トップページ主日ミサ配信2020年7月の主日 説教

2020年7月の主日ミサ説教




2020年6月 | 2020年8月


年間第17主日 (聖イグナチオの祝日 記念ミサ)


李聖一神父

7/26(日)10:00- 年間第17主日(一部字幕付き)


 ミサが始まる3分前に、今日は日曜日だけどもイグナチオの記念のミサをしますということを聞いて、じゃあイグナチオの話をしなきゃいけませんねということになって、昨日の夜、今日の福音についていろいろと考えて説教も少し準備してたんですけど、その話はまたいつか機会があればすることにして、今日はイグナチオの話をしたいと思います。


 この教会の名前は聖イグナチオ教会ということですから、イグナチオについては信者さんたちが彼についていろいろと知る機会があってもいいなとわたしは思いますけれども、ちょうど今、新型コロナの状況に生きているわたしたちはイグナチオのことについて思い起こすと非常にヒントになるかなというふうにも思っています。


 イグナチオは1491年にスペインの北部の方にあるバスク地方で生まれ、その後宮廷で仕える騎士を目指して、幼少時代は小姓としての生活を送り、そして実際にパンプローナの戦いに従軍して砲弾を足にうけて怪我をし、その後故郷に戻って療養生活をしているうちに回心したということは皆さんよくご存じだろうと思います。

 面白いと思ったのはですね、イグナチオがロヨラで静養して回心した後に、その間彼はキリスト伝と聖人伝を読んでいろいろと心に感じることがあったんだろうと思いますけれども、エルサレムの巡礼をまず第一に志したわけですね。
 イエスの生きた、活動した、生活した、そして死んで復活された、そのイエスのその現場(げんじょう)といいますか、そこを見たくてエルサレムの巡礼を志すわけです。そして多少足を引きずりながらというような状況ではあったんでしょうけれども、とにかくエルサレムを目指した。
 バルセロナから船が出ていますのでバルセロナからイタリアに渡って、そしてベネチアまで歩いて、そこからさらに船に乗ってエルサレムを志したわけです。
 しかし最初の段階、つまりバルセロナに入ろうとしたときに彼はバルセロナに入ることができませんでした。なぜかというと、そのころペストが流行っていたからです。それで仕方なく、バルセロナに入れなかったので、彼はマンレサという少しバルセロナの北の方にある小さな都市、町に引きこもったわけですね。わずか数日滞在する予定だったんですけれども、何とかバルセロナに入ることができたらと思って数日そこに引きこもろうと思ったんですけれども、それがなんと13か月に及んだということなんです。なんで13か月もそこにとどまったのかというと、ペストが終息しなかったというのもひとつの理由ですし、それともうひとつはマンレサでの体験が彼にとって非常に深いものだったので、その体験ゆえに13か月とどまったというふうにも見られています。


 マンレサでの体験というのは、彼にとってはその後、霊操というものを示し、神のみ旨を知る、そして自分自身というものをある意味で回心させていく。また神の愛というものを深く知る、そして何が本当に大事なのかを識別する、そういったことをそこで彼は覚えたわけです。そしてそれをもとにして「霊操」という書物を書くことになりました。その霊操が今日に至るまでわたしたちの霊的生活に大きな益を与えてくれるということをわたしたちは知っています。そのような体験をマンレサですることができた。偶然、ペストというものが流行して思わぬところで滞在しなければならなかった、引きこもらなければならなかったイグナチオにとっては、それはそれは彼の人生にとって非常に深いものを残す体験となったという、このことをわたしたちは恐らく忘れてはいけないだろうなと思うんです。
 その意味で今わたしたちが、ペストとは違いますけれども外出の自粛であるとか、あるいは働き方の変化であるとか、また多くの学生にとっては自分の学校に行くことができない状況の中でのオンラインでの授業だとか、いろいろと変わってきてはいますけれども、あるいはそのような生活を強いられているんですけれども、しかしその中でわたしたちが何か工夫していくということをすれば、あるいはその中での生活の仕方というものを考えていけばきっと何かいいものを得られる、そういう期間かもしれないというふうにも思っています。


 イグナチオなんですけども、13か月経ってバルセロナに入ることができて、そして船に乗ってイタリアに渡り、ローマのちょっと南の方にガエタというところがあるんですけれども、そこから歩いてベネチアに向かいます。ところがまだペストが終息していませんでした。ペストは結構ヨーロッパでは、ヨーロッパの中世14世紀あたりから18世紀19世紀あたりまで断続的にこの流行を繰り返していくんですけれども、イグナチオの時代はまさにそういう時代で、イタリア、ベネチアに歩く先々で実は町が閉ざされているというところもあったわけです。そしてペストゆえに、遠くから来た人、地元の人ではない人を町に受け入れないというようなこともあったし、あるいはあなたがペストに感染していないということを証明するものを持って歩かなければならないというような状況でもあったわけです。
 しかしイグナチオはそんなこと一切構わなかったと言っています。何の証明書も、わたしは神さまが助けてくださるんだから、神さまに信頼していればそれは抜け切ることができるっていうふうに思っていたみたいで、今考えたら無謀な人でした。
 そして何とかいろんな町々を抜けていきながらベネチアに到着し、船に乗ってエルサレムに行くんです。そういう人でしたから今わたしたちのこういう状況の中にあっても、外出規制だとか自粛だとか一切構わずに、彼は例えば長崎巡礼とかしたのかもしれませんよね。現代ではそんなことしたらとんでもないことになるよねというようなことを、彼は確信をもってそのようなことをした人ではあったわけですけど、現代ではそれはちょっと問題だねというふうにも思われますけれども、しかしペストとコロナはずいぶん違うんでしょうけれども、わたしたちの生活している状況はよく似ているなというふうにも思います。そういう意味でこのような状況の中にあってわたしたちはどう生活していくか、どう生きていくか、あるいはどのような信仰生活を自分の中で確立するかという問いが残っているのだろうと思います。


 今日の福音の中で「大事な宝そのもののためにはすべてを投げ出してすべてを売り払ってそれを得る」というふうに言っていました。このたとえは非常にわかりやすいんですけど、じゃあ何がいったいわたしたち一人ひとりにとって宝は何ですかというふうな質問にすると、実は難しいことです。宝は一体何ですか。何が宝ですか。
 今日の第一朗読のソロモンの話に戻っていくと、ソロモンは大事なものとして何を考えたか、知恵だった。神さまは喜んで彼に知恵、賢明な心を与えたというふうにあります。わたしたちが今この状況の中で宝と言えるものは一体何かというと、わたしは識別する心だというふうに思っています。識別する知恵というふうに言ってもいい。

 具体的に言うと、わたしのところにも何組かのカップルが結婚を予定していて相談を受けていましたけれども、この状況の中でキャンセルしなきゃいけないっていう状況が生まれてきて、どうしたらいいでしょうかというふうな相談を受けています。そういう中であなた方にとって一番大事なものは何ですか、というふうに問いかけます。どこかのホテルで披露宴することが大事ですか?何か親族のためにこういったものを催さなければならないということが大事ですか?そのために延期しますか、あるいは2人のこれからの生活が大事ですか?あなた方の愛というものを深めていくことが大事ですか?そういう問いかけをしたときに何を選ぶかということは、現実なこともありますので非常に難しい選択なんです。
 あるいはこういう状況の中にあって大学4年生だとか高校3年生だとか、将来の進路を決めなきゃいけない、だけども学校で授業が十分に行われていない中でわたしは何を選択したらいいでしょうか、どうすべきでしょうか、そういったことも切実な問題としてはあります。しかしそこでわたしたちは識別しなければならない。


 わたしたちの生活の中で今何をなすべきですか、という識別することのできる知恵、これをわたしたちは恐らく宝として求めなければならないような気がしています。そういう意味でイグナチオの記念のミサを行う今日、イグナチオの姿をもう一度思い起こしていきながら、彼がマンレサの体験で得た経験と知恵、今コロナの状況の中で生活していくわたしたちが得なければならない知恵、識別する知恵、こうしたものをご一緒に今日は求めていきたいというふうに思います。
 何が大事なんでしょう。本当にすべてを投げうってでも得たい宝は何でしょう。そうした問いかけをわたしたち一人ひとりがして、その宝を見出すことができますようご一緒にお祈りしたいと思います。




年間第16主日 (幼児洗礼式)


英隆一朗神父

7/19(日)10:00- 年間第16主日(一部字幕付き)


 今日の福音書はマタイ福音書の天の国、神の国のたとえ話のひとつですね。
 麦と毒麦のたとえ話というものなんですが、実際、今はあんまり毒麦というのはないと思われますけども、昔はこういうのはわりとよくあったみたいだと言われています。麦が育つときに毒麦も一緒に育つことがあってですね、芽が出た頃はあんまりよく区別がつかないということと、根っこがですね、麦と毒麦が絡まって生えてくるので、毒麦だけ抜こうと思っても麦の根っこと一緒に抜いてしまう可能性があるので、だから実際抜くのが難しいと言われています。ただ、収穫のときになれば明らかに麦、小麦か大麦か何かと毒麦は全然違いますので、そこで麦だけを刈り取ってですね、当然毒麦の方は焼いてしまうということが可能だということです。でもやはり本当にこの通りだと言われています。


 今日はちょうど幼児洗礼式に当たっていて、麦の生長の話というのは何かわたしたちに一つのヒントを与えてくれるような気がいたします。やはり子供が成長するときに傍から見てたらどんどんどんどんあっという間に大きくなるように見えますけれども、でもやはり麦と毒麦とが両方育つといいますか、麦と毒麦が分けられるかどうかというのも本当に微妙なことだと思います。つまり人間の性格には必ず良い面と良くない面というんですかね、まあ一人ひとり特色がありますけども、良い方から見たらそれは良い性格にも見えるし、でも反対側から見ればそれが欠点にうつるということもあるわけですよね。だから良い麦だけを育てて毒麦の方を育てないっていうことは多分子育てにおいてするのはなかなか難しい。つまり人間が育っていくってことはやっぱり両方育っていくってことだろうと思いますね。ただ当然毒麦を避けて、麦を育てる必要性は当然あると思います。


 このあとにですね、幼児洗礼式なので、ご両親と代母の方に宣言してもらうんですが、この悪を退けますかって3回聞くんですよね。退けますって皆さん応えて、神さまとかイエスさまを信じますかって3回聞くので、3回信じますと。プラス幼児洗礼の場合はさらに問答があるんですけど。だからやはり洗礼を受けるってことは、実際は毒麦を避けて麦を選んでいくっていう選択なんですよね。つまり悪の力を退けるという根本的な決意と、神さまの力、神の恵みを積極的に選んでいきますというですね、そういう表明があって洗礼式ということになるわけですね。


 でも本当に思いますが善と悪、あるいは良い性格と悪い性格、あるいは毒麦と麦ですけれども、やっぱりこの世の中は混じっているということですよね。混じっている中でこそわたしたちは生きていくことに本当の価値があるんじゃないかなと思います。というのは一見毒麦に見えるものがあって、それをわたしたちはすぐ抜いたり刈り取りたいという気持ちになるんですが、問題は何かって言ったら、それが本当に毒麦なのかどうなのかっていうことはどこでどうやってわかるのかっていう。あるいは麦がですね、麦だと思って育ててたらそれは本当に麦なのかどうなのかっていうことも、わたしたちの人生じゃやっぱりわからないということなんですよね。


 今の例で言ったらコロナウイルスというのは、わたしたちはすぐ毒麦の方だと思いますけれども、果たしてそうだと決めつけられるかどうかすらわからない。このコロナウイルスの蔓延でもちろん多くの人は苦しんでいるわけですけど、それを通して何か大切な、わたしたちの人生にとって本当に大切なものは何なのかがはっきりわかってくるきっかけにもなるでしょう。
 あるいは本当にちょっと前まで自粛生活をせざるを得なかった、ステイホームをしていましたけれども、でもそのことによって夫婦のつながりや家族のつながりの大切さを見出した方々はたくさんおられますね。もちろん逆に煮詰まって大変だったという家族も多いわけですけれども。

 だから何が毒麦で何が本当の麦なのかは、やっぱり見る角度から変わってくる可能性があるということだと思いますね。人間が、あるいは子供が成長していくときに、苦しみや困難があるっていうことは大切なことでしょう、実際のところ。ずっと幸せに、この世的に幸せに生きるってことが本当に一番いいことかどうなのかわからないわけで、困難や苦しみを通してこそわたしたちはそれを乗り越えるために頑張ったり、あるいはそれを恵みに変えていこうとすることもあるんじゃないかと思いますね。わたしたちはだからあまり軽々に毒麦や麦っていうことを一方的に判断するんではなくて、まずそこにあるものをしっかり認めながら、本当の意味で育てなきゃならないものは何なのか、本当の意味でやはり抜かなきゃならない、離れなきゃならないことは何なのかよく見極めていく、カトリックの言葉で識別というんですけども、見極めていく目というか知恵というか、それが必要だと思います。それがあってこそわたしたちは本当に大切なものを大切にしながら、あんまりどうでもいいものを、それを横に置いていく生き方ができるのではないかなと思いますね。


 そしてさらに言うならば、やっぱりわたしたち人間には知恵や力やさまざまな恵みが与えられているわけですから、毒麦だと思うものを乗り越えていこうとする気持ちも大事でしょう。それをどこかで麦に変えていこうとするその姿勢というかですね。
 最近の例で言うならコロナウイルスのことでネットで見たり、専門家の意見とかいろいろYouTubeかなんかで、素人だからわからないから。もちろん医療現場でコロナウイルスと、患者と戦っておられる方もたくさんおられますが、やはりその裏で、どれくらいたくさんの研究家、研究されている方々が治療方法なりさまざまなことを、知恵を結集してそれを乗り越えていくワクチン、治療薬、あるいはその基礎研究、そういうものがあってこそ乗り越えていける何か道筋がやっぱりあるんだろうなというふうに思いますね。


 願わくはわたしは今日洗礼を受ける2人の子供、そしてわたしたちここにいるものがみんなそうですが、悪いものが来たときに単に怯えたり逃げたりするだけではなくてですね、それを勇気をもって乗り越えていける強さ賢さをもった人間に成長していけるようにということですね。悪がないことを願うよりは、悪を乗り越えていく、そういう力のある子供、あるいはそういうことを乗り越えて恵みを作っていく、そのようなわたしたち一人ひとりの協力なり努力なり祈りなり、そういうことの中で多くのことは恵みに変えていく。神さまの恵み、力は必要ですけれども、その中でこそあるんじゃないかというふうに思われますね。
 本当に今日の洗礼式で、お父さまが外国におられて洗礼式にすら参加できないっていう方も、それも一つのやはり困難ですけれども、それを乗り越えて家族の絆なりつながりってことがあるんじゃないかと思います。今、本当に苦しい時ですけど、世界中の人が。でもわたしたちが力を合わせて乗り越えていくことはできると思いますね。神の恵みとわたしたちの小さなできる貢献を積み重ねる中で。


 2人の子供がそのような大人に成長していくように、そしてわたしたちもそのように困難に負けないで前向きで歩んでいけるものになるように、本当にこの小麦をですね、麦を分かち合っていけるようなそのような社会を作っていけるようにですね、心を合わせて恵みを願いたいと思います。




年間第15主日 (子どもとともに捧げるミサ)


李相源神父

7/12(日)10:00- 年間第15主日(手話・字幕付き)


 今日読まれた福音は、種を蒔くときその種が道端だったり石だらけだったり茨があったり、いわゆる良くないところに落ちたらダメだったという話になる。つまり良い土地、良いところに落ちたら良い芽が出て良い実を結んだという話になるんです。これを読んでわたしが一つ最後に気になったのは、実を結んでそれが100倍、あるものは60倍、30倍になっている。100、60、30。普通だったらですよ、自信があれば30、60、いや100までというふうに大きくなるじゃない。イエスさまは100、60、30。


 うちの叔父は釣りが大好きだったの。そうすると帰ってきたらすごいでっかいもの捕ったよ、釣ったよというわけ。そうすると叔母が、「本当?」そしたら、「いや、これくらいかもしれない。」「まじで?」そうしたら「いや、これかもしれない。」そういうことがあって、あとは困った末、叔父は「聞く耳のある人は聞きなさい」と言って逃げてしまったんです。なんかそのような気がする。


 聖書もあるときは読んですぐわかる内容もあるし、読んでも読んでも読んでも、虫眼鏡で見ないとわからない聖書もある。それは当たりはずれだと思うんですが、一つ皆さんに、聖書といったら、この聖書を大きく描いてみてください。これ一つだけ覚えて。つまりこれ、聖書(大)、これも聖書(小)。サイズは違うけれども中身は同じ。私は若いから小さいものを使う。この聖書で創世記の一番最初、1章1節。初めに神は天と地を創造されたという言葉がある。それが聖書なんです。それから最後のところまでは「初めに神は天と地を創造された」を説明する内容なんだ、そのように大きく描いてみてください。学校で友達と聖書の話が出たら、うん、わかる、初めに神は天と地を創造された、それが一つあって、あとのすべてのものはそれの説明なんだ。もう一歩踏み出して、自分も「創造された」の一人なんだと入れてくださったら、自分もそれの説明、表し、証しになっているんだ。その「神が天と地を創造された」に自分も少し入れることができたら、それが一番神さまが望んでいることじゃないかなと思うんです。これ一つだけ覚えていってくださいね。久しぶりに来たから覚えて。そうしたらすぐ身に入ると思う。


 もう一つお願いがある。学校で、あるいは友達が「あなた教会に通っているの?神さまの名前は何?」というふうになるの。神は天と地を創造されたとしたら、神さまの名前は何?としたら、聖書ではモーセが言ったの。「神さまあなたの名前を教えてください」と言ったら、「わたしはわたしである」という意味が分からない話をされたんです。さあ見て、皆さんは神さまにお名前があると思う?ないと思う?名前ということは自分よりも先のものが、お父さんお母さんからいただいたものが名前なの。いや、わたしはおばあちゃんが、おじいちゃんが作ったよというなら、それはそれでいい。とにかく名前というのは自分でつけることじゃない。自分よりも先の人が作って与えるものが名前なの。みなさんすべての名前は。そうすると神さまは「初めに天と地を創造された」、だから神さまよりも先のものはいないじゃない、それを信じることができるかということなんです。初めに天と地を創造された、神さまの名前は「わたしはわたしである」。説明ができない、先のものは存在しないから。だから我々は造られたものなんだというところまでいったらいいなと思う。


 さあ、最後になるんですけれども、今日1年生から中学生、高校生がいる?とするとちょっと今のうちに皆さんに伝えたいことが一つあるので、理解できなかったらお母さん、お父さんに助けてもらってください。聖書で使徒パウロが語った言葉がある。わたしはプレゼントですという言葉があるの。プレゼントという言葉。わたしはプレゼントである。プレゼントというものは、そもそも自分にはないもの、持ってないもの、いただきものがプレゼントじゃない?だからプレゼントなんです。だから自分のものじゃない。わたしはプレゼントである、わたしは神さまからのプレゼントである、わたしは神さまからのプレゼントということをサーっと受け入れるならば、そういうものは道端、石だらけ、茨に落ちることはなく、自分は神さまのプレゼント、神さまからのものということを受け入れることができたら良い土地に落ちて、そして実を結ぶというものになるのが今日の神さまのメッセージじゃないかなと思います。


 さあ、3つのことがわかっちゃったからまとめてみましょう。うーん、2つかな。聖書と言ったら、あー分厚いと言った時、皆さんは一番最初「初めに神は天と地を造られた」それの説明がそのあと全部出てくるんだ、ヨハネの黙示録まで、ということを一つ覚えていって。そして神さまには名前がない、ありえないということは、名前はいただきものですから神さまはその先のものが存在しないから神さまには名前がないよ、(わたしたちは)造られたものなんだよということ、それを少し覚えて行ってください。


 またいつ会えるかわからないから今日の日の説明をして終わりにしたいと思う。今日は7月12日、7月の第2の日曜日は船に乗っている人、船員のためにお祈りする日なの。というのはここ(船員の日のチラシ)に書いてあるのは、物を運ぶときは飛行機よりも、車よりも99.7%を船で運ぶんですって。その人たちのために特別に今日祈りましょうということだった。99.7%をこの方たちのおかげで我々は生活できるわけ。多分7月は台風がいっぱいあるからこういう時期に祈りましょうということになったのかな。
 この「お陰様で」ということは、わたしが日本語を勉強したとき、おかげ、目に見えないところで、「かげ」様で我々は生きている、生きられている、生かされているということなので、今日は船員のためにお祈りする、この人たちのおかげで頑張りますということができますように祈りたいと思います。




年間第14主日


ボニー・ジェームズ神父

7/5(日)10:00- 年間第14主日(手話・字幕付き)


 聖書の中には希望と慰めを与えてくださるみ言葉がたくさんあります。その中でも最も印象的な言葉のひとつが今日の福音のテーマとなっています。
 イエスさまが言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは人生の歩みの中で疲れ果てたとき、人間だれもが言ってほしい言葉でしょう。



 イエスさまが続けて次のように言っています。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ここで軛、重荷などの言葉はわたしたちが生きている中で出てくるさまざまなつらいこと、悲しいことを指しています。「悲しさが分ち合うと減ります、喜びが分ち合うと増えます」とよく言われます。心を開いてお話しできる人や友達がいると助かるときがあります。同じように神さまと分かち合い出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。今日の福音はわたしたち一人ひとりがイエスさまと分かち合いを持つように促しています。


 それでは具体的にどこでわたしたちはイエスさまと分かち合いを持つのでしょうか。
 第一にミサです。御ミサがイエスさまと食卓を囲んで分かち合いする一番大切な場です。聖変化されたパンとぶどう酒の中で現存するイエスさまは、わたしたちと交わり、そしてこれらをいただくことでわたしたちもイエスさまと深い交わりを持つようになります。
 これについてヨハネによる福音書6章ではイエスさまは次のように語っています。「わたしは天から降ってきた命のパンなのです。このパンを食べる人はだれでも永遠に生きます。このパンは人類の救いのためにささげるわたしの体なのです。」このようにして御ミサで行われるイエスさまとの交わりがわたしたちの命の糧となるのです。言わばイエスの御体と御血の分かち合いによってわたしたちは生かされているのです。


 それからもうひとつ、イエスさまととても親しく分かち合いをする場があります。それはゆるしの秘跡を受けるときです。イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」とおっしゃいました。ゆるしの秘跡はまさにそのための場です。ゆるしの秘跡の場に立つ一人ひとりが自分の心の軛である罪とその重荷を背負ってイエスさまの前に立つのです。時折、自分の弱さや罪の重みで倒れてしまいそうなときもあります。それでもイエスさまのもとで、自分の軛や重荷をおろして心を軽くし、素直な自分を取り戻すことができるのです。どんなに大きな罪であっても、本当に回心の心をもってゆるしの秘跡にあずかりその重荷から解放されたとき、わたしたちが感じる心の安らぎは大きいでしょう。


 まとめて言うと、御ミサとゆるしの秘跡、これらの2つの秘跡によってわたしたちはイエスさまと深い交わりを持ち、その中でイエスさまが約束してくださった慰めと希望を見出していくのです。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげようと言うイエスさまの招きに心から応えることができるように、このミサの中でお祈りいたしましょう。

 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。



PAGE TOP