2022年10月 ミサ説教
10/2(日)10:00- 年間第27主日 ハビエル・ガラルダ 神父
10/9(日)11:00- 年間第28主日 教会祭 サトルニノ・オチョア 神父
10/16(日)10:00- 年間第29主日 レンゾ・デ・ルカ 神父
10/23(日)10:00- 年間第30主日 サトルニノ・オチョア 神父
10/30(日)10:00- 年間第31主日 サトルニノ・オチョア 神父
年間第31主日 結婚感謝ミサ
サトルニノ・オチョア 神父
ただ今読まれた福音のことを少し説明し、皆さんといっしょに味わいたいと思います。
ご存じのように、福音ではたくさんのたとえ話があります。たとえ話は文字どおり「話」です。イエス・キリストの作った話で、特別な深い教えを、私たちには常識に反するくらいの教えを教えてくれます。
今日のザアカイのこと、これはたとえ話ではないのですが、いろいろな学者によると「たとえ演技」です。イエス・キリストはそのたとえを演じているような、自分の行動で自分のやり方で示します。どうしてそんなことをするのですか。イエス・キリストの言葉を聞くということではなく、イエス・キリストのやり方を見ることによって、私たちは非常に演技を見ているみたいに、すばらしいことを習うことができます。
まず第一に、場所、エリコは砂漠の中で、オアシスのようなところです。とても富んでいる町です。たくさんの昔のタラバンや旅行する人たちは、エリコを通らなければならない。今でもそこへ行くと、びっくりするほど砂漠の荒れ野の中で、突然エメラルドのようなエリコが出てきます。30年前、イスラエルではなくパレスチナの頭(かしら)であったアラファートはそこに住んでいました。
ザアカイという名前は「清い人、罪のない人」です。ザアカイという人がいた。その人は徴税人の頭であった。聖書の『ルカによる福音』では、徴税人と罪人は同じことです。こちらに少し皮肉のように、この罪だらけの人は清い人と言われている。ユーモアのようなことが出てきます。
ザアカイは背が低いので、イエス・キリストを見たいそうです。好奇心が出すぎですね。「私の罪を許してくださる」とか何もない。ただ、「あの人いったい誰ですか」というだけ。木に登って、そこから見えるようになります。そこで、彼の予想したとおり、イエス様が木のそばに来ると、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家にぜひ泊まりたい」と言います。非常に面白いことがあります。イエスは何も頼んでいません。「ぜひ泊めてくれ」とは言っていません。「泊まりたい」と言っています。
イエスの名前は「救い」という意味です。ザアカイは、喜んでイエスを迎える。ザアカイはイエスを探していない。イエスはザアカイを探しているということです。喜んでイエスを迎え、彼の心は変わる。金持ちですが、そのお金はどういうふうに作ったのか。徴税人ですので、悪いやり方で作ったにちがいない。「私の財産の半分を貧しい人々にあげます」、「もしかしたら、だれかからだまし取っていたら、四倍にして返します」と言います。四倍というのは、昔の律法では、このようなお金の問題があったら、罰として四倍をお返しするということだったのです。
このようにして、ザアカイは法的にも良心的にも「ザアカイ(清い)」になる。きれいになります。これを見て、非常に感謝するべきですね。それを見ている皆さんは、「これはダメです。あの人は徴税人の頭です」と言います。ザアカイの改心を見ても受け入れていない。そういう人はダメです。
イエスは、「この人は、救われた人です。この人は、今はザアカイ(清い人)になった。きれいになった」。だから、イエスは喜んでいます。どうしてですか。救いがこの人を訪れたからです。文字どおり、救い(イエス)がこの人の家に入った。このたとえ演技は、イエスは本当に救いを私たちの心にもたらしてくださるのです。私たちがイエス・キリストを探しているからではない。イエス・キリストは私たちを探しているのです。
聖書の最後の本では、このきれいなイエス・キリストの姿が出てきます。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」(ヨハネの黙示録 3章20節)。
私たちが神を探しているよりも、イエス・キリストが私たちの心のドアをたたいています。ここに立って、開けてくれるなら一緒に食べましょう。これは私たちの本当の救いだと思います。
ザアカイのように、喜んでイエス・キリストを迎えることができますように。
年間第30主日 幼児洗礼式
サトルニノ・オチョア 神父
今日は洗礼式がありますから、長くできないのですが、このたとえ話に皮肉のようなことがありますね。二人の人間は神殿に、教会に来るのです。このたとえ話でファリサイ派の人はいわゆる先生、申し分ない模範性のような人で、先に祭壇の前に出てきて、「神さま、感謝します。私は完璧だ。私は全部、大きなことから小さなことまで全部、守っています、感謝します。あの人と違って」。そのような祈りなのです。それは祈りではないのです。神さまとの売買なのです。「これをしますから、恵みをください」ということなのです。
ところが、徴税人(昔は泥棒に近い意味を持っていましたが)は祭壇まで上がることができず、いちばん後ろで胸を打ちながら、「わたしは罪びとなので何も捧げるものはない。憐れんでください」と言います。イエス様はどう思いますか。「義とされた」という表現は、「許された」、「正しくなった」ですが、義とされた人はだれだと思いますか。徴税人です。イエス・キリストの憐みを求めている人です。自分の罪深さを認めている人です。私たちはミサの中で一番はじめに、「主よ、憐みたまえ」と3回言います。この徴税人の祈りです。
今日は、赤ちゃんの洗礼もありますので、本当に心の中で強く響いている言葉は、聖パウロの言葉です。第二朗読です。「わたし自身は、既にいけにえとして献(ささ)げられています。世を去る時が近づきました」 パウロは、いろいろな苦しみをもって、一生懸命福音を宣べ伝えようとしました。心配もした。それから勝利もした。けれども、いちばん最後に何を言っていますか。「いい戦いをした。それで最後まで走った。信仰を守った」。いい戦いをしたということは、「勝ちました」とは言っていない。「負けた」とも言っていない。ただ、「戦いました。頑張った」です。
同じく、私は、いい戦いをして、最後に胸に浮かんでくるのは、たとえばマラソン大会。一番目、二番目、金メダル、銀メダルということではなく、最後まで走った、完走したということ。たとえ一番最後になったとしても素晴らしいものです。がんばった。 それから、もう一度、その間、この長い人生の中で私たちは信仰を守って走った。この今日の洗礼を受ける子どもたちは、信仰のマラソン大会のはじめです。出発です。信仰の中で私たちは本当に、失敗があっても成長してくれと、この子どもたちを励まして神さまの家まで走ることができますように。一番目でも最後でも、どうでもいいです。でも、最後まで信仰を守って頑張るようにお祈りしたいと思います。
幼児洗礼式が行われました。ご受洗されたお子さんたち、ご家族の皆様、おめでとうございます。
年間第29主日
レンゾ・デ・ルカ 神父
今日の3つの朗読は、神さまと人間との協力についてのテーマといってもいいと思います。
最初の朗読は『出エジプト記』ですが、神さまがモーセたちの味方で、彼らに力、戦いの勝利を与えるのですが、やはり工夫して、手を上げるときとそうでないときの区別は彼らが分かったうえで、どうすれば手を上げたまま神さまの恵み、この場合は勢力を与えられるかということですね。モーセを座らせて両手を支えてあげる。わかりやすい、物質的な感覚かもしれませんが、教えとしては神が恵みを与えるけど、それを受けるためには工夫が必要だということですね。ただ、だまって叫ぶということではなく、自分たちに、小さなことではあるけど、やることはありますという教えです。
第2朗読では、パウロがテモテに全体的な方針を教えているのですが、同じように神の恵みが与えられています。子どものころから親しんでいたテモテのことを、パウロは思い起こさせるのですが、やはり「聖書を使いなさい」とパウロはテモテに託している、遺言のような話です。折が良くても悪くても教えるんだと。
私たちも神さまに対していろいろな願いをします。必要とされる恵み、平和などを願いますが、一つ、私たちにできる協力は、聖書を読むということですね。週1回ミサに来て、こうやって一緒に聖書を読みますが、それ以外のときも、せっかく神さまが私たちに残してくださった、目に見える一つの形である聖書を、戒めるときも慰めるときもいろいろな形に使うことが有意義と書いてありますが、まさに神さまから与えられている一つの道具ですね。これを使いなさいということですね。神さまと私たちの協力、もちろん平等ではないですね。90数%は神様の力がなければ何も始まらないですが、小さな一部が私たちに求められているんだということです。
今日の福音書の中にも似たような話がありますが、「やもめ」が排除されている貧しい人々の代表として出ています。それに対して、権力を持っている裁判官のたとえ話ですが、やもめには何の力も権力もない。彼女が何をしたかと言えば、しつこく何回も問いかけて「裁判をしてくれ」と訴えているんですね。彼女はやはり、自分が正しいということは分かっているんですね。裁判官もそうですが、最初は面倒くさいので、このやもめの訴えを受けたからといって何も自分が得することはないことを計算していたでしょう。しかしそれでも、彼女は忍耐強くしつこく通って「裁判をしてください」と訴えました。彼女は自分には何もないところに忍耐強さがあるのです。ある意味では負けるところが何もない、なくすことは何もないから、自分にはそういうやり方が合ってるんだと。
それはもちろん、たとえ話ではありますが、私たちと神さまとの間の一つの関係を見ますと、先ほどから話していた、「私たちにできることは何ですか」ということです。もちろん、神さまに対する信仰が当然ながらなければ何も始まらないのですが、その中でも私たちにできること、小さなこと、場合によって外から見ると役に立たないことも、力になります。
イエスは、細かい、小さな動きに注目するタイプでもあったのです。たとえば、やもめが入れたお金も見逃さないイエスの姿。それは今も、神さまが小さなこと、子どもに親切にする、うるさくても子どもに怒らないで支えるなど小さなことを神さまが見逃すことはないんだという教えでもあります。それを私たちは心にとめて、これからもいつも、神さまに対しての小さな自分のできることを識別して行っていくという恵みを願いたいと思います。
年間第28主日 教会祭「つながるために」
サトルニノ・オチョア
話を三つの点にまとめたいと思います。
一つは、話し方です。私たちは、たとえ話に慣れていますが、たとえ話以外のことも、「たとえ行い」があります。イエス・キリストの行いを見て、私たちはそのすばらしい教えを、すばらしい行いの中に潜んでいる秘密を受け入れてわかる。たとえ話なら、耳を傾ける必要がありますが、「たとえ行い」なら、心の目で見るだけで、私たちはその教えを身につけることができます。
第二の点は、重い皮膚病を患っている人たちを見て、もしかしたら私たちの中で、今このようなことが起きているのです。10人の人たちではなく国民です。すべての人たちが、コロナのことで何らかの形で、皆、心の病気、体の病気、社会の病気を患っているのです。イエス様を見て、「憐れんでください」と言います。コロナによって私たちは、いろいろなこと、自分の弱さ、自分の貧しさも教えられるのではないかと私は思います。コロナによって私たちはたぶん、逆説の形でイエス・キリストの恵みを受けたこともあります。謙虚になったこともあります。それで、私たちは心から「私たちを憐れんでください」と言えるようになったのではないかと思います。
第三です。川端康成の本『雪国』では、トンネルを通り抜ければ雪国がある。私たちも、そのように、今日思わなければならない。あと短い時間で私たちは感染に強くなると思います。
もう一度、教会に帰って、すばらしいオルガンの響きに合わせて歌を歌うこともできます。祈ることもできます。隣に座っていることもできます。忍耐して、3年の間、教会まで足を延ばすことができなかった人たちは、今もう一度、本当に努力して一緒になる。そして、スクリーンによってではなく、人と人とのふれあいが、もう一度この教会の共同体の中で、あってほしいと思います。
それを今、私たちが祈りながら、この教会は私たちの多様性に富んでいる教会ですが、イエス・キリストの信仰によって一つになっています。
教会祭2022「つながるために」が開催されました
年間第27主日
ハビエル・ガラルダ 神父
この福音の言葉を、イエス様は使徒たちに向かって話します。パリサイ派に向かってではなく、使徒たち、つまり私たちに向かって話しますので、逃げられません。厳しい言葉が言われます。
2つの部分がありますが、最初の「信仰を増してください」ということに対しては、あなたがたがもうすでにある信仰を引き出せば十分できるので、まず引き寄せなければならないと言います。
後半について、ご一緒に考えたいと思います。後半は、主人と僕(しもべ)のたとえ話ですね。はっきり言いまして、昔の中学生の言葉で言えば、この主人は、超感じ悪いですね。本当に冷たい人ですね。人情を知らない。いばってるんですよ。ところが、この人は神様を表してますよ。神様ですよ。イエス様はどうしてもう少し優しい主人を考えてくださらなかったのだろう、と思うときもありますが、これはたとえ話で、たとえ話には、イエス・キリストがどこにフォーカスを合わせるか、ということを見なければならないのです。
イエス・キリストが中心にするのは主人ではない。フォーカスは僕に合わせられています。だから外に残っている主人は、どうでもいいくらいで、問題は僕です。僕は私たちです。その僕に何を言いますか。「『わたしどもは、しなければならないことをしただけです』と言いなさい』。
私たちに当てはまりますね。私たちはいいことをするときには、すぐ、感謝されたりほめられたりすることを期待しすぎます。求めすぎます。それをやめてください。あなたは、すべきことをしただけです。いばることはないのです。感謝を求めることはないのです。自己満足することはないのです。ただ、すればいいのです。
つまり、ある文学の例で言いますと、アルベール・カミュ(フランスの小説家)の『ペスト』という伝染病の作品がありますが、あるチームはドクターを中心にして、感染した人たちを命がけで運んで病院に連れていき、注射します。いっしょうけんめいするのですが、そのうち、いろいろな人たちが感染して死にます。その人たちを見る人たちは、「ああ、彼らは英雄です。すばらしい、みごとです」と言います。それを聞いていたドクターは、「とんでもないです。私たちはちっともえらくないです。ちっとも英雄ではないです。当たり前なことをしているだけですよ」と言います。「私たちだけではなく、あなた方もしなければならないことです。困っている人がいれば、できるだけのことをするのは当然じゃないですか」。この精神を、イエス・キリストは求めます。イエス・キリスト自身もそうでしたね。
十字架で死が近かったときには、「成し遂げられた」とおっしゃいました。つまり、「私はすべきことは全部しました」ということです。「神様、ありがとうと言ってください」とは言わないですね。「私を救ってください。報いをください」と言わないんですよ。当たり前なことをしただけです。「成し遂げられた」。あと残るのは、「私の霊をあなたに委ねます」。こういう生き方ですね。これは、クリスチャンです。
つまり、私たちは、感謝されることを求めすぎないで、感謝することを忘れないようにすればいいのです。また、ほめられることを求めすぎないで、ほめることを忘れないように。人をほめることも忘れない方がいい。私たちは、あまり人をほめませんね。なぜしないかというと、自分のことしか考えないからでしょう。自己中心的ですから、自分のことばかり見ているので、人がいっしょうけんめいやって、その人がかなり進歩したということについては、考える余裕がないのです。見ないのです。興味がないんですよ。興味があるのは、自分だけ。私、私、私…。
それに対して、イエス様は、ほめられることを求めすぎないで、必要なときには人をほめることを忘れないように。一言ほめてさしあげれば、その人は本当に喜びますし、自信を取り戻します。
このイエス様の言葉には、もう一点あります。「わたしどもは取るに足りない僕です」。これについて考えましょう。よく言えば、謙遜を表しています。でも、危ないところがあります。自分を見下すという危険性、言い換えれば自己嫌悪。自己嫌悪はよくないです。ところが、謙遜と自己嫌悪の違いは微妙です。これについて、少し考えましょう。
悪い自己嫌悪というのは、自分を見下すこと。自分がきらい、自分と仲が悪い、自分を沈める。それは向上心のブレーキになります。よくないことですね。ですから、自分が悪いことをするとき、あるいは失敗するときには、「私はつまらない人間だから、この程度でしょうね」というようなことを、自分に向かって考えると思います。それは、まずいと思います。「私はつまらない人間だ」ということは、言ってはいけない。考えてはいけない。けっして、あなたはつまらない人間じゃないんですよ。またできるんです。あなたはいい人です。だから、こう言えばいい。「私はいい人なのに、どうしてこんなにつまらないことをしなければならないのですか。本来なら、私はよくできるのに、どうしてこの程度か」。こういうふうに考えれば、励みになる。ブレーキではなく、向上心の刺激になります。
言い換えれば、自分ができる程度を見て、今の実態を見て、その差を見つめて怒る。この自己嫌悪はいいです。刺激になります。「本来ならここまでできるはずなのに、これしかできてない」という、間の差を見て怒るのは、良い自己嫌悪。向上心の刺激になる自己嫌悪です。
ですから、自分と仲良くなりましょう。下手をすると自分と仲が悪い。自分のいちばん良い友だちは自分自身なのに、自分と仲が悪いときもあります。自分を立てるようにしましょうよ。何かいいことをするときには、自分に向かって、「やったぜ、セニョール」、「やったぜ、セニョリータ」と言えばいいと思います。拍手を聞けばいい。周りからの拍手が聞こえる前に、自分の心から聞こえる拍手を聞いた方がいいと思います。そして、周りからの拍手が終わってからも、しばらくの間、心に残っている拍手も少し聞いた方がいいです。もちろん、朝から晩まで拍手を聞いていればめまいがするので、やめたほうがいいけど、ほどよく聞くといいと思います。
つまり、感謝されることを求めすぎないで、感謝することを忘れないように。ほめられることを求めすぎないで、ほめることを忘れないように。自分を立てて、自分と仲良くなるということを、願い求めましょう。