2022年1月 ミサ説教
1/1(土)10:00- 神の母聖マリアの祭日 英 隆一朗 神父
1/2(日)10:00- 主の公現の祭日 酒井 陽介 神父
1/9(日)10:00- 主の洗礼の祝日 柴田 潔 神父
1/16(日)10:00- 年間第2主日 マヌエル・シルゴ 神父
1/23(日)10:00- 年間第3主日(神のことばの主日) 英 隆一朗 神父
1/30(日)10:00- 年間第4主日 柴田 潔 神父
年間第4主日
柴田 潔 神父
1/30(日)10:00- 年間第4主日(手話、一部字幕付き)
先週の朗読に続く、イエス様の宣教の第一声の場面です。イエス様の説教は、故郷の人たちに讃えられ衝撃を与えます。けれども、ヨセフの子ではないか、大工の子ではないか、と出生を問われて、人気は一日で崩れてしまいます。イエス様は宣教に失敗し、寂しく故郷を去ります。命さえ狙われて何もできません。無力に逃げ去るイエス様の姿です。
けれども、聖書を読むと寂しく失敗することは珍しいことではありません。むしろ「神の国を宣べ伝えるには当たり前のこと」です。ルカが書いた使徒たちへの手紙(使徒13:45)にはこうあります。「ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」
「宣教は失敗し、み言葉は受け入れられませんでした。」パウロたちは、町から町へと悲しい旅を続けます。そして段々と、イエス様が故郷のナザレで経験したことが分かってきました。宣教の初めは失敗でした。
今日朗読された場面で、町の人たちは「イエスをわがものにしよう、町おこしのために働いてもらおう」と思っています。だから、どうして自分たちの村ではなくカファルナウムで奇跡を起こしたのか?と不満を持ちます。反対に、イエス様は、町おこしに使われる危険感を覚えます。イエス様は、町のヒーローになるつもりはありません。もっと広い地平。「永遠」の世界を目指しています。
イエス様が目指された「永遠」を3つの点から考えました。
永遠とは
- 目で見える世界が全てではない、と信じることです。私たちは、今、見ていること、経験していることだけが全てで、それ以外の世界はない、と思いがちです。でも、ミサにあずかり、お祈りをしていると神様が望む世界が見えてきます。もっと何かできるはず、もっと世界をよくできるはず、と思えてきます。
- 今の状態は、ずっとは続かない、と信じることです。神様の望む世界は遠くにあります。なかなかうまくいかない、なかなか成果が出ない時もあります。落ち込んで、がっかりすることもあるでしょう。でも、今の状態はずっとは続きません。いつか成果が出る、そう信じて、できることを続けていきましょう。遠くを見ながら成果が出る日を待ち望みましょう。
- 苦しい時は成長の時、清めの時、挑戦の時、と受け止めましょう。私たちはいろいろな試練に出会います。「もう無理なんじゃないか?」「この辺にしておけばいいんじゃないか?」そう思うこともあるでしょう。でも、苦しい時を、自分の成長の時、清めの時、挑戦の時、と受け止めて前に進んでいきましょう。
イエス様は、私たちにも永遠の世界を目指すことを望んでおられます。ただ、初めからうまくいくわけではありません。むしろ、初めからうまくいくのは、イエス様が村おこしに担がれそうになったような、世俗的なことです。それを続けても、イエス様が目指した永遠の世界にはたどり着けません。
宣教の初めは失敗、失敗は織り込み済み。その先に永遠の世界、神様の国があることを信じて新しい一週間を過ごしてまいりましょう。
参考文献
- 『宣教者を育てるイエス』カルロ・マリア・マルティーニ著 今道瑤子訳 女子パウロ会1988年
- 『イエズス会黙想会』カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿指導 日本管区 松本紘一訳 2000年
年間第3主日(神のことばの主日)
英 隆一朗 神父
1/23(日)10:00- 年間第3主日(手話、一部字幕付き)
今日の福音書はイエスさまがナザレの会堂で説教をした、この説教はイエスの就任説教と呼ばれるもので、自分の使命がどういうものであるかということを語られた箇所ですね。イザヤ書を預言して、貧しい人に福音を告げ知らせる、それが彼の使命であると。その福音を告げ知らせるというのは単に言葉だけの問題ではなくて、捕らわれている人に解放を、圧迫されている人を自由にする、そういう福音の力、神の力のことを、イエスさまが実際働くということを決意したわけですね。そしてそれはイエスさまがおっしゃる通り実現した。「この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というふうにありますが、実際イエスさまの言葉、使命は実現していくわけですね。貧しい人に福音が宣べ伝えられているということが非常に大事な点だと思います。
皆さんご覧になった方がおられるかもしれないですけど、Netflixという有料動画サービスがあって、世界中で1番たくさんの人が観たドラマが「イカゲーム」というんですね。韓国の。1番観られたということなので、わたしも観たいという気持ちになったんですけれども、Netflixに契約しないと観られないと修道院で言ってたら、副院長が契約してたんですね。さすが修道院と思いましたが。それでテレビ室で観たんですが、簡単に言うと、今の韓国の流行っているものは貧しい人の話なんですね。社会から脱落したような人で、前は「パラサイト」という映画があって、それもそういう貧しい人の話なんですが、「イカゲーム」というのも貧しい、韓国の教会で落ちこぼれて借金まみれになっているとか、そういう人々を集めてゲームをさせるっていうお話なんですね。
ゲームっていうのは、子どもの時にやったゲームを何百人という大人がやる。いわゆるそのゲームは負けた人が殺されていくっていうんですね。日本でも流行った「デスゲーム」のような流れのものなんですが、何百人が参加して、だるまさんが転んだとか綱引きとか、子どもの時にやったようなゲームをやりながら、負けた人がどんどん死んでいって、何百人のうちのたった1人だけが賞金をもらえる。賞金が35億円だったか、だからものすごく大きな金額をたった1人だけがもらえるという話なんですね。誰が生き残るかということで、頭のいい人、力の強い人、あるいはお人好し、単に運のいい人が生き残るのか、結局そういうお話で、たった1人の人が残ってその人が賞金を得る。そういう非常に残酷で恐ろしい話なんですが、なぜそれが世界中で1番観られるのか。やはりこの社会が競争社会というんですかね、貧しい人を集めても結局競争して、誰が勝つかということを競わなければならない。そういう現代の社会をそのまま描いているような面があるという、何か心に痛い気持ちになったものです。
でも「貧しい人に競争を」とイエスさまは言ってないんですね。貧しい人にこそ競争させるというわけではなくて、イエスさまが言っているのは、貧しい人に福音を、神さまの救いを伝えるということ。だから「イカゲーム」とは全く違うイエスさまの発想なんですよね。イエスさまが伝えようとした貧しい人にこそ福音が伝えられる、あるいは捕らわれている人が解放されるというのは、この世界の競争ゲームとは全く違う福音の原則というか、それに従ってわたしたちが生きていくように主が呼びかけられているわけですね。
それは一体どういうものなのか。この2年間コロナウイルスの感染拡大で、この出来事の中で世界中の神学者がいろいろな本を書いたり、疫病とキリスト教の関係について何人もの方がさまざまな意見を出しているんですけど、その中で多分1番注目されているのはロドニー・スタークという、初代教会、ローマ帝国の中でなぜキリスト教がどんどん栄えたのかということを分析をしている人です。いろいろな宗教があってだんだんと国教化でキリスト教1つになるんですが、決定的だったのは疫病が流行ったからだというんですね。それでキリスト教が流行ったと分析されているんですよね。いろんな理由があるんですが、本の中で書かれている1番大きなポイントは、ペストとかそういうものが流行って、今のように医学がないから人々が全滅していく。どんどん死んでいくわけです。その時にローマ帝国のキリスト教以外の人々はどうしたかというと、お医者さんをはじめみんな逃げたっていうんですね。とくに有名なお医者さんほど逃げた。危ないのがわかっていますからね。それでどうなったかと言ったら、貧しい人たちが見殺しになったわけです。お金持ちしか逃げられないですから。それで貧しい人たちはどんどん死んでいったという状況があったというわけですよね。今と昔は感染の医学の発達が違いますから。
でもその中でクリスチャンは逃げなかった。逃げないどころか感染した人を助けたっていうんですよね。感染リスクはもちろんあるわけで、介護したり助けた人で亡くなる人もいたわけですが、全体的にどうなったかと言ったら、助け合っていたからクリスチャンの方が生き残った。異教徒の、助け合わないでお金持ちが逃げた人々の中では、むしろ死ぬ人が多かった。疫病が起こるたびにクリスチャンが生き延びて、異教徒の人が助け合わなかったので人口がどんどん減っていって、だから疫病が流行るたびにクリスチャンがどんどん増えた。逃げて増えるんじゃなくて、そこに留まって助けたからこそ死ぬ人が少なくなった。それでどんどんキリスト教のネットワークの方が広がって、その他の宗教が衰えていった。それがローマ帝国でキリスト教が広まった最大の要因であるという分析なんですね。
あとは、クリスチャンは死をあまり恐れていなかったということもあるんですよね。やはり永遠の命のことを大事にしていたので、少々のことでは逃げない勇気のようなものもみんな持っていた。クリスチャンたちは殉教する世界の中で生きているから、この世の命に執着する気持ちもそれほどなかったということも関係していると言われているんですが、結局貧しい人に福音を、ということはそういうことでしょう。貧しい人の中で競争して、たった1人が勝っても意味がない。でも、貧しい人の中でクリスチャンだけが助け合ったので、そこに救いと福音が生まれて、多くの人々がキリスト教の素晴らしさに気づいて、全然福音宣教しなくてもとにかくクリスチャンが1番生存率が高かったんですよね。それで増えていったという。
そのことを鑑みると、今と昔は比べられないし、感染症が広まったら自粛しなければならないですけれども、単に自粛するということだけでもないんですよね。危機の中でこそキリスト教はその真価を発揮しているということなんですね。その時こそ愛の心、助け合いの精神がより強く働くので、かえって多くの人を助けることにつながる。貧しい人に福音を告げる、それはイエスさまだけがすればいいという話ではないですし、イエスさまの特別な力が働くから救われる、ということだけではないわけです。みんなが貧しさや困難の中にあるからこそ、お互い助け合うことによって、そこに貧しい人に福音が告げられて、捕らわれ人が解放される。目の見えない人々が本当に大事なものが見えるようになってくる。
イエスさまが「この聖書の言葉は今日、実現した」と言うんですけど、誰が実現するのか。わたしたち一人ひとりが実現する中で、神さまの救いのわざが実現していくわけですよね。ただ座ってじっと待っている中で神の言葉が勝手に実現するわけではない。わたしたちが貧しさや困難の中にあるからこそ、助け合ったり、思い合ったり、励まし合ったりする中で、聖書のみ言葉が実際目に見える形で実現していくということですね。貧しい人の中でこそ競争ではなくて助け合いが必要。イカゲームって、ある意味ばかばかしいドラマではあるけど、さっき言ったように現実を語っている。イカゲームの世界は何かクリスチャンがいない世界であるとも言えますが、ドラマの中にもクリスチャンがプレイヤーとして参加して入っているんです。それはキリスト教をネガティブに解釈して入っているだけみたいな感じですけど。
わたしたちに希望と力がいつも与えられていると思います。今も感染が厳しくなってきて教会も少し自粛しますけれども、わたしたち一人ひとりの心を自粛するわけではないと思いますね。貧しさの中でこそ助け合う。苦しみの中でこそわたしたちが思いやる中でみ言葉が、貧しい人や苦しんでいる人が助けられるという、本当の救いが成就していくと思いますね。危機の中でこそわたしたちの真価というか、クリスチャンとしての生き方の一番大事なところが問われると思いますね。それを心に刻みながら、また困難になってきましたけれども、わたしたち一人ひとりが本当にイエスさまのこの言葉を生きていけるように、こういう中でこそ、わたしたちがイエスさまの救いのわざを分かち合っていくことができるように、互いのために祈り合いたいと思います。
年間第2主日
マヌエル・シルゴ 神父
皆さんもご存じと思いますが、ヨハネ福音書は「しるしの本」と言われています。その2章から「しるしの本」として始まるわけです。ヨハネ福音書には7つの「しるし」、7つという数字は聖書的に非常に意味深いものです。ヨハネは起こったことを通してメッセージをわたしたちに伝えてくださったわけです。聖書によく見られる書き方なんですけれども、出来事を通して何かメッセージを伝えよう、いろんな具体的な出来事から意味をくむ。
では、カナの婚礼は最初の「しるし」として一体どういうことだったか、簡単に皆さんと一緒に考えてみたい。何が起こったか。先ほど読みましたけれども、マリアはワインが足りないということに気が付いて、それでイエスのところに行って「何とかしてください」と。イエスはそれを「まだわたしの時は来ていない」と断るわけです。だけどマリアは召し使いに「この人が言うとおりにしなさい」とおっしゃると、イエスは母親に負けてその召し使いたちに「水がめを水でいっぱいにしてください」と言われた。彼らが水でいっぱいにすると、イエスは「それを取って責任者に持って行ってください」。その人はそれを召し上がると、いったいこのワインはどこから出てきたかと聞いたわけです。みんなはそれでびっくりして、具体的にどういう反応があったか。ちょっとだけ終わりに書いてあったんですけど、弟子たちの反応ですね。イエスを「信じた」。他の人たちはどういう反応をしたか、何も書いていないです。
では水をワインにしたというこの出来事は、わたしたちのために一体どういうことを意味しているか。このことで「イエスはご自分の栄光を現した」と書いてありますけれども、イエスのアイデンティティと言いましょうか、ご自分がどういうものであるか、こういう出来事を通して現す、そういうことを考えておられてこういうふうにしたわけです。イエスのアイデンティティを現す1つの出来事。またその出来事によって言われるのは、新しい時が来た。新しい創造が始まる。世の初めに神さまは創造してくださった。今、イエスを通して新しい創造が行われた。ヨハネはそういうことを信者たちに伝えていたわけです。他の福音書にはもっと細かいことが、ある意味でありふれたやり方で書くんですけれども、ヨハネはほとんどいつも神学的に考えて、その出来事よりも意味を強調している。新しい時代が始まった、新しい時が来た。そしてイエスはわたしたちのために来てくださった神の子だと。そのイエスがいらした、神の子が来た、それによって新しい時が始まったというのが、この出来事の根本的なメッセージだと思います。
そうすると例によって、人々は何をするかと言いますと、福音書にはほとんど何も書いてないんですけど、弟子たちはそれを見て信じたと。
ではこの出来事は、今生きているわたしたちにとってどういうことを意味しているか。ここにおられる結婚しておられる方々は、もしかしたらご自分の結婚式、披露宴のことを思い出したらいいと思いますけど、あの時の心の中にあったことは、恐らくまとめれば3つあるだろうと思います。喜び、いろいろな準備をして愛している人とこれから一緒になるとか、そして2人で始まるその時点でこれから何が起こるかわかりませんけれども、夢を見るんですよね。2人でこういうことをやりましょうとか、2人でこの人生を送りましょうとか、そういうことで心は希望で満たされるわけです。この3つのこと、喜び、夢を見る、そして希望。今日の福音書はわたしたちにまさにその3つのことを伝えているような気がします。
喜び、わたしたちはキリスト者として時々これを忘れてしまうんですね。真面目な顔をして、信者でない人と話す時には、時々あまりにも真面目過ぎると言われるかもしれません。喜びをもって人々と語り合うということは、わたしたちの1つのメッセージ、伝える方法だと思います。そしてもう1つ大事なこと。キリスト者としてわたしたちに必要なことですけれども、夢を見る心を持つ。その中で考えられるのは、わたしたちには気に入らないことがたくさんあるかもしれない。いろいろな人の行動を見て、何でこんなことをするかとかですね、場合によって批判しますけど。イエスの物の見方は、失敗を認めたとしても、希望をもってその人の成長を待つ。そういう希望を持つ心。わたしたちの日常の中にこの3つのことは非常に大切なことだと思います。
喜び、そして夢を見る心というのは、いつも新しい何かが始まるという好奇心ですね。そして希望を持つ。キリスト者としてわたしたちは、これを今の社会の中では伝えていかなければならないですよ。わたしたちの行動、わたしたちの振る舞いによってこういう喜び、夢を見る心、だから若い心と言いましょうか。そして希望を持つ。今の社会の中では、いろいろなことを見るわたしたちは、何でこんなことがあったかと時々失望しますけれども、こういう時こそイエスのメッセージはわたしたちにとって必要でしょう。そして大切なんですよね。そしてわたしたちはキリスト者としてイエスと共に、そういうことを今の社会の人たちに何らかの形で、別に宣教する必要はないんですけれども、わたしたちの生き方をもって生きる喜び、夢を見る心、そして希望を持つ。
どうかこのミサの中で今日、わたしたちにはイエスさまが恵みを与えてくださるように。本当に生き方としていつでも、喜びにあふれる心、またいつでも若い心、夢を見ることができる心。そしてそれをもって何があっても希望を失わない心。それをわたしたちの心の中に、あるいはわたしたちはキリスト者として、イエスの弟子としてそれを人々に、今の社会に伝えていかなければならないでしょう。それもわたしたちの力だけではとても難しいので、今日のミサの中で、キリスト者としてわたしたちがイエスと共にそのメッセージを人々に伝えることができる、その力を与えてくださるように、心を合わせて一緒に祈りたいと思います。
主の洗礼の祝日(子どもとともにささげるミサ)
柴田 潔 神父
1/9(日)10:00- 主の洗礼の祝日(手話、一部字幕付き)
今日は、神様からどんな声を聞くか?というお話です。
みんなは赤ちゃんの時から「よし、よし。いい子。」って言ってもらったと思います。今も言ってもらってますか?ああ、首を振ってる子が結構いますね。でもね、少しテストで点が悪くても、お父さんお母さんは「よし、よし。いい子。」と今でも思っています。安心して大丈夫です。「あなたは大事な子よ」とお父さん、お母さん、そして神様からも言ってもらってます。
洗礼を受ける大人のイエスさまも「あなたは、わたしの愛する子」「よし、よし。いい子。」って神様から言ってもらいました。イエスさまもみんなも、神様から大事にされて、安心して、大きくなっています。
神様はイエスさまに「あなたは、愛する子」と言ったあと、「あなたは、わたしに適う者」と言っています。「適う」というのは「ピッタリ、おんなじ」ということです。神様の願いとイエスさまの願いが「ぴったり、おんなじ」ということです。
この「適う」という言葉。もう30年以上前ですが、神父さんが大学生の時に初めてイグナチオ教会に来た時にも聞きました。「あなたの願い事がかなうといいわね」と言ってもらいました。その時の神父さんは、テニスの選手になりたかったけど、うまくいかなくて、がっかりしていました。坊主頭で、ガリガリにやせていました。そんなしょんぼりしている神父さんを見た人が心配して「あなたの願い事がかなうといいわね」と言ってくれました。
がっかりしていた神父さんは、自分の願い事がなんなのかわからなかったけど、神様から大事にされていることがわかりました。そして「自分の願い事がなんなのか?」探し始めます。
大学を卒業してからはお家を建てるお仕事をします。12年間で120件くらいのお家を建ててもらいました。お休みの日には、ボランティアといって、車椅子の人にお風呂を楽しんでもらうお手伝もしました。 お家を建てるお仕事をずっとするつもりでいたら、「あなたの仕事は他にある」という声を聞いた気がしました。その時は、誰かが言ってくれたんじゃなくて「聖霊」が教えてくれました。「他の仕事ってなんだろう?」と探しているうちに「神父さん」が思い浮かびました。「イエスさまのように、困っている人を助けたい。そのために、お家を建てるお仕事はやめよう」と思いました。
イエスさまは、洗礼を受けるまで大工さんでした。でも30歳になって「困っている人を助けたい。」と思うようになりました。その気持ちは神様の願い事とピッタリ一緒でした。
「あなたはわたしの心に適う者」というのは、「自分のことよりも困っている人のことが大事」と思うことです。
イエスさまは洗礼を受けるとき、神様から「あなたは、わたしの愛する子」「よし、よし。いい子。」って言ってもらいました。そして、神様の願い事と自分の願い事がぴったり一緒だということがわかりました。
これから奉納では、教会学校のお友だちがアドベントカレンダーにして、平和、希望、愛の願いが捧げられます。神様から大事にされていること、神さまのために何をしたいか考える、そんな2022年にしていきましょう。新しい1年、神様、イエスさまと共に希望をもって進んでいきましょう。
主の公現の祭日
酒井 陽介 神父
1/2(日)10:00- 主の公現の祭日(手話、一部字幕付き)
主の公現の祝い日に読まれる福音の箇所には、東方から来る占星術の学者たちが登場します。星を調べ、読み、そしてその意味を解き明かす専門家たちが、東方にまで輝き渡ったメシアの誕生を告げる星に導かれ、エルサレムを通り、小さな町ベツレヘムまで礼拝しに来るという話です。わたしはこの物語を、巡礼というテーマで皆さんと分かち合いたいと思います。言い換えると、東方の賢者たちは、星を頼りにメシアに会うために巡礼をしてはるばる、ベツレヘムまで来たんです。
さて、巡礼とは一体どんなものでしょうか。もしかすると、多くの人が最初に思い浮かべるのは聖地巡礼かもしれません。今でこそコロナの影響で難しくなっていますが、エルサレムやローマやルルドなど、旅行会社の企画する巡礼パックに参加して聖地に参詣するというものでしょう。しかし、当時の巡礼となると旅行保険はありませんし、交通手段も徒歩か、動物の背に乗ってかに限られます。旅程も定かではありません。いつ帰ってこられるか、はたまた無事に帰ってこられるのかもわかりません。それでも人々は、巡礼に突き動かされました。ただ、時代が変わるにつれ、そこに免償という「ご利益」のようなものがつき、慣習化されていきました。しかし、この三賢者の「巡礼」と、それに先立つ羊飼いの「巡礼」は、紛れもなく何の下心もない、純粋にメシアに出会いたいと、心を突き動かされるような「行って、拝む」行為だったと思います。それは本当の巡礼です。巡礼とは主の霊に導かれ、主に向かって旅をすることにほかなりません。ですから巡礼のエッセンスというものは、万難を排して、自分の人生にとってかけがえのない神に招かれ、神を拝む、非常にシンプルなことなんですよね。
3人の賢者たち、彼らは先立つ星の止まる場所にいる幼子とその母を見て、「喜びにあふれ」ました。そして持ってきた高価な贈り物を捧げました。それは、不安とライバル心に駆られたヘロデや律法学者たちとは正反対の行為でした。彼らは自分たちこそがこの世界の中心、さらに、真実に近いところにいるんだという偏狭な自覚を抱いていました。ですから、その座から降ろされかねないと、新しい王イエスを恐れたんです。だから自ら「行って、拝む」ことはしませんでした。なぜなら、それは自分より「大きな」存在にひれ伏すことだからです。自分たちの小ささを認めることができない彼らは、実際は内心非常に震えていた、狼狽えていたかもしれません。自分たちの小ささを嫌でも思い起こさせるこの幼子は、邪魔な存在でしかありませんでした。しかし賢者たちは、はるばる星の導きだけを頼りに、希望に胸を膨らませ、自分たちにできる精一杯の捧げ物を携えて、その小さな幼子に救いの訪れをはっきりと認めました。
わたしたちも何歳になろうと、どんな立場にいようと、幼子の前でこうべを垂れ、自分の小ささや弱さを認めるように招かれています。それは、自分の小ささと弱さに留まるということじゃないんです。認めて、こうべを垂れる。それがクリスマスの大切な意味の1つだと思います。モノの捧げ物にこだわることなく、わたしたちの日頃の苦労や、痛みをそのままお捧げすればいいと思います。幼子イエスは、手を広げて、微笑んでそれを受け取ってくださいます。
わたしも個人的にこんな経験があります。1か月の霊操をしていた時、その霊操の祈りの中、ご降誕の場面を観想する招きがありました。イグナチオの霊操の中では、自分があたかもその場面に遭遇しているかのように祈るのです。わたしはその霊操中、場面設定をして、その幼子の誕生の場面を祈っている時、羊飼いや賢者たちに遅れ、少し遠慮ぎみに離れたところから、飼い葉桶に寝かされたイエスを見つめていました。これは祈りの中でです。すると、聖母マリアがそんなわたしに気づき、手招きしてくださり、あなたも抱っこしてみなさいと、赤ちゃんのイエスさまをわたしに差し出してくれました。恐る恐る抱き上げると、何とも言えない嬉しい気持に満たされて、その赤ちゃんを抱っこしました。すると赤ちゃんイエスは、手を広げて微笑んでくれました。自分の小ささに失望しかけていたわたしは、祈りの中、マリアさまに促されて、赤ちゃんイエスを抱っこできて、「あー、これでいいんだ」と、今まで感じたことのないほどの安堵と信頼を感じることができたんです。ですから、自分の小ささにひるんでイエスに近づかなければ、それは自分に囚われているということです。それは自分の小ささを認められずに近づけないヘロデや律法学者たちと、イエスに近づけないということでは結局同じことになってしまいます。なぜなら、片や小さくなった自分にこだわっている、そしてもう一方は誇大化した自分に囚われている。
しかし、必ず促してくれる、導いてくれる、付き添ってくれる存在や力があります。心を頑なにせずに、その促しに委ねて、一歩前に進めることができると思います。ヘロデや律法学者たちだって、そのチャンスはあったはずです。しかし、最後まで囚われてしまい、頑なになってしまって、不安に駆られて、近づくのではなくて遠ざかっていく。そして亡き者にしようとする。自分の小ささを認めるというのは、それに嫌になってしまうことではなくて、それでもイエスが、そんなわたしを受け入れてくれるということ、かたじけなく思うことにほかなりません。
遠いところに赴くことだけが巡礼ではありません。先程も言った羊飼いたちは、きっとそれほど遠くの野原にいたわけではないでしょう。ですから例えばわたしたちも、教会のルルドの聖母のところに行ってお祈りする。この聖堂の中であれば、マリアさまはそこにいらっしゃいますよね。庭にもいらっしゃいます。聖櫃の中のイエスと語り合う。さらには、精一杯の捧げ物を分かち合うならば、家庭の中でも、仕事場へ行くことも、育児や介護も、そこにいるイエスと出会うことができるならば、そこにいるイエスを見つけたいと思うならば、そして、自分の囚われから一歩出ることができるならば、立派な日常の巡礼になると思います。大切なのは、聞いて、行って、見て、信じること、そして捧げることです。そのために、物事の中心を、自分や自分の考えや気持ち、囚われに置かずに、先導する星や、心に語りかける内なる力、内なる霊の声に耳を傾けることが大切になってくると思います。そんなひと時を持つこと、そんな振り返りの時間を持てたらと思います。
最後に、巡礼は本質的には、個人的レベルの遍歴、自分で歩かなければ始まりませんから、そうしたものではありますが、同時に集団的な旅です。羊飼いたちは仲間を連れ立っての幼子イエスへの巡礼をしました。賢者も1人で来たわけではありません。連れ立つ仲間、寄り添って歩く友、そんな仲間がやっぱり必要なんです。この教会も2030年を目指して歩みを進めていますよね。誰一人としてそこから、自分は関係ないと言える人はいないんですよね。なぜならこれは巡礼ですから。巡礼はみんなが同じ方向、神を、キリストを目指すんですから。そして今始まった2023年のシノドスに向けての歩みも、教会の再生に向けて共に歩むことにほかなりません。だから皆さんは一緒に巡礼に出ているんです。わたしたちは一緒に巡礼に出ているんです。それぞれのペースを守りながら、皆が気遣いながら、支え合いながら、でもわたしたちが同じ方向を見つめて歩んでいるということを、どうか忘れないようにしましょう。一緒に歩いていく、共に歩いていく。その目的はみんなでキリストに出会うためであり、みんなでキリストを発見するために行くんだ、みんなでキリストを迎えるんだ、みんなでキリストを伝えるんだ。このことがわたしたちに今、求められている巡礼の形であると思います。
神の母聖マリアの祭日
英 隆一朗 神父
1/1(土)10:00- 神の母聖マリアの祭日(手話、一部字幕付き)
今日は神の母聖マリアの大祝日に当たっています。本当は神さまそのものにお母さんはいないんですけれども、マリアさまはイエスさまの母だったので、神の母という称号でたたえられています。母という言葉、あるいは普通日本語で「お母さん」とか「おふくろ」とか、「ママ」とか、そういう言葉はわたしたちの心にある種の懐かしさというか、そういうものを思い起こす言葉の1つだと思います。神さまにも母親としての要素があるのは間違いないでしょう。神さまは親心をもってわたしたちのことを見守り、導いてくださっているわけですから、お父さんの心と共にお母さんの心があることも間違いないと思いますね。そしてわたしたちはそのような神さまに見守られている者なので、わたしたち一人ひとりは神の子であるということ。そしてそれは、お母さんである神さまの子どもであるということですよね。それを改めて思い起こしたいと思います。
この中で自分のお子さんを育てられたお母さんもたくさんおられると思いますし、わたしたち一人ひとりは皆、ほとんど全員がお母さんに育てられたわけですけれども、母親が子どもを育てるのに一体どれほどのエネルギーと力を注いで一人ひとりの子どもを育てるのかですね。特に小さい時にはお乳をあげたり、おしめを替えたりするところから、ご飯を作ったり洗濯したり、子どもを育てるのにどれだけ母親が苦労するのか、それは本当に信じられないくらいの、でもそのような恵みを受けて一人ひとりの子どもは大きくなっていくわけですよね。神さまがどれほどの心をもってわたしたち一人ひとりを養い育てているのかということ、それを改めてしっかりと思い起こしたいと思います。
でも子どもがいたら、だいたい一人っ子以外はそうですが、ごくごく些細なことで子供同士で喧嘩になって、クリスマスケーキがどっちが大きいか小さいかとか、どっちが得したとかそういうことで子どもはすぐ兄弟喧嘩になってしまうわけです。でも兄弟喧嘩をする時にやはり親は、母親も父親もどれほど心を痛めておられるかということ、それもちょっと思い起こしてもいいんじゃないかと思います。小さなうちだけ喧嘩しているならともかく、大きくなっても喧嘩して、もっと大きくなって父親と母親が亡くなった後に遺産相続で兄弟同士で喧嘩する人たちも少なからずいます。でもそうやって兄弟喧嘩をしていることを見ている親の心を考えた時に、やはり兄弟喧嘩をする愚かさみたいなものは、わたしたちはやはり心に刻んでおかなければならないでしょう。
今日の第2朗読なんですが、ガラテアの教会への手紙でも、「あなたがたは奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人」だと最後にあるんですね。相続人ということは神の恵みをいただく相続人、神の子どもであるということは神さまの恵みの全ていただく者だということですよね。それをやはり思い起こしたいと思います。神さまの子どもであるということは結局、神さまそのものが母親であるならば、わたしたち全人類が皆、神の子どもであるということだと思いますね。一人ひとりが積み重なれば全人類が皆、神の子であるということですよね。それをわたしたちは思い起こしたいと思います。みんなが神の子であって、みんな神さまの子どもだからこそ、わたしたちは仲良くしていくことが心にもっと落ちるんじゃないかと思いますね。
小さな子どもが兄弟喧嘩するように、未だに地球上に住んでいる人類は民族の違いとか国の違いとか、神さまから見たら小さなことで依然として小さな喧嘩を続けているわけですよね。それは本当に残念なことだと思います。領土にしても、どっちの国のものかと言っても結局神さまのものなんですが、自分のものだと言って、クリスマスケーキがどっちが大きいかで喧嘩しているのと本質的には全く同じだと思いますね。みんな神さまの子どもであって、神さまの相続人であって、神からいただいているのに自分のものだとかお前にはやれないと言って、遺産相続の喧嘩から領土の喧嘩まであるわけですね。
コロナウイルスのパンデミックが起きて、どれほど人類が1つであるかということがものすごく明らかになったと思います。わたしたちは皆、神の子どもで繋がっているんだということですけれども、本当に一番残念なことは、パンデミックが起きてワクチン接種をするのは先進諸国の人たちだけなんですよね。第三世界の人々とかほとんどワクチンが行っていないわけで、先進諸国の人ばっかり2回3回、イスラエルは4回目を打っているとかいうことになってしまって、分かち合いの気持ちが足らないんじゃないか。いつまでもこんなことをやっていると、永遠にパンデミックそのものは収まらないというんですかね。変異株がどんどん出てくるのは第三世界ですから、そこから次から次へと新しい株が来て、結局何も収まることができない。これもわたしたちが兄弟として分かち合いができていないということの1つの大きなしるしだと思いますね。
本当はすべての人類が神の子どもとして平等に分かち合っていく中でこそ、パンデミックは終わるでしょうし、平和も訪れるでしょう。自分たちだけがと思っているところでは結局何の解決も見ないということがわたしたちの実際の姿だと思いますね。そのことをお母さんである神さまは心を痛めているんじゃないかと思います。人間同士が助け合えばもっと解決することが多々あるのに、自分たちだけ、自分たちのグループだけ良ければいいという気持ちから人間は抜けられないので、みんな平等な神の子であるということの気持ちをどうしても持てないんですよね。それがやはりわたしたちの、今の人類の限界とも言えるでしょう。だから本当に小さな子どもが兄弟喧嘩しているのと、わたしたちはレベル的には全く変わっていないということだと思います。なかなか大人になれないということでしょうけれどね。それは本当にわたしたちが神の子どもであるという自覚を持っていけるかどうかということですね。
2022年になりました。様々な困難がこれからも来るかもしれない。地震のこととか、ヨーロッパでも軍事的な緊張が高まっていますし、中国とその周辺諸国でも緊張がさらに高まる可能性もなきにしもあらず、それほど楽観視できない年だという気がします。わたしたちが本当に宗教、民族、国を越えて神の子であるという自覚を持ちながら、わたしたちが神の子どもとして兄弟喧嘩をやめて互いに仲良くしていく道を、持っている者が持っていない者に分かち合うような気持ちがない限り、わたしたちに本当の平和は、あるいは神さまが、マリアさまが本当に喜んでくださる社会になかなかならないという気がします。でも、わたしたちは神の子となる恵みがはっきりと与えられているわけですから、そしてマリアさまのご加護もわたしたちは信じている。その神さまの親心をわたしたちがもっと思い起こすことによって、互いの分かち合いと互いの赦し合い、平和を求めていく道を見つけていけたらいいと思います。
今日は皆さんのたくさんの願いもここに捧げられていますし、ネットでミサに与っている方々も新年に当たり様々な願いや希望があるでしょう。それら全てを神さまに捧げましょう。そして神さまはわたしたちの本当のお父さんであり、お母さんでありますから、それら全て叶えたいと思っているのは間違いないと思いますね。でもそれはわたしたちが神の子として、兄弟姉妹として歩んでいくならば、さらにそれは実現していくんじゃないかと思いますね。平和への願いをわたしたちの1年の初めの願いとして、神の子としてわたしたちが心を合わせて平和と分かち合い、和解と本当のパンデミックからの解放、それら全てを願いながらこのミサを捧げましょう。神の子としてこの1年わたしたちが本当に歩めるように、心を合わせて、力を合わせて歩んでいく。その願いを共に捧げて、この1年を始めたいと思います。