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2022年9月 ミサ説教




2022年8月 | 2022年10月


年間第26主日

 酒井 陽介 神父

9/25(日)10:00- 年間第26主日


 私たちは今ちょうどお彼岸であります。今日の福音は、どこかお彼岸のイメージを私には彷彿させます。
 今日の福音をひとことで言うなら、金持ちと貧者ラザロの境遇があの世で逆転したということです。当時のユダヤ社会では、これに似た民話があったということですから、イエスはその民話を意識しながら、たとえ話を話したのだろうと思います。


年間第26主日 ソフィア通りの花壇に咲いた白い彼岸花。カトリック麹町 聖イグナチオ教会 まずは、お彼岸ということからみていきたいと思います。彼岸という言葉はみなさんご存じのように、仏教の言葉であり、煩悩の悟りの境地、極楽のことを指します。三途の川を挟んで私たちが住んでいる世界を此岸(しがん)、そして、あちらの仏さまの世界を彼岸というわけです。
 春分と秋分の日は、この世と極楽浄土が通じやすい日と考えられていますから、春分、秋分の日を中心に、お彼岸が行われています。さて、これ以上お話しすると講話になってしまって、ここがどこだかわからなくなってしまうので、これぐらいにいたします。


 今日のたとえ話の設定と、ちょっと似ているなという気がしないでもありません。黄泉(よみ)で苦しんでいる金持ちは、天の宴席・彼岸にいるラザロをうらやましく思い、「自分の苦しみを少しでも和らげるように、ラザロに頼んでほしい」と、アブラハムに願うのです。そして、「それはできない」とはっきりと断られる。すると次は、せめて此岸に残る兄弟たちに、「今のうちに改心するように、ラザロに言ってほしい」と願う。それもまた、断られます。ちょっと切ない話ですよね。私はこの話から2点、皆さんと分かち合っていきたいのです。


 第1点、今はお彼岸ですし、私たちの亡くなった親しい人々のことを思うときでもあります。聖書で言うところの黄泉の国、すなわち死者の世界は、いったいどういう場所、どういう状況かということですが、実は私、まだ行ったことがないので、よくわかりません。一つ言えることは、そこは清めの場所ではないかなということです。この清めというのは一つポイントになるかなと思います。


 カトリック教会の伝統の中で言う「煉獄(れんごく)」というのがありますよね。今、それがあまり使われなかったり、聞かなかったりする表現かもしれませんが、あえて、このお彼岸にあたって、煉獄を思い出してみるというのは、とても大切なことのように思うのです。ラテン語では、「Purgatorium(プルガトリウム)」と言います。「プルガーレ」が「浄化する」、「清める」ということですから、まさに、「浄化」、「清め」ということですね。それが行われる場、状態のところです。煉獄にいる魂のために祈るというのは、私たちの祈りの伝統の一つですが、ふだんそれほど意識することはないかもしれません。


年間第26主日 司式の酒井神父のお説教。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 神さまはみんなの救いを望んでいるのだから、亡くなったら天国へストレートに行くに違いないという声も聞こえます。もちろん、神は御手を広げ、私たちの魂を受け入れてくださいます。ただし、神の身元に迎えられるまでに、清めの体験をするのではないでしょうか。たとえば、亡くなった人の魂が天に向かう道すがら、どれくらいの時間かはわかりません。しかし、この世において、罪人であった自分を振り返る場、時間というふうに捉えることができないでしょうか。それは、私たちの考える時間、生きている時間、空間という概念を超えています。簡単に計ること、比較することはできません。


 でも、お彼岸に、たとえばお墓参りをする、地下にお墓がありますから、そこに家族の方やお友だちがいれば、きっとお祈りをすると思いますが、祈るとかお供えをするというのは、私たちが亡くなった方の霊魂のために祈るということであり、その行為は清めを終えた魂と、まだ清めの中にいる魂と、此岸にいる私たちの思いが結ばれるとき、祈りの中で絆があたためられるときではないかなと思います。だから、亡くなった方々を思い起こし、祈りを捧げるということは、大切なことだと思います。


 清めは、亡くなった人だけではなく、場合によって、この世にあるとき、すでに体験している人たちが、実はたくさんいると思います。生ける魂が、この世の煉獄にあるという、そんな状況もたくさんあるのです。


 たとえ話の金持ちは、この世での清めを体験しなかったのか、それを清めとさえ思わなかったのか、清めと言ってみればそれは実存的に体験する、意識するということですから、ある意味、謙遜さが問われるのですよね。
 残念ながら、この金持ちは、それを認識できなかったようです。しかし、彼は黄泉の国での清めの中にいる。しかしこの人は性懲りもなく、ラザロを自分の都合のために使おうという、何とも傲慢さが抜けきらない。こんなお願いをしている間はしばらく神の国には行けないのかもしれません。 きっと、この金持ちのために祈ってくれる兄弟がいれば、おおいに助けられることでしょう。しかし、どうもこの兄弟たちもそんなことはしなさそうです。そこが何とも切ない。


 私たちの親しい人々、家族、先祖たちを思い出します。この彼岸のとき、彼らが今どこにいるのか、この世にいる私たちはわかりません。だから祈るのです。それは、この世とあの世の魂が交差して祈り合うひとときになります。ですから、清めということを念頭に置いて、お彼岸にお墓参りなどされるといいのではないかなと思います。


年間第26主日 クリプタ(納骨堂)へ降りる階段のステンドグラス。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 もう1点、アブラハムが金持ちに、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、何の意味があるか」と言ったことです。
 モーセと預言者ということは、律法のことです。生きている間、目の前に、神からの思いが詰まった掟と教えがあるのに、それを今生きないで、生きている間にそれに従わず大切にせず、果たして何の意味があるのか。だから、永遠の命とか神とともにある安息というのは、死ぬそのときになってジタバタするのではなく、今それを生きているか、生きますかということにかかってくる。生きている間に何の恩恵にもよくすることのなかったラザロに、神が特別に目をかけた。ラザロは、貧しい人というだけで詳しい説明はありません。ただ、慈しみ深い神は、この世で貧しさを生き抜いた彼に、あの世での安息を与えた。彼には、何もなかったからです。しかし、金持ちには、すべての富も改心できる機会も可能性もありました。しかし彼は、自分の暮らしだけに心を砕き、門前にいた他者ラザロを思いやることがなかったのです。そんな彼は、神の思いそのものである律法、すなわち、神と隣人を愛する教えをないがしろにしたのです。


 ですから、今を生きるというのは、私たちキリスト者にとって、信仰者にとって、自分の生きている現状の中で、神の教えを生きていく、引き受けるということです。それは、他者へのかかわり、優しさ、理解という具体的な行動なのです。それらを、今を生きないで、いつ生きるのか。これが、アブラハムが金持ちに、イエスが私たちに伝えていることなのです。


 お彼岸という言葉には、私たちがもっている煩悩に打ち勝って悟りの境地に達することができるように、六波羅蜜(ろくはらみつ)という修業があって、その修業を積む期間だということが言われているそうです。


 私たちキリスト者には、お彼岸に限らず、福音的な実践をすることができると思います。教会の伝統ではそれは、体を使った憐みの七つの技と言われています。
 1つ、飢えている人を食べさせる。
 2つ、乾いている人に水を飲ませる。
 3つ、裸の人に服を着せる。
 4つ、家のない人に宿を貸す。
 5つ、病人を見舞う。
 6つ、牢獄にいる人を訪ねる、または囚われている人を解放する。
 7つ、死者を葬る。


 お分かりのように、これらはマタイ25章からとられています。こうした具体的な実践を、日常の営みの中で、今すること、今生きること、ここから、神とともにある永遠の命が始まるということです。観念的なことではなく、体を動かして、近くに行って、手を使って、足を使って、かかわっていく。そのとき、もうすでに永遠の命が始まっているんだということです。
 今日は、世界難民移住移動者の日です。彼らとともに、今できること、あるのではないかなと思います。



年間第25主日 トアン神父・越智神父 初ミサ

グエン・ミン・トアン 神父

9/18(日)10:00- 年間第25主日


年間第25主日ミサ司式のグエン・ミン・トアン 神父と、越智 直樹 神父の叙階式の様子。
トアン神父と越智神父 叙階式(2022年9月17日)

 2015年6月に来日しました、イエズス会のグエン・ミン・トアンです。昨日、神さまの恵みと皆さんの祈りのうちに、司祭に叙階されました。今日は、少し自分の紹介、特に司祭になろうと思ったことについて分かち合いさせていただきます。

 私は幼児洗礼で、ずっとカトリック教会の環境の中で育てられました。私が父と母と一緒に住んでいた家は、両方の祖父と祖母の家と近かったので、ほとんど毎日そこで過ごしました。そこで私が体験したのは、祖父と祖母の家の中で見守られながら温もりを感じ、特に祈ることでした。朝早く起きて、教会でミサにあずかったり、夕食後家族が皆集まって、祈りをしたりしました。
 私が文字を読めるようになったとき、祖父から指示されて、晩の祈りの中で翌日の福音をみんなの前で読むようになりました。家族との生活は物質的に豊かではなかったですが、幸せでした。


 また、教会では子どもたちのために、毎日午後5時ごろからミサが行われ、私もそのミサによくあずかりました。さらに、週に2回くらい、講座や聖歌の練習があり、それらにも参加しました。講座はほとんど暗記することばかりでしたが、友だちと一緒に楽しく学びました。


年間第25主日ミサ司式のグエン・ミン・トアン 神父と、越智 直樹 神父の叙階式の様子。イエズス会の司祭たちから按手を受ける。
トアン神父と越智神父 叙階式(2022年9月17日)

 毎日あずかっていた教会の中で、司祭たちが祭壇で手を広げてミサを捧げている姿をずっと見ていたので、いつからか私の心の中に、その姿が入り込んでいました。今でも振り返ると、その姿は美しいと感じました。その姿を通して、少しずつ神父になろうという望みが強くなりました。 ただ、どのように実現できるのかと、高校を卒業してから探し始めました。ドミニコ会や教区司祭はよく知られていましたが、イエズス会はあまり知られていませんでした。でも最終的にはイエズス会に入会することになりました。私がイエズス会に入った理由は、別の機会があれば話させていただきます。


 私が司祭になろうという望みは家族みんなと故郷の教会の人々に支えられたおかげであり、また祭壇で奉仕する司祭の姿を見ながら自分の望みが強められ、私はその望みに動かされる体験をしました。その他、私たちが今日の福音に心を留めながら、神さまに仕える忠実な管理人になれるように、祈りと支えをお願いいたします。今後ともよろしくお願いいたします。


トアン神父様・越智神父様 叙階式(2022年9月17日)
司祭叙階 おめでとうございます!


年間第24主日 子どもとともにささげるミサ

ボニー・ジェームス 神父

9/11(日)10:00- 年間第24主日


年間第24主日ミサ 司式のボニー神父が子どもとともにささげるミサのパンフレットを示している。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の私たちのミサのテーマは、小さなパンフレットにもあるように、「迷子の羊を探す神さま」となっています。神さまは私たち一人ひとりを大切にしてくださっている、という意味の聖書の話ですね。


 でも、今日の聖書を見てみると、不思議なことが一つあります。羊飼いは100匹の羊を持っていました。その中から1匹が逃げてしまった。聖書によると、羊飼いはその1匹の羊のために、残っている99匹の羊を野原に残して、見失った1匹の羊を見つけ出すまで探し回ったと書いています。野原に残している99匹も、もしかしたらライオンやトラに食べられちゃうかもしれないね。でも、聖書の中にこのように書いています。不思議なことなんですよね。


 それから、もう一つのたとえ話ですが、10枚のお金、たとえば1,000円くらい持っていたとすれば、そのうち100円がなくなった。そのため、家の中を探す。探して見つけたら、その100円を見つけたということで、近所の人もみんな集めて、お祝いをしましょうと言う人はいるでしょうか。少し不思議ですね。


年間第24主日ミサ 子どもとともにささげるミサに参加する子どもたち。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 神さまの考え方と私たちの考え方の違いが、ここで表れてくると思います。私たちは、とても小さいと思うことが、神さまにとって大事なことであるということなんですね。もしかしたら、私たちもそういうふうに思うときがあるかもしれません。
 私が何をしてもうまくいかない、あるいはみんなができるのに私だけできない、あるいは、私のさまざまな悩みをだれもわかってくれない、あるいは私の小さな祈りを神さまが聞いてくれるかとか、そういうふうに思われるときがありますね。自分が何もできないと思って絶望するときとかありますね。他に行き場がない、行き詰まりになってしまうときもありますね。そういったときこそ働く、神さまの愛の技を意味している聖書の箇所なんですね。


 今日の聖書の箇所は、本当はもっと長いんです。短いバージョンを選んだのですが、今日の聖書の話の中で、羊の話となくなった銀貨の話と、もう一つの大事なたとえ話が一つのセットになっています。三つのたとえ話のセットです。


年間第24主日ミサ 司式のボニー神父から聖体拝領や祝福を受ける子どもたち。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日入っていないところは、放蕩息子のたとえ話です。その話は、皆さんが知っていると思います。父の家を出ていく息子の話ですね。その息子は家を出ていったとき、自分の財産を全部もらって出ていくわけですね。自分のもらうべきお金を全部もらって家を出ていく。その意味は、家と関係を完全に切った。お父さんとの関係を完全に切って、自分で生活をしようと思っているわけですね。 でも、その息子さんが、けっきょく自分の生活に絶望して家に戻ってくる。そのとき、お父さんがこういうふうに言います。「この息子は死んでいたんです。でも今帰ってきています」。そうやって息子を受け入れるわけなんですね。その息子は死んでいるという言い方をするのですが、「死ぬ」というのは私たちのいちばん弱い状況を示す言葉なんですね。あるいは、何もできないという状況を示す言葉なんです。そこでこそ働く神さまの愛の技なんですね。そういうふうに、お父さんにとって、亡くなったと思う息子でさえ受け入れる、そういう神さまの愛の深さを意味しているわけですね。
 ということで、今日の羊のたとえ話、なくなった銀貨のたとえ話、そこで信じがたいと思うところがありますが、一匹のために99匹を捨てて探し求める羊飼いを通して、私たち一人ひとりを探し求めてくる神さまの話を私たちに伝えようと思っています。一人ひとりが、こうやって神さまから離れていくときがときどきあると思います。でも、それを思って、どんどん離れていくのではなく、神さまの元に戻ることができます。


 いなくなった一匹の羊を待っている神さま、愛の技を神さまは持っているわけです。神さまのはかり知れない、限りない条件なしの愛に信頼を得て、私たち一人ひとりが、毎日直面するさまざまな試練、さまざまな問題を、いろいろなところで乗り越えていくことができるように、このミサの中でお祈りしたいと思います。

 父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。



年間第23主日

柴田 潔 神父

9/4(日)10:00- 年間第23主日


 今日は3つのお話をします。1つ目は、イエス様の弟子になる条件について、私自身の召し出しからお話しします。2つ目は「被造物を大切にする」取り組み、カブトムシ難民募金についてお話しします。3つ目に、最近観た映画からご紹介いたします。


年間第23主日ミサ 主司式・柴田 潔 神父。お説教中の様子と主聖堂の祭壇・イエス様・天窓 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 最初に、私の召し出しの話です。イエズス会に入ることを考えていたときです。信者ではない家族に、司祭になることをどう説明したらいいか、いろいろ考えて、「この路を」(今は「仕えるために」とタイトルが変わっていますが)という司祭叙階式に配られるパンフレットを母に渡しました。その中に、今日の朗読にある弟子の条件の箇所がありました。「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。


 この中の「憎まないなら」という言葉で母の表情がこわばりました。「一生懸命育てた親を憎むように勧める宗教とは何ごとか」と疑問がわきます。翻訳の問題もあったと思いますが、逆効果になってしまいました。父からは、「家族を持ち、会社で揉まれながら信仰を持つことの方が立派ではないか」と言われました。この言葉は、今も思いますが、まさにそのとおりです。現在、ご家庭とお仕事、信仰生活を両立されている方、お父様、お母様は本当にすごいと思います。両親の言葉に、「家族の反対に耳を貸さない自分は、冷たい人間かもしれない」という思いもわいてきました。


 当時の私は、自分自身も、半信半疑でした。司祭がどのようなものなのかもわかっていなし、叙階される保証もありません。私の場合、家族を引き裂く、先が見えない、などの課題がありました。弟子として、イエス様についていけるのか、試されていました。


 けれど、あとから思えば、見通しが立っていたら、甘く考えていたかもしれません。また、家族が簡単に認めていたら、世間一般の感覚から離れていたかもしれません。
 結局大事だったのは、神様に賭ける思いの強さでした。自分を投げ出す思い切り、失敗して倒れても後ろではなくて前に倒れたらそれでいい、そんな意気込みだったと思います。自分が持っているものを計算するのではなく、全部神様に差し出すこと。そんな生き方に巡り会えたらとても幸せなことでしょう。
 皆様も、いろいろな場面で試されながら、イエス様の弟子になっていきましょう。


2022年度・12代目のカブトムシ。教会学校のお友達や生け花グループ、聖堂係の方たちのご協力でたくさんのカブトムシを通じた奉仕ができました。

 2つ目は「被造物を大切にする」取り組みのご紹介です。「人間以外の被造物」と言えば、ペットやお花などの自然の生き物、月や星、海や山などの大自然を思い浮かべるでしょう。私が大切にしている「被造物」と言えば、カブトムシです。難民支援のカブトムシです。カブトムシの飼育は2011年の東日本大震災の被災地支援から始まりました。今年で12世代目です。初代はカンガス神父さんが今おられる山口から始まって、昨年から岐部ホールの地下で育てるようになりました。


 今年は、新しい喜びがありました。昨年お譲りしたカブトムシのオスとメスのつがいから卵が生まれ、教会学校のお友だちが、成虫になるまで1年大事に育ててくれて、成虫を私のところに持ってきてくれたことです。ある教会学校の親子は、成虫を8つがいも私のところに届けてくれました。ほかにも、生花グループの方、聖堂係の方からも成虫をいただきました。生き物を1年間お世話するのは大変なことです。大事に育てた成虫を、「次のお友だちのために分けてあげたい」。素敵な「命の分かち合い」だと思います。
 これまでカブトムシは、「私が育てて、お分けするもの」と思っていましたが、今年は違いました。みんなで育てる喜びを感じました。私が育てたカブトムシに加え、お父さんと一緒に育てたカブトムシ、ご夫婦で育てたカブトムシが合わさって、40つがいがもらわれていきました。


主聖堂ステンドグラス「野の花と道」を見上げる。夏の終わりの光を受けている。

 3つ目は、最近観直した映画『シンドラーのリスト』の最後の場面にある素晴らしいやりとりをご紹介したいと思います。


 オスカー・シンドラーはこう言いました。「1つの生命(いのち)を救う者が世界を救える」、「もっと救い出せた」。
 会計士のイザック・シュターンはこう言います。「オスカー、あなたはここの1,100人を救ったんです」、「彼らから新しい世代が育ちます」。
 オスカー「もっと大勢救えた」、「車を売れば10人を救えたはずだ。10人だぞ」、「この金のバッジで2人救えた。いやたとえ1人でもいい。1人救えた。人間1人だぞ。努力すればもう1人救えたのに…しなかった」。
 (シンドラーとイザック・シュターンは抱き合って、お互いの思いを伝えます)


 カブトムシの話に戻りますが、命を育みながら難民を支援する取り組みです。小さな支援を今年もできました。献金は20万円になり、難民支援協会さんに送金しました。(認定NPO法人 難民支援協会ウェブサイト ) 「来年はもっと神父さんに成虫を届けたい」と思っているお友だちがいます。とても嬉しく感じています。昨日も、幼虫を40匹持ってきてくださった方がいました。大きなカブトムシになるには幼虫のときに質の良いカブトムシ飼育マットが必要です。こちらにもご支援いただけると嬉しいです。


 一人ひとりが「被造物を大切にする」、「命を大切にする」取り組みを見つけて、実践していきましょう。


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