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2021年11月 ミサ説教




2021年10月


待降節第1主日

ボニー・ジェームス神父

11/28(日)10:00- 待降節第1主日(手話、一部字幕付き)


 今日は待降節第1日曜日です。教会はイエス・キリストの誕生を待ち望む時期に入りました。教会歴では待降節から新年が始まり、イエスの誕生を1年を通して再現し、その救いのわざを思い起こします。待降節に伴い、今日のミサの中で幾つかの変化があり、皆様もそれに気づいているかもしれません。司祭が着る祭服の色や教会の中の飾り物、またはミサの式文や祈りなどにもその変化が見られます。祭服の色ですが、「清い心でイエスさまの誕生を迎えるように心の回心をする」という意味で、紫色の祭服を使っています。待降節では通常のミサの初めに歌う栄光の賛歌は歌いません。栄光の賛歌は御ミサにおいてお祝いの様子を表していますが、待降節には主の到来を静かに待ち望めるようにお祝いモードを少し控え、栄光の賛歌を歌わないようにしています。

 それから祭壇の後ろにクリスマスツリーが登場しました。クリスマスツリーの始まりについてはいろいろな説がありますが、キリスト教以前からの伝統に基づいているとされています。古代ローマ時代から、冬になっても枯れない松の木やもみの木の枝をお家の中に飾るという習慣があったそうです。あまり枯れることなく長く持つような木々の小さい枝を家の中に飾ることによって、長い冬の暗い夜を乗り越え、命と光の時期である春が来るのを希望を持って待ち望むという意味だそうです。キリスト教の時代に入ってからもこの習慣は受け継がれ、世の光であるイエスの誕生を待ち望む間にクリスマスツリーを飾るようになりました。

 そしてクリスマスツリーの右側、ご聖櫃の隣になりますが、クリスマスリースが設置されており、その上に4本のローソクが立てられています。これはアドベント・クラウンとも呼ばれるものです。このクリスマスリースの由来についても意見が様々ですが、それには豊かな意味が含まれています。後ろの席に座っている皆様は少し見えにくいかもしれませんが、4本のローソクのうち1本には火を灯しています。このアドベント・クラウンはいわばカウント・ダウンのようなもので、待降節の日曜日ごとに1本ずつローソクに火を灯していきます。ローソクを灯す数によって、目に見える形でクリスマスが近づくのを知るのです。国や文化によって習慣も異なる場合もあり、4本の紫色のローソクに加えて真ん中に白い色のローソクを立てることもあります。その場合全部で5本のローソクになります。この5番目のローソクが幼子イエスを意味し、クリスマス・イブのミサの時に明かりを灯すのです。1本ずつローソクに火が灯されるたびに人々の心も徐々に明るくなり、最後にイエス自身を意味するローソクが灯されることによって、「世の光」であるイエスを心の中に迎え入れるという意味です。


 待降節になると、ミサ式文やその他の祈りの中にも変化が見え、明るく前向きな歩みを示すような言葉が多くなります。たとえば「希望の光」「救いの訪れ」「待ち望む」「約束される」「準備する」「希望する」「到来する」「解放する」などの意味での言葉が待降節の式文には多く出てきます。今日は待降節第1日曜日ですが、今日の聖書朗読の全体的テーマは、皆様の手元にもあるこの「聖書と典礼」のパンフレットの表紙にも書いてある通りに「あなたがたの解放の時は近い」となっています。今日の福音の中の言葉です。2000年前イエスさまの到来は、イスラエルの人々の解放を意味する出来事でした。 今日からわたしたちもクリスマスに向かっての旅を歩み始めます。イエスさまの誕生に向かってクリスマスツリーやアドベント・クラウンなどを飾るような外見的な準備も大事ですが、それらの奥深い意味について黙想し、心の中に受け止めて歩めるように祈りたいと思います。


 1600年代にドイツに生きていたアンゲルス・シレジウス(Angelus Silesius 1624-1677)という、有名な神秘家および詩人でもある人が、クリスマスにおける心の準備について次のような言葉を残しています。「キリストはベツレヘムで千回生まれたとしても、わたしの心の中にお生まれにならない限り、そのすべてが無駄に近いだろう」。とは言われても、人はそれぞれ至らない点もあり、心の準備が十分にできない状況もあると思います。今日の福音箇所にもあったように、生活の煩いで心が鈍くなる時もあるでしょうが、今回の待降節にこそ少しでも「世の光」、そして「希望の光」であるイエスさまに近づくことができるように、今日のミサの中でご一緒に祈ってまいりたいと思います。

 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。


参考:Laudate(女子パウロ会)キリスト教豆知識
 

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王であるキリスト(堅信式)

グエン・ヴァン・トアン神父

11/21(日)10:00- 王であるキリスト(手話、一部字幕付き)


 人間関係において気が合う人と、そうではない人がいると思います。しかし、なぜか自然と嫌いになってしまう人がいる、と自問したことはありませんか?自然に好き嫌いというのは結構出てくるんじゃないかと思うんですけれども、特にその人たちに会ったことはないし、会ったことはあっても、その人たちがわたしたちに何も悪いことをしていない、わたしたちに逆らっていない、わたしたちを裏切っていない人々なのに、彼らを見るとイライラし、苛立ちになります。あるいは彼らがいるところにわたしたちはいたくなくなります。この壁が自然に生まれてくる理由は無数ですし、人によって違う理由を持っていると思います。その中でよく言われているのは、彼らは優秀すぎるし、良すぎる人で、それに比べて自分は駄目な人間だと気づかされるからです。つまりその人たちに出会うたびに、わたしたちは自分がどれほど悪い人間であるかを思い知らされるので、彼らに会いたくなくなり、話したくなくなり、それで自然と嫌いになってしまうというのです。


 今日読まれた、ヨハネ福音書におけるイエスと同じです。イエスは律法学者、また祭司長、ファリサイ派の人々に特に悪いことをなさっていなかったのです。しかしイエスが徴税人や罪びとと一緒に食事をしたり、安息日に手の萎えた人を癒したり、困っている人たちを助けたりするたびに、ファリサイ派の人々や祭司長、律法学者たちはイエスに対して怒り、論争を仕掛けました。イエスはご自分がなさったことのために、ファリサイ派の人々や律法学者に嫌われたようです。別に自分たちに何も悪いことをしなくても、イエスの話を耳にするたび、イエスの行動を目にするたびに、自分たちがいかに悪い人間であるかを思い知らされます。ヨハネ福音書の第3章でイエスは「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされることが、明らかにされるためである。」と言われています。

 そして今日読まれた箇所でイエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と宣言しています。その真理のためにイエスは侮辱され、最終的には十字架につけられることになってしまいました。ファリサイ派の人々や律法学者などに嫌われ、人々に侮辱されたこのイエスこそが、わたしたちが王として礼拝する方です。この王であるイエス・キリストは、異邦人たちの王がそうであるように民を支配する王などではなく、民に仕える者なのです。イエスが語られるように、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」のです。この王であるイエス・キリストはわたしたちを僕ではなく友と呼んでくださる方なのです。このような仕方でイエス・キリストは、わたしたちキリスト者すべての王となられるのです。わたしたちはイエス・キリストをどういう方として受け止めているでしょうか。王であるイエス・キリストは、どのようにわたしたちの人生に影響するでしょうか。

 実際の生活では、人々に何も悪いことをしなくても、カトリック教会の信者であるという理由で人々に嫌われ、敬遠されることはありませんか?人を支配したり、権力を乱用したり、人を操る世の価値観とは相反する、イエスが教えてくださった神の国は、今日「王であるイエス・キリスト」のミサの叙唱でこれから読まれるように、生命と真理の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国です。イエスがこの神の建設を始めることは簡単ではありませんでした。ご自分の命が奪われたほどです。今の教会にとっても、日々世俗的になっていく社会の中で神の国を築こうとすることは簡単ではありません。しかしわたしたち一人ひとりが神に協力することによって、生命と真理の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和は徐々に広がっていくでしょう。


 最近読んだ霊的本の中に、神をわたしたちのGPSとしてイメージする話がありました。堅信式の準備として、このイメージをもとに少し聖霊についてお話しさせていただきたいと思います。皆さんがご存じのように、現代のほとんどの車にはナビが設定されています。どこか遠いところへ出かけようとしたときに、目的地を入力し、検索し、ルートを決めて走り出します。その時ナビは、目的地までの方向や道などを詳しく教えてくれます。運転手は「300メートル先左折です」という案内が聞こえたら、そろそろ左に曲がる準備をするのです。しかし車線を間違えて右折してしまったら、ナビは目的地を合わせて、また別の経路を案内してくれます。これはかなり便利ですね。

 聖霊はまるでこのナビのような存在です。わたしたちがどのようにして目的地へと進んでいくかわからない時、あるいは道に迷ってしまった場合、聖霊はわたしたちに方向を教えてくださいます。迷子になって困った時に、聖霊はわたしたちに、わたしたちがやっている仕事、歩んでいる道を再計算するように呼び掛けてくれます。そうすれば神がわたしたちに歩むよう望んでいる道、方向に戻ることができるでしょう。ナビ中に別の経路を選ぼうとすると操作できなくなるように、わたしたちもある意味で神に導かれたことを無視し、自分勝手に歩んだら方向音痴になったり、不安になったり、イライラする人生になったりするかもしれません。どうかわたしたち一人ひとりが道を迷うことなく、神が望んでくださる道をまっすぐ歩むことができますように、このミサを続けましょう。


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年間第33主日 子どもとともにささげるミサ

柴田 潔 神父

11/14(日)10:00- 年間第33主日(手話、字幕付き)


 教会はもう直ぐ、待降節といって、イエス様の誕生をお迎えする準備を始めます。その前、11月になると、ちょっと怖い聖書の箇所が読まれます。今日の聖書でも「天地は滅びる」と心配なことを言っています。神父さんにも、11月になると怖い思い出があります。「心配だなぁ」「大丈夫かなぁ?」、そんなお話を今日はします。


 神父さんが東京に来るまで、山口県でモンテッソーリ教育の幼稚園の園長先生をしていました。「モンテッソーリ教育」は、頭で考えるだけではなくて、目で見たり、実際手で触ったりして覚えていきます。将棋の藤井聡太さんもモンテッソーリの幼稚園でした。「お仕事」と言いますが、年少の子でも本物の針を使って縫い物をします。藤井さんも、網の目のように編んだバッグのようなものを、繰り返し繰り返し作っておられたそうです。年長になると4桁の掛け算、足し算、割り算など、そして世界の国の名前、国旗、首都などを覚えたりします。モンテッソーリ教育では5つの領域があります。「日常生活」「感覚」「数」「言語」「文化」、この5つの試験に合格した先生だけがモンテッソーリの幼稚園で教えます。神父さんも若い女の先生たちと2年間一緒にお勉強しました。(参考:日本モンテッソーリ協会(学会)) 

 1年目は毎週、ホテルに泊まって1週間お勉強します。月曜から金曜までお勉強して土曜日には、「総練習」といって、お勉強したことがちゃんとできるか、試験のようなものがあります。モンテッソーリ教育では「提供」と言いますが、「はい、あなたこれしてみて下さい」と当てられます。11月は自信がなくて、「当てられたらどうしよう?」と心配で夜も眠れなくなっていました。

 そして、土曜日の朝、教室に行ったけれども、心配で気持ちが悪くなって、トイレに行って「ゲホゲホ(ゲボしそうで)」してました。緊張して吐きそうな状態だったんだね。トイレでむせったあと席に戻ると、テストは別の先生がしていました。休み時間になったら、神父さんのところにみんなが「大丈夫?大丈夫?」と心配になって声をかけてくれます。どうしてかというと、神父さんが最初に試験に当てられてたけれども、トイレから帰ってこなかったからでした。神父さんは、恥ずかしくなりました。代わりに当てられた先生に「ごめんなさい」の気持ちでした。本当は、神父さんのテストなのに、代わりの人がしてくれていました。神父さんはフラフラでした。「もう、ダメかなぁ?」「やめようかなぁ?」と思いました。でも、それが終わったあと、山口天使幼稚園の先生たちが励ましてくれて、一緒にお勉強してくれました。そして、最後は試験に合格できました。園長先生にもなれました。幼稚園のお友だちと楽しく遊べるようになりました。


 神父さんはカブトムシを一生懸命育ててるけど、カブトムシを育てることは、モンテッソーリ教育の「文化」の領域です。図鑑だけじゃなくて、本当に育ててるからです。カブトムシを育ててるうちに、カマキリ先生になることもできました。

 もし、トイレでゲホゲホして、「もうだめだ!」と諦めてたら・・・カマキリ先生になれたと思う?そう、「なれなかった」よね。頑張ったから・・・カマキリ先生に「なれました」。 みんなも、「怖かったり」「大変だなぁ」って思うことがあるかもしれないけれども・・・そんな時に、「諦めない」。神様に「力を下さい」とお祈りする。そしてもう少し頑張ってみる。そうすると、試験とか苦しいことを乗り越えられるようになります。


 11月になると、カッコ悪かったトイレのことを思い出します。でも、「大丈夫」でした。試験にも通りました。みんなも同じだと思います。苦しくても神様はみんなのところに来てくれます。みんなに「よく頑張ったね」と励ましてくれます。

 そう信じて、クリスマスを迎える準備をしていきましょう。


11/6(土)七五三祝福式のお話(柴田神父様のブログ)


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年間第32主日

ハビエル・ガラルダ 神父

11/7(日)10:00- 年間第32主日(手話、一部字幕付き)


 この2人のやもめ、第1の朗読のサレプタのやもめと福音の神殿のやもめ。その2人は素晴らしい人ですね。心が洗われます。こんな2人のようにわたしもなりたいと願いながら、少し考えましょう。

 まず、背景になっているのはイエス・キリストの言葉です。与えれば与えられる。
 では、サレプタの未亡人のことを考えましょう。彼女はシドン地方、つまり外国です。異邦人でした。そして大変な飢餓があって、水がなくて、雨が降らなかった。彼女のところにエリヤ預言者が来て、わたしのために水とパンを持ってきてくださいと言うんです。彼女は「わたしにはこんな少ししか残っていない、油もちょっとしかない。これで小さなパンを作って息子とわたしが食べて、あとは死ぬのを待つばかりです。」と言ったのに、エリヤ預言者は、「はい、わかった。でもまずわたしのために小さなパンを持ってきてください。」ちょっと見ればエリヤ預言者はかなりせこいですね。まずわたしのためにって、彼女が可哀想じゃないですか。でも彼は利己主義だからじゃなくて、彼女に信仰と愛を深めるためにこのことを言いました。「恐れることはない。あなたがわたしに与えれば壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」ということを信じて、未亡人は彼のためにそれを作ったんです。そして預言者がおっしゃった通りになりました。壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならなかった。素晴らしいことですね。報いがあった。与えたので与えられたんです。雨が降る日まで飲み放題、食べ放題になりました。きれいな出来事ですね。


 今度は福音の、神殿のやもめに注目しましょう。イエスさまは賽銭箱の向かいに座っていました。賽銭箱にはいろんな入り口があったらしいですね、7つくらい。目的によって違う。そうするとその隣に、ある司祭が立って献金する人のお金をもらって目的を聞き、それをみんなに発表するんです。貧しい人のために1万円、しかるべきところに入れる。だからイエス・キリストがわかったんです。そうしないと聞くことはできなかったはずです。とにかく座ってると、たくさんの人がいっぱい入れてるんですね。それでみんな「おお、3万円すごいね」、入れた人は「やったぜ!」と、その雰囲気を見てイエスは全然感動しなかったんですね。ところがある貧しい未亡人が来て、誰も見てない時に20円くらいを神殿のために入れた。その司祭は「神殿のため20円」。みんな無視して、彼女は無視され1人で帰りました。ところが見る目のあるイエス・キリストは感動して、「この人はみんなよりもお金を入れました。他の人は有り余る中からお金を入れたけれども、この人はすべてを入れたので素晴らしい」と言ったんですね。きれいですね。

 ところが、前のサレプタの未亡人は報いを受けたんですね。この神殿の人は報いが全然ないんじゃないですか。何も貰わないんですよ。確かにイエスさまは彼女を褒めたけれども、その褒め言葉は彼女の耳に入らなかったでしょう。そしてまた誰かが彼女に近寄って「1万円使って。どうぞ」ということもなかった。誰も見てくれなかったんですね。家に帰ったらテーブルの上に素晴らしいダイヤモンドが奇跡的にあった、ということもない。何にもないんですね。どういう報いを受けたでしょうか。確かにこのような人たちには友達が多いので、夜、食べ物が何もなかったんですけど、「余りましたからちょっと召し上がる?」という人がいたかもしれません。いなかったかもしれませんけど、彼女はそれに慣れてるので、こんなものですよ、あんまりいらないので。こういう人ですね。ではどういう報いがあったんですか。それは心の喜びですね。心が望む喜び、心を満たす喜びを感じたでしょう。

 わたしたちもそうでしょう。今度はわたしたちのことを考えましょう。良いことする時もありますね。その時には心の喜びを感じるんですね。ところが、微妙なことを聞きます。その心の喜びはただの自己満足にすぎないでしょうか?自己満足について少し考えましょう。悪い自己満足もあれば良い自己満足もあります。褒められること、感謝されること、偉くなることを目的にする時には悪い自己満足ですね。そのためにするんだったら、それは悪い自己満足。ところが良い自己満足もあります。結果として心が喜ぶ。それは当たり前です。良いことをすれば心は喜びます。アウグスティヌスが言った通りですね。「人間の心は、愛である神に憩わない限り落ち着かないものである」と書きましたね。ということは、愛の行いでもって人のために良いことをする時には心は喜ぶ。落ち着くのです。それは当たり前な満足です。良い自己満足、結果として出てくる自己満足です。

 自己満足について、程度のことも考えた方がいい。ある程度、良いことをしたら満足を感じるのは悪くないことでしょう。自分に向かって、やったぜ!セニョール、やったぜ!セニョリータと言って喜ぶのはいいことですよ。程度の問題ですね。この世の中は何もかも程度の問題です。ほどほどにすればすべていい、やりすぎるとよくない。水を飲むのはいいことですけど、飲みすぎるとよくない。すべてはそうです。ですからある程度の満足を感じてもいいじゃないですか。その程度を決めるためにはいいコツがあります。その満足について、イエスさまと話してみてください。イエスさまとマリアさまに話して、うまくいったね、よかったね、あの人が助かったね、喜んでくれたね。その喜びを、わたしは良いことをやったでしょうと、それを神さまと、イエス・キリストと話せば程よく喜ぶ。威張りすぎないで程よく喜ぶ。ですから程度の問題です。


 もう1つ最後に、わたしたちはその喜びを全然感じない時もあるでしょう。良いことをしたのに、喜びを感じるはずなのに、全然。ただ感じるのは疲れだけです。たとえばお見舞いに行って帰って来て、いいことをしたんですよ。その人は喜んだでしょうけど、わたしは喜ばない。ただ疲れた。明日また仕事か、ということしかないんです。ところが、喜びを感じないかもしれませんけれども、その時には潜在的に、潜在意識の意味では感じるんです。例で言うと、ある赤ちゃんはお母さんの胸に抱きしめられているんですね。赤ちゃんは安心感を抱かないですよ。知らないです。ところが潜在的には安心感があるんです。その感じですね。いいことをする時は潜在的に喜びを感じる。感じなくても、あるとしているんです。つまりわたしたちはいいことをする時にまず目的にするのは、助かる人の喜びです。イエス・キリストの喜びは目的です。結果としてわたしたちの心の喜びを感じるでしょう。とにかく、こんなやもめたちのようにわたしもなりたい、と願い求めましょう。


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