トップページ おしらせ ミサ配信2020年10月の説教

2020年10月 ミサ説教




2020年9月


年間第30主日 (幼児洗礼式)


英隆一朗神父

10/25(日)10:00- 年間第30主日(手話・一部字幕付き)


 今日は幼児洗礼式ということで小さな子どもがですね、このお御堂に何人もいるので何となく気持ちも和やかになるように思います。日頃のイグナチオ教会の日曜日のミサはちょっと静かすぎるかなという感じがしてですね、だいたい日曜日のミサは子どもが混じっているのがごく普通のことなので、何か今日は日曜日のミサらしい感じもしています。


 今日の福音書でイエスさまが大切な掟を言うわけですね。この掟はたった2つだけで、「心を尽くして、精神を尽くして神さまを愛しなさい」ということと、2番目は「隣人を自分のように愛しなさい」というですね。この2つの掟でであるというわけですね。
 まず最初に神さまを愛するということを言っているということは、やはりわたしたちは心がけなければらないことじゃないかなと思います。日常生活で当然わたしたちは人間同士、家族、あるいは小さな子どもだったらやっぱりお父さんお母さんが世話をしなければないのは当たり前のことですけれども、その中で神さまをまず愛するということ、それをですね、心に忘れないようにしてくださったらいいのではないかと思います。
 もちろんですね、子育てで忙しい時に毎日曜日教会に来るのはちょっと難しいかもしれないし、日頃の生活の中で祈りの時間とかですね、聖書をゆっくり読むということももちろんなかなかできないでしょうけれども、神さまがわたしたちを支えて守ってくださっているという気持ちを忘れないようにしていただいたらいいのではないかなと思います。


 いつも思うことの1つですが、神さまの恵みを一番感じるのはどういう時か。それは、わたしは結婚担当でもあるんですが、やっぱり夫婦の出会いっていうんですかね、この人とパートナーになることが、巡り会って結婚するというところに、まずは神の強い恵みを感じます。 男性と女性がこの人と一生を共にしていこうとする、その出会いと決意、そこに神の恵みを感じるとともに、もう1つは、やっぱり子どもが生まれるということですよね。ここにいつも神さまの神秘、神さまの特別な恵みを感じます。わたしたちは家族の生活を歩むっていうことの中で、やっぱり神に守られている、導かれているということを何か心の底で思い起こすようにしてくださったらいいんじゃないかと思いますね。


 そしてわたしたちは、みなさんの現実は小さな子どもを育てるという、そこにも一番大切なものは愛になると思うんですが、これがなかなか難しいんじゃないかと思いますね。現代は忙しいし、特に共働きされているカップルが今は多いと思うんですが、なかなか子どものケアが十分行き渡らない、ニコニコしたいと思ってもイライラがたまっちゃったり、忙しさとか疲れでですね、子どもを十分に愛することができないということはみなさんしばしば感じられることかもしれない。
 最近知り合いのお母さんからも、「もうパニックでできません、どうしたらいいですか」みたいなメールが来て。人間が人間を愛するっていうのはやっぱり限界があるっていうことですね。人間の多分最大の苦しみの1つは何かといったら、愛したいけど十分に愛せない無力さっていうんですかね。子育てもそうでしょう。あるいは夫婦関係でもそうでしょう。本当は愛したいんだけど十分に愛せない。疲れとか怒りとか、パートナーがちゃんとやってくれない、子どもが言うこと聞かないとか。さまざまな限界があるっていう。でもわたしたちはその限界、弱さを認めなければならないでしょう。そしてわたしたちの人間的な愛に限界があるからこそ、神さまの支えが必要、子育てにおいても、あるいは家族が共に歩んでいく、あるいは夫婦が共に歩んでいくという中でも、神さまの助けがどれほど必要なのかということですよね。あるいは神さまが守ってくださるからこそ、わたしたちの足らない愛を補ってくださっているという信頼と、祈りの中で歩んでいくということだと思います。


 今日は10人の子どもが神の子どもとなるわけですね。神さまが育ててくださると思います。神さまが導いてくださると思います。それを心の中で信じながら、祈りながらこれからも進んでくださったらいいんじゃないかなと思いますね。そして神さまの大きな守りの中で夫婦の関係、親子の関係があると。その気持ちを大事にすることが、子ども自身の信仰が成長していく第一のことだと思いますね。小さな子ども自身が自分の力だけで生きていくのではなくて、神さまに支えられて神の恵みの中で成長していけるという、それが神の子どもとなる最大の恵みと喜びでしょう。

 この幼児洗礼式を通してわたしたちの心を神さまに向けましょう。足らないところを補ってくださるように、これから難しいことがあるかもしれない、それも神の恵みで乗り越えていけるように、そして小さな子どもが神の子どもとして、神の恵みの中ですくすくと成長していくようにですね、皆さん心を合わせて祈りをささげたいと思います。




年間第29主日


呉顯哲(オウ・ヒュン チェオル)神父

10/18(日)10:00- 年間第29主日(手話・一部字幕付き)


 今年はコロナという顕著な時期でもありますが、無事に戻ってきてよかったと思います。
 わたしは神父になったばかりなんですけれども、いろいろな方から聞かれます。神父さまは、神父になったのは神体験がすごいからでしょうか。でもわたしはそう思っていません。少しでもありながら、少しずつ変化してきたわたしを知っているからです。率直に言うとこの変化とは、3つのことで反省できました。

 まずは呼び方ですね。わたしが司祭になって以来、友達や両親や親族などがわたしに対してちょっと遠慮していることに気づきました。同時にわたしも周りの人々に対して態度が少しずつ変わってきたことに気づきました。新しい関係にきっと召された、呼びかけられたと思います。

 次は前よりも周りの人々からお祈りをたくさん頼まれました。今までは修道士として個人の祈りばっかりと言ってもいいですかね。聖人たちの模範に従ってわたしも見倣おうとしたんですけれども、神父になってミサを捧げることによってたくさんの人々から祈りを願われました。一緒に祈ることができてよかったと思います。むしろ、神体験とは祈りを一緒に唱えることによってだんだん成長していくものだと気づきました。

 最後には周りの人々の変化です。わたしは韓国に6月くらいに戻ったんですけれども、本当に10年ぶりに連絡できた人が多かったですね。10年前、修道会に入会して別れた友達や知り合いたちと連絡を取ったとき、久しぶりに彼らの事情を聞いて、「わたしは呉さんが叙階されたらその日にわたしは回心します」とか、「堅信を受けます」とか、そういうふうに話しているところを見ると、そうだったの、とわたしは反応したんですけれども、びっくりしました。神さまはわたしが知らないうちに彼らの中に良い機会を作って助けてくださっているかなと思われたからです。


 新司祭としてイグナチオ教会に招かれて説教するのも光栄なんですけれども、昨日まで説教の準備をするたびにちょっと困りました。どう見ても今日の福音は政治的にみられたからです。そもそも政治って不要な緊張感を与えることもあるじゃないですか。わたしもそう感じていて、どう皆さんに伝えればいいかと悩みました。

 今日の福音ではイエスさまとその反対側の敵対者の間での対立が表れています。問題になったのはローマ皇帝に納める税金の問題でした。皆さんがご存じのように、イエスさまの時代はローマの植民地統治の時代でした。イエスに敵対感を抱いていた人々は公に罠をかけようとしていたと、今日の福音は宣べ伝えています。もしその時イエスさまが一瞬間違って答えたら、わたしたちはここに集まることができなかったかもしれません。もちろんご自分の民族から追い出されなかったから、敵対視されてなかったからこのイエスさまの福音をわたしたちは生きています。

 今日の福音のイエスさまのように、現代、いつもこの問題に取り組んで答えを一生懸命探している方はどなたですか。教会の中にいらっしゃいます。そうです、わたしたちの教皇さまです。
 幸いにフランシスコ教皇さまは昨年日本にいらっしゃっいましたよね。そして2014年には韓国にも訪問されたことがあります。教皇さまはどこへ行かれてもいつもご自分の政治的な立場、あるいは意見を尋ねられる・質問を受けることが多いです。日本では平和と原発問題だったでしょうか。韓国では2014年に起きた大きな船の事故に関して、政府から救助されなかった被害者たちの問題が主な問題でした。当時バチカンに戻る飛行機の中で教皇さまは記者たちにこう質問されました。「韓国政府がそこに訪れることすら反対しているのに、そしてもう決まっている日程まで調整して、教皇さまは今回韓国の船の遺族たちと会ったんですが、それは政治的な行動ではないのでしょうか。」罠みたいですね。その質問に対して教皇さまはこのように答えられました。「人間の苦しみの前で政治的な中立なんかないのです。」
 そのニュースに接してもちろん遺族たちは慰められました。そして多くの国民が感動を受けました。違う立場にいた人々には嫌われたかもしれません。その日教皇さまが韓国で敵をたくさん作ったかもしれないのですが、そのためにわたしたちは教皇さまの教えをいただくことができました。個人的には申し訳ないことなんですけれども、教皇さまひとりにすごく苦労させているのではないかと、たまにわたしは反省します。皆さん、政治的なことに取り組んでいくことに必要以上に怖がっているのではないでしょうか。ニュースに出そうなことだけ、つまり平和問題、環境問題など大きな問題だけが政治的なものではありません。意外にわたしたちの日常の生活の中で政治的な立場を決めなければならない場合が多いのです。時によって沈黙することも政治的に解釈されることもあります。

 福音にもう一度戻ってみたいと思います。
「『税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」


 ここで今回わたしが福音から読み取れるのは2つに要約できると思います。

 まずイエスさまは税金を納めること、すなわち地上に権威を持っている人と天に権威を持っている方との対立をさせなかったことです。むしろすでに心が2つに分けられ互いに対立して分裂しているのはどちらですか。イエスさまは最初からそれに巻き込まれたくなかったのです。

 次にイエスさまは神さまの優先性、つまり人間の命や歴史の主人である神さまを思い起こさせます。わたしたちを神に属している者として捉えるべきだと教えてくださっています。


 わたしは2017年に-また余談ですけれどもすみません-日本に来て勉強を続けています。けれどもわたしがやっていないことが1つあります。それはサッカーの日韓戦で応援することです。わたしの神学院には日本人も住んでいるし、ほかの国の人々も一緒に住んでおります。それで、日韓戦を見たいんですけれども、勝っても負けてもお互いに困るから、ちょっと遠慮してます。それを知っているかどうかわからないんですけれども、自分なりに実践してきたものです。

 そのように、わたしは韓国人として韓国人に属しています。皆さんもそれぞれ家族、あるいは友達、学校、職場、政治国家に属しているはずです。自分が属している共同体や組織を越えた次元の教えを受け入れることが大事だと思います。他の人たちの立場などを考慮するのは難しいです。人間的に簡単ではないものです。もうちょっと頑張って神さまのようにあたたかい視線で、もっと弱い立場にいる人々を見つめることができるようお恵みをこのミサで一緒に願ってまいりましょう。




年間第28主日


英隆一朗神父

10/11(日)10:00- 年間第28主日(手話・一部字幕付き)


 マタイの福音書には天の国のたとえ話がさまざまあってですね、最近の日曜日はそのおもなお話を次々読んでいるような形になっています。今日は、天の国は王子のですね、結婚披露宴のようなものだということですね。
 残念ながら今、コロナのおかげでほとんど人がいっぱい集まるパーティーそのものができないので、ちょっと心苦しいところもありますけれども、王子の結婚披露宴ということは明らかに神の国の喜びと言うんですかね。婚宴とかパーティーというのは明らかに神さまの救いの喜びを表しているイメージですけれども、そこに多くの人が呼ばれているのに、多くの人は仕事とかですね、何かで忙しくてそれに応えなかったということを1つは語っているわけですね。
 イエスさまがせっかく多くの人に救いのわざを宣べ伝えながらそれに応える人が非常に少ないというのは、日本を見ててもそうですが、現実的にですね、この通りだなというふうに思います。ただここに集まっている皆さんは、日本の中で数少ないですけれどもイエスさまの招きに応えて結婚の披露宴に、招きに応えて参加している方々だと言えるでしょう。そしてまたネット中継を見ている方々も、同じようにですね、やはり神さまの婚宴の喜びに、結婚式の喜びに招いてくださったその招きに応えて、そしてその喜びを分かち合っているというふうに言えるだろうと思いますね。


 この神の国の喜びを結婚式のパーティーにたとえているというのは非常に意義深いという気がしますけれども、皆さんも時々なにがしかのお祝いのパーティーに招かれることもあるんじゃないかと思いますね。そのパーティーに何のために行くかといったらだいたい2つくらいかなといった気がします。もちろん花嫁さん花婿さんと知り合いでですね、ぜひとも喜びを分かち合いたいということでパーティーに参加される方々もおられるでしょうし、もう1つはですね、パーティーに行けば知り合いに会えるので、知り合いとの交わりを、ずっと花嫁さんと話しているわけにはいかないですから、参加したメンバーと話し合いというんですかね、旧交を温めたりする、そういう2つくらいの喜びでパーティーに参加するんじゃないかというふうに思いますね。そしてやはりこの2つともが大事だと思います。


 わたしたちが神の国に招かれているこの大きな喜びは、1つは、この王子さまは明らかにイエスさまのことでしょう。王様は父なる神さまのことだと思いますが、やはり神さまとの交わり、自分が救われる喜びや恵み、慰め、それをミサに出て味わえるということが1番大きな神の国の披露宴に招かれる喜びでしょう。
 それと共に2番目のことは、パーティーに参加している参加者同士が一緒に食事をしたり、お話しをしたりできる喜びがあるということですから、それも神の国で非常に大事だということだと思いますね。パーティーというのはパーティーに参加した者同士がお互いしゃべり合ったり分かち合いをしたり、そこに大きな喜びがあるということですね。
 めったにパーティーとか参加しないですけれども、ほんの時々呼ばれることもあります。呼ばれて参加を躊躇するのはどういう時かっていったら、パーティーに知り合いが誰もいないであろうというパーティーに参加するのが、実はわたしは人見知りだから、それが苦痛ではありますけれども。実際行ったらですね、誰も知り合いがいない、もちろん主催者とは知り合いですけど、そこに来ている人々と全然知り合いじゃなかったらですね、そのパーティーに出ているのが苦痛で、友達がいないと無駄話というか世間話する相手もいないし、最初からあなた誰ですかみたいな感じで話をしなきゃならなかったり。だからパーティーに出るのがおっくうになるのは、パーティーに友人がいるかいないかというのがかなり大きい。誰か1人でも友人がいたらその人としゃべったりするからOKなわけですが、神の国も同じかもしれない。つまり神の国の喜びは、神さまとだけの交わりが喜びではなくて、神の国に参加している人間同士のつながりが神の国の喜びだということですね。

 この教会にしろ、現代社会にしろ、人間同士のつながりが残念ながら弱くなっているということがこのお話の1つのポイントになるかもしれないですよね。神の国は神さまと自分だけの世界じゃないっていうことですよね。神の国は神と自分と仲間とのつながりの中で神の国があって、その人間同士のつながりも神の国の大きな喜びの中にあるということですよね。
 それを今日は変形的な、教会祭というものではないですけれど、教会のことをわたしたちが祈るときにやはり互いのつながりということを思い起こしたいと思います。本来ならばこのお御堂だっていっぱいの人と一緒にミサをささげたいと、本当にそういう気持ちですが、こうやってソーシャルディスタンスをとれるほんのちょっとの方しか参加できていないですけど、でもディスタンスをとることが人間同士のつながりを妨げるものになってしまったらこれは本当に残念なことじゃないかと思います。


 そしてこの面白いのはですね、3か所の中に婚礼の礼服を着ていない者が1人いたと。そしてこの礼服を着ていない者がですね、パーティー会場から追い出されてしまうというエピソードが後半に出てくるわけですが、これも非常に印象的なエピソードだという気がします。日本人はそういう人は少ないですよね。日本人は合わせるのが得意ですから、TPOにふさわしい服装をしている方がほとんどだと思います。でも礼服っていったい何のためにわたしたちが着るのかといえば、礼儀作法そのものの本質は何かって言ったら、思いやりの心ですね。礼儀作法、礼服。だから結婚式のパーティーに招かれていたら喜びを表す服を着るのが当たり前のことでしょう。そしてお葬式に招かれたらそれは悲しみを分かち合う時ですから、悲しみを表す服を着るべきでしょうし、ロックコンサートとか、行かないですけど、そこに背広で行ったらおかしなわけで、やっぱりそこにある喜びや悲しみや、お互いのつながりを表すものが服装だということですね。それは表現なわけですよね。
 心の態度を服装に表すということですから、喜びであれ悲しみであれ、遊びであれ、ちょっとフォーマルな集まりであれ、それは自分の心をそこに参加している人と分かち合うしるしとして、ふさわしい服を着るということですよね。これは僕は交わりの大切な表現だと思います。神の国の喜びの中にいるならば神の国のつながりを感謝して喜びを分かち合う態度を、服だけの問題じゃなくて態度の問題も全部含まれてますよね。そのようなつながりっていうか、教会のメンバーであるっていうことも同じだと思いますね。共に喜び共に悲しむ、共に歩んでいるということを姿で、行動で、態度で表していく、お互い同士でですね。それが神さまのつながり、人間とのつながりを表しているごく自然なことだと思います。
 だからこの人が追い出されてしまうのはやっぱり仕方がないでしょう。だからミサに参加する、あるいは教会の集まりに集まるということも互いに心を合わせるということですよね。今のミサは別にね、一昔前は男性は必ず背広とか、あんまりドレスコードはもうないですが、やっぱり服装だけじゃなくて、心がけですよね。心と表現とつながりの1つの表すものとしてわたしたちがどのような態度で神の国、そして教会のつながり、社会のつながりもすべてそうだと思いますが、そのような心を大切にしていきましょう。コロナの中でもイグナチオ教会としてなるべくめげずに参加できる人は参加して、できない人はネットでとかですね、さまざまな形でつながっていこうとしていますから、そのような神さまとのつながり、互いのつながりを大切にしながらですね、これからも歩んでいけるようにともに心を合わせて祈りをささげたいと思います。




年間第27主日


村山兵衛神父 (初ミサ)

10/4(日)10:00- 年間第27主日(一部字幕付き)


 今日の福音では2つの大切なことが言われていると思います。1つは「思い直す」こと、そしてもう1つは「神の果てしなく忍耐強い愛」です。今日の福音は「もう一つのたとえ」という言葉から始まっています。これは先週の福音の中にあるたとえから続いて語られる物語なんですが、やはりここでは先週に続いて「後で思い直す」ということと、神の親心の誠実さとでもいったようなものがたぶん大事なメッセージにあると思います。これは、頭と口先だけで神に従う指導者たちへの厳しいメッセージよりも、もっと大切なことだと思います。


 さて、先週の福音はどんな福音だったかというと、イエスが祭司長や長老たちにあるたとえを語った物語でした。2人の息子についてです。兄の方は父からぶどう園に行ってほしい、働きに行ってと言われて、最初は断ったんですが「後で思い直して」出かけました。弟の方は「我こそは」と言って出かけようと約束したんですけど、結局出かけませんでした。こんなことが書かれていましたね。「あなたたちよりも、祭司長や長老たちよりも、徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入るであろう」と。自分の弱さや自分の罪深さを知る者の方が、神の憐れみ、神の救いを先に知ることになる、そのようなことが先週の福音のメッセージでした。

 そのような自分の罪を悟った人、神の赦しを悟った人に比べると、農夫たちは滑稽で悲劇的です。このたとえの意味は、たぶん比較的分かりやすいものだと思います。ぶどう園の主人は神です。ぶどう園は神の民イスラエルです。農夫たちはその民の政治的宗教的な指導者です。そして殺される主人の息子とは、イエスご自身です。そしてこの農夫たちに下される裁きは最後の審判を指しているのだと思います。今日の福音のたとえは祭司長や長老たちにあてて語られました。興味深いのは、たとえについてイエスが語っているんですけれども、最後の部分、つまり農夫たちがどのように裁かれるかについては、イエスではなく、祭司長や長老たち自身が答えているところです。
 「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。祭司長や長老たちは、殺すべきだ、復讐すべきだというふうに答えます。人間が神の立場になり替わると、このように考えるのだと思います。これは皮肉です。皮肉にも、自分のことを「思い直す」べき者、回心すべき者たちが思い直すこともなく、そのような自分に容赦のない裁きを下すことになってしまったのです。


 さて、イエスならこの農夫たちにどのような裁きを下すのでしょうか。マタイ福音書は、読者が自分で考えるように招いています。カギとなるのは、神の忍耐強い愛、忍耐強い親心ではないかと思います。
 人間は世の中の不正に対して、自分がしたとは知らずに、厳しい裁きや復讐を考えます。しかしイエスの父は、わたしたちが人間的に想像するような怖い神ではありませんでした。忍耐強い神です。本当はわたしたちの方が自分の行いや思いを改めなければ、先に思い直さなければいけないのに、神の方がわたしたちよりも先に何度も何度も、裁きを思い直そうとされるのです。これは神のわざ、わたしたちの「目には不思議に見え」ることです。どうして主人は自分が旅立つ前に、これほどぶどう園を整えていったのでしょうか。でも農夫たちは何度も何度も、その主人の思いに応えず、ある意味親不孝を繰り返します。主人はそれでも、遣わした者が殴られ、殺され、自分の大切な息子まで派遣して、それでも殺され、ある意味で痛々しくて滑稽です。でも、これが、神のやり方なのだと思います。神はわたしたちをご自分の神の国に招くために、このようなやり方で何度もわたしたちに自分を思い直すように呼び掛けているのだと思います。

 「親の心、親心子知らず」という有名な言葉があります。親の思いが子には通じないということなんでしょうけど、子からしてみれば親の気持ちなんかわかったもんじゃないというか。ある意味「親ばか」なのかなと、自分でも振り返ってしまうようなことがあるのかもしれません。しかし神は「親ばか」を通り越しています。人間に想像もできないほどの父の思い、母の心を神は示します。何度も何度も、農夫たちに人を派遣して、何度も裏切られて、大切なものを傷つけられて、それでも自分の息子を派遣して、しかも殺されてしまう。これを「親ばか」以上のものというのではないでしょうか。それはわたしたち人間のことを自分の子どものように本当に呼び掛け、招き、受け入れようとしている神の「親ばか」なのだと思います。農夫たちを殺す代わりに、神は殺されてしまったご自分の御子を、復活させました。これが、隅の親石。主のなさったこと。わたしたちの目には不思議に見えることです。

 人間が神になると、復讐や裁きをやめることがありません。しかし、神が人間になると、果てしない愛、限りない忍耐を示します。わたしたちはもしかしたら、農夫なのかもしれません。わたしたちは、思い直すように招かれているのだと思います。回心して、神の親心を信じましょう。祈りのなかで、毎日の生活のなかで、他人の罪ではなく自分の罪を思い返し、忍耐強く兄弟姉妹を受け入れ、また受け入れてもらえることを慎んで受け入れ、お互いを敬う恵みを願いましょう。この福音がわたしたち自身のうちに実現されますように、赦された子どもとして、父なる神に信頼しましょう。




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