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2021年6月 ミサ説教





2021年5月 | 2021年7月


2021年度 堅信式(第1回)

東京大司教区 菊地功 大司教

6/27(日)15:30- 堅信式(第1回)(手話、一部字幕付き)


 わたしたちは昨年の2月頃から今に至るまで、1年半になろうとしていますが、新型コロナウイルス感染症の拡大のために教会の活動自粛をせざるを得ない状況に直面しています。もちろん教会だけでなくて社会全体が非常に大きなチャレンジに直面していて、経済活動が停滞してしまったり、雇用環境が悪化したり、実際に非正規雇用の方々を中心に職を失い、命の危機に直面している方々もたくさんおられる。感染症対策のために命の危機に直面する人がおられるかと思えば、同時に様々な対策によって、別な意味で命の危機に直面している多くの人たちがずっと放置されてしまっている状況です。 これがあとどれくらい、あと1週間、あと1か月、あと2か月と時間がわかっているのであれば、様々な計画をしながら将来を見据えて次はどのように行動するか考えることができますが、残念ながらわたしたちにはこれがいったいいつ終わるのか、いつになったら2020年1月以前の状況に戻ることができるのか、まったく判然としません。言ってみれば暗闇の中を手探りで歩けと言われているような状況です。進むべき道がはっきりしない、そして将来、しかも近い将来の姿が明確ではないという状況は、わたしたち一人ひとりを非常に大きな不安の渦の中に取り込んでいます。先が見えない、明かりが見えない、希望が生まれない。そうした大きな不安はわたしたちから希望を取り去ってしまいます。


 わたしたちの信仰は本来、希望を与える信仰であると思います。そこに救いがある、永遠のいのちの約束がある、主がいつも共にいてくださる。様々な約束のうちにわたしたちはいのちを生きる希望を見出しているわけですけれども、実際にこのような具体的な状況の中で生きていくとなると、本当に希望を見出すことが難しい。少なくともわたしたち、いのちを生きる希望を信仰のうちに抱いている人間にとってもそうであるならば、信仰のない、宗教に関心のない多くの方々にどれほどの心理的な負担を強いているのか、あらためて考えざるを得ないと思います。そういう中でわたしたちはイエス・キリストの希望の福音をしっかりと告げていかなければならない。今だからこそこの希望の福音を、そして本当の意味での光を、しっかりと進むべき道を示していかねばならない。自分自身も教会の活動が中止になったり教会に集まることができなかったり、様々な苦労、困難な中でちょっと希望を失いつつあります。しかし今だからこそ、この福音を宣べ伝えていかなければならない。その使命を今、わたしたちは新たにしたいと思います。


 その意味で今日の福音は非常に大きな慰め、そして大きな希望を抱かせる福音でした。 長年にわたって病気にあった女性がイエスに触れることで癒されると信じて、イエスの服に触れた時に癒されたという話、そしてこの世でのいのちを終えた少女がイエスに「タリタ、クム」という言葉をかけられることによって息を吹き返した。死んでいた者がよみがえったという希望を与える言葉でした。「タリタ、クム」少女よ起きなさい、という言葉をもってイエスはこの大きな希望をわたしたちに与えてくださった。

 わたしたちはどうすればいいかと皆さん思われておいででしょう。今日イエスが素晴らしい奇跡を行った話を耳にして、ああ、すごいなと。わたしたちの信じている神さまはすごい力を持っている、イエスは死んだ人を生き返らせるだけの力を持っている、ああすごいんだ、という話で終わってしまったら、昔あったすごい話を耳にして驚いて、感銘して終わってしまう。でも福音は、ミサの中で朗読される時に、驚けと、神さまはこんなにすごいんだぜと、みんなさあ驚けと言って福音を告げ知らせているわけではないですよね。

 福音はなぜミサの時に語りかけられているか。それは今、神がこの福音を通してわたしたちに何かを語りかけているわけです。この2021年の困難の中で、この物語を通じて神は今ここでわたしたち一人ひとりに語りかけているんです。この奇跡の物語を聞いて、いったい神はわたしたちに何を語りかけているのだろうか。第2朗読の中で「慈善のわざに励みなさい」という言葉が書かれていました。愛する者が死んだ、または病気で苦しんでいる、困難の中にあって光を求めている、希望を求めている人にイエスは希望を与えた。その話を耳にした時、イエス・キリストに倣う者として同じようにしなさいということを求められているのですよね。

そんなことを言ってもわたしには奇跡を起こす力はない。その通りだと思います。さすがにパウロも「あなたたちも行って奇跡を起こしなさい」とは言わないんです。「慈善のわざを行いなさい」と言っている。それはいったいどういうことなのでしょうか。わたしたちは奇跡をおこなう力は持っていない。けれどもわたしたちはイエスに倣って暗闇の中に生きている人たち、不安の中に生きている人たちに、いのちの希望を告げることはできるんですよね。命の希望をもたらすことはできるのです。イエスに倣って生きるわたしたちは、悲しみや苦しみにあえいでいる人たちに、イエスのいのちの希望をもたらすわざを行うことができる。イエス・キリストの福音に希望があるぞと、ただ単に告げることではないのです。


 ベネディクト16世が回勅「希望による救い」の中で、福音を告げるということは単に情報を伝達することではない、過去に起こったこと、知識を伝えることではない、生きている神の言葉は告げられることによって何かを成し遂げるということ、行為を成し遂げる、何かを成し遂げるのが神の言葉を告げるということなのだ、と記しておられます。まさしくわたしたちはイエス・キリストに倣ってこの希望を、困難にあえいでいる世界の中で告げるのです。それはわたしたちの行い、日々の言葉、行いによって福音の価値をあかしすること。それによってわたしたちはイエス・キリストが奇跡でもたらしたいのちの希望を、同じように多くの人たちに告げ知らせていくことができると考えています。


 今日、多くの方が堅信を受けられ、続いてあと2回堅信式が行われると伺いました。多くの方々が堅信の秘跡を受けられることを心からお喜びを申し上げたいと思います。そして同時に堅信の秘跡を受けるということは、洗礼から始まってご聖体の秘跡、そして堅信と、3つの秘跡を通じて入信の秘跡が完成するわけで、これで完全なキリスト者になるんです。大人としての信仰に生きる、成熟したキリスト者になるのです。それを助けていただくために聖霊の恵みをいただくわけですけれども、成熟したキリスト者はいったい何をするのか。それは自分がこれだけのことを成し遂げたんだということを喜ぶのではなく、イエス・キリストに倣って福音を告げ知らせていく使命を今日与えられて、それに生きていくことを今日、皆の前で誓う。それが堅信の秘跡であると思います。 もちろんわたし自身の力でそれをすべて成し遂げるのではなくて、わたしたちは聖霊を受けて、聖霊の助力によって、聖霊の恵みによって満たされて初めて、福音を告げるというわざを成し遂げていくことができる。そこには本当に感謝しなければならないと思います。同時にこの使命に生きるのだという自分の意思をしっかりと固めていただきたいと思います。

 わたしたちは死人を生き返らせる奇跡をおこなうことはできない。しかしわたしたちはイエスと同じように暗闇の中で希望の光をもたらす言葉を語り、行うことができるはずです。わたしたち一人ひとりに与えられた福音宣教の使命を、堅信の秘跡を受ける今日、あらためて心に思い起こし、その使命に生きるということを誓っていただきたいとと思います。


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年間第13主日

柴田 潔 神父

6/27(日)10:00- 年間第13主日(手話、一部字幕付き)


 長い朗読がされましたが、今日は間に挟まれている婦人の癒しを取り上げます。
 2つのことを考えました。1つ目は、婦人がイエスさまの服の裾に黙って触れた信仰です。
 婦人が患っている病気は、慢性子宮出血という説もありますが、ユダヤ教では汚れた病気と見なされました。彼女が使った物に触れる人も汚れる、と思われていました。だから外出も自由にできません。出かけられたのは、医者に行く時くらいだったかもしれません。当時、医者にかかれるのはお金持ちだけでしたから、もともとの彼女は裕福だったのでしょう。でもお金が尽きて、もう頼るものがありません。
 そんな婦人は、イエスさまの評判を聴きつけて会いに行きます。でも、素性は明かせません。見つかったら捕まるかもしれません。恐る恐るイエスさまに近づきます。
 聖書で癒される人たちは「助けてください」「癒してください」とイエスさまにお願いしています。でも、彼女はお願いさえできません。自分の思いを口に出せません。口に出せない思いを、イエスさまの使い古した衣の房に伝えます。後ろからそっと、イエスさまの服に触れます。とても印象的な場面です。

 こんな思いでイエスさまに近づいたことがあるでしょうか?わたしたちは、整ったところでイエスさまに会おうとします。ミサであったり、講座であったり・・・場所が用意してあることが多いものです。それはある面、恵まれたことです。でも、彼女には、そんなゆとりはありませんでした。
 わたしは、司祭としてミサを立てていますが、用意したことをお話ししていることが多いです。でも、彼女はただただ必死です。抱えている背景もわたしとはかなり違います。わたしは叙階されて、最終誓願も立てて、責任もありますが身分は安定しています。彼女はにっちもさっちもいかなくなって、イエスさまに後ろからそっと、服の房を触れます。わたしは、この婦人の信仰が「すごいなぁ」と感じます。信仰の原点を見る思いがします。イエスさまにこっそり触れに行く感覚を、取り入れたいとも思います。
 方法としては、聖体訪問でイエスさまに触れる、お祈りを自分の部屋ではなく聖堂でする、困っている方のためにお祈りをする、神さまを感じさせてくれる音楽でイエスさまに触れる。皆さんは、どんな方法でイエスさまに触れていますか?あとで振り返ってみましょう。一縷の望みでイエスさまに近づく、婦人からヒントをもらいましょう。


 2つ目は、婦人に対するイエスさまの態度です。イエスさまにとって、彼女が服に触れたのは不意打ちでした。ヤイロの娘のところに行く途中でした。でも、イエスさまは、触れられた服の房を通して、婦人の苦しみを感じます。「こんな人込みで触れてくるのはどんな人か?」「よほどのことだろう。自由にさせてあげたい。やり直す力を与えたい。」「苦しみ、悲しみから解放してあげたい。」そんな気持ちで触れた人を探します。 癒された婦人は、黙って立ち去ろうとしましたが、癒しの力があんまり強いので体が震えて名乗り出ます。そして、イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と励まします。

 わたしたちが、そっとイエスさまに触れる時の気持ちはどうでしょうか。「わたしは力不足でした。思うようにできません。人に迷惑かけてるかもしれません。きっと罪があるからです。」とうなだれています。
 でも、イエスさまが返してくれる言葉は違います。「よく触れに来ました。来てくれて、ありがとう。あなたの信仰はわかっている。気にしないで前に進みなさい。わたしはいつもあなたと共にいる。」

 学生の頃、イグナチオ教会に通い始めた時、長いサラリーマンを経てイエズス会に入った時はこの婦人の態度に近かったかもしれません。信仰の原点を見つめたいと思います。そして皆さんも、婦人のようにイエスさまの声を聞きましょう。


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年間第12主日

ヘネロソ・フローレス 神父

6/20(日)10:00- 年間第12主日(手話、一部字幕付き)


 今日はご存じの通り特別な日です。難民のことで特別に祈る。難民のことは現代社会では本当に激しい突風のようです。今日はこのミサの第1朗読と答唱詩編と福音書は海、荒波の話ですね。海は日本ではちょっと違うと思います。聖書の文化、中近東では、海はいつも悪の力ということです。汚れた霊がそこから、だから敵ですね。日本ではかえって海のおかげでおいしい刺身を食べることができます。だからちょっと違うと思います。


 今日の福音書の中でナザレのイエスの姿を想像してください。舟は波をかぶって水浸しになるほどであったということ。イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちは起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。イエスさまは立ち上がって、この姿を想像してください。風を叱り、そして湖に「黙れ。静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になったということ。この姿を見て、ナザレのイエスはいったい誰なんだろう、これは弟子たちのリアクションですね。わたしたちもこれを心の中で思い巡らして、よく見ましょう。その姿をよく眺めましょう。風を叱り、それから湖に「黙れ。静まれ」、すると凪になった。これはこの男が神であるということがはっきりした。イエスさまはそれを弟子たちに特別に現してくださった。あとで彼らは、何だろうこの人は、でもわからないけど彼を信じる。信じざるを得ないですよ、あのようなことを見て。湖の上を歩くということ。パンを増やす、何千人に与えたのは5つのパンであったということ。それから何もしないけれど水をぶどう酒に変えるカナのところ。ああいうようなことは奇跡です。彼らはこれを信じざるを得ないんです。何だろう、考えられません。けれどもイエスは神の、天の父の子である。そして天と地の一切の権能を授かっているということですよ。だから大自然に対する支配ということですね。


 先ほど申し上げたように聖書の考え方、文化では海は悪の力です。だから聖書の最後の書物である終末のところ、最後に神さま新しい天と新しい地を造るということですけれども、海はなくなるということです。お刺身はない(笑)

 わたしたちの今の社会は確かに激しい突風は吹いてるんですよ。そしてイエス・キリストは天と地の主である。どんなことがあっても一緒におられるという約束をなさったんです。世の終わりまで毎日、わたしはあなた方と共にいます。いくら寝ていても、そして寝ていると思えばわたしたちは弟子たちのように叫んで「主よ!起きてください!」と言える。そしてイエスさまの勝利は決まっています。イエスさまはこれを話したでしょう。あなた方はこの世でたくさんの困難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに打ち勝った。だから勝利は決まっている。
 今の社会で突風が起こっているということは、教会さえも波をかぶって水浸しになるほどでしょう。しかし恐れることはないんです。イエスさまは、信仰をまだ持っていないのかと言った。彼はおられる。これは教会のこと、社会のこと、勝利は決まっています。恐れてはいけないです。だからその面で、このミサで信頼、本当に深い信仰の確認を願いましょう。主がおられる。そしてわれわれ一人ひとりの自分の人生の間とか生涯にいろいろあります。病気、失敗、本当に突風があるんです。その時もわたしたちは恐れることがないように。主がおられます。いくら寝ていても、寝ていれば起こしましょう。けれども主が天と地の創造主、支配する者は我々と共にいつもおられる。そのような確認を願いましょう。実際に何も恐れることはない。我々の復活、永遠の命、神のようになるということは決まっています。だから困難がたくさんあってもわたしたちはいつも神に対する深い信頼、難しいでしょうけど、これは信仰の問題ですから自分で決める。願いましょう。



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年間第11主日

ハビエル・ガラルダ 神父

6/13(日)10:00- 年間第11主日(一部字幕付き)


 今日の福音を気楽にご一緒に考えてみましょう。
 たとえ話でイエスさまは話します。けれども、自分の弟子たちには家に帰ってひそかに説明していました。わたしたちが弟子ですね、キリストの弟子。そのことをしていただきましょう。聖書の言葉はピンとくる言葉が多いけれども、わからない時もあります。今のようなことがよくわからない時もありますので、直接イエスさまに頼んで説明してくださるように願いましょう。弟子たちはそうしてましたね。弟子たちは頼んでいました。今のたとえ話のことがわからないので教えてください。そして興味があったので、イエスさまの教えをちゃんと聴いていました。わたしたちはちょっと違うかもしれません。ここはわからないけど、どうせわからないことが多いのでいいよ、説明がなくても、という姿勢であるかもしれません。それはまずいですね。弟子たちのように興味があって、たとえばそのたとえ話は、その意味をあなたは子どもとか孫とか、あるいは友達に説明してみるつもりで読んでみてください。わからないでしょうね。その時にはイエスさまに頼んでください。教えてください、ひそかに。そのために黙想をしたり、イエス・キリストと仲良く話し合いをすることが大事です。


 もう1点ですけれども、からし種のたとえ話のことです。きれいですね、からし種。実は今日の第1の朗読のエゼキエルの預言もほとんど同じことですね。からし種は小さい種ですけれども、伸びると葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きな枝を張ると書いてあります。空の鳥は何でしょうか。空の鳥は悩んでいる人だと思います。困っている人だと思います。寂しがっている人です。あなたはそのからし種の木です。あなたの枝の葉の陰に自分の巣を作りたい、あるいは一休みしたい。そのためにあなたはなるべく大きな枝を張るように向上心でもって求めなさい。空の鳥があなたに来るためです。伸びる大きな枝を張る目的は、自分の自己満足ではないんですね。評判ではないんです。すごくきれいになったね、そんなことを言われるためではないんです。あるいは人気比べで、わたしに鳥がたくさん来る、あの隣の木にはあまり来ない、ほら見ろという子どもっぽいことが目的ではない。目的は空の鳥が中心である。空の鳥が、悩んでる人がよろしければあなたに来て一休みできるように、しばらく一緒にいるように、あるいは巣を作って長くそばにいるためです。そのために伸びるのです。そのために生長するのです。からし種。そのために枝が大きくなるだけではなくて、頼りになる枝でなければならない。そして居心地の良い木でなければ鳥が来ない。居心地の良い、つまりあなたが親切な人だったら。相田みつをの昔書いた言葉で、大体このような言葉だったけれども
 「あなたはただそこにいるだけでその場所の空気は明るくなる。あなたはただそこにいるだけでみんなの心が安らぐ。そんなあなたにわたしもなりたい。」
 この「あなた」という人はからし種ですね。大きくなったからし種で、みんなやっぱり気楽に一緒にいたい。生まれつきにその才能のある人もいますね。ほかの人は生まれつきにその才能はないけれども、生き方として親切であれば自然にそうなります。


 この福音にもう1つのたとえ話がありますね。1人で成長する種は、種の力と命の力、土の力で自然にひとりでに生長するということです。たとえば人間は、子どもは自然に、ひとりでに成長するんですね、体は。努力しなくても背が伸びることになっています。ところがその子どもが数学を学びたければ、自然に知識が入るのではなくて勉強も必要ですね。ピアノで上手になりたければやっぱり勉強と練習が必要です。ですからその種の力、土の力、命の力に協力しなければならない。周りを掘ってみて肥やしをやってあげる。これでもって協力して伸びるのです。ですから皆さん今まで何回も人のためにいい種になってきたでしょう。いい言葉を教えたでょう。いいアドバイスをしたでしょう。いい見本を見せたでしょう。その人があなたを見て、ああ、いいですね、そんな人になりたいということをたくさんしてきましたね。種を蒔きました。種を蒔いたのです。ただその種が実るかどうかは問題です。だからこの祈りを自信を持ってお勧めます。
 「主よ、わたしが蒔いたあなたの種を実らせてください。」
 「わたしが蒔いたあなたの種を」、わたしが蒔いたので少し威張ってもいいですよ。でも自分の種ではない。神の種です。愛の種です。「わたしが蒔いたあなたの種を実らせてください。」 個人的なことですが、わたしは一昨日ちょうどみ心の祝日の時に誕生日で、90歳になりました。どうもありがとうございます。そこでわたしはこの祈りはよく言いますのでお勧めします。「わたしが蒔いたあなたの種を実らせてください。」
 おめでとうございます。


ガラルダ神父様は6/11(金)イエスのみ心の祭日に90歳(卒寿)を迎えられました。

ガラルダ神父様おめでとうございます!これからもお元気で、よろしくお願いいたします。

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キリストの聖体の祭日

李 聖一 神父

6/6(日)10:00- キリストの聖体の祭日(手話・字幕付き)


 ミサの始めにも申しましたけれども、キリストの聖体のこの日に聖体を拝領できない人がたくさんいらして、そのミサに与れないというその思いがどれほどのものかということを予想することはできるだろうと思います。今ここで直接ミサに与ってそして一緒にこのミサを祝いながら聖体を拝領できることの感謝、そしてまた多くの人々に代わってこの席にいるということも忘れてはならないことだろうと思います。またこのミサは配信されて恐らく5000人以上の方々がご覧になるんだろうと思いますけれども、そのような方々と共にこの日にわたしたちはもう一度聖体に対する信仰というのがいったいどういうものなのか少し考えてみたいと思います。


 アウグスチヌスはこの聖体に関して次のような言葉を残しています。「神は全知全能である。しかし、ご聖体以上に素晴らしいものを考えることもできなかったし、それを造ることもできなかった。」と言っています。恐らくわたしたちの信仰にとってこの聖体というものがどれほど大事なものなのか、それは誰もが知っていることだろうと思います。それゆえにこの聖体を受けられないという今日の現実というものが、やはりわたしたちの信仰生活に大きな影響を及ぼしているということも確かだろうと思います。

 この聖体をいただくということも、実はカトリック教会の長い歴史の中ではさまざまに変わってきたものです。一番最初は最後の晩餐の席で、それこそパンとぶどう酒を「これはわたしの体、わたしの血だ」と言ってイエスがお配りになった、弟子たちはそれをいただいた、そういうところから始まります。そして初代教会においては多くの信者は自分たちの持ち物を持ち寄って、みんなでそれを分けて、パンを裂いて、そのようなイエスの言葉を思い起こして食事をしたというような形がありました。しかしキリスト教がヨーロッパの世界に広まっていくにつれて信者も増え、教会堂というものも建てられ、その中でミサの形も変わり、聖体の拝領の仕方も変わっていったというのは容易に想像することができます。


 ここで、今年は聖イグナチオ年というものが始まっていますので、ロヨラの聖イグナチオの体験を少し皆さんにお話ししようかと思いますが、彼はある意味で1つの信心がありました。それは聖体を頻繁に拝領するということでした。あの当時ミサに与って聖体拝領するということは非常に限られていて、いつもいつも、毎日毎日ミサに与って聖体を拝領するということは非常に不思議なことでした。しかしイグナチオはその聖体に対する信心のゆえに毎日ミサに与って、毎日それを拝領するということをしました。そのことが当時の教会の教えからはずいぶんと離れていたので、彼は異端の嫌疑がかけられてしまうということを経験していました。そしてまたマンレサというところで修行をしている時に、この聖体の中にイエスがおられるということを神秘的な体験として感じ取るという体験もしました。皆さんはこのご聖体が単なるパンでなくて、そのパンのうちにキリストがおられるということを信じていらっしゃるだろうと思います。それはカトリックの信仰です。そして中世ヨーロッパでも本当にそこにキリストがおられるのかということは大問題であって、そのことを証明するためにある意味形而上学的な議論の末に、これは目に見える形ではパンだけれども、その中にキリストがおられるということを証明していきました。ゆえにわたしたちから見ればこのパンのうちにキリストがおられるということはなかなか理解しがたいことですけれども、しかしイグナチオは神秘的な体験を通してそこにキリストがおられるということを確信した人でした。頻繁に聖体をいただき、そのうちにキリストがおられるということを確信し、そうしたことがイグナチオの生活の根本にあったと思われますけれども、そのことは今日わたしたちの時代でも言えることなんだろうと思います。


 聖体のうちにキリストがおられるということは未だにそれを認めないキリスト教の一派もないわけではありません。カトリックのそのような信仰が何だかおかしいと思っている人もいる。そしてカトリックの信者になるための準備をしている人々にとってもなかなかそれは信じがたい。そういう人もおられるでしょう。そんなことは悩まなくてもいい、教会がそう言っているんだから信じなさいと言うこともできますが、しかしわたしたちの信仰生活の積み重ねの中でこのご聖体のうちにキリストがおられるという確信、こうしたものを持つことも大事なんだろうとわたしは思います。


 そして聖体の拝領の仕方というのも確かに変わってきて、かつてわたしが子どもの頃ミサの奉仕ということで侍者をやっていた時には舌で受けるのが当たり前でしたし、侍者は神父さんの隣にずっと付き添って、白いお盆のようなものを持って信者の喉のところに差して持っていくというのが侍者の仕事でした。舌で受けるというのが当たり前になっていた時代から第二バチカン公会議の典礼改革の中で、わたしたちは手で受けるということを教えられるようになりました。そのことに抵抗する人もいないわけではない。なぜかと言うと、このような尊いものをわたしの手で受けるということが果たしていいのかというような、そんな思いもする人がいないわけではないからです。しかし考え方を変えれば、このパンのうちにおられるイエス・キリストご自身がわたしの手のうちに来てくださる、その近さというものを感じる。そしてそのような近さのゆえにわたしたちは聖体によって力づけられるのだというふうな思いを持つ人もいらっしゃいます。どちらがどうというようなことではありませんが、しかし、その聖体の拝領の仕方、受け取り方というのも変わってきたということも事実です。

 そしてもう1つわたしたちがそこで考えたらいいのは、このご聖体を受け取るとか、あるいはご聖体が今のような形になったのは、実はその時その時の社会的状況というものが影響していることも忘れてはいけないことです。特にヨーロッパの中世においては頻繁にペストが流行するということがありました。それは接触によって感染するので、その接触をなるべく少なくしなければならないという状況の中で、教会はミサの在り方を考えなければならないというようなことも実際にありました。それゆえに両形態で聖体を受けるということも避けられるようになったし、聖体を頻繁に受けるというようなこともだんだんとなくなっていったし、そうした社会的な状況も考慮しながらミサの在り方、聖体拝領の仕方も変わってきたということも心に留めなければいけないことです。


 そして今わたしたちがコロナによって緊急事態宣言というものが発令されていく中で、どのようなミサの在り方というものが可能なのか、それも考えなきゃいけないし、典礼というものも工夫していかなければならないことなのでしょう。このコロナは何とか人類がいろんな知恵を出し合っていつか克服されるものだろうと期待はしていますけれども、しかしこうした状況がまたいつか訪れる、また形を変えて現れてくると思うならば、わたしたち自身のミサの在り方、参加の仕方、聖体の拝領の仕方というものも考えていかなければならないことかもしれません。そしてもし聖体拝領というものが極めて難しい状況というものが生まれた時に、わたしたちはどうしたらいいんだろう、そんなことも考えてみるわけですが、わたしたちは聖体信仰というものの一番根本にあることを恐らく実行することができます。それは何かというと、この聖体信仰の一番中心にあることは分かち合うことであり、あるいはイエスご自身がパンとなられたように、自分自身が砕かれたパンとして人々に与えられるというそのイエスご自身の生き方をわたしたちもまた倣うことだというふうに言ってもいいと思います。

 聖体というものを直接わたしたちが拝領できない時に、聖体信仰の一番根本にあること、分かち合うこと、そして自らが砕かれて人に与えられるものになるということ、そのことをわたしたちは思い起こすべきだろうと思います。そしてわたしたちの持っているもの、それは物であるか時間であるか心であるか、わたしが持っているもの、それらを人々と分かち合うことができる。そしてわたしたち自身が砕かれたパンとして人に与えられるというのは、いったい信仰生活の中で何を具体的に意味するのか、それを一人ひとりが考えていくこともできるだろうと思います。このような状況の中でキリストの聖体を祝うわたしたちは、今日そうしたことをもう一度自分自身に問いかけながら、キリストがその内におられるこの聖体を受けることができますようにご一緒にお祈りいたしましょう。


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