2021年1月 ミサ説教
1/1(金)10:00- 神の母聖マリアの祭日 英 隆一朗 神父
1/3(日)10:00- 主の公現の祭日 マヌエル・シルゴ神父
1/10(日)10:00- 主の洗礼の祝日(子ミサ) 英 隆一朗 神父
1/17(日)10:00- 年間第2主日 古市 匡史 助祭(東京教区)
1/24(日)10:00- 年間第3主日(神のことばの主日) ハビエル・ガラルダ神父
1/31(日)10:00- 年間第4主日 ヘネロソ・フローレス神父
年間第4主日
ヘネロソ・フローレス神父
今日の福音書の中に出てくるイエスの姿は、やはり、神の言葉の持ち主の姿です。
神の言葉の持ち主、彼の口から出てくる言葉は、何か力をもたらす「有名」とかいうことではありません。イエスの言葉はそのことを行う、もたらす、ということでしょう。「権威」です。
言うと、それが出て来る。力ある言葉、全てを支配する言葉です。悪霊をも、大自然をも、死をも支配する言葉ということです。非常に効果的な言葉です。
嵐の時にすごい波があって、イエスは「黙れしずまれ」と言ったらなぎになった。覚えてますか?
あるいは、ナインの寡婦の死んだ子ども、イエスは「若者よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」。その死者は復活した。あるいは、ベタニアでマルタとマリアのお兄さんのラザロがもう8日間葬られていた。しかし、イエスは「ラザロ、出てきなさい」。ラザロは復活した。
その言葉の力。一番最初の創世記に出て来る、天地創造の時の言葉「神は言われた。光あれ。光があった。太陽あれ。太陽があった。月があれ。月があった」その力でしょう。
面白いのは、天地創造主である神は、太陽や月には「何々あれ、何々あった」と言いましたが、人間の場合には違う言葉が出てきます。 「人間あれ」とは言わないのです。「我々にかたどって、我々に似せて人を造ろう」。そして、自分の手で土で人形をつくり、その鼻に神の息吹を「ふーっ」と…。それで人間が生きたものとなった。アダムです。天地万物の中で人間は神の傑作です。「我々にかたどって」そして、我々は神の息吹で生きたものとなった。
太陽や月は素晴らしいものですけど、神と心と心を通わせることはできません。神にかたどってつくられていません。我々は、神にかたどってつくられています。神の息吹を受けたから。聖霊、神の霊、神は霊です。
ヨハネの福音書で、「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」。そしてこの霊である神は、人間をつくって神ご自身は人間にもなりたかった。そしてなってくださった。みことばは御子となって人間のうちにお住みになった。
だから太陽ができない、月もできない、動物もできないけれど、人間は神と心から心に通うことができます。
ミサ、これは神の言葉。我々の肉となってくださった。イエス・キリスト。 今日は、この感謝の祭儀で、感謝の心で、わたしたちは神の言葉をもっともっと大事にする恵みを願いましょう。神の言葉を、本当に心の中で思い巡らして味わう、深く味わう恵みを願いましょう。
主よ、あなたの言葉を味わせてください。
年間第3主日
ハビエル・ガラルダ神父
今日の第1の朗読のヨナの話と今日の福音は、主に回心について、悔い改めについて話していると思います。それを中心にして考えてみましょう。悔い改めなさい、とイエス様が言います。では悔い改める心について考えましょう。
悔い改め、回心によって心をきれいにします。反省して、謝って、自分の罪を認めて、できれば赦しの秘蹟を受けて、その秘蹟の恵みで悪かったと思っていたことを、本当に悪かったとわかって、そして神様に戻って元気を取り戻して、喜んで神様に赦されて愛されていることがわかって、元気になって喜んで生きることにします。そしてその喜びをみんなに感じさせることにします。これが回心です。
けれども、イエス様は他のところで、「1つ欠けている」と言うのです。回心するときには重大なことを忘れないように。つまり、きれいになった心の中にイエス・キリストを入れ込むということです。簡単に言えば、イエス・キリストに「ハマる」ということです。
この話です。ルカ11章に出てますけれども、家に悪霊が入っていて戦って追い出すことになったのです。ところが、その家をきれいにして持ち主はそのまま何処かに出かけたのです。そこで、追い出された悪霊がもう一度戻ってきて覗いてみて「ほら、きれいになったじゃん、誰もいないじゃないですか、入ろうよ」と、友達を呼んで、もっと悪い悪霊たちを呼んで、また中に入って前の状態よりも悪い状態になる、という話です。
ですから、きれいになった家に強い人を入れなければならない。きれいになった心にはイエス・キリストを入れなければならないのです。これが「イエス・キリストにハマる」ということです。それはどういうふうにできるのでしょうか?わたしはこの4点を考えましたが、いかがでしょうか?これは努力にもよることです。でも結局は恵みですので、願い求めることにしましょう。
第1点目はこれです。「キリストと共に生きる」ということです。
つまりキリストを友達にすることです。ヨハネ15章にキリスト自身が「わたしはあなた方を僕と呼ばない。友達と呼びます。全部打ち明けたからです」イエス様が友と呼んでくださるから、お言葉に甘えてわたしたちもイエス様を友達と呼びます。「マブダチ」ではないんですけれども、本当に心の友達。イエス・キリストについてよく話したり、わたしについて話したり、イエス様と話し合ってコミュニケーションをとって、だんだん馴染んで「共にいる」ようにします。
2点目は、「キリストのように行う」。
「いる」だけではなく「行う」。そのためにはやっぱり黙想がいいですね。福音をゆっくりと読んで、心で読んで「キリストの考え方はこれですね、キリストの言葉はこれですね。なぜでしょうか?」とイエス様と話し合って、イエス・キリストの生き方とものの考え方を理解して自分のもののようにして生きる、キリストのように行うことにする。「こんなイエスにわたしもなりたい」と望んで黙想する。
3点目は、イエスと共にいるだけではなく、イエスと共に行うだけではなく、「イエス・キリストのために生きる」。
これは第2コリントの書簡の5章に書いてある言葉「自分のために生きるのではなくキリストのために生きるのです」。この言葉には、気になることがあります。「キリストのために生きるんですが、でも、普通の人は自分のためにも、そして家族のために社会のために生きるんじゃないんですか?どうして、それをやめてキリストのために生きることにするんですか?」それは誤解です。マタイ25章を思い出してみましょう。「まことにわたしは言う。弱い立場に置かれている人たちのためにあなた方がしたことは、つまりわたしのためにしたことである」。ですから家族を愛するとき、キリストは家族への愛のライバルではない。妨げではない。それどころか愛を深めます。愛の純粋さをより清めます。そして、もう一つ似たような反論があります。主に無神論者からです。「クリスチャンを見ると、そして一般に宗教のある人の生き方を見ると、この人たちは天国のことばかり考えている。神様のことばかり考えている。この世の中を忘れているんじゃないですか?それではいけないのではないですか?」もちろん、いけないです。それは誤解です。神を認めることこそ、この世を大切にする原動力を深めるわけです。邪魔にするのではなくて深めるのです。より深くより大切に、自然をより大切にする、人間をより大切にするはずです。
今度は4点目。これは難しい。「キリストがわたしの中に生きる」「わたしが生きるのではなく、キリストがわたしの中に生きる」これはガラテヤ書簡2章20節ですけれども、「キリストが生きる」。主語はわたしではなく、キリストです。これはどういうふうにしたらできるでしょうか?
例を申し上げますけれども、昔の冬のオリンピックの話ですが、サラエボオリンピックがありました。まだ、生まれてない人もいるでしょうけれども。それを、わたしはフィギュアスケートのペア決勝戦をテレビで見ていたのです。もう感動して、「すごいテクニックですね、すごい芸術も見事ですね、人間じゃない、こんなことができるなんて」と感動してすごいびっくりして見ていたのですが、大体皆同じことするので、正直言って眠くなってきました。ところが目が覚めてたまたま目にしたのが、2人のイギリス人の夫婦。踊り始めると、「え、なにこれ」。びっくりして、「違う!これは違う!何でしょう?」。他の人たちは自分のテクニックを音楽に合わせてやってたみたい。この人たちは違う。音楽が踊っている感じでした。音楽がなめらかにきれいに踊っている。もちろん終わりに100点満点で金メダルだったのです。そしてインタビューの時、彼らは聞かれた。「あなた方こんなことができるのは、どういうふうに練習するからですか?」彼は答えた。「わたしたちはアイスの上に入って、踊りの音楽を流す。2人で目を瞑ってお互いに肩を支えてじっと長くその音楽を聴いている。その音楽に満たされて、それから始めます。踊るのはわたしたちではなくて音楽が踊るのです。ですから、なぜそのときに腕をあげたのですかといえば、音楽がしたかったから。なぜあの角まで行ったのかといえば、音楽が行きたかったからです。ジャンプしたのも音楽がジャンプしたかったのです」。もちろん彼らのテクニックがなかったなら、いくら音楽が踊っても優勝しないでしょう。テクニックはみんなと同じように素晴らしかった。テクニック、技術は最低必要条件。その後、音楽が踊るのです。
イエス・キリストは音楽だと想像してください。わたしたちの人生は、キリストに合わせて動くよりも、キリストがわたしの中に生きる。「なぜお見舞いに行ったんですか?」「イエス・キリストが行きたかったからです」。「なぜその人と喧嘩した後、謝りましたか?」「それはイエス・キリストがそうしたかったからです」。「なぜこの人に元気をつけてあげたのですか?」「キリストがそうしたかったから」。ですから「キリストが生きる」ことにしましょう。
これは、キリストに「ハマる」方法、キリストを心に入れ込むための方法、つまり共にいる、キリストのように行う、キリストのために生きる、そして、キリストがわたしに生きる。これを願い求めましょう。
年間第2主日
古市匡史 助祭(東京教区) (司式:英隆一朗神父)
改めまして、おはようございます。東京教区の助祭の古市匡史と申します。今日、私の故郷である、この聖イグナチオ教会で奉仕させていただける恵みに心から感謝したいと思います。
私は古いお聖堂の時代に洗礼を受けまして、今のお聖堂になってからは、ちょうど、真ん中の列の前から2番目あたりにでいつも座っていて、主日はいつもそこでミサに与っていました。自分がこの場に立たせていただけることは夢にも思っていませんでした。この機会を与えてくださった神様、そして、主任司祭の英神父様に心からお礼を申し上げます。
さて、本日の第一朗読及び福音のテーマは「召し出し」です。 当初は自分自身の召し出しについてお話ししようかなと思っておりましたが、今のこのコロナ禍にあって、私たち一人ひとりがどう召し出されているか、そのことについてお話しした方が良いのかな、と思いました。
今日の福音でイエスはこう言います。「何を求めているのか」。そして弟子たちは尋ねます。「先生、どこに泊まっておられるのですか」。原文通りに訳すのであれば、イエスは、「あなたたちは何を探し求めているのか」。そして、弟子たちは「先生、どこにとどまっておられるのですか」となります。
お互いのこの問いかけ、これはキリスト者の日々の召し出しの基本のように思います。
私たちが探し求めなくてはならなのは、神が、今、この世界の中で、この社会の中で、あるいはこの生活の中で、どこにとどまっておられるかです。そして、神がおられるところに、私たちも一緒にとどまる、このことだと思います。面白いですね。弟子たちは、何かの答えを求めているのではなく、イエスがどこに泊まっているかを探しています。
これまで経験したことのない、このコロナの脅威によって、私たちの関心はワクチンの開発など、解決方法を見出すことにばかり目が行きがちになっているように思います。もちろん、安心して過ごせるようになることは、何よりも大切なことです。しかし、この苦しい状況の中で、一体イエスはどこにとどまっているのか。何に心を砕くように、と示されているのか。見失ってしまっていないでしょうか?
救い主のもう一つの名前は「インマヌエル」です。つまり、「神は私たちとともに」という意味です。人類の創造から世の終わりまで、世の中には様々な問題が存在し続けていますが、神はそれでも私たちと一緒におられます。
ですから、問題を解決することが教会の目的なのではなく、どんな時も、神と人々と共にいること、このことが教会の本分なのだと思います。社会や生活の中で、イエスがとどまっておられるところを探し求めながら、私たちもそこにとどまること、これが私たちキリスト者の召し出しだと思います。
では、どこでイエスと出会うことができるのでしょうか?イエスと弟子たちのやりとりの興味深いところは、弟子たちは、イエスが泊まっているところがどこか、と質問しているのですけれど、そこを尋ねても、具体的にはどのような場所か、というのは一切書かれていません。これは、イエスがとどまっているところには一つの正解があるだけではなく、イエスと出会う場所は、人それぞれである、ということなのでしょう。「正解がないなんて、それは大変なことだ」、と嘆く必要もないと思います。イエスについていった弟子たちは、最初から彼が救い主とわかっていたのではありません。サムエルも神の呼びかけを聞くまで、神の言葉を聞いたことがありませんでした。
しかし、いつも神に向かって心の目を向けていたからこそ、神の声を聞き、神と出会うことができたのだと思います。
そして、サムエルも、イエスの弟子たちも、神と出会うのは、暗い夜の中。そのことに慰めを見出します。コロナ禍という恐ろしい闇の中に私たちは飲み込まれておりますが、今はいつも以上に、神と出会うことを可能とする時、その時であると思います。
今日の福音を書き記したヨハネは「神は愛」だと言っています。神がどこにおられるのかわからない、そうであれば、愛がどこにとどまっているのか、あるいは、愛がどこにあるべきか、そのことを探し求めれば、私たち一人ひとりが探すべき答えが出てくるように思います。
今日これから、このあと続いて参りますミサの中で、私たちが神の声を聞き、そして神と出会うことができるよう、そしてその神のもとにとどまることができるよう、恵みをともに願って参りましょう。
主の洗礼の祝日 (子どもとともにささげるミサ)
英 隆一朗 神父
1/10(日)10:00- 主の洗礼の祝日(手話・字幕付き)
今日はイエス様が洗礼を受けたことを記念する日ですね。それで福音書も、イエス様が洗礼を受ける、これですね、今日の福音書では、イエス様が洗礼を受ける場面が朗読されました。
非常に不思議なんですけど、イエス様の洗礼といっても、皆さんはちょっと覚えていないでしょう、子どもの時に洗礼を受けたからどうだったか。皆さんは額にですね、水をちょろちょろっとかけて、洗礼を。大人の人もそうですが、こうなんですよね。皆さんの中で多分、洗礼を受けた時に泣いた人も多かったと思いますけれども、まあ、ともかく。
でも、イエス様の洗礼はそうじゃなくてヨルダン川にですね、ざぶんと入って全身水の中に浸るような水浴びみたいな感じだったんですよね。で、それはいいんですけど、そこから出てきたら、どうなったかといったら、天が裂けた、天が開いたというんですよね。非常に不思議な表現ですけど、まあ、この天井だって一応塞がれてるわけで、これがパカっと開いて開いたら、ちょっと大変なことではありますけど。でも、天が開くってあんまり聞いたことがないでしょう。あるいは、青空を見ててもですね、天が開くっていうのはみんな見たことがないと思うんです。でも、天の向こう側に何があるかといったら、神様の世界があるんですよね。当時の考え方で。だからこれがパッカリ空いたらどうなったかといったら聖霊が鳩のように降ってきたというんですけど、結局向こう側の世界に神様の世界があるから、パッカリ開いたらどうなるかといったら、空っぽじゃなくて、神様の恵みが滝のようにドドっと降ってきたような感じだったと思います。滝のように降ってきたのを鳩と言っているんですけど、多分、鳩も一羽ではなくて、100羽とか1,000羽ぐらいが、バアっと上からこう降りてきたんじゃないかと思いますが。
つまり、神様の恵みがイエス様に、ドドっとイエス様に降ってきた感じなんですよね。
何を言っているのか非常にわかりにくい表現だけれど、ここを見るといつも思い出すのは、よく話すあれなんですが、皆さんも知っている通りイソップ物語に「北風と太陽の競争」というのがあるんですよね。知っている人もいると思うけれど。
今日みたいにもの凄い寒い日に旅人が道を歩いているんですよね、今みたいに電車もないですから外をずっと歩いているんですけど、そしたら北風と太陽が、旅人の着ているマントをどっちが脱がすことができるか、っていう競争をするんです。北風の方は冷たい風をぴゅうぴゅう旅人に当てるんですよね。そしたら当然寒いから、今で言えばコート、昔で言えばマントを握りしめて絶対それは体がブルブル震えるので、全然マントを取ることが、いくら強い風を当ててもマントが取れないわけですよね。太陽はどうしたかといったら、まあ春にならないと無理なんですけど、太陽は暖かい熱のある光を旅人に当てるんですよね。で、どうなったかといったら、暑いから自然と旅人がマントを脱ぐ、っていう話ですね。今脱いだら風邪ひきますから、あれですけど。暖かい日にポカポカ太陽が当たったら、自然とこのマントを脱いじゃった。それで、北風と太陽はどっちが勝ったかといったら太陽が勝った、というお話ですね。
まあ、僕は本当に不思議なお話だというか、その通りだなと思いますけど、それはもちろんマントの話をしているんですが、このお話のポイントはマントじゃなくて、マントを人間の心にたとえていると思うんです。
マントっていうのは、緊急事態宣言があって、またかとか、うつったらどうしようとか、不安な気持ちになったりして自分を閉じちゃうような気持ちがやっぱりあると思うんですけど、そのマントっていうのは人間の殻みたいなもので心の閉じこもるような気持ち、もちろん、今はコロナが流行っているから当然マスクしたり、あるいはうつらないようにちゃんと自分を守らなきゃならないけど、でももっと大事なのは、やっぱりそれでも神様はわたしたちに太陽の光を注いでくださるっていうことです。
だからこの、空とか天井がパッカリ開いたということよりも、僕はこのお話のポイントはイエス様の心が開いた、つまり、心がパッカリ開くと神様の恵みがこう、その人の中に入って来たという話だと思うんですね。北風と太陽のお話も同じで、いつもいつもマントでギュッと自分の心を握りしめていたら、やっぱり悲しくなったり辛くなったり気持ちが滅入ってしまったり凹んでしまったりしちゃうけど、でもその時に神様の恵みが上からですね、皆さんの頭の上から恵みが降り注ぐような感じ、それに心を開いたら、あったかいシャワーを浴びたらものすごく気持ちが良いのと同じに、神様の恵みがシャワーのように上からですね、こう降ってきているというか。だから、イエス様は愛する子だって言われるわけですね。別の言葉で言ったら、今の日本語で言ったら、「大丈夫だ、お前は私のいとし子、大切な存在だ」と神様が言ってくださっていると思いますね。
今は本当にコロナで厳しい状態で、緊急事態宣言も出てちょっと自粛しなきゃいけないから、まあ仕方がない。外面的にはマントをしっかり着てうつらないように気をつけなければいけないけれど、でも、心まで閉じちゃったら、やっぱり悲しさとか何か不安とかが膨らんじゃうから、心はですね天井がパッカリ開くように、自分の心を、なんて言うんですかね、神様に向けて開けて、この熱いシャワーを浴びるように、神様の恵みが自分の心と体に降り注いでくる、そういうイメージでお祈りをされたら良いと思います。
そして、神様が大切だよ、って呼びかけてくださっている、その気持ちをですね、大事にしながら歩みましょう。その中でわたしたち一人ひとりが神様からもらった役割も果たすことができるでしょう。
皆さんは学校で勉強したり、制限された中で友達と遊んだり、友達と助けあったりですね、ま皆さんの中には学校の中で勉強を教えている子どももいると聞きましたけど、なかなか学力の差ができて大変なこともあるみたいだけど、でも、お互いにですね、皆さん、友達同士、助け合いながら歩んでいけるようにですね、心を合わせて祈りを捧げたいと思います。
主の公現の祭日
マヌエル・シルゴ神父
1/3(日)10:00- 主の公現の祭日(手話・一部字幕付き)
今日のミサの中でわたしたちは皆、心を合わせて神さまがわたしたちを、この今の社会を祝福してくださるように心から祈りましょう。大変な時期で、ちょうどこの時期にとって、あるいはこの時期にいるわたしたちにとって今日のようなメッセージは非常に大切だろうと思います。
今日は主の公現の祝日です。昔はクリスマスよりも、教会の歴史の中でクリスマスよりも祝われた祝日なんですよ。神さまがすべての人のためにこの世に来られたといった意味で、この祝日は全教会で非常に大切にされていました。ローマの教会ではあとから主にクリスマスを非常に強調されまして、今のわたしたちの暦になったんです。
主の公現の意味は一体何でしょうか。簡単に言いいますと、主がすべての人のために来られた。マタイは福音書の中で、これを物語の形で語っているわけです。博士たちの話は歴史的なことよりもある意味で教えを伝えるためにどこかで作られたものだろうと。実は似ている話が他の文化にもあるようですけれども、マタイはそれを使ってわたしたちには大事なメッセージを伝えてくれたと思います。当時のマタイの、あの時代の話し方です。
ではそのメッセージは何でしょうか。3つくらいのことにまとめることができるのではないかと思いますけれども、まず神さまはすべての人に自分を現してくださるわけです。すべての人に神さまは話しかけてくださる。すべての国の人を神さまは呼び寄せてくださる。わたしたちは時々キリスト者として、イエスは、神さまはキリスト者のものだと考えるかもしれませんけれども、神さまの望み、イエスの望みというのはそうではない。全ての人、マタイはそれをこういう物語の形で書いてくださったわけです。異邦人であった、遠いところからエルサレムに来た人たちのためにもイエスは生まれた。今日これを祝う時には、わたしたちの心の中にそういう幅の広いわたしたちの信仰といいましょうか、わたしたちの生き方ができるように神さまに心から祈りたいと思います。
そして2番目のことですけれども、わたしたちは探しに行く。彼らが何か夢を見て、メシアが生まれたと言われて探しに行く。探しに出かける。これもマタイの1つのメッセージでしょうと思います。わたしたちのためにも。ただ待つだけでなくて、わたしたちキリスト者としていったい神さまがどこにおられるか。今の社会の中、今の状況の中には神さまがどこにおられるか。どこからわたしたちを呼んでくださるか探し求める。神さまを探し求める。これはキリスト者の根本的な心の持ち方でしょうと思います。
そしてもう1つは、わたしたちを博士たちと同じように導いてくださる、そういう心。彼らは星に自分たちを任せた。導いてくださる、いったいどこまで導かれるか。自分たちはわからなかったですけれども導いてくださる。その裏にいらっしゃる神さまはわたしたちをどこまでも共にいて導いてくださる。その心もわたしたちには非常に必要だと思います。わたしたちの人間の力だけでいろいろなことができるかもしれませんけれども、神さまに従うということは無理ですね。頭を下げてわたしたちは祈らなければならないでしょう。このメッセージですね、今日のメッセージは。
わたしたちはそれを心にとめて、今日皆さんと一緒にミサの中でこのようなことを神さまにお願いしたいと思います。
まず見る目を与えてください。神さまを見る。神さまはどこにいらっしゃるか。どういう人、どういう出来事を通してこの社会の中に、いったい神さまはどこにいらっしゃるか。その神さまを見る目を与えてくださるように。
また神さまには恵みを願いたい。何の恵みか。1つは自分から出る、わたしたちの考え方から出る。エルサレムの人たちはそれができなかった。ですからイエスのことをピンと来なかったですね。自分から出る。自分の考え方は大事ですけれども、多くの場合にはわたしたちはそういうことだけで狭くなるわけです。自分から出る。
そして導いていただく心。誰かが、神さまがわたしたちを導いてくださる、素直にその導きを受ける謙遜な心。それも今日皆さんと一緒にこのミサの中でお祈りしたいと思います。
そして最後にいただいたこの恵み。わたしたちが神さまに導かれてここまで来た。この恵みを、この喜びを今度はわかりやすい方法で人々に、わたしたちの仲間たちに伝えることができる恵み。これもわたしたちだけでなくて教会全体のために必要だと思います。
今の教皇は自分なりにこれを実行しておられるんです。今までと違ってむしろもっと簡単な方法、簡単なやり方、簡単な言葉で同じイエスのメッセージを人々に伝えておられるんですよ。わたしたちもキリスト者として一人ひとり、自分が置かれている場で、自分なりの言葉といいましょうか、自分なりの生き方をもって、主は来られた、主はわたしたちと共にいらっしゃる、主はわたしたちを導いてくださる。その福音、良き知らせを人々と分かち合って、人々の力になるものとなるように、今日のミサの中でみなさんと一緒にお願いしたいと思います。 見る目、自分から出る力、その恵み、導かれる心、そしていただいた恵みを人々と分かち合う。そのような恵みを願いながら今日ミサの中でわたしたちが心を合わせて。集まっているわたしたちだけではなくてすべてのキリスト者に与えてくださるように祈りたいと思います。
神の母聖マリアの祭日
英 隆一朗 神父
1/1(金)10:00- 神の母聖マリアの祭日(一部字幕付き)
1月1日は神の母聖マリアをお祝いする祭日に当たっています。そして同時にカトリックでは世界平和を祈願するその日にあたっています。そしてそれに合わせて教皇さまは毎年世界平和のメッセージをこの日に発表されて、日本語は中央協議会のホームページに掲載されているので、興味ある方は見てくださったらいいと思いますけれども。今年の教皇さまのメッセージは、世界平和を築くために必要なことはケアをしていく気持ちだというんですね。英語でケアという、日本語でいったら心遣いとか心配りとかあるいは実際的に世話をしたりですね、何かを手入れする時にもケアという言葉を使いますが、ケアの心を大事にしていきましょうというふうにメッセージで語られました。
大きな平和は政治家とかそういう人たちの仕事でしょうけれども、わたしたちの周りで築いていく平和はやはり小さなケアの気持ち、あるいは本当に実際ケアをしていく、そのような中で築かれる。だからこの1月1日にあたって、あるいは今年を生きていくにあたってわたしたちがケアを心がけていくということ、それを大切にしていきたいと強く思います。
今日のところではマリアさまとヨセフさまが馬小屋でイエスさまを生むことになり、そして飼い葉桶にこの乳飲み子であるイエスさまを寝かせたということですが、そこに羊飼いたちがやってきて、経験したことを話すわけですね。それを聞いて人々は非常に不思議な話だと思ったわけですが、マリアさまは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」というふうに書いてあります。そこでマリアさまが何を思い巡らしたのか。そのうちの1つは明らかだと思いますけれども、ヨセフにしろマリアにしろですね、神さまがどれほどケアをしてくださっているか、神さまのしかも具体的なケアがあるっていうことをマリアさまはかみしめていたんではないかと思います。
多分この時マリアもヨセフも、もうクタクタだったと思いますね。宿屋に泊まるところが泊まれないとかハプニングの連続で非常に心細い気持もあったでしょうけれども、そこで羊飼いたちが訪ねて来て、ヨセフとマリアさまはやはり非常にほっとしたんじゃないかと思いますね。寝るための道具がそろってなかったかもしれないし、夕食も満足に食べる暇がなかったかもしれない。でも羊飼いたちがやはり何かほんのちょっとしたものでしょうけれども、それをマリアとヨセフに多分プレゼントしたんであろうと思われますね。それでマリアとヨセフは馬小屋でゆっくり暖かく、しかも何か食べる物もあって休むことができたんじゃないか。でもそれはやはり羊飼いを遣わしてくださった神さまの気遣い、まさしくケアの心ですね。それをマリアとヨセフは感じたんだと思います。
わたしたちも神さまから守られている、ごく小さなことを通して神さまの気づかいや心遣いがあるということ、それをわたしたちはしっかりマリアさまのように受け止める。それが出発点でしょうし、神さまのケアの心を受けてわたしたちも周りの人に対する心遣いをしていく時だと思います。
クリスマスカードや、そして今日は年賀状が皆さんのところに来ている、あるいはメールとか。そういうときは本当に、自分の友達やしばらく会っていない人たちに対するケアの心を思い起こすチャンスでしょう。特に今年は帰省できない人も多いでしょうし、日頃会う人とも会えないような状況の中ですから、こういうときこそケアの心を、まず気遣いや心配りを通して、まさしくマリアさまのような心を通して周りの人たちに対する心遣いを思い巡らすチャンスじゃないかと思います。
マリアさまは結局このことを通して神さまのケアの気持ちを学んで、そして多くの人にケアの心を示したと思いますね。一番最初はエリザベトの訪問のところからですけれども、あれも本当に具体的なケアの1つのしるしでしょうし、ヨハネの福音書の2章ではカナの婚礼の時に、マリアさまがイエスに「ぶどう酒が足りなくなった」というふうにイエスさまに訴えるんですけど、あれもまさしく心遣いの1つの表れですね。やっぱり周りを見ていて足らないものが何であるのかということを見ていた。そのようなマリアさまのケアの心に倣いたいと思います。
そして心遣いと共にコロナで制限されているからこそ、わたしたちはもっと日頃よりも周りの人に対するケアの気持ちを心がけたいと思います。 今年は特にコロナのことがあるので生活困窮者がかなり増えるんじゃないかという予想があってですね、しかもやはりお正月でいろんな事情でいろんな支援団体が活動する場が限られてたので、今日と1月3日教会をお貸しして、特にコロナで困っている人々のための炊き出しと生活相談会を開くことになっています。そろそろ準備がこれから始まるんじゃないかと思われますけれども、これも1つのケアの具体的な実践として、教会が今年は取り組みたい。何かそこから教会の1年が始まるっていうことも、個人的にはひどく嬉しい、慰めの気持ちが感じられます。やはり困っている人に対するケアの気持ちですよね。それをわたしたちも何らかの形で表していきたいと思います。
あるいは皆さんの中で逆にケアが必要な人もいるでしょう。様々なことで苦しんでいたり教会に来れなかったり、そういう方々も何らかの形で助けのサインというんですかね、周りの方々に助けてほしいというサインを出していただければありがたいと思います。教会としてどれほど応えられるかわからないですが、でもどこかで羊飼いのような人が表れて、ちょっとしたサポートが得られるんじゃないか。パパさまが言うんですよね、「ケアの文化を作っていきましょう」と。助け合ったり思い合ったりする、そういう文化そのものを築いていくことが平和への道だっていうことですよね。教会、そしてわたしたちクリスチャンはそのような気持ちが普通の人より強いと思いますけれども、それをあらためて思い起こしましょう。やっぱり必要な時は人から助けられる必要性があるし、ちょっと余裕があるときはわたしたちは周りの人に対するケアの心を何らかの形で表していく。そのようなことを心がけるならば、コロナの何か重い影に負けない、何か違うものを、違う文化をわたしたちが築けるのではないかと思います。本当に東京の、都会の孤独みたいなものを逆に強く感じますけれども、つまり無関心で自分の世界に閉じこもって、自分だけがいいみたいな風潮がこういう都会ほど強いんじゃないかって気がします。そのような風潮にも流されずですね、なるべくこのケアの心を大事にしていけたらと思います。
わざわざミサを、このミサもそうですがグループの申し込みにしてあることの一つの理由は、やっぱり誘い合ってきてほしいという、お互いに対するケアの心を持ってほしいという気持ちも入っていますね。なかなかもちろんグループが作れない方もおられるでしょうけれども、それでも何か互いに対する心遣いを持ちながら教会に来るっていうのが、わたしは本当に大切なことじゃないかなと思いますね。それはもう教会だけじゃない、仕事においても家庭においても、あるいは隣近所の方とも同じだと思いますけれども、少しでもわたしたちが現代の流れに逆らうかのようにケアの文化を少しずつ作っていけるようにですね、それがわたしは本当に平和を実現していく、長いですけれども一番確かな道じゃないかなと思います。教皇さまに心を合わせて、そしてマリアさまに心を合わせてわたしたちが少しでも平和を築いていくことができるように、互いが助け合って歩めるように共に祈りをささげたいと思います。