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2020年11月 ミサ説教





2020年10月 | 2020年12月


待降節第1主日


マヌエル・シルゴ 神父

11/29(日)10:00- 待降節第1主日(手話・一部字幕付き)


 今日から教会の中で待降節が始まります。待降節、「待」というのは待つという意味ですね。そして「降」というのは降りる。イエスが、神さまがわたしたちの世界に降りてくださるまでわたしたちは待つ。その時期なんですよ。

 わたしたちの時代の人々には、待つというのは非常に難しいですね。今の時代はある意味でインスタントの時代です。何でもインスタントですよ。インスタントラーメン、インスタントコーヒー、インスタントタバコ。昔、わたしの小さい時、父親はタバコを吸いたい時にまず紙を出して、そしてポケットからタバコを出してそこに入れて、それでやっと1本準備できたんですよ。大体10分から15分くらいで全部できたんですけれども、そんなに急がなかったですよ。今は自動販売機にお金を入れてボタンを押せば20本出てくるわけです。待つことを知らない世代ですね、わたしたちは。そういうすぐ結果が出る、それにわたしたちは慣れてきたんです。まさにインスタントの世代と言えるかもしれません。

 教会の暦の中で待降節を行うのは、わたしたちにとって非常に大きなメッセージがあるような気がします。
 まず待つこと。イエスが来られるまで待つ。わたしたちの日常生活の中でも待つというのは非常に大切なんですよね。子どもたちが成長するまでわたしたちは待たなければならない。わたしたちはいろいろなものを身につけるためには時間が必要でしょう。待たなければならない。「待つ」ということは今日から始まる教会の待降節のメッセージだと思います。


 わたしたちにとって待降節というのは待つ時期ですよね。その待つというのはどういう意味を持っているか、わたしは2つの意味で言えると思います。
 1つは単にイエスさまが来られるまで、神さまがわたしたちの世界に来られるまで、わたしたちの日常の生活に来るまで待つというのは必要。その意味も1つだと思います。ご存じのことだと思いますが、コヘレトの言葉の中にこういう文章が書いてあります。「何事にも時があり、生まれる時もあれば死ぬ時もある。泣く時もあれば笑う時もある。」聖書の中にはそういうふうに書いてありますけれども、時期がある。時期が来るまでわたしたちは待たなければならない。時期を待つというのは神さまがわたしたちの世界に、わたしたちの日常の生活の中に降りてくださるまで待つ。その待つ心というのが多分、待降節の一番中心的なメッセージでしょうと思います。何を待つかということですね。イエスがわたしたちのところにいらっしゃるまで。ところが待つためには、わたしたちに必要なことはある意味で我慢強く、というわけです。
 昔わたしは松本神父様、やがてこちらの主任司祭になったんですけれども、管区長の時には補佐としてそばで働いていたんです。神父様といろんな話をした時、わたしに向かってこうおっしゃったんです。我慢、我慢、我慢。待つということでしょうね、待つ。わたしたちにとって待つのは難しいですね。

 「待つ」のもう1つの意味は希望を持つ、望むですよね。望みながら待つ。スペイン語で待つというのは”esperar”と言いますけど、ところが望むということも”esperar”、同じ言葉なんですよ。意味は違いますけれども同じ言葉ですね。ラテン語の”spes”というのは希望、そこから来るわけです。だから待ちながら、あるいは望みながら待つということは待降節のメッセージだろうと思いますし、クリスマスを待つ間にわたしたちが持たなければならない心の持ち方だろうと思います。神さまがいらっしゃるまで待つ。希望を持って、どんなことがあっても、どんな出来事に囲まれてもわたしたちは神さまを待つ。コロナウイルスの時代にもわたしたちは待つというのは非常に大切な心の持ち方だと思います。


 今日から始まる待降節の中で、そして特に日曜日のミサの中で皆さんと一緒にお願いしたいのは、待つ心を与えてくださるようにということです。焦っても仕方がない。わたしたちの世代の中では我慢しなければならない。そして望みながら、希望を持ちながら待つ。多分今の時代のわたしたちにとって、こういうメッセージはもしかしたら一番大切かもしれません。毎日テレビなどを見ますと、感染する人たちの人数はどんどん増えているわけですよね。日本はまだ他の国に比べれば少ない。でも、それにしてもだんだん増えているわけです。その時こういうメッセージがですね、待つと。簡単にわたしたちが解決できるわけではないですよ。待つためにはわたしたちの心の中に希望を持ちながら我慢するということです。この希望、待つ心、そして我慢強く生きる。その恵みを今日ミサの中で皆さんと共に神さまにお願いしたいと思います。今日のミサに与っているわたしたちのためだけではなくて、すべての人に、特に今の時代ですね、どうなるかわからない不安、そして不安を感じている方々がたくさんいらっしゃるわけですよ。その時代の中でわたしたちにとってこのメッセージは大切であるし、そしてわたしたちはキリスト者として人々に希望を与えながら待つ心をわたしたちもある意味で見せなければならない。神さまにわたしたちはキリスト者としてそのメッセージを身をもって人々に伝えることができるその恵みを、今日心を合わせて皆さんと一緒に祈りたいと思います。





王であるキリストの祭日(結婚感謝ミサ)


英隆一朗 神父

11/22(日)10:00- 王であるキリストの祭日(手話・一部字幕付き)


 今日は11月22日なんですが、日本では実は今日は「いい夫婦の日」ということになっていてですね、単なる語呂合わせではあるでしょうけれども、たまたま今年はこの「いい夫婦の日」に結婚記念感謝ミサをささげるというのも非常にふさわしい日になったのではないかと思います。そしてまた、カトリックの典礼では「王であるキリスト」といってですね、年間最後の主日になります。来週から待降節、アドヴェントに入るその前の最後の日曜日ということなんですが、それに合わせてこのマタイの福音書25章ですね、有名なイエスさまのたとえ話が朗読されました。


 このお話を読んで大事な点はいくつかありますけれども、1つは右側にいる人々、この人々は小さな人々や困っている人に関わったというかですね、関心を持って何かをした人々が評価されている。逆に左側にいる人々は何もしなかった。小さな人や困っている人に何もしなかったということで神さまから評価されていないということですね。

 これを見るときにやはり夫婦の関係も大切なことじゃないかなと思います。当たり前ですけど関心と関わりを持って2人で歩んでいるかどうか、それも非常に基本的なことじゃないかなと思います。逆に左側にいる人々のように、一緒に暮らしながらまったく関わりがないっていうんですかね、無関心というか。そうなってしまうのは一つの悲劇であるというふうに言えるでしょう。

 神父ですからいろんな人からいろんな相談とか受けます。様々なことの積み重ねの中で、2人が関われなくなってしまうということや、もう話ができなくなったということも現実としてあるように思います。できれば新婚の時からいつでも互いにですね、関わり合いを大事にできるかどうかということですね。

結婚講座の担当もしていますから結婚する前のカップルとか結婚講座をやってるんですけど、2人で話し合ったこと、講座の中で話し合ったことをですね、家に帰っても2人でいろいろ、ああでもないこうでもないと話してます、ということを聞くとやっぱりうれしい気持ちがしますね。夫婦で、何かあることを分かち合ったり語り合ったりできる。たとえば、この中にもいっぱいおられますが教会でご奉仕されている方々の中でも、何かのふとした雑談のような時にですね、何かあるテーマについて家に帰って奥さんと、あるいは旦那さんとこうこうこういうお話しをしましたという話を何かでちらっと聞いたりすると、ああやっぱり夫婦でもちゃんとそうやって様々な出来事を2人で分かち合ったり話し合ったりされてるんだなっていうか、そのことが非常にですね、内容はともかく2人で話し合っているということに感銘を受けたりします。いくつになっても、カップルによって違いますけども関わり合いを、関心を持ちながら互いのことを思い合ったり分かち合ったり話ができたりする、それがやはり本当に一番大切なことじゃないかなと思いますね。


 さらに言うならば今日の福音書はただそれだけじゃなしにですね、小さい者のひとりにしたのはわたしにしてくれた、「わたし」ってこれはイエスさまですけど、困っている人や苦しんでいる人に何かをするってことは、困っている人を助けるだけじゃなしに、その中におられるイエスさまを助けることなんだということなんですね。これは本当にキリスト教の偉大な神秘の1つだというふうに思っています。多分それは夫婦の中でも同じじゃないかと思います。どっちかが困ったり悩んだり行き詰まったりとかいろんなことがあると思いますが、それで心配して片方の人が何かをしようと思ったりされると思うんですが、そこにですね、イエスさまがおられるという。あるいはその中にイエスさまを見出す、そこに神さまの働きを見出していけるかどうかということが信仰者としてですね、もっと問われるというか、もって深めることができる大きなポイントじゃないかというふうにしばしば思います。


 先ほど言いましたようにわたしは結婚講座の担当もやっていて、プラスですね、不幸なことに離婚をして再婚される方の場合は無効宣言というのをとらなきゃならないんで、その担当司祭もやっていて、難しくなったカップルの話も結局いろいろ聞くんですが、根本的な考えは何かといったらですね、教会で結婚するということは神さまが結び合わせてくださった。わたしたち人間的な思いや意図を越えて、神さまが2人を結び付けてくださったというですね。結婚にしろ何にしろその大前提に立って司祭として関わることになるわけなんですけれども。やはりこの2人の関わりには神さまの結びつきというですね、わたしたちからちょっと見出しにくいものではありますが、神さまの神秘的な結びつき、あるいは働きがこの夫婦の中にあるというですね、その大きな前提の中にわたしたちの結婚生活や家庭生活があるということなんですね。それをわたしたちが少しでも見出すというか、それを感じることができるならば夫婦の間にある喜びにしろ悲しみにしろ、それは単なる人間的な悲しみや喜びを越えた、何か神さまとの関わりを深めていく大きなきっかけとして与えられているのではないかということなんですね。

そして夫婦の関わりは結局祈りにつながっていかなきゃならないというか、つながっていくしかないという気がします。それが今日のように感謝の祈りでもあるし、苦しみを乗り越えなきゃならない心からの願いをささげていく祈りになるかもしれないですけれども、そのようなことをやはり強く感じます。だからいろんなカップルを見て思うんですけれども、うまくいっているカップルもあればあんまりうまくいっていないカップル、非常に難しいカップルもさまざまですが、でもわたしはもうどれがいいとか悪いとか、どれが成功した結婚でどれが失敗した結婚とかまったく言えないというかですね、そこに神さまの意図、神の恵みをくむことができるならばその結婚は秘跡として神のみ手の中にある。その恵みをわたしたちは今日も明日も共に歩んでいけるものだと思いますね。

 ついでに言うと教会ではお葬式もいっぱいやっていてですね、結局どんなに仲のいい夫婦であったとしてもやはりいずれ片方が、どっちかが先に天に召されるわけですから大きな悲しみもやはり受け止めていかなきゃならない。でもそのすべてに神のみ手を見出していけるからこそ、わたしたちは感謝と信頼のうちに生涯歩んでいけるんじゃないかというふうに思います。


 今日は25周年と50周年の区切りの方の感謝ミサですけれども、本当にこの方々が、そしてこの方々だけじゃなしに結婚を望んでいる、今歩んでいる、あるいは難しさを抱えている方々すべてにこの神さまの導き、神のみ旨を見出して神さまに従っていく。神の恵みを分かち合っていく。そのような喜び、恵みが与えられるようにですね、心を合わせて祈りをささげたいと思います。





年間第33主日


ヘネロソ・フローレス 神父

11/15(日)10:00- 年間第33主日(手話・一部字幕付き)


 この2週間、3週間前から教会で日曜日のミサにはマタイ福音書の25章を使っています。今日もそうです。そしてこの25章の終わりに最後の審判のたとえ話ですね。今日のたとえ話はいろいろ考えさせて、反省させてくれると思いますよ。1つのことを皆さんと一緒に考えたいと思います。

 タラントン、大きなお金ですね。けれど主はすべての人々に、一人ひとりそれぞれの力に応じてタラントンをくれました。
 わたしたちはみんなもちろん欠点がありますけれども美点もあります。残念ながらたくさんの人は欠点ばかり見ていますよ。美点もある。美点もあります。強いところ、弱いところもありますけれども強いところもあります。これはみんな。残念ながらたくさんの人はその強い美点を知らない。欠点ばかり見て。今日は一つのことを主に願いましょう。与えられた美点、いいところ強いところも素直に見て、それを発見して、そして感謝する。
 大切なのは、マタイ25章のこの主人は出かけた、そしてお金を預けたでしょう。けれど帰ってくるときに清算を始める。わたしたちも最後の審判、あるいは死ぬときに、主に出会うときにやっぱり清算があります。わたしたちは与えられたいいところをまず認めなければならない。素直にですね。


 けれどもどういうふうにこれを使ったか。今日のたとえ話で、働いてこれをもっともっと成長、育んで、養い育て成長させる。これはすべてわたしたちの当たり前の義務ですよね。生涯のあいだ成長していく。互いに成長させ合う、これは愛のわざだと思いますよ。わたしたちは清算のとき何を、もらったものをどういうふうにわたしは養い育てることができましたか。傲慢はいらないですよ、与えられたものですから。けれどもただ喜ぶ、それだけじゃなくて、わたしたちの美点を使って、できるだけ隣人にお役に立つように。これですよ。わたしたちの美点、わたしたちが頂いたいろいろないいところをできるだけ平和のため、友情のため人のために使う。こういうふうにわたしたちは成長していくんです。

 そして主人は与えられた。これもあります、たくさんの人を。最後の審判でご存じの通り裁かれるのは一つだけでしょう。何をやったか、あるいは何をやらなかったか。人にやったことはわたしにやったと主は言うでしょう。だからわたしたちも持っているいいものを、美点を認めて、感謝して、そしてそれを養い育てる、育むということでしょうね。人のためにお役に立つ、これですよ。ご覧の通りこれは、ただエンジョイしてという自己中心ではなくて、他人中心であるということ。すべては人のため、人のため。

 今日のこの感謝の祭儀で自分のいいところを認めて、そしてそれを見出すように願いましょう。おそらくこれ、これ、これは言われたからやりますけど、まだまだありますよ。たくさん。だからいいところを、鏡で見る顔だけじゃなくて、いいところがあります、みんな。これを発見して使う。人のために。自己ではなくて他人、やっぱり隣人。この恵みを今日は願いましょう。





年間第32主日 (子どもとともにささげるミサ)


ダニエル・コリンズ 神父

11/8(日)10:00- 年間第32主日(手話・字幕付き)


 結婚式に参加すること、ご存じですか。参加したことがある人、手をあげてください。少ないですね。日本で結婚式があって、その式が終わったらよそのところに行き披露宴というお祝いをする習慣がある。日本の場合にお客さまが集まって指定席に座って、そしてドアを開けて新郎新婦が入ってくるんです。それは普通の日本の式です。しかし今読まれたユダヤ教の習慣によりますとそうじゃなく、お客さんは新郎新婦を待ちながら準備する。そして新郎が見えたら新郎と一緒にその披露宴の場所に入ります。みんな入っていると戸を閉めてしまうんです。だからまったく逆ですね。日本の場合はお客さんが入って、そして新郎新婦が入ってくる。この社会の中は逆です。新郎新婦と一緒にお客さんが入るんです。だからこういう場です。

 ただもうひとつの違うところは、これは何千年も前のことですから電気がなかった。じゃあ電気がないと光はどうするんでしょうか。このようなろうそくみたいなともしびがあって、一人ひとり自分のともしびを持って、そして準備として油、前もって油をたくさん詰めておく。油が必要です。今の福音の10人のおとめたちは、5人は愚かで5人は賢かった。賢いか賢くないかという基準は、準備しているかどうかということですね。だから今日のたとえ話の中で一番大事なのは準備しているかしてないか、そしてタイミング。いつ見えるかわからないんですから、いつでもできるような準備をしなければならない。待つことはきついですよ。


 わたしは兄弟3人、男性3人でわたしは末っ子。だから兄貴2人上にいる。毎年クリスマスの思い出があったんです。サンタクロースが必ず24日に来る予定です。そしてわたしたちは3人で毎年待って待って、サンタが見えるまで目を覚まして待つ。一度も見たことないです。わたしたちが眠ってしまえばサンタが入ってくる。そして25日、クリスマスの日は目が覚めるとプレゼントが置いてあるんです。サンタが来たんです。

 待つことはつらいと言いながら面白い。必ず来るという確信を持って積極的に待って、今年は見える、今年は見えると。いやいや、見えないです。同じです。神さまはいつ来るか、どういう形に来るか、どういう時期に来るかわかりません。わからなくてもいいんです。一番大事なのはいつ来るかよりも、わたしたちは十分に準備できているかどうかということ。準備することはそのともしびを整えること、油と一緒に。
 わたしたちは主イエズス・キリストがいつ来るかわかりません。前もってこの日とかこの場所とか、この事情は言えないです。わからない。だから待つことは待つんですけれども、自信を持って待つこと、積極的に待つこと。わたしたちはそうすべきです。

 ですからわたしたちは自分の生活の中にキリストがいつ来るかわからない。わからなくてもいいんです。それは向こうの問題です。わたしの問題としては準備しているかどうかということ。わたしが本当にいい子になるかどうか。ごく平凡な日常生活の中でわたしが、お父さんお母さんがおっしゃることを大切にするかしないか、そういう準備ですね。学校でみなさん一緒に学校の生活を送っているんですけれども、仲良しになっているかどうか。
 わたしたちはいつ来るかわからなくてもいいんです。しかし来るときにわたしたちは準備できるかどうか、それが一番大事です。できますか?できるか、本当に。今日からその準備ができるように約束しましょう。神さまは必ず来る。神さまはどういうふうに来るかわかりません。いつ来るかわかりません。わからなくてもいいんです。神さまは来ることは来るんです。わたしは待っているひとりですから、本当に準備できているかどうか。今日から反省をしながら準備しなければならないと思います。必ず来る。待ちましょう。





諸聖人の祭日 (初聖体)


英隆一朗神父

11/1(日)10:00- 諸聖人の祭日(手話・一部字幕付き)


 この記念の日にあたって今日のイエスさまの言葉を、みなさんはできれば心にしっかり刻んでほしいと思うんですね。有名な言葉なんですが「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉なんですね。心の貧しい人々は幸いである、とイエスさまがおっしゃったんですね。
 でも日本語としてちょっとおかしいでしょう。普通は心が豊かな人が幸せなはずで、心が貧しい人っていうのはあんまり幸せじゃないというふうに考えるのが普通でしょう。心が豊かで満足していて、心があったかくてですね、そういう人々こそ幸せだというふうに考えるべきだと思うんです。次もそうなんですけど、悲しむ人々は幸いであるとイエスさまは言うんです。でも悲しむ人々って普通幸いじゃないですよね。喜んだりうれしい気持ちがする人が幸いというか、幸せだと思うんですよね。じゃあイエスさまは何で心の貧しい人々や悲しむ人々に幸いだって言ったのかということなんですよね。 それは、何でそうかと言ったらですね、簡単に言えばイエスさまが言ったからなんです。あるいはイエスさまがそこにおられるからこれが成り立つということなんですね。みなさんもあるでしょう。心が貧しいっていうか、普通の言葉で言ったら心細いこととか、心が何か寂しい時とか不安になったり、恐れを感じたりする時があるでしょう。でもそこにですね、その時にイエスさまがみんなに「大丈夫だ」って言ってるのがこの言葉の本当の意味なんですね。幸いって書いてありますけど、これはイエスさまがみんなに「大丈夫だ」って言ってるんですよ。

 あるいは悲しい時もあるでしょう。悲しかったり怒ったり、つらい時がみなさんの中にあるでしょう。でもその時にイエスさまがそばにいるから「大丈夫だ」ってみんなを励ましているんですよね。だからみなさん、今日ご聖体をいただいてクリスチャンとしてこれからさらに生きていく時に、この言葉を僕は心にしっかりと刻んでほしいと思います。心細い時とか不安な時とかですね、悲しい時とか、つらい時こそイエスさまがそばにいて「大丈夫だ」って励ましてくださっているんですよね。
 ここは全部ね、細かく説明しないですけど、この8つは全部励ましの言葉なんですよ。大丈夫だから頑張って、落ち着いて一緒に歩んでいこうってイエスさまがわたしたちに呼びかけておられるんですね。時々そういう時もあるでしょう。


 僕は小学生の時ってもう遥かかなた昔だからあんまり覚えていないけど、いくつか覚えていて、みなさんと同じ小学生の頃ですね、細かいことは忘れちゃったけど昼寝してたんですよ。お昼寝してた。で、はっと目を覚まして起きたんですよね。そうしたら家に、その時たまたまそうですけど、お父さんもお母さんも妹も、4人暮らしだったんですけどね、誰もいなかったんです。ぱっと目が覚めた時に家に誰もいないから、ものすごい不安というか寂しい気持になって、あれ、どうしたのかなって、誰もいないって思ってですね。それで小学生1年生か2年生か、ひとりで寂しくて寂しくて、ひとりで泣いてたんですよね。そういう思い出があるんです。


 その時、僕はまだクリスチャンじゃなかったんですよね。クリスチャンになったのはもっと後ですが。でも確かにお父さんとお母さんが急にいなくなっちゃって、妹もいなくなっちゃったら、ものすごく不安で、寂しい気持がしてですね、家の中にたったひとりでってすごく不安な気持ちで。その後どうなったかちょっと覚えていないんだけど、多分お母さんがまず帰ってきて、それで何の問題もなくなったと思うんですが。でもあの時の自分に今の自分が、小学生の時の自分に言ってあげるとしたら、たとえ家族が誰もいなくて寂しくなったとしても、イエスさまがそばにいて大丈夫だよって言ってくれてるというふうに、今の自分が子どもの時の自分に言ってあげると思いますね。だからみなさんも、大人としてみなさんに今日プレゼントすることはそういうことなんです。心が不安な時に、さみしい時にイエスさまが大丈夫だと言ってくださっているっていうことを思い起こしてもらったらいいと思います。


 じゃあ何で大丈夫だって本当に言えるのかといったら、今日この後からですね、イエスさまの体をみなさんの心の中にいただくからです。食べるっていうことはイエスさまの体がこの心の中に入ってくるわけですよね。食道を通って胃に、イエスさまの恵みがみなさんの体の中に入ってくるんですよね。
 これからみんな大きくなるためにいろんなもの食べてるでしょう。毎日ね。お菓子が好きな人とかチョコレートとか。あんまりそういうものばっかり食べてたらお母さんが言うでしょう。栄養のあるものをちゃんと食べなさいと。あんまりね、お菓子とかジャンクフードばっかり食べてたらお父さんとかお母さんにみんな怒られると思うけど、栄養のあるものをちゃんと食べる。だから人参とかピーマンとか、みなさん何が嫌いかわからないけど、そういう栄養になるものをちゃんと食べなさいと、多分言われる。お肉もお魚もバランスよく食べなさいと言われると思うんですけど、それは体のために必要なんですよね。体のために。 じゃあみなさんの心の成長のためにいったい何が必要なのか。イエスさまが必要なんですよね。みなさんの心を、みなさんの寂しさとか不安とか、それを越えて心を成長させていくために、今日いただくイエスさまのお恵みが必要なんですよね。だから今日ご聖体をいただいてから、今はちょっと毎週ミサに与れないでしょうけど、教会学校のミサもあんまり頻繁にはね、今はやってないでしょうけど。でもミサのたびにね、これからみんなイエスさまをいただけるんですよ。それは本当の糧としてみんなの心と体の中に入ってくるお恵みなんですよね。それを、まあ味って言ったって何の味もしないんですけれどもね。今日食べてもらったらわかるけど、あんまり美味しくも不味くもない。味的には。でも心の栄養の塊なんですよね。それをみなさんいただいて、イエスさまと共に毎日の生活を喜びと感謝のうちに、元気いっぱい歩めるように、心を込めて共にお祈りをささげたいと思います。





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