トップページ おしらせ ライブ配信2022年2月の説教

2022年2月 ミサ説教




2022年1月 | 2022年3月


年間第8主日

李 聖一 神父

2/27(日)10:00- 年間第8主日(手話、一部字幕付き)


 今日の第1朗読、そして今読んだ福音朗読に1つ共通するのは、わたしたちの口から出る言葉というものが、どれほどいろんな意味で影響を及ぼすものであるか、ということを指摘しているように思います。イエスご自身は、人を汚すのは外から入るものではなくて、人の中から出るものが人を汚す、というふうにも言っておられます。わたしたちの心のうちから出てくる言葉、これが人を傷つけもし、そしてまた逆に勇気づけるものにもなっていく。わたしたちが毎日毎日語っている言葉というものが、時には恐ろしい武器になり、時には優しさ、慰めをもたらす道具ともなる。そうしたことをわたしたちは常に経験しているし、今までもそのような体験を何度もしてきていると思います。人の世界というものをより良いものにしていくのか、より悪いものにしていくのか、それもまた人の言葉によるということも事実ではないか。そんな思いがしております。


 今日この日曜日は、普段ならば四旬節を前にして3日間カーニバルが行われる時期であります。コロナのゆえにそんな大騒ぎをすることも控えなくてはいけないだろうし、世界の情勢を見るとそんな気持ちにもならない。カーニバルというのは「肉よ、さようなら」という意味ですが、四旬節を前にしてひと時楽しみ、そして四旬節を迎えてわたしたちがキリストの受難、死、復活、そうしたことを思い起こしながらも、わたしたち自身の信仰というものが一体何なのかを再確認していくために過ごす四旬節。それを迎えていく。そのような雰囲気であるはずです。


しかし、残念ながら今わたしたちの心に何か深く思わされるのは、やはりウクライナのことであり、そのウクライナへの侵略というか侵攻というか、それを決断したロシアの大統領のことです。ウクライナに侵攻する決断をした時から世界中の人々は、これがどれほどの暴挙であるかということを思いました。そして政治に携わる多くの人々も、これは大変なことになると思っています。教皇さまはすぐに全ての人々に語りかけ、この事態がすぐに収まるように、広がらないように、そしてそのために四旬節を迎えるカトリック信者は断食をもって祈りましょう、そういう呼びかけをなさいました。

主聖堂の祭壇前に捧げられた花

 わたしは1955年生まれなので、戦争というものを知りません。しかし、ずっと子どもの頃から日本で学んできたのは、物事を解決するために武力を手段としては使わない。このことを日本は日本国憲法によって誓います。そういうことを子どもの頃から学んできました。そして現代世界にあって、この武力によって物事を解決しないという、このある意味で誓いというのは、日本だけのものではなくて、全世界のものだと思います。しかし残念ながらあの第二次世界大戦が終わった後も、いろんなところでそうした武力による解決方法を選ぶということが何度も繰り返されてきました。しかし今回の出来事は、もしかしたら第三次世界大戦を引き起こす可能性もあるというようなことも指摘されています。確かに考えてみれば、ただただ今、ロシアとウクライナの間だけの問題だけではすまなくなるかもしれない。そんなことも予測されます。決してそんなことになってはならないし、ロシアにはロシアの言い分があり、ウクライナにはウクライナの言い分があるんでしょうけれども、武力による解決は決して行ってはならない。これがわたしたち平和を求める者の一番根本的なことだろうと思います。


 残念ながら人類の歴史はそのことで何度も何度も誤りを犯してきました。何度経験しても残念ながら繰り返してしまう、ということをわたしたちは経験しています。どこかで止めなければならないということでしょう。それはある意味でわたしたちにとって、じゃあ、あなたがたに何ができるんですか、という問いかけになってわたしたちの元に返ってきます。わたしたちに一体何ができるだろうか。そこで言葉というのはある意味でわたしたちを勇気づけもするということを言いましたけれども、言葉の使い方によって、この場合祈ることしかできないというふうに思えば、何か無力感のうちにあって、それしかできないという思いになるかもしれませんが、祈りはできるというふうに言えば、何か本当に今求めていることに期待し、望み、そしてそれを実現していくための力とする。そういう意味になっていきます。祈ることしかできない、ではなくて、祈ることはできる。これをわたしたちの心のうちに留めておきながら、そして祈る。それをわたしたちは、世界中でその祈りを集めて、神様に、そしてロシアとウクライナの当事者に届けなければならないだろうと思います。四旬節を前にして、わたしたちは、わたしたちの信仰が何であるかをもう一度確認するわけですけれども、この祈りと共にわたしたちの信仰をより一層確かなものにしていけるように、ご一緒にお祈りいたしましょう。

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年間第7主日

柴田 潔 神父

2/20(日)10:00- 年間第7主日(一部字幕付き)


 今日の福音から2つのお話をいたします。1つ目は私の住宅会社の営業マンでの体験です。

2022年2月20日10時ミサの様子(年間第7主日・司式:柴田神父)

 12年間、営業マンをしていましたが、中には気難しくてどう関わったらいいか、悩むお客様もおられました。ある方は打ち合わせの途中で、座卓を蹴り出したり、罵声を浴びせられたり・・・普通の方は、穏やかに打ち合わせが続くのですが、この方の場合は特別で、毎回何が起きるかビクビクしていました。そうこうするうちに、100坪の2世帯住宅は完成し、お引き渡しの日が近づきます。ところが「数千万円の残金は建物の出来を見てから支払うかどうか決める」と言われます。これには本当に困って悩みました。「今から営業マンの自分にできることは何だろうか?」考えるうちに「掃除を徹底的にしよう!」と思いつきます。もちろん、業者さんのクリーニングはすでに済んでいますが、より綺麗に、食器などもそのまま入れられるまで、綺麗にしよう、と思い立ちます。仕事が終わってから夜8時から12時まで、翌朝5時から8時まで。掃除道具を持って、汗を流しながら、床を拭いて、ガラスを拭いて、食器棚の中も拭いて・・・。引越されてから、ご家族が楽しく、末長く健康に過ごせるように、願いながら掃除を続けました。これで、残金の数千万円がいただける可能性が高くなっているかはわかりません。でも、自分としてはやり切った、という気持ちにはなれました。

 そして、お引き渡しの当日が来ました。「ご主人様の態度はどうなんだろう?」とても心配でした。ところが、終始上機嫌でした。残金の小切手もいただきました。それだけでなく「柴田さんにお願いしてよかった。いろんな業者がいるけど、だまされるんじゃないかと心配していた。でも立派な家ができて本当によかった。知り合いで家を建てる人がいたら、ぜひ柴田さんを紹介したい。」とまで言ってくださいました。こんなお言葉をいただけるとは思ってもみなかったので、心にしみました。机を蹴飛ばしたりしていたお客様がどう変わったのか? 私にはわかりません。大事なことは、お客様がしてもらったら喜ばれることを最後までしよう、という気持ちだったと思います。 後日談ですが、イエズス会に入る前、ご主人様にお別れの挨拶に行きました。すると笑いながら「柴田さんにはその方が向いている。頑張ってください。」と励ましてくださいました。静岡の聖光学院のご出身でカトリックのことをよくご存知の方でした。苦しいこともありましたが、貴重な体験をさせてもらいました。


 2つ目は、小さき花のテレジアのお話です。今日の福音の中身を、テレジアは修道生活の小さな出来事で実践していました。

2022年2月20日10時ミサの様子(年間第7主日・司式:柴田神父)
  1. テレーズは、修道院の中で、人付き合いが難しく、トラブルを起こす人に、親切な態度で近づき、その人の方は親友と思わせるほど、親しく関わりました。
  2. 黙っていたいときに、相手に一言親切な言葉をかけたり、ほほえんでいました。一人、ポツンと座っているシスターのそばにそっと座りました。

フランシス・ホーガン著・山口カルメル会訳「テレーズ その生涯における苦しみと祈り」(女子パウロ会、1998年) などから。一部表現を変えています。


 テレジアは、このような小さな機会でイエス様を喜ばせました。そしてこのような行いは、世界の征服や雄々しく忍んだ殉教にもまさる、と彼女は考えて実践していました。そしてこのような機会を、ただの自己犠牲ではなく、神との一致の手段にしました。

 今日は、私の住宅会社での体験と小さき花のテレジアの体験をご紹介しました。どちらも身近な出来事、生活の中での出来事です。私たちも、毎日の生活、仕事の中で「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしていける」そのような一週間にしてまいりましょう。


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年間第6主日

英 隆一朗 神父

2/13(日)10:00- 年間第6主日(手話、一部字幕付き)


主聖堂外観十字架と青空、ちょっと雪

 今日の福音書はルカ6章に当たるところですね。「平地の説教」と呼ばれるところの冒頭の部分です。4つの貧しい人々と4つの富んでいる人々に対して、イエスさまが普通とは逆の評価をされる、非常に印象的なところになっています。貧しい人々と富んでいる人と、違う立場についてお話をしているようにももちろん受け取れるんですけれども、1人の人間が貧しい時と富んでいる時、あるいは泣いている時、笑っている時、1人の人の人生の中にも変化があるというか、良い時と悪い時と、何かそれを語っているようにも受け取ることができるんじゃないかと思いますね。そして調子の悪い時、泣いている時にわたしたちがどういう態度をとるのか、あるいは笑っている時にどういう態度を取るのかということをしっかり見直す1つの福音のメッセージだと思うんです。

 皆さんもご存じの中国のことわざで、そのように考えたら似ているんですけど、「人間万事塞翁が馬」というお話と合わせて考えてみたらどうかなと思います。塞翁という、塞にいた翁というか、おじいさんに非常に立派な馬がいたわけですが、馬が逃げてしまったので周りの人が、馬がいなくなってかわいそうにと。でも本人は、これが何か幸運の種になるかもしれないというわけですよね。そうしたら実際その馬が帰って来て、もっと素晴らしい馬を何頭も連れて来た。それでみんなが喜んで、良かった良かったと。でも塞翁は、これが不幸の種になるかもしれないというわけです。案の定、息子さんがその名馬に乗っている時に、転んで怪我をして足の骨を折ってしまった。それでみんなは、かわいそうに、せっかく馬が来たのにこんな不幸なことが、と。でもまた塞翁が言うんですよね。いや、これが何か幸運につながるかもしれない。それで隣の国の、胡という国だったかと戦争になってしまって、若者がどんどん出ていって戦争に負けてしまって、ほとんど戦死してしまう。でも塞翁の息子だけは足に怪我していたから戦争に行けなかった。それで結局生き残ることができたという、「人間万事塞翁が馬」という有名な中国のことわざです。何が良いとか何が悪いとか、どう決められるのか。それはわたしたちがやはりよく見なければならないことでしょう。


 今年はイグナチオ年でイグナチオの霊操を見ているんですが、実は同じようなことがあって、霊的識別というんですね。オンラインの霊操の方で見てもらったらいいと思いますが、すごく有名なものです。霊的識別の中の1つのポイントは、慰めと荒みをどう受け取るかということなんですね。やはり祈りがうまくいかない荒みの時もあるわけです。でも、神の恵みを感じる慰めの時もある。その荒みと慰めの時にどのような態度をとるのかという、霊操のものすごく重要なところなので、それは説教で全部喋れない。講座とかでしか詳しく説明できないんですが、ごくごく簡単に言えばこうなんですよ。わたしたちの人生には慰めと荒みが繰り返されるということなんですね。非常に単純なことですが、多くの人は荒みの時に、もうこれはだめだとか、神様は自分を見捨てたとか、がっかりしてしまう。慰めの時には、神さま感謝とか何とか言っているけれども、結局、その繰り返しをどうわたしたちが受け止めていくかということが、信仰生活の一番大事なところだというんですよね。荒みの時は、「貧しい人々は幸いである」。何でかと言ったら、うまくいかない時にこそ神さまの計らいを一生懸命考えるからですよね。神さまは一体何を自分に伝えようとしているのか、どういうところを反省して、どこに神の恵みがあるのか。それをよく振り返ったり黙想したりするわけです。だから神の国があなたがたのところに来るんですよ。そうでもないと、うまくいっていたら何も考えないで結局過ごしてしまう。

主聖堂ステンドグラス「星と月」

 逆に霊操の中で言うんです。慰めの時はどうするのか。慰めの時は謙虚になれというんですね。つまり、それは神さまの恵みでいただいているものなんだから、それで有頂天になってしまって、こんなにいいものがあるから、自分の信仰がどうとか、それは神さまからたまたまいただいたものだから謙遜になれというんですよね。謙遜にならなかったら、満腹している時にそのこと自身が不幸になってしまう。そしてイグナチオは言うんですよ。慰めの時は謙遜になって、プラス次の荒みに備えなさいと。次にうまくいかなくなった時にどうするかを今からしっかり準備しておけというんですね。だからこうなんです。「満腹している人々は不幸だ、あなたがたは飢えるようになる」。満腹している時は、次は飢えてくるわけです。「笑っている人々は不幸である、次には悲しみが来るから」。だけどもそれは来るんですよ。それをしっかり心を整えて、神さまと一緒に次の困難をどれだけちゃんと準備をして、うまくいくからといって有頂天になって鼻が3センチも4センチも伸ばして、自分は立派だと言っていたら、ボーンと落ちてしまうわけですよね。その時こそ謙遜になって、困難な時に自分はどのようにしようかということをしっかり準備しておけというふうに、霊操の中に450年前に書いてあるんです。それをわたしたちがしっかり受け止めるだけで、わたしたちはもっと振り回されない信仰生活が歩めるということなんですね。

 荒みの時、たとえば飢えてる時、泣いている時にどうするかといったら、次の慰めが来るから前向きに行けというんです。その今の不幸に捉われているんじゃなくて、先に向かって、次の慰めに向かって希望をもってしっかり歩んで行けっていうんですよね。そうならば飢えてるけど満たされるようになるでしょう。泣いてるけど笑えるようになる。その人間の主体性と積極性をもっていくならば、慰めであろうが荒みであろうが、わたしたちは信仰をいつも歩んでいけるしっかりとした道筋があるということなんですね。わたしたちは神さまから愛されて守られてるわけですから、良くても悪くてもわたしたちは神さまと共に、謙遜のうちに、希望のうちに神さまを見出しながら歩んでいけるということです。それをわたしたちは心がけていきましょう。結局私たちの心の置き所の問題ですよ。実際のところは。良い時も悪い時もありますが、神さまにどう心を置いてわたしたちは歩んでいけるかということなんですよね。


主聖堂の折り鶴とマリア様像

 もうご存じの方も多いですけど、関西の方に異動になって行くんですが、20年くらい前に釜ヶ崎で働いていて、その時のことを思い出したんです。その時はわりとホームレスとか日雇い労働者とか、そういう人たちと関わっていて、野宿している人たちを助けて生活保護とか手伝っていた時がありました。簡易宿泊所、通称ドヤと呼ばれるところが生活保護のアパートにその当時は変わっていて、そこに野宿している人が入っていたんです。大きなビルで、同じ簡易宿泊所に入った2人の人に訪問に行ったんですが、1人目の人のところに行ったら、男性ですけどずっと泣いているんですよ。昔、自分は鳶という、建築労働者ではわりと位の高い仕事をしていて、過去にこうやって頑張っていてこうだったとか、でもこんなに落ちぶれて、自分はもう何も仕事ができなくてと言って、せっかく生活保護取ったのに本当に涙ながらに、「もう俺の人生だめや」ということを言ってるわけですよね。まあまあといって慰めてたんですけど、同じ建物に同じ日に入ったもう1人の人は、部屋のサイズはほとんど同じ、3畳の小さな部屋ですが、その人のところに行ったら大喜びで「畳の上で寝れるんや」と言ってるわけです。小さな作り付けの冷蔵庫とテレビも置いてあって、テレビもあるんやで、冷蔵庫もあるんだと目がキラキラ輝いて「おおきに、おおきに」と言ってものすごく喜んでいるんですよ。2人とも野宿上がりで、ほぼ同じ部屋で、1人はがっかりしてずっと泣いてて、1人は大喜びで「ほんまにありがとう」と言ってるんですよね。外枠は全く同じなのに、客観的には全く同じところに住んでるのに、1人はものすごく悲しんでて、もう1人は大喜びなんですよ。僕は本当に思います。人間の受け取り方。どういう状況になって、それをどう受け取るか。人間の心の置き方で、幸せ、不幸せがガラッと違うと、びっくりするくらい。それが同じ建物の人に訪問した時だったから、余計に印象に残っているんですけどね。


 わたしたちはただ単に状況を受け止めるだけじゃなくて、その上でさらに神さまの計らいを見ながら生きているわけですよね。良い時もあれば悪い時も当然ありますけど、そこにわたしたちがちゃんと神の計らいと導きを見出すなら、全然がっかりする必要性なしということですよ。逆にぬか喜びすることもない。俺はこんなに偉いんやで、みたいに威張る必要もまったくなし。神の恵みの中で、謙遜に、わたしたちはいつでも幸せに歩んでいくことができるということです。コロナが明けようがコロナ中であろうが、その時に合わせてわたしたちは神さまと共に生きていく恵みがあるということですよね。それを心に刻みましょう。だからイエスさまはこのあとはっきり「貧しい人々は幸いだ」、「神の国はあなたがたのものだ」と、その貧しい人の心の受け取り方で神の国を受け取れるか、受け取れないかが決まるわけですよね。わたしたちは実際、神の前ではみんな貧しいんですよ。実際の人間の差なんて大したことないんですよ。時々天才的な藤井聡太みたいな人もいますけど、普通はちょぼちょぼ。みんなだいたい神の恵みなしには生きられない貧しい者ですよ。それを認めて、神の恵みの中で歩んでいけるように、神さまに恵みを願いたいと思います。


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年間第5主日

ハビエル・ガラルダ 神父

2/6(日)10:00- 年間第5主日(手話、一部字幕付き)


主聖堂ステンドグラス「魚と網」

 まず福音について少し考えましょう。これは魚の奇跡ですね。3つの大奇跡の1つです。魚の奇跡、パンの奇跡、ぶどう酒の奇跡。この3つは大奇跡とされています。なぜかというと、預言者たちが書いたように、メシアが現れる時にこの3つの特徴が表れるでしょう。これから言う3つの特徴は、この3つの奇跡に表れるので大事な奇跡です。その3つの特徴は豊かさ、つまり物理的なものが有り余るということは神の愛も溢れ出るということを知らせています。それから差し替え。前のより新しいものに差し替える。そして改善。前のものに勝る。この3つの特徴を見てみましょう。


 まず豊かさ。この3つの奇跡に明らかに出てますね。魚は舟が沈みそうになったんです。そしてパンは5000人がいっぱい食べて満腹してからまだたくさん余りました。そしてぶどう酒は6つの水がめがあって、それをいっぱいにしてぶどう酒にしたので、いくら飲んでもなくならない。豊かさ、それは神の愛を表している豊かさ。メシアが来る時にはそうなるんです。2番目の特徴は差し替えですね。前のものを新しくする。ぶどう酒の奇跡は水でしたね。体を清めるための水をワインにする。心を清める神の愛がワインにするんです。差し替える。そしてパンの奇跡。モーセはエジプトから出て砂漠でマンナを食べさせましたね。マンナの代わりに差し替えて命のパン。そして魚の時には、「あなたは魚をとる漁師ではなくて人間をとる漁師にする。」差し替えるんです。3番目の特徴は改善ですね。ぶどう酒は前のぶどう酒より良かったと管理人が言ってましたね。そしてパンというのは、ユダヤ人たちも言っていた「このパンをいつまでも与えてください」と。命のパンはマンナより勝る。前に勝るのです。そして人間をとることは魚をとることよりも勝ることです。豊かさ、差し替え、改善。このことを表す3つの奇跡です。

 その奇跡を見た弟子たちは、本当にイエス・キリストを信じて従ったんです。その時までは先生として弟子になっていたんです。これは今の福音に明らかに出ています。よろしければ見てください。5節でペトロはイエスさまに「先生」と呼びますね。先生、わたしは夜通しで働いていましたと。先生。それから奇跡が行われて、同じペトロはイエスさまに向かって「主よ」と言うんですね。「主」は先生だけではなくて、メシア、神の子ですね。そのうち信じて従った。こういうこともありますので一応ご参考のため。


 でもこれだけだったら、今日は「なるほど、なるほど」と言って頭が熱くなって足が冷えることになるかもしれませんので、もう1つ、もっと身近なことを考えましょう。それは第2朗読の聖パウロの言葉、罪と回心について考えましょう。パウロは認めるんです。「わたしは教会を迫害しました。」だから謙遜になりました。他の弟子よりもっとも小さなものです。ところが反動して、挽回して多く働きました。謙遜になって、そして挽回する。これがパウロですね。ではわたしたちのことを考えましょう。わたしたちも悪いことをした時もあるでしょう。罪をおかしたかもしれません。どういう罪かと言うと、人に傷をつけたかもしれません。深い傷をつけたかもしれません。あるいはまた他の罪の質ですけれども、すべき良いことをしなかった。すべき善を行わないのは悪を行うことになります。善いサマリア人のたとえ話の1番目と2番目の人は、積極的には悪いことをしていません。ただ、すべきことをしなかったので問われました。わたしたちもこのような罪をおかしたかもしれません。

主聖堂の折り鶴 ミサに来られない人たちの代理として

 ではどうしましょう。罪と回心。回心のための悪い姿勢と良い姿勢を考えましょう。悪い姿勢というのはこういうことです。まず、忘れる。平気で忘れることです。これはわたしたちにはよくあることですね。人に本当に悪いことをしたかもしれませんが、ケロッと忘れます。遠藤周作が「沈黙」という作品で言う言葉ですね。本当の罪は人の人生を踏んで、自分が残した足跡を平気で忘れることです。これは罪。人の人生を踏んで深い傷をつけて、自分が残した足跡を平気で忘れることです。この態度をとったかもしれません。あるいはもう1つの態度は自己弁明。自己弁護的に自分の行動を正当化する。責任逃れで、人の責任にして。そういうことをする時もあります。あるいはもう1つの悪い姿勢は、罪悪感で落ち込むということです。過去の罪がすごい罪悪感になって落ち込んでしまって、進歩する、向上する上でのブレーキになる。過去に縛られる、成長できない、向上できない。それも良くない姿勢です。


 では、今度は良い姿勢を考えましょう。良い姿勢は、まず赦されたので感謝する。神に対しても人に対しても、何回も赦してくださったので、感謝して謙遜になる。感謝は謙遜を深めます。それから2番目は、赦された人にふさわしい行いをする。これは実は洗者ヨハネの言葉です。どういうふさわしい行いでしょうか。いっぱいありますけれども、まず赦されたので赦すことですね。恨みを育てない。その人のこと、その行い、そのことを考えないようにして忘れるようにする。忘れることができなければ、あまりにも深い傷だったので、あるいは未だにその人はわたしに悪いことをするので、忘れようと思っても忘れられない時もあります。その時にはその人のために祈ることはできます。これは赦された人にふさわしい行動です。それから人を裁かない。これはふさわしい行動です。謙遜になって人を裁かない。批判しない。心の中でも批判しない。その人の行いと言葉をなるべく良い方に解釈する。もう1つは、人が助かるために人に仕える。いっぱい良いことをするけども自己満足のためではなくて、おせっかいしないで、人が助かるために人に仕える。こういうふうにわたしたちは、罪をおかしたけれども挽回して、キリストに忠実に従うことにしましょう。これを願い求めましょう。

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