トップページ おしらせ ライブ配信2021年9月の説教

2021年9月 ミサ説教




2021年8月


年間第26主日

酒井 陽介 神父

9/26(日)10:00- 年間第26主日(手話、一部字幕付き)


 今日の第1朗読と福音書に共通している背景にある、その点から皆さんに分かち合っていきましょう。それは当時、預言者やキリストの弟子を名乗る人々が、案外多かったということだと思います。考えてみますと、これは非常に現代的なテーマにもなると思います。すなわち、わたしたちの住むこの世界には、いろいろな霊(Spiritus)の風が吹くということです。それも霊の吹き方にも多々あり、人が、どうこう文句をつけるものではない、ということです。聖書は、あくまでも一神教のコンテクストの中で起きている出来事を紹介していますが、モーセにせよ、イエスにせよ、そうした自由に霊が吹き、息吹かれた人々が預言や奇跡を行うことにまったく動揺しないさまが描かれています。

 モーセは「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になれば良いと切望しているのだ」と言いますし、イエスに至っては、「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしたちの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と。神の思いを伝えることや神の慈しみのわざを行うことは、モーセやイエスのグループの専売特許ではないと言ってもいいでしょう。これは、とても大事な点だと思います。なぜならば、真実は、ここにのみある!とか、神の教会は、ここだけである!という排他的な態度には、もう福音の香りはしないからです。

 モーセの弟子たちも、イエスの弟子たちも、師匠である彼らの力を信じ、今までにないその新しさに目覚め、従った人たちです。良いことのために命懸けです。だから善意も、熱意も人並み以上に持ち合わせています。ただ、それが少々強すぎたのか、知らず知らずのうちにモーセだけを見てしまう。イエスだけを持ち上げてしまう。モーセを選び、遣わしている主の存在や神の力を、ふとしたことで見落としてしまう。イエスを遣わしている御父の愛を取りこぼしてしまう。

 例えばそれは、砂漠における帰還の旅路にあって、モーセがしばらく見えなくなると不安になって、神にかわって金の子牛の像を作ってみたり、イエスをこの世における王のように待望したりと、単に政治的・宗教的煽動者としてみる当時の指導者や祭司たちとあまり変わらないような態度、すなわち、偶像主義的になって、排他的になってしまう、その出来事の真ん中にあるべき、信じるべき存在である神の愛をどこかに置いてきてしまうのです。

 だからイエスは、何度も福音の中で「わたしを遣わした方」とか、「わたしを知る者は、父を知る」とか、わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は」とか、わたしたちに神の愛、御父の存在を事あるごとに思い起こさせてくれます。これがとても大切な点だと思うんです。なぜなら、神が霊を自由に息吹かせるのですから。その点の認識が抜け落ちてしまうと、頑なになり、排他的になり、心が鈍くなるのです。そして極度に目に見える存在に依存してしまう。

 さて、わたしたちはどうでしょうか。イエスに従う者とか、キリスト者であるわたしたち、クリスチャンであるということは、決して仲良しグループに登録することでもないし、気の合う仲間のサークル活動でもありません。それが悪いと言ってるんじゃないんです。そのものとして必要な場がありますから。ただ、それがイコール教会、神の民ではないということ。このことはとても大切な点だと思います。


 さらに、わたしたちは特別な、優れた、選ばれた存在である、ということではないんです。そんな存在でもなければ、他と一線を画す高度に霊的なセンスのある人間ということでもないでしょう。そんなことは言われずともわかっていると思います。ただ、気をつけなければいけないんです。どんなに教会の種々の活動に熱心に参加していても、もしそこにキリストがいなければ、キリストを遣わした御父の愛に感謝しなければ、自己満足や排他的な態度は、思いのほかわたしたちの近くにあるのかもしれません。それは、司祭・修道者であっても同じことです。福音によるならば、それは、他者を躓かせる行為になると。

 そして今日の福音にあるように、一杯の水を飲ませると言った具体的な行為に神の祝福があるとは、いったいどういうことでしょうか。きっとそれは、何か大それたことではない。小さなことでも、垣根を越え、壁を取り除き、神の霊が自由に行き来するための門戸を広げることになるということです。そうした日常の中の具体的な関わり、わたしなりのユニークな関わりや手の差し出し方こそ、福音に真っ向から反対する排他主義を乗り越える秘訣だと思います。

 神の霊の息吹く場所は、キリストの教会の占有物ではないです。そもそも人間が、この世の組織が、制限などできません。わたしたちから見て、一番吹きそうもないと思われる場所にも、神の霊は吹いています。もしかすると、安穏としているわたしたちをよそ目に、神の霊が優しく、でも激しく息吹いている場所がたくさんあるのかもしれません。内向きの、安全圏の、心地のよい場所ではない、新しい場所。新しい関わり。新しい扉。日常という現実の中にある無数の新しい福音宣教の場に、わたしたちは招かれています。モーセが言うように、主の霊を受けて、わたしたちみんなが預言者になれば良いと思うんです。

 その時、この人は洗礼を受けていないとか、あの人は教会に来ていないとか、あの人は教会に来ていないとか、あの人たちは別の宗教だとか、そんな表面的なことに縛られずに繋がっていくこと、認めることができると思います。人間仲間として繋がっていく。リスペクトしていく。神の霊は、わたしたちのとらわれや頑なさに、まったくお構いなしに、今日もどこかで、いや、案外わたしたちの近くで、激しく、そして優しく息吹いていると思います。少し心を静かにして耳をすませば、吹きかけられる、その風(プネウマ・神の霊)のささやきが聞こえてくると思います。その風は、神のいつくしみのわざへと、わたしたちを駆り立てることでしょう。


  • Share!


年間第25主日

英 隆一朗 神父

9/19(日)10:00- 年間第25主日(手話、一部字幕付き)


 今日のマルコによる福音書のお話は、弟子たちが誰が一番偉いかを議論していて、イエスさまは一番になるのではなく、むしろすべての人の後になって、すべての人に仕えるものになれとおっしゃいます。そして1人の子どもの手を取って真ん中に立たせて、このような子どもを受け入れることが大事だとおっしゃるわけですね。これはたびたび出てくることで、マタイでは子どものようにならなければ天の国に入ることができないと。子どもということをイエスさまは非常に大事にしているのは明らかだと思います。どのように子どものようになればいいのか、大人のわたしたちはなかなかピンとこないところもあります。


 今日は特に高齢者の方々のために、敬老の意味も込めてこのミサをささげています。

 わたしだと、身近な神父さんたちがおじいちゃんになっていく姿を見ることが非常に多いですが、年を取るというのはどう見ても子どものようになることだな、と思いますね。若い頃は一番偉いかはともかく、誰だってできる限り頑張りますよね。学校だったらなるべく100点を取ろうとみんな頑張っているわけだし、会社に入ったらなるべく売り上げをとか、なるべく仕事を一生懸命に、一番と言わなくてもなるべく立派にと頑張って、目に見える成果を上げてと。当然なことですが年を取れば取るほどできなくなってきますよね。若い頃にやれたことが体力的・気力的にもどんどん出来なくなっていく。そういう姿を見ていて、子どものようになるものが神の国に近いということは、年を取っていくということと重ね合わせると、その意味がもっとくっきりはっきりわかるんじゃないかという気がするんですよね。わたしももう60を越えているのでそろそろ高齢者になる準備を始めなければならないと思っているんですけど、高齢者として生き生きとする生き方は何かといったら、子どものようになる。子どものような心に返っていくっていうか、それは神さまの元にというんですかね。わたしたちの今までとは違うあり方、若い頃の人生と違う生き方、あり方、神さまとの交わり方が広がってくる。それをわたしたちが大事にできたら素晴らしいと思うんですよね。わたしたちは生まれて子どもとして育って大人になる。年を取って最後は子どものようになって、そして神の国に帰っていく、というのがわたしたちの人生の、そして信仰生活のサイクルじゃないかなと思います。わたしたちがいかに子どもに返れるか、子どものように生きることができるか。それを心がけていけたらいいんじゃないかと思うんですね。


 本当は10月の長寿の集いで話そうと思って用意していた話があるんです。今年は長寿の集いは中止ですが、その話をまとめて簡単にしたいと思います。

 今、年を取ってどう生き生きと過ごすかという本もいっぱい出ていて、そういう本を読んで考えさせられるところがあります。結局のところ3つが大事だとある本に書いてありました。それをさらにわたしなりにアレンジして、言うならば、年を取っても生き生きとしていく3つの秘訣ですね。

 1つは信頼の心を持って生きるということです。自分の力でできなくなるんだから周りの人、そして神さまをより信頼して生きる方にシフトしていくということですね。小さな子どもは誰を信頼しているか。お父さんとお母さんですよ。自分であんまりできないから、お父さんとお母さんに全面的に頼っている、信頼している姿ですよね。あのような気持ちで神さまに対する信頼の心を新たにして、不平とか不満とか怒りを置かなきゃならない。いろいろ不都合がありますけど、神さまに対して信頼をして、安らかな誠実な心で毎日を過ごしていく。これが本当に一番大切なことだと思います。

そして2番目は、自然の中で体を動かす。年を取ってしょぼくれないためにも2番目に大事なことは、自然の中でなるべく体を動かすことですね。自然の中で体を動かす環境があるといい、ということなんですね。今、皆さん教会に来れないですけど、中庭の芝生は、1年半くらい教会学校をまともに開いていないので、芝生が生き生きとしているんですよね。芝生のエリアは子どもしか入れない。だから毎年今頃芝生がボロボロで、剥げてるところだらけで傷めつけられている。今は1年半使ってないから青々として、ものすごくきれいで素晴らしいんです。それはそれでいいのか悪いのか、心が痛むところなんですけど。子どもたちが来たら、芝生に入ったとたん嬉しそうに走り回るんですよ。小さな子どもが芝生の上をキャッキャと言って、ぐるぐる走り回ったり転げたり、喜んでる。ああいうのを見てると自然の中で体を動かすのが人間の基本的な生き方と思います。だから今スマホでゲームに熱中してる子どもとかを見たらやっぱり不健康だと思うんですよね。そんなにスマホとかばっかりやってて、この子大丈夫かなと思ったりします。逆に芝生で遊んでる子どもを見たら、本当にそれが人間の生き方だなと思うんですよね。老人になっても一緒です。ずーっとテレビを見てじっとしてるだけでは不健康ですよ。今日みたいに暖かい日は、近くの公園とかちょっと散歩したり、激しい運動でなくてもいいから自然に触れながら体を動かすことは人間の健康のために良いのは間違いない。それは何歳でもです。


 そして3番目に大事なこと。簡単に言って友達と遊ぶ、友達と一緒にいることが大事。芝生の子どもたちの姿を見ると、教会学校で何人か子どもがいたらみんな一緒に遊んでるんですよ。走るのでも何人かでぐるぐる走ったり、何人かでじゃれて、一緒に友達と遊ぶんですよね。友達とつながる、関わるということが大事で、これは年とっても同じだと言われてますね。反対は何と言ったら孤独ですね。誰とも喋らない、独りだけ閉じこもったりするのは、小さな子どもにとっても大人にとっても老人にとっても健康に悪いことですね。早く年を取ってしまうということは統計上明らかなんです。小さな子どもにしても大人にしても老人にしても、友達と一緒に遊んだり、食事したり、友達と一緒にいろいろする。いかに友達の中で過ごすかということですね。難しい言葉で言うと社会的関わりを持って生きていくことが、年を取った上でものすごく大事だということが明らかですね。

 そういう子どもが自然にしていること全部が人生の中で一番大事だっていうことなんです。特に年を取れば取るほど、子どもが普通にやることを老人になってできる人が幸せな老後を過ごせるということなんですね。子どものようになりなさい、あるいは子どものようなものを受け入れてということはだんだん年を取っていく中で大事だし、子どものような心で生きていくことをわたしたちも本当に大事にしていきましょう。


 本にも書いてありましたが、なるべく長く仕事をした方がいい。体を動かしたり頭を使ったり。やることがないのが一番よくない。遊びでも仕事でも何かをずっとやり続ける人の方が長生きなのは明らかだっていうんですね。そういうことも含めて、今コロナで友達と会えなかったり厳しい状況にありますけれども、負けないで、わたしたちが本当に子どもの心で神さまを信頼しながら歩んでいけるように、お互いに助け合いながら自然との交わり、体を動かす機会を持ちながら本当に信頼の心をもって歩めるように、このミサで共に祈りをささげたいと思います。


  • Share!


年間第24主日(子どもとともにささげるミサ)

英 隆一朗 神父

9/12(日)10:00- 年間第24主日(手話、字幕付き)


 今日のイエスさまのお話は非常に不思議なお話だと思います。イエスさまが弟子たちに「自分は何者なのか、わたしは誰なのか」と聞くんですけど、それは非常に不思議な問いかけだと思いますね。弟子たちとイエスさまはずっと一緒にいるんですけど、一緒にいるイエスさまが突然「自分は誰ですか」と聞くのですよね。時々テレビで「わたしは誰でしょう」というのをやってることがありますけど、だいたいカーテンの向こう側にいて顔が見えないんですよね。ヒントが出て誰々さんといって、最後にカーテンが開いて、俳優の何々ですとか歌手の何々ですと言って出てくる。そういう時は「わたしは誰でしょう」と聞くと思うんですけど、イエスさまはずっと一緒にいたのに、急に「わたしは誰でしょう」と聞くのはちょっと不思議というかおかしい気持ちがしますね。何かよっぽど隠されてるというか、隠れていることがあるかもしれない。


 僕が子どもの時ですけど、アメリカのテレビ番組で「奥さまは魔女」というのがあったんですよね。皆さんから見たら、お母さんが実は人間じゃなくて魔女だったというお話で、隠れたところで魔女のお母さんがいろいろ魔法を使ってやるという。それだったら「わたしは誰でしょう」と言えば「実は魔法使いでした」と言えますね。皆さんも自分のお母さんが魔法使いだったら嬉しいか怖いかちょっとわからないですけど。子どもの時にあったほかのアニメで「魔法使いサリー」というのがありました。皆さんのような小学生のお友達の中に、実は魔法使いが混じっていて、名前をサリーちゃんといって、人間のふりをしてほかの子どもと一緒に、サリーちゃんが魔法を使っていろいろ解決するという番組があったんです。今ももしかしたらあるかもしれない。

 考えてみたら非常に不思議な、イエスさまがわたしは誰でしょう、ということば。みんなの知らない秘密がイエスさまにあったから、わたしは誰でしょうというわけですよね。皆さんはイエスさまが誰か、ちょっとは知ってるかもしれないけど、実は本当のところよく分かっていないのかもしれないですね。でもそれはイエスさまだけじゃないかもしれない。皆さん一人ひとり、自分は誰でしょう、わたしは誰でしょうというのも非常に不思議な質問かもしれないけど、問うてみてもいいかもしれない。わたしは誰でしょうかという問い。みなさんまだ小さいから、将来どういうものになるか、これまたわからないですよね。


 この前オリンピックがありました。オリンピックで金メダルを取った選手のひとりは柴田神父さんが非常勤講師をやっていた幼稚園の子どもだったんですよ。それがこの前のオリンピックで金メダルを取ったんですね。幼稚園にいる時には、その子どもが金メダル取るとまったく思わないでしょう。でも金メダルを取ったんですよね。またオリンピックの開会式で踊った有名なダンサーのひとりはイエズス会の六甲教会(神戸)で教会学校に来てた子どもだったんです。それがオリンピックの開会式を見ていたら、あ、出てる出てる!ダンサーで出てるんですよね。教会学校に行っている時はまさかオリンピックでダンスを踊るようなダンサーになるとは誰も思っていませんでした。いつか大人になったら、今イグナチオ教会の教会学校に来てる皆さんの中にも将来オリンピックで金メダルを取る選手が生まれてくるかもしれない。あるいはテレビで歌を歌ったりダンスをしたりする人が出てくるかもしれないんですよね。わたしは誰か、今だけを見て決めることはなかなかできないっていうことですね。


 皆さんの何人かは柴田神父さんからカブトムシをもらった人もいるでしょう。カブトムシって幼虫の時は土の中でもごもごしている。それがしばらくしたらあんなに立派なカブトムシになる。あの幼虫を見て捨てちゃったらカブトムシにはならないわけですよね。蝶々も同じで、小さい時は毛虫なんですよ。全然きれいじゃないんです。でもある時になったらきれいなアゲハ蝶になる。昨日も教会の中にアゲハ蝶が飛んでましたけど。

 だから自分が何者であるのか。皆さん今は小さな子どもだけど、何者になるのかわからないん。あるいは実際自分が誰なのか、今からまったく決めることはできない。皆さんも今は小さいけど、大人になったら本当に美しい女性になったり、立派な男性になったり、そして何かすごく大事なことをする大人になるかもしれないですよね。一体本当にわたしたちは自分自身が誰なのかさえわからない。特に小さな子どもはそうでしょう。


 わたしたちにとって何が大事なのかといったら、今日のミサのテーマ「神さまありがとう。わたしもやってみよう」。わたしたちが一つひとつやっていったら、それがそのうち素晴らしいものになるかもしれないとていうことなんですよね。隠れてるものがどこかで表に出てくる。表に出たことしか何者であるかがわからないんです。

 たとえば皆さんが毎日友達に親切にしていたら、「誰々ちゃんと言えば、親切なあの子だね」ということにりますよね。勉強でもスポーツでもいろんなことを頑張っていたら、何々君は頑張ってる子どもだ、と。一つひとつを積み重ねることによってしか、自分が何者であるかは証明できません。もし皆さんが家でお父さんお母さんの言うことも聞かず毎日わがままに暮らしていたら、何々君と言えば、あのわがままな子どもだね、ということになる。自分の毎日の積み重ねで現れてくることでしか、自分が何者であるかということを示すことはできないんですよね。だからわたしたちはいつも小さなことを今日やってみよう、そしてやっていることを少しずつ積み重ねることによって、わたしが誰かということがわかってくる、明らかになっていくということですよね。それを大切にしましょう。

 第2朗読で「行いなさい」と、行いが伴わなければ何の意味もないとヤコブの手紙にはっきり書いてあるんですよ。わたしたちが積み重ねた小さな行いが自分自身だということなんです。わたしが誰かということがそれで明らかになるということなんですよね。だから9月の新学期を「さあ、やってみよう」という気持ちで、小さなことを積み重ねていきましょう。


 最初の問いに戻って、イエスさまが誰なのかということを一番簡単にわかるのは何かと言ったら、実のところたった一つだけで、わたしたち信者が何をしているかによってイエスさまがどういう方かということがわかるんですよね。イエスを信じている人たち、わたしたち信者が人々に親切にしていたら、イエスさまは親切な方なんだなと初めてわかるんですよね。わたしたちが平和を作るために努力していたら、イエスさまは平和を作る方なんだということ初めてみんなにわかるんです。わたしが誰なのかもそうだし、イエスさま、神さまが誰なのかも、わたしたちの行いを積み重ねることでしかわからないんですね。だからこそわたしたちは小さな実践、毎日の小さな積み重ねを大切にしていきましょう。コロナで厳しいですけど、この9月の新学期に当たってわたしたちが大切なことを一つひとつ実践しながら積み重ねていくことによって、本当に神さまがどういう方かをみんなで分かち合うことができれば素晴らしいと思います。本当にやっていくという小さなことを出発できるように、このミサで共に祈りをささげましょう。


  • Share!


年間第23主日

李 聖一 神父

9/5(日)10:00- 年間第23主日(手話、一部字幕付き)


 今日の福音書に基づいていくつかお話をしたいと思います。
 福音書をよく読んでみると、神さまがこの世を創造された、また人間を創造なさった雰囲気を感じる箇所だなと思いました。「天を仰いで深く息をつく」、あるいは「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」という行為は、まさに土で人の形を造り息を吹きかけて、人は生きるものとなったという、人間の創造の場面を思い浮かべさせるような箇所でもあります。「エッファタ」というヘブライ語があえて使われていて、「開け」と言われる。「開け」、それは天が開けて霊がイエスに降り注いだ洗礼の場面、イエスが十字架にかかって地が揺れ動き、天が裂けた場面とも似た表現だと思います。口のきけない人を通して世界がもう一度造られていくような、そんな雰囲気さえ感じる箇所だなと思いました。


 イエスは神の国のメッセージを伝えるにあたって、言葉だけではなく様々なわざを通して神の国が近づいたことを知らせました。足の萎えた人、目の見えない人、口のきけない人、そのような不自由を持つ人々を解放していく。そのようなわざも、神の国の訪れの告知と共に成し遂げられたと言っていいと思います。イエスのわざの特徴、口がきけない、目が見えない、足が不自由、異邦人である、罪人である、社会からはじき出された人々に対して、イエスは必ず癒しのわざをもって社会に戻すことを常になさったと思います。社会の周辺に置かれた人々に対して社会に戻っていきなさいというメッセージもイエスのわざには常に伴うものだったということも忘れてはならないと思います。


 そんなことを考えていると、今日で閉会式を迎えるパラリンピックのことを思い起こしました。ちゃんと競技を見たわけではないですが、ニュースで見たりしながら、障がいというのはたくさんあるのかとか、障がいの度合いに応じてクラス分けされて競技は進められるのか、と感じました。参加する方々が自分の精神、身体に様々な障がいを抱えながらも、精一杯パフォーマンスを繰り広げていく姿に感動します。片方でそんなにまでしてでも成そうという努力、それを成し遂げようとする周りの人々の努力に深く感じ入ってしまう、そういった場面をたくさん見ました。

 ある意味で社会的にマイナスの要素というものを背負ってきた人々は、それでも生きていくことを示していかなければならないし、社会はそうした人々を積極的に社会の中に引き入れていく努力もしていかなければならないと思います。マイナスの要素というのは心身の障がいだけではありません。民族の違い、国籍の違い、性別の違いがマイナスとなるような社会、社会そのものが変わっていかなければ、そういう人々を受け入れることはできないだろうとわたしは思います。パラリンピックの選手たち、そしてそのパフォーマンスを可能にする器具の発達も非常に目を見張るものがあります。ただスポーツ上のパフォーマンスに終わるのではなく、社会の中で共に生きていくことを目指さなければならないと思います。イエスが様々なマイナスを背負っている人々に対して癒しの言葉、自由を与える言葉を語り掛け実現なさったわざは、まさに社会に戻って共に生活していくことを目指しておられたのだろうと思います。


 そして今日のイザヤの預言を読んでいくと、ただ単に人のみならず、神さまがお造りになったこの世界も「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる」。世界の自然にも目を向けて、そしてそれが本来あるべき姿になっていくことを目指しているということも忘れてはならないと思います。

 今日は「被造物を大切にする世界祈願日」です。このことに関して一言だけお話します。聖イグナチオ教会では今年、聖イグナチオの回心500周年を記念して、霊操の講座を行っています。神父さん方が霊操について解説し、また聞いている人は実際に霊操を体験しています。
 霊操の中に「原理と基礎」といわれるものがあります。それは神と被造物と人間との関係を根本的に語っているものです。「人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためである」そして被造物というものは、その目的に達する限りにおいて使用するものであり、わたしたちは被造物に対しては偏らない心を持たなければならない、ということが言われています。神と被造物と人間の関係をこれほど簡潔に、根本的なことを語っているものはないと思います。自然・被造物を、わたしたちが造られた目的、すなわち神を賛美し、敬い、仕えるため、その限りにおいて用いるいうこと、これを現代のわたしたちは忘れてしまっていると言っていいと思います。


 被造物は人間が造られた目的に達する限りにおいて使うべきである、それをラテン語でタントゥム・クアントゥムといいます。必要な限りにおいて、このことを忘れてしまっている。原因のひとつは、人間が造られた目的が失われている、忘れられている、理解できないでいるというところにあるのかもしれません。あるいは人間の造られた目的を置き違えているのかもしれない。そういったところから被造物に対する姿勢も変わってしまう。人間が快適で自由で、便利で、早くて、それこそが人間の幸せであり目的であると捉えて、その限りにおいて被造物はいくらでも人間の自由に、そして力任せに自然を、被造物を支配する。そういう使い方や姿勢を持ってしまっているのが現代社会の1つの姿かもしれません。それゆえに自然環境というものが破壊され、気候変動が起こり、かつて経験したことのない災害をわたしたちは目の当たりにすることが、ここ何年も続いているような気がします。目的を置き違えて被造物に接するととんでもないことが起こるのだということは、今日わたしたちが警告として受けなければならないことかもしれません。人間の造られた目的、その目的に達する限りにおいて被造物を使用する。そのことをわたしたちは「原理と基礎」から教えられるわけです。

 「被造物を大切にする祈願日」にあたり、タントゥム・クアントゥムの原則、必要な限りにおいて被造物を用いる、そして被造物との関わりを持つべきである。そのことを心に留めながら、この祈願日に合わせた祈りを共に捧げることができれば幸いだと思います。


  • Share!


PAGE TOP