2022年5月 ミサ説教
5/1(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式) サトルニノ・オチョア 神父
5/8(日)10:00- 復活節第4主日(子ミサ) ボニー・ジェームス 神父
5/15(日)10:00- 復活節第5主日 マヌエル・シルゴ 神父
5/22(日)10:00- 復活節第6主日 ハビエル・ガラルダ 神父
5/29(日)10:00- 主の昇天の祭日 李 聖一 神父
主の昇天の祭日
李 聖一 神父
もうだいぶ日も経ってしまったんですが、この5月の連休に、わたしは一人で青森県の下北半島にある恐山というところを旅行してきました。別に行く気はなかったんですけど、下北半島、津軽半島両方行ってみたかったので、下北半島に行ったら恐山というのがあることに気がついて行ってみたんです。そこは死者の霊が集まるところというふうに言われていて、ちょうどそこにはお寺があるんですけど、そのお寺に入る手前に「三途の川」というのがあって、その三途の川を渡るために赤い色をした太鼓橋があって、おお、これが三途の川かと。そしてふっと見たらその太鼓橋のところに通行止めと書いてあったので、ああ、これは渡っちゃいかんのかと思って、とにかく車でそのお寺の方まで行ってそこを見てきたんですけど、行くもんじゃないと思いましたね。
死者が集まるという場所ですから、そしてその恐山というのはもともと、今でも活火山、生きてる火山で、そして硫黄のにおいと、それからむき出しの岩と、そういったものがゴロゴロしていて、その辺を歩いていくと無間地獄というような言葉があって、地獄というものをイメージするにはぴったりの場所です。こんなところなら来たくはないな、生きてる限り良いことしようかと思ったんですけど、とにかくそういう場所で、こんなところを観光地にするもんじゃないなと思いました。
しかし日本人の多くは昔から恐山のような、あそこにイメージされるような世界観というか死生観というか、そういったものを持っていたんでしょうね。ですから日本で人が亡くなった時にどういう言葉が使われるかっていうと、もちろん死亡とか死去という言葉は使われますが、往生するとか他界するとかそんな言葉が使われ、仏教的な世界観とも関わりがあるんでしょうけれども、何かそういった地獄というところ、そこに留まっている魂が救いの世界と言われるような浄土であるとか、あるいは彼岸の世界であるとか、そういったところに行くというのが仏教的な考え方です。そして最近ではそういった仏教というものともちょっと違うような感じで、死というものを少し穏やかに考えるところから、永眠するとか、あるいは逝去するというような言葉も使われてきたんだろうと思います。
ところがわたしたちカトリックの世界ではですね、人が亡くなった時にこういった言葉はあまり使わないんですね。どういう言葉を使うかっていうと、帰天という言葉です。天に帰る。これは実は日本語としては無いもので、カトリックの世界あるいはキリスト教というものの影響を受けて帰天という言葉が使われますが、日本の一般的な社会では使われない言葉なんです。天に帰る、そういった表現がある。日本の文化、伝統、宗教の中にないということですね。ここにちょっと注目すべきだろうと思うんです。
今日わたしたちは主の昇天をお祝いするんですけれども、イエスの生涯の最終段階といいますか、完成形といってもいいんだろうと思います。イエスのあの時代、死というものをどう表現したか、あるいは死者、死ぬということをどう表現してきたかというと、陰府に下る、あるいは旧約聖書の世界では塵に返るというような言い方をしたんですね。しかしイエスは死者の国に下って行き、そして復活なさったとわたしたちは言っているわけです。そしてその復活は死の世界に打ち勝ったということを示す言葉ですし、死に打ち勝って復活なさったイエスは最終的に天に昇ったと表現して、イエスの生涯を最後、そのような形で表したというふうに考えられます。
そしてまた面白いのは、昇天という言葉を使うのは聖母マリアだけなんですね。イエスは昇天した。マリアは昇天されられたという意味で被昇天という言葉が使われる。いずれもその生涯を全うしたという意味です。そしてそのようなところからカトリックの世界では人が亡くなった時に、イエスが天への道を開いてくださったから、わたしたちはそれを通って天に帰っていく、というような言い方をするようになったと考えられます。そういう意味では今日の祝日はとってもありがたいことで、わたしたちの生涯の完成した形というのがイエスによって示されたということですから、ぜひ今日ミサが終わったら外に出て、聖書はあなたがたはいつまで天を見上げているのかと言っていますけれども、今日は天を見上げて、あそこへ登っていくというか帰っていくんだなと思うと、何となく慰められるような気がします。しかも広い空を見るのがいいと思います。東京はあまりにも高い建物がいっぱいあるので、広い空を見ることがなかなかできません。しかし幸い、このイグナチオ教会の隣は真田掘があって、その高い建物が空をふさいでいるということがないので、ぜひ真田堀に登って広い空を眺めるということをなさったら、今日の祝日にふさわしい日を過ごすことができるんじゃないかと思います。
そしてもう1つ、イグナチオ教会ですからそれにちなんでお話しいたしますが、ロヨラの聖イグナチオはですね、エルサレムを巡礼します。そのために彼は怪我が治ったらエルサレムに巡礼しようとしてその巡礼を成し遂げますが、彼の自叙伝を読んでいくと、エルサレムのことについてはそんなに詳しくは書いていないんですね。いろんなことがあったというのは調べてみると分かるんですが、とにかくエルサレムに巡礼した。そこで自叙伝には1つのエピソードだけ詳しく書いてある。それはイエスが昇天した場所、これをわたしたちはオリベト山というふうに言い伝えていますけれども、そのオリベト山に登った。そしてそこには昇天した際のイエスの足跡が残っているので、それを見たかったというんですね。それでそこへ行って足跡を見て、ああ、ここからイエスは天に昇られたかと彼は思ったんでしょう。そしてその山を下りていく途中にふと思い出して、どっちが右足でどっちが左足だったんだろうかということが気になったんです。それでもう1回行ったというわけです。あの当時あの辺りを支配していたのはオスマントルコですから、そんなに簡単に行ける場所ではなかったんですけど、そこを見張っている人にペーパーナイフを渡して、これでもう1回行かせてくれとか言って、賄賂を渡したんでしょうね。それでそれからもう1回足跡を見に行って、どっちが右でどっちが左かというのを確かめて帰って来たというんです。
わざわざ自叙伝にそのエピソードを残したというのをわたしはとても不思議で、何だったんだろうなと思ったんですけど、イエスの足跡が残っているのはそこしかないということですよね。エルサレムやガリラヤはどこに行ったって、イエスの足跡は残っていないんです。そこにだけ残っている。それをなぜイグナチオはこだわったか。多分ですね、足跡と言うのは、それに付いて辿って歩んでいきたいという思いをイグナチオは持っていたからだろうなと思うんですね。誰々の足跡に従うというような言葉は、わたしたちはよく言う言葉、表現でもあります。何か偉大な人、あるいは自分が尊敬する人、そういった方の足跡に従うというそういった感覚というのは、わたしたちにも多分あるんだろうと思います。イエスに従うということを何よりも大事にしたイグナチオは、その足跡を見たかったんだろう、わたしはそのように思っています。
そういう意味で主の昇天というこの祝日を祝う時に、わたしたちはイエスの足跡に従う、そして開いてくださった天に帰っていく。そのことを願う1日ではないか、そのように思います。ご一緒にお祈りいたしましょう。
復活節第6主日
ハビエル・ガラルダ 神父
第1の朗読は非常に大事です。エルサレムの会議、問題はこれでした。ユダヤ人ではない外国人が洗礼を受ける時には、ユダヤ教を通してキリストに繋がるのか、それとも直接にキリストに繋げることができるでしょうかという問題でした。みんなで話し合って決定しました。やはり直接に、ユダヤ教を通さないで、割礼を受けないで直接に繋がることができます。これは大事な出来事です。
この方針を徹底的に確認したのは第二バチカン公会議です。この方針を決定的に承認したんです。つまり、たとえばミサは日本語です。歌も日本語ですね。前はラテン語です。ローマを通してラテン語で、わたしが司祭になった時には、1964年で東京オリンピックの時だったけれども、その時にはラテン語でした。でも今、各国の文化を生かして、風土を生かして、個性を生かして、直接にキリストに繋げるという大事なことでしたけれども、このテーマは聖書研究会のテーマですので、今日は福音について簡単にご一緒に考えてみたいと思います。イエス・キリストはこの福音でおっしゃいます。わたしが去って行くが心を騒がせるな。なぜかというと、寂しくなるけれども心配しないでください。なぜなら、わたしが去って行った時こそ、幸せになる。御父に会えるから。わたしはその時こそ幸せになる。そしてまた会うようになります。わたしがいるところにあなたがたもいることになります。今こそ幸せ。また会うのです。この2つの理由で心の平安を感じなさい。
では、わたしたちには亡くなられた愛しい方々がいますね。非常に悲しかった。未だに悲しい、寂しい。でも、この方々がイエス・キリストのような言葉をわたしたちにおっしゃるのです。すなわち、わたしは今こそ幸せ。また会うのです。この2つのことを感じ、信じれば寂しさの中でも平安を抱くことができると思います。ところが、どういうふうにイエス・キリストとわたしたちの愛しい方々がまた会えるでしょうか。それはわかりにくいことですけれども、イエス・キリストが教えてくださったのはこれです。ぜんぜん違った状況では、完全に異なった様子では、まさしく同じ人間は生きる、ということを教えてくださいました。様子も状態もぜんぜん違うけれども、同じ人間は神になるということをしなかった。同じ人間は生きる。イエス・キリストが復活してから何回も弟子たちに現れましたね。その時にはこのパターンが出てきます。
たとえば、マグダラのマリアに会った時には、マリアは彼をよく知っていたんです。すごく愛していましたけれども、隣にいたのにわからなかった。ぜんぜん違う様子で、「あなたは園丁ですか」と聞いた。その時イエスさまは、「マリア」とひとこと言った時に、彼女は心の目で見て、心で分かって「先生」と認めた。まさしく同じ人間だと分かった。でも全然違う。そしてまたエマオに逃げようとしていた2人の弟子がいましたね。イエス・キリストがひょっこり現れて一緒に歩いて、長く歩いて、そばに歩いて聖書について話しかけていたのに、彼らは分からなかった。同じイエスだと分からなかった。つまり全然違う様子です。ところがご聖体の時に心の目が開かれて、信仰で見て、まさしく同じイエス・キリストだとわかった。他の例もかなりあります。
では、わたしたちの愛しい方々も、全然違う状況で、全く違った様子で、まさしく同じ人間が生きる。まさしく同じ人間に会えるでしょう。そしてまたこの人たちはどういうふうに幸せになっているんですか。今こそ幸せ。何か火葬場から出てくる骨を見ると、どうしてこれが幸せになることができますかと非常に疑いますけれども、イエス・キリストは全然違った状況で、イエスさまはもうちょっと具体的な例を言います。永遠の命というのは宴会のようなものです。夕食会、御父である神を囲んでみんな仲良く分かちあって、食べて飲んで幸せ。愛し合って、幸せに仲良く生きる。これは永遠の命。もちろんその通りではないんです。まさか天国にはお皿とかテーブルなどはないはずですけれども、でもその宴会の時の雰囲気、みんなを繋げる愛は残る。それは幸せ。わかりにくいでしょうが、こんなものでしょう。
ですから今こそ幸せ。また会えるのですから、喜んで生きることにしましょう。神さまに対して感謝を抱きながら、これほどわたしたちと、わたしたちの愛しい方々を大切にしてくださるので、感謝して希望を抱いて、今を喜んで生きることにしましょう。これを願い求めましょう。
復活節第5主日
マヌエル・シルゴ 神父
今日の福音書とほかの聖書の箇所、また詩編などを読みますと、今日の1つの大きなテーマは、やはり愛だと思います。「わたしがあなたたちを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉です。
ご存じのことだと思いますけれども、ロヨラの聖イグナチオの霊操の中で、1か月の霊操の終わりには「愛を得るための観想」があります。そこにこういうことをイグナチオは書いた。「愛は言葉よりも行いによって示すべきである」。わたしたちは簡単に愛しているとか、いろいろな表現を使って言いますけれども、実際に愛というのは、マザー・テレサがおっしゃったように「愛は痛い」。人を愛する時に、わたしたちはある意味で自分を後にして、相手を大事にして、1番表にしてその人を大事にする。イエスは誰を愛しておられたか、どういうふうに愛されたか、福音にあるいくつかの例を皆さんに申し上げたいと思います。今日家にお帰りになって福音書を出したら、今申し上げるような聖書の箇所をもう一度読み返したらいいかもしれません。イエスはどういうふうに人々を愛したか。言わばイエスはどういうふうに人々を、どのように大事にしてくださったか。
いろいろな方々が福音書に現れますけれども、1つのグループは悩んでいる人たち、苦しんでいる人たちですね。皆さんも何回もお読みになったと思います。ナインのやもめのエピソードですね。息子が亡くなって、家に連れていく時にイエスがナインに入りますけれども、それを止めてお母さんに話すわけです。そしてそのお母さんは自分の子どもが亡くなったということをイエスにおっしゃったんです。それでイエスは亡くなった人に向かって「立ち上がりなさい」と。そしてそのままその人を母親に返した。悩んでいる人、苦しんでいる人をイエスは愛してくださった。
またもう1つの有名なエピソードは、ベトサイダの池がエルサレムにあったんですけれども、そこには病人が横たわって、イエスがお入りになった時にはプールがあった。そこに人々は、彼らの考え方ですけれども、プールに入れば治るという彼らの信仰だったんです。神さまが天使を送って水に触れる。それですぐその後に入る人は治るとか、そこに人々は横たわって待っていたんですけれども、イエスは近づいて、長い間そこにいた人に「なおりたいか」という質問をするわけです。彼は「誰もプールに入れてくれないから」。それでイエスは「立ち上がりなさい、床を取って家に帰りなさい」。悩んでいる人、苦しんでいる人を愛して、イエスはその人を生かす。
またイエスは子どもたちに対してもご自分の愛を表してくださいました。マルコ福音書には、人々は子どもたちをイエスのところに連れて、イエスに祝福してもらいたいという箇所があります。弟子たちはその子どもたちを追い出そうとしたんですけれども、そうするとイエスはそれをしないようにと指示されるわけです。子どもたちに対するイエスの心。
またもう1つの例は若い者、これもマタイ福音書にありますけれど、この若い人はイエスに憧れてイエスのもとに来て、「どうすれば救われるか」と聞くんですね。そうするとイエスは、これとこれを守りなさいと。すると彼は、それを全部小さい時から守ってきたと言います。福音書に書いてありますけれども、イエスはその人を愛をもって見た。「ではわたしについてきてください。自分を、いろいろなものを捨てて。」その人は帰るんですけれども、人を受け入れる、人の心を大事にして温かく受け入れるイエス。イエスの愛です。
またイエスは親しい人たちに対して、友人とか、有名な箇所ですけれども、ラザロですね。友達で亡くなったと。それでイエスは彼ら、ラザロとマルタとマリアの家においでになるんですけれども、そこにはいろんなやりとりがあります。マルタが出てきてイエスと話して、イエスがここにいらしたらお兄さんは亡くならなかっただろうと。そういうことがあってイエスはラザロに命を与えてくださるわけです。親しい人に対してイエスは愛情を持っておられたでしょう。そしてヨハネ福音書の非常にきれいなところがここにありますけれども、イエスは案内されて墓の前に立っていた時に、マリアとマルタの悲しみを見てイエスは涙を流した。福音書にはイエスが涙を流したというのは2回だけ書いてありますけれども、これが1つ。もう1つは弟子たちとエルサレムに入る前に丘から見えた。その時はこのエルサレムに大きな害が起こるということを考えた時に涙を流した、と聖書に書いてあります。人に対して心の愛と言いましょうか、あるいはイエスの愛の心。
また罪びとに対して、聖書には非常に心に残るもう1つの長いエピソードがあります。ヨハネ福音書の8章に姦通の罪を犯した女性がイエスのところに連れてこられて、ファリサイ派の人たちはその女の人を責めるわけです。それでイエスに、あなたはどうするか、何を考えているかと。イエスは何も言わないで、罪のない人は石を投げてもいいとそれだけをおっしゃって、みんないなくなっているわけです。その女性だけ残った時、イエスは彼女に「あなたを責めていた人たちはどうしたの?もうみんな行ってしまったか?」「そうです」「ではわたしもあなたを責めない。2度罪を犯さないように」と。
簡単なエピソードを皆さんに申し上げたんですけれども、そこに描かれているイエスはやはり愛の心を持っておられるイエス。そして人々との関わりの中心的なところはイエスの愛。頭よりも心なんですよ。イエスは限りない愛をわたしたちに示してくださったんです。そしてその愛は、わたしたちは時々忘れるんですけれども、その愛は無償です。条件付きではない。これこれを守ってくれれば愛しますよ、そういうことではない。何にもしなくても、あるいは場合によっては、悪いことをしたとしても愛されている。その無条件で強い愛をイエスは持っておられたわけです。
今日のミサの中でこのようなエピソードを思い出しながら、まず心からイエスには感謝したいと思います。それほどわたしたち一人ひとりを愛してくださる。大事にしてくださるわけです。自分が十字架につけられるまで。それほどわたしたちを夢中に愛してくださるわけです。そしてわたしたちをこんなに愛してくださったイエスは、わたしたちに弟子として世に送る時にはこれをおっしゃるわけです。あなたがたは互いに愛し合いなさい。そしてその愛を人々に伝えなさいと。今日のミサの中で、わたしたちここに集まっている人だけではなくて、すべてのキリスト者、またあえて言えばすべての人にこのイエスの愛が渡るように。そしてわたしたちはある意味で橋のように、イエスの愛が人々に届くように努めたいと思います。ミサの中でイエスは、イエスのようにわたしたちも人々を愛することができるように、大事にすることができるように、イエスのようにわたしたちの愛は無償であるように。何も求めないで自分を与える。簡単に言いますけれども、難しいですよね。
わたしは長い間夫婦のグループで、マリッジエンカウンターと言いますけれども、それに携わっていました。そこでいろいろな話がありましたが、1つ心に残った言葉、よく使われる表現ですけれども、愛は決断です。愛は感情ではない。感情が伴う時、伴わない時もありますけれども、愛は決断です。この人を選ぶ。この人のために生きる。この決断は本当の愛です。今わたしはこの教会で2つのグループで結婚講座、結婚の準備をしている人たちが幾人か集まっていますけれども、その人たちにも申し上げるんですよね。愛は感情だけではない。感じる時もありますけど感じない時もある。感じないからと言って、愛していないとは言えないです。決断です、愛は。選ぶ。先程のいろいろなエピソードを見て、イエスはわたしたちをどのように愛してくださったかと言いますと、わたしたちを選んだ。わたしたちに自分のすべてを与えた。十字架にかけられたイエスは軽い気持ちでいらしたわけではない。苦しんでいたにもかかわらず、その時も「主よ、彼らの罪を赦してください」と祈ってくださった。それほどイエスはわたしたちみんなを愛してくださるわけです。
今日のミサの中で心を合わせて、イエスの弟子として、まず人を深い意味での心からの愛を持つことができるように、そしてその愛を人々に伝えることができるように心を合わせて祈りたいと思います。簡単に言えるんですけど難しい。わたしたちの力だけでとてもできないものですから、ぜひ今日のミサの中でお互いのために、キリスト者としてわたしたちは本当にイエスの愛を証ししながら、その愛を人々に伝えることができるように、導いてくださるように、共に祈りたいと思います。
オンラインで学ぶ聖イグナチオの霊操「愛を求める観想」(最終回)
お説教の中で触れられた「愛を求める観想(第4週)」を配信しました。ぜひご覧ください。
復活節第4主日(子どもとともにささげるミサ)
ボニー・ジェームス 神父
今日の聖書箇所の中によく出てくる2つの言葉は「羊」と「羊飼い」です。
わたしたちにはあまりなじみのない言葉かもしれません。羊という動物ですね。そしてその羊の世話をする羊飼いたち。聖書の中でイエスさまが生まれたところで羊と羊飼いの話が出てくるんです。そのように聖書の中で、いろんな統計がありますけど、500回以上、羊あるいは羊飼いという言葉が出てくるみたいです。聖書の中で1番よく出てくる動物が羊なんですね。
これはどうしてでしょう。本当に簡単に言うと、羊と羊飼いの間の絆を示しながら、神さまとわたしたちの間の絆を説明するために使っています。神さまとわたしたちの間の愛、神さまがわたしたちをどれほど愛してくださっているかということを示すために使っています。
そうは言ってもわたしたちは慣れていない動物なんですね。当時の人々はこの動物にはよく慣れていました。羊と羊を飼う人たちはよく見られていたので、イエスさまがその当時この話をした時、みんなすぐ納得したと思います。みんなわかっているから。でも、わたしたちはわからないですね。皆さんの中で羊を見たことがある人?あ、1人。そこにも何人かいると思います。でも少ないですね。どこかの動物園に行かないと見れない。そういう羊なんですが、わたしたちにはあまりなじみがないですね。
わたしたちにとってもっとも近いもう1つの例を使いながら、神さまの愛を示すことができると思います。
たとえば、神さまの愛とはこういうふうに示すことができます。お母さんと小さい赤ちゃんの間の絆のようなものである、というふうにも言うことができます。皆さん、知っている人もいると思いますが、小さな赤ちゃんは言葉ができないですね。でも、言葉ができなくても、たとえば赤ちゃんが体調を崩したとしてもお母さんはすぐわかります。わたしは今、頭が痛いとか、ちょっと助けてくださいと、本当に小さな赤ちゃんは言わないですね。でもお母さんはわかります。コミュニケーションができるんですよね。ちょっと顔色が変わったら、それだけで赤ちゃんが何かちょっと様子が違うんじゃないかと思って、赤ちゃんの世話をするんですね。
神様とわたしたちの間の愛、あるいは絆も同じようなものであると言うことができますね。わたしたちはもしかしたら自分で言えない、あるいは苦しんでいる部分とかは心の中にあると思います。それが誰にも話せないこととか、そういうこともあると思いますね。でも、それらのことは全部神さまが知っています。そういうことを意味していますね。
聖書の中でこれをもっともわかりやすく、こういうふうに言っています。たとえば「女が乳飲み子を忘れても、もしそういうことがあったとしても、わたしはあなたたちを忘れません」と聖書のイザヤ書の中に書いてあります。それが神さまの愛ですね。それが今日の福音の中で、羊と羊飼いの間の絆、それを通して神さまの愛を説明しているわけです。
聖書の中に他にもとてもいい言葉があります。羊と関係している言葉ですね。たとえばルカの福音書15章なんですけれども、「あなたたちのうちに100匹の羊を持っている人がいたとする。その1匹がいなくなったら、1匹を捜し求めていかない羊飼いがいるだろうか」という言葉もあります。これも神さまの、わたしたちに対しての限りない愛を示す言葉なんですね。
乳飲み子はお母さんの声をよく聞き分けることができるんですね。時々思いますけれども、違うお母さんが子どもを名前で呼んでも、もしかしたら認識できない赤ちゃんもいるかもしれないですね。だから自分のお母さんにしか応えない、そういうことがあるわけです。羊も同じような存在なんですね。自分を世話してくれている羊飼いによって呼ばれた場合しか行かないですね。たとえば他の誰か、不審な人が来て、一緒に来てくださいと呼んでも羊は一緒に行かないです。羊は羊飼いの声をよく知っているからなんですね。
わたしたちも同じように、羊飼いが誰であるかということをよく知っておく必要かあると思います。
一般的にはイエスさまがわたしたちの羊飼いであると言いますけれども、実際に誰がわたしたちの羊飼いでしょう。一番身近なところにいる羊飼い、誰でしょう?
それが家族の人ですよね、恐らく。お父さん、お母さん。そしてもちろん教会に来たら、皆さんの大好きなリーダーたちですね。あるいは学校に行ったら先生たちかもしれないですね。わたしたちに良い道を教えてくれる人、誰でも良い羊飼いだと思います。そういう羊飼いの声を聞き分ける。そしてそれに感謝する。それが神さまがわたしたちに望んでいることではないかと思いますね。
今日は特に母の日です。わたしたち一人ひとりがそれぞれの母の胎内にいて、10ヶ月も一緒に暮らしたんですよね。世界で一番長く一緒に暮らした人がいるとすれば、それは一人ひとりが、それぞれのお母さんのおなかの中にいた時です。それが1つの大きな家族の絆なんですね。そしてその家族の絆を通して、わたしたちは神さまからの愛を感じるということなんです。今日は特に母の日であることにあたって、家族の一人ひとりに感謝しましょう。そして世界中で苦しんでいる子どもたちとか、あるいはうまくできていない家族とか、そういったところもあると思います。すべてがうまくいくということでもありませんね。ですからそういった家族のためにもこのミサの中で祈りたいと思います。羊と羊飼いの絆を、わたしたちの毎日の生活の中にも生かしていくことができるように、この御ミサの中で祈りたいと思います。
父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
復活節第3主日(改宗式)
サトルニノ・オチョア 神父
今日の福音は聖ヨハネの福音の終わりくらいのことですが、イエスさまが弟子たちにお現われになったこと。他の福音には出てこないんです。これはヨハネの福音だけのものです。それからヨハネの福音の特徴も非常にきれいに出てきます。ペトロのこと、それから「あの弟子」のことですね。
「あの弟子」には名前がない。無名です。訳もなく5回くらい出て来て、訳もなく消えてしまって。それで「あの弟子」は一体誰でしょうか、と山ほどの本があります。今でも書かれているわけです。昔からヨハネだという伝統があります。でもそれはどうでしょうか。現代は「あの弟子」よりも、名前がないんだから教会のことだと言っている。聖ヨハネの福音に従っていく「あの教会」でしょうと。現代はそれを本当に心から皆さんにおすすめしますが、その愛される弟子、名のない弟子は、どこでも訳もなく出たり、出てくるイエスは、これはどんな時代、どんな所での理想的な信者さんです。信じる人。どこでも、どんな時代でも。中世期の時代の信者、現代の信者。この東京のイグナチオ教会の今、このミサを受けている信者さんです。愛している人、愛される人。見る人、わかる人、悟る人。「主だ」と。隣にペトロがいるんです。ペトロは本当に弟子たちの頭であり、認められるんですが、ペトロは同じことを見てわからない。「あの弟子」は見て悟る。
多分2週間前、よく似ている場面があります。マグダラのマリアは墓に行って、墓は空っぽです。そうするとすぐ走ってペトロの住んでいる所へ行きましたが、信じない。主はもしかしたら取られたんです。今、墓にない。ペトロは走って墓へ行くんですけれども、「あの弟子」もいたので、2人とも走っていったんです。けれども、「あの弟子」はもっと早く走っていくんです。ペトロも着いた時に入る。2人とも全く同じことを見ながら。このような素晴らしい文章があります。ペトロは全部見て、「あの弟子」も同じことを見て、「あの弟子」は見て、信じた。言いたいのは、「あの弟子」は心の目で見て信じた。ペトロは一番偉いですが、見て、それから何も言わない。というと信じなかったんです。
ペトロはそれなのに1回、2回、3回も、この人を知らないと言った時に、そのような大きな悲しみ、心の中に罪に意識を持っていた。イエスが海辺でパンを食べながら、そのパンももちろんわたしたちのパンを裂く式と同じことです。それでペトロに、ペトロと言わない。ヨハネの子シモン。これは大きな信仰の告白です。今日、後で行われることと全く同じことです。ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。1回、2回、3回。ペトロは本当に寂しくなるほど非常に謙遜で、わたしも自分で言う勇気がない。あなたがご存じです。わたしはあなたを愛します。その信仰の告白は素晴らしいです。
その信仰の告白はシモン・ペトロ、教会の頭としては、そこにわたしたちの信仰も入っています。わたしたちもペトロのように罪びとであるので、いつも罪の意識から救われた。それで罪びとでありながらも愛されるんですが、わたしたちの方から、ちっぽけな愛し方かもしれないけど、その愛に応えることです。主よ、あなたはそれを知っています。あなたを信じます。あなたを愛します。自分の惨めさから声が出る。それでイエスさまが、「はい、ありがとう」と言わなくて、ミッションを与える。みんなに仕えなさい。わたしの羊を飼いなさい。それは本当に教会的なことです。
皆さん、最後にこれをもう一度見てください。今日の福音のステンドグラスになったのはそこです。それを見たら、1番上にボートみたいな、舟があります。その舟に十字架もあり、網もあり、いろんな形、いろんな色の魚もあります。これは今日の福音のことです。その本当に弱い網の中では、信じられないほど多くの魚も入った。わたしたちです。神の民です。わたしたちだけに限らないことですね。招かれたのはすべての人間です。それはわたしたちのミッションであるように、今日もこのような教会の広さ。イエスさまの愛の中でわたしたちが本当に漂っている、抱かれているのです。ゆるされているので、このミサを続けたいと思います。