2020年 聖週間・ご復活の主日 ミサ説教
4/5(日)9:00- 受難の主日(枝の主日) 李相源神父
4/9(木)18:00- 主の晩餐の夕べ ハビエル・ガラルダ神父
4/10(金)18:00- 主の受難の典礼 ヘネロソ・フローレス神父
4/11(土)18:00- 復活の聖なる徹夜祭 英隆一朗神父
4/12(日)9:00- 復活の主日(日中) 田丸篤神父
受難の主日(枝の主日)
李相源神父
こうして復活祭に向かう聖週間が始まりました。古い古い信者でさえ、今まで目が見たことがない、耳が聞いたこともない、心に浮かんだこともない、そういう四旬節を今、送っています。
イグナチオ教会の皆さん、お元気ですか。我々司祭たち、イエズス会員は皆、おかげさまで元気です。田丸神父さん、ガラルダ神父さん、フローレス神父さんと、今度4月から我々と一緒に働くことができましたシルゴ神父さん、その隣には酒井神父さんも元気です。ボニー神父さんは英語の関係で、今控えています。
まず、久しぶりなので、うちの教会の状況とお知らせから始めたいと思います。
土学、日学、中高生会、青年会、侍者たちもそうなんですが、何よりも初聖体はどうなるんだと心苦しんでいる。
そして中学生会は、3年に一度ある山口・広島巡礼、それができなくなってしまった。リーダーたちはだいたい8月のキャンプが終わったら、9月から、ずっと半年、本当に一生懸命にやっていたんです。それがかなわなくなってしまった。
侍者たちは皆、この四旬節のこの典礼のことを期待していたんですが、特に高3は受験を終えて、よし、最後の最後の侍者の奉仕ができるぞと思っていたけれども、それもかなわなかった。
青年会は皆、賢いから、皆頑張っていると思います。これが我々の教会の宝物たちの動きです。
二つ目はマジスの4月号ができました。これを皆さん、ホームページとかで見てください。表紙に主任神父のメッセージが書いてあります。「すべてのいのちを守るために」、これはパパ様のテーマでもありました。すべてのいのちを。そしてこの真ん中にですね、「ともに祈りましょう」という、ウイルスのことで苦しんでいる人のために一緒に祈りましょうということを、これを、うちの主任神父が書いた祈りなんです。もちろん司教様の認可をもらいました。うちの主任は詩人じゃないけれども、書いたら詩になっていることが結構ある。いいものなので、後で共同祈願の時に一緒に唱えたいと思います。
このテーマが「すべてのいのちを守るために」ということになった理由は、皆さんご存じのように、このコロナウイルスの影響でしょう。それでやむを得なく、教会に来るな来るなということになって、コロナウイルスが「来るなウイルス」になってしまう…悲しいんですけれども。
うちの教会は毎週5000人の信者さんがミサに与ります。7つの言語でミサを行う。日本語、英語、スペイン語、ベトナム語、インドネシア語、ポーランド語、ポルトガル語。その7つの言語の信者だから、その子どもたちもいっぱいいるわけです。今日はその子どもたちのために祈りたいと思うんです。
その場合はですね、子供の将来が幸せであるように願って、そのために自分が生きている間に何か考える。自分のことだけとか、自分が生きている間のことだけじゃなくて、自分はやがて死んでいくわけですけれども、しかし、自分が生きている間に、今、お家にいる子ども、かわいいお子さんやお孫さん、そういう子どもたちが将来幸せになれるように、幸せに生きられるように何とかしたいというのが人間でしょう。
次の世代、私たちの次の次の世代、下手したらこの世は滅び、そして破滅してしまうかもしれない。もう今でさえ、マスクせずに咳をしたら迷惑、命取りになってしまう状況があるじゃないですか。ですから、そういうことを考えて少しは良い社会を作っておきたい。少しは今よりはましな自然を残してあげたい。その願いを思いつつ、教会が出したこのコロナウイルス対策の祈りを唱えたいと思いますが、この「ともに祈りましょう」ということを、ただ単に、祈りの内容を読み上げて祈るということじゃなくて、キリストの信者として、この祈りのベースに聖書の言葉を置く。創世記1章1節、「初めに神は天地を創造された」その言葉をベースに置く。そこから唱える。キリスト教信者なら、当然創世記1章1節としたら、すぐわかる。「あ、それ」という風に。そして我々は創造された。ほら、わたしは生きているじゃない、と思ってしまうかもしれないけれども、ちょっともう少し考えてみてください。
わたしは古典語を神学生の時に勉強した。古典語はラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語。ラテン語とギリシャ語は横文字ですから、英語が苦手なので合わない。ヘブライ語は何だか形が漢字みたい。韓国語に似ているからあれを選んだんです。言葉はヘブライ語、テキストは英語、説明は日本語、理解は韓国語、もうメチャメチャ修習という時代だったんですけれども、頑張って聖書を勉強しました。
その時、「初めに神は天地を創造された」、ヘブライ語で勉強すると「創造」するという言葉がヘブライ語で「バラ ברָא(bara')」。英語のテキストですから説明があります。バラ、創造、”to create”。括弧として、その前に”Exactly” という言葉が入っているんです。”Exactly to create.” 何で?と思った。創造は創造でしょう?なのに「真の」「まことの」創造という言葉があえて入る意味が分からなかった。先生はおっしゃいました。我々は創造された。そして我々はこの世に生きていくのだ、創造されたから。
マジスを見て「すべてのいのちを守るために」となっている。命を守る、守らなかったらどうなる?死んでしまう。違う?そうしますと、我々のこの命は永遠じゃない。いつか必ず死んでいく。そんな命を、神様がなさった、その創造と言えるかということなんです。なるほどと思ったんです。そうするとどうすればいいか。そこで創世記1章1節の「初めに」…「初めに」という言葉。
そうだ、まず初めに我々は何もない、nothing, nothing、そういう存在、死んだものだった。
初めに我々は死んだ者。それをしっかり分かった。
そして次は何が起こるかとしたら、その時初めて創造が起きる。創造の次は救い、救われるということに流れている、ということがわかった。
初めに nothing, nothing という我々が神様の前で、神様のために何かをやりますということはできない、ということが分かった。ひたすら、助けてください、力と恵みをお与えください、それしかできない。
そういう創世記1章1節のメッセージをベースにして、英神父様が書いたこの祈りの言葉を唱えて、単なる言葉だけではなくて、聖書の言葉をもって、そういうことでこの四旬節の聖週間をスタートしたいと思います +
ともに祈りましょう
「憐れみ深い父なる神よ、今、私たちは新型コロナウイルスによる感染症の集団感染危機に直面しています。
どうか主よ、この危機を私たちが乗り越えることができるように、恵みと力を与えてください。私たちが不要な恐れにふりまわされることなく、適切な行動をとることができますように。四旬節にあたり、私たちがまず日頃の生き方をふりかえり、回心することができますように。今回の危機を通して、私たちがあなたのみ心にかなった生き方を見いだしていくことができますように。
感染拡大が止まり、感染している方々に必要な医療と助けが与えられ、治療方法が1日も早く見つかりますように。主イエス・キリストによって」
(東京大司教認可)
主任司祭 英隆一朗 s.j.
主の晩餐の夕べ
ハビエル・ガラルダ神父
皆さん、主の晩餐の主日おめでとうございます。
でも不思議な雰囲気ですね。聖週間の時には、この聖堂はいつも人でいっぱいなのに、今日はガラガラで不思議な雰囲気。みなさんがまるで昔の隠れキリシタンみたいになっていますね。いつかひょっこり現れてきて、わたしたちもみなあなたがたと同じ心です、と言ってまた教会に戻ってくださるかもしれません。その時を楽しみにしています。でも200年後にしないでくださいね。もう少し早めに来てください。
今は皆さんがご聖体の場所から空間的には遠ざかっていますね。でもイエス様はいつも皆さんと一緒におられます。しかも遠ざかっている所にも良い側面があります。それは大切なことが遠ざかりますと、いかに大切だったということがわかります。今皆さんはご聖体訪問できないし、聖体拝領できないので、ご聖体への望みを深めることができます。これはいかに大切だというかが分かりますので良いことです。
その反面、危険性もあります。慣れという危険性です。というのは人間は全てに慣れます。主に悪いことにすぐに慣れます。今、皆さんは教会に来なくてもいいということになっているので、教会に来てもいいという時になっても、行かなくていいかなという危険性がある。そうではなくて、ダゴールという神秘家が言った祈りを繰り返しましょう。「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください。」こういうふうに祈りましょう。
さて主の晩餐ですが、洗足もあります。足を洗う式、今日はないのですけれども、わたしはあまのじゃくですから洗足について考えたいと思います。
一見分かりやすいです。つまり、私は主であり先生であるのに、あなた方の足を洗う。あなた方もそうしなさい。分かりやすいですね。へりくだって、謙虚な気持ちで、お互いに助け合う。分かりやすい。でもやりにくいです。つまり力のある上に立っている人はその力を、自分の力を強めるために、下にいる人を利用して自分の立場を強めるのではなくて、自分が与えられた力を使って、下に残さている人をたてるためにその力を使いなさい、という教えですから、非常に大切な教えだと思います。
ところが分かりやすいけれども、分かりにくいところもあります。なぜイエス様がペトロにその言葉をおっしゃったのでしょうか。すなわち、もしあなたの足を洗わないなら、あなたには私と何の関わりもないことになる。これは強いことです。足を洗うということはそんなに大切なことですか。他の意味もあるはずです。イエス様はこの洗足にもっと深い意味を与えます。
その証明は、みんな今、聖書を持っていないし説明しにくいので省きますけれども、聖書講座の時には分かりやすいと思いますが、結論から言えば、イエス様は水で人の足を洗うということは、自分の血で人の罪を洗うということになる。それを言わんとしています。友達のために死ぬ。私はみんなのために死ぬ。この血であなたがたの罪を清める、という教えの意味です。この表現は日本人にも普通の人間にも合わないですね。血でもって洗う。血でもっと汚すことになる。精神的な血で、聖書に時々出てきます。イエスはその血で罪を洗ってくださった。血で洗ってくださった。そして先ほど朗読された出エジプト記の箇所にも、羊の血によって救われた、ということです。
つまりイエス様が死んでその血で私たちを清めるということになります。問題は「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」これは難しいですね。難しいけれども今の私たちの状態を考えましょう。
全世界のたくさんの人が今、お医者さん、看護師さんも感染者のお世話をしていて、病気になり死ぬ人が少なくありません。実際今、行われています。人を助けるために命を捨てるという人がいます。その方々は決して英雄たちの特別な部隊ということではありません。普通の市民です。私達もしなければならない事をその方々がしています。当たり前のことをしています。人を助けるためならこの人たちは死ぬということが当たり前になっているのに、私たちにはちっとも当たり前になっていません。
ではこの教えを守ることができるのを願いを求めましょう。少なくともこの人のために死ななければならないという状態に置かれないかもしれません。でも日常生活において自分の利益と自分の都合を優先しないで、助け合って、分かち合って、譲り合って生きるということができるために祈りましょう。そのための知恵と勇気と愛を願い求めましょう+
主の受難の典礼
ヘネロソ・フローレス神父
みなさん、今読まれたところは、逆説に聞こえるかもしれません。あるいは皮肉に聞こえるかもしれません。けれどもこのようなところは、愛の物語と呼んでもいいと思います。そこまで神はわたしたちを愛してくれたということでしょう。こんなに苦しめられても、そこまでわたしたちを愛してくださった。この名状しがたい神は、愛そのものであるということを示してくださる。イエス様がわたしたちに教えられた、この名状しがたい神秘の神とは何か。愛であるということ。愛は何ですか。神は愛であり、命である。
しかしこの愛である、命である神は、愛のために人類をつくりました。神は人ではないんです。しかしどれほど人を愛していたか。イエス様は人となってくださった。神には肉がない。でもイエス様は乙女マリアから生まれた人間です。この人間は真の神でありながら、真の人間である。そして人間ですから死ななければならない。神は命です。命であり、死ぬということは本当に分かりにくいことですけれども、神の愛はそうです。分かりにくい。信じるほかないです。説明できない、言葉もない、単語もない。この神は人となったナザレのイエスです。
このナザレのイエスは神ですから神を知っています。そしてわたしたちに神のことを教えてくださった。イエス様の教えのおかげで、我々は知っているのは、名状しがたい神秘である神。父と子と聖霊。神は人間になってくださった。そして人間に色々教えて下さった。それほど父は人類を愛している。
今日のこの愛の物語で、わたしたちは十字架を見る時に何を見ますか。それほどわたしたちを愛してくれたということでしょう。父は御一人子をつかわして、死と復活によって、死ぬことを超える復活を知る。
わたしたちは復活のために存在させられています。これは愛、イエス様は神の子となりました。神の愛ははっきりと現れてきます。
そしてイエス様の死。人間の子として死ななければならない。でも死に方はいろいろあるのに、どうして神はこの一番苦しい、一番悔しい死に方、犯罪人に囲まれて、十字架で死刑にされた。そこまで神はわたしたちを愛してくださる。この御一人子をつかわして、御一人子のおかげで、わたしたちは神の子、イエス様の兄弟姉妹になっています。
イエス様は最後の晩餐でおっしゃいました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これはわたしたちの掟です。」
イエス様の死と復活のおかげで、わたしたち人類は家族になります。キリストを信じる人は神の子供。そしてそれは皆さん洗礼式であらわれます。注がれる水の形で、神の聖霊、神の愛、神の血は、心に入り込んで、その人を変える、神の子になり、復活に向かって歩む神の子供。これでしょう。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
わたしたちはこれです。聖霊、神の霊、イエスの霊を頂いたから、わたしたちも実際に限りなく愛する原動力を頂いています。
愛するということは曖昧な言葉でしょう。具体的に言えば、愛することは何か。相手のために自分を尽くす。これを当てはめるとすれば、神はご自分を尽くした。人間になって、死んで、復活されて、聖霊を与えられた。わたしたちはキリスト者として掟は一つしかないんです。互いに愛すること。そして限りなく愛する原動力を持っているということを、悟る恵みを願いましょう。どういうふうにわたしたちは愛することが出来るか分かりませんけれども信じます。聖霊、神の愛、神の命をいただいていますから。
パウロははっきりと美しくこう言うんです。ローマ人への手紙5章5節、覚えておいてください。ここを心の中にめぐらして味わってください。
「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
神の愛を溢れ出るほど注がれました。これをより深く信じる。その勇気を持ってわたしたちの命は、わたしたちの生涯は変わります。愛に生きるということ。
気をつけなければならないのは、愛は好き嫌いと関係ない。好き嫌いは感情で、感情は一時的なことでしょう。愛は一時的なことではありません。感情をわたしたちは決めることができません。でも愛は自分で決める、愛するか愛さないか。相手のために自分を尽くす。でも何を尽くすか。自分の命、自分の時間、自分の知識、自分のお金、自分の全てを尽くす。これが愛。これができます。わたしたちはその原動力を頂いたからです。
ですから今、コロナウィルスで人々が苦しんでいるから、わたしたちはできることをやる。苦しんでいる人たちを、苦しんでいる人たちを世話する人たちを心に留める、これが愛です。これしかできないかもしれません。愛に生きる。
主よ、愛することを教えてください。
主よ、愛することを教えてください。
アーメン+
復活の聖なる徹夜祭
英隆一朗神父
みなさん、イエス様の御復活おめでとうございます。今年のイエス様の復活を迎えるというのは、非常に特殊な形になりました。今日もここに、聖堂には司祭とほんの少しのスタッフが集まっています。幸いなことに、みなさんが折っていただいた鶴が、ざっと数えて1,200ぐらい集まりました。皆さんの分身というか、皆さんの代わりに祭壇の周りを1,200ちょっとぐらいの鶴が、文字通りの千羽鶴よりも多いぐらいが集まっています。そして中継を通して今、ミサに参加されている方々が多いと思います。そういう中でイエス様の復活を迎えるということは何か意義深い。いつもと違いますけれども、さらに意義深いものがあるのではないかと思います。
イエス様が復活された時に、またマタイの福音書だけに書いてありますが「大きな地震が起こった」そしてイエス様の墓にあった石が転げ落ちるような形で、いわば天変地異というか、何か特別な動きとともに、イエス様が復活したと、マタイの福音書には書いてあります。コロナウィルスのことを考えると、心に響くように思います。そして地震が起こって、皆大騒ぎする中で天使が現れてくるんです。すると「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と書いてあります。地震と特別なことがあって、イエス様を殺されて、自分たちは勝利したと思っていたユダヤ人側の人が、逆に「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と書いてあります。わたしたちの今の大きな災害というかコロナウィルスですよね。一万分の一ミリだったか、目に見えない小さなものが、全人類に襲いかかっているわけです。
この2か月ぐらいのことを思うと、自分のこともそうですし、周りの人を見ていて思うことは、コロナウィルスも恐ろしいですけれども、コロナウィルスに付随して沸き起こってきている不安とか恐れとか、それにわたしたちがもっと巻き込まれているのではないかと思います。一応、政府はこうしなさい、ああしなさいと、その指針通りにすればいいのですが、そこにどうなるのかとか、家に閉じこもっていてとか、仕事のことだとか、子供の教育がとか、おじいちゃん、おばあちゃんのこととか、ウィルスそのものよりも、ウィルスに伴った恐れの蔓延というか、恐れの悪霊というか、そういうものが割とわたしたちを包んで、非常に過敏になって攻撃的になったり、ものすごく落ち込んだり、そういうことの方がもっと問題ではないかと思います。
天使とイエス様がなんとおっしゃっているか。「恐れることはない」天使も復活されたイエス様の第一声は「恐れることはない」ということです。これは復活の第一のメッセージです。「恐れることはない」ということです。それをわたしたちの心に刻みましょう。もちろん注意しなければならない、もちろん気を付けなければならないことは多々あります。けれども一番大事なイエスさまのメッセージは間違いなく「恐れることはない」皆さん一人一人に今日、語りかけておられる。そのイエス様の言葉を聞くということです。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」という。でもわたしたちはイエス様が「恐れることはない」とおっしゃるその言葉を聞いて、わたしたちは心を平静にして、平安な本来の自分を取り戻して、そしてわたしたちは復活したイエス様と共に、いつも歩んでいるということを思い起こさなければなければならないと思います。そしてイエス様が女性の弟子たちに言ったことは何かというと、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」女性たちはその後すぐ復活したイエス様に出会えるのですけれども、男の弟子はむしろその後ガリラヤに行って、復活したイエス様に出会えるということです。
わたしたちが恐れや不安にとらわれる時に、わたしたちの信仰の原点というか、わたしたちの生きる原点というか、このガリラヤに行くということも大切にしたらいいと思います。エルサレムでは弟子たちは十字架とかイエス様の逮捕から始まって、恐れと不安の中で、完全にある意味破綻したわけですけれども、だからむしろガリラヤ時代のイエス様の話しを聞いて、イエス様の姿を見て、そこで慰めと力と励ましを得た。そこをもう一度思い出して、そこが復活したイエス様と再会できるところだと、それをわたしたちの心に刻みたいと思います。
この四旬節は個人的にも色々あって、わたしの母親がいよいよダメで、天に召されて、その葬儀等々、亡くなっていくところから、そういう出来事もあって、母親の死とコロナウィルスがダブルパンチで、何が何だか分からない所にいたわけです。母親が本当に弱って、最後はわたしが息子だということも全く分からない、話もできないし、認知症があって進んでいて、本当にかわいそうな感じで亡くなって、最後の日々の痛みみたいなものも、自分の心の中で非常にショックとして感じていました。
この四旬節中に母親ためにロザリオを唱えていました。そしたらロザリオの祈りを唱えている時に、神様の恵みだと思いますけれども、突然元気だった若い頃の母親の顔が突然浮かんで、そして若々しい母親の声まで聞こえる感じで、ものすごくニコニコ笑っていて、何か励ましの声をかけられたような形で、突然そういうお恵みを神様から頂いて、ものすごく慰めと力づけを頂いた体験がありました。それが何か僕自身のガリラヤの体験というか、あるいは復活の恵みというか、ものすごく強く感じて、それは本当にお恵みだったと思います。
何かわたしたち一人一人に変えるべきポイントがあります。本当に弱ってしまって、話しもできない母親のイメージしかなかったものが、もっとわたしと母親と信頼関係があった時の、母親の姿と母親の声をはっきりと思い出すことによって、僕もやっと母親の死を受け止めて、出発できるような気持ちになるような気がしました。やはり皆さん一人一人にも変えるべきガリラヤと、復活したイエス様の恵みを、もう一度確かめる場が、皆さん一人一人にもあるのではないかと思います。それを思い起こしたいと思います。それは一人一人違うことでしょう。今日、中継で見ている方々の多くは信仰を持っていることでしょうから、神の恵みを感じた時に、あるいは人と人との絆を本当に深めた時に、それを思い起こしてみましょう。そこにこそわたしたちが、もう一度正気に戻って、立ち直って、出発していける、そのポイントがあると思います。それを思い起こすことによって、わたしたちは不要な恐れから解放されると思います。イエス様のメッセージははっきりしています。「恐れることはない」ですから。もちろん、復活したイエス様に出会った人たちも状況は変わらない。ユダヤ人の圧迫とか迫害とか、状況そのものの厳しさは全く変わらなかったけれども、でも復活したイエス様に出会うことによって、恵みと力を得て、慰めと勇気を持って、その困難な状況に向かっていくことができたわけです。それ思い起こしましょう。
コロナウィルスの危機的状態がどれくらい続くのか。1ヶ月で終わるのか。3ヶ月、半年、1年、2年なのか。それすら分かりません。でも復活したイエス様はわたしたち一人一人におっしゃってくださっている。「恐れることはない」復活した主が共にいて、共に歩んでくださるということですから、その大きな恵みを信頼して、イエス様の力を信頼して、わたしたちが歩んでいけるように、復活した主と共に、また新たに出発したいと思います+
復活の主日(日中)
田丸篤神父
私はこのミサをもって8年間のイグナチオ教会での奉仕を終え、横浜教区の教会へ移動します。
この8年間を振り返って正直思うことは、この8年間はとても苦しいものだったなということです。何がそんなに苦しかったのかと、皆さんはきっとそのことを思われるでしょう。でもそのことを今ここで具体的に話すことはできないでしょう。でも今思うことは、長い8年間のトンネルを今やっと抜け出すことができ、新しい地へ旅立つことができるということです。移動が決まった時、正直、私の思いはこのようなものでした。
でも今、引っ越しする日を前にして、自分の心の思いに変化が起こっています。あんなに苦しかったことしか思い出せなかったのに、今少しずつこの8年間の間に味わうことができたたくさんの喜びの出来事が少しずつ自分の心を満たそうとしています。本当に不思議だなと感じます。苦しみが喜びに変わっていく、苦しみにしか思えなかったたくさんのこと、しかしそれを通り抜けることを通して復活の喜びにあずかることができる。今私の心の中はそのような感じで満たされています。
私たちはこの木曜日から聖なる3日間を過ごしてきました。そこで記念されていたのは神の子であるイエス様が、弟子たちの足を洗い、ご自分の体である聖体を制定し、十字架の苦しみを担って亡くなられことでした。そしてそれは神様がどのように私たちを愛して下さっているかを表すものでした。神様は高みから人間を見下ろす方ではなく、逆に私たちの下になって私たちの足を洗ってくださる方。私たちに代わって、その罪の代償である苦しみを担って下さる方。神様とはそのような方であるということ。そしてその苦しみは私たちが古い自分に死んで、新しい命に生きるようになるための苦しみでした。古い自分に死んで、新しい命に生きるようになる。イエス様と心を合わせて真の命を生きる者になる、それが神の子であるイエス様の私たちへの思いです。
その新しい命を生きる生き方、イエス様につながる生き方は簡単なものではないかもしれません。洗礼を受けたから苦しみがなくなるわけではありません。損に思えることもたくさんあります。しかし損が損ではなかったと思える時が必ず来る。それが恵みであり私たちが神様から招かれている生き方なのです。
復活、それはイエス様の生き方。一人ひとり病人に声をかけ、罪びとをいやし、ご自分は十字架の死の苦しみを担われた、そのイエス様の生き方。十字架の死で終わってしまった、すべてが無に帰されたように思えたことが終わってしまったのではなかった。無ではなかった。それを証しするのがイエス様の復活の出来事です。イエス様の生き方そのものが正しいものだった、真に意味のある、価値あるものであったことを天の父が証明された出来事だったのです。
神の子であるにもかかわらず僕の姿を取り、苦労の多い人生を歩まれたのも、そして十字架の死を拒まれなかったのも、イエス様が言われた、私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためだったのだと、そう思います。
復活は、苦しみが苦しみだけで終わらない、死ですべてが無に帰せられるのではない、苦しみを通り越してそこに輝く栄光がある、それを完全な形で示してくださった出来事です。イエス様が味わわれた苦しみは、私たちを罪に死んでいる状態から救うための、愛による苦しみでした。そしてこの愛のための苦しみは必ず実を結びます。神様がイエス様の復活で教えられたいことは、苦しみを通り抜けた先に何にも変えられない真の喜びがあること、その真の喜びに心を向けて、私たちがこの世的なものではなく、それを超える、上にあるものを求めなさいということです。私たちもこの世の歩みが終わったとき、その生き方が神様から顧みられ、まったく新しい存在に変えていただけるでしょう。その存在にはもはや苦しみも嘆きも労苦もなく、新しく輝く永遠の命で満たされるでしょう。そしてそれは死から真の命に移るということです。
その新しい存在、新しい命に招き入れていただけるために、今の生き方を大切にしなければなりません。イエス様の十字架の歩みにつながって、自分も心を愛で満たす生き方をしていくことです。この苦しみに見える生き方の先に、まばゆい光で私たちを包むために手を広げて待っていて下さる方がおられます。それは間違いありません。その保証がイエス様の復活によって与えられています。苦しみが光に必ず変わるという神秘、キリストと共に死に、キリスト共に復活することへの招き。今私たちに大切なことは、復活されたイエス様と出会って自分が変えられていくことです。自分中心の生き方から天に心を向けて、自分がささげることができることを大事にしていくことです。
復活されたイエス様は、今も私たちと共に生きておられます。交わりの中、人の温かさ、優しさを通して復活されたイエス様と出会うことができます。すべてをありがたく思う感謝の心を持つとき、復活されたイエス様に出会うことができます。互いに足を洗い合う、その生き方の中で復活されたイエス様に出会うことができます。イエス様が十字架の死をその身に受け、そして復活されたことによって教えてくださったこと。十字架の死を経て復活されたこと。私たちも苦しみの中にあっても投げ出さず、自分として精一杯歩んでいく。一人ひとりが自分の人生の中で復活体験をしていく、それが大事なことです。
私はこのミサをもって8年間のイグナチオ教会での奉仕を終え、横浜教区の教会へ移動します。今まで皆さんと共に歩むことができたことを感謝します。これからどこにいても、イエス様につながる信仰の仲間でいたいと思います。
今まで本当にありがとうございました。