2021年7月 ミサ説教
7/4(日)10:00- 年間第14主日 マヌエル・シルゴ神父
7/11(日)10:00- 年間第15主日 グエン・ヴァン・トアン助祭
7/18(日)10:00- 年間第16主日 英隆一朗 神父
7/25(日)10:00- 年間第17主日 古市匡史 神父
年間第17主日(堅信式)
古市匡史神父
今日堅信の秘跡をお受けになる皆さん、まずおめでとうございます。わたしも30年くらい前に、まだこの教会が古いお御堂の時に洗礼を受けまして、そしてこの新しいお御堂になって堅信を受けました。ですので皆さんのお姿を拝見していると、当時のことが思い出されて懐かしく感じております。
さて皆さんは、神はわたしたちが望んでいる以上の恵みを与えたがっておられることをご存じでしょうか。今日の福音でイエスは、疲れている5000人の群衆に食事を与えたいと言われます。12使徒の一人のフィリポは、そんなことは無理だと思います。200デナリオン分のパンがあったとしても、一人ひとりはほんのわずかしか食べることができません、と答えます。1デナリオンというのは当時の1日分の給料です。200デナリオンはわたしたちが週に5日働くとして約10か月分の給料にあたります。今日の夕食にはあなたの10か月分の給料がかかりますと言われたら、とんでもないことだとわたしたちは思います。それほど非現実的なことが必要になっているわけです。フィリポはわたしたちを代表していると言えると思います。良くも悪くも現実的なのです。
これに対してイエスはどうなされたでしょうか。5つのパンで5000人を満たす奇跡を行われました。しかも余りまで出てきています。奇跡とは派手なショーのことではなく、人間を生かす神の力が働くことです。5という数字はユダヤ的には恵みを表しています。主の与える恵みは1000倍にも膨らみ、残ったパン屑で12の籠がいっぱいになるほどです。余りある恵みとなって人々を満たすのです。12は完全であるという意味です。恵みを必要以上に与え、しかも徹底的に与えるのがイエスのなさり方です。そしてそれがイエスにとっては完全なことであって、また現実的なことなのです。
わたしたちは1000円分の贈り物をもらったから1000円分のお返しをすればよい、そのような等価交換的な考え方を持ってしまいます。ですが、わたしたちのそのような考え方こそが神の目には現実的ではないのです。聖書は「神は愛」だと言っています。イエスの生き方を見れば、愛とは相手のために無条件に自分を与え尽くすことだということがわかります。ですから神にとってご自分をわたしたちに与え尽くすことは何よりもの喜びなのです。ところがわたしたちはわたしたちを決して満足させることのできない、目の前の物事にばかり目がとらわれてしまっています。わたしたちのことを1番大切にしてくださっている方には背を向けてしまっているのです。愛である神は恵みを受け取ってくれる人を必要としています。
皆さん、恵みが欲しくありませんか?受け取るためには信仰という器をもって主に差し出しましょう。特に堅信を受けられる皆さん、皆さんは洗礼によって聖霊の住まいとなり、堅信によって聖霊の恵みを豊かにいただきます。聖霊は三位一体の御父と御子の間の永遠の愛です。愛の霊をいただくということは愛の人に変えられていく、そういうことです。人々に仕える生き方を選ぶということです。堅信の恵みは決して自分のためのものではありません。イエスのように自分を与えて、周りの人を生かすために与えられるものです。ですが心配は不要です。神は必要以上の恵みを徹底的に与えられます。わたしたちも神の愛に徹底的に信頼し、惜しみなく降り注がれる恵みを今日、いただきましょう。
最後に聖霊の浄配である聖母をいつもわたしたちの模範といたしましょう。彼女こそ聖霊を受け取り、聖霊の働きにすべてを委ねて生きた人物です。聖母がおられるところに聖霊もおられます。堅信の恵みを日々生きていくために、キリストの母であり、またわたしたちの母であるマリアに主のところまで導いていっていただきましょう。
年間第16主日(幼児洗礼式)
英隆一朗神父
今日の福音書はマルコによる福音書6章です。弟子たちがあまりに忙しいので、イエス様が人里離れたところに行ってしばらく休んだらいいと仰ったのですね。人里離れたところに行ったんだけれども人々がそこにも来て結局休むことができず、イエス様が深く憐れんで色々と教えられはじめた、というエピソードのところです。 今日は 6名の方の幼児洗礼式です。幼児洗礼式が一番心が温まる式かなという気持ちがあります。非常に可愛らしい子ども達ばかりですし、ついでに言うと、特に幼児洗礼式は水をかける時に泣く子が出てきたり。大体わめいたり泣いたりするが子どものお仕事なので、神様への賛美の気持ちとしてそれほど気にせずに行きたいと思います。
あまりに忙しすぎると、確かにイエス様がわたしたちに「しばらく休むが良い」という風に言ってくださるし、わたしたちも休みを取らなければならないでしょう。でも、会社の仕事だったらともかく子育てにはどこにも休みはない。必ずお腹は空くでしょうし、おむつも変えなきゃならないでしょうし、およそ子どもが小さい時はお母さんとお父さんも特に休む暇なしで、これはもう本当に仕方がないことだと思いますね。
イエス様は休めなかった弟子たちと多くの人を見て、「飼い主のいない子羊のような有様を深く憐れんだ」とあるんですね。深く憐れんで色々と教え始められた。この深く憐れむというのは、聖書の中の非常に大切なキーワードのひとつです。心の底から相手の痛みを感じるという言葉ですが、ヘブライ語でラーハムと言います。ラーハムはどこから出て来ている言葉かと言うと、ラハイーム、名詞形なんですね。ラハイーム、憐れみという言葉の語源・言葉の元はレヘムから来ていて、レヘムが何かと言うと、子宮という意味なんですね。女の人の子宮から、このいたむというのが、深く憐れむという言葉の元々の意味なんですね。もうちょっと解説的に言うと、お腹を痛めた自分の子どもに対していつも愛情の心を注いでいる、そのようなお母さんの心を持ってイエス様は憐れまれたということですね。自分のお腹を痛めた子どもを、皆さん本当に心から大切に思って育てておられてるでしょう。そのような心をイエス様がわたしたち人間に対して持っておられるということですね。幼児洗礼式にこの言葉が出てくるのは本当にふさわしいなあと思います。
皆さんはわが子を本当に心から愛しておられるでしょう。でも大変な時もいろいろあるでしょう。特に病気をしたりしたら、もっと心を配らなければならない、場合によっては寝る間も惜しんでということもあるでしょうし、様々なことを犠牲にしてと言うかですね。 それを辛く感じる人もいれば、当たり前の気持ちでできる方もおられるでしょう。でもそれは神様の親心そのものだということですね。それを皆さん思い起こして頂いたらいいんじゃないかなと思います。時には本当に大変で、気持ちが行き詰まったり、体力的にも精神的にもきついこともあるかもしれないですが、神さまは、全く変わらない親心で、わたしたちをいつも見守って愛してくださっている。お母さんたちが子どもを愛する心と全く同じ、あるいはそれ以上の気持ちで、神様がわたしたちを支えてくださるということですね。それを思い起こしてくださったらいいと思います。
もちろん今も大変でしょうけど、反抗期の頃になったらまたまた大変だといつも思います。反抗の度合いによりますけど、反抗期の子どもたちが、とにかくもうひどくなったら全然口をきいてくれない。だいたい中2ぐらいから全然口聞いてくれなくて、特に中学高校時代になったら娘さんはほとんどお父さんと口を聞いてくれない。ミッションスクールのお父さんたちとちょっと交流があるんですけど、娘が全然口をきいてくれなくても、お父さんは変わらずその娘さんをずっと愛しておられるのは伝わってきます。男子の場合も中2ぐらいから全く口を利かなくなる、お母さんに対して一言もしゃべらなくなる。10年ぐらい全く口を利かないこともザラですけれども、それでもやっぱりお母さんの息子への愛はほとんど変わらないのですよね。
どんなに無視して反抗していたとしても、そのような心で神様はわたしたち人間一人ひとりをいつも愛して下さっている、ということですよね。皆さんが疲れた時や気持ちに余裕がなくなった時に神様の親心を思い起こしてくださったら、慰められたり力づけられたりするのではと思います。
子育てが終わってやれやれと思ったら、わたしの世代ぐらいになったら今度は親の介護が始まって、親の介護も同じなんですね。無償の愛、無条件に世話するだけになる。人間が生きていくということは、この親心をもって生きていくしかないんだなということをしばしば感じます。
神様は親心を持ってわたしたちをいつもケアしてくださっているということ、それを心に刻んでくださったらいいと思います。
そして今日は6人の子どもが幼児洗礼を受けられますけども、幼児洗礼を受ける事はスタートにしか過ぎないと思います。子どもが憐れみ深い神様のことをどこかで気づく・知る、その手伝いができたらいいと思うんですよね。幼児洗礼式よりも絶対に大事なのが信仰教育です。子どもが成長していく中で、神様のことをどのように知るのか。もちろんお祈りを覚えたり教会のいろいろなこと、信者としての心構えも子ども達に身につけてもらいたい気持ちはもちろんですが、信仰教育の一番大事なのは「神様が親心を持ってわたしたちを大切にしてくださっている」。このことを子どもたちがどこかで深く悟る体験をして欲しい、それが実は信仰の一番の核の核だと思いますね。それを伝えることはなかなか難しいでしょう。だから親が神様の代わりになって無条件の愛を子どもたちに注いでいく、それは親の務めでもあるし神様の代わりを果たすということでもあるかもしれない。
わたしたちみんなが、どんなに神様を無視したり反抗したり道をずれたとしても、神様は全く変わらずわたしたちを守り続けて慈しみ続けてくださっている。その神様に信頼をおいて、子どもたち、そしてここに集まっているわたしたちみんなが、神様の親心に心を開きながらその気持ちを受け止めて歩めるように、このミサで祈りを捧げたいと思います。
年間第15主日
グエン・ヴァン・トアン助祭(司式:ボニー神父)
7/11(日)10:00- 年間第15主日(手話・字幕付き/子ミサ)
今日の福音書の箇所では、イエスによって12人の弟子が宣教の旅に派遣されています。この12人の弟子は、イエスに言われてからずっとイエスのそばにいたり、イエスが群衆に教えたことを聞いたり、イエスがなさったことを見たり、特にイエスと一緒に食事をしたりしました。いよいよ彼らはイエスの宣教活動に参加し始めるようになりました。彼らは派遣先の場所とその内容という任命書を受け取った時に、きっとドキドキしたでしょう。どこへ行けるかな、誰と一緒に行くのかなと。ひょっとしたら温泉の多い自分の故郷に行きたい弟子がいるかもしれません。そこで家族、お父さん、お母さん、友達に再会できるかもしれません。そして誰と一緒に行きたいか。もしお友だちと出かける時、誰と一緒に行きたいですか。お父さん、お母さん、あるいは友達と一緒に行きたいですか。きっと、誰と一緒に行きたいなと思う弟子もいるかもしれません。
わたしの経験ですけれども、修練期にいくつかの実習があり、その実習先が発表になる前に友達や同級生のクラスメイト同士で、どこに、そして誰と一緒に派遣されるかという話がよく出てきました。恥ずかしいですけれどもわたしは行きたい場所、一緒に行きたい人が当たるように、お御堂に入ってこっそり神さまに「神さま、こういう願いがあります」と祈ったことがあります。残念ながら自分が祈った通りにはならなかったんですね。逆に気が合わない人、そして行きたくない場所になってしまったんですね。気が合わない人と一緒になってすごく苦労をしてしまいましたけれども、普段よく喋ると言われても、彼と一緒になったらいっさい口をきいていなかったんですね。食事を共にしてもそれぞれが食べて、それぞれが片づけました。本当に残念で反省しました。
派遣って、旅行だったらいいですけれども、派遣、お使いは旅行ではありません。旅行だったら好きな人、好きな場所、訪問したい所に行くのは常識的だと思います。しかも旅行だったら好きな人、気が合う人と一緒に行くのも当たり前のことだと思います。しかし、派遣は旅行ではなく、自分がどこに誰と一緒に行くのか選ぶのではなく、派遣された者として行くのです。弟子たちは自分たちでどこに誰と一緒に行くのか決めるわけではなく、イエスに遣わされた者として、イエスに任命されたことに従って実行しました。
また、旅行だったらいろいろな準備が必要です。言うまでもなく、まずお金を持たなければならないですね。そして旅行に行った時に写真を撮りたいなら、必ず写真を撮るためのカメラを準備したり、さらにホテルを予約しなければならない。しかしイエスは弟子たちを派遣したた時に、お金ではなく、杖1本のほか何も持たず、パンも袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は2枚着てはならないと命じました。
どうですか皆さん、これを聞いてどうでしょうか。結構きついですね。何となくすごい冒険だと思いませんか。わたしはすごい冒険だと思う。なかなか行けないと思うんですけれども。イエスは冒険が好きなようですね。弟子たちは明日どこに泊まろうか、何を食べようかいろいろ心配したでしょう。もちろん弟子たちの旅には必要なもの、派遣先での生活に必要なものがあるとイエスが知ってるはずだと思います。しかし、それらはすべて神に任せる必要があります。派遣された者はひたすら一生懸命に派遣の目的を実行します。わたしたちの生活には必要なものがたくさんあると思うんですね。根本的に必要なものは何でしょうか。多分高校生くらいのお友達かもしれないんですけれども、根本的に必要なものは何ですか。最新のスマホですか。それとも最新のパソコン、値段がやや高い服装、スカート。それは根本的に必要なものでしょうか。それぞれが違うと思うんですけれども、わたしたちに根本的なものは何でしょうか。これはここで回答していかないんですけれども、これを課題として、おうちに帰ったらお父さん、お母さん、あるいはお姉ちゃん、お兄ちゃんたちと話してみてください。わたしたち人間に根本的なものは何でしょうか。課題としてお父さん、お母さんと対話しながら考える機会になるかなと思います。
年間第14主日
マヌエル・シルゴ 神父
ロヨラの聖イグナチオの霊操の本では、霊操は4ヶ月の祈りです。第2週はイエスがわたしたちの間に住まわれたその時期を観想しながら、いろいろわたしたちは祈るわけです。2週の初めに神さまにお願いする恵み、ロヨラの聖イグナチオはいつも黙想が始まる前、神さまにお願いする恵みがはっきりしておられた。第2週にお願いする恵みは「主を深く知るように」。神さまに、イエスの生涯を観想することを通してイエスを深く知ることを、黙想する人は恵みとしてお願いするわけです。人を知るということは、人についてのいろいろな情報、知識を得るということではなくて、もっと深く知ることが必要なんです。理解する、そういうことだけでもない。もっと深い意味で、ある意味で親密さですね。その人との親密さはその人の心の中にある動き、その人の悩みとか喜びを知る。自分のものにするとか、そういった意味で霊操の中でイエスを知るように、イグナチオは祈るように言っているわけです。
イエスを知る。ナザレの人たちは今日の福音書の中にあるように、イエスのことを自分たちはもうピンからキリまで何でも知っていると思っていた。それほど長くはない短い人生ですけれども、一緒に過ごし、遊び、苦しみ、歌い、働いた。自分たちの考えで、何でもイエスについて知っていると思っていたんです。そのイエスが今度現れて話し始めると、今日の福音書に書いてありますけど、彼らは驚いた。「驚いて言った。この人は、このようなことをどこから得たのだろう。」びっくりするんですね。びっくりするだけでなくて、自分たちはイエスのことをあまりにも知っていると考えていたかもしれないですけれども、新しいイエスを受け入れることができませんでした。知りすぎて、本当のことを言うと知らなかった。イエスのことを彼らは心から受け入れることができませんでした。だから「この人」と言うんですね。
イエスを受け入れる。わたしたちはキリスト者としてイエスのことを何回も、いろんな話も聞いた、あるいは自分たちも聖書を読みながら、あるいはほかの本を読みながらイエスについていろいろな知識を得たでしょう。ただその知識だけでは、わたしたちはキリスト者としてイエスに従う、イエスの弟子としての生き方はできない。本当にイエスに従う者として、単なるイエスについて知識を持つということではなくて、イエスを心から、イエスの心の動き、イエスの悩み、イエスの好み、イエスのことを全部自分のものにしなければイエスに従うことはなかなか難しいです。
先ほど申し上げたように、ロヨラの聖イグナチオは霊操をする時、イエスの生涯を黙想する時には「主を深く知るように」、これを恵みとして願いなさい、と言うんです。長い黙想をする人たちだけではなくて、わたしたちはキリスト者としてイエスを証ししていく人でなければならない。イエスを証しするためにはわたしたちがまずイエスのことを深く知らなければならない。イエスについて知識を持っているでしょう。だけれどもそれだけでは足りません。
ではそのイエスの心を深く知るために何をすればいいか、何が必要か。それはわたしに言わせれば祈りです。祈りというのは単なるわけのわからない言葉を話すということだけではなくて、それよりも心と心のふれあいですね。
もう亡くなったわたしの母親はこのようなことを時々言いました。日本語で言いますと、「ふれあいから愛が生まれる」。ふれあいから、接触から愛が生まれる。イエスと付き合わなければわたしたちはイエスを知ることはできません。わたしたちはキリスト者としてイエスを愛することもできない。頭でいろんなことを理解するかもしれません。道徳的に立派な生活を送るかもしれませんけど、日本語ではもっと深い、「肚(はら)」、肚からイエスに従っていく、肚からイエスにかける、そういうことはできません。キリスト者としてわたしたちは証し人になるはずですけれども、イエスを証しするためには何が必要か。イエスを知る。イエスを知るためには、くどいですけれどもイエスと付き合わなければならない。イエスと話さなければならない。祈り、祈りというのはわけのわからないいろいろな文章を唱えるということではなくて、心からイエスと付き合う。それが本当の祈りです。開いた心でイエスと付き合って、自分の心の中にあることをイエスと語り合って、そしてイエスがわたしに何を言ってくださるか、それを受け入れるための心を持つということは祈りです。
今日のミサの中でみなさんと一緒に、ここに集まっているわたしたちのためだけではなく、すべてのキリスト者のために、イエスを深く知る、この恵みをお願いしたいと思います。わたしたちはイエスとの深い関わりがなければ、キリスト者としてイエスのことを人々に伝えることは無理なんですよ。知識だけだったら本を読めば十分でしょう。どうか今日のミサで、祈りの中で、集まっているわたしたちのためだけではなくて、すべてのキリスト者のために深い知恵を与えてくださるように願いたいと思います。わたしたちの努力も必要ですけれども、それだけではありません。神さまの恵みでもある。ですから皆さん、今日のミサの中で本当に謙遜に神さまの前に頭を下げてイエスを知るように、その恵みをお願いしたい。どうか今日、心を合わせて一緒に祈りましょう。