撃的なトラブルから始まるわけですね。その中でヨセフは「正しい人であった」とあるんですが、本当のところ神のみ旨を探し求めるような、そういう誠実なタイプだったと思います。自分でよくよく考えて、やはりですね、マリアが妊娠している以上自分と結婚するのはよくないと、ここはひそかに別れるのがいいというふうに、彼なりに一番よかろうと思う答えを自分なりに出したんですけど、神の考えはそれをさらに超えていて、天使が夢で現れて、この子こそ特別な存在なのでマリアを迎え入れるようにという、思いもよらない導きというか道をヨセフに示し、ヨセフはそれを選んでいったわけですね。


 このヨセフと神の働きの関係というのは何かわたしたちに大きなヒントを与えてくれているような気がします。わたしたちも様々な困難や、今は特にコロナのことに直面しなければならない時、もちろん人間的に考えてわたしたちはどうするべきかということを考えて、これがいいんじゃないかというふうに、そういうことも必要ですが、それをさらに超えて神さまの働きがあって、そこにわたしたちがどう心を開いていけるかどうかということがわたしたち一人ひとりにも問われているような気がします。

 眠っている間に夢の中で知らされるということですが、夢の中とも言えるし、ヨセフの潜在意識の深いところに神が働きかけてると言えるでしょう。それはヨセフが深い深い祈りの人で、神との交わりを深めて、あるいは神のみ旨を真摯に求めていたからこそ、このように神さまが特別な方法で道を示してくださったということだと思うんですね。
 誕生のところでも、身重のマリアを旅に連れて行かざるを得なくなって、ベツレヘム、しかも馬小屋でお産をしなければならない、そういうトラブルもあって、しかも生まれて良かったねと思ったらすぐエジプトに逃げなさいという。ヨセフが神さまに本当に心を開いていたからこそ、すぐにエジプトに逃げることもできたわけだし、そしてエジプトから戻るときもやはり同じように神さまから示されて戻っている。 さまざまな困難やトラブルがあるけれども、でも肝心なところで神さまはちゃんと導いておられて、その導きをヨセフがしっかり聞いてそれに従うことができているという、本当に困難なことにあるわたしたちが参考にすべき姿じゃないかというふうに思います。


 ヨセフさまは労働者の保護者でもあるし、教会の保護者でもあるし、家庭の守護者でもあるわけですけれども、職場においても家庭においても、あるいは教会においてもやっぱり思わぬ困難がわたしたちに突然降りかかってくることは、いつもじゃないけど時々かしばしば、今コロナの中でしょっちゅう襲ってくるわけですよね。その中でこそ、このヨセフの態度、困難がきた時に冷静に考えながらどうしようかということを考えるとともに、神の導きが何なのかということを願っていくならば、主がちゃんと示してくださってわたしたちは困難を避けたり乗り越えたり、困難を超えた神さまの導きに従っていけるんじゃないかと思いますね。このヨセフの態度にわたしたちは心からわたしたちの模範として倣っていきたいという気がします。


 わたしの知り合いの男性のひとりが仕事か何かで行き詰って、どうすればいいかわからなくなってしまった。そしてヨセフさまみたいに夢を見てですね、山登りをしている。山登りで崖っぷちをトレッキングみたいな感じで。でも夢の中で崖の途中で上にも登れないし下にも降りられない。上にも下にも行けなくて山の壁というか岩肌に張り付いてどうしていいかわからなくなって、神さま助けてくださいと言ったらですね、ふと横を見たら登山者の姿をした男の人がいて、こっちにどうぞと言ったら横に山道があって、そこを歩いて行けたと。男の人は多分ヨセフさまだろうというんですけれども、夢がきっかけで仕事で全く行き詰っていたのがある方向性が見えて、つまり想像もしていなかったある解決方法が現れて、それで危機を乗り切ることができたと言ってました。その人の霊名がヨセフだったかどうか聞き損ねましたが。
 わたしたちももちろん最初から奇跡的なことを願うというよりは、当然わたしたちは力を尽くして、考えにおいても行動においても。でもそれを超えた神の導きを主が示してくださる。そしてヨセフがそのような守りと導きを与えてくださるという、その信頼のもとにいきたいと思います。


 今、緊急事態宣言でいつ明けるのか、これが明けてもどうなるのか、この2021年もどうなるのかですね。皆さんのお仕事もそうでしょうけど、教会の行事にしても1か月先にどうすればいいかすらちゃんと決められない。ちょっとすごく流動的な日々ですけど。だからこそ、こういう時だからこそ誠実なヨセフにとりなしの祈りを願いながら、先までなかなか見通しができないけれども、今あるものを受け止めながら歩んでいく道を一歩一歩示していただきながら歩んでいけるように、わたしたちの職場においても、教会においても家庭においても、皆さん一人ひとりの人生においてもそのような歩みを、このコロナの困難の中で続けられるように、ヨセフのとりなしを願いながら心を合わせて祈りをささげたいと思います。



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