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2021年4月 ミサ説教







2021年3月 | 2021年5月


復活節第4主日

ヘネロソ・フローレス 神父

4/25(日)10:00- 復活節第4主日(手話、字幕付き)


 今日の福音書、復活節は愛ですね。神の愛をいろんな方法で教えてくださる。イエスさまがここで使うのは、多分日本の文化でそんなにピンとこないかもしれませんけど、向こうでは羊飼いと羊、群れということです。この愛、本当の羊飼いは心に羊のことをよく知っているし、知られる。雇い人は違いますね。でも神の愛はすごいですよ。羊飼いは羊のために命も捨てるということ、これをわたしたちは記念しています。捨てて、それからもう一度受ける復活のこと。けれども第2の朗読、ヨハネの手紙でもっと深い関わりが、羊と羊飼いでもないんですよ。これは神と人間。羊と羊飼いよりも深い関わりがある。心から心へ通うことができます。羊飼いと羊の場合で心から心、これはできません。動物ですけどね。


 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。」ヨハネが書くんですね。考えなさい、それを考えましょう。「それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりである。」呼ばれることだけではない。神の子。ですから羊と羊飼いよりも、親子の関わりですよ。深い、我々の世界で一番深いです。「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」わたしたちは今、既に神の子ですが、洗礼を受けた時、流れる水の形で神の霊、聖霊が入ってわたしたちを変えるということ。神の子、三位一体の家族に入れてくださる。だから既にわたしたちは神の子です。だからイエスはそれをものすごく、何回も言いました。父、神は親ということです。イエスさまはこれをものすごく教えてくださった。アッバ、父よ、お父さん。

 「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。」わたしは洗礼によって別に頭がもっとよくなったとか、背がもう少し高くなるとか、そんなことはないんです。見えないことです。心のこと。わたしは洗礼によって神の家族に入れていただいた。親子関係ですね。ただ、今は示されていません。復活によって、死んで復活されてその時に現れます。そしてヨハネが言うのは「御子に似たものとなる」ということ。復活されたキリストと同じ姿、同じこと。復活のキリストは弟子たちを弟子と言わない、兄弟と言うんです。兄弟姉妹ですね。このようなこと。ヨハネが言うように考えなさい、考えましょう。


 来週からご存じのとおりミサもない、このような状態でミサもない、礼拝もない。でも自分の家で少し時間をとって、5分でもその日のミサの朗読を、聖書のところをゆっくり読んでそれを思い巡らして深く味わいましょう。そしてできるだけ、わたしたちは神の子である、だからお互いに兄弟姉妹であることを深く味わう、深く悟る恵みを願いましょう。願えば与えられるから。豊かないつくしみを深く、主よ、味あわせてください。そうです、それだけではなくて、他のたくさんの人と分かち合わせてください。神の子どもである、これをできるだけ、心から願いましょう。願えば与えられるからですね。



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復活節第3主日(改宗式)

英 隆一朗 神父

4/18(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式)(字幕付き)


 今日は先ほど言いましたけれども、このあと改宗式、改宗式という言葉がいいかどうかわかりませんが、プロテスタントの方がカトリックに変わる式が行われます。改宗式に際して、洗礼式のときは心からおめでとう、という言葉が言えるんですけど、改宗式で果たしておめでとうと言うべきかどうか実はちょっとわからない。もう既に神さまの子どもでクリスチャンなので、改宗式というのは、わたし自身は家を引っ越しするようなくらいの感じというか。東京都は広いからどこに住んでも、山の手が好きな人がいれば下町が好きな人もいるし、海沿いが好きなのか山側が好きなのかという、そういうカトリックでもプロテスタントでも本質的に同じキリストの教会ですから、引っ越しのお祝いぐらいのような気持ですね。洗礼式に比べたら次の改宗式は非常にシンプルなものではあります。


 今日はイエスさまの復活の記念なので、イエスさまが復活したところが朗読されたわけですが、イエスさまの復活は本当に不思議な、弟子たちも喜びのあまり信じられないというわけですけど、イエスさまの復活は亡霊じゃないんですよね。実際に現れた。実際に肉体をもって復活されたということですね。だから、多分これは夕食の時だったんでしょうと思いますけれども、イエスさま自身が魚をみんなの前で食べたということですね。イエスさまの復活の場面はわりと食事の時がよく出てくるんですけどね。この場面もそうですが、ヨハネの福音書では不思議な大漁のあとに、朝の食事をイエスさまが用意してくださっていたりとかですね、食事と深い関係があるということなんですよね。これは本当にわたしたちカトリックが大事にしている、ミサそのものがまさしく食事の場だということですね。それはもう非常にはっきりしていて、カトリックになる1つの喜びは、このあとなんですけれども、やっぱりご聖体をいただけるというお恵みというんですかね。これは本当に大きなお恵みだと思います。今は残念ながらご聖体をいただきたい人がみんなミサに参加されてるわけではないんですけど、やはりわたしたちは時には、毎週は無理でもイエスさまの体をいただくということなんですよね。これはカトリックあるいは東方教会が大事にしていることで、大きなお恵みだと思いますね。イエスさまご自身をいただくということなんですよね。思いますけど、イエスさまの復活は先ほど言ったように幻じゃないんですよ。イエスさまの復活そのものは単なるシンボルじゃなくて本当に復活されたんですよね。だからその復活の恵みからいただくご聖体は、本当のイエスさまとしていただくしかほかにないと思います。そうでなければイエスさまの復活の意味も弱くなってしまうと思いますし、ミサに与る意義も本当のイエスさまの体をいただくからこそ神聖なものであって、そしてわたしたちの心からの飢えと渇きをいやしてくださる恵みにわたしたちは触れるという、大きな大きな神秘であると思います。その恵みをいただけるのは本当にカトリックとしてのお恵みだということは強く強く思います。そういう意味では改宗される方がご聖体のお恵みに与れるっていうことは大きな祝福だと感じています。

 それと共にこのあとなんですけど、だいたい復活した場面では食事のお話のあとに必ず聖書の話になるんですね。今日の後半もイエスさまご自身が聖書の解き明かしをされるんですよね。モーセの律法と預言の書と詩編に書いてある事柄の話を、本当に聖書の意味が何なのかをイエスさまご自身が解き明かしをされるという、これも復活の恵みに実は深く深く関わっているということですね。この点については残念ながらカトリックはちょっと弱いと思いますね。プロテスタントの方がどれほどみ言葉を通して神の力、恵みそして指示をいただいているのかっていう、それは本当にカトリックがもっともっと学ぶべきことですし、わたしたちもこのご聖体からですね、ご聖体だけじゃなしにみ言葉を通して復活した主が語りかけてくださってるという、このいのちの言葉をもわたしたちはしっかり受け止める必要性があると思うんですよね。ついついカトリックはそれが弱くなりがちということは認めなければならないでしょう。 だいたいこのご聖堂でもこの食卓の祭壇があんなに大きくて、み言葉のこの説教台がこんなに小さいというか、バランスから言ったらいかにもこっちが何というか補助的な感じになってますけど。これもやっぱり復活した主の恵みによってわたしたちは、本当に聖書のみ言葉の意味を深く深く味わうことができるということですから、こんなにちゃちなものではなくてもっとしっかりした説教台を作るべきというふうに思うのは思いますけれども。別にミサだけじゃない、聖書を一人ひとり読んで聖書からわたしたちは絶えず復活した主の恵みをいただくということも、しっかり心がけたいと思いますね。


 そして改宗される方にお願いしたいのは、プロテスタントのいいところとカトリックのいいところを両方お分かりということですから、懸け橋になってほしいという気はやはりすごくしますね。なかなか日本はタコツボ化していて、どこの国でもそうですが、プロテスタントはプロテスタント、カトリックはカトリックとえらく分かれていて、それほど交わりがないわけですけど、今の時代、小さなことを言っている時代じゃないと思います。みんな兄弟で、仲間で、手を取り合ってわたしたちは神の国を生きていく時代に招かれていると思いますね。だから皆さんがそのような使命を持っているということを意識していただいたらいいんじゃないかと思います。

 個人的にもお恵みですけど、プロテスタントの方に知り合いがいて、今も牧師先生といろいろ勉強会をやったりとか、ずっとつながりはわたしもあるんですが、現代はある意味分断の時代で、分けよう分けよう、差別とか排除とかという雰囲気はありますが、だからこそわたしたちは手を携えるというか、小さな差を乗り越えていく、やはり懸け橋になっていくということが本当に必要だと思いますね。復活したイエスさまは明らかだと思いますけど、正教会とプロテスタントとカトリックに分かれているということは喜んでないと思いますね。やっぱりそれはお互い同士がつながって、手を取り合って同じイエスさまを信じているっていう、そういうところに立たない限り、わたしたちは本当の意味で復活した主を礼拝しているということにはならないと思います。これは過去の人間の罪の結果、教会ですら分かれてしまっているという、1つのわたしたちに対する戒めでも反省材料だと思います。分かれているから仕方ないですけれども。だからと言って小さなところに留まるんじゃなくて大きな共通の神さまを信じて、イエスさまを信じている、その恵みの中を生きていくという心を大事にしたいと思います。やはりみんなで復活の恵みに与って、みんなでわたしたちは神の国に招かれているのですから、そのことを意識しながら、それは宗派の違い、国籍の違いとか、民族の違いとかですね。この教会は幸いなことに外国の方もたくさん来られてミサを、言葉によって違っていますけれども、イエスさまを信じているのは明らかですから。そのような心を大事にして、わたしたちは共に歩んでいけるようにですね、今日は心を合わせて祈りをささげていきたいと思います。



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復活節第2主日(初聖体)

英 隆一朗 神父(共同司式:ボニー・ジェームス神父、柴田 潔 神父)

4/11(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体)(手話・字幕付き)


 今朗読した聖書の箇所はイエスさまが復活されたということなんですね。でもトマスはイエスさまが復活したところにいなかったので、本当にイエスさまが復活されたのかどうなのかっていう疑問を持った時にイエスさまが現れてくださったんですね。イエスさまがどういうふうに現れたかっていったら、こういうふう(主聖堂のイエスさまの姿)に現れたんですね。そこに、皆さん見えるでしょう?あれは復活したイエスさまの姿なんですね。見たらわかるけど、服の着方がおかしいでしょ。右肩と左肩で服の長さが、服のような布のようなものを被っているのが見えると思いますけれども、あれ何であんな変の服の着方をしてるかっていったら、あれは服じゃないんですね。布なんですよ。イエスさまが亡くなった時は布にくるまれてお墓に葬られたんですね。このイエスさまは、まだ布にくるまれつつある時に復活してきたから、あの肩にかかっているのは服じゃなくて布なんです。腰のあたりにあるのも。だからちょっと服の着方がおかしく見えるけど、あれは服じゃなくって布が取れかかってるんですね。この後どうなったかといったら、あの布だけを残してイエスさまは復活してまた別のところに行ってしまったんですね。でもそのイエスさまがまた弟子たちに現れたんですね。でもトマスは1回目はいなかったんですけど2回目は会えたんですよね。だからもうみんなイエスさまの復活には、ある意味今は会えないんですけど、そこにいると言ったらいる。そこの姿にですね。でもあれはただの銅像というか像で、生きているものではないわけですよね。


 イエスさまは今どこにおられるかのといったらですね、ある意味でどこにでもいるんだけど、わたしたちはイエスさまが目に見えなければなかなか信じることができない、ということもあるでしょう。イエスさまは今ですね、今日のミサで皆さんがいただくご聖体の中にイエスさまがおられて、そのイエスさまを今日いただくんですよね。神父さん用にはこの大きな、これは今イエスさまではないんですけど、この後「聖変化」という、ミサをした後にこれがイエスさまになる。それで皆さんは今日これを食べるんですよね。これは今はただのお煎餅みたいなものだけど、このミサの聖変化の後、これがイエスさまになって皆さん一人ひとりがそれを食べることができるっていう。今まで頭に手を置いてもらっていただけだったけど、今日から皆さんはこれを食べることができるわけですよね。これはイエス・キリストとしていただく。でもこれも信仰がないと、信仰をもってこれを皆さんが受け取るようにしてくださったらいいと思います。


 じゃあご聖体、イエスさまの体なんですけどね、それを皆さんがいただくっていうことなんですが、一番わかりやすい例を僕がいろいろ考えて、多分皆さん全員知ってると思うんですけど、僕はやっぱりイエスさまってアンパンマンだと思うんですね。アンパンマンって顔があんパンでしょう。僕はこの歳だから実はあんまりアンパンマン見ないけど、アンパンマンは頭のどこかをちぎっておなかすいてる人にあげるわけですよね。それで頭が欠けちゃって、その後ジャムおじさんが欠けたところをまた作って被せてくれるわけでしょう。イエスさまって言わばアンパンマンの元祖みたいな人。自分の体を皆さん一人ひとりに今日、アンパンマンがここ(頭)から取ったようにですね、皆さん一人ひとり食べることができるんですよね。それはどういうことかっていったら、こんなちっちゃなものだから別に体の栄養的にはそんなに大したものじゃない、それを食べてもお肉を食べるほどの栄養はないけど、じゃあ何の栄養かっていったら、それをいただくことによってアンパンマンのように優しい心と勇気をもって時々ばいきんまんと戦ったり、思いやりと愛の心と勇気をもって歩んでいく力が、イエスさまのご聖体をいただいていただけるってことですね。
 だからもちろん皆さん自身がアンパンマンになるわけじゃないけど、ご聖体をいただいたらイエスさまの子どものようにだんだんなってくるんですよね。それは本当にアンパンマンのような勇気と優しい心と、悪と戦う、前向きにみんなと協力しながら生きていく、そういう力が皆さん一人ひとりに与えられるということですね。それを心に刻んで、アンパンマンを見る時はイエスさまのご聖体のことも一緒に思い出して。それでイエスさまからも力をもらいながらこれからイエスさまの子どもとして歩んでいけるように、たびたびミサに参加して。特に気持ちがすっきりしないとか、力がないとか、気持ちがふさぐこともあるでしょう。そういう時こそイエスさまから力をいただいて、前向きに希望をもって歩めるように、お互いのために祈り合い、助け合いながらいきたいと思います。



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復活の主日(日中のミサ)

李 相源 神父

4/4(日)10:00- 復活の主日(日中のミサ)(手話・一部字幕付き)


 あらためて皆さん、イエスのご復活おめでとうございます。
 と言うけれども、皆さんの顔を見るとまだ四旬節の顔をしている。考えてみると、待降節はわかる。神さまに祈ったことの返事がまだなくて待っているから。降誕節、これもどういうふうに過ごせばいいかわかる。祝ってもらったことがあるから。四旬節、毎日が四旬節だからそれもわかる。ただこの復活節の間はどういう顔をしたらいいかがわからない。経験がないから。


 ペトロともう1人のヨハネだとしましょう、2人が走りました。先に着いたのがヨハネなんですって。なぜ?ペトロはああいう性格だから走って走って先に着くはずなんですけれども、ちょっと考えてみると、ペトロはわかる。イエスさまが、あなたはわたしと一緒にいない、わたしのことを知らないと言うだろう。それがパノラマのようにサーっとくるわけ。死んだはずのイエスさまが復活したという話を聞いて、嬉しいけれども走りながら内心、最初会う時にどんな顔、どういうふうな言葉をかけたらいいか、ごめんなさいというふうに先に言おうか。とにかく嬉しいというか、頭を下げていくか、それをずっと悩みながら走ったから足元が重たくなって、それで遅く着いたかな。復活節としてもまだわれわれは四旬節の顔をしているけれども、ペトロとそんなに違わないんじゃないかなと思います。


 今日、自分にとっては次のミッションの最後のミサですから1つ分かち合いたいことがあるんです。まず後ろには青年会が座っているんです。イグナチオ教会の青年会が特に恵まれたと思うのは、第1週、第2週、第3週、第4週と毎週集いがあるんです。第1週は真正会館、そこで毎月初めての土曜日に集まりがあるの。第2週は英神父さんの「息吹を受けて」、霊操ということの集まりがある。第3週はイエズス会の「マジス」、今ローマにいる酒井神父さんの指導で行っている。第4週はうちの教会で青年たちが集まって分かち合ってミサをささげて一緒に食事をとるということ。だから今、青年がどうすればいいかとしたら、まずイグナチオ教会に訪れる。そうすると1、2、3、4、自分に合う居場所は必ずあるから。それをぜひ皆さんにぜひ勧めたいと思います。


 最後にわたしがこの3年間どういう思いで過ごしたか、それを分かち合いたいと思います。これ(教会のイースターカード)お持ちになった?もらってないの?ここ(表紙)はもちろんクリプタの入口の写真で、真ん中を見ると主任の挨拶がある。右側を見ると、今度来る柴田神父さんがいる。この下はわたしなんですが、これは3年前の太った顔写真なんです。今はダイエットを成功してマスクを外したい気持ちいっぱいなんですけれども。


 どういう思いで3年間過ごしたかといったら、ここに来る前の教区で1度、養成担当のメンバーだったんです。メインではない。ちゃんと教区司祭がいて、そして修道会として1人が入る形で、そこにわたしが入れてもらったんです。1人の神学生、予備神学生をインタビューするの。これから6月、9月に教区に送り出すために、この人がふさわしいかインタビューするんです。教区からのちゃんとしたインタビューのリストがありまして、20ページ以上はあったと思う。それを見ながらインタビューしてくださいと言われた。見ると、いつ洗礼を受けたか、家族は誰ですか、いつ神さまに出会ったか、いつ喜びがあったか、いつ苦しみがあったか、こういうものがあったんです。それを読みながら、インタビューする2時間前にそれを持ってカテドラルの隣の喫茶店に行って、コーヒー飲みながらこれを初めて読んだんです。質問1つ1つがはっきり言ってわたしは気に食わなかった。その質問の仕方がわたしには合わない。けれどもちゃんとしないといけない。幸いに前の人たちがちゃんと質問するから、ある面でおまけであるわたしは1つ質問すればいいかなと思って、そのデータを丁寧にカバンに入れて、それで紙1枚出して自分なりの質問を作ったんです。
 その予備神学生に言った1つは、あなた、もしこのインタビューでダメと言われたらどういう理由で言われたと思いますか?そうしたら、勉強ができない、朝が難しい、まだ恋人がと云々するんです。あなた、神父になりたいならそれをやめなさい。
 2つ目の質問をします。あなたは入れてもらうことができた。神学校に送られて、それからめでたく司祭になって、死ぬまでこの司祭職を貫いた、最後まで。そうなるとしたら、どういうことがあってそれが叶うことになると思いますか?と言った。彼は結局答えることができませんでした。わたしも、いいよ、そこまでで十分ですというふうに終わったの。


 そして車に乗って祇園教会、今度わたしが赴任する教会に戻ってカンガス神父と夕食をしながら彼に言った。今日こういうことがありました。もしクビになったらということ、もし最後まで司祭としてお墓まで入ることができたとしたら何があったのと質問したら彼は答えられませんでしたと言ったら、カンガス神父は言った。「うん、わたしはわかる。それは祈りなんだ。」と言った。わたしは祈りじゃなかった。わたしの用意した答えは赦しだった。
 イエズス会に入ることができました。今までどれほど赦してもらっていたか。司祭になって教会にあちこち派遣されて、そこで信者さんと出会ってどれほど受け入れられたか、どれほど赦してもらったか。そしてこの自分の家族にもどれほど赦されたか。そして何よりも神さまから自分が赦されたんだということ。最後は結局自分が受け入れられた、赦された、それによって司祭職が最後の最後までできたんだという話なんです。そういう思いでその質問を作ったけれども、彼はまだ神学生にもなっていない。だから教会のものとしてまだ赦されるという経験もない。だからウーン、ウーンと言ったんじゃないかと思う。


 わたしはこの3年間、皆さんからどれほど受け入れられたか、どれほど赦してもらったか、それを毎日毎日、そういう3年間でした。司祭は愛さないといけないと言うけれども、人を愛するためには自分も愛されたという経験がなければ愛を分かち合うことはできない。だから皆さん、われわれのこと、英、ボニー、フローレス、ガラルダ、シルゴ、柴田、李のことをいっぱい、たくさんたくさん愛してください。
 そして最後なんですが、わたしがこの3年間どれほどうちの英主任から赦してもらったか、どれほど守ってもらったか。そういう赦しの経験がある人はどこに行っても幸せに歩んでいけると思います。どうもありがとうございました。



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復活の聖なる徹夜祭

英 隆一朗 神父

4/3(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭(手話・一部字幕付き)


 皆さん、イエスさまの復活おめでとうございます。

 去年もこのコロナの状況の中で復活節をお祝いしたんですが、まったく人がいない、奉仕者だけで復活祭をお祝いして、何か四旬節が1年くらい続いているような気持にもちょっとなって、2年ぶりの復活祭をお祝いしているような気持ちにもならないでもないです。


 今年はマルコによる福音の復活の箇所が朗読されたんですけれども、今読んだ後のところに奇妙なことが書いてあって、なぜか省かれてるんです。ガリラヤに行きなさいと言われた後に女性たちは「震え上がり正気を失った」と。つまりあまりの恐ろしさのために何もしゃべることもできなくなった、とこのあと実は書かれてるんですね。でもなぜか典礼ではそこが省かれてるんですけれども。 復活のメッセージを受けた最初の女性たちの第一の反応は何かといったら、怖れと不安に囚われて固まってしまったと、それが実は第一反応だったということなんですね。イエスさまの復活、それは本当に大きな喜びだと思われるんですけど、でも喜びどころか何が起こったのかわからない、怖れと不安に囚われたというですね。何かそれは一番の真実を語っているような気もしないでもないです。実際このコロナの1年の中で非常につらいことがあれば当然わたしたちは不安に感じたり、怖れを感じたりするわけですけど、その真反対の大きなお恵みやあまりに何か超えているものに接すると、同じように不安になったり、怖れの気持ちがわいてくるという、人間の不思議な反応を語っているということですね。


 時々驚くようなこともあるわけですよね。ごく時々ですけれども、お祈りしたら病気が完全に治っちゃう人がいないでもない。完全に治ってしまう人がおられるんですけれども、そういう場面に出くわすと喜びよりもやっぱり恐ろしくなってしまうというか、こんなことが起こり得るんだというか、あんまり嬉しくないんですよね。あまり常識を超えてることが起こったらむしろ恐れとか不安の方がわいてきて、何でこんなことが、みたいな気持ちになってしまうことの方が実は多いんです。レベルが超えちゃってると、ということですけれども。
 復活というのは、本当にこのレベルを超えた特別なことだったからそのような反応だったんであろうと思います。でも実際のところ、この女性たちが言われたことは難しいことではなくて、男の弟子たちのところに行けと、そしてガリラヤに行きなさいということを伝えなさいという、実はそれだけなんですけれども、ごく簡単な次の一歩、次にすべきことを指示されているだけでもあるわけです。

 そう考えるとイエスさまの復活の恵みっていうのは、そういうことかなっていう感じもします。何か行き詰まった時にどうすればよいか、コロナの中でもいろんなことが皆さんの中でもあったでしょうけれども、やっぱり神さまは次の一歩で何をするかということを必ず示してくださっている。復活のメッセージというのは結局そういうシンプルなことじゃないかなという気もしますね。まさか弟子たちのところに行ってとか、ガリラヤに行けとか、ちょっと常識を超えてますけれども、でも言われていることはそんなに難しいことを言っているわけでもない。その何か行き詰まった中で神さまが道を示してくださっている、呼びかけてくださっている。その呼びかけに答えていくこと自身が復活の恵みを生きていく、そういうシンプルなことではないかと思います。だからわたしたちはどうしようもないとか、行き詰って何もできないってことはない、ということですね。どんな状況になっても神さまは次の一歩を示してくださる。次に何をするかっていうことはちゃんと示してくださる。でも先の先まではわからないんですよね。コロナがいつ終わるかとか誰もわからないけれども、でもコロナの中でも次の一歩何をするかっていうことはちゃんと一人ひとりに語りかけと呼びかけがあって、それをわたしたちは果たしていけばいいということでもあるでしょう。

 誰も賛成してくれてないんですけれども、実のところわたしは、あと2か月でコロナが終わるって思ってるんですけど、コロナが続こうが終わろうがある意味どちらでもいいわけですよね。その状況の中でやっぱり主が示してくださって、次の一歩はこうだと一人ひとりに、あるいはわたしたちに教会としても、それにわたしたちが応えていく中で次の新しい道が、新しい世界が開かれてくるということでしょう。でもその開かれてくるものが言わばわたしたちの想像を絶した形で開かれてくることは多々ある。そういう時に怖れや不安の気持ちがわいてくるわけですけれども、ある種勇気をもって次の一歩を踏み出さなきゃならないということも確かにあるかもしれないと思います。


 ポール・クローデルというフランス人の文学者で、外交官で日本で大使も務めていたカトリックの文学者がいるんですが、彼はこう言ってるんですよね。神さまは何でわたしたちのところに来たのか、わたしたちのところに来て十字架にかかって復活したのか。彼がこう言うんですよ。神さまが来たのはわたしたちから苦しみを取り去るために来たわけじゃないと。苦しみを取り去るためにわざわざ来て十字架にかかって復活したわけじゃない。また神さまは苦しみの意味を説明するためにこの世に来られたわけでもないと。わたしたちは苦しみの中で何でこんなことがとか、どうしてわたしが苦しまなきゃならないのかといろいろ説明を求めますけれども、神さまは説明するためじゃないと。彼が言うんですけど、神さまがこの世界に来たのは、わたしたちのこの苦しみの中において神の現存で満たすために来たんだというんですね。わたしたちの苦しみそのものの中に神の現存を満たすために来られたとポール・クローデルは言ってるんですが、それはそうかもしれない。

 わたしの知り合いで、だいぶ前の話ですがご主人の介護を7年間続けてやってこられた。最初は苦しくて苦しくてどんどんご主人が弱ってきてしゃべれなくなったり寝たきりになったり、苦しみのどん底で介護をしていました。ちょうど真ん中の3年半ぐらいの時にお祈りしてたら神の呼びかけを聞いてですね、それは新しい呼びかけでしょう。どういう呼びかけかっていったら自分を捨てて自分の十字架を担いなさいという声が聞こえたんですよね。もう行き詰まってて何もできないから結局その通りにしてたわけですよね。自分の望みとか希望とか全部それを置いて介護することだけに専念しようと思ったその時から、神さまの現存に満たされたと言っていました。残りの3年半、まったく状況は変わらないですけど、イエスさまの現存で満たされて人生で一番幸せな時期だったと。神さまとの深い深い交わりをその時いただいた。そしてご主人が亡くなって普通の生活に戻ったら普通に戻ったとおっしゃっていましたけれども。


 神の呼びかけはやっぱり想像を超えてる呼びかけだと思います。わたしたち一人ひとりに対して。人間の思いでこうしてほしいとかああしてほしいとか、コロナが早く終わってほしいとか、まあいろいろもちろんあるわけですけど、復活したイエスさまの呼びかけはもっと次元の違う呼びかけをわたしたちに呼びかけている。だから不安になったり恐ろしくなったり、この女性たちのようになってしまうこともあるでしょうけれども、神の呼びかけを、復活したイエスさまの呼びかけをわたしたちが聞くならば、わたしたちはどんな状況にあっても新たな恵みの世界に向かうことができるでしょう。

 今日は15人ぐらいの方々が洗礼を受けられる。本当にお恵みだと思います。行き詰まるっていうことがもうないんですよ。行き詰まったとしてもまた次の新たに道を主が用意してくださる、そのような希望と喜びの道をこれから皆さんが歩めるということですね。多分苦しみはなくならないです。でも苦しみを超える恵みの世界が皆さんに与えられるのは間違いない。本当に大きなお恵みをわたしたちは受け取り、分かち合っていくことができる。イエスさまが復活してくださったからですね。このイエスさまの復活の恵みを今あらためて噛みしめて、わたしたちがまた新たな一歩を歩んでいけるように、この洗礼を受ける方々と歩んでいけるように、心を合わせて祈りをささげたいと思います。



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主の受難

ハビエル・ガラルダ 神父

4/2(金)19:00- 主の受難(手話・一部字幕付き)


 イエスさまの痛みの恐ろしさをわたしたちは想像できます。しかしその痛みに苦しんでいたイエスの心の反応を知りたいのです。一体イエスさまは痛みに耐えながら何を考えておられたでしょうか。何を望んで、何を感じておられたのでしょうか。十字架上のイエスさまの言葉はその返事を与えてくださいます。7つの言葉ですけれども、4つだけについて考えましょう。その4つの言葉を聞いてイエスさまの心の反応を知ることができると思います。


 まず、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とおっしゃいましたね。あくまでもイエスさまは救い主です。そしてまた「憐れみ深い御父のように憐れみ深い人になりなさい」とおっしゃったんですね。御父は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。イエス・キリストも憐れみ深い人で本当に神の子でした。生き方としても神の子でした。イエスさまは敵のために祈りなさいと言われましたね。ご自分でそうしました。下であざ笑って自分を殺していた人たちのために祈ります。イエスさまが勧めることとなさることは一致しています。わたしたちはそれを学べばいいと思います。親と教育者と指導者と、先生方と聖職者と。わたしたちは素晴らしいことを勧めるけれども自分はしないんですね。イエスさまは勧めることをご自分でなさるのです。


 もう1つの言葉です。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」というヘブライ語でイエスさまがおっしゃった言葉です。「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このなぜということは質問よりもお願いだと思います。一人にしないでください。決して痛みを取り除けてくださいということを頼んでいません。ただそばにいてください、一緒にいてください。これもしましょう、わたしたちも。本当につらい時も来るかもしれません。その時には痛みを取り除けてくださいと祈ると同時に、そばにいてください、スタンド・バイ・ミーということを願いましょう。それさえあれば大丈夫だとイエス・キリストが感じておられたのです。


 もう1つの言葉です。「成し遂げられた」。預言者たちが書いたことは成し遂げられた。イエス・キリストが御父からいたただいた使命を成し遂げたのです。すべきことをしました、義務を果たしたという充実感を抱いておられたようです。わたしたちもすべきことをして義務を果たす人間になりましょう。反省するということも義務の中に入っています。


 最後の言葉ですが、「ゆだねます」。「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」。しかしこの言葉は「成し遂げられた」と言ってからおっしゃった言葉ですね。自分ができるだけのことをして、なおかつ自分とその問題を神にゆだねるのです。イエス・キリストの人生自体は「ゆだねます」という言葉ですね。考えてみればイエスが人間として生まれた一番最初の瞬間に、その小さな胎児が一番最初に耳にした言葉、声は母マリアのご胎内でまだ響き渡っていた「お言葉どおりこの身に成りますように」。ゆだねます、この言葉は一番最初に人間としてのキリストの耳に入りました。そしてイエスさまが亡くなられた時に、死んでからゴルゴタの丘で響き渡っていた大声は「ゆだねます」という声でした。一番最初の点と一番最後の点をつなぐ線はイエス・キリストの生涯です。イエス・キリストの人生です。ゆだねます。こんなイエスのようにわたしたちもなりたい。


 最後に、イエス・キリストが亡くなった時には神殿の垂れ幕が裂けたと書いてあります。神殿の垂れ幕が裂けた、キリストが死んだ時です。どういう意味でしょうか。いろんな解釈がありますけれども、わたしが一番納得できる解釈はこれです。その垂れ幕は神さまの神秘を隠していました。神様の顔を見てはいけない。神秘です。だから大きな長い垂れ幕で隠されていました。キリストが死んだ時に垂れ幕が裂けた、それで神さまの本当の姿が現れました。どういう姿だったかと言いますと、死ぬまで愛しながら十字架で亡くなられたイエス・キリストの姿です。わたしを見る人は神を見るのであるとかつてイエスさまがおっしゃったんです。神の本当の姿は愛の姿、死ぬまで愛し続けるキリストの姿は本当の神の有様です。これはわたしたちのイエス・キリストです。わたしの主よ、わたしの神よ。イエス・キリストを誇りに思って、イエス・キリストのように、イエス・キリストと共に生きる恵みを願い求めましょう。



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主の晩餐の夕べ

ヘネロソ・フローレス 神父

4/1(木)19:00- 主の晩餐の夕べ(手話・一部字幕付き)


 皆さん、今日の福音書の最初の言葉のことをご一緒にいろいろ考えてみたいと思います。

 「この上なく愛し抜かれた。」イエスは、深い神の愛のことを「この上なく」あるいは極端に「愛し抜かれた」ということでしょう。愛、非常にあいまいな言葉です。正直に言って。でも愛とは何ですか。簡単に言わせていただけば、愛は相手のために自分自身を尽くす、与えるということです。だから仕える、これです。そしてイエスはこれをやりました。仕える、奉仕する、どういうふうに神の愛、イエスの愛を表されたか。

 まず第一に神のことを考えれば、神は名状しがたい神秘。わからない。その神は天地の創造主である。すべてを造った。そのすべての中で人類も造った。そして人を造る時、ご自分にかたどって、ご自分に似せて造ったわけです。月、太陽も造ったけれどもほかのものは、ご自分にかたどって造ったわけではないんです。だから人はコミュニケーション、心から心へ通うということができます。そしてこの愛である神は、人を愛して、人が大好きであって、神は人にもなりたかった。これは愛のことですね。なりたかった、そして人になってくださった。人はいろいろな限界がある。神には限界はないですよね。死もあるんですよ。イエスは死んだ、殺された。十字架につけられて、死んで葬られて、神であるから復活した。けれどもこの愛は人を愛してそこまで人に、われわれと共にいらっしゃるためでしょう。インマヌエル、これはわれわれと共にいらっしゃる神、イエス・キリスト。愛、見てください。


 わたしは犬が大好きです。本当に好きですよ。犬にも好かれるらしい。そして戌年でもある。しかし一度も犬になりたいなあと考えたことはないんですよ、ぜんぜん。しかし神の愛は人になりたい、そして人になってくださった。受肉、イエス・キリスト。そこまで愛するということ。 「この上なく愛し抜かれた。」これだけじゃなくて人になって、人は生きるために食べなければならない。飲まなければならない。それで神は人間になって食物にもなってくださった。それをわたしたちは今日記念します。最後の晩餐でパンを取って、割いて、弟子に与えて、「皆、これを取って食べなさい、これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。」わたしである、ということです。そこまで。そして食事が終わる時に杯を取って、感謝して弟子に与えて言われた。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。」幸いに教会は2021年の間これを行ってきました。「わたしの記念として行いなさい。」行っています。わたしたちは今日もここでこの記念をします。そこまで極端に愛したということ。


 聖ベルナルドの有名な、ラテン語の言葉の遊びですけれども、深い深い言葉です。 “amans quando que amens videtur sed ei qui non anate.” アマンス(amans)は愛する人という意味です。アメンス(amens)は馬鹿という意味です。愛する人は時々馬鹿に見える。ただそれは愛さない人にとってだけですよね。愛を知らない人にとってです。神のご聖体のことを考えると、人間になったのはすごい、けれど食物にも、パン、ぶどう酒にもなってくれるということです。そこまで。これに深く気がつく恵みを願いましょう。これを悟る。主はパンになってくださる。食べ物、飲み物。ぶどう酒になってくださる。そこまで愛してくださる。

 聖アウグスティヌスが言うように、神は全能、何でもできる方でありながら、これ以上、聖体以上くださることはできなかった。これ以上できない、自分を与える。神は全知、すべての知でありながらもこれ以上くださることを知らなかった。これは皆さん、本当に神の愛。無限、無条件の愛でわたしたちを愛してくださるということ。だから人はいくら悪くても醜くてもいやらしくても、神は無限の愛で愛している。だから神はその新しい掟をくださいます。「皆さん、わたしはあなたがたに新しい掟を与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したとおりに。」ですからわたしたちも、馬鹿になって仕える。イエスは極端までいきました。弟子たちの足を洗うということ。奉仕する、仕える、これは愛のわざです。愛の具体的な表現ですね。仕える。わたしたちはお互いに愛し合う。イエスがわたしを愛するようにわたしは隣人を愛さなければならない。今日は感謝の祭儀でこれを願いましょう。これを悟る。これに生きる勇気。願えば与えられるから。



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