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2021年12月 ミサ説教






2021年11月 | 2022年1月


聖家族

英 隆一朗 神父

12/26(日)10:00- 聖家族(手話、一部字幕付き)


 今日は聖家族の祝日に当たっています。家族のことを見つめ直す、そういう日であるというふうにも言えるかもしれない。結婚担当司祭で、結婚するカップルとかにいつもお話しするんですが、結婚して家族になるというのは一体どういうことなのか。それは非常にはっきりしていて、運命共同体のメンバーになるというんですかね。家族になるということは運命を共にしていく、そのような非常に密接な関わりを持ちながら生きていくということですね。だいたいは一緒に暮らしてるわけですし、病気になったりしたらやはり面倒を見るのは家族しかいないわけです。

 この2年間のコロナの自粛生活の中で多くの方がそうでしょうけど、一緒に食事をしてるのは家族だけで、わたしも修道会のメンバー以外とほとんど食事をしていない。やはり家族になるってことは濃厚接触者になるというんですかね、いい意味でも悪い意味でも。他の方とはある程度距離を取れても、家族と距離を取ることはほとんどできないわけですよね。濃厚接触をしながら運命を共にしていく家族だということですね。でもその家族として、物理的な濃厚接触だけじゃなしに心理的な濃厚接触とかいろいろありますから、いつも仲良くできるわけではなくて、難しい問題、何か理解できないこととか、そういう問題を抱えることもあるでしょう。プラス今はバラバラに住む時代になってしまったので、離れた家族との繋がりという問題もあるんじゃないかと思います。


 聖家族の模範に倣うということで、今日の福音書を読んでもそうなんですが、イエスさまとマリアとヨセフが仲良かったかどうかははっきりわからない。実際無理解というんですかね、お互い理解できない問題を抱えていたということは今日の福音書から明らかでしょう。12歳の少年イエスさまが3日間の失踪事件と言うか、3日間いなくなっちゃったわけですから。教会に来てる子どもがもし3日間いなくなったら大騒ぎで、わたしの責任問題まで発展する。大変な問題になると思いますけど、3日間失踪していなくなったという話ですから、とんでもない事件だと言えると思いますね。イエスさまが12歳の時の話ですが、多分これは数えで13歳なんですけど、ユダヤ人の少年はみんな数えの13歳でバル・ミツバという成人式をしなきゃならないんですよね。多分そのためじゃなかったかと思われますけれども。

 今は簡単になりましたからテストはないんですけど、一昔前は堅信式の前にテストがあって、神父さんが聞いて答えられない人は堅信を受けられなかったというのがあるんですが、それと似たような問答があって、プラスちゃんとトーラーが読める、こうやって朗読がちゃんとできなきゃならないんですね。物凄く重要な式で、なぜかと言ったらバル・ミツバを終えたユダヤ人の男性は成人男性の数に数えられて、ユダヤ人の礼拝は成人男性が10人以上いないと成立しないという規則があったんですね。女性が100人いても実は成立しないんです。このバル・ミツバを終えた、成人として認められたユダヤ人の男性が10人以上集まらないと礼拝は成立しないので、物凄く大事な式なんですね。それは今でも同じで、お金持ちのユダヤ系アメリカ人はエルサレムの嘆きの壁の所でバル・ミツバをするんですね。そのあと大きなパーティーをして、今はやっていないかもしれないけど、イスラエル巡礼で嘆きの壁に行った時に火曜日と金曜日だったか、だいたいバル・ミツバをやってる人が何組か絶対いるんですね。

 だからこの後、「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられる」これはバル・ミツバの延長なんですよね。今風に言ったら少年イエスさまは藤井聡太みたいにあまりに抜群で凄すぎたんで、ずっと問答をし続けてたというんですかね。普通の子どもだったら、聖霊の7つの賜物は何ですかと聞いたら「うーん」となって答えられたり答えられなかったりするけど、でも全く違う次元で少年イエスさまが受け答えを、ユダヤ教の本質みたいなところの話なので、みんな驚いて、それでも3日間延々と対話というか議論をしていたんだろうということがこの場面から想像されるわけです。
 でもお父さんお母さんにすれば、いなくなって大変な問題だったわけですよね。やっと見つけたらまさしく問答というか対話をやっていた。イエスさまは謝るかと思うと「どうしてわたしを捜したのですか」って、それは当たり前です。反抗期の青年みたいですけれども。「わたしが父の家にいるのは当たり前だ」と言うわけですけど、まったく両親は意味が分からなかったでしょう。でもイエスさまは自分のアイデンティティ、つまりユダヤ人の成年としてのアイデンティティが何なのかを、多分問答を通して確認したんでしょう。自分の本当の父は神さまであって、自分はまさしくその子どもであると。だからこそ、神殿こそが自分の本当の家だということを、ある意味深く理解した。それは今風の言葉で言ったら、まさしく若者が大人になった、自分のアイデンティティを発見したというふうに言える、大切なことではないかと思いますね。ここからイエスさまの大人としての意識が既に、藤井聡太みたいに物凄く早熟なわけですから、始まったと言えるんじゃないかと思いますね。

 だからイエスさまにとって家族というものの概念が変わってしまった。彼は結婚しないし、自分の身内の家族は作らないんですけど、でもキリストを信じる者たちは新たな家族であるということをわたしたちに示して、わたしたちはクリスチャンである限りイエスさまの家族になるという、全然違う新たな家族の世界をわたしたちに与えてくださった。これが一番大きなお恵みではないかと思いますね。一人暮らししてる方もおられるでしょうし、核家族の方もおられるでしょう。今は介護をされている方とか子育て中の方とか、さまざまな家族を背負ってわたしたちは生きなきゃならないですけど、その根本にはイエスさまが神さまのもとにいて、そこにわたしたちは全員が繋がっている、その新たな家族の恵みの中でわたしたちは歩んでいるということですよね。もしその気持ちをわたしたちが少しでも持てたら、介護や子育ての大変さ、一人暮らしの大変さとか、でもわたしたちの心の置き所はやはり神さまだと。わたしたちも、どこにいるのが当たり前かと言えば、神の家に、神さまの元にいるのが当たり前だというところから考えるならば、わたしたちの実際の家族の繋がりももっと違う目で、新たな形で受け止められるのではないかと思います。

 わたしにとってはもちろん、自分の家族のこともいろいろあるんですが、今の家族はやはり修道院ですよね。修道院で、今1人減って8名で暮らしている。それが言わば主における家族として共に歩んでるわけですよね。多くの方がご存じでしょうけど、23日に同じ家族のメンバーであるコリンズ神父さんが突然帰天されて、部屋で亡くなっているのがわかってわたしも駆け付けてご遺体に対面しましたけれども、関わりが深かった方々は大きなショックを受けているところだと思うんですね。でも、コリンズ神父さんは絶対こう言っていると思うんですね。「どうしてわたしを捜したのですか」と。「わたしが父の家にいるのは当たり前だ」と、コリンズ神父さんがわたしたちに言ってくださってる気がどうしてもするんですよね。もう会えないとか、辛いとか、寂しいとか、様々な気持ちがありますけれども、やっぱりコリンズ神父さんは父の家にいるのが当たり前だろうと、わたしたちにメッセージをくださっているような気もします。

 彼の最後の仕事は22日の夜の、彼の司祭としての最後の最後の仕事は、実はわたしの告解を聴いたということだったんですね。クリスマス前でわたしも告解しなきゃならないと思っていたんですけど、忙しくて時間が取れなくて22日の夜に、今3階でやってますからね、彼が空いてたので行って告解して赦しをいただいた。わたしに罪の赦しを授けてくださって、次の日彼は亡くなったんです。わたしにとっても最後の告解だったということで、非常に心に響くものでした。でも彼自身が悲しんでいることはないと思います。父の家にいるのは当たり前だという、その気持ちだけだと思うんですね。それはわたしたちが誰かを亡くした時にも、いろんな時にやはり同じことだと思いますね。わたしたちは神の国にいるのが当たり前な、そこからすべてが出発してわたしたちの命がある。そのことを心に噛みしめながら、わたしたちの家族、友人、あるいは孤独の中におられる方もいるでしょう。それらすべてを受け止めながら、聖家族を模範にしながら歩んでいけるように、共に祈りを捧げたいと思います。


ダニエル・コリンズ神父様は12/23(木)に岐部修道院でご帰天されました。
コリンズ神父様のためにお祈り下さい。


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主の降誕(日中のミサ)

ハビエル・ガラルダ 神父

12/25(土)10:00- 主の降誕(日中のミサ)(手話、一部字幕付き)


 クリスマスおめでとうございます。

 今の福音について一言確認してクリスマスの喜びについてご一緒に考えたいと思いますが、この福音は前書きですね。ヨハネのイントロダクションです。問題はこれです。マタイ、マルコ、ルカの福音が文章になってから、初代教会は腰を据えてキリストの死を整理し始めました。ところが間もなく重大な問題とぶつかりました。イエス・キリストは神であると言ってましたね。そして人間であると言ってました。これは矛盾したようなものです。人間であり、神であるということは理解できません。それでいろんな意見が出てきました。1つの意見は、キリストは神ではなかった、神の子にすぎなかった。それに対して、後から文章になったこの福音は「違います」というんです。「み言(ことば)は神であった」というんです。

 異端になったもう1つの説明、イエス・キリストは神であったけれども、本当の人間ではなかったという説です。人間の仮面を被った神さまであったと。それに対してヨハネはこの福音で「違います」というんです。「言は人間となって、肉となって、わたしたちの間に宿られた」と確認します。つまりイエス・キリストは真の神、真の人間であるということがこの福音のポイントです。どういうふうに人間であり神であることができるかということ、それについてヨハネは自分でも知りませんし、説明しようと思いません。将来の神学者たちに任せましたけれども、残念ながら将来の神学者たちも頑張っていても未だにわたしたちにはわかりません。わかりませんけれども、キリストがはっきり教えたのでそれを信じるわけです。しかしこの神学的な話について今日考えるよりも、この話は聖書講座に回しておきまして、今日はクリスマスの喜びについて考えましょう。


 その降誕の福音を読みますと、みんな喜んでますね。天使たちは喜んでいます。そして大きな喜びを告げると言うんですね。そしてまたマリアさま、ヨセフはもちろん、御子、赤ちゃんも微笑んでいたでしょう。みんな喜んで、動物たちも喜んでいたと思いますよ。勘で。わからなかったけれども、なんとなく嬉しそうになったと信じています。そしてまた羊飼いたちは喜んで会いに行って、喜んで告げ知らせるんです。そして3人の博士たちは遠い所から来て、星を見て非常に喜びました、と書いてあります。みんな喜んでいます。ところが、この福音には1つの厳しい言葉があります。飼い葉桶という言葉。飼い葉桶に生まれるということは、貧しさと苦しみを物語ることです。しかも2回も出ていますね。「マリアさまは自分の子どもを飼い葉桶に寝かせた」と書いてあります。さらに「この飼い葉桶に見つける、これはあなたがたのためにしるしとなる」。ですから飼い葉桶は非常に大事なことで、苦しいことです。苦しみの中の喜び、これはクリスマスの喜び。

 なるほど、わたしたちも多かれ少なかれ自分の問題を抱えていますね。人間関係の問題とか健康の問題、金銭的な問題、仕事の問題、いろいろあります。飼い葉桶は背景になっている喜びです。スペインの民謡で、ある農家が歌うんです。

 「わたしは束を担いで坂道を上っている。足には棘、胸には重荷。」

 日本的な趣も感じられるような気がしますけれども、この問題ですね。痛みと悲しみを感じる場合が多い。

 ではその中ではどうやってクリスマスの喜びを引き出すことができるでしょうか。どうやって元気とやる気を引き出すことができるでしょうか。それについてさすがのパウロがいいことを書きました。ローマ人に向かって、5章4節。これです。「苦しみは忍耐を生む。忍耐はたくましさを生む。たくましさは希望を生むのです。」苦しみは忍耐を、忍耐はたくましさ、たくましさは希望を生みます。しかもこの希望はわたしたちをがっかりさせないんです。それは神の愛がわたしたちの心に注がれているからです、と聖パウロが言いました。なるほど、苦しみがあるけれども、苦しみがあれば我慢するでしょう。忍耐するでしょう。その忍耐はたくましさをもたらす。強くなります。そのたくましさは希望を生み出します。あの時わたしはつぶれたけれども、負けなかった。打ち勝った。またやりましょう。希望がある。その希望さえあればクリスマスの喜びを感じることができます。苦しみの中の喜びを感じることができます。


 神の愛はわたしたちに注がれているので、詩編の23編が言うように「災いを恐れない。あなたはわたしと一緒にいるからです、神さま。」そしてイザヤ預言者のあの有名な言葉がありますね。「たとえお母さんは自分の小さい子どもを忘れたとしても、わたしは決してあなたを忘れない。あなたをわたしの手のひらに刻みつけるからです。」やはり神さまに愛されているので、大船に乗った気持ちで希望を出して喜びを感じることにしましょう。その希望を自分が引き出す忍耐と強さによって、そしてその希望を神さまが支えてくださる。これは本当の希望で、飼い葉桶のあるクリスマスの喜びになります。

 クリスマス、おめでとうございます。


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主の降誕(夜半のミサ)

英 隆一朗 神父

12/24(金)19:00- 主の降誕(夜半のミサ)(手話、一部字幕付き)


 今年も厳しい中でありますが、イエスさまの誕生を祝うミサを共に行えることを非常に嬉しく思います。イエスさまの誕生の場面は、本当にしんみりした感じがいたします。今でもそうですけど、その頃のベツレヘムは本当に片田舎の小さな町、貧しい村だったでしょう。その村の宿屋に泊まることもできず、馬小屋にマリアとヨセフが泊まる。その中でイエスさまが誕生されて飼い葉桶の中に寝かされているということですね。びっくりするほど貧しい中でイエスさまはお生まれになった。神さまなんだからもっと豪華なところで生まれてもよかったわけですけど、わざわざこの貧しさ、目立たなさ、小ささというんですかね、それをわざわざ選んでイエスさまは誕生されたわけですね。それは一体どういう意味があるのかということですよね。それを考えたいと思います。


 今年は特別に、イグナチオ教会の方はご存じだと思うんですが、イグナチオ年というのをお祝いしています。イグナチオの回心の500周年記念を今年の5月頃から、そして来年の7月までイグナチオの年をお祝いしているんですね。それはわたしにとっても非常に大きなお恵みです。イグナチオが口述筆記した自叙伝というものがあって、それをあらためて読み直したり、あるいはイグナチオが体験から作った祈り方、霊操という祈り方があって、霊操の中の様々な黙想についてもあらためて自分なりに黙想したり、思い巡らしたりしています。自叙伝の方は教会報のマジスに毎月小さな連載をしていますし、霊操の方はオンライン霊操という形で3人の神父さんが交代で霊操の話をしています。

 自叙伝を読んでも、霊操の黙想をしても、物凄く強調されているのは貧しさなんですね。貧しく生きるということを、イグナチオの生き方そのものからもそうですし、霊操を通してキリストに従っていくのには貧しさを生きるようにという呼びかけが非常に強いんですね。イグナチオの自叙伝を読んでも、エルサレムに巡礼に行くんですけど、何と全くお金を持って行かないで、神さまだけに頼って巡礼を成し遂げるんですね。知り合いにお金持ちの人もいて、旅費全部出すからとか、ガイドというんですかね、一緒に旅する人をつけますとかいろいろ、わたしだったらラッキーと思ってもらってそのお金で行くと思うんですけど、全部断る。勉強の時もそうなんですが、イエズス会を作ってからもそうで、すごく貧しさを大事にして、イエズス会の作った学校は当時授業料はタダだったんですね。それとかイエズス会の持ってる聖堂では献金箱を置いたら駄目とか、何でもかんでもただでと、非常に貧しさを大事にしているというのがイグナチオの生き方と、初期のイエズス会でははっきりしてるんですよね。

 タダだったんですねそれは非常に印象的なものとして自分の心に訴えかけてくるものがあるんですが、考えてみたらわたしたち日本人、多くの方は日本人だと思うので日本人と言いますけれども、やはり日本人は古来から貧しさを大事にしてきたと思うんですね。実際のところ。物質的な要求とか欲望を膨らませるような生き方を日本人はしていなかったと思うんですよね。仏教でいうならば例えば禅仏教にしても、本当にシンプルな、何もない無のようなものを大事にして囚われを置くというか、あるいは儒教の精神もそうですよね。倹約をして無駄遣いしないで真面目に働くという、日本人の勤勉さとか貧しさを儒教の精神も非常にはっきり表しているわけですね。残念ながら貧しさの精神が日本の社会、特に都会で消えてきてるのが逆にちょっと残念な気もするんですけれども。でも、日本人が大事にしてきた貧しさと、イグナチオが大事にしてきた貧しさと、同じなのか違うのかということなんですが、イグナチオの生き方をいろいろ見て思うことは、実は全然違うということなんですね。何がどう違うのかというと、イグナチオが貧しさを実際生きる中で何があったのかといったら、神さまの力が物凄く強く働いているということが起きている。つまり神さまだけに頼るので、人間の力に頼らないから神さまの力が物凄く働くということをイグナチオは体験しているんですね。日本の貧しさの中には神さまが働くということが出てこないので、イグナチオが大事にしていた貧しさというのは、そこに神さまの恵みと力が物凄く働いてくるという、非常に積極的な意味があるということなんですよね。それは本当にわたしたちが大事にすべきポイントじゃないかと思います。

 そしてクリスマスの夜のこの出来事、物凄く貧しさの中だから神さまの力が、あるいはそこに神さまが誕生したと言えるでしょう。そして貧しい羊飼いが呼ばれるわけですけど、貧しい中であったからこそ天使が現れて、しかも天の大群が加わって「いと高き所には栄光神にあれ」という、このところスペシャルナイトコンサートと呼んでいるんですけど、神さまの物凄い大きなお恵みを彼らだけが味わうことができたわけですね。わたしたちは様々な貧しさとか困難とか、日本だけ考えたらコロナもやっと終わりそうになってきたかな、でも感染者が増えてきて海外並みになるかどうか、またわたしたちは心していかなきゃならない厳しさや、実際わたしたちも様々な制限や貧しさを抱えているわけですけれども。でもこの貧しさを積極的に受け入れていくならば、そしてわたしたちが神の前に謙遜にひれ伏すならば、神さまの大きな力がわたしたちに働いてくるということを保証しているというふうに言えるでしょう。

 イグナチオ年のテーマがあってですね、「キリストにおいてすべてを新しく見る」ということなんですね。このコロナにしろ何にしろ、ただ元に戻ることを考えたらどこにも新しさはないわけですけど、すべてのものの中に新しさを見るとしたら、わたしたちの小ささや貧しさの中に働く神さまの力、神さまの恵みに気付くならば、わたしたちは新しく見ることができる。そして新しく歩みを出発することができるのではないかということですね。それをわたしたちの心に刻みたいと思います。自分自身の今ある貧しさや小ささや困難、でもそれをしっかり受け止めて、そこに、あるいはその中でこそ神の恵みが働いてくる。その神の恵みに信頼して歩んでいきたいと思います。

 わたしの講座で何人かの人がクリスマスに洗礼を受けたんですけれども、1人の青年が言っててなるほどなと思いました。地方から出てきて東京で働きだして、友達がたまたま日系ブラジル人だったんですね。カトリックですよね。彼が病気で非常に苦しんでいる。だからお見舞いに行くのに、本人はカトリックじゃないけど、カトリックだからといって彼のためにわざわざイグナチオ教会にお祈りに来た。それでお見舞いに行こうと。もし友達が仏教徒だったらお寺に行ったと言ってましたけど。たまたま日系の人だから教会に、イグナチオ教会に来て、しかもその時にお父さんががんか何かの重い病気で、地方から出てきて仕事のことでもいろいろ行き詰って、そういうのが全部重なっていて、まさしくこのお御堂に入って座ってお祈りを始めた。お祈りといってもお祈りの仕方もわからない。でも座った途端、物凄く温かいものに包まれて、コートみたいに暖かいものに包まれて「大丈夫だよ」という声が聞こえたというんですね。それで1時間くらい涙が止まらない。このお御堂でですよ。涙が全く止まらなくなって、自分と家族と友人の貧しさ、行き詰まりの中で神さまが触れてくださった。あるいは神さまが彼の心に誕生してくださったとも言えるでしょう。そしてコロナのこの困難の中にもかかわらず、勉強して洗礼を受けたんです。まさしく新しく生まれた。神の恵みの中でですね。

 一人ひとりの体験は違いますし、人によって違いますけれども、でもわたしたちも貧しさの中でこそイエスさまに出会い、イエスさまが自分の生活の中で誕生してくださって、わたしたちも新しく生まれ変わって出発することができるのではないかと思いますね。だからこそ今のこの困難を受け止めながら歩んでいきましょう。何にもなくて平和な時にハッピーな気持ちでイエスの誕生を祝う、それもお恵みでしょう。でもこの困難の中でこそ、今年はイエスさまの誕生を祝う。それこそ一番わたしたちのクリスマスにとってふさわしいことではないかと思います。わたしたちの貧しさ、小ささに心を合わせてイエスさまの誕生を心を込めてお祝いし、恵みを願いたいと思います。


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待降節第4主日

レンゾ・デ・ルカ 神父

12/19(日)10:00- 待降節第4主日(手話、一部字幕付き)


 恐らく皆さんはこういう体験があると思いますが、たとえば子どもの時に聞いた歌とか、あるいは見た絵などですね。何年かそれを見ないで、あるいは聞かないでもう一度聞くと、なんか違うんじゃないかと思うような。たとえば絵だったらもっと明るかったとか、もっと大きかったんじゃないかと。あるいは歌も、自分の記憶と違うと気づいたりすることがあります。やはり人間の記憶は写真、あるいは録音と違って変わっていきます。わたしたちはそれに気づかないんですね。毎日見てることや聞いてることだったら違うかもしれませんが、やはり時間が経つと記憶が、あるいはこうじゃなかったかとか。わたしたちの修道院での中でも、たとえば先輩たちの話になると、あの時は一緒だったんじゃないか、いや違うと言ってですね、写真を出して見ると、ああ、違うんだということがあります。そういう話ですね。しかし写真を見て違うといって納得いくかというと、気持ちの上では、いや違ってたんじゃないかなと思うような体験ですね。


 聖書は昔の、何千年前の話を記録しているんですね。ですから記録されたままわたしたちは読んでいますけれども、今日の聖書箇所、マリアさまとエリザベトさんが出会った時に書かれたわけではないんですね。恐らくイエスさまが復活した後ですね。このルカの周りで育っていた人たちが集まって、あの時どうだったかと話した。当然ながらこの時はルカも生まれていない。イエスと同年代ですから赤ちゃんだったに違いない。どこからこういう情報が入ったかと言えば、マリアさまとエリサベトさんから聞いたということになります。特に今日の中でですね、挨拶を聞いた時に胎内の子、赤ちゃんが動いたんだということですね。これは体験した人、また女性でなければ言えないことなんですね。ですからマリアもエリサベトもこの時、つまり振り返ってもう30年くらいは経っているんですね。イエスは33歳で亡くなられたと言われていることからすれば、30年あるいは40年前の出来事です。思い出すと当然ながらいろいろ変わってくるんですね。しかし、彼女たちの中の記憶で確かなことは、赤ちゃんが動いたんだということです。これは2回繰り返してこの短い箇所の中で出てきます。つまり、エリサベトがそれを体験した。マリアさまが入った時に、自分の身ごもっていた赤ちゃんが動いたんだと。それはもう一度確認されているんですね。これが恐らくルカたち、あるいはマリアさまたちが確認している。確かにあの時にこういうことがあったと。

 つまり現実とわたしたちの関係、この場合は現実と彼女たちの関係ですね。厳密に言えばこうだったかということより、自分にとってはどうかということですね。外面的には2人の女性が会って挨拶して、手伝いに来るマリアさまの訪問だった。誰が見てもそういう出来事があったんだということ。しかしこの2人にしかない体験は赤ちゃんが動いたということですね。もちろんこれもある意味では身体的なことではあるんですけれども、恐らくそれよりは霊的なものですね。喜びを感じたんだということです。それはわたしたちがアヴェ・マリアの祈りを唱える時に繰り返して唱える箇所なんですね。あなたは祝福されていますということです。これは見てわかるようなことじゃないんですね。心で感じている、聖霊に満たされたと書いてあるんですけれども、まさにその霊の力によってしかない体験ですね。

 わたしたちもさっき言ったように、思い出す歌とか絵、あるいは人のことですね。客観的にどうだったかということは、歴史家だったらそれはいいかもしれません。けれどもわたしたちの信者としての動き、特にこのクリスマスを迎えるにあたって、たとえば写真を見てあの時は自分が緊張していた、あの時はすごく若かった、生き生きしていた、逆に心がボロボロだったとかですね。つまり客観的なデータを見ながら自分の心がどうだったか、その時から見ると今はどうかということですね。それがやはりさっき言ったようにわたしたちの生きた記憶の中にある。つまり変化していいものなんですね。つまり今のわたしと関わりがある。昔はこうだったかもしれませんけれども今は違うんだという、その体験ですね。

 ですから聖書に関して言えば、今日の第1朗読、あるいは第2朗読にしても、それを挟んで時代的に言えば今日の福音書があるんですけれども、やはり彼女たちの、客観的にはどのくらいの距離があったかとか、何か月妊娠していたかとか、ある意味ではそれはどうでもいいんですね。非常に大事になっているのは、マリアさまが自分も身ごもっていたにも関わらず、もっと年上だったエリサベトの手伝いに行きますと。つまりイエスを身ごもったまま、イエスを連れていくマリアさまの姿。それを見たエリサベトが非常に驚く。感謝しています。喜び踊ったという体験ですね。その体験が永遠にわたしたちが唱えて記憶、思い出すという。

 この福音書が書かれて2000年近く、それをわたしたちが読むたびに、ではわたしたちにとってはどうか。あと1週間で生まれるイエスの記念ですね。自分にとってはどうか。喜びですか、あるいはコロナだからちゃんと祝えないことに腹立たしさを覚えるか。あるいは逆にイライラと、いつまでこれは続くかということにとらわれて祝えないということとかですね。客観的なデータではあるんですよね。たとえば普段だったらこの主聖堂が一杯になるところがこれくらいの人数が入るということ。2年、3年前と比べたら人は少ない。それを通して自分がどういうふうに、どんなクリスマスを迎えようとするかということですね。さっき言ったように、下手するとそれにとらわれてちゃんとした祝い、ちゃんとした心からの喜びをできないということ、あるいはしないということですね。その辺はわたしたちがいつでも学ぶことがあります。マリアさまにしてもエリサベトさんにしても、やはりその与えられた難しさ、身ごもっていて当時の移動するための便利さが無い中で、それでも困っている親戚を手伝いに行くという、その心遣いですね。そこがわたしたちがいつでも思い出すというか、聖書を通してわたしたちの今の社会、今の世界でどう動かされるかということです。

 そうすると当然ながらこの客観的なデータ、言い方は固いんですけれども、書かれた文字ですね。翻訳されているんですけれども、これは書かれた時と今までは変わらないんですね。それを見るわたしたちが今のこのクリスマス、あるいは今これを聞いているわたしがどうか。マリアさまのように、自分が困難を抱えながら相手のことを心遣いできるか。行けないとすれば電話1本とか、あるいはメール1本するか、あるいは自分に閉じこもって、何もできないからと諦めてしまうかですね。そこの体験と言いましょうか、わたしたちがそこから心が動かされるところ、つまり聖霊の導きは当然ながら昔も今もある。ただし、わたしたちがそれを感じるように、受け入れられるような心ですね。そのような恵みを願ってわたしたちも困難に負けずに、喜び、また分かち合いの精神を生かす、与えられますように祈りたいと思います。


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待降節第3主日

ホアン・アイダル 神父

12/12(日)10:00- 待降節第3主日(一部字幕付き)


 わたしたちは今日、この喜びという恵みを特別に願っています。喜びについて一言言わせてください。喜びについて考える時には、まず印象に残った1つのイメージが浮かんできます。皆さんは恐らくもう読んだことがあるかもしれませんが、「星の王子さま」という本の中に喜びについて教えというか、1つの意味深い場面があります。この星の王子さまは皆さんご存じのように、飛行機が砂漠に落ちた人がしばらく砂漠にいるんですけれども、この王子さまは1匹のキツネと友達になります。そして毎日そのキツネのところに行って話したりとか、喋るキツネですので、毎日その友達に会いに行きます。ただ、ある日このキツネは、あなたは毎日わたしのところに来てくれるんですけれども、いつも違う時間に来ます。だから時間を決めなさい。毎日同じ時間に来てください。そうすればわたしは1時間前、あるいは2時間前から喜び始めることができると言っています。たとえばあなたは毎日4時に来ることを決めたら、わたしは、ああ、あいつは来るなと、3時から喜びをかみしめることができます。


 思うんですけれども、クリスマスには少しそれと似たところがあります。必ず神さまは12月25日にわたしたちを訪れて、その日にわたしたちに恵みをくださることはもちろんないんですけれども、わたしたちが日を決めるのは、多分そのキツネさんが言っていたような似た理由だと思います。少しずつ喜ぶために心を準備するためです。特に人間はキツネより複雑な動物ですので、喜ぶためには準備が必要です。わたしたち人間は良くないニュース、面白くないニュース、そのニュースをまず探すのは専門家だし、そして心に留めるのも専門家です。わたしたちはすぐそのような面白くない、良くないニュースをずっと見つけるし、長く心に留めるんですけれども、良いニュースを信じるのは本当に苦手だと思います。罪の結果かどうかわからないんですけれども。特にクリスマス、神さまはどれほどわたしたちを愛しているか、このニュースより良いニュースは多分ないと思います。それでしたら寂しいニュース、面白くないニュースにしか慣れていないわたしたちの狭い心、小さい心がこの良いニュースを受け入れることが難しいのも不思議なことではない。本当に準備が必要です。この前教皇フランシスコも似たことを言っていたんですけれども、人々が神さまを信じない1番大きな理由は、神さまが見えないとか、いろいろこの世の中に問題があるということよりも、神さまの愛はあまりにも素晴らしいものなのでそれを信じることが難しい。その通りだと思います。キリスト教の教えの中では喜びという言葉に1番近い言葉は希望です。結局喜びは揺るがない希望、顔に出てくる希望じゃないかと思います。

 フランスの1人の小説家、詩人ですけれども、ペギーという人がいます。第一次世界大戦の時には亡くなったんですけれども、この人は長い詩を書いて、特にクリスマスについてとか希望について書くんです。彼はクリスマスを「希望の誕生」と呼ぶんです。日本語に訳されているので探してみてください。素晴らしい長い詩、ゆっくり読むとか、祈るための詩ですけれども、そこでこのシャルル・ペギーという人は「愛、信仰、希望」について語っています。詩だからわたしの解釈も入っていますけれども、彼が言っているのは結局、信仰、愛、希望。その3つはもちろん恵みです。わたしたちは頑張って愛を感じることはないし、希望を感じることは自分の協力でできない。3つとも恵みですけれども、考えてみれば愛と信仰を持つことはそんなに難しくないと言っています。たとえば神さまがいる、それを信じるためにはちゃんと周りを見れば何となく信じられる。逆に神さまを信じないことの方が難しいと言っています。いろんな理由を探さないといけない。愛について似たことが言えると言っています。人を助けたい気持ちになるためにはちゃんと周りを見る、困っている人の言葉、問題に耳を傾ける。それだけで十分かもしれません。人を絶対助けない、そこまで心が固い人は多分いないんです。だから信仰、愛はそんなに難しくない。


 しかし希望は違うと言っています。この喜びである希望は違います。わたしたちは周りを見れば見るほど希望が弱くなります。特に自分自身を見れば見るほど、そしてこの12月、みんなこの1年を肩に背負っていて、自分のこと、人のことを考えると希望を感じることはとても難しいです。だからこそ、わたしたちはゆっくりこのイエスの誕生日のことを考えなければならないとペギーが言っています。イエスの誕生日はわたしたちの希望の理由、根拠だと言っています。イエスがこの世に生まれたというメッセージは、神さまはご自分の希望をわたしたちに置いたというメッセージだとペギーさんは言っています。神さまは生まれることによってわたしたちに言うのは、あなたたちのすべての罪が赦されたんです。神さまが強くその出来事によって語るのは、わたしの愛は何があっても変わりません。あなたたち一人ひとりも聖人になることができます。どんな敵も、どんな問題もわたしの愛に勝つことはない。それはクリスマスのメッセージであるし、それはわたしたちの希望、喜びの理由です。


 今日は何よりこの恵み、難しい必要な恵みを願いましょう。この信じられないニュース、神さまはわたしたちを愛している。この信じられないニュースを信じられる勇気、心を願いましょう。

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待降節第2主日

李 聖一 神父

12/5(日)10:00- 待降節第2主日(手話、一部字幕付き)


 待降節も第2番目の主日を迎え、わたしたちは一日一日クリスマスを迎える準備、そしてまたこのクリスマスにどんなふうに喜びをお互いに分かち合っていけるか、そういった準備をしなければならないだろうと思っています。

 今日の福音書で洗礼者ヨハネのことが登場してきますけれども、主の訪れを1番待ち望んだのはこのヨハネではないかと思います。その生まれ、そして生涯、死に至るまで、すべてがイエスの先駆けとなる。そのような姿を示してくれています。そしてその主が訪れたことを知ると、彼は静かに退いていきます。そうした生き方というものは、わたしたちの生き方にも似ているところがあるかもしれません。わたしたちは主の訪れを待っています。そしてその主の訪れを確かめて、信じて、そしてこの方にこそ、わたしのみならずすべての人の救いが現れたと思った時にわたしたちは静かに退いていく。そのような存在だと言ってもいいかもしれません。その意味で毎年毎年、主の訪れ、主の降誕を待ち望むわたしたちは、わたしたち自身の生き方というものも、やはりそこでどのように自分自身の人生を生きていくのか、そういったことにも思いを馳せる必要があるだろうと思います。

 そして具体的にわたしたちはこのクリスマス、主の訪れをどのように準備したらいいのかということ、それを皆さんとぜひ分かち合いたいと思います。かつては自分の大好きな嗜好品、お酒とかたばことかコーヒーとか、そういったものを控えて準備するという方がいらっしゃいました。今はなかなかそういったことをしましょうと言っても、わたし自身も含めて難しいので、もっとできることはないかと思っています。これも昨年のこの時期に話をしたことがあると思いますが、こんなことをすればいいクリスマスが迎えられるんじゃないかなということで、わたしがやっている3つのことを皆さんと少し共有できたらいいなと思っています。


 1つは12月1日になってからルカ福音書を1章ずつ読むということですね。ちょうど24章ありますので、1章ずつ読み進めばルカ福音書全部を読み通し、そしてイエスがいったいどういう方だったのか、どんなメッセージを残してくださったのかということをふまえて24日の夜にクリスマスのミサに与ることができる。これは非常にいい方法だと思っています。わたしの知人が教えてくれたことで、昨年からわたしはやっております。今日はもう12月5日ですので、1章から5章までまとめて読むのは面倒なので、今日から、思い立った人は5章から読み進めたらいいと思いますね。5章から読み進めて、その気になって読んでみたいと思えば1章から4章まで読めばいいと思いますけど、まずは今日から始めようという方は5章から読み始められたらいいと思います。

 もう1つは職場、あるいは家、どこかに馬小屋を飾るということです。11年前にスペインにいて、そこで最初に習った言葉が「あなた、馬小屋準備した?」というのがスペイン人の挨拶だと習ったんですが、実際スペイン人に聞いてみると、そんな挨拶はしないと言われたことがありましたが。しかし、「馬小屋準備した?」というような挨拶が、わたしたちキリスト者の間に広まっていけばいいなあと思っています。わたしも隣の上智大学で働いていますが、事務室にちゃんと飾りました。ただポイントは、まだ幼子イエスは置かないということです。これをする人が結構いるんですね。SJハウスに住んでいますが、そこはもう置いてありました。これは注意しないといけないですね。まだ早いって言わなきゃいけないです。幼子イエスは馬小屋の裏側に隠しておかなきゃいけない。そして24日にその幼子を馬小屋に置く。こういったこともある意味で準備になるでしょう。

 それから光を見に行くというのが3つ目ですね。11月になっていくとだんだん日本はクリスマスクリスマスと言い始めるんですが、クリスマス商戦をするのは待降節の時からです。これも商業界に言わなきゃいけませんね。ちゃんとキリスト教の暦を守ってくださいと言わなきゃいけません。ただ、日本中がイルミネーションでいろいろと光り輝く、その光り輝くものを見る。そうするとなぜかわたしたちの心はウキウキし、豊かになっていくというところがあります。12月3日はフランシスコ・ザビエルの祝日でしたけれども、わたしはけやき坂のイルミネーションを見に行こうと思って、学校が休みでしたので行きました。5時に点灯するので、5時10分前に行って点灯の瞬間を見届けようと思ったんですけど、見ることができました。青白い光がとってもきれいで、出来れば今日夕方、行けるかどうかわかりませんが丸の内あたりに行ってみようかと思っています。光に触れるというのはわたしたちの心をどれほど温かくしてくれるか、そして本当の光、イエスが来られるというのを待ち望む。そうした心はやはり必要じゃないかと思います。

 そして今年もう1つ、クリスマスを準備するのをわたしは見つけて、そして今やっています。4つ目が新たに今年は加わるんですが、それは花を育てるということです。今までずっとわたしは教育に携わってきたんですけれども、人を育てるのはとても難しいので花でも育てようかと思ったんですが、実は花も育てるのは難しい。そんな簡単じゃない。ある程度咲いた花を買ってきてそれを花壇に植えるんですけども、なかなかうまく思い通りに咲いてくれない。花は勝手に咲いていくんだと思いますが。ただ、今年は葉牡丹とクリスマスローズというのを植えてみたんですね。そのきっかけはイグナチオ教会の花壇がいつもきれいに整えられていて、ああ、これいつもきれいだなと思ってこのあいだ見に行ったら葉牡丹が植えてあって、とってもいい花だなと思ったからです。あの品のある色とか形とかってなかなかないなと思って、さっそく苗を売っているところに行って買ってきたんですけれども、そうした花を植えて。今クリスマスローズはまだ花が咲いてないので、今日もこのミサのあと水をやりに行かなきゃいけませんが、なんとかクリスマスまでには咲いてくれるといいなと思っています。

 自分の生活の中で、何か自分が思いついたこと、アイディアとして何かポッと頭の中に浮かんだこと、こうすれば何かいいクリスマス、主の訪れを迎えることができるなという準備を、一人ひとりが工夫してそれをやってみるというのはとってもいいことだろうと思います。そうしたわたしたちの日常の生活の中で、何か1つ工夫をしながら主の降誕を待ち望むという心を何よりも強くしていく、豊かにしていくということが大事なんじゃないか、そう思います。

 コロナは日本では確かに多少落ち着きを見せたという状況で、教会でもミサの時に歌を歌ってもいいとか、マスクをして歌を歌ったり、あるいはまた応えたりしていいという指針も出されていますけれども、まだまだ十分に、普段のようにミサに与ることのできない状況にあって、わたしたちはこのクリスマス、主の訪れというのを本当に喜びのうちに、期待のうちに迎えていくことができますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。


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