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2022年7月 ミサ説教





2022年6月 | 2022年8月


年間第18主日 ロヨラの聖イグナチオの祝日

ヘネロソ・フローレス 神父

7/31(日)10:00- 年間第18主日


年間第18主日 夏空の下の聖母子 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の福音書の中で、イエス様は非常に大切な教えをくれました。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」

 貪欲は、私たちは自然にありますね。もっと欲しいとか。イエス様は、ここで話してくださるたとえ話の中で、「どんなにお金があっても命と関係ない」と言われています。命を買うことはできません。


 だから、イエスの教えをほかの方法で教えてくださるのは第二朗読のパウロのコロサイの教会への手紙。

 「あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」


 たしかに、私たちはこの世の中で貪欲があります。正直言って私たちの人生の旅路の目的地は天国です。復活です。永遠の命、永遠の幸せです。それを、あまり考えないんです。こちらのことはもちろん大切です。生きるために、ものが必要です。貪欲で、集める、集める。たとえ話のように、これから楽しもうと、自分のことばかり考える。ものを持つのは、大切です。必要です。


 われわれが忘れるのは、富の持ち物の持ち主は私たちではないんです。持っているものはすべていただいたものです。どういうふうに上のものを望むか、上のものに心を留めるか。これは一つしかないんです。「分かち合い」ということでしょう。

 持ち物を分かち合う。自分のもの、自分のためではないんです。もちろん自分のためにも必要ですけど、すべて分かち合うということ。富も知識も時間も分かち合う。これを今日は少し反省することができます。


年間第18主日 ロヨラの聖イグナチオの祝日・イグナチオ年の閉幕を祝う祭壇 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」

 その面で、今日の聖人、ロヨラの聖イグナチオ。本当に彼が、これを分かった。最初は、彼はいろいろな貪欲がありましたが、棄てて、持つものは分かち合う。こういうふうに、パリの大学で彼は勉強して、仲間たちと一緒にあとでイエズス会を創立したでしょ。
 でも、できるだけ上のことを、もちろん地上のこともたしかに大切です。でも、いちばん大切なのはわれわれの目的でしょう。上のこと。死んで復活する。


 たくさんありすぎても、幸せはそこにないんですよ。われわれが作られたのは、もっと深いことのためですよ。

 何のために私たちは存在させられていますか。愛されて、愛する、そのためです。愛するという具体的な表現、具体的な技は、「分かち合う」ということでしょう。


 今日は、聖イグナチオの取次によってこれを願いましょう。自由な心。心はできるだけ、神のこと、神の国、天国、神の命、愛。それにあこがれるということ。そいういう願いをしましょう。

 今日は、聖イグナチオの祝日ですから、特別な効果があるでしょう。われわれの祈りを。

 本当に、分かち合う心を願いましょう。あらゆる貪欲から解放される。これを願えば与えられる。これは神の約束ですから。願いなさい。願えば与えられる。


7/30(土)-7/31(日)の2日間、イグナチオ年の閉幕を祝う行事とミサが行われました。

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年間第17主日

ハビエル・ガラルダ 神父

7/24(日)10:00- 年間第17主日


 今日の典礼の中心は祈りです。祈りには、いろいろな種類がありますけど、時間の関係で省きますが、ひとつだけお勧めします。インスタントのコミュニケーション。
 といいますのは、聖パウロが言いますように、「私は生きるけれども、それよりもイエス・キリストが私の内に生きる」と言いましたので、イエスがいつも私の中に生きるけれども、私はそれには気づかないときが多い。だから、その神さまとインスタントなコミュニケーションを保つのがいいです。
 簡単なことです。たとえば、電車に乗っていると、かわいそうな人がいます。「主よ、この人のために助けてください。なんとかしてください」という祈りですね。あるいは、「今日の昼のラーメンがおいしかったね」ということも祈りになりますので、コミュニケーションを保つということは、インスタントの祈りが良いと思います。

年間第17主日の様子 青空の下の芝生 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 でも、今日の祈りの種類は、願いの祈りですね。それについて、この福音と第一朗読には、神さまが二つのことを教えています。
 一つは、「どういうふうに願えばいいでしょうか」。二点目は、「何を願えばいいでしょうか」。


 では、一番目のことですが、どういう姿勢で祈ればいいのでしょうか。それはまず、「しつように祈りなさい」。しつこく、くどく、あきずに求め続けなさい。そうすれば与えられるでしょう。すぐあきらめたら、与えられないでしょう。いつまでもねばれば、与えられるでしょう。


 第一朗読「創世記」の朗読は、アブラハムは50人を10人にねぎったのです。ねぎってねぎって、神さまが喜んでそれに譲ったんです。

 そして今の福音には、旅行中の友だちのためにパンがほしかった。「もう遅いから帰りなさい」と言われて帰ったならおしまいです。ところが、ねばってまた来ます。「すみませんが、本当に困ってますから」と。「もう寝てると言ったでしょ。うるさい。帰りなさい」と言われても帰らないで、トントントンと何回もすれば、中の人は頭にきて「はい、どうぞ」と。友だちだからというより、しつこいからあげるんです。そういうふうに祈りなさいとイエスさまが言ってますよ。
 その家の中にいる人は、神さまですよ。あなたはしつこく頼めば与えられるという教えです。ですから、まず、しつように頼む。


 もう一つあります。かつて神さまが祈りについておっしゃったことですが、

 「祈る前には、信じなさい」

 これが、私たちには難しですね。ときどき祈ってみるけど、あんまりうまくいきそうにもないなと思ってしまう。それはだめですね。信じて、祈りなさい。祈る前に。

 そしてまた、

 「祈っている間には、感謝しなさい」

 すでに祈っていることを与えてくださったことを、信じて感謝しなさい。


祭壇の上の十字架 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 もう一つ、

 「祈ってから与えられた恵みを実行しなさい」

 たとえば、「忍耐を与えてください」という祈りを、みなさんよくするでしょ。「頭にきているので、忍耐を与えてください」と。祈れば、すでにいただいたつもりで、祈ってからすぐ、忍耐強く生きることにしましょう。

 願った恵みを実行する。ただ願った。じゃあいつ忍耐がくるかな、わからない。いつくださるかな。そうじゃなくて、もうくださった。もういただきましたので、それを実行しなさい。


 こういうふうに祈りなさい。ですから、しつように、祈る前に信じて、祈っている間には感謝して、祈ってから実行する。この姿勢で祈りなさいというのです。


 二点目はこれです。何を願えばいいのでしょうか。8節に書いてありますね。

 「何でも与えられる」

 何でも。問題について、健康について、心配について、何でも祈りなさい。自分のためにも、人のためにも何でも。ところが、一番最後のことばは、13節は難しいですね。

 「聖霊を与えなさい」

 なんでここに急に聖霊が出てくるのかと、びっくりしますね。

 説明はちょっと難しいので、でも重大ですから、揺れるのでつかまってください。ちょっと聞いてください。

 聖霊というのは、「グラチア(gracia)」ということば、ご存じですね。英語でいうと、「グレイス(grace)」。「♪ララ~ララララ~」その「グレイス」。グレイスは恵みです。特別な恵み。ただ、ありがたい雨というのは恵みですけど、違います。この「グラチア」というのは、もっと難しくて大事なことです。いいですか。

 結論から言えば、神さまから抱きしめられていることを感じること。神さまに抱きしめられていること、神さまのハグを感じること。言い換えれば、神の身近な温かさを感じること。神の身近な温かさに包まれていることを信じて感じること。そしてまた、神さまからも人間からも愛されていることを信じて、より深く信じて、「愛したい」という望みも深める恵みです。ですから、愛されていることを実感し、愛したい望みを深めてくださる恵みです。これが「グラチア」です。


 では、聖霊とは何ですか。「グラチア」を獲得してくださったのは、イエス・キリストですね。イエス・キリストによって救われた。「グラチア」をいただいています。神さまから抱きしめられています。イエスさまのおかげさまで。ところが、イエス・キリストが獲得なさった「グラチア」を私たちの心にもたらしてくださるのは、聖霊です。聖霊の役目です。ですから、聖霊を願いなさい。つまり、「グラチア」を願いなさい。

 何でも頼んでもいいけど、たとえば、だれかの健康のために祈ります。すばらしいことです。健康を願うと同時に、その人のための「グラチア」も願いなさい。この人が、健康になってもならなくても、「グラチア」を受けるように。「グラチア」によって心の元気がわいてきますので、それを祈りなさい。


ロヨラの聖イグナチオ像 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 「主よ、私のそばにいつもいてください。私がそれを感じるようにしてください」

 主に、悩んでいるときにはイエス・キリスト自身が十字架でいろいろな言葉をおっしゃいましたね。その一つは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(私の神、私の神、なぜ私を見捨てられたのですか)。」

 「なぜ」ということは、質問より願いですね。「私の神、私の神、私を見捨てないでください」というのは、イエス・キリストはそのときには、もちろん、神さまがいつもそばにいらっしゃることは信じていたし、知っていましたが、そのときにはあまり感じなかったみたい。それを願います。どんなことがあっても、「この苦しみから私を自由にしてください」と願わないんです。「ただ、一緒にいてください」これを願いますね。


 私たちも、その患者さんも、苦しんでいるときには、いつもイエス・キリストがそばにいてくださって、「お前の悲しみを知っている。お前の苦しみを知っている」とつぶやきながら、一緒に悩んでくださる。これは「グラチア」。


 けっきょく、聖イグナチオ・デ・ロヨラの祈りがありますね。「自分を捧げる祈り」。

 「主よ、私のすべてを捧げます。その代わりに、あなたの愛と恵み(=グラチア)をください。それで、満足します」

 こういうふうに祈りましょう。


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年間第16主日 幼児洗礼式

サトルニノ・オチョア 神父

7/17(日)10:00- 年間第16主日


年間第16主日ミサ 司式 サトルニノ・オチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ご存じのように、函館では有名なトラピスティンの修道院があるんです。そのトラピスティンの修道院で暮らしているシスターたちは、観想修道会といわれているトラピストに入っていて、彼女たちの主な仕事は祈りだけです。どちらかといえば、ただいまの福音のマリアの役割をもってやっています。
 しかし、トラピストのシスターたちは、祈りに努めているといいながらも、よく働く。それで、すばらしいバターを作っているのです。すばらしいクッキーを作っているし、ジャムも作っている。畑で牛やあるいはほかの生き物を育てているのではないか。


 ほかの修道会もたくさんあります。病院で働いているシスターたちは、祈りの時間はそれほどないけれども、朝から晩まで働いている。どちらかといえば、マルタの役割です。


 たぶん、わたしたちは今日の福音を読むときに、間違っている見方で読んでいるのだと思います。もしかしたらたしかに、イスラエルでは家があってそこに二人の姉妹、マルタとマリアという人たちがいます。しかし、マルタとマリアという具体的な人の名前だけではなく、聖書では、性格のタイプを表すため、この演技されているようなたとえ話があります。それで、皆さんにお勧めします。今日は別の目でこの福音を読みましょう。


年間第16主日ミサ ミサ中の会衆席、折り鶴とともに カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエスは、本当にわたしたちの家に来ると考えてみましょう。わたしたちの心です。 わたしたちの心に入ると、二つの生き方があります。一つは活動、一つはもっとゆっくりして、ものを見て見抜いて悟るということもあります。


 だから、二人の人間ではなく、マルタとマリアはわたしたち一人ひとりの心の中でそのような生き方がある。それで、合わせてはいない。わたしたちはまだバランスが取れていないような形で、活動に負けるか、お祈りみたいに負けるか、そのような傾向だけ育てているのですが、イエスさまは、わたしたちに言っているんです。

「あなたの心を探って、あなたの心の中で住んでいるマルタを生かして、あなたの心の中で生きているマリアも生かして。けれどもバランスがとれるように」。


 そのバランスはたぶん今日は、赤ん坊を抱いているお母さんたちは、ものすごく忙しくて教会へ行かれないくらいのときもあります。そのときはそれをしたらいいんですけど、いつも自分の中では祈りながらこの子を世話して成長させるということは必要があります。

 お父さんだったら言うまでもなく、この家族を支えるために朝から晩まで働かなければならないけれども、空っぽのような意味のないような、感謝しないで動いているだけだったら非常にむなしい活動であります。


 わたしたちの心の中で潜んでいるマルタの性格、マリアの性格を祈りながら努力しながら合わせていきましょう。


ミサ中に幼児洗礼式が行われました。ご受洗おめでとうございます。

 司式・柴田神父のお説教 「マルタとマリア(年間第16主日)」


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年間第15主日 子どもとともにささげるミサ

柴田 潔 神父

7/10(日)10:00- 年間第15主日


 今、神父さんが読んだ「善きサマリア人のたとえ」では、祭司とレビ人は、倒れている人がいたことに気づいたけれど何もしないで行ってしまいました。もし、みんなが、血を流して倒れている人を見かけたらどうしますか? 


 14年前に、秋葉原でたくさんの方がけがをして亡くなられました。とてもとても悲しいできごとで、心が痛みます。そのとき、善きサマリア人みたいに、けがをした人を助けようとした人たちもいました。今日はそのお話をします。

年間第15主日ミサ 司式・柴田潔神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 福岡からオーディオの買い物に来ていたお医者様は、学会といってお医者様のお勉強に東京に来ていました。「救急のときにどうしたらいいのか」のお勉強会のためです。JR秋葉原駅を出ると、逃げ惑う人たちが目に飛び込んできました。「何があったんだろう?」みんなが逃げるのとは逆の方向に行くと、道路に若い男の人が倒れていました。包丁で刺された傷があって、たくさんの血が流れていました。携帯で119番、救急車を呼んだけど、つながりません。


 1分、2分すると、男の人の呼吸が止まってしまいました。心臓マッサージを始めながら、人工呼吸をするためのマスクを持っている人を探しました。そこに、消防のお仕事をしている人が駆けつけ、人工呼吸を始めました。看護師の女性も助けに入りました。まもなく、男の人は自分で呼吸をするようになりました。でも、手首に指を当てても血が流れていません。呼吸もすぐに止まってしまいました。


 やっときてくれた救急隊員は「心臓も呼吸も止まっています」と言いました。そのとき、お医者様は、他にもたくさんの人がけがをしていることを知ります。お医者様は、男の人のために病院まで一緒に行きましたが、亡くなってしまいました。


 お医者様はその時の気持ちをこう言われています。「お医者さんの私でも、足がガクガク震えて怖かったです。でも、通りがかりの普通の人も助けようとしていることに感動しました。できるかぎりのことをしようとしました。救急は、だれかが倒れているときに何をしたらいいかを考えるものです。みんなにも考えてもらえるようになってほしいです」

年間第15主日ミサ 聖体拝領 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 神父さんは、今のお医者様のお話は、善きサマリア人のたとえ話と重なると思います。けがをして血を流して倒れている人を見たら、怖くなる。足がガクガク震える。「知らない人だから」「私はお医者様じゃないから」そのまま、通り過ぎることもできます。祭司やレビ人はそうでした。
 でも、「何かしてあげたい」、「何とか助けてあげたい」。聖霊がはたらいて善きサマリア人になることもできます。秋葉原の事件は、とても悲しいできごとでした。でもその中で、お医者さん、消防士さん、看護師さん、お買い物に来た普通の人。その人たちが、善きサマリア人になりました。駆け寄って「大丈夫ですか?」「もうすぐ救急車が来ますよ」と声をかけたり、血を止めようと一生懸命の人が働きました。


 「行ってあなたも同じようにしなさい」イエスさまが言われたことを実際に秋葉原で、たくさんの方がされました。「行ってあなたも同じようにしなさい」今の教会のお友達には、たしかに危ないと思います。でも、そういうときに助けようとした人がいたことは覚えていてほしい。


 つらいこと、悲しいことが起きたとき、何とか助けてあげたい、そう思う人が必ずいます。神父さんはそうなりたいし、教会の友だちにもそんな気持ちを持ってほしい。
 「行ってあなたも同じようにしなさい」自分がお手伝いしても助からないかもしれない。でも、勇気を出してみる。お医者様のような、善きサマリア人をお手本にしていきましょう。


ミサ中に侍者任命式・更新式が行われました。

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年間第14主日

ボニー・ジェームス 神父

7/3(日)10:00- 年間第14主日


 今日の福音のなかで、イエス様は福音宣教のため、弟子たちを派遣する場面がテーマとなっています。宣教活動が、キリスト教の初期時代から今にいたるまで、教会に与えられている大きな使命です。そして、洗礼を受けただれもが、福音宣教の使命を持っています。宣教というのは、イエス様の救いのメッセージ、すなわち、今日の福音の最後のところに出てくるように「神の国を述べ伝える」ということですね。一人ひとりが洗礼を通していただいているこの救いの恵みは、自分だけのものではなく、他者と分かち合う使命を持っているのです。教会では、海を渡って遠いところに福音宣教に行く伝統もありますが、自分の身近なところ、たとえば自分の家族、職場、社会共同体も、福音宣教の場となるでしょう。

主聖堂ステンドグラス「野の花と道」 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の福音では、弟子たちを送り出すにあたり、イエス様は宣教活動におけるさまざまな重要なポイントを教えます。1節では「弟子たちを二人ずつ遣わした」とあります。教会の最初の時代からもそうでしたが、福音宣教は個人的に行うというよりも、共同で行うこととして捉えられていました。たとえば、イグナチオのロヨラやアッシジのフランシスコや、コルカタのマザー・テレサが、それぞれの修道会を成立した裏には、個人が受けた強い神秘体験がある一方で、活動においてはたくさんの協力者を集めて、世界中に派遣しなければならなかった実態があります。これは、福音宣教の共同性を意味しています。


 今日の福音では「財布も袋も履物も持っていくな」とイエス様が弟子たちに続けて言います。これは完全に、神様に信頼をおいて生きるべき宣教師の生き方を現しています。福音宣教というのは神の計画ですね。宣教師は神様と協力してどのように生きるか、あるいは生計をどのように立てていくかは神様に任せるのです。今日の第一朗読の中でもパウロが「イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものは決してあってはなりません」と語っているのはその意味でしょう。やはり宣教師は、徹底して神様の恵みを頼りにして、謙遜な生き方をしながら宣教活動に挑むのであるということですね。


 それから、イエス様は続けて4節では「途中でだれにも挨拶するな」と言います。これは不思議な言葉ですね。人に挨拶するということが別に悪いことではないし、むしろ良いことです。ではどういう意味でイエス様はこのように話したのでしょう。この箇所においての学者たちの説明によると、道でさまざまな人に出会い寄り道してしまい、大事な目的である神の国を伝えるということを忘れてはいけないということを、イエス様は弟子たちに教えたのではないかと説明しています。


 続けて今日の福音は7節では「働く者が報酬を受けるのは当然である」と述べています。先のところで、「宣教師は、財布も袋も履物も持たずに生きる者である」とイエス様は言いましたが、そうなると、宣教師は実際にどうやって生計を立てるのかという現実問題がありますね。そこでイエス様は「働く者は報酬を受けるのは当然である」と述べたのです。すべてを捨てて神様に従うという決心は、とても理想的なことですが、そこで宣教師は毎日どのように生活するかという現実問題に対して、「自分が働いた分、報酬・あるいは給料をもらってもよい」とイエス様は言います。宣教師の日常的な生活についてまで聖書が言及しているということは面白いと思います。

2022年7月3日 年間第14主日 10時ミサの様子。司式 ボニー・ジェームス神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 それからイエス様は8節では「どこかの町に入り、そこで出されたものを食べ、飲みなさい」と述べています。宣教師は、「行くところ行くところの食文化だけではなく、そのところの人たちの生き方や文化をよく理解し、その土地の人々の生活に溶け込んで生きていかなければならない」と教えていますね。日本語でよくいう言葉のように、「郷に入っては郷に従え」という原則は、宣教師になるためにも一つの基盤となるでしょう。


 同じ9節では、続けてイエス様は弟子たちに「どこかの町に入ったらその町の病人をいやす」ように言います。教会はその初期時代から、すべての宣教活動において大事にしている一つのことが、どんな場所に行ってもまず癒しの場を作るということです。特に体の面を癒すことができるように、病院やその他の治療などを行うようにして、現場の人と関わりを持つようになるのです。教会の伝統的な宣教地を見てみるとわかるように、宣教師たちは一つの教会共同体を作るとともに、病院、学校やその他の社会福祉的な施設なども作っていきます。まず人々の体の面での癒しの場を作り、そこから心の面や霊的な面での癒しの場をつくります。このように、さまざまな奉仕活動を通して一番大事なポイントを伝えます。福音宣教のその一番大切なポイントとは、今日の聖書箇所の最後に言われている「神の国」を述べ伝えるということです。人々の日常生活のレベルでのさまざまな癒しの場となると同時に、その人々を神様の救いの恵みへと導くのです。「人を癒し、また神の国はあなた方に近づいたと言いなさい」という今日の聖書の最後の部分はその意味をもっています。


 このようにして今日の福音は、キリスト教における福音宣教のある種のたたき台、あるいは下書きを、私たち現代に生きている人々にも与えてくれていると思います。「収穫が多いが、働き手は少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫を主に願いなさい」とイエス様は言います。イエス様の福音を述べ伝えるように、たくさんの働き手は私たちの共同体からも出てくるように、召し出しの恵みのために祈りながら今日の話を終わりたいと思います。


 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン


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