2022年6月 ミサ説教
6/5(日)10:00- 聖霊降臨の主日 サトルニノ・オチョア 神父
6/12(日)10:00- 三位一体の主日 酒井 陽介 神父
6/19(日)10:00- キリストの聖体の祭日 グエン・タン・ニャー 神父
6/26(日)10:00- 年間第13主日 山中 大樹 神父
年間第13主日
山中 大樹 神父
今日の福音朗読は「ルカ福音書」から取られていますが、そこでは「イエス様についていくこと」が1つのテーマになっています。
ルカ福音書は、イエス様の誕生と幼年物語に続いて、イエス様のガリラヤ地方での活動の様子が語られます。そして、あるときを境にして、イエス様は弟子たちとエルサレムに向かい始めます。この旅立ちの直前には、いわゆるご変容の場面があって、イエス様はモーセとエリヤとともに、ご自身の「エクソドス」、人々を救いへと導く「出発」について語っています。
今日の朗読は、ガリラヤの活動を終え、まさしくエルサレムに向かい始めたときの様子が描かれています。その初めには、「天に上げられる時期が近づいて、エルサレムに向かう決意を固められた」とありますから、イエス様は単にエルサレムを訪問するのではありません。エルサレムでの十字架、ご自身の死を通して、天への、つまり、父である神への道、いのちへの道、救いの道を開くために、エルサレムへと、十字架へと進んでいかれるのです。
イエス様はこの道を、ただお一人で歩まれていません。そこには弟子たちがいます。あるサマリア人の村 ーその当時、サマリア人とユダヤ人は仲が悪かったのですがー その村の人々がイエス様を歓迎しなかったときに、弟子のヤコブとヨハネが、天から火を降らせて焼き滅ぼすよう提案します。このヤコブとヨハネは、ペトロとともにイエス様のご変容に居合わせました。そして雲からの声で「イエス様に聞くように、その思いや考え方を知り、従うように」言われます。しかし、ヤコブとヨハネは、イエス様が選ばれた、エルサレムに上ること、つまり、人々の救いのために十字架にかかる道を理解していません。イエス様はこの時点で、すでに二度、ご自分の死と復活について弟子たちに説明しているのですが、それでも彼らはイエス様の声に聞かず、十字架の道ではなく、反対者は力で滅ぼすということを望んでいます。さらに、ペトロはエルサレムでイエス様の裁判のときに、苦しむメシア・イエスを「知らない」と言います。
イエス様の十字架を悟っていない弟子たちですが、使徒行伝が描くように、彼らは後に命をかけて、十字架につけられたイエス様について宣べ伝えていきます。彼らが百八十度変わったのは、イエス様の十字架、さげすまれ、血みどろになって死に絶える姿に接し、しかし、復活されたイエス様に出会い、その苦しみと死のまことの意味を知ったからでしょう。イエス様の死と復活を知ることなしに、イエス様の道を理解し、その歩みに従いえないようです。
今日の福音を読み続けましょう。そこにはイエス様がご自身に従うようにと招く人や、イエス様に従いたいと望む人たちが出てきます。イエス様が彼らに言われるのは、第一に、「人の子には枕するところもない」、つまり、十字架の道へ向かうイエス様を迎え入れる者はいない、ということです。力強いわざを行い、力強い言葉を語るイエス様を受け入れる人はいても、苦しみ抜いてまで神の救いのわざを成し遂げようとするイエス様を受け入れる人はいないということです。十字架につけられたイエス様のもとにいた人は、だれだったでしょうか。ルカ福音書では、最後までイエス様のもとに留まった女性たちも遠くから十字架を見ているだけでした。
次に、イエス様は、家族よりも神の国を選ぶようにと言われています。「家族」はこの世の人間的関係の中で基本的なものでしょうから、この世的な関係よりも神の国を選ぶようにと言われていることになります。神の国のためだからといって、家庭を顧みず放り出してしまうようなことがあればどうかと思いますが、この世のこと、この世の価値観、この世界でハッピーに充実して生きることに全てを費やしてしまって、神の国のこと、神の愛や神の義、あるいは、この世界に苦しみ、悩み、孤独や絶望、飢餓にある人が少なからず存在するというこの世界の痛みを、忘却の彼方に置き去りにしてしまっていいものでしょうか。
「イエス様についていく」ということは、今日の福音からしますと、第一に、その真に意味するところはイエス様の死と復活を見てこそ分かり、そして決意してイエス様に従い、歩めるのだということ、第二に、それは神の国を望むことと関わるようです。私たちは、私は、イエス様に従って歩むことを望みますか? 「私はイエス様に救われた、神様の愛・救いにこそ信頼したい」という思いが深まればこそ、神の国を選び、イエス様に従い、神の国と神の愛、神の救いを、どういった形であれ、この世界で伝えていける、伝えていこうとするのだと思います。
私たちへの神様の愛を、神の国・真の救いを伝えること以上に、私の人生の中で価値あるものはあるのでしょうか。これを選ぶとき、私たちは、あらゆる人を救いたいと望む神様、イエス様の愛のうちに生きるようになります。私たち一人ひとりが愛に深められていくように、そして、私たち、この私を通して神の国がこの世界で実現していくようにと祈りましょう。また、教会の修道者、聖職者たちが、神様の愛をより深く悟るようにとも、祈っていただければと思います。
キリストの聖体の祭日
グエン・タン・ニャー 神父
今日の3つの朗読には、パンという共通テーマがあります。パンは人を養う食べ物ですから、とても重要です。言うまでもなく、私たちが食べ物なしでは、生きていけないことは誰もが知っています。
最初の朗読は「創世記」から読まれましたが、祭司メルキゼデクが、戦いに勝ったアブラハムを祝福するために、パンとぶどう酒を持ってきた物語です。この物語からは、パンがただ単に食べ物であるだけではなく、祝福の意味もあるということを理解できます。
第二朗読で、パウロは当時のキリスト者たちに、主の晩餐に参加する意味と重要性を思い起こさせます。パウロの時代のキリスト者たちは、時間とともに、主の晩餐の記念の真の意味を忘れていました。多くの人にとって、それは一緒に食べたり飲んだりするために集まる機会にすぎず、そのことをパウロは叱責しています。パウロは次のように繰り返しています。「このパンを食べて、この杯を飲むごとに、主が来られる日まで、主の死を告げ知らせる」と。
主の晩餐に集まる人々が、ただ単に食事をするのではなく、主の死と復活を人々に伝える使命を持つということを思い起こさせるのです。パウロの時代の主の晩餐の記念は、現代の教会が毎日祝いするミサの原型を伝えています。私たちがミサに参加して、ご聖体を拝領するとき、私たちも同じ使命、主の死と復活を告げ知らせる使命を引き受けます。
今日の福音朗読は、私たちにとってなじみ深い箇所です。イエスは、ご自分の教えを聞いた群衆を養うために、パンを増やすという奇跡を行いました。ここで興味深いのは、イエスではなく弟子たちが、群衆の空腹に気づいたことです。イエスの弟子たちは群衆の必要性に非常に敏感でしたが、応えようとはしなかったのです。彼らは、群衆をすぐに解散させるように提案しています。もしかしたら、弟子たちも疲れていて、お腹がすいていたので、そのような案を考えたかもしれません。私たちも、弟子たちと同じように考えることもあるでしょう。特に、私たちが自分のニーズや問題にだけ目がいくときには、他人のことに気を配りたくないこともあると思います。
イエスは弟子たちに、自分の限界を乗り越えようと勧めました。イエスは弟子たちに「あなたがたは彼らに食べものを与えなさい」と言われました。言うまでもなく、弟子たちはすぐに断りました。彼らが持っていたのは2匹の魚と5つのパンだけなのに、群衆は5000人以上集まっていたからです。どう考えても不可能なのです。ここで、もう一度、弟子たちが非常に人間的で、私たちと近い考え方を持つことを見ることができます。たしかに私たちも、だれかのことをかわいそうに思ったり、だれかの痛みに涙を流したりすることはたびたびあるでしょう。しかし、彼らの問題を解決するために、私たちの力では何もできないと考えて、何もしないでいることがたびたびあるのではないでしょうか。しかし、イエスはわたしたちとは逆の行動をします。今日の福音書の中に書いてあるように、イエスは群衆のニーズを無視しなかったのです。
「イエスは弟子たちが持っている2匹の魚と5つのパンを取って、賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせました」
飢えている群衆を養うために、まず、弟子たちの協力が必要です。イエスは彼らが持っている食料を使うことや、群衆をグループに分けさせることや、魚とパンを配らせることなどを通して、この世界を世話するために、神が、私たち一人ひとりの協力が必要とされていることを教えてくれました。言い換えるなら、互いに世話することが私たち人間の使命だとイエスが教えてくれました。
そして、この使命を実現するために、私たちがイエスと同じように、神に賛美の祈りを唱えなければならないこと、そして、自分が持っている物を裂いて、必要とする人々に渡さなければならないことを教えてくれました。つまり、他人を世話するために、まず、自分の所有物が全て、自分のものではなく神様からいただいたものなのです。神に感謝する心からスタートするのです。そして、全ての物は神様からいただいたものなので、自分のためだけではなく、人々に、特に困っている人々に分け合いすることは当然なのです。この世の中には今も、食べ物を十分食べられなくて、飢えている人々が多いそうです。食料が足りていないからではなく、現代人である私たちが互いに分け合う心を持つのを忘れているからです。
今日、キリストの聖体の祝いにあたって、私たちが主のご聖体を受けるとき、主の死と復活を告げ知らせる使命を果たすことと、少しでも、毎日の生活の中で、互いに分け合う心を育むことができるように祈りたいと思います。
三位一体の主日
酒井 陽介 神父
さて、三位一体とはどんなことを言っているのでしょうか。この三位の神にあやかって、3つの点から一緒に見ていきたいと思います。
神の愛というのが今日のテーマなんですが、1つ目は、愛とは愛することです。そして愛は愛されること。それはよくわかることだと思います。愛するという行為は1人では完結しないからです。人が愛する時には、その愛を受ける他者が必ずいるわけです。そして最後に、愛は双方の中で愛しているという内なる体験が生まれるということです。別の言葉で言うと、愛は能動態であり、受動態であり、もしかしたらあまり聞きなれない言葉かもしれませんが、中動態の行為なんです。このことを少し一緒に見ていきたいと思います。
愛というのは一方的に愛を主張しても始まりません。愛し愛され、双方の間に愛が芽生え、生まれ、愛そのものが動く時に、互いに愛し合う、大切にし合う、思い合うということが起きるんです。人によっては、愛というのはフィーリングの問題でしょうと、そう考える人がいるかもしれません。でも、果たしてそうでしょうか。確かに愛するにしても、愛されるにしても、そうした気持ち、フィーリングが人の心の中に現れます。でもそれは単に愛したい気持ち、愛されたい気持ちということだけではないのです。もしそうだとするならば、これだけ愛しているのに何で応えてくれないのかとか、こんなに愛されたいのにどうして愛してもらえないのかと、いつの間にかアンバランスの愛が独り歩きしてしまうんです。これは今日わたしたちが祝っている三位一体の神の愛や、わたしたちキリスト者が生きようとしている愛徳、カリタスとは程遠いものになってしまいます。
だからフィーリングのレベルに留まっていると、人は本当の意味ではまだ愛していないと言えるかもしれません。なぜなら自分にとって都合のいい、心地よい感覚が1番になっていますから、あくまでも利己的です。わたしは愛している、愛に開かれると思っているかもしれませんが、その実は自分を愛しているという自己愛を、無意識に他者に押し付けることになってしまっているかもしれないんです。大切なのは、わたしが愛する、愛されることのみにこだわるのではなくて、わたし自身の中に、愛しているという愛の芽生えが生まれることだと思います。それは、相手の中にも愛されているという実感を呼び起こします。これは理屈ではないんですね。このことを中動態と言っています。愛するという能動態、愛されるという受動態だけでは語りきれないのが愛の本質だと思うんです。三位の神にはこの愛が息づいています。それは、するとかされるという、そうした類の分類だけでは語れない愛の形です。あえて言うならば、中動態の愛しているというのは、その、するとかされるの外にあって、まとめ上げるくらいの力があるものです。
さて、どういうことでしょうか。わたしが愛するというのは能動態ですよね。能動形。それはまさに御父の愛の形です。御父はその独り子を与えるほど世を愛されたんです。また、愛されるというのは受動態ですね。それはイエスの存在そのものです。覚えていますか。ヨルダン川でイエスが洗礼を受ける時に、あなたはわたしの愛する子という御父の声が聞こえましたよね。イエスは愛される者そのものなんです。そしてその場面で、霊が鳩のように降ってきた、降りてきたとあります。これが2人の間に交わされる愛そのものが展開している、愛が動いている象徴的な出来事なんです。父と子の双方において、愛する愛されるという行為が、利己的な、また自己愛的な制限を受けずに自由に生き生きと、まさにそこに実現しているということで、これがわたしがさっきから言っている中動態という状態なんです。聖霊の役割は、この中動態特有の愛するという行為が実現する、そのことなんです。もっと平たく言うとですね、何だか愛さずにはいられないということ。愛さずにはいられない、関わらざるにはいられないという、そんな気持ち、思いなんです。それは責任とか意志とかを超えて愛している、大切にしたいという思いが生まれているということです。聖霊ってすごいなと思いますよ。だって御父と御子の愛を受けて、それをそのままわたしたちに教えてくれているんですから。
ここまで聞いていてですね、皆さんの顔を見ると、酒井神父は何で文法の説明なんかしてるんだろう、能動態とか受動態とか中学校の時に英語で習ったな、中動態って何?とか。それはもしかするとですね、わたしも説教して伝えたいという能動態に、知らず知らずにこだわってしまっていて、もしかしたら聞く皆さんも、聞かされるという、聞いているという受動、受け身に留まっているからかもしれません。願わくばわたしと皆さんの間に霊が鳩のように飛び交っているとわかりやすいんですが、わたしには見えます。見たいと思います。
ここまで、何が言いたいのかというと、これが三位一体の神の中に息づく愛のあり方なんです。愛の働き方なんです。愛すると、愛される。そしてそこに愛が生まれ愛が息づいている。中動態って何のことかよくわからないなという人もいるかもしれません。そのためにもう1つ説明を付け加えるならば、中動態というのは非常に皆さんがよく知っている言葉なんです。たとえば福音書の中に「あわれに思う」という言葉が何度も出てきますね。あわれに思う。それはイエスご自身の体験であったり、またイエスのたとえ話、善きサマリア人とか放蕩息子の父親の行動そのものなんです。そこに出てくる言葉が「あわれに思う」。皆さんも聞いたことがあるでしょう、有名なギリシャ語「スプランクニゾマイ」。これは「はらわたする」とか訳されますが、これが中動態の動詞です。何とかゾマイといったら、これは中動態だと思ったらいいんですね。イエスの愛は能動態じゃないんです。責任とか意志とかから愛するんじゃなくて、理屈を超えてイエスの心が動くんです。イエスの胸が痛むんです。はらわたが掴まれるんです。これが三位の神の愛をまとめ上げているんです。
それでわたしたちは、その三位の神の愛にどのように息吹かれたらいいんでしょう。ああ、神の愛は完全すぎて、どうやったって人間には到達できないと思うかもしれません。でも、わたしたちは神の似姿なのですから、必ずあやかれるはずです。神の愛が勇敢であるように、わたしたちにとって愛するというのは勇気がいることです。それは別に愛を告白する勇気とか、そんなことを言っているんじゃないんですよ。それは痛むことを恐れない。いや、恐れてもいいから、痛むことから逃げないことです。なぜなら関わる場にしか愛は生まれないからです。神は愛を拒絶されることを恐れませんでした。そして独り子が与える痛みを知っている愛です。愛は痛むんです。そして愛されるということは、愛されている者の自覚を自己卑下することなく保つということです。いつでもどこでもイエスを支えたのは、御父に愛されているという揺るぎない自覚です。ならばわたしたちもまた、愛されている者なのです。愛されているから大丈夫。どうかこのことを忘れないようにしましょう。
そしてもう1つ付け加えるならば、わたしがあまり好きになれない人もいるかもしれない。でもその人もまた愛されている者なのだということ。この愛し愛される体験の中に、本当の愛が芽生えます。その愛はわたしたちをして、愛している者という心を掴むような、はらわたを掴むようなたくましい愛を生み出します。それが家庭でも共同体でも、社会でも、この生み出されつつある、生きつつある、感じつつある愛の形がキリスト者の旗印です。神の愛は永遠というのではないでしょうか。それならば神の愛は1日にして成らず、わたしたちの愛することも1日にして成らず。三位の神の愛がわたしたちを強めてくれますように。アーメン。
聖霊降臨の主日
サトルニノ・オチョア 神父
聖霊降臨という祝日は、ミサの初めに当たって申し上げたように、教会の誕生としてわたしたちはそれを祝っています。教会は聖霊に満たされて、イエス・キリストのいのちをもって、自信をもってわたしたちを導いてくださるということです。
思えば37年前、この教会から1つの大きなグループが聖霊降臨の時、堅信を受けるためにドイツのケルンに行って、そこで非常に荘厳な式で堅信を受けたんです。堅信、霊をいただくということですね。それはとても素晴らしかったんですが、わたしがびっくりしたのは、ドイツではあの時、この聖霊降臨は国の祝日だったんです。3日間、国の祝日ですね。日本で言えば海の日とか、あるいはゴールデンウィークとか、そのようなことに当たるくらいのことです。それは素晴らしいことですが、旅していたわたしたちにとっては非常に困ったこともあります。たとえば電車もない。交通のことが非常に薄くなっているので、普通のようなやり方でできない。聖霊降臨、わたしたちはそれをどういうふうに形になった、目に見えるようなことで表したらいいのか、これは昔からの問題です。霊は、定義としては見えないものです。あるけれども見えないものであるはずです。この目で見ることができず、あるいは色もない、形もない。そのようなことですので、聖書でどういうふうに霊のことを表すか。
まず、第1朗読で「霊は激しい風」です。どうして風か。風はすごく力があるのに見えないんです。感じます。それでその風によってわたしたちは動いているということよりも、動かされて、飛ばされているのではないかと、このようなんです。その風でわたしたちは、自分の動きよりもミッション、遣わされた人としてミッションがある。使命が与えられて動くのです。詩編の言葉があるでしょう。「あなたの息吹をわたしたちに与えて、すべてのものは新しくなる」。わたしたちにとって風は強いです。台風もありますし、いろんな災いもあるんですけれども、砂漠の人たちにとっては風はもう1つの意味があります。風の力は、砂漠では風が吹くと、砂漠の山は全部消されるんです。あれだけ彼らにとって風です。息吹、息です。日本では生きるという字は、息と字が違うんですけれども、発音は同じです。もともとは呼吸のことですので、これは命、力、生きているということです。
もう1つのイメージは炎。福音によると炎のような舌が聖霊降臨で現れてくるんです。弟子たちと聖母マリアはロウソクのようなことになるということですか、そうではなさそうですけど、イメージとして、この人たちは霊の息吹によって内面的に燃える人たちです。それで自分で燃えるだけではなく、燃やす。それから照らす。このロウソクのことはこれですね。わたしたちを照らしてくださる。導きということでもあります。
もう1つのイメージ、わたしにとっては非常に好きですけれども、言葉。霊はこの特別な言葉ですけれども、英語とフランス語とスペイン語と日本語のようなことではないんです。文法的なことを言っていないんです。言葉はですね、ある意味で素晴らしいことでありながら、聖書の目で見れば、言葉は天罰だったんです。バベルの塔の物語があるでしょう。人間は昔、ただ1つの言葉だけ話していたので、彼らは天国で神が要らないんですから、天国まで自分の力によって行きますと、大きな大きな高い塔を作りましょう。それで神さまは、旧約聖書の物語ですが、彼らの言葉を乱したんです。だからその塔を作るために働いている人たちは、もう何もコミュニケーションができず、その塔は全部なくなってしまいました。だからある意味でいろんなたくさんの言葉がある時、わたしたちはその言葉の美しさを感じますけれども、子どもたちが中学あるいは小学校の時から英語を習わなければならないということは、そんなに面白いことではないんですね。それで、言葉によっては本当にいろんな誤解があって、いろいろなコミュニケーションの妨げになっていることは明らかなんですが、こちらはバベルの逆のことになってきます。ペルシャから来た人たち、エルサレムから来た人たち、ローマから来た人たちは、何と弟子たちが喋っている時には自分の言葉で聞いているんです。またもう一度申し上げたいんです。これは文法的なことと違います。コミュニケーションが完璧になります。
頭に浮かんでくるのは、日本ではザビエルのことです。ザビエルは明らかに、日本語の力は0に近かった。それなのにたくさんの人たちを信仰に導いてくださったんです。言語上でザビエルの話していることと、あの長崎の人たち、あるいは山口の人たちは一体何をしたのか。ですけど見事に、文法的な言葉ではなく、心から心への言葉ですね。非常にコミュニケーションは完璧だったんです。わたしたちもこれは何回も経験があるんですよ。多分文法的なことよりも心から心へ、心を打ち明けて話す時には、自分の家族、友だちの中でも、あるいは知り合いの中でも、コミュニケーションは言語よりも素晴らしいことであります。この意味で言葉の一致になるということですね。心の一致、コミュニケーションの一致になるということです。
また、他のイメージがあります。このイメージはとっても素晴らしいことです。弁護者という言葉が出てきます。弁護士ではない。弁護者。どうしてこれを言うんですか。原文ではあまり使われていない言葉、パラクレートス。そのまま今でも英語でもドイツ語でも使われているんです。ギリシャ語の意味はこれです。パラ、わたしの傍に、クレトス叫ぶ人。わたしの傍に叫ぶ人。それは弁護士みたいなことです。何かわたしが訴えられる時に、わたしは自分を守ることができないので、わたしの傍にいる人がわたしの代わりに話してくださるということです。弁護者、わたしの傍に叫んでいる力、これは霊です。だから訴えられる時には何をしようか、何を言おうか考えず、弁護者がいると。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」、これは弁護者です。
それでこれは本当にすばらしいこと。今日の第2朗読でパウロは、わたしたちの中で叫んでいる神の霊があります。わたしたちは神の霊を受ける時に神の子になる。イエスと共にこの霊は、イエス・キリストの霊、神の霊、それによって父と子との繋がり。その霊は、わたしたちはそれを受ける時に権利をもって、わたしたちも霊の力によって、神に向かって「アッバ、父よ」と言える。本当に子である。もう僕ではない。子である。放蕩息子、放蕩娘かもしれないけれど、子。いつも帰る権利があります。それは霊です。その神の霊、パラクレートスみたいにわたしたちの傍ではなくて、わたしたちの中で神に向かってアッバと言うんです。それによってわたしたちと神、天と地との間、イエス・キリスト、霊によってわたしたちは平和になります。
これで終わります。平和のしるしは鳩です。国連の鳩は聖書に出てくるノアの箱舟の物語の中のあの鳩です。嘴には枝をもって、鳩が確かにもう帰らない時に、天と地との間が平和になっている。わたしたちは箱舟から出て神さまに向かって感謝するとともに礼拝を行なうことになります。この意味です。この鳩はただ正義的な平和ではない。心の平和です。わたしたちが罪びとでありますけれども、求めたらゆるされるに違いありません。その神さまとの契約、平和、愛、親子です。