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2021年8月 ミサ説教






2021年7月 | 2021年9月


年間第22主日

英 隆一朗 神父

8/29(日)10:00- 年間第22主日(手話、一部字幕付き)


 今日の福音書は、ファリサイ派の人々や律法学者たちとの律法論争のお話の1つです。真面目なユダヤ人たちは食事の前に必ず手を洗う、もっと念入りな人は市場から帰ってきたら全身清めて食事をしていたということですが、それは1つはやはり衛生面のことがあると思います。科学が発達していなかった時代に手を洗ったり身を清めるということは、伝染病の感染を予防する意味があったと思いますね。もう1つは当然宗教的な、もともとは衛生的な意味だったんでしょうけれども、いつからか宗教的な意味に変わったんだと思いますね。今でも正統派のユダヤ人が行くレストランには入口に必ず水道、手洗い場があって、日本のレストランにもありますけど、そこで必ず手を洗ってから食事をすることは今でも固く守られています。

 今のわたしたちにとっては手洗いは新型コロナウイルス感染症の予防対策の基本のひとつですよね。ご聖体を配る前もちゃんと手をきれいにしてますし、ミサが始まる前にも手を洗ってますし、非常に厳密にやるようになっています。でもイエスさまはあんまりそういうことを、相対的に考えていたというか、手を洗うとかということを絶対視せず、それほど重きを置かなかった。それでファリサイ派の人々と喧嘩になったわけですよね。ファリサイ派の人々は今でいうところの自粛警察ですよね。とにかく守ってなかったらダメだダメだと。イエスさまは別にそういうことを軽んじていたというより、もっとも大事なものがあるということを、ちゃんとポイントを突いていたということですね。もっとも大事なものが何かといったら、人を汚すものは外からのばい菌とかウイルスじゃなくて、人間の心の中から出てくるものこそが人を汚しているということですね。これはわたしたちが本当によく黙想しなきゃならないポイントだと思います。


 今も感染者がどんどん増えて病院があふれて、病気になっても入院ができないくらいという危機的な状況になっています。いろんな人の話を聞いて、あるいはニュースを見たりネットを見たりして思うことは、コロナそのものよりもコロナのことから生じてくる人間の思いが問題だとイエスと同じように感じますね。つまり感染症を恐れて家に閉じこもることによる孤独とか、人と会えない苦しみとかですね。あるいは逆に家族としか接することができないことによる家庭内暴力ですよね。子どもに対する虐待はものすごく増えて、いわゆる性的暴力を含めて非常に増えているのは統計上も明らかです。自殺は男性の方が多いですけど、今は女性の仕事を失った人たちの自殺率がものすごく上がっています。コロナそのものよりもコロナに振り回されて生じてくるわたしたちの悪い思いというかマイナスの感情とか、そういうものにわたしたちが振り回されていることの方が問題だと本当に思いますね。コロナ対策はするべきですけど、それ以上にコロナから来るマイナスな、わたしたち人間の中に眠っている弱さとか怒りとか、寂しさとかエゴとかにわたしたちはもっと気を配らなきゃならないでしょう。それはニュースには流れてこないものだと思いますね。わたしたち信仰者は、自分を振り回しているものは何なのかをよく見て、それに振り回されない生き方を歩んでいくということですね。それを今また心にしっかり刻みたいと思います。もう1年半もたってますから、多くの人はもううんざり、いいかげんにしてくれという気持ちだと思うんですけど、今こそわたしたちの心の中の汚れに、あるいは人々の心にある汚れに振り回されない生き方を選んでいくということですね。


 じゃあどうすればいいのか。第2朗読のヤコブの手紙に書いています。心に植え付けられた御言葉を受け入れるということなんですね。残念ながら言葉が省かれてしまっているのですけど、この言葉の前に何があるかというと、
 「あらゆる汚れやあふれ出る悪を捨て」
 つまり心からあふれてくるような悪とか様々な汚れを捨てて、心に植え付けられた御言葉を受け入れ、御言葉を救いのポイントとして生きていくように、ということなんですね。

 もちろんワクチン接種も必要ですから打てる人は打ったらいいと思いますが、わたしたちがもっと打たなきゃならないのは御言葉ですよ。御言葉を自分の心に植え付ける、それを入れて御言葉を生きていくことによって、わたしたちは今の混乱したモヤモヤ感とか、何かごちゃごちゃしたものから救われていく道が示されるということですね。今、御言葉に自分の生き方を、それに則って生きていくようにしましょう。特にご聖体を直接にいただけない、霊的聖体拝領しかできないんですから、御言葉をこそ自分の心に入れて、御言葉を自分の生き方の柱、羅針盤というか中心にして歩んでいくことができるなら、今の混乱に振り回されない、打ち勝っていく生き方ができるんじゃないかと思いますね。


 本当に苦しい時は聖書を開いて、直接聖書を読むのが1番ですよね。今、どういう言葉を皆さんが受け入れるのが1番いいのか人によって違います。たとえば希望という御言葉、それを心に入れて、その希望に基づいて生きていく。「御言葉を行う人になれ」と言うんですね。御言葉を受け入れて、その御言葉を生きていくことで汚れに振り回されない。希望という言葉を心に入れて、希望に適う生き方を一歩一歩、歩んでいく。愛という言葉が響く人もいるかもしれない。毎日毎日を愛に基づく行い、小さな親切を生きていくことによってわたしたちの汚れが落ちていくっていうんですかね。汚れから、囚われから解放されている生き方が絶対生まれてくると思いますね。ただ単に感染者が増えるとか減るとかいう外のことじゃなくて、自分が今、御言葉に基づいた生き方を一歩一歩、歩んでいく。人によっては赦しとか平和とか、安らぎという言葉が大事かもしれない。じゃあ安らぎに基づいた生き方を日々生活で生きていくならば、やはり振り回されないでしょう。それを願いたいと思います。


 そしてこのヤコブの手紙で、一番最初のところですけどね、これはものすごく重要だと思うんです。
 「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのだ」
 と書いてあるんですね。恵みは神さまから与えられるものだと。人間が作るものじゃないということですね。わたしたちは御言葉を受け入れるならば、それを実現してくださる力は神から来るわけですよね。自分の力でやらなくていいということですから、その神の恵みを願いましょう。

 たとえばわたし自身は時々文章を書いて本を出したり、こうやって説教とかしてますけど、実感として思うのは自分がしゃべっているんじゃないというか、自分のことを書いてるんじゃなくて、神から与えられたものをしゃべって、神から与えられたものを書いているんですよね。それは芸術をやっている人たちと話すと本当にわかりあいます。カメラであろうと音楽であろうと絵を描いている人であろうと、とにかく芸術をやっている人はみんなそうなんです。上から与えられた恵みでやっていて、自分の力でやっている人は誰もいないんですね。クリエイティブな、創造的なことをする人っていうのは、実際のところ上から与えられたものを表しているだけなんです。だからわたしは時々文章を書いたりしますけど、上から与えられたものを書いているだけなので、実は悩むことがゼロなんですよ。勝手に書けるというか、最初から文章の構成とか考えたことは一度もなくて、上から与えられたものをただ書くだけなんですよね。実はものすごく簡単な仕事なんです。でも本当のところを言ったらすべてそうなんですよ。全部上から与えられて、それをわたしたちはただやればいい。日頃の生活の中のすべてはそうなんですよ。


 何が邪魔してるかって言ったら、自分の自我とか囚われとか、自分の心の汚れが邪魔しているだけなんです。神の恵みを受けて、それをわたしたちが実現すればそれで十分なんですよ。イエスの生き方とかマリアさまの生き方の秘訣はただそこだけなんですね。父なる神から来るものを受けて、それをただ生きたり語ったり表現してるだけだということなんです。わたしたちみながそういう生き方に招かれていると思いますね。現実的には外面的な難しさもあるし、心の中の囚われもある。それを認めた上で神の恵みを生きていきましょう。そして生きる力は必ずくださいますね。勇気と力と平安な心、希望ですね。主が必ずくださいますから、それに則ってこの1週間また歩んでいけるように神さまに、物理的に離れていても心を合わせて祈りをささげたいと思います。


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年間第21主日

ハビエル・ガラルダ 神父

8/22(日)10:00- 年間第21主日(手話、一部字幕付き)


 皆さま、また隠れキリシタンになりましたね。ここは誰もいません。皆さんが新型コロナウイルスの迫害を受けて、また隠れキリシタンになりました。では隠れキリシタンと同じように信仰を保って、信仰をより深めましょう。どこにいてもどんな時にも、キリストのようにキリスト共に生きてより深い信仰を求めて、一日も早くもう一度ここに来て、この主聖堂をいっぱいにしてください。


 さて、今日の第1朗読と福音朗読について少し考えたいと思います。

 第1の朗読でヨシュアは、あなた方は神から離れてどこかへ行きたいですか、ほかの神々の方へ行きたいですか、と聞いたんですね。そして福音朗読ではイエスさまも似たようなことをおっしゃいますね。多くの人たちが離れたので、12人に向かって「あなた方もどこかへ行きたいんですか」と聞きました。つまり神さま、イエス・キリストは、人々が自分から離れると悲しくなる。だから嫉妬深い神さまと言われています。嫉妬深い神さま 、旧約聖書に何回も出てくる言葉です。


 では神さまは人が離れる時に、どういう意味で悲しくなるでしょうか。つまり、嫉妬という意味は何でしょうか。言葉の由来から考えましょう。ここに白板がないので頭の中に白板を入れておいてください。

 嫉妬という言葉はギリシャ語、またラテン語でゼルスという。zelus、カタカナでゼルスというんですね。それは嫉妬という意味です。ところがゼルスには2つの言葉があります。1つはジェラシー。これはわたしたちにピンとくる言葉ですね。つまりやきもち、独占欲、所有欲、ライバルの意識、妬みという意味で嫉妬深い人ですね。

 もう1つの言葉が出てきます。それはzeal、カタカナではジールという言葉です。これは何かといいますと、イエス・キリストの例を1つ思い出しましょう。ヨハネ2章に出てくる場面、イエスさまは神殿を清めますね。怒って「わたしの御父の家は祈りの家であるはずなのに、あなた方は商売の場にしているじゃないか。出ていけ!」とすごい勢いで清めたんですね。それを眺めた弟子たちは聖書の言葉を思い出した。なるほどこの言葉がありましたね。「神の家を思う熱意がわたしを食い尽くす」。「神の家を思う熱意」、この「思う熱意」はジールです。つまり思いやり、守る情熱、不幸がこの人に来ないように、この人の幸せを求める、このことがジール。これも嫉妬です。相手の幸せを求める。不幸が来ないように。1つのイメージで言うと、お母さんが自分の赤ちゃんを両腕で抱えていると想像しましょう。その場面、そのイメージはジールのイメージです。この子を守る。どんなことがあっても不幸が来ないように身でもって、命でもって守る。このお母さんの感情はジールです。愛です。


 1つの例を考えましょう。ある家族の高校生の男の子が暴走族のところに行って家出をします。お父さんは引き止めようとしますけれども、どうしても行ってしまう。そこでそのお父さんの気持ちを想像しましょう。2つの理由で悲しいです。
 1つはジェラシー、自分の子どもが暴走族を選んで家族を選ばなかった。プライドが傷ついたんです。そして子どもがいないので悲しい。自己中心的な理由でジェラシー、嫉妬を感じて悩みます。
 ところがもう1つの悩みがあります。もっともっと深い悩みがあります。それがジール。つまりこの子どもが家に残ったならば幸せになったはずなのに、あそこに行って利用されて後で切り捨てられて不幸になる、かわいそう。子どもの不幸が一番深い悩みの元になります。それはジール。

 では神さまがどういう意味でわたしたちに対して嫉妬を感じるのでしょうか。もちろんジールの意味ですね。ですからわたしたちは神から離れて他の物事を神さまにして、お金とか肩書とかいろんなことをすべてにすると神さまは悲しくなります。なぜ悲しくなるかというと、自分が寂しいからではなく、自己満足で悲しくなるのではなくて、愛の上で悲しくなります。あなたはここに、わたしのそばにいてくれれば幸せになったはずなのに、わたしから離れて不幸になる。かわいそう。わたしの子どもはかわいそう。その理由で悲しみます。その意味で嫉妬深い神さまです。


 結局、嫉妬深いというのは憐れみ深いという意味です。憐れみ深いというのは嫉妬深いということです。ではわたしたちはどうしましょうか。イエス・キリストの言葉を思い出しましょう。「憐れみ深い方であるあなた方の御父のように、憐れみ深い人になりなさい。」言い換えれば、嫉妬深い方であるあなた方の御父のように嫉妬深い人になりなさい。憐れみ深い人になりなさい。人の幸せを求めなさい。自分のジェラシー、自分の自己中心的な満足などをなるべく後に回して本当に人の幸せを求める。不幸が人に来ないように純粋に愛するという嫉妬を願い求めましょう。


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聖母の被昇天の祭日

ヘネロソ・フローレス神父

8/15(日)10:00- 聖母の被昇天の祭日(手話、一部字幕付き)


 教会は全世界で、今日の祝日をものすごくお祝いします。被昇天。イエスの場合は復活ですね。復活と昇天。マリアの場合は聖書に何も書いてないけれども、イエスの場合は殺されて、死んで葬られて復活させられた。聖書はマリアのことは何も言わないんです。死んだということよりも、眠ったということですね。だから集会祈願で言うように「からだも魂も、ともに天の栄光に上げられた」ということです。被昇天、これです。マリアさまはそのまま天に上げられて、宇宙万物の女王とされたということです。マリアさまはその面で女王だけではなくて、全人類の母親、霊的な母親です。イエスの母、そしてイエスに従うイエスを信じる人々の霊的な母、全人類の母親。だから今日、教会は母親の栄光をものすごく喜ぶ。わたしたちも心の中で信仰に基づいて、お母さん、母親の喜び、幸せ、栄光を喜びましょう。


 マリアさまはみ言葉を引き受けた。ガブリエルが来て、マリアは「わたしは主のはしため、そのままになりますように」と受けた。その時、三位一体の父と子と聖霊の、神のみ言葉と言われる「子」は、肉となった。マリアの体内で肉となった。マリアは信じて、引き受けて、そして救い主の母親になって、われわれの母親になって、それだけではなくて模範になりました。何の模範ですか?マリアは愛に満ちた方ですね。その愛は具体的に何の愛でしたか?み言葉を受けて、マリアのリアクションはこれです。マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。エリザベトおばちゃんは妊娠6ヶ月目ですよ。すごいですよ。マリアのリアクションは助ける。奉仕する、仕える。これです。わたしたちの模範です。マリアの信仰、愛の具体的な行いは仕えることです。おばちゃんは6ヶ月目で大変ですよね。だからそこで奉仕する。わたしたちも霊的な母親の息子、娘ですから、わたしたちも母のように人に仕える、奉仕する。愛の具体的なわざはこれです。仕える、奉仕する。


 マリアは「マリアの賛歌」で予言をします。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」2000年の間、全世界のキリスト信者にとってマリアは幸いな者です。わたしたちはアヴェ・マリアの祈りでエリサベトの言葉を使います。「あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。」見てください、全世界でマリアの姿はたくさんの教会、建物などにあります。マリアは確かに「今から後、いつの世の人もわたしを幸せな者と言うでしょう。」
 だから今日は皆さん、信仰、愛に基づいてお母さんの栄光、被昇天の喜びを味わいましょう。マリアに対してわたしたちは子として、親子の関係を深くしましょう。



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年間第19主日

柴田潔神父

8/8(日)10:00- 年間第19主日(一部字幕付き)


 今日は2つのお話をいたします。1つ目です。先週の日曜日の朝、アロイジオ中井千之さんが天に召されました。3人の息子さんの1人、淳さんはわたしと一緒にイエズス会に入り、司祭叙階され、最終誓願も一緒でした。千之さんは、家族が信者ではないわたしを気遣って「柴田さん、どう?元気?」と顔を合わせるといつも優しい声をかけてくれました。皆さんも同じように優しく励まされた体験がおありでしょう。お亡くなりになられる9日前に、兄の智さんから連絡が入りました。「父が思わしくなくて、今日か明日なんです。」淳神父さんが山口から戻るのでは間に合わないと、わたしが代わりにご聖体と塗油を授けに伺いました。看護師さんは、高い方の血圧もかなり下がっていて、今日か明日と言われます。でもご聖体が拝領できそうだったので、寝室にお邪魔します。

 「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。」ご聖体をいただきながら「アーメン、ありがとう」と言われます。塗油を授けた時も「アーメン、ありがとう」。秘跡をいただいて血圧も上がり、持ち直されました。1週間、ご家族とかけがえのないお別れの時間ができました。

 「わたしは天から降って来た、命のパンである。」ご聖体には本当に力があります。ご聖体は千之さんを生かして、支えて、思い残すことがないようにしてくれました。文字通り「命のパン」でした。お通夜とご葬儀ではモーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスがオルガンで演奏されました。歌詞にはこうあります。「死を迎える試練の前にどうか、聖体をわたしたちに味合わせてください。」ご聖体、命のパンの意味を千之さんが教えてくれました。


 2つ目は平和のお話です。教会は平和旬間に入りました。このミサではミャンマーの人々に思いを寄せて献金が行われます。3年前にわたしは長崎の純心聖母会のシスター方の黙想会に行ってきました。その時に「純女学徒隊殉難の記録」という本をいただきました。黙想会には、その時96歳であられたシスター糸永ヨシさんも参加されていて、糸永さんは「あと始末」というタイトルで記事を書かれています。「柴田潔神父のお説教」では、より詳しくこちらの本について紹介していますのでご覧ください。
 「あと始末」にはこのようにありました。


 (8月9日の長崎の原爆投下後) 校庭には三菱兵器の死者が朝から晩まで運ばれて、まさしくかばねの山となる。堪え難い臭気と情景とを前にして昼食をいただき、午後の仕事に出かけて帰る頃には、その死体の山に火がつけてある。私どもは幾晩か、この火葬の火を明りに夕食をとり、お祈りをした。

 ある日(8月15か16日)、ローザ様が時津から帰って来て、声を潜めてささやかれた。「終戦ですって。敗戦だそうよ。」「嘘、嘘」「ほんと。いろいろ世話をしていた兵隊さんたちも引き上げてしまったもの。」と。

 今は亡き池田先生も愛宕山から包みを背負って来校され、重大放送のことを話してくださった。他にも幾人かの方々が同じことを言っていかれた。まごころ以外に何も持たず、この新型兵器に対してどんなに力んでみても、何ができようはずもなかった。しかし9日のあの時以来、サイレンが鳴ればどんなところにいても素早く隠れて、命を惜しんで来たのは、ただただ死んだ生徒たちに代わって・・・と思ってだけ、してきたことだった。だからこそ、その時「終戦だ。敗戦だ」と聞いても、おいそれとは納得がゆくはずもなかったのだ。でもいつの間にか警報が鳴らなくなり、私どもの気持ちも狭いものから広い平和への渇望と変わり、生徒一人ひとりへの愛情と変わっていった。

 あと片付けも少しずつはかどっていくらか落ち着いてきたある日、山野校長先生はお考えになって、校長辞職願をお書きになった。おっしゃるままに長谷先生と仮事務所にいられる学務課長にお届けした。辞職願を手にしたまま、一部始終をお聞きとりになった課長様は「帰って校長先生に申し上げてください。純心はもう一度復興するでしょう。校長先生のお怪我もきっとお治りになります。勇気をお出しください」とおっしゃって辞職願をそのままお返しになった。


 戦争で、原爆で200名の生徒さん職員を失いました。自責の念にかられながらご遺体を探し、ご家族に引き渡し、見つからなかったご家族にお詫びに行きました。そして、学校を閉じようとされた時に、学務課長さんに励まされました。

 戦時中、また原爆投下の後、どれほどの苦しみがあったか?調べてわかることがたくさんあります。平和は当たり前ではありません。今の平和を築くために、どれだけの苦しみと努力があったか。平和旬間に、戦争で起きた出来事を振り返って、平和に感謝しましょう。そしてわたしたちが平和の道具になりましょう。


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年間第18主日(聖イグナチオの祝日 記念ミサ)

ハビエル・ガラルダ神父

8/1(日)10:00- 年間第18主日(手話、一部字幕付き)


 おめでとうございます。でも、ただイグナチオを祝うだけではなくて、イグナチオから1つのことを学びましょう。落ち着いて立ち直る余裕を学びましょう。わたしたちにも問題がありますね、いろいろと。人間関係、家庭、健康、仕事、金銭的な問題いろいろあります。その問題で沈みますね。ぺちゃんこになります。もうやる気がなくなります。そうではなくて、その時こそ落ち着いて立ち直る余裕をイグナチオから学びましょう。


 こういうことがありました。イグナチオはちょっと歳を取ってイエズス会を設立して総長になって言いました。「もしも教皇さまがイエズス会を廃止する、回心しなさいと仰ったならわたしはぺちゃんこになります。本当に沈みます。けれどもお御堂に入って15分間神と祈っていれば落ち着いて立ち直るでしょう」と言いました。素晴らしいですね。これを学びましょう。すごく難しい。やはり修行が違いますね。でもこれを見て、15分間神と祈って落ち着いて立ち直る余裕がわいてきます。自分にはできないんですけれども、いいなと思うんですね。これでいいんですよ。

 たとえばピアノが上手になりたい人はポリーニとかホロヴィッツなどの演奏を聴くと、とてもじゃない、わたしはついていけないけれども、素晴らしいと思う。これは本当のピアノ、その音楽性で心がいっぱいになって、それに少しずつ近づく。今は無理ですけれども、その意味で聴きましょう。問題があって、ぺちゃんこになって、落ち着いて立ち直るように。


 その余裕、その力は聖イグナチオにとってどこから生まれたのでしょうか。これがポイントですね。2つのことです。

 1つは神の愛、もう1つは生きる根本的な目的。この2つさえあれば立ち直ることができます。では神の愛ということですが、イグナチオは神と愛し合って、神と仲が良かったんですね。本当に親しかったんです。ところがその愛は神とわたしだけで、あとはどうでもいいということではないんですね、決して。むしろ神さまを通してすべてを愛する。そして逆にすべてを通して神を愛する。イグナチオ・デ・ロヨラが歳を取った時に庭を歩いていたら、小さな花を見て杖で軽くたたきながら「わかってるよ、わかってるよ、お前は神のことを教えているんですね。ありがとう。」と言った。すべてを通して神を愛する。神を通してすべてを愛する。この愛ですね。そのために祈りと黙想とインスタントコミュニケーションがわたしたちには必要ですね。神さまとの祈り、それで馴染んでその愛を感じる。そしてイグナチオの有名な祈りに出てきますね。「神さまにすべてをささげ、み旨に委ねます」これですね。自分と自分のすべてを神にささげて、全部神に委ねます。そこから生まれる余裕ですね。これだけで満たされます。イエズス会がつぶれても大丈夫です。1つの力の元は愛ですね、神の愛。

 もう1つは愛から生まれる、生きる根本的な目的。ただ神と愛し合うということだけではなくて、何のために生きるのか。イグナチオはこれがはっきりしていましたね。彼の言葉で言えば「神のより良い栄光のために」。このモットーは彼の生き方ですし、イエズス会のモットーになりますね。「神のより良い栄光のために」。ちなみに皆さんどこかでご覧になったでしょう。“AMDG”、よくイエズス会のところに出ていますね。それは日本語で言うと「神のより良い栄光のために」という意味ですね。ラテン語で“Ad Majorem Dei Gloriam”。 “Ad”というのは「のため」、“Majorem”「より良い」、“Dei”「神の」、“Gloriam”は「栄光」。「神のより良い栄光のために」、これはイグナチオのモットーで、根本的な生きる目的です。神の栄光とは何でしょうか。神が認められること、神が褒められること、それはそれですけれども、それよりも神さまが望んでいるのはこれです。み心が行われる、これは神の栄光です。み心は何かというと明らかです。互いに愛し合いなさい。これは神の栄光。それを慕い求めて生きる。悩んでいる人で1人でも多くの人間が癒される、助かるということを求めて生きる。これは神の愛から生まれる根本目的。この2つは願い求めましょう。神との愛、そして生きる根本的な目的。


 神のより良い栄光のために。そうすればわたしたちも落ち着いて立ち直ることができます。この恵みを願い求めましょう。おめでとうございます。


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