トップページ おしらせ ライブ配信2021年6月の説教

2021年6月 ミサ説教


2021年5月


年間第11主日

ハビエル・ガラルダ 神父

6/13(日)10:00- 年間第11主日(字幕付き)


 今日の福音を気楽にご一緒に考えてみましょう。
 たとえ話でイエスさまは話します。けれども、自分の弟子たちには家に帰ってひそかに説明していました。わたしたちが弟子ですね、キリストの弟子。そのことをしていただきましょう。聖書の言葉はピンとくる言葉が多いけれども、わからない時もあります。今のようなことがよくわからない時もありますので、直接イエスさまに頼んで説明してくださるように願いましょう。弟子たちはそうしてましたね。弟子たちは頼んでいました。今のたとえ話のことがわからないので教えてください。そして興味があったので、イエスさまの教えをちゃんと聴いていました。わたしたちはちょっと違うかもしれません。ここはわからないけど、どうせわからないことが多いのでいいよ、説明がなくても、という姿勢であるかもしれません。それはまずいですね。弟子たちのように興味があって、たとえばそのたとえ話は、その意味をあなたは子どもとか孫とか、あるいは友達に説明してみるつもりで読んでみてください。わからないでしょうね。その時にはイエスさまに頼んでください。教えてください、ひそかに。そのために黙想をしたり、イエス・キリストと仲良く話し合いをすることが大事です。


 もう1点ですけれども、からし種のたとえ話のことです。きれいですね、からし種。実は今日の第1の朗読のエゼキエルの預言もほとんど同じことですね。からし種は小さい種ですけれども、伸びると葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張ると書いてあります。空の鳥は何でしょうか。空の鳥は悩んでいる人だと思います。困っている人だと思います。寂しがっている人です。あなたはそのからし種の木です。あなたの枝の葉の陰に自分の巣を作りたい、あるいは一休みしたい。そのためにあなたはなるべく大きな枝を張るように向上心でもって求めなさい。空の鳥があなたに来るためです。伸びる大きな枝を張る目的は、自分の自己満足ではないんですね。評判ではないんです。すごくきれいになったね、そんなことを言われるためではないんです。あるいは人気比べで、わたしに鳥がたくさん来る、あの隣の木にはあまり来ない、ほら見ろという子どもっぽいことが目的ではない。目的は空の鳥が中心である。空の鳥が、悩んでる人がよろしければあなたに来て一休みできるように、しばらく一緒にいるように、あるいは巣を作って長くそばにいるためです。そのために伸びるのです。そのために生長するのです。からし種。そのために枝が大きくなるだけではなくて、頼りになる枝でなければならない。そして居心地の良い木でなければ鳥が来ない。居心地の良い、つまりあなたが親切な人だったら。相田みつをの昔書いた言葉で、大体このような言葉だったけれども
 「あなたはただそこにいるだけでその場所の空気は明るくなる。あなたはただそこにいるだけでみんなの心が安らぐ。そんなあなたにわたしもなりたい。」
 この「あなた」という人はからし種ですね。大きくなったからし種で、みんなやっぱり気楽に一緒にいたい。生まれつきにその才能のある人もいますね。ほかの人は生まれつきにその才能はないけれども、生き方として親切であれば自然にそうなります。


 この福音にもう1つのたとえ話がありますね。1人で成長する種は、種の力と命の力、土の力で自然にひとりでに生長するということです。たとえば人間は、子どもは自然に、ひとりでに成長するんですね、体は。努力しなくても背が伸びることになっています。ところがその子どもが数学を学びたければ、自然に知識が入るのではなくて勉強も必要ですね。ピアノで上手になりたければやっぱり勉強と練習が必要です。ですからその種の力、土の力、命の力に協力しなければならない。周りを掘ってみて肥やしをやってあげる。これでもって協力して伸びるのです。ですから皆さん今まで何回も人のためにいい種になってきたでしょう。いい言葉を教えたでょう。いいアドバイスをしたでしょう。いい見本を見せたでしょう。その人があなたを見て、ああ、いいですね、そんな人になりたいということをたくさんしてきましたね。種を蒔きました。種を蒔いたのです。ただその種が実るかどうかは問題です。だからこの祈りを自信を持ってお勧めます。
 「主よ、わたしが蒔いたあなたの種を実らせてください。」
 「わたしが蒔いたあなたの種を」、わたしが蒔いたので少し威張ってもいいですよ。でも自分の種ではない。神の種です。愛の種です。「わたしが蒔いたあなたの種を実らせてください。」 個人的なことですが、わたしは一昨日ちょうどみ心の祝日の時に誕生日で、90歳になりました。どうもありがとうございます。そこでわたしはこの祈りはよく言いますのでお勧めします。「わたしが蒔いたあなたの種を実らせてください。」
 おめでとうございます。


ガラルダ神父様は6/11(金)イエスのみ心の祭日に90歳(卒寿)を迎えられました。

ガラルダ神父様おめでとうございます!これからもお元気で、よろしくお願いいたします。

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キリストの聖体の祭日

李 聖一 神父

6/6(日)10:00- キリストの聖体の祭日(手話・字幕付き)


 ミサの始めにも申しましたけれども、キリストの聖体のこの日に聖体を拝領できない人がたくさんいらして、そのミサに与れないというその思いがどれほどのものかということを予想することはできるだろうと思います。今ここで直接ミサに与ってそして一緒にこのミサを祝いながら聖体を拝領できることの感謝、そしてまた多くの人々に代わってこの席にいるということも忘れてはならないことだろうと思います。またこのミサは配信されて恐らく5000人以上の方々がご覧になるんだろうと思いますけれども、そのような方々と共にこの日にわたしたちはもう一度聖体に対する信仰というのがいったいどういうものなのか少し考えてみたいと思います。


 アウグスチヌスはこの聖体に関して次のような言葉を残しています。「神は全知全能である。しかし、ご聖体以上に素晴らしいものを考えることもできなかったし、それを造ることもできなかった。」と言っています。恐らくわたしたちの信仰にとってこの聖体というものがどれほど大事なものなのか、それは誰もが知っていることだろうと思います。それゆえにこの聖体を受けられないという今日の現実というものが、やはりわたしたちの信仰生活に大きな影響を及ぼしているということも確かだろうと思います。

 この聖体をいただくということも、実はカトリック教会の長い歴史の中ではさまざまに変わってきたものです。一番最初は最後の晩餐の席で、それこそパンとぶどう酒を「これはわたしの体、わたしの血だ」と言ってイエスがお配りになった、弟子たちはそれをいただいた、そういうところから始まります。そして初代教会においては多くの信者は自分たちの持ち物を持ち寄って、みんなでそれを分けて、パンを裂いて、そのようなイエスの言葉を思い起こして食事をしたというような形がありました。しかしキリスト教がヨーロッパの世界に広まっていくにつれて信者も増え、教会堂というものも建てられ、その中でミサの形も変わり、聖体の拝領の仕方も変わっていったというのは容易に想像することができます。


 ここで、今年は聖イグナチオ年というものが始まっていますので、ロヨラの聖イグナチオの体験を少し皆さんにお話ししようかと思いますが、彼はある意味で1つの信心がありました。それは聖体を頻繁に拝領するということでした。あの当時ミサに与って聖体拝領するということは非常に限られていて、いつもいつも、毎日毎日ミサに与って聖体を拝領するということは非常に不思議なことでした。しかしイグナチオはその聖体に対する信心のゆえに毎日ミサに与って、毎日それを拝領するということをしました。そのことが当時の教会の教えからはずいぶんと離れていたので、彼は異端の嫌疑がかけられてしまうということを経験していました。そしてまたマンレサというところで修行をしている時に、この聖体の中にイエスがおられるということを神秘的な体験として感じ取るという体験もしました。皆さんはこのご聖体が単なるパンでなくて、そのパンのうちにキリストがおられるということを信じていらっしゃるだろうと思います。それはカトリックの信仰です。そして中世ヨーロッパでも本当にそこにキリストがおられるのかということは大問題であって、そのことを証明するためにある意味形而上学的な議論の末に、これは目に見える形ではパンだけれども、その中にキリストがおられるということを証明していきました。ゆえにわたしたちから見ればこのパンのうちにキリストがおられるということはなかなか理解しがたいことですけれども、しかしイグナチオは神秘的な体験を通してそこにキリストがおられるということを確信した人でした。頻繁に聖体をいただき、そのうちにキリストがおられるということを確信し、そうしたことがイグナチオの生活の根本にあったと思われますけれども、そのことは今日わたしたちの時代でも言えることなんだろうと思います。


 聖体のうちにキリストがおられるということは未だにそれを認めないキリスト教の一派もないわけではありません。カトリックのそのような信仰が何だかおかしいと思っている人もいる。そしてカトリックの信者になるための準備をしている人々にとってもなかなかそれは信じがたい。そういう人もおられるでしょう。そんなことは悩まなくてもいい、教会がそう言っているんだから信じなさいと言うこともできますが、しかしわたしたちの信仰生活の積み重ねの中でこのご聖体のうちにキリストがおられるという確信、こうしたものを持つことも大事なんだろうとわたしは思います。


 そして聖体の拝領の仕方というのも確かに変わってきて、かつてわたしが子どもの頃ミサの奉仕ということで侍者をやっていた時には舌で受けるのが当たり前でしたし、侍者は神父さんの隣にずっと付き添って、白いお盆のようなものを持って信者の喉のところに差して持っていくというのが侍者の仕事でした。舌で受けるというのが当たり前になっていた時代から第二バチカン公会議の典礼改革の中で、わたしたちは手で受けるということを教えられるようになりました。そのことに抵抗する人もいないわけではない。なぜかと言うと、このような尊いものをわたしの手で受けるということが果たしていいのかというような、そんな思いもする人がいないわけではないからです。しかし考え方を変えれば、このパンのうちにおられるイエス・キリストご自身がわたしの手のうちに来てくださる、その近さというものを感じる。そしてそのような近さのゆえにわたしたちは聖体によって力づけられるのだというふうな思いを持つ人もいらっしゃいます。どちらがどうというようなことではありませんが、しかし、その聖体の拝領の仕方、受け取り方というのも変わってきたということも事実です。

 そしてもう1つわたしたちがそこで考えたらいいのは、このご聖体を受け取るとか、あるいはご聖体が今のような形になったのは、実はその時その時の社会的状況というものが影響していることも忘れてはいけないことです。特にヨーロッパの中世においては頻繁にペストが流行するということがありました。それは接触によって感染するので、その接触をなるべく少なくしなければならないという状況の中で、教会はミサの在り方を考えなければならないというようなことも実際にありました。それゆえに両形態で聖体を受けるということも避けられるようになったし、聖体を頻繁に受けるというようなこともだんだんとなくなっていったし、そうした社会的な状況も考慮しながらミサの在り方、聖体拝領の仕方も変わってきたということも心に留めなければいけないことです。


 そして今わたしたちがコロナによって緊急事態宣言というものが発令されていく中で、どのようなミサの在り方というものが可能なのか、それも考えなきゃいけないし、典礼というものも工夫していかなければならないことなのでしょう。このコロナは何とか人類がいろんな知恵を出し合っていつか克服されるものだろうと期待はしていますけれども、しかしこうした状況がまたいつか訪れる、また形を変えて現れてくると思うならば、わたしたち自身のミサの在り方、参加の仕方、聖体の拝領の仕方というものも考えていかなければならないことかもしれません。そしてもし聖体拝領というものが極めて難しい状況というものが生まれた時に、わたしたちはどうしたらいいんだろう、そんなことも考えてみるわけですが、わたしたちは聖体信仰というものの一番根本にあることを恐らく実行することができます。それは何かというと、この聖体信仰の一番中心にあることは分かち合うことであり、あるいはイエスご自身がパンとなられたように、自分自身が砕かれたパンとして人々に与えられるというそのイエスご自身の生き方をわたしたちもまた倣うことだというふうに言ってもいいと思います。

 聖体というものを直接わたしたちが拝領できない時に、聖体信仰の一番根本にあること、分かち合うこと、そして自らが砕かれて人に与えられるものになるということ、そのことをわたしたちは思い起こすべきだろうと思います。そしてわたしたちの持っているもの、それは物であるか時間であるか心であるか、わたしが持っているもの、それらを人々と分かち合うことができる。そしてわたしたち自身が砕かれたパンとして人に与えられるというのは、いったい信仰生活の中で何を具体的に意味するのか、それを一人ひとりが考えていくこともできるだろうと思います。このような状況の中でキリストの聖体を祝うわたしたちは、今日そうしたことをもう一度自分自身に問いかけながら、キリストがその内におられるこの聖体を受けることができますようにご一緒にお祈りいたしましょう。


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