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2021年2月 ミサ説教





2021年1月 | 2021年3月


四旬節第2主日


マヌエル・シルゴ神父

2/28(日)10:00- 四旬節第2主日(手話・字幕付き)


 今日の福音書に描かれているイエスは、わたしたちに自己紹介される福音書なんです。弟子たちに、いったいイエスはどういう方か、それを御父の声を通してペトロとヤコブとヨハネに示されるわけです。
 それを聞いた時に弟子たちはどういう反応をしたか。まず恐れた。恐れていたと書いてあります。非常に恐れていた。そしてペトロはまた「どう言えばいいのか分からなかった」と書いてあります。それであとでペトロはイエスに向かって「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしい」。まさに彼らの心の中は混乱していたんですね。混乱して何をしたらいいのかさっぱりわからなくて、イエスはいったいどういう方か、さまざま心の中にあったでしょう。実は彼らは本当のイエスを知っていなかった。イエスはいったいどういう方であったか。イエスが神、神の子だということを彼らはまだ悟っていなかったですね。彼らにとってこのイエスはまったく今までなかった新しいイエスです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえた時には、初めて彼らは心の中に何か受け止めたでしょう。だけどわかっていない。イエスと弟子たちとの関わりの中はいつでもそういう関係があるわけです。いくらイエスが頑張っておられても、いくら説明してくださっても弟子たちにはピンとこない。わからない。おまけにこういうことを体験してから彼らがイエスから聞くのはこういうことなんです。「誰にも言わないでください。」「復活するまで黙っていてくれ。」まさに、何を話しておられるかさっぱりわからなかった3人ですね。


 この聖書の箇所は3つの共観福音書に書いてありますけれども、これはマルコ9章なんですが、その8章には初めてイエスはご受難にあうという表現があるわけです。その預言があってから今日の場面があります。受難を受ける方はこの方ですよ。イエスは彼らには力を与えるために、弟子たちには自分がどういう先生であるか、どういう者か示すためにこういうふうにしてくださったわけです。まさに彼らには自分がどういう者か悟らせたわけです。と言っても彼らはわかったわけではないですよね。終わりには死者の中から復活するとはどういうことか論じ合っていたでしょう。ぜんぜんわからない。こういう関わりですね。イエスは一生懸命ご自分をお見せして、説明したりして、弟子たちにはぜんぜんわからないことを何回も何回も福音書の中に繰り返されている。それほど忍耐強いイエスですね。自分の周りに一番身近にいる人たちはこの人たちですよ。ぜんぜんピンとこない。いろいろなことを言われてもわからない、そんな人たちなんですよ。

 ここからもわたしたちはいろいろ学ぶことができるんですよね。教会の中にはさまざまな人がいるでしょう。頭のいい人もいれば、それほどではない人かもしれない。みんなイエスに言われている。みんなイエスにいろいろ説明していただいているわけですよ。人を受け入れるそのイエスの寛大な心、広い心はここでも描かれているような気がします。


 弟子たちにはイエスはどういう方であるか、なかなか理解できませんでした。皆さんご存じかどうかわかりませんけれども、ロヨラの聖イグナチオですね、霊操という黙想するための1つの手引き書といいましょうか書いたんですけれども、その中でいろいろ黙想する人に提案してくださるわけですよ。観想しながら、いろいろな聖書の場面を見ながらお祈りしていくわけです。その祈りの初めには神さまにお願いすることがいつもあるわけですよ。そしてある時は、4週に分けていますけれども、第2週目に繰り返されている1つのお願いというのはこういうことです。「イエスを深く知って、そしてそれによってイエスを愛して、イエスに無条件に従っていく」。それができるために恵みを願うわけです。イエスを知る。イエスを知って、そしてイエスを知った上で従っていく。イエスを愛して、イエスにあこがれてイエスに従っていくわけです。イエスを知らなければわたしたちはイエスを愛することは難しいですね。

 イエスに従うためには、今申し上げたようにまずイエスを知る。そしてイエスを愛する。わたしたちについてもまったく同じ条件があるわけです。わたしたちはイエスを知らなければ、そして知るというのは単なる頭だけではなくて、どこかで聞いた話を、あるいは勉強したことを知るということだけではなくてもっと深いところからですね。知識よりも知恵ですよね。イエスを知らなければわたしたちはイエスに従うことはとてもできない。

 そのイエスを知るためにはわたしたちは何をすればいいか。1つは神さまにお願いするんですね。あなたはどういう者であるか、イエスがどういう人であるか示してください、教えてくださいと祈る。そして非常に大事なことですけど、付き合う。イエスとの付き合いがなければ、わたしたちは頭だけでイエスことについていろいろな知識がある、得ることができるだろう。でも知恵は得られない。 わたしの母親はスペイン語でこういう言葉を何回も何回もわたしに言ってくれたんですけれども、日本語にしますと、「ふれあいは愛の元」。ふれあいは、あるいは付き合いは愛の元。スペイン語で“El roce hace el cariño”。ふれあわなければ、付き合わなければ愛することはできない。

 なぜ教会の中で、ある意味でしつこく、祈りましょう祈りましょうと繰り返されているか。これなんですよ。祈りというのはやっぱり付き合いですよね。イエスとの付き合い、神さまとの付き合い。その付き合いがなければわたしたちは頭だけで信者かもしれない。でもここから、腹から出てこない。イエスに本当に無条件に従うことができるためには、イエスに夢中にならなければならない。言葉は正しいかどうかわかりませんけど、イエスに惚れる。それがなければわたしたちはイエスに従うことはとてもできない。弟子たちがそういう体験ができるためにいろいろなことをなさって、イエスは3年間そのために使ってくださったわけです。にもかかわらずまだいろいろなことが彼らにはピンとこなかった。長い道、長い人生の中でわたしたちも毎日のようにイエスとそういうふれあいを持たなければ、何と言いましょうか、ペーパードライバーがいますね、ペーパー信者ですよ。免許はあるんですけどぜんぜん運転してない。

 わたしたちは今日の福音書を読んでですね、考えたらいいと思うのはこれなんですよ。イエスはご自分の方からわたしたちに自分のすべてを知らせたい。自分のすべてを分かち合いたい。それを受け入れるか受け入れないかはわたしたちのまったく自由ですよ。受け入れるとすれば、わたしたちはイエスとともにこの社会を変えることができるわけです。その付き合いがなければペーパー信者として、ペーパードライバーとして、免許はあるんですけどぜんぜん運転していない。今日のミサの中でこういうことを考えながら、イエスに「あなたを示してください。わたしたちみんなに、キリスト者にあなたを論理的だけではなくて心に、あるいは腹に落ちる知恵を与えてください」と。みなさんこれはわたしたちキリスト者として、教会のために切に祈らなければならないと思います。いろんな活動もいいんですけれども、これがなければ、活動だけしたら空っぽになる。中身は必要。信者として中身を得られるためにはこういうことは必要。今日一緒に祈りながら、集まっているわたしたちだけではなくてすべてのキリスト者のために、カトリック教会だけではなくてイエスを信じるすべてのキリスト者のためにこの恵みを願いたいと思いますね。イエスを知って、イエスに夢中になってイエスに従うことができる。そのために祈りながら、引っ張ってくださいとイエスに心を合わせてご一緒にお願いしたいと思います。



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四旬節第1主日(洗礼志願式)


英 隆一朗 神父

2/21(日)10:00- 四旬節第1主日(手話・字幕付き)


 今日の福音書ではイエスさまが40日間荒れ野にとどまり、そこで誘惑を受けられたというお話が朗読されました。この荒れ野の40日間というところから、カトリック教会は四旬節といって、この前の水曜日から始まったんですけれども、この40日間悔い改めのときを過ごすという習慣があります。信者じゃない人に説明するには、今はカトリックのラマダンだからって言うんですけどね。ラマダンがわりとテレビでよく出てくるから、むしろその方が信者じゃない人には都合がいいんです。未信者の人と飲み会するときなんかには、今はラマダンみたいなものだからビール一杯でやめておくとか言って説明していました。


 そしてこの40日間は悔い改めのときであるとともに、古代からずっとそうなんですが、洗礼の準備の特別なときとして定められています。40日間を洗礼に向けた特別の準備をするということですね。だから今日洗礼志願式をするということは非常にふさわしいと思います。ほとんどの方がそうだと思いますが、特別な事情があれば別でしょうけど、今日洗礼志願式に与る方は今度の復活祭のときに洗礼を受ける予定の方々が多いと思いますね。40日間洗礼の準備のときを過ごすということを、特に皆さん心に刻んでもらったらいいというふうに思います。


 準備を、いったい何をするのかということなんですが、1つは今日のこのイエスさまの体験に倣って、悪霊の誘惑を受けること自身が目的ではなくて、悪への傾きを退けるということですね。今まで神さまを知らない生活をしている中で知らず知らずのうちに悪魔というか、罪というか、世間の生き方に流されてきたところがあるでしょう。この40日間を通して自分の生き方を見つめ直し、悪に対して、罪に対して決定的に退けるということを少しずつ意識していくときと言えるでしょう。
 洗礼式のときに3回、「悪を退けますか」、原文ですと悪魔なんですけどね、悪魔、あるいは悪を退けますかと3回洗礼式で聞くんですね。その時にはっきり「退けます」と応えられるようにこの40日間準備をしてくださったらいいと思います。

 マルコの福音書の中にはどういう誘惑があったか記されていないんですけれども、それは一人ひとり皆さんの中で自分を振り返りながら、どのようなものに囚われてきた人生だったのかということをしっかり見つめ直して、それが何なのか人それぞれですけどね。何か世間的なものに囚われていたとか、自分の中のある囚われに振り回されてきたとか、何かあるかもしれない。それをしっかり見つめ直してもらったらいいというふうに思います。

 古代の初代教会の伝統を見たらですね、洗礼志願式の元の形は何かっていったら、実は悪魔祓いの式だったんですよね。だから悪魔を追い出してもらって、40日後に清めて洗礼を受けるといういうことですから、悪に囚われない生き方を目指していくということを心がけてくださったらいいと思います。

 悪を追い出すと同時にもうひとつ大切なのは、今日の福音書で言えば、悔い改めて福音を信じる。つまり信じる生き方をより一層意識してくださったらいいと思いますね。福音を信じる、神さまを信じる、イエスさまを信じるということを、洗礼式のときに3回「信じますか」と皆さんに聞きますから、3回「信じます」と洗礼式のときに応えるんですね。だからそれまでにできれば心から「信じます」と言えるように、この40日間準備をしてくださったらいいと思いますね。


 信じるっていうのはなかなか不思議なものですけれども、日本語でも自分を信じろとかわたしを信じてくれとかいろんな言い方で使われますけれども、でも本当にすべてが分かってたら信じる必要はないんですよね。
 たとえば自分を信じろって何かスポーツをやっている人を励ますときに、それはまだ出てないけど可能性が自分の中にあるから、その可能性を頼りに今を頑張れというときに自分を信じろっていう。つまりその信じる自分はまだ出てきてない自分を信じるわけですよね。あるいは夫婦で何か問題があって、旦那さんが奥さんに「俺を信じてくれ」とか言ったら、そういうときに信じるって使いますけど。いろいろあってわからないけど、でも自分を信頼してほしいっていう。つまり陰で別にコソコソしてるわけじゃないからっていう意味で信じてくれ、というわけですよね。
 だから神さまを信じるっていっても、神さまのことが全部わかったら信じる必要性がないっていうかですね。わからないこととか何かはっきりしないことがあるけど、そこに何か大切なもの、自分の芯になる生き方、あるいは拠り所となるようなものが何かあるんじゃないかっていう。それが何なのかはっきりわからないけど、そこに自分をかけていく決断みたいなのが信じるということでしょう。


 これも一昔前の神学なんですけど、天国に行ったら信仰がないんですよ、昔の神学だったら。何でかって言ったら神さまをありのままに見ているので、天国ではもう信じる必要性がないんです。天国では何があるかって言ったら、愛することだけなんですよ。神さまのすばらしさがあまりに明らかだから、あとは愛することしかないんです、天国では。でもこの世は神さまのすばらしさが全部わからないから信じていくことが必要なんですよね。だから信じられないときもあるでしょう。皆さんの中に完全に信じてるわけじゃない気持ちも混ざっているでしょう。それが信じるってことの現実なんですよね。この40日間だけじゃない、結局一生涯そうですけど、わたしたちは信じ続けていく、あるいは信じるってことを深めていけるかどうかっていう、そういう大切なことだと思いますね。だからすべてが分からなくてもいいと思いますけど、でもやっぱりこれが信頼に足るもので、そこに自分の生き方の基盤を置いていこうとするその気持ち。その信じるっていうことをこの40日間に養ってくださったらいいと思います。


 コロナの厳しい関係で今までと違う、信者同士の集まりとかミサに頻繁に来れないとか様々な制限がありますから、それを意識して、洗礼式のときに悪を退けますとはっきり応えられるように、そして信じますという言葉をはっきりと言えるようにですね、この40日間を過ごしてもらったらいいと思います。そしてまた当然ネットで見てる方々、ここにおられる方々、すでに洗礼を受けている方々もおられると思いますけれども、結局は悪を退けるっていうことと信じるってことはやっぱり繰り返し繰り返し意識しなきゃならないことだろうと思いますね。


 最近ですけど、わたしはプロテスタントの牧師先生方と勉強会をやっていてですね、勉強しているテキストの中にカトリックじゃ見たことのない、バックスライドという言葉が出てきたんですね。バックスライド、日本語に直したら逆戻りという訳なんですけど。カトリックで見たことないから、どういうことですかと聞いたら、特に改革派のプロテスタントの信者さんが使うみたいで、いったん信じたけど途中から世俗の生活、不信仰の生活に戻っちゃうことをバックスライドっていうと言われて、なるほどなと感心しました。もちろん急に元に戻るわけではないけど、信仰者として歩んでいてもバックスライドするんですね。バック、後ろにスライドしてくる。前向きに信仰を深めようと思っていても、世間の中にいると後ろにずるずるとスライドして戻ってしまう。確かにあるかなという気持ちもします。

ペトロの手紙には、いったん信じた人が元の不信心な生活に戻ったらもっとひどくなるとか、ちょっと怖いことが書いてありますけど。もちろんそこまでいかなくても信仰者になって何年たっても、ついついやっぱり時々はバックスライドして退けたはずの悪魔になんとなくずるずると引きずられたり。あるいは信じる生き方と言ってもどこかちょっと弱くなっちゃって信じるのがグラグラっとしちゃうこと、それはやっぱり人間だからあると思いますね。だからこそやはり洗礼を受けている方々にとっても、この40日間はそれを見直すときですよね。自分に来ている悪の力をしっかりと退けて手を切るということをもう一度点検しなきゃならない。もう一度、自分にとって信じる生き方は何なのか。洗礼を受けたときと今じゃ気持ちも考えも違うでしょう。だからこそもう一度信じるという生き方を、悔い改めていく必要性が大なり小なりあると思いますね。今洗礼の準備をされている方も、すでに洗礼を受けている方々も、やっぱりこの40日間を悪霊を退け、悔い改めて神を、イエスさまを、福音を信じる生き方にもう一度立ち戻っていけるように、心を合わせて祈りをささげ、そしてこの四旬節を意義あるものとして過ごしていきたいと思います。


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灰の水曜日


ヘネロソ・フローレス神父

2/17(水)19:00- 灰の水曜日(手話・字幕付き)


 今日からご存じの通り、特別な季節に入ります。四旬節。この四旬節はちょっと長いですけれども、我々にとって特別な良い機会ですよ。信仰を深くするためですね。目的はどこに向かっていくんですか、この四旬節は?ご受難と復活。これは我々の信仰の基盤ですよね。だからそれを念頭に置いて、イエスさまがここで言うのは施し、祈り、断食、そのようなことを見て、わたしたちは特別に四旬節に何をすればいいか。わたしたちができることは何か。何でもできるわけではないんです。これはやっぱり場合によって、人によってそれぞれですけれどね。


 たとえば祈りを普通の時よりも少し、毎日何か、主とともにいる祈りということですね。ある時間、短くてもかまわないんです。具体的に言えば、その日のミサの福音書、それを読んで少し心の中で思い巡らしてイエスの言葉を味わう。これは祈りです。これは自分の家でもできます。だから多分それはテレビを見るよりも少しの5分間。けれどもその時間は主とともに祈りますね。

 もう1つはたとえば施し。施す、何を施すか。いつもお金を施すことはできません。けれどもできるのは親切。この期間わたしたちが普通の時よりも親切をあげることができるのは微笑み。温かい眼差し、人に親切。これをわたしたちは四旬節のあいだすることができます。毎日毎日。隣の人とか職場の人、あるいは家族のメンバーに対して何か、普通より親切。これは確かに一番良い施しでしょう。

それから断食というのは人によってですね。断食できない人もいます。そしてある歳から、もう断食はいらないということですけど。やっぱり何か主にささげるということ。

 いろいろな自分の想像に任せますけれども、四旬節のあいだ何かできる。そして同時に、できるだけ四旬節の間にいわゆる喜び、心の中の喜びに生きる。
 喜ぶ理由はすごいですよ。ピンからキリまであるでしょう。すごい大きな主の復活はわたしの復活の保証ですから。これは喜びを呼び起こす。だからわれわれの日常生活、四旬節の時は悲しみの時ではないです。喜び、親切、先ほども申し上げたように微笑み。これはいつでもできます。人に挨拶する。寂しがる患者さんのことを思い出して、お見舞いできない時でも誰かに電話とか手紙を書く。そのようなことができます。親切を具体的に。たくさんのやり方がありますから。


 この四旬節でわたしたちはできるだけ回心。われわれはイエスの弟子としてその信仰をもっと深くする。それに生きる。だから親切のことをできるだけ心にかけてください。これから普通よりも親切。人に対して、それから自分に対しても親切。神に無条件に愛されているから、その愛されていることをわたしたちは悟る恵みを願いましょう。
 願えば与えられる。これは主の約束です。



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年間第6主日


李 聖一 神父

2/14(日)10:00- 年間第6主日(字幕付き)


 今日2月14日、みなさんもよくご存じで、今年はそれほど騒ぐこともないバレンタインデーということですが、しかしアジアのいろんな国々は今お正月をお祝いしています。そしてカトリックの国々では、ミサの初めにも言いましたように、この水曜日から四旬節が始まりますので、その前の3日間カーニバルを開いて普通ならば大騒ぎするという、そんな日でもあります。

 コロナによってわたしたちの生活が様々に制約される中で、わたしたちが日々行っていることをどのように工夫して行ったらいいのかということに頭を悩まされているわけです。カトリック教会においてもこれから非常に大切な季節が始まるという中で、ミサをはじめとする典礼をどのように行っていったらいいか、いろいろと考えなきゃいけない、また工夫しなきゃいけない、そういったことがまだまだこれからも続くようです。


 今日のマルコ福音書ですけれども、重い皮膚病にかかった人がいやされた。注目しなければいけないのはそのあとのイエスの言葉です。当時の皮膚病というものが今日の、もうなくなってしまった、特に日本ではもうほとんどなくなってしまったというハンセン病のことを意味するとか、あるいはまたそれとは違う、それに似た重い皮膚病のことを指していますが、当時のユダヤ人の社会ではそうした人はみな一つの共同体、また社会から追放された。そして人里離れたところに隔離される、そういうふうな風習があったようです。しかしいやされた人は、あなたの住んでいるその元の社会に戻ってよろしいという、そういうふうな意味があったようです。ですから祭司に体を見せ、モーセが定めた清めのための献げ物をささげなさいというのは、社会に復帰するということを意味していたようです。

 そして次に、「このことを黙っていなさい」というイエスの言葉です。マルコ福音書を読み進めていきますと、時々このことは誰にも話さないようにと言って秘密にするようにというイエスの指示があります。なぜ秘密にしておかなきゃいけないのかというそんな問いも生まれてきますけれども、確かにイエスが行ったわざ、言葉、これら時々非常に重大な場面でそのことについては黙っていなさい、という言葉が見られます。これをメシアの秘密というふうな言い方をしますけれども、マルコ福音書にあってはイエスが神の子であるということをその生涯をたどって人々に示していく、そのような道を歩む方として描かれています。そしてその時々の言葉と行いの中で、これこそイエスが何者であるかというものを非常に顕著に示す出来事があったときにイエスは、このことについては黙っていなさいというふうに言うんです。そしてそれはイエスの十字架への道、そしてまた十字架上の死のあとに起こった出来事、そういったことについても秘密ということがずっと貫かれています。

 イエスがいったい何者であるか。イエスはわたしたちの主でありメシアであるという、様々な出来事や言葉を通してわたしたちが知ったときに、それはまだ誰にも明かしてはいけませんという、そのような考え方に通じていくというふうに捉えてもいいんだろうと思います。そしてこのことはイエスのその歩む、十字架に向かって歩む姿の1つひとつのうちに表れていて、わたしたちはそれを知り、そしてまだ人々にそれを告げ知らせることではない、というそのような捉え方ができるんですけれども、なぜそうなのか。
 恐らく秘密というものを共有するとそこに大きな仲間意識とか、共同体意識というものが出来上がっていくはずです。みなさんも何か重大な秘密があって、そしてその秘密は確かに誰かに打ち明けなければならなくて、打ち明けた時にはそれは秘密にしておいてというふうなこと、時々あるだろうと思います。そうすると秘密を打ち明けられてそれを知った人は、2人の間、あるいは3人の間に秘密にすることによってその仲間意識、あるいは人間関係というものは極めて密なものになる。信頼関係で結ばれたものになっていく、そういうところが確かにあるんだろうとわたしは思います。そのような秘密を共有する、それによって一つの共同体が信頼関係のうちに出来上がっていく。その秘密がいよいよ公にされたときに、わたしたちはそれをまた伝えていくという、そのような段階に入っていくということなんだろうと思います。

 このメシアの秘密という考え方、マルコ福音書はそのように語っても、残念ながら黙っておれないので人々に伝えてしまったということも最後の方には出てまいります。それほどの大きな大きな、黙っていなきゃいけないことでも、しかしそれでも自分自身を解き放ち、解放し、自由にしてくれたこの人のことについてわたしは黙っていられない。またそれも理解できることなんだろうと思います。


 わたしたちが今こうした状況の中にあって、信仰生活というものを何とか工夫しながら送っていき、イエスに対する信仰というものを深めていき、そうしたことを人々と、また近くの人々と分かち合いながら、それをいつか公に語っていく。そういった意味でわたしたちが秘密にするということの意味、大切さを心に留めてもいいのかなというふうにも思います。
 そして灰の水曜日といわれる日にわたしたちは頭に灰をかぶります。あなたは塵であり、塵に返っていくのですという言葉を、わたしたちはちょうど今日の第1朗読で読まれたように、塵である、もともと塵であるということをわたしたちはそこで思い起こします。ゆえに身を慎んでわたしたちがいったい何者であるのか、どこへ行くのか、そういったことをもう一度思い起こしながら、ある意味信仰の原点に返っていく。それが四旬節の大きな役割だろうと思います。今日ご一緒にそうした灰の水曜日、四旬節を前にしてわたしたちはこのミサに与っているということをもう一度心に留めながら今日のミサを続けてまいりたいと思います。



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年間第5主日


マヌエル・シルゴ神父

2/7(日)10:00- 年間第5主日(手話、字幕付き)


 皆さん考えたかどうかわかりませんけれども、いったいイエスは一日をどういうふうに過ごされたか。福音書を読みますと、わたしたちはいつも断片的にしか読んでいないので、いったい朝から晩までイエスは何をなさったか、と。今日読まれた福音書は一部分ですけれども、同じマルコ福音書の1章21節から38節までイエスの一日が書いてあるんです。ぜひおうちにお帰りになったらもう一度読み直してみたらいいと思います。


 イエスはどういうふうに一日を過ごしたか。何をしておられたか。今日のミサの福音書に載っていないんですけれども、マルコ福音書の1章21節から見るとイエスは会堂にいらっしゃるんですね。皆さんが祈りをするために集まるところなんですけれども、イエスはそこにいらして説教なさいます。そのあと会堂にいた人たちは、まずイエスの教えを聞いてびっくりします。驚いたと書いてありますけれども、どうしてか。イエスが律法学者の人たちとまったく違う話し方をしてくださったから。そしてその会堂の中に悪霊に取りつかれた人がいて、イエスに対して「我々を滅ぼしに来たのか」と騒ぐわけですけど、イエスは「黙れ。この人から出て行け」と、その人をお治しになるわけですよ。そこにいた人たちはそれを見てまた驚いて、それでイエスの評判があちこち広まったわけです。


 その続きは今日読まれた部分ですけれども、イエスは今度シモンとアンデレの家にいらっしゃるわけです。そこに行きますとシモンのしゅうとめが病気をしていたので、人々は来てイエスに彼女のことを話すわけです。イエスは彼女のところに行って手を取って、それで彼女は起きるわけです。「熱は去った」と書いてありますけれども、「彼女は一同をもてなした」。イエスはその人を治したと。 そして夕方になって、夕方というのは安息日だったからみんなあっちこっち行くことはできませんでした。夕方になって多くの人たちがペトロの家の戸口に集まってきたわけです。どういう人たちが集まってきたか。やっぱり病気してた人たち、悩んでいた人たち。その人たちに対してイエスは何をなさるか。治してくださるわけです。悪霊を追い出すわけです。これはシモン・ペトロの家の戸口と書いてありますけれども、そこにイエスはいらした。それで夕方になってお休みになったでしょう。それは書いてないんですけれども。
 次の朝早く、イエスは今度だれもいない人里離れたところでイエスはいらしてそこでお祈りなさるわけです。弟子たちはイエスを求めて彼のところに来たんです。みんな探しているよと。ところがその時イエスは戻らない。近くの町と村に行かなければならないと。それでお出かけになるわけです。マルコ福音書1章には、こういうふうにイエスの一日が書いてあるわけです。


 生活していたイエスはいったいどういう方か。もちろんわたしたちは信仰の目で見ますと神の子だと。人間としてイエスはどういう人か。人のために生きた人。人のことを大事にした人。自分には時間もない、暇もない。朝から晩まで人のためだったら何でもなさる。そういうイエスですね。そのイエスは人々にとって魅力のある人ですね。ですからイエスを求めている人たちは多いでしょう。弟子たちもそうだったし、ほかの人たちもイエスを求めて集まってきたんです。もちろんそれだけでなくて、自分の問題を片づけてくれるだろうと希望を持ってイエスのところに来たわけです。
 ところがイエスは人々に認められてそれを自分のものにしようとしなくて、ほかのところに行きましょうとおっしゃる。というのはいつでもほかの人のことを求めて、ほかの人に手を貸そうと考えて、その人たちのためにイエスは生きておられたわけです。

 今日の福音書にはそういうイエスが描かれているわけです。まさに人のために生きたイエス。まさに人のために自分のすべてを与えたイエスです。イエスは人に奉仕する、人に与える。人からもらうということよりも人に与える人です。
 そして祈る時間ももって、神さまに、御父に心を開いたイエス。そのイエスが今日の福音書の中に描かれているわけです。人のために生きるイエス。人と共に生きるイエス。神さまに頼るイエス。今日の福音書にマルコは、このイエスを、そのイメージをわたしたちに残してくださったわけです。わたしたちもキリスト者として、イエスの弟子として、同じような生き方をするべきでしょう。わたしたちも自分を中心にではなくて人を中心に考えて人のために生きる。人に手を貸してあげる、人を自分の生活の中に取り入れる。それをイエスはわたしたちに望んでおられるだろうと思います。


 使徒行伝にはこう書いてあります。これはパウロの言葉なんですけれども、「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように。また主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出しなさい。」

 今日、わたしたちのミサの中でこのイエスの言葉が深く深く心に入るように。受けるよりは与える方が幸いである、それは簡単にできるわけではない。わたしたちは人間だからまず自分のことを考えるわけですよね。今日ミサの中でお互いのために、また教会のために、すべてのキリスト者のために。このイエスの言葉は、人のために生きる、受けるよりも与える方がよい、そういうことを自分の人生の中で実行することができる。その恵みを願いたいと思います。わたしたちは努力しなければならないけれども、わたしたちの力だけでとてもとてもできないでしょう。お互いのために祈りながら今日のミサをささげましょう。



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