トップページ主日ミサ配信2020年4月の主日 説教

2020年5月


主日ミサ ライブ配信

 新型コロナウイルスによる感染症が拡大し、公開ミサの禁止が続いています。離れていても心をあわせて祈りを捧げることができるように典礼のライブ配信をします

  • ライブ配信は東京大司教の認可を受けています。
  • 「字幕」のついた動画は YouTubeの字幕表示機能をオンにすることで字幕を表示できます。字幕表示機能についてはYouTubeヘルプをご覧ください。

2020年4月の主日ミサ説教




復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

ヘネロソ・フローレス神父

4/19(日)9:00- 復活節第2主日(字幕)


 今日は復活の第2の日曜日ですから復活節ということですね。
 朗読を見ると3つとも同じことを言っている。励ますということ。この復活節、キリストを信じる人の気持ち・ムードは3つの言葉で要約することができると思います。

 1つは喜び。キリストが生きておられる、ということでしょう。生きておられる。十字架で死んで葬られたということを見た。それしかないですね、彼らは。そしてイエスは生きておられる。喜び、当たり前のことです。喜び、それだけじゃなくて、このようなキリストの復活はわたしたちの復活の保証でしょう。だから、喜び。

 もう1つは平和です。イエスは、シャロームですね、ヘブライ語で言えば。あなたがたに平和があるように。これはイエスの挨拶です。その平和は恐れることがないからです。イエスが死んで葬られて復活されたように、わたしたちも復活させられる。それだったら自分の死を恐れることはないんです。もちろん死はあんまり面白くないです。ここから見て、黒いトンネルに入るような。でも、そのトンネルには出口がある。それだけでなくて復活されたイエスは一緒におられますから、だから平和。恐れることはないんです。本当に安心、これはやっぱり信者の気持ちです。どんなことがあっても。もちろん感情的にいろいろありますけれども、心の奥底で、信仰のおかげで平和、そして喜び。

 もう1つは感謝。イエスはわたしたちの救いのために命を捧げられたということ。そこまでわたしたちを愛してくれた。友のために命を捧げる、これ以上の大きな愛はないんです。神の愛はそのような愛でしょう。無限。だから私たちは感謝せざるを得ないんです。
わたしたちはこの復活節はできるだけ、愛する。聖霊がわたしたちの洗礼の時に注がれた神の愛をわたしたちは持っています。だから、わたしたちは愛する。これは教会、ご存じの通りキリスト教の第一の掟でしょう。互いに愛し合いなさい。わたしたちは愛することはできます。その原動力を持っています。愛する。あらゆる感情を越えて、愛する、決断である愛。 第二の朗読はペトロの手紙「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 ですからみなさん、喜び、感謝、平和。それに生きるように願いましょう。


復活節第3主日

ダニエル・コリンズ神父

4/26(日)9:00- 復活節第3主日(字幕)


 毎年、復活祭の後の典礼の中でわたしが驚くことは、この11名の人もそうですし、今日のエマオに行く途中の2人の弟子もそうなんですけれども、人を責めるんですね。ペトロの話(使徒言行録)に読まれたこと、「あなた方は知らない人に渡して、そしてその人たちはイエスを十字架につけて殺してしまった」と。しかし、ペトロは3回「この人を知らない」と否んだ。
 そして今日のエマオに行く途中で出会った2人の弟子も、希望をかけていました。この人はきっとイスラエルを解放してくださるという希望があったんです。けれども、わたしたちの議員たち、わたしたちの祭司長たちはこの人を十字架につけて殺したんです、と。この2人はどこにいたでしょうか。十字架につけろと叫ばれた時にこの2人はきっと、その群衆の中に入っていたんじゃないでしょうか。
 でも、わたしたちはこの昔の、2000年前の人物を責める前に自分自身のことを考えるべきではないでしょうか。この2人は明らかに逃げてました。エルサレムから離れて、だいぶ離れているエマオというところに行こうと思って逃げてました。現実を認めたくなかった。


 今、この新型コロナウイルスが広がる状態の中に、わたしたちは現実を認めているでしょうか。誰が悪いか、原因は何か、誰が間違えたか、つまり他人のことしか考えてないです。誤解しないでください。わたしたちはこのウイルスを起こしているとは思いません。その意味ではないです。
 わたしたちはこの2人の弟子と同じように、現実から出発すべきです。わたしたちの現実は今の状態です。怖い。将来どうなるか全然わかりません。
 しかし、復活のキリストの出会いの後ですから、わたしたちは生き生きした信仰を生かしながら生活すべきです。現実を認めながらこれからどうすべきでしょうか。教会はどういう形になるか、わたしたちの共同体はどういう形になるかわかりません。わかっているのはキリストと一緒にいる、それでいいです。


 私が本当に面白いと思うのは、復活のキリストのことです。クリスマスの物語、マリアとヨセフはベツレヘムに行こうと思った時に泊るところがなかった。場所がなかった。だから生まれる前にイエスさまは断られた。しかし今度この2人は、イエスはよそのところに行こうという様子はあったんですが、一緒に泊まりなさいと。復活の後のキリストが一緒に泊まってほしいんです。わたしたちもそうなんです。具体的にどういう形になるかわかりません。でもキリストと一緒にいる限りわたしたちは恐れることはあり得ないんです。信じますか。キリストと一緒にいる限り、わたしたちは恐れることはちっとも、一つもないです。もちろん不安はある。そしてどういうふうになるかわかりません。しかし根本的に信仰がありますから、そして主イエス・キリストはわたしたちと一緒にいらっしゃるという約束がありましたから、わたしたちは心配しなくてもいいです。苦しいかもしれない。不安があるでしょう。でも、キリストと一緒にいる限り大丈夫です。

 この二人の弟子はイエスさまに出会って、あ、復活のキリストだと時を移さずに戻ってきたんです。わたしたちも戻るべきです。まったく同じ状態にはなり得ないでしょう。だいぶ変わってくるでしょう。でもそれは別に悪いことではありません。わたしたちは復活のキリストという現実の人物と一緒にいる限り大丈夫です。心配いりません。恐れることはない。私はこれをうち勝った。復活のキリストは栄光に入った。あなた方と一緒にいるという約束です。それ以上要求することはあり得ないではないでしょうか。


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