トップページ主日ミサ配信2020年6月の主日 説教


2020年6月の主日ミサ説教




2020年5月 | 2020年7月


年間第13主日

グエン・タン・ニャー神父

6/28(日)10:00- 年間第13主日(手話・字幕付き)


 イエスの弟子になるとは、イエスの命令に従うことよりも、イエスのような人になることです。これは今日の福音のもっとも大切な教えです。この福音で語られているイエスの弟子になる条件をその観点から読むときに初めてイエスの教えは意味を持つのだと思います。

 まず「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない。
 わたしよりも息子や娘を愛する者もわたしにふさわしくない。」という意味についてですが、この言葉を聞いてショックを受ける人は少なくないと思います。わたしもその中の一人です。父、母、息子、娘はわたしたちにとって大切な存在なので、彼らよりイエスを愛することができるかと考えてしまうからです。おそらくできないと思う人々がほとんどでしょう。しかしこれはイエスの弟子になる条件です。もちろんここで言いたいのは、父、母、息子、娘を捨てることではなく、彼らをイエスよりも優先してはならない、いけないということです。むしろ自分の父、母、息子、娘を愛さなければならないのはイエスの教えでもあります。
 しかし忘れてはならないのは、イエスはわたしたちにとって単なる家族や親戚や恩人たちの中の1人ではないということです。わたしたちは自分の家族に対して信頼を持つ以上に主に対して信頼と希望をかけるように招かれているということです。わたしたちは信頼していなくても仕方がなく命令に従うことがあります。でもイエスに対して命令に従うこと以上に信頼することが求められます。この信頼は自分の家族に対する信頼以上の信頼です。


 次にイエスの弟子になるためのもう一つの条件です。それは自分の十字架を担ってイエスに従うことです。 父、母、息子、娘などはわたしたちにとって大事な存在ですが、彼らはわたしたち自身ではなく、独立した人間です。イエスの弟子になるために一番難しい条件は、多分自分自身よりもイエスを優先することです。
 その最たる例は自分の命まで差し出すことです。イエスは言います。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」と。
 これは矛盾のように聞こえますが、わたしたちにとって本当の命は、イエスのうちに生きることであるということを思い起こしたいと思います。自分の利益や都合だけを求める人には今生きている命しかありません。そしてそのような人生は寂しいです。報いがなければ何もしないような人になれば、死ぬことは怖くて仕方なくなります。しかしイエスのように人を大切にし、人のために自分を惜しみなく捧げる人はこの世の命で終わらない命を受けるのだとイエスは教えておられるのです。


 これらのことを聞くと、イエスに従うことはどれほど難しいことかとわたしたちは理解できます。イエスの弟子になるのは簡単ではありません。しかしイエスの弟子になることはわたしたちの人生にとって一番良い選択肢だとわたしたちは信じています。 イエスの弟子になる報いは、弟子になった結果何かもらえることではなく、イエス自身と一致することです。「あなたがたを受け入れる人はわたしを受け入れるのである」とイエスは言われます。イエスはわたしたちの人生の保証です。
 それだけではなく、イエスに従う人はイエスを遣わされた方との一致に導かれていることもイエスは教えてくださいました。「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる」ことであると。つまりイエスと御父である神との関係の中に入れていただけることです。これは最高の幸せです。
 イエスのことを信じて自分の命まで惜しみなく捧げた殉教者たち、とくに日本の殉教者たちの取次ぎによって、わたしたちもイエスの弟子として日々イエスに倣う信頼の道を歩み続け、イエスと共に神の国の喜びを味わうことができるように祈りましょう。


年間第12主日

英隆一朗神父

6/21(日)10:00- 年間第12主日(手話・字幕付き)


 今日はマタイの福音書の10章、後半のところにあたる箇所が朗読されました。この「人々を恐れてはならない」というのが、今日の福音のメッセージですね。
 このマタイの福音書をこうやって切り取って読むとよく分からないんですが、マタイ10章は1節からずっと福音宣教の心構えがまとめて書いてある章になっています。
 福音を宣べ伝えるのに使徒たちを派遣して、福音を宣べ伝えるのにどういう心構えが必要かということを延々と問うてる中の、その途中で何があるかと言ったら、福音を伝えていく中に必ず迫害されると。迫害されながらでも福音を宣べ伝えなさいという教えがあって、そして今日の箇所につながるわけですけれども。人々を恐れてはならないというのは、迫害されることは間違いないと。つまり迫害なしに福音を伝えることは不可能だと書いてあるんですね。
 でも、だからといって迫害があるから福音を伝えるのをやめましょうということをしてはならないということですね。迫害があるけれども人々を恐れてはならないというふうにイエスさまはおっしゃっているわけです。「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言っているんですね。これはやっぱり迫害者の話なんですよね。「体を殺しても」だからやはり迫害が厳しければ殉教する可能性も十分あると。でもたとえ殉教したとしても「魂を殺すことはできない」とイエスさまはわたしたちにおっしゃっている。だからある意味非常に厳しい箇所なんですね。


 わたしたちは今の日本に暮らす中でほとんど迫害は、もちろん家に帰ってご主人から「お前の宗教は」とか言われる小さな迫害はもちろんないとも限らないでしょう。
 でも実際わたしたちは今、そういう迫害ではないですけどもコロナウイルスによる様々な不自由なことが迫られていて、ミサも非常に制限した形でしか再開できてないという状況はあるわけですけど、だからこそ今日のこの福音書のメッセージを、「恐れるな」というイエスさまの言葉を心に刻みたいと思います。
 迫害を恐れるなとイエスさまがおっしゃるように、わたしたちもコロナのことについて当然気をつけなければならないし、こういう教会でですね、この教会は特に人々がたくさん集まりますから細心の注意を払ってですね、ものすごく制限してものすごくいろいろなことを考えてこういう形でやっているわけですけれども、でもやっぱり恐れてはならない。
 つまり恐れて自分の信仰、生き方を閉じてしまうような生き方をすることはイエスのみ心ではないでしょう。感染症対策を十分にした上で、わたしたちはやはり積極的にイエス・キリストを生きていく、イエスの福音を生きていくということをしっかり心がけたいと思います。「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と。つまり神さまですよね。この世界、そして天国も地獄もすべてを統べたもう神さまに、ここでいう恐れは単なる不安、単なる恐怖心じゃなくて、神さまに対する尊敬の心と畏敬の念をもって、そして信頼して歩んでいこうということですね。この気持ちを大切にして新たに少し再開してきた教会とともにわたしたちも歩んでいきたいと思います。


 そして最後にこう言うんですよ。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」というわけですね。わたしたちクリスチャンはイエス・キリストの仲間であるということを言い表して生きていきましょうと。
 ここで言っている「言い表す」ということは、たとえば職場でクリスチャンということを言ったら恥ずかしいとかいう話ではなくて、迫害の中での話ですから、その中でイエスの仲間であると言ったとたん鞭打たれたり、拷問を受ける可能性のある中で仲間であると言い表せとイエスさまは言っているわけですね。だからわたしたちは言い表すというよりは、言葉で言うかということより、イエスの仲間であるということをあらためて思い起こして、わたしたちの生き方を通して、言葉を通して仲間であるということを小さな形で証ししていきたいと思いますね。


 そして仲間であるという、わたしたちはイエス・キリストとの仲間でもありますが、こうやって少ない形で集まっている方々、そしてネットで参加している方々もそうだと思いますが、みんな仲間だということですね。仲間とのつながりを大事にして歩んでいけたらいいのではないかと思います。
 今のようなコロナの感染が広がって、あっという間にクラスターが発生してしまうということが非常に危険なことになっているわけです。思いますけど、イグナチオのように今まで不特定多数の人がいっぱい集まる、言葉化するとイベント型教会というんですかね。ふつう10時のミサ、ここいっぱいですよ。日本人のミサでも700名、いっぱいいっぱい参加している。この2年ぐらいは、そのようなことは多分もうできないでしょう。下手したら3,4年ぐらいになるかもしれないですけど。

 イベント型の教会は、わからないですけど、すでに終わったと思います。新しい教会を始めなきゃならない。仲間と仲間のつながりを持った、何かどこかにみんなで集まって、良かったねと言ってまたばらばらに帰っていくだけの教会はもう成り立たないですね、残念ながら。仲間とのつながりを持った人しか教会ということはもう言えなくなると思います。
 だから本当に仲間と共に歩む信仰を、イエスの仲間ということだけじゃなしに、イエスの仲間同士の、つまり本当に人と人とのつながりの中で信仰をつないでいくしか、少なくともこの2年間はそれしかできないと思いますね。不特定の多数がたくさん集まることはもうできないんですよ。だからわたしたちが変わるべき時が来たと思います。教会自身が変わるべき時が来たと思いますね。そしてその姿をともに作り上げていく気持ちがなければイグナチオ教会は崩壊すると思います。ちょっとオーバーかもしれないですけど。その可能性も十分無きにしも非ずという気がします。
 わたしたちはやっぱり恐れないで、あるいはなんでこうなっちゃったのかとかいろいろですね、あるいはなんで教会はこうしてくれないんだとか、なんでわたしがミサに参加できないんだとか、もう電話がいっぱいいっぱいかかってきてますけど、すでに。でも仕方がないんです。つながりを持って新たにスタートするしかないんですよ。教会の中で知り合いが1人もいないという方は今ミサに参加できないんです。不特定多数を集めるわけにはいかないんですから。わたしたちが新たな教会を始めていこうとする気持ちでスタートしていきたいと思います。

 わたしたちはイエスの仲間であるということと、仲間と仲間のつながりを生きていくという、そこから新たにスタートして、共にみんなで、イエスの仲間が本当に集まって、顔も名前も連絡先も分かるそういうつながりで、何かあったらすぐに連絡できるような、そのようなつながりでわたしたちが歩んでいけるように、簡単なことではないので少しずつ一歩一歩だと思いますけれども。わたしたちがイエスの仲間として、そして今の状況に合った共同体的なつながりを持って少しずつ新たな教会を作っていけるように、今なくてもそれは構わないと思いますから、今から少しずつそういう教会づくりを、この2年間くらいをかけて助け合って作っていけるように、コロナに負けないで歩んでいけるように共にお祈りしたいと思います。


キリストの聖体

ダニエル・コリンズ神父

6/14(日)9:00- キリストの聖体(手話・字幕付き)


 「このパンを食べる者は永遠に生きる。」
わたしたちは何回もこういう話を聞いたでしょうが、特に現在の日本の社会だけじゃなく、全世界の社会の中で、この文章の意味は皮肉っぽいです。
 永遠に生きる。今、コロナウイルスのせいで死ぬ人はどんどんどんどん増えてくる。毎朝の新聞を見ると、何百人、この国は何千人、この国の死者の数はどんどんどんどん増えてくる。永遠に生きるという話は本当に皮肉っぽいです。医学の専門家は一生懸命新しいワクチンを探しています。永遠に生きるのではなく生きるためです。


 「永遠に」はボーナスです。にもかかわらずイエスさまは、わたしの血、わたしの体をいただく者は永遠に生きると約束してくださいました。信じますか。
 今日の祝日はキリストのご聖体の祝日です。わたしたちはこの小さい、白いせんべいを見て、これは主イエス・キリストであると信じます。あり得ないこと。あり得ないです。その通り。
 しかし福音書の中にあり得ないこといっぱいです。自分の命を救いたい者はまずそれを失わなければならない。あり得ないです。この種は地に落ちて死なない限り実を結ぶことはない。あり得ないです。最初になりたい人は最後にならなければならない。あり得ないんです。永遠に生きることはあり得ない、その通りです。あり得ない。でも幸いに、あり得る。神の子の約束によってわたしたちは信仰を生かしながら、これは本当ですという確信がある。

 この聖体を見て、ただキリストの死と復活を記念することを思い出すかもしれない。そういう面もあります。しかし思い出すことだけじゃないんです。単なる思い出にすぎないことだったらあると思うんです。 わたしは50年前に叙階されて、その叙階式のために母がアメリカから来た。そして赤い祭服を持ってきたんです。赤いですからめったに使えないんですね。殉教者とか、使徒の十二人の祝日とか聖霊降臨とか。とにかくほとんど使えない。でも使うたびに、わたしは祭服を着ると母を思い出すんです、当然。でも思い出すことだけですね。母は亡くなった。母は天国に行ってしまいました。でもその祭服を着ることによってわたしは母の思い出を生かすことができる。
 このご聖体は違うんです。思い出もあるんですけれども、これは本当にキリストであること。思い出すこととか思い出、そうじゃなく。この御体と御血をいただくことによって永遠に生きると約束なさったんです。ありがたい話です。


 わたしたちは永遠に生きる、どういう意味でしょうか。答唱詩編にあったのは「あなたのあわれみは永遠」。その通りです。あり得ないことはいっぱいです。まず罪びとのわたしが救われる、赦される、愛される。あり得ないです。あり得ないんですけれども実際に赦されている、愛されている、救われている。この小さなせんべいで主イエス・キリストは、それを使って救いの歴史に中に現れてくるんです。あり得ないです。その通り、あり得ないです。でもある。本当にある。主イエス・キリストは今、生きていらっしゃる。過去のことでもない、現在のこと未来のことではない、今イエス・キリストは生きていらっしゃる。あり得ない、その通りです。そのイエスは十字架につけられて殺されたんですけども、三日あとで復活させられましたこともあり得ない、と言いながらあった。


 わたしたちはこの素晴らしい出来事に対して何をすべきでしょうか。お祈りするとか、教会に行くとか、もちろんそういう面もありますけれども、何よりも信じること。信じること、信じること。信仰によってわたしたちは赦されている、救われている、愛されている。わたしの信仰はそんなに強いものじゃない。あり得ない。あり得ない。あり得る。信じますか。イエス・キリストがわたしたちと一緒にいらっしゃることは何よりも嬉しいことです。あるかないか、あり得るかあり得ないかじゃなく、実際に生きていらっしゃる。幸いに。わたしたちは感謝すべきだと思います。


三位一体の主日

ヘネロソ・フローレス神父

6/7(日)9:00- 三位一体の主日(手話・字幕付き)


 三位一体の祝日、おめでとうございます。今日は復活節の典礼の終わりです。明日から典礼の年間の季節に入ります。

 三位一体、これはキリスト教で、神である、神の名前と言いましょうか。この名前はもちろん聖書に出てこないんですよ。三位一体。
 皆さん、これは5世紀にスペインのトレドで行われた公会議で作られた名前です。イエスのいろいろな教えを見て、神について、父がいて、わたしはここですけど聖霊を送る、父と子と聖霊、この言葉を3つの位格、人格ですけれど唯一の神、わかることはできないけども、ラテン語でトリニタス(trinitas)というような名前が作られた。その時からキリスト教の神はトリニタス、三位一体。
 これは一番大きな神秘ですよ。神秘ですから、神秘に対する態度はちょっと違うんです。謎ではないんです。人は謎に直面する時、考えてよく見て努力して、解読するまでですよ。神秘の場合は違うんです。神秘は謎ではない。いくら努力してもわかることはできない。人間の理解力をはるかに超える別世界のことでしょう。だから神秘に直面する人は一つしかないんです。それを素直に受け入れて信じるということでしょう。これしかないんです。


 わたしたちは教会で、もちろん見たことはないんですが神を信じます。三位一体を信じる。信仰というのは自分の努力のことではありません。もちろん自由です。信じることもできる、信じないこともできる。けれども信じるか信じないかは自分で決める。ただ、信じるということはあくまでも神、一番大きな神秘である神。
 第二バチカン公会議で非常に深い、難しいわかりにくい言葉を使って、こういうふうに神のことを言うんです。
 「我々の存在を包み、我々がそこから起きてまたそこに向かっていく、究極の名状しがたい神秘」
 これが神です。これが三位一体でしょう。名状しがたい、もちろん。わたしたちは神を、その存在を読んだことがある?知っている?これがあるということを。けれども、それを信じるか信じないかは自分で決める。わたしは信じたくない、信じません。わたしは信じたいというなら、「信じたい」ということは神の恵みです。最後まで恵みです。神は神秘であって、ヨハネ福音書に書いてあるように
 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方がナザレのイエス、神を示された。」
 それでわたしたちは神秘、神がいらっしゃるのを信じます。


 けれども、どのようなものですか?その神は。神ご自身が人間になって、人間の言葉を使って、人間のジェスチャーを使って教えてくださいました。神がどのようなものであるかを。そしてたとえば名前、イエスが使った言葉はアッバ。父母、親心ですか。これです。
 そしてこの方は天地の創造主である、全能の神、できないことは一つもないんです。神は何でもできる。それからものすごく用心深い。時間も空間も超越する方。しかし同時に内在者である。超越者だけでなくて内在者。中におられる。それから時間も空間も超える。それから自由。自由ですから時々当惑させてくださる。わからないからね。


 それから何よりも神は愛である。赦す方である。そして真、善、美、愛、喜びそのもの、美しさそのもの、命そのもの、力そのもの、これは神です。このような神は三位一体と呼ばれた。父と子と聖霊。父は子を遣わして、子は女から生まれて人間になって人類に入ってくださった。だから我々のお兄さん、兄貴であるナザレのイエス。それから聖霊をも遣わして、人間の洗礼式の時に注がれる水の形で、聖霊がその人の心に入り込んでその人を変える。その人は単なる人ではなくて神の子ども、神の娘。だから、わたしたちは信仰によって、神の三位一体の家族のような、共同体、そこに入っています。
 やっぱり我々は何回も毎日繰り返す言葉には慣れっこになってしまうでしょうね。「栄光は父と子と聖霊に」とか「父と子と聖霊のみ名によって」。
 今日はできるだけ三位一体を新たにしましょう。もう少しその新鮮味を味わうという恵みを願いましょう。そうでないと皆さん、トリニタス、三位一体はチンプンカンプンと同じになる。これは父と子と聖霊。この説教の終わりにわたしたちはちょうどそれを宣言します。「天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。聖霊を信じます。」聖霊を信じ、聖霊が行ったことは「普遍なる教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」わたしはこれを心から言うことができるのは信仰をいただいたからです。
 今日は三位一体に対して感謝の心をささげましょう。このような感謝の祭儀で。信仰そして同時に、主よわたしは信じます、この信仰を深めてください。わたしたちはできるだけ慣れっこにならないで。栄光は父と子と聖霊に。


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