2020年8月 ミサ説教
8/2(日)10:00- 年間第18主日 ハビエル・ガラルダ神父
8/9(日)10:00- 年間第19主日 酒井陽介神父
8/15(土)10:00- 聖母の被昇天 英隆一朗神父
8/16(日)10:00- 年間第20主日 村山兵衛助祭
8/23(日)10:00- 年間第21主日 ヘネロソ・フローレス神父
8/30(日)10:00- 年間第22主日 英隆一朗神父
年間第22主日
英隆一朗神父
8/30(日)10:00- 年間第22主日(手話・一部字幕付き)
今日の福音書は、先週のマタイ16章の前半に続いている非常に大事なところですね。
この前の箇所はイエスさまが生ける神の子、メシアであるということをペトロの言葉を通して明らかにされる、自分が救い主であるということを弟子たちだけには言わば示されるんですが、メシアであるということと、そして今日のところは切り離すことができないんですね。メシアであるというふうに宣言したその続きにですね、イエスはご自分が必ずエルサレムに行って多くの苦しみを受けて殺される、いわゆる受難予告を同時にされるということなんですね。メシアであるということは十字架にかかって自分の命をささげるということと一緒にイエスは語るということなんですね。
でもそれはペトロにとってやはり大きなショックだったわけで、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言うわけですね。ペトロの気持ちはわかる気がやはりしますけども、メシアであるというふうに、救い主だと思った時に、ペトロはやはりこの世的な救いのことを強く感じたでしょう。苦しんでいるイスラエルの民がこれでやっと解放されるというか、イスラエル王国を建て直してくれる方が来たと。ペトロもあわよくば右大臣か左大臣くらいにはなれるんじゃないかと思ったと思いますけれども、でもメシアであると言った途端、十字架に自分がかかるということを言うわけですね。これは本当にある意味、よくよく考えてみたらショックなことでは今でもあると思いますね。
というのは、ここに集まっている方々は洗礼を受けている方々が多いと思いますけど、わたしたちはどういう意味でクリスチャンとして歩んでいるのか。イエスさまをメシアとして信じている方々だと思いますが、メシアとして信じているイエスさまが十字架にかかられた方だという、その大きなポイントですよね。この後に出てくる、イエスの弟子であるとはどういうことか、イエスについて行く者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエスに従っていく、それが弟子の、クリスチャンの生き方だということですね。
でも、この十字架の神秘をわたしたちは本当のところよく分かっていないことも多いんじゃないかなと思いますね。せっかく洗礼を受けたのになんでこんなに不幸がわたしに注がれるんですかと時々言われることがありますけど、洗礼を受けることでこの世的な幸せをイエスはどこにも約束していないのですね。つまりイエスさまは自分を捨てて、自分の十字架を背負う生き方をせよ、ということですよね。
この「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」という、今だったらコロナウイルスが流行って世界中が大混乱になってるわけですけど、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と。起こっているからもちろん仕方がないんですけども、でもわたしたちはやはりイエスさまの道は何であって、そして自分たちがどういう道を歩むのかということをしっかり受け止めなきゃならないんじゃないかなと思いますね。でもそれは簡単なことではないと思います。
イエズス会の前総長のニコラス神父さんの書いた記事が、イエズス会員だけに配られたものがあるんですけど、ディストラクションという、いかにわたしたちが的外れなのかということを彼が書いている、かなり厳しめの文書なんですが、とにかくイエズス会員は成功に囚われてると。成功と完ぺきに囚われていて失敗ができないというんですかね。だから十字架の神秘を聖週間の典礼でお祝いしているだけで、実生活で全くお祝いしていないと。
不幸とか困難があったら、それはイエズス会員であろうと皆さんであろうと嫌なわけですよね。何でこんなことがっていう気持ちに、不幸があったら思っちゃうわけですけど、でもイエスさまが求めているのは十字架を担いで行けということですよね。自分の命を失う者はそれを得るというですね、全然違う観点で生き方を、自分の生き方を見つめてそれを生きていくということですよね。
だからといって苦行主義というか、いたずらに苦しめといっているわけではないと思いますけど、自分を捨て、自分の命を捨てた先に神さまの恵みの世界がある、それをわたしたちはしっかり見なきゃならないであろうと思われますね。
だいぶ前ですけど一人の神学生が神父になるかどうか悩んでいて、交通事故かなにかになってですね、生きるか死ぬかの状況に陥ってしまって、意識が混濁している時に夢を見てですね、どういう夢かといったら崖から落ちそうなんですよ、自分が。それで木の根っこかなんかにしがみついて、何とか崖から落ちないように根っこかなんかにしがみついているんですよね。でもそれは彼のその時の状況を表していたかもしれない。そしたら天から声がしてですね、どういう声がしたかといったら、それが驚くべきですけど、「手放せ」という声が天から。崖っぷちで下に落ちそうで、木の根っこを必死につかんでいるのに、上から聞こえてくる声は「手放せ」という。とにかく手放したら下に落っこちちゃうわけだけど。でも結局生死をさまようのが続いて、その夢を何回も見てですね、必死でつかんでいるんですよね。とうとう彼は夢の中で「手放せ」という声に従って手放したって言うんですよね。手放したところで劇的にそこから回復というか状況が変わって、彼の囚われだったのかもしれないですけど、そこでイエズス会に入る決意をして、結局神父になったわけです。
命を捨てるとか失うとか強い言葉ですが、結局は自分の囚われ、これさえなければならないということを手放した先にあるのは恵みの世界でしょう。だから命を捨てた先にもっと大きな命がわたしたちに与えられる。その命を目指してわたしたちは生きているということですね。当然ですけど十字架の向こうに復活の恵みがあるということですから、わたしたちはその復活の恵みを目指して歩んでいるということですね。わたしたちは何となくコロナのことがだいぶ続いて慣れっこになってしまって、何か緊張感がなくて逆に危ないなと感じがすることもしばしばありますが。わたしたちは日々の小さな、生活の中にある十字架をしっかり受け止めていくということでしょう。実際日々あるのは小さな小さな十字架だと思いますけれども、それをしっかり受け止めて、嫌々ながらとか闘うとかいうより、その小さな十字架を受け止めて、そして自分の執着とか囚われを置いた時に、十字架が恵みというか復活に変わっていくのではないかというふうに思います。
苦しみと十字架の何が違うのか。苦しみというのはただわたしたちが苦しんでいるだけの現実ですけど、その苦しみをイエスさまとともに担うならば十字架の恵みになるでしょう。イエスさまと共に十字架を担った時にその十字架はいつか、すぐかどうかわからないけど、主が復活の恵みに変えてくださるでしょう。それがわたしたちに与えられている本当の命のお恵みだと思いますね。その恵みをわたしたちは信じて、希望して歩めるようにですね、主を信じながら、今の日々の小さな十字架をしっか受け止めて歩んでいけるようにですね、ともに心を合わせて祈りたいと思います。
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年間第21主日
ヘネロソ・フローレス神父
8/23(日)10:00- 年間第21主日(手話・一部字幕付き)
今日の3つの朗読は非常によくつながっています。イエスは初めて弟子たち、そのお選びになった12人に聞きました。「人はわたしのことを何者だと言っているんですか。」
彼らが言ったのは、「あなたはエリヤとか、エレミヤとか、だれか預言者だと言っているんですよ。」イエスはその時、「あなたがたはわたしを何者だと言うんですか。」その時ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です。」
これは一番最初の信仰告白ですよ、イエスに対して。そしてイエスのこたえは、「シモン・バルヨナ、シモン・ヨナの子、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。そしてわたしも言っておく、あなたはペトロ。」意味は岩ですね。「この岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
これはみなさん、このようなことは第1の朗読に預言がありますね。神の言う、「わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はない。」この預言は今のところで実現される。イエスはペトロに天の国の鍵、ですからこれは罪の赦し、救いということです。神の国をペトロに任せるということ。
そして面白いのは、これはマタイの福音書ですね。わたしの教会。教会と言うことは、このところしかないんです、福音書の中で。他の福音書は教会という言葉は使わないです。意味は、教会といえば呼び集められた者の意味で、集会、会衆を指すわけですよ。教会を、イエスさまはこの男、シモン・ペトロの上に、この岩の上に建てる。
教会はご存じの通り第2バチカン公会議で、新しく再発見された。昔は教会とはひとつの組織、素晴らしい組織と。組織よりももっと深い意味合いです、教会は。公会議は、教会とは交わりの神秘、交わり、関係、かかわり。何の交わりですか?神との交わりの神秘。そしてその交わりは親子関係です。神は親、人は息子、娘。教会は交わり、神との交わりの神秘。しかし我々はみんな同じ親ですから。教会は神との交わりの神秘。
そしてその中で人と人との交わりの神秘。だからイエスは新しいおきてを授けてくださった。新しいおきてを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。兄弟姉妹ですから、神の家族になるということは。この教会です。素晴らしい神秘ですね。イエスさまはこれを啓示してくださる。教会、わたしの教会と。その教会にわたしたちは呼び集められています。これを今日はできるだけ、新たな悟りを受けるように願いましょう。わたしはこの教会のメンバー、この家族の、神の子どもであって兄弟姉妹であるということ。素晴らしい神秘です。
この神秘によって第2の朗読で、パウロは手紙で感嘆し叫んでいます。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせようか。」本当にその叫びですよ。大きな神秘。神秘ですからわたしたちはわかることができない。神秘の世界が我々の理解力をはるかに超える。だから信じるほかないんですね。わたしたちは信じます。わたしたちもパウロと同じ。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。この神秘をわたしたちに神様は伝えて教えてくださった。これを新たな心で再認識する願いをしましょう。
神秘ですから恵みです。恵みですからわたしたちはそれを受ける権利はないんです。これしかないんです「お願いします。」これを願いましょう、今日のこの感謝の祭儀で。感謝の祭儀ですから、今日はあらためて感謝しましょう。わたしも呼ばれた、呼び集められたということ。キリストに、神はわたしたちにキリストを出会わせてくださった。そしてキリストは大歓迎してくれた。これをきょうはあらためて感謝しましょう。
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年間第20主日
村山兵衛助祭(司式:英隆一朗神父)
8/16(日)10:00- 年間第20主日(手話・一部字幕付き)
今日の福音には主人公が2人いると思います。ひとりは間違いなくこのカナン人の女性です。イエスは彼女を「大きな信仰です」と言ってほめています。その彼女をひとりの母として見つめてみたいと思います。そしてもうひとり主人公がいます。イエスです。この物語の中でイエスの態度は不思議です。謎に満ちていると思います。でも、彼女を通してイエスを見つめ直してみることもできると思います。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。このお母さんの訴えは切実です。身を削る思いで、藁にでもすがる思いでイエスに叫んで、ひれ伏して助けを求める様子を想像するとき、わたしたちも胸が詰まる思いがします。恐らく叫んでいるだけではなかったでしょう。何度も追いかけて、ひれ伏して、答えてくれるのを待って、無視されるとまた追いかけて、ひれ伏して、叫んで、待って、そのようなこのお母さんの姿を想像するとき、わたしたちは胸の痛みを感じます。
母親というものはいつだって報われないつとめを受け入れます。毎日準備される食事、洗濯されてきれいにたたまれたタンスの中の洋服、家族の帰りを家で待つ心細さ。母の愛はある意味無言です。毎日の目立たない、「当たり前」がどれほど多くの優しさによって実現しているか、わたしたちはいつか気づかされることになるのでしょう。しかし、普段わたしたちはあまり気にしません。幼い時は知る由もありません。思春期になれば恥ずかしさと反抗心のゆえに「ありがとう」のひと言もなかなか言えずに冷たく退けてしまいます。それなのに母が老いた頃には、その親不幸を悔いるかのように、母の曲がった背中を見てなんとも言えぬ申し訳なさを感じてしまうのです。
わたしも先輩の神父から「親孝行は、親が生きているうちにやってください」と何度も言われたことがあります。まだ生きているのでたびたび親孝行を続けています。子どものために身を粉にして無言で働く日々。特にイエスの時代の女性の立場はいっそう苦しいものだったと思います。誰からも理解されないのなら本当につらい。彼女たちこそこの世に富を積まず、天の国に富を積んでいる人々、この世で報われないつとめを引き受けている人々だと思います。このような母の愛があるからこそ、わたしたちはこの冷たい世の中でも絶望しないで生きていけるのだと思います。感謝しなければなりません。
カナン人の女性は「わたしを憐れんで」と叫びます。娘は彼女のすべてでした。そんな母からの必死の願いにイエスが無関心であったなんて考えられるでしょうか。こんな女性を前にして、自分の母のことを思い出さない人がいるでしょうか?イエスもきっと自分の母を思い出しただろうと思います。
この母は諦めませんでした。彼女は恐らくわかっていたのだと思います。イエスがご自分の人生、限られた人生の中でひたむきな思いで、ただイスラエルの民のために救いのわざを行っていることを。また、彼女は重々承知でありました。自分がイスラエルの民ではなく、文化も宗教も異なる外国人であることを。ちなみにカナン人と言われる場所は現在のレバノン、イスラエルの北にあったと言われています。宗教も文化も人種も異なる出身の人々です。しかしそのようなカナン人の彼女は、それでもイエスが外国人を見捨てないということを信じており、また願っています。彼女の必死の願いに対して、イエスは「大きな信仰だ」と言います。翻訳には「立派な信仰だ」と書かれていると思いますが、原文は「大きな信仰」です。異邦人である百人隊長のしもべがいやされた時と同じく、彼女の娘は遠くにいても直ちにいやされました。
「子犬だって主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と、彼女は言います。偉大な信仰とはこのような深い信頼と希望です。それに比べて、食卓にふてぶてしく座る主人の子どもたちの方がよっぽどイエスをがっかりさせたことでしょう。イエスの弟子もわたしたちも、この問題を自分の問題として考えねばなりません。先ほど「大きな信仰」という言葉を話しましたが、イエスは弟子たちにマタイ福音書の中で、4回ぐらい「小さな信仰」という言葉を使っています。信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか、そのような言葉が「信仰の小さいもの」という意味です。教皇フランシスコの言葉を引用します。「礼拝とは自分をさらけ出し、ありのままで神の前に立つことです。礼拝とはこのように言うことです。『あなたは偉大な方、しかしわたしには何もありません。』」
今日の福音で、弟子たちはこの女性を、何だか嫌がっているように見えます。煙たがっているように感じます。イエスも最初、彼女の叫びに対して何も答えず沈黙しています。のちに口を開いても、「子犬にはパンを与えられない」と言うのです。しかしイエスは、この物語のもうひとりの隠れた主人公だと思います。イエスが人を外国人だという理由だけで嫌がったり、無視したりするはずがありません。ついつい私は想像してしまいます。ずっと黙っているイエスですが、きっと荒々しくなる息を抑えるように深く呼吸をして、拳をしっかり握っていたのではないかと。
イエスが最初不愛想に見えるのは、決して外国人を無視しているからではありません。イエスが異邦人をどれだけ尊重し、対等な人間として扱い、信頼していたかは福音書が教えてくれます。イエスが人の信仰をほめたことがあるのは、百人隊長とこのカナン人の女性に対してだけです。いつも弟子たちの信仰を叱っていました。
マタイ福音書は、生前のイエスの活動がイスラエルの民に限定されていたことをたびたび強調します。他方で、復活後に弟子たちに現われたイエスは、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と言うのです。イエスがひたすらイスラエルの民に福音を告げ知らせたのは、ユダヤ人が神を信じていて、異邦人が神を信じていないからではありません。その逆です。イスラエルの民こそ、神に対する親不孝者でした。それなのに、神はご自分の約束を忠実に果たすためにイエスをお遣わしになりました。彼らはこの救い主を受け入れませんでした。なのに、神はこのイエスを通して惜しみなく無条件の親ごころを、ご自分の民に注ぎます。イエスは自分のことをもっと受け入れてくれそうな異邦人の世界よりも、敵扱いされるふるさとの一角にとどまって、神とイスラエルとの約束を「死ぬまで」果たしました。殺されるのであっても、無言でご自分の民に愛を注いだのがイエスの生涯でした。つまり人間に対して神ご自身が忠誠を誓い、報われないつとめを引き受けたのです。イエスもまた、ひとりの母から生まれた人間でした。母親のひたむきな無言の愛は、イエス自身のうちに注がれ、イエス自身の生と死のうちに流れているのです。
カナン人の母の祈りは痛切です。だからこそ彼女の大きな信仰とともに、無言で十字架を引き受けるイエスのみ心にも、今一度信仰の目を向けてみましょう。そして聖母のとりつぎに支えられて、わたしたちも神の食卓に一番乗りすることよりもそれ以上に、報われない愛であっても喜んで注ぎつくす恵みを、互いのために祈りましょう。食卓にふてぶてしく座ることのないように、わたしのためにもお祈りください。
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聖母の被昇天
英隆一朗神父(共同司式:森山信三神父)
8/15(土)10:00- 聖母の被昇天(手話・一部字幕付き)
今日は聖母被昇天の大祝日にあたっていますけれども、被昇天というのはどういうことなのか。人間的に見れば、今日はマリアさまが地上の生を終えて亡くなった日であるわけですけれども、それを記念する日なんですが、マリアさまの場合は亡くなった直後にですね、体を持ったまま天に上げられたということを記念しています。
この聖母の被昇天の教義は実はかなり新しいもので、20世紀になってからですね、1950年に教皇のピオ12世がですね、教義として宣言されたというふうになっているんですけれども。実際その時は様々な賛否両論があって、多くの普通の方々は非常に歓迎したんですが、神学者とか知識人の方はかなり反対という気持ちも強かったんですね。何でかといったらプロテスタントと関係がまずくなったり、あるいは聖書に載っていないのでわざわざそうする必要性がなかったんじゃないかとか、いろんな反対意見も多かった教義ではあります。
ただ知識人の中でマリアの被昇天を絶賛した知識人が一人いてですね、それはクリスチャンじゃない、心理学者で有名なユングなんですよね。実はユングはこの被昇天をものすごく絶賛した。知識人はほとんど反対だったんですけど、唯一絶賛したのが実はカトリックじゃないユングだったんですね。
何でユングが被昇天を非常に賛同の意を表したかというとですね、体ごと天に引き上げられたということは意義があると。つまりわたしたちは普通天国に招かれる時に肉体を置いて魂だけが天の国に行くっていうふうに考えがちですけど、でもマリアさまが天国に行ったのは魂だけじゃなしに体とともにということなんですね。
ユングが正しく指摘している通りですね、わたしたちの救いはですね、魂の救いだけじゃなしに体の救いも入っていることの大きなしるしだということですね。これは言うまでもなく体の復活ですね。イエスさまの復活と深い関係があるということですね。死ぬということは体が滅んでしまうということですけれども、その体の滅びも実はわたしたちの最終点じゃないと。実際、わたしたちの体は復活の恵みの中にあるということなんですね。これはキリスト教的な考え方の中で実は非常に重要だということなんですね。
考えてみれば当たり前のことだといえば当たり前かもしれないですが、わたしたちの愛する行いとか、人を愛する、それはすべて体を通して表されるからですね。喧嘩するのも体を通して、言葉を通してだったり、暴力をふるったり。でも逆に和解したり仲良くしたり平和に暮らすのも、全部わたしたちは体を通して行われているということなんですね。
互いに憎み合うことも互いに愛し合うことも、わたしたちの信じているものはすべて体を通して表現されて、体を通して表現されたところに罪が生まれたり、救いの現実が実現しているということなんですね。この被昇天の教義で一番大事なのは、わたしたちが体を通して生きていて、体を通して表されたものもわたしたちの救いに深くつながっているということの大きな恵みというか、希望が示されているということなんですね。
だからわたしたちは何が大事かといえば、これは当たり前のことですけど、わたしたちは体を通して日常生活をしている。ご飯を食べたり働いたり友だちとしゃべったり、全部、ほとんどですね、全部とは言わないけどほとんどは体を通して表されていることだからこそ、わたしたちの体を通して表される一つ一つの行為や言葉を大切にして生きていく。つまり愛というのは必ず行いに表されるというところをわたしたちはしっかりと受け止めていく必要性があるということですね。
ただやはり大きな問題もあります。今のこのコロナウイルスの危機は何かといったら、まさしく体の危機ですよね。人と人との交わり、つまり体と体をなるべく距離を置きましょうという一つの危機が今、全世界に来てるわけですが、ただやはり危機的なこともやっぱり体を通してくることが多いわけですね。
コロナウイルスだけじゃない、病気ですよね。病気をしない人は多分あり得ないでしょう。そして老いていく、年を取っていくということも一番はっきり表れるのは体が弱くなる。耳が聞こえないとか目が見えないとか、男性の場合頭がはげてくるとか。ほとんどは体に表されますし、そしてやはりわたしたちは死という現実を受け入れなければならない。
そして目の前に迫ってくる死の一番大きな問題は、やっぱり体の機能が停止して、一時的ではあるけれども体が滅んでいくという。だから苦しみとか悲しみも多くのことは体を通してやってくるということも間違いないわけですね。わたしたちは体を通してやってくる様々な苦しみも受け止めなければならないわけですね。
でもどうやってこれを受け止めていくかというならば非常にはっきりしていますけども、わたしたちのこの肉体的な苦しみ全てですね、イエスさまが十字架上で、つまりまさしく自分の体を通して、わたしたちの罪をあがなってくださったというところに私たちのいつも希望が与えられているということですね。イエスさまが十字架上で苦しんだのは心だけが苦しんだわけじゃないわけですよね。明らかに体そのものが鞭打たれたり、最後は十字架上でかけられたりですね、肉体的な大きな苦しみをイエスさまが背負われたからこそイエスさまの復活の恵みによって、わたしたちが体を通して受けたすべての苦しみはイエスの復活によって恵みに変えられるということですね。その恵みというのは体の復活として表れるということですね。
わたしたちの体の苦しみはどう考えたって一時的なものに過ぎないということですね。でもこの苦しみをイエスと共に受け止めて愛を生きていこうとするならば、わたしたちもマリアさまと同じように体の復活の恵みを受け取れるということですね。死が全く終わりではない、体の滅びは一時的なものに過ぎないということですよね。そのような希望を抱いてわたしたちはこのマリアさまの被昇天をお祝いしましょう。それはわたしたちの希望の姿がはっきりと表されているということですね。日常生活の、体を通した日々の小さな出来事の積み重ねですけど、それをマリアさまと心を合わせて大切にしていきましょう。
そして大きなコロナウイルスの危機に直面していますけれども、わたしたちもいつかこれを乗り越えることができるのも間違いないと思いますね。イエスさまの十字架のあがないと、そしてマリアさまのとりなしを信じて、わたしたちの体に対する危機も受け止めながらですね、それを乗り越えていくことができるように、わたしたちが魂においても体においても両面から救いの恵みを生きていくことができるようにですね、心を合わせて祈りをささげたいと思います。
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年間第19主日
酒井陽介神父
8/9(日)10:00- 年間第19主日(手話・一部字幕付き)
さて今日も、今読まれた神の言葉をともに分かち合い、解き明かし、そしてキリストの思いに触れたいと思います。まず第1朗読から見てみたいんですね。
列王記でまず語られているのは、バアルの神の預言者と戦って、勝利を収めながらも、アハブ王に命を狙われ、そして逃げまどい、ホレブ山に隠れている預言者エリヤの姿なんです。今日のこの第1朗読の前には非常にドラマチックな場面が展開されているんですよね。華々しい勝利を収めた戦いでした。それは、彼が仕える主なる神の力を、はっきりと見せつけ、主の火が天から下り、あらゆるものを焼き尽くす一大スペクタクルさながらの勝利だったんです。そしてその後には激しい雨と風が吹きすさび、その一帯を覆っていた干ばつも終わったという、そういう一連の話なんですね。ですから本当だったら預言者エリヤは勝利に沸き、そして満足しているはずなのですが、反対に彼は命を狙われるんです。そこまでの輝かしい勝利を得て、神の力を示すことに成功したにも関わらず、それに続く今日の朗読箇所のエリヤは、ビクビクして、隠れているんです。そこでこんなことまで口にするんです。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」これが今日の第1朗読で読まれる直前までのエリヤの状況です。
預言者エリヤは、必死になって、主にすがるんです。そこには、もう、雄々しくバアルの預言者を成敗した姿はありません。ここでは、疲れ果て、死を乞うている弱々しい一人の人間です。そんなエリヤの前で突如起こったのは、先ほどのバアルの預言者との戦いを彷彿させる場面です。山を裂き、岩を砕く激しい嵐が起こり、地を揺り動かす地震や、燃え盛る火など。それらはバアルの預言者との戦いでは、神の力、神の臨在を象徴するものです。しかし、そこに主はいなかったと書いてあります。それならどこに主はおられたんでしょうか。主は静かにささやく声の中におられた。エリヤには、これで十分でした。もう、恐怖にとらえられ、死を乞うていたエリヤではなく、今や彼は、自分の足で、洞穴から出てきたんです。いってみれば、それはエリヤの本質的で、実存的な、神との出会い。エリヤの非常にパーソナルな、神との出会いが行われたということなんです。
さて今日の福音は、どうでしょうか?
湖上で、恐れにとらわれ、身動きが取れなくなった弟子たち。吹き荒ぶ風と自分たちを今にも飲み込もうとする湖に恐れを抱きました。主が、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われると、安心したのか、ペトロはイエスの方に近づこうとさえします。主よ、あなたでしたか。あなたがそこにいてくださるなら、あなたが湖の上を歩いていらっしゃるのなら、このわたしにも歩かせてください。恐れません。ペトロは、歩き出します。しかし強い風が吹くと、沈みはしないかと、そちらに気が移り、再び怖気付き、沈みそうになって「主よ、助けてください」と叫ぶんです。
考えてみますと、これはわたしたちの日常とどこか似ていないでしょうか?
恐れや不安にとらわれたり、現実にまだ起こってもいないのに勝手に思い描いてしまったことにビクビクしたり。そんなことありませんか?神の助けを信じ、神の力を信じ、そうだ、神がともにいてくださるなら、大丈夫だと思って前進する。でも、しばらくすると、いつの間にかまた、毎日の恐れや心配事が、頭をもたげはじめ、そしてまた、気持ちが沈んでしまう。もしかしたら、わたしたちの人生は、この繰り返しかもしれません。
わたしたちは、AIではないんです。だから同じ失敗をしないように、プログラミングなどされていません。それでも、失敗から学びながら、少しずつ成長していくしかないんです。
それでは、わたしたちにとって信仰における学びとは一体なんでしょうか?それは、やはり「主よ、助けてください」と叫ぶことなんだと思います。それを繰り返していけるかということです。
主はペトロに対し、手を伸ばし、「信仰の薄い者よ」と叱りました。そうです、信仰が薄くて上等。怖気付く弱虫で上等。それでも、いや、だからこそ、キリストは、そのみ手を伸ばしてくださるのです。
今日の朗読はわたしたちに2つのことを教えてくれていると思います。1つは、神をどこに探すのか?神とどこで出会えるのか?ということ。喧噪や、派手な立ち居振る舞いや、勝利の美酒や、成功の余韻の中ではない。主は、自分の中に静かにささやく声の中におられる。もちろん、喜ばしい出来事の中、人々を結ぶ絆や愛の中に、主はおられます。そして、人々とともに、人々の真ん中におられる主がいます。しかし、愛する人々や、楽しいことが奪われることがあります。喜びが感じられないことがあるんです。思っているようにことが運ばない。喜びよりも、痛みが強い出来事があるんです。
その時こそ、主はどこにおられるのか?あなたは、わたしはキリストとどんなふうに出会ったか?そんな信仰の本質が問われている気がします。うまくいったから、思い通りになったから、心地良いから、そこに主がおられるということではないということなんです。
そして2つ目。わたしたちは、信仰薄き者であるということです。信仰が薄くて上等と言いましたが、それは「信仰が薄いですけど、何か?」といった居直れと言っているんじゃないんです。信仰がないわけではない。信仰はいただいています。信仰をわたしたちは持っています。だからペトロのように、何度も間違えたり、勘違いしたり、疑ったり、そして叱られたり。その度ごとに、「主よ、お助けください」と叫んで、手を伸ばすこと。そうしていくうちに、「あなたこそわたしの神」と告白し、神のみ心を理解していく者に、ゆっくりゆっくりなっていきます。わたしたちは、変えられつつあるんです。時間をかけて、少しずつ信仰篤きものになりつつあるんです。その歩みは遅々たるものかも知れません。それでいいんです。
大切なのは、そう叫んで、わたしが手を伸ばせば、主は必ず、その御手を伸ばし、しっかりとわたしの手を掴んで離さないということ。そのために、どこに主を探すのか、どこで主と出会うことができるのか、出会おうとしているのか、そのことをしっかりと心に刻み、自分自身に問いかけることができたらと思います。コロナ禍で、わたしたちは、さまざまな痛みや、思いがけない出来事に巻き込まれ、気持ちが削がれることも多々あることでしょう。だからこそ、静かにささやく主の声を聞き逃さないように、キリストとの出会いを、見当違いの場に求めても、主は、そこにいないかもしれない。
最後に一言。見当違い上等。諦めずに呼び続け、探し続ければいいんです。きっと主は、静かにささやく声という道標を置いてくださるでしょう。けっして、ひとりぼっちに見捨てられない。それが、わたしたちの主なのですから。
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年間第18主日
ハビエル・ガラルダ神父
新型コロナウイルスのため、皆さんが教会の外に残っています。この教会の門と壁の外にいます。しかしこの期間は、この長い期間はバカンスではありませんね。教会に行かなくていいというような休みの期間ではありません。会社には行かれないたくさんの人がテレワークをしています。学校と大学に行かれない学生と生徒は家で宿題をしています。わたしたちも宿題をしなければならないのです。ではどういう宿題でしょうか。それは教会のミッション、クリスチャンのミッションを認識して行うという宿題です。つまりミッションの認識と実行、これはわたしたちのウィズコロナ期間の宿題です。
どういうミッションでしょうか。まず聖パウロの言葉を思い出しましょう。1コリントの3章ですけれども、「あなたがたは神の神殿である。聖霊があなたがたの内にいます。」という言葉があります。これはわたしたちのミッション。こういうふうに生きるのはわたしたちのミッションです。わたしたちは神の神殿ですので、どこにいても、いつでも神と一緒に祈ることができます。これはわたしたちのミッション。
もう一つの言葉ですけれども、イエスさまの言葉ですが、ヨハネ4章ですけれども、サマリアの婦人との話し合いがありますね。井戸の隣に。そこにイエスさまが言われました。この山でもエルサレムの神殿でもないところで、霊と真理をもって礼拝する時が来るという言葉があります。この山でもない、エルサレムの神殿でもないところで、本当の霊と真理をもって礼拝する時が来ます。この「時」はコロナウイルスのため来ました。この主聖堂でなくても、この教会でなくてもどこでも祈るという使命、ミッションです。
ですからこれを機会に今までのわたしたちの祈り方について考えるべきだと思います。マンネリ化されたことだったかもしれません。同じことを繰り返すことばかりだったかもしれません。聖霊と真理をもって礼拝することにしましょう。これはわたしたちの宿題です。
もう一つの宿題の言葉ですが、それは今日の福音です。弟子たちはイエスさまに向かって、ここは人里離れたところですし、時間が経ちましたので群衆を解散させてください。みんな一人ひとり町に行って、村に行って自分で食べ物を買うでしょう、と聞いたイエスさまは、解散させてはいけません。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。これはミッションです。わたしたちのミッションです。あなたがたが食べる物を与えなさい。つまり社会に役立つ教会、社会に感謝して役立つ信者、これはわたしたちのミッションです。これを認識して行うのです。
ところでその食べ物を与える方法について考えましょう。与える方法は書いてあります、ここに。イエスさまが言うんです。パン5つ、魚2匹しかない。ではそれを持ってきなさい。
ですから持っていく、イエスさまに持っていくということです。使命、ミッション。そして祈る。祝福してください。このたった2匹とパンの5つだけを祝福して増やしてください。祈るんですね。
これは主に体の不自由な方と健康はあまりよろしくない方々がここに力を入れればいいです。イエスさまに祝福してください、奇跡を行ってください、みんなが食べることができるようにぜひしてください。この祈りは体が不自由であっても十分できる宿題です。それは与える方法です。
そして与える姿勢。どういう姿勢で与えるんですか。いやしてあげるという上下関係の同情なのではなくて、いやしあうということです。教えてあげるという上下関係なのではなくて、学んで教える知恵の交換、知恵の分かち合い、その姿勢です。
つまり生かして生かされる関係で、させていただいております、生かして生かされるという謙遜な気持ちで宿題、ミッションを果たすことにしましょう。
そして姿勢についてもう1つだけ。これで終わります。青草の上で、何でしょうか。今日の19節にイエスさまがみんなを草の上に座らせました。マタイは「草」と書いてあります。でもヨハネと、多分ルカもそうかもしれませんけれども、ヨハネは確実に「青草」というんです。これは意味深いことですよ。 というのは青草といえば春ですね。春といえば過越祭です。過越祭は春でした。過越祭の時には羊たちが屠られる時だったんです。過越祭の時には神の子羊であるキリストが殺された時です。つまりキリストの受難と死と復活を背景にこのパンの奇跡が行われました。わたしたちも青草の香りを生きながらミッションを果たすはずです。
マザー・テレサが言ったように、痛みを感じるまで愛しなさい。痛みを感じても愛し続けていなさい。このミッションを果たす時には損する時もあります。誤解される時もあるでしょう。嫌なこともある時もあります。痛みを感じるでしょう。痛みを感じるからといってミッションをやめるということではなくて、痛みを感じるまで、痛みを越えるまでこのミッションを果たしましょう。
ではこの宿題で忙しくなりましょう。このミッションを果たすのです。心を込めて感謝しながら、喜んで教会のミッション、クリスチャンのミッションを果たすことができるのを願い求めましょう。
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