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2022年3月 ミサ説教





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四旬節第4主日

浦 善孝 神父

3/27(日)10:00- 四旬節第4主日


主聖堂 2022年3月27日 四旬節第4主日ミサ 浦神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエズス会の神父の浦と申します。2002年に独立した新しい国・東ティモールに、2012年に派遣され、新しい学校を造るプロジェクトに携わっています。学校の名前は、聖イグナチオ・デ・ロヨラ中学校高等学校といいます。今年、開講して10年目を迎えました。わたしも、東ティモールに赴任して丸10年になろうとしています。今、3ヶ月間の休暇をいただいて日本に一時帰国しています。4年か5年前、いちど聖イグナチオ教会で一緒にミサを捧げさせていただき、バザーのご寄付をわたしたちの学校にいただいたこともあります。皆さんの信者さんの個人やグループの方からもご支援をいただいております。この機会をいただいてお礼を申し上げたいと思います。また、ミサを日曜日に捧げる機会をいただいた英神父様にもお礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。


 学校については、教会の入り口にリーフレットを置かせていただきました。中に写真もありますので、ご覧いただければと思います。もし、わたしたちの学校を支えるために寄付をいただけるようでしたら、よろしくお願いいたします。

 今はウクライナのことで、すぐに対応しないといけないこともありますが、わたしは長くそこに戻っていますので、機会がありましたら、思い出して支援していただければと思います。


 東ティモールは、今年独立20周年を迎えたばかりの新しい国です。人口はわずか130万人、面積は岩手県と同じくらい。赤道より少し南の、パプア・ニューギニア島の西側にあります。16世紀からポルトガルの植民地で、第二次世界大戦中には日本軍が3年半占領しました。1975年にいちど独立宣言をしましたが、インドネシアに占領・併合されました。それから独立戦争が始まり、当時人口100万人いなかったのですが、そのうち20万人が死亡したり行方不明となりました。激しい独立戦争がありました。人々は、いま国際社会が認めてくれる、自分たちの独立国を樹立したことを喜んでいます。

 教育についていえば、南洋の小さな島国が、独立後、かつて占領していた国の言葉やカリキュラム、教科書を捨てて、自分たち独自のものを一から造り始めているところです。あわせて、テトゥン語の国語化とポルトガル語の公用語化をはじめ、インドネシア本国へ引き上げてしまった先生たちの代わりに、教員養成を一から始めました。そんな中、カトリック教会のイエズス会は独立紛争後の東ティモールの復興を教育をもって応えるために、新しい中学校と高校を設立することになりました。


 今、ロシアの攻撃によって、戦禍にみまわれているウクライナを見て、非常に残念に思います。わたしは、かつて東ティモールの人々が経験したような独立の紛争は、たぶん最後になるだろうと思っていました。ウクライナも戦争が終われば、悲惨な経験した後に、もう一度国を再建しなければなりません。日本のわたしたちも、広島や長崎、多くの人々が戦争で亡くなったことを経験し、そのことを知っています。

 東ティモールは、新しい国を造り始めたとき、戦争の悲惨さや人を恨む・憎むことを忘れることから始めました。

戦争は、それまで培ってきたものを破壊して、逃げることのできない悲しみ・憎しみ・恨みを経験し、戦争が終わるとその悲しみや恨み・憎しみを忘れ、互いに赦すことから始めなければなりません。もし、戦争の方棒を担がされて加害者になって、人を傷つけてしまったら、その人はそのことを後悔して、被害者に許しを請うことから始めなければいけません。東ティモールは今、そういう過程にありますが、その中で、教育は希望になっています。

主聖堂 2022年3月27日 四旬節第4主日ミサ 浦神父と英神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 わたしが住んでいる村の公立学校の校長先生は、「独立戦争のとき、道徳で教えていたことが全部『無』になってしまった」と何度もわたしに話しました。信者が多い国で、「人を殺してはならない」ということは習って知っていて口で言っているのに、戦争が始まったら、信仰ある人も戦争に加担してしまった。同じ民族で、独立したい人とインドネシアを支持する人に分かれて殺戮を繰り返したと言っています。だから、そんな戦いをすれば、悲しみだけでなく、喪失感、無念さ、虚脱感、人間としての敗北感も味わったそうです。だから今、その校長先生は、「東ティモールで、道徳を教えることができる人がだれもいないので、神父さんの学校では道徳をきちんと教えてほしい」と話します。


 わたしは、東ティモールのような戦争は終わると思っていましたが、まだ続く。国際社会が、わたしたちが知っているように、人権教育や平和教育をしますが、ウクライナの戦争で無に帰してしまいました。わたしたちが築いてきた繁栄や豊かな生活を享受できるということも、全部壊してしまう。東ティモールでは、互いに理解し合い、赦して和解し、そして信頼し愛し合うことができることを喜んでいます。だから、知らない人も、「友だち」と呼びかけて、親しくなって話をしています。それが嬉しいんだと思います。


 わたしたちの聖イグナチオ学院という学校は、戦争、死、悲惨さ、貧困に教育をもって応えるため、「学びたい全ての子どもたちが、貧富の隔たりなく学べるきちんとした学校」を造ることを目指しています。昔、旧植民地で独立した国は、カトリックの私立学校ができると、旧来の有力者の子どもたちや、新興富裕層の子弟だけが通える有名カトリック校になってしまう。だから、そうならないように、貧富の隔たりなく、貧しい家庭の子どもたちも通える学校を造ろうとしています。
 貧しい家庭からの子どもたちには、奨学金を支給し、洋服や鞄、靴も買ってあげていますし、交通費も補助し、わたしたちの学校に通えるように配慮しています。入試の成績が悪くても合格にしています。今まで良い教育が受けられなかったから成績が悪いので、良い学校に来て良い教育を受ければ成績も良くなるだろうと考えています。10年たって振り返ってみると、実際にそのとおりになります。

 わたしたちの中学・高校には830人くらい生徒がいますが、そのうち100人は極貧の家庭から通ってくる学生です。8人に1人は学費を払わず、就学補助をもらい、わたしたちの学校に通ってきます。旧来の有力者や新興富裕層の子弟だけが通える学校だったら、良い教育へのアクセスの不公平が生じ、低所得層を固定化してしまいます。政治経済における権力ある人々が子どもに良い教育を与えて、その社会制度を、カトリック学校がもう一度造るのを手伝うことになってしまう。
 実際に、貧しい家庭の生徒と、東ティモールは豊かな家庭はないが、相対的に豊かな家庭の生徒が、共にわたしたちの学校で学んでいますが、そのためには奨学金の原資となる資金が必要で、その大部分をわたしが日本の方々にお願いしていただいたご寄付でまかなっています。私学なので、収支のバランスをとるように言われています。タダで来ていいよと言えない現実がある。  
相対的に豊かな家庭から来ている生徒が、貧しい家庭の生徒たちを学校が世話していることを見て、どう思うか。共に学校で勉強し、活動し、友情を育んだら、130万人の小さい国ですから、将来彼らは必ず交わると思いますが、彼らがどういう社会を作っていくか、今楽しみにしているところです。


 みなさん、日本には外国から宣教師が派遣され、たとえば聖イグナチオ教会や上智大学など、教会や大学の基礎を宣教師の方々が造ってくださいました。しかし、日本は海外に宣教師を派遣したことがあまりありません。終戦後も日本に宣教師の神父やシスターが派遣されて、戦後の復興と、学校や病院を造ってくださいましたが、宣教師を派遣した国からの継続的な援助と一緒にできていきました。いま、日本は豊かな国になりましたが、海外に宣教に出かけて、プロジェクトを長く支援し、たとえばカトリック学校を造った経験がなかったと思います。ウクライナの戦争や自然災害もたびたびあって、緊急を要する援助もあります。継続的に援助を必要としている場所もあります。


主聖堂 2022年3月27日 四旬節第4主日ミサ 聖体拝領 浦神父と英神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の聖書で、「下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」とあります。「遠い国に旅立ち」というのは、「天の父のもとから離れて」とか「神様を忘れた生き方」をすることを指していると思います。そんなとき、人は放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまいます。わたしたちの信仰は真理として、自分たちが理解し知っている神様を言葉で説明し、「神様を信じている」と言葉で宣言することだけではなく、行いで示す必要もあります。

 一方で、カテキズムを勉強する以前に、良いことを行うことによって、その後に神様がどんな方であるか理解できて、言葉で説明できて、信仰を宣言できるようになることもあります。

 放蕩息子がこう言います。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。

 わたしたちの神様への信仰は、全人格的、実存的な、自分自身を神様へ明け渡してしまうような自己譲渡だと思います。自分たちの存在を、神様の実在に一致して重ね合わせることで憩うことができると思います。信じていることが、知っていることが、行動で表現されたとき、わたしたちの信仰はビリーフ・信念になります。聖書の意味が分かるということは、その理解が行動となり希望を感じることができる。そういうことだと思います。そしてわたしたちは、クリスチャンとなっていくことができます。

 今日の答唱詩編で「主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。心を合わせて主をあがめ、ともにその名をたたえよう」という言葉があります。

 わたしたちは神様を信じてクリスチャンになって、腹の底から神様を賛美して、生きた信仰を感じることができればいいと思います。わたしたちは、人を幸せにするために手伝ったら、わたしたち自身も幸せになって良い人になることができます。そして、皆さんのおかげでだれかが幸せになったら、その人たちは皆さんに感謝します。わたしは日本で多くの方が支援してくださって、支援してくださったものをあげて分けていますが、必ず喜んで感謝をします。それがだれからいただいた幸せか喜びかわからないけど、今の自分の幸せというのはだれかが与えてくれたことを知っています。

 今日は、ミサの中で皆さまのうえにも神様の豊かな祝福があるように、共に祈りたいと思います。

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四旬節第3主日

ハビエル・ガラルダ神父

3/20(日)10:00- 四旬節第3主日


 今日の第1の朗読は大事ですね。かの有名な柴の箇所、イエスの名前。名前は本質ですね。名前を教えてください。わたしの名前はヤハウェ、すなわち「わたしはある」という神秘です。また福音の前半も大事ですね。災いと災難と不幸は罪の結果ではないんです。罪の罰ではないんです。このコロナウイルスは罪の罰ではないんです。でも、この2つのことについて話す時間がないので、ただ福音の後半である園丁のたとえ話についてご一緒に考えてみたいと思います。


主聖堂 平和の挨拶のイエス様像とステンドグラス「葡萄」 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 きれいなたとえ話ですね。ある主人はイチジクの木を植えて、そして実を探しに来るけどなかなかないんです。だから、3年間もの間実を結ばないで、土地をふさいでおくのか。切り倒せというんです。当然ですね。そこで園丁は言います。園丁は毎日やっているんですね。主人は時々実を探しに来るけれども、園丁は毎日世話して、触って、愛しているので、もう1年待ってください。その間わたしは肥やしをやってみて、木の周りを掘っておくから、多分来年は実がなるかもしれません、と言うんですね。つまりこの園丁は何をしたかというと、その木を大切にしているので、その木を信じて、そして忍耐に忍耐を重ねて待ち望んでいるんですね。それだけではなくて、助ける。周りを掘っておいて、肥やしをやってあげる。そういうふうに待ち望んでいます。

 園丁はイエス・キリストで、わたしたちはその木ですね。実らない木です。いくら待っても、悪い子ではないけどあまり実はないんですね。それで「切り倒せ」と。ところが園丁であるイエス・キリストはわたしたちを愛して、わたしたちを信じて、わたしたちを忍耐をもって待ち望んで、そして助けてくださるんです。ただ待っているだけではなくて助けてくださる。肥やしをやって、掘って。こういうふうにわたしたちがしていただいたので、今ここにいるのですね。ですからイエス・キリストに感謝して、いつも弁護者になってくださってありがとう。


 ところがイエス・キリストがおっしゃるんです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」つまり、わたしがあなたにしたことをあなたが他の人にしなさい、という課題を与えるんですね。感謝するんだったら、感謝する方法はこれです。あなたがいただいたことを他の人にする。他の人にするだけではなくて、この側面もあります。その人とあなたとの愛の絆を取り戻す、生かす。ありますね。家族の中でも、夫婦の中でも、友達の間でも、愛の絆があるけどだんだん弱くなって、もうほとんどなくなったみたいですね。それをもう一度取り戻すように、イエス・キリスト、園丁のようにしてください。その友達を愛し、その人を愛し、その人を信じて、その人を忍耐をもって、忍耐に忍耐を重ねて、待ち望んで、そして助ける。黙って見るだけではなくて、助けるんですね。肥やしをやって、周りを掘ってみて。そうすればなるかもしれません。


 ところが終わりの言葉が厳しい。「しかし、もしそれでもだめなら切り倒してください。」ですから、いつまでも待ってもいいということではないんですね。わたしたちはちょっと甘えていますね。神さまが良い方ですので、いつまでも待ってくださるので、まあいいか、それは甘いですね。もしそれでだめなら切り倒して。そうならないように頑張りましょう。この四旬節こそ、神に立ち戻って実を結ぶことにしましょう。神に立ち戻って、実を結ぶことを願い求めましょう。


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四旬節第2主日(子どもとともにささげるミサ)

ボニー・ジェームス神父

3/13(日)10:00- 四旬節第2主日(手話、字幕付き)


2022年3月13日 四旬節第2主日ミサ・侍者祝福式で子どもの侍者を祝福するボニー神父

 今日は、イエス様が山に登る話が出てきます。ちょっと珍しい話なんですけど、皆さん、山に登ったことのある人。たくさんいますね。ありがとうございます。

 山に登るときはちょっと難しいですね。ちょっときついですよね。わたしも山に登ったことがありまして、登るときはちょっときついんですけど、山の上に行ったとき、苦しさをちょっと忘れて、すごく心が楽になるような経験したことがあります。皆さんも、恐らくそのような経験をされたことがある人がいるでしょう。そのようにいい経験をされて、心がなぐさめられて、わたしたちが今度仕事に戻っていくんですね。


 今日、イエス様は弟子たちと一緒に山に登ります。山に登って、弟子たちもそこで不思議な体験をされます。
 簡単にまとめると、そこで神様の本当の姿と出会います。イエス様が神様ですね。いつも人間の形をして歩いていたんですけど、今回、山に登ったときだけ、本当の神様としての姿が現れた。これが今日の福音の中で、「服は真っ白に輝いた」とあります。
 でも、神様の姿ってみんな説明できないからね。言葉で説明できないから、「服が輝いた」と書いてあります。そういう不思議な体験をされるわけですね。それで、すごく癒された。
 弟子たちは、「ここはすばらしいところだから、ここに泊まりましょう」と。わたしたちも、とてもすばらしいところに行ったら、そこに泊まりたいところがありますよね。でも、山の上に登ったら泊まる場所ではないですよね。山の上で見て感動を受けて、そして下りていって、わたしたちの毎日の生活に挑む。それが普段なんですよね。


 弟子たちは、同じように山に登って、本当はそこに留まりたい。すばらしい経験をされたから。でも、そこに留まらなかった。今日はルカによる福音書ですが、同じできごとは、マタイや他の福音書にも記録されているんですね。そこを読んでみるとわかりますけど、イエス様が、弟子たちとすばらしい体験をしてから下りてきた。下りてきたということにも大きな意味があります。

 わたしたちはすばらしい経験をして、そこからなぐさめをうけて、そして下りてきて、ふつうの生活に戻るということなんですね。
 わたしたちもキリスト者として生きる中でも、このような体験をされるときがあります。それがどこかというと、御ミサです。御ミサというのは、本当に神様と出会うときです。小さなパンですね。それが司祭の聖変化のとき、祈りをもって、神様の御体と御血に変わっていくわけですね。イエス様がここでわたしたちと共にいてくださる。その瞬間なんですね。

 本当に弟子たちとほぼ同じような体験を、わたしたちも目撃するわけなんですね。毎回のミサのとき。そこですばらし経験をするわけなんですね。そこでわたしたちは、生きるインスピレーションというか力をいただいて、ミサが終わって派遣されて、毎日の生活に挑むことに戻っていくということなんですね。


 皆さん、ミサの終わりの祈り、司祭のいちばん最後の言葉を覚えていますか。「行きましょう、主の平和のうちに」ということなんですね。ミサに参加するということ自体は少し犠牲がありますね。ちょっと山登りなんですね。普段やっていること、たとえば仕事とか、あるいは他のさまざまな遊びとか、そういうことを少しできなくなるかもしれませんが、山登りをするわけですね。

 日曜日にミサに参加して。神様に会うために行く。それはある意味での山登りなんですね。ちょっときついですけど、そのミサの中でイエス様と出会いができる。そこで弟子たちと同じように心が変わって、すばらしい体験をして、わたしたちは発見されて、司祭の言葉は「行きましょう」なんですね。

 そのようにすばらしいミサについて、今日話をしたいと思いました。

 ミサというのは、わたしたちは毎日曜日、こうやって参加しますが、毎日参加すると何となくそれに慣れてきて、ということもありますね。でも、本当にミサに参加できない地域に住んでいる人たちもいるんですね。あるいはいろいろな理由でこの機会がない人たちもたくさんいます。

2022年3月13日 四旬節第2主日ミサ・子どもとともにささげるミサ ボニー神父

 1つの経験を分かち合いたいのは、わたしが勉強の関係でアフリカのケニアという国に行ってたんですね。そこのイエズス会の教会なんですけど、そこの日曜学校と少し関わる機会がありました。子どもたちが多いんですよ。日曜学校というのは、大きな教会で子どもたちが700人くらいいるんです。それの巡回教会があって、各教会にだいたい100人から150人くらい子どもたちがいて、5つの教会がある。

 1つの教会にわたしが1ヶ月くらいいたんですね。たくさんの子どもたちがいて、その子どもたちがみんな歩いてくるんですよ。山とか谷とかを越えて1時間とか2時間とか歩いて教会にやってくるんです。お父さん、お母さんと来て、神様の勉強をして。その人たちに「何で、そんな遠いところから日曜日に集まってくるのか」と聞いたら、みんな言うんですね。「主のはじめの日曜日、ミサに集まって神様と出会う経験、ご聖体をいただくことがわたしたちにとって生きがい。生きる希望になっている」と。そして、1週間働く。「わたしたちもそういうふうに育てられてきたので、子どもたちにも、そういうふうに教えたい」と言う親たちの何人もの話を聞いた。
 その人たちは、そういうふうに御ミサにあずかって力をいただいて、毎日の仕事に挑むということなんですね。

 御ミサというのは、わたしたちにとって大きな神体験ですね。あえて言うと、わたしたちが体験できる一番大きな神様体験と言ってもおおげさではないですね。わたしたちが簡単に見てしまうときもあるかもしれませんが、わたしたちはキリスト者としてイエス様と出会う機会なんですね。

 今日はこのミサの中で、参加されている一人ひとり、神様を体験する体験に招かれています。わたしたちはその恵みをいただいて、毎日の仕事に挑む。そういう感覚をもって、今日はこのミサに参加したいと思います。

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四旬節第1主日(洗礼志願式)

英 隆一朗 神父

3/6(日)10:00- 四旬節第1主日(手話、一部字幕付き)


 今日の福音書はルカの4章ですね。イエス様が、宣教活動を始める前に体験されたできごとですけど、40日間荒れ野で過ごされた。その40日間、荒れ野の中でサタンの誘惑を受 けて、それを退けられたという不思議なエピソードのところに当たっています。

 この前の水曜日から、わたしたちカトリックは四旬節に入りましたけど、まさしく四旬節というのはイエス様が荒れ野で40日間過ごされた、その体験にわたしたちもあずかって いくということを表しているというふうに思われます。


 そして、今日、洗礼志願を受けられる方々は、この40日間を、洗礼を受ける最後の準備の期間として歩んでいく。そのために、四旬節の最初で洗礼志願式が行われ、改めて自分の心を整えて洗礼に向かっていく、そういう準備をするときである、ということですね。そして、この四旬節、洗礼の準備の中で何が大切かというと、悪霊の誘惑を退けていくということですね。それをわたしたちは心がけなければならないことだと思います。

 悪霊というとおどろおどろしいですけど、でも、わたしたちを神さまから離していこうとする。このさまざまな力がわたちたちにも働いている。それをしっかり見極め、退けていくということですね。今日の洗礼志願式のもともとのですね、起こりは何かというと、実は悪魔祓いの式だったと言われていますね。洗礼式の前に悪魔祓いの式を行って、悪魔を祓ってから洗礼を受けるということなんですけど、そのために解放の祈り、共同祈願の最後のお祈りは悪魔祓いのお祈りなんですね。それが残っていて、油を注がれるのも、悪魔を祓う油を今日は塗るということになっています。

2022年3月6日 四旬節第1主日ミサ・洗礼志願式 英神父とステンドグラスの光

 わたしは流行りものが好きなので、昨年流行った「鬼滅の刃」とか今年流行った「呪術廻戦」とかチェックしてるんですけど、やっぱり、悪魔との戦いの話なんです、全部。悪い者、邪悪な者との戦いなんですが、両方ともアクション系で、激しい戦いをするんです。「鬼滅の刃」の方がやっぱりいいと思いますが、とにかく戦いなんです。

 でも、皆さんはああいう戦いをする必要性ないんですね。悪魔を退ける。イエス様の姿を見てもそうですが、戦っているわけじゃないんですよね。誘惑を受けているのを、イエス様がぱっと跳ねのけてるわけですよね。わたしたちは、このイエス様の態度に倣いながらということですね。


 1つの例を言うと、今年はイグナチオ年ということで、イグナチオのことを勉強したりすることもあるんですが、イグナチオは若いころは世俗な生き方に囚われてたと言いますか。国々の権力とか繁栄とか、出世とか人から注目を集めるとか。騎士として、兵士として、そのようなものを求めていたんですけど。戦争で負傷して挫折して寝たきりの生活。手術もするんですが、それは言わば彼にとっては、40日の荒れ野の日々のようだったというふうに言えるでしょう。
 その中で、たまたま『騎士物語』がなかったので、イエス様について書いてある本と、聖人伝しか、真面目な家なので、そういう本しかなかったので、それを読むうちに、彼の心の中に変化が出てきてですね。もともとは、出世とか戦争に勝つとか、そういうことばかり考えてたんですが、違う生き方、イエス様に仕える生き方が、どんどん彼の中で魅力的になってきて、それで結局、兵士に戻るのをやめて、宮廷で仕えるのをやめて、イエス様に仕えるということで、巡礼者として新たな歩みをするんですけど、それは本当に彼の荒れ野の40日だったと思います。


 みなさん、一人ひとり今までの生き方の中で、こっちに行きたいとか、いろいろな思いがあって来られたと思います。すべてが悪いものじゃないですけど、でも洗礼の準備をする中で、みなさんがいったい本当に何を求めているのか、クリスチャンとして生きる上でサタンのような悪の道ではない、神の導きの、神に従って生きていくことはどういうことなのかということを、講座を通しながら学んでおられると思いますが、まさしくこの40日間、改めて、どのような生き方から離れて、どのような生き方をこれから選択していくのかということを、改めてしっかり自分に問いかけてみられたらいいと思います。そのために、あまり慣れてないでしょうけど、祈りをちょっと試みてみたり、節制ですね、今まで何か世俗的なものを少し控えてみたり、そして何よりも愛を生きていく、そのようなことを心がけながら、この40日を準備してくださったらいいと思います。
 そして、すでに洗礼を受けている方々も、毎年この四旬節を迎えますが、同じように問いかけて、クリスチャンとしての生き方が、どこかちょっと外れていなかったかどうか、自分が本当にイエス様に従う道を歩んでいるかどうかということを見つめ直す、そういうときとして過ごしてもらったらいいと思います。


2022年3月6日 四旬節第1主日ミサ・洗礼志願式 使徒信条を授与された志願者

 今日は、悪魔祓いの式をして、洗礼式のときにですね、「悪を退けますか」と最終的にそこで決断の言葉をみなさんに語ってもらうわけですけども、もちろん、影響はいろいろあります。そんなにすぐ何でもうまくいくわけではないですけど、イグナチオの小さなエピソードをもう1つ話すと、彼は改心してパリで勉強していたんです。そのとき、学費を持ってたんですけど、もらったやつですけど、それを同室のスペイン人に預けてたんです。そしたら、なんと持ち逃げされて、しかたがないから彼はそのあと、全くすっからかんになっちゃったので、毎年物乞いをして、お金を恵んでもらわなきゃならなかったわけです。
 お金を盗んだ彼が、パリから100km以上のところで病気になって倒れているというニュースを聞いたんですね。自分に対して害を与えた人ですけど、彼のところにお見舞いに行って、彼の改心と、これからの人生を手伝おうと思うんですね。そして、ルアンだったかな、100km以上離れたところに、彼は断食して3日裸足で歩いて、彼のところまで行って、彼の改心と悔い改めと和解をして、スペインに帰る手立てまで手伝ってあげるということをするんですが、出発のときに、面白いんですけど、ものすごい不安になって、「やっぱり行かない方がいいんじゃないか」とか「神様を試すことになるんじゃないか」とか、不安になったりして、気持ちがグラグラグラとして、朝起きて服を着替えるところから、「もう行かない方がいいんじゃないか」と不安感に襲われるわけですよね。
 でも、その気持ちに負けちゃだめだと思って、道を歩いて、15kmくらい歩いたところで、モヤモヤ感がやっと晴れて、そのあとは気持ちをひとつにして、彼のところに行って、彼の改心と和解を手伝うという話が出てくるんですが、そういうことはたびたび、それは悪霊と言ってはオーバーかもしれないけど、やっぱり神様に従おうと思っても急にいやになったりとか、やっぱりやめようかなとか、あるいは朝起きて着替えるときにですね、今日1日いやな1日だなとか思って、もうどうでもいいやという気持ちで1日をスタートするようなこともやっぱりあるでしょ。

2022年3月6日 四旬節第1主日ミサ・洗礼志願式 司式の英神父から塗油を受ける志願者と、按手をする代母

 イグナチオでさえあったんだから、わたしたちもクリスチャンとして歩む中でも、たびたび、だれかに何かいやなことを言われただけで、なんかすごくいやな気持ちになったり、いろんなことがありますが、その中で、やはり心を整え直して、神の道を歩んでいく。それは、たびたびか、しばしばかわからないですけど、それを心がけていきましょう。そのような誘惑とか試みとか、それはたびたびあることですが、そのたびにしっかり悪霊を退けて、神様を選んでいく。そのような気持ちを絶えず繰り返しながら、わたしたちの信仰は強められていきますから、そのような気持ちで少しずつ歩んでいきたいと思います。


 そして、洗礼志願者には、代父、代母がついていますが、そういうことの手助けに、共に道を歩んでいく。神の道を歩んでいくための手助けとして、代父、代母の方がおられますので、いろんなことを相談しながら、特に、そうやってグラグラとしたり、わからなくなったりしたときは共に歩むようにすればいいと思います。典礼の方には、「洗礼を受けてから少なくとも半年は、代父母と一緒にミサにあずかるように」と書いてあるんですね。洗礼受ける前もそうですが、洗礼受けてからも、やはりしばらくは共に歩むような形で、罪とか囚われとか、この世のもろもろを捨てて、いつも神さまに向かって、少しずつ歩んでいけるようにお互いのために祈りを捧げたいと思います。

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灰の水曜日

ハビエル・ガラルダ 神父

3/2(水)19:00- 灰の水曜日(手話、一部字幕付き)


2022年3月2日 灰の水曜日ミサ ガラルダ神父

 今日始まります四旬節は、イエス様の苦しみに共感を覚えて心を清める期間です。

 この期間で何をすればいいのでしょうか。それは、今日の福音に書いてあります。3つの善行です。施し、断食、祈り。これをすれば、心が清くなりますし、キリストと共感ができます。 実は、この3つの善行は、あの当時のユダヤ人たちにとっては、宗教心を表す、目に見える3つの行いでした。施し、断食、祈り。それは素晴らしいことです。だからイエス様がそれを勧めますけど、動機には注意しなさいと言います。

 偽善者たちは、見てもらおうとしてそのことをやっています。あなた方は、隠れたことを見ておられる、あなたの父にしなさい。そうすれば父が報いてくださる。


 では、この3つのことを少し考えましょう。

  「施し」は、寛大な心で分かち合うということですね。お金と時間と働きを分かち合う。家でももっと助けること、外ではもっとボランティア活動でもしたりして、施し、寛大な心で。

 そして、「断食」というのは、食べ物だけではなく、好きなことをちょっと抑えるということです。テレビとかスマホとかお菓子とか、好きなことを少しやめること。ですから、節制ですね。節制した生活を送るということです。

そして、「祈り」というのは、祈りに時間をかけて、もっと長くもっと深く祈るということです。

 施し、断食、祈り。

 ところが、どういう報いを受けるでしょうか。 わたしたちは、「報いはいらない」と言うでしょう。報いのためにしていないんです。でも、「神様が報いてくださる」とイエス様が言っておられるので、わたしたちは喜んで感謝してその報いをいただきましょう。

2022年3月2日 灰の水曜日ミサ ガラルダ神父、英神父、柴田神父

 では、どういう報いを頼みましょうか。それは人によることですけれども、わたしの提案としては、2つにすればいいと思います。ひとつは、今のウクライナの戦争とすべての国の戦争が終わって、平和をいただくということです。平和をつくることです。みんな譲り合って助け合って、仲良く生きる世界になるように。これは第1の願い、第1の報いです。

 もうひとつの報いは、神様に任せた方がいいと思います。自分で選ぶことよりも、神様に選んでいただくことがいいです。これは、人間同士もそうでしょう。あなたが「お誕生日プレゼントで何が欲しい」と言われると、実はいちばん欲しいのは、相手がわたしの必要としているわたしの望みをよくわかっていらっしゃるので、それに合うようなプレゼント、報いをいただきたいんですね。では、それは神様に言いましょう。「わたしが頼むものはお任せいたします。選んでください。委ねます」。神様が、わたしたちは何を本当に望んでいるのか、何を必要としているのか、よくご存じなので、神様に委ねるのがいいことです。平和と神様に委ねるという報いを喜んでいただきましょう。

 では、明るくこの四旬節を始めましょう。

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