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2022年11月 ミサ説教




2022年10月 | 2022年12月


待降節第1主日

ハビエル・ガラルダ 神父

11/28(日)10:00- 待降節第1主日


 待降節が始まります。待降節は待ち望む期間です。イエス・キリストを待ち望む期間。もちろん、クリスマスを待ち望む期間ですが、待降節はただ今年のクリスマスということではないんですね。


待降節第1主日ミサ 会衆席から見る祭壇 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエス・キリストが生まれたときには、天使たちは言ったのです。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。その「今日」というのは、12月24日ということではなく、永遠の今日ですね。永遠の今。常に来てください。絶え間なく来てください。いつも来てくださるキリストを待ち望む期間は待降節だけでなく、人生そのものだと思います。


 では、どういうふうにイエス・キリストを待ち望むことができるでしょうか。それについて今日、イザヤ預言者が第一の朗読に素晴らしい言葉を書きました。「剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌(かま)とする」。


 つまり、殺すための武器を生きるための道具とする。こういうふうにイエス・キリストを待ち望むのです。世界がこれを覚えればいいですね。ときどきテレビでも、いろいろな国のパレードが見られますが、すごいミサイルがありますね。でっかいミサイル、戦車と武器がすごくて、みんなパチパチと拍手をしています。


 それらを作るのは、莫大な金を使っています。しかも一流の科学者とエンジニアが一生懸命働いてそれを作るのです。何のためですか。その武器の結果はどうなるのですか。私たちも居ながらにしてテレビや新聞で見ることができます。ウクライナの写真を見ると、このためですよ。人を殺すため。物をつぶすため。人の不幸を作るため、一生懸命武器を作っています。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌としましょう。


待降節第1主日ミサ 司式のハビエル・ガラルダ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 たとえば、アフリカでは水不足でたくさんの子どもたちが死んでいます。では、その武器のためのお金を、少しでもいいからそのために回せば水を清める施設を作ることは難しくないのです。簡単にできます。ただお金がないのです。殺す武器をなくして、食べる道具を作りましょう。


 そのために、私たちが祈らなければならない。でも、難しいですね。エゴと傲慢(ごうまん)に汚されている世界になっています。エゴイズムと傲慢によって力関係の世界になっています。ですから、どうしても武器を作りたい。それは、愚かで不幸につながる道ですね。本当の道は、話し合って、譲り合って、助け合って、分かち合って、仲よくすれば武器なしでできるのに、武器ばかりで殺してばかり。力だけ。


 このために私たちはクリスチャンとして、まず深く真剣に祈らなければいけないのです。ちょっと祈ってみるのではなく、本当に祈らなければならない。人間の心が少しでも変わって、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするためです。


 そして、祈るだけではなく、宣言するのです。個人としても宣言して、黙っているだけではないのです。私たちは世の光です。地の塩です。世界が腐らないように、宣言して大声を出す必要があります。


 私たちには、もう一つの課題があります。それは、耳が痛いですが、私たちの周りに剣を打ち直して鋤とする。私たちの家族、仲間、近所、職場などで、このように変えればいいと思います。私たちの言葉はきついときもあります。冷たい言葉、批判と裁きばかり、文句ばかり、愚痴をこぼしたりして、上から下に向かって教えてあげるという話ばかりです。それは剣と槍です。それを打ち直して、鋤と鎌にしましょう。すなわち、人に喜びと元気を感じさせる言葉を使いましょう。


待降節第1主日ミサ 主聖堂と中庭 クリスマスミニバザーが行われました カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そしてまた、私たちには、人を見下す傾向があるでしょう。口で見下すこともあります。もっと上手にすれば口には出さないけど、目でわかります。軽蔑のまなざし。あるいは、目にも出ないときは、心の中にはあります。見下すということが。それがあれば、相手が離れる。大切な人であったその人は、だんだん離れるのです。ですから、剣と槍を打ち直して、鋤と鎌にしましょう。人の良い点を見て、見下さないで、感動して学ぶ精神、人に話す精神がいいですね。でも、あまりしないですね。するようにしましょう。


 そして、最後にイエス・キリストのように待ち望むようにしましょう。私たちは、精神的に少し離れてきた大切な人がいるかもしれません。イエス・キリストは羊飼いとして、迷った羊のために囲いの中に待ち望んでいただけではなくて、外に出て探しに出かけたのです。私たちも探しに出かけるのです。イエス・キリストは、ただちょっと探してみるというだけではなく、見つけるまで探し求める。見つけたら喜んで担いで家に帰る。


 このように、待降節を始めましょう。このように待降節の精神、そして人生の精神を持ち続けることができることを願い求めましょう。


王であるキリストの祭日

李 聖一 神父

11/20(日)10:00- 王であるキリストの祭日


 今日のミサの説教で、私はみなさんに2つのことをお話ししたいと思います。

 1つは、「王であるキリスト」、それはどういう意味であるか。今日の第一の朗読で、サムエルがダビデを王とし、民はダビデに油を注いでイスラエルの王とするという場面が描かれていました。
 実はしかし、この話の前に、サムエルは「決して、イスラエルに王は必要ない」ということを民に説得しようとします。なぜならば、もし王をたてるのであれば、民はみな王に仕えるものとなり、王は民を支配するという形になってしまう。イスラエルの民は、何よりも神に仕える、そして神が民を治める。そういった最も大事な原則を失ってしまうことになるとサムエルは主張する。


王であるキリストの祭日 司式の李神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 しかし、イスラエルの民は「近隣の諸国と同じように、私たちも王がほしい」と言う。そして、その王のもとに結集すればイスラエルは強い国になれると主張し、その主張にサムエルは負けて王をたてることにするという話があります。イスラエルは王をいただくような国になっていき、その王がたしかにダビデやソロモンの時代には、強大な国になっていったということは言えます。しかし、その後、国家は分裂し、ついにはバビロン捕囚という形で国を失い、そのような歴史を歩む国になっていきます。


 しかし、サムエルは、その王をたてるというときに1つの条件をつけました。王は民を支配するというものであってはならない。王の務めは、まず第一に、夫を失った未亡人、あるいは親を失った孤児(みなしご)たちを保護することである。そして、社会の辺境におかれた者たち、苦しんでいる者たち、小さな者たちを保護するのが王の第一の役割である。そういうふうに言っています。


 しかし残念ながらイスラエルの歴史は、そうした人々をないがしろにする、踏みにじる、ということを繰り返していくがゆえに、預言者は何度も何度もそうしたことを批判し続けていく。そのような歴史を担っていってしまったと言っていいだろうと思います。


 つまり、私たちが「キリストは王である」というときに、キリストこそ、そうした人々を守り、保護し、救いをお約束なさった。そうしたことを私たちは忘れてはならないことだと思います。福音書を読めば、罪人を招くイエスの姿、社会から疎外された人々を迎え入れるイエスの姿を私たちは見ることができます。決して、王として君臨するイメージで語られるものではないということです。


 キリスト者は洗礼を受けて3つの職が与えられると言われています。奉職、祭祀職、預言職の3つの職を、洗礼を受けた者は引き受けて果たさなければならないとされます。奉職とは何か。まさに仕えるという一点にあるだろうと思います。今日、王であるキリストの祝日を祝おうとするとき、私たちの信仰のあり方、私たちが洗礼を受け、どのような職に招かれているか、どのような職を果たさなければならないか、それを意識するということも大事だろうと思います。


会衆席の緑の本に用意された新しい典礼。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 もう1つは、今日、典礼歴の最後の日曜日ですが、来週から日本語の典礼が変わるということです。このことを少し意識しなければならない。聖書と典礼の最後のところには、これからの新しいミサがどういう意味を持っているかということを解説しておられますが、考えてみれば日本語の典礼というものが行われるようになったのは1965年からなのです。


 私はよく覚えておりますが、広島の教会で侍者、つまりミサごたえをするために毎週毎週教会に通ってラテン語を勉強しました。勉強したというより覚えたといってもいい。神父様はラテン語でミサをたてるので、その会衆の代わりに侍者はラテン語で答えなければならなかったわけです。とくに、告白の祈り、罪の許しを願うとき、「兄弟の皆さんに告白します…」と長いのです。それをラテン語で覚えなくてはいけない。いっしょうけんめいラテン語でミサごたえができるようになった。それが4年生のときでした。ちょうど10歳です。


 そしたら、半年くらいたって、ミサが日本語になるのです。私はいったい何のためにラテン語をいっしょうけんめい覚えてきたのかと思いました。そして、侍者の役割も神父様の手伝いをするということになっていきます。ある意味簡略化されていきます。私たちのあの時代は、本当に大切なものだった。それ故に、当時の男の子が教会で侍者をするというのは、非常に大きな信仰生活を生きていくということに、とても大きな意味があったんだろうと思います。


 今、私たちがミサのときに使っている赤い大きな本ができあがるのが、1978年です。もう、45年にわたって、この書物をもとに私たちはミサをしてきましたが、来週から変わるので、皆さん戸惑うこともあると思いますが、これはまた、私たちの信仰生活にとって大事なことになるだろうと思います。この40数年の間に典礼が日本語で行われるようになって、大きなことが2つあっただろうと私は思います。


 1つはイエズスという言い方がなくなったということです。日本の1つの特徴でしょう。プロテスタントとカトリックでは、イエス、イエズスという言い方で違っている。これは、キリスト教一致ということを考えるときに、あまりいいことではない。司教団はそのように決断して、カトリックでもイエスという言葉を使うようになった。だんだんそれが馴染んできたといってもいいですが、まだまだイエズスという言い方から離れられない人がたくさんいると思います。


 もう1つは、典礼聖歌です。日本語の典礼というものが開始されるようになって、日本の教会は非常に素晴らしい典礼聖歌を作り上げてきたといってもいい。すべての詩編、答唱詩編を私たちは歌うことができる。これは世界の中でも日本のカトリック教会として誇っていいことだと思います。高田三郎先生をはじめ、いろいろな方々が典礼聖歌をつくっていくということに尽力なさったということです。


聖イグナチオ教会 無人の主聖堂。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 みなさんは、NHKの朝ドラを見ておられるかどうかわかりませんが、私は毎日見ています。今、『舞い上がれ』をやっていますね。飛行機のパイロットになりたいという女の子の夢を描いたものです。舞台が五島に移ることがあります。主人公が五島の人々と接していきながら、いろいろなことを覚えるのですが、五島の人々の生活を描いたあるシーンがあり、私は非常に印象的でした。


 漁師をしている家族が日曜日、家族でどこかに行こうとする。それを主人公が見て、「いったいどこに行くの?」と言うと、漁師のお父さんが「一家団欒だ」と言う。どこに行くかというと、教会でした。ミサにあずかり、一緒に歌を歌い、祈る。それが一家団欒なんですね。五島での信仰生活の一端を見ることができます。


 子どもたちは教会に行くときに、スキップしながら『マリア様の心』を歌いながら行くシーンがあり、いいなあと思いました。典礼聖歌、あるいはミサの中で歌われる歌を日常生活の中でも歌って、子どもたちは喜んで教会に向かう姿というのは、五島でしか見られない光景なのか。私たちもそうしたことを見ながら、ミサと私たちの生活を見直していくことが大事なことではないかと思いました。


 日本には「風呂敷信者」という言葉があります。家に、カトリックという荷物を包む風呂敷があって、日曜日になると風呂敷にカトリックという荷物を包んで、電車や車や歩いて教会に来て、風呂敷を開けて、カトリックという荷物をもってミサにあずかる。そういう日本のカトリック信者のある一面を揶揄した言葉だと思います。つまり、家と教会との間にある「社会」「世間」と全くかかわりをもたないということを意味する言葉でもあります。新しい典礼になっていくのは、たしかに馴染まないこともあるでしょう。「主はみなさんとともに」と言われて「あなたとともに」と言うのに違和感を覚えるのは私だけではないでしょう。


 しかし、いい面もあります。「憐れみたまえ」という言葉が、「慈しみを私たちに」という言い方になるのは、私たちにぴったりくるものかもしれない。いずれにしても、新たにミサの言葉を私たちは覚えていかなければならないわけですが、それと同時に私たちの信仰生活とミサとこの世界にあって、私たちがどのような信仰を示し証ししていくのかという点を忘れてはならないだろうと思います。


 来週から待降節が始まり、新たなミサの典礼の言葉を使っていきながら、私たちの信仰がますます豊かになり、日本という地にあって証しすることができるよう、ご一緒にお祈りしてまいりたいと思います。


年間第33主日 子どもとともにささげるミサ

柴田 潔 神父

11/13(日)10:00- 年間第33主日(子ミサ)


 今日の神父さんのお話は「働くことについて」です。

 みんなは「働かざる者食うべからず」という言葉を聞いたことがありますか? この「働かざる者食うべからず」という言葉は、パウロの言葉からきている、と言われています。「働けるのに働かないのはダメ。まじめに働きましょう」とパウロは言っています。


聖イグナチオ教会 主聖堂地下・クリプタの祭壇。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 パウロがどうして「働く」ことを大事にしていたかというと「パウロは自分で働いて、お金を稼いでいた」からだと、神父さんは思っています。ペトロとか他の弟子たちは、自分で働いてお金をもらっていませんでした。周りの人たちは応援していました。自分では稼いでいませんでした。


 でも、パウロは、自分で働いてお金をもらっていました。どんなお仕事かというと、動物の皮でテントを作っていました。テントは、お家の代わりに外で泊まるためのものです。今は、ポリエステルで作られているけど、昔は動物の皮を使ってテントを作っていました。とても大変なお仕事でした。パウロは夜も昼もなく、ふつうの人より一生懸命働いていましたが、それほどお金はもらえませんでした。奴隷といって、貧しい人たちと一緒になって夜までがんばって働いていました。 がんばっているパウロより、ペトロたちの方が偉い、という人もいましたが、貧しい人たちは喜んでパウロと一緒に働きました。そんなことをしたのはパウロだけです。


 パウロは、働きながらイエス様のことを伝えました。そんなパウロをお手本にしたくて、神父さんは堅信の名前を「パウロ」にしました。大学を卒業してから12年、お家を売る仕事をしていたけど「パウロみたいに働きたい。イエス様のことを伝えたい」と思ってがんばりました。働きながらイエス様を伝える、パウロみたいな人が増えてほしいと思っています。


 教会学校のお友だちは、まだ、働いてお金をもらうことはできません。でも、神様のために働くことができます。神様の国を作るお手伝いができます。この前、教会では七五三祝福式がありました。その中でお友だちの共同祈願がありました。ご紹介します。


 「きょうは わたしたちの しちごさん しゅくふくしきです。きょうまで けんこうにすごしてこれたこと、ここまでそだててくれた おとうさん おかあさん まわりのひと そして かみさまにかんしゃします。これからも わたしたちが きょうかいに げんきにあつまることができるように どうぞ おみちびきください」。


前週11月5日(土)に、七五三祝福式が行われました。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 このお祈りで神父さんはとても嬉しくなりました。「人を嬉しくする」のは、神様の国を作る素敵なお手伝いです。お祈りしてくれたお友だちは、「自分から、やるって言えた」そうです。半年前はお祈りを頼まれても「私、いいです」と逃げていたそうです。でも、七五三では勇気を出してお祈りしてくれました。きっと神様の霊、聖霊が働いて、元気いっぱいに、お祈りをしてくれました。


 教会学校のみんなが、神様の国のために働いてください。「誰かがしてくれる」、「私、しなくていい」じゃなくて、みんなで神様の国をつくりましょう。教会なら、朗読のお手伝いをしましょう。ミサで侍者をする。ドキドキするけど勇気を出して神様の近いところでお手伝いする。クリスマスには聖劇があります。大きな声でセリフを言う、お歌を歌う。そんな素敵なお手伝いをしましょう。学校なら、元気がなさそうなお友だちに「大丈夫?」と声をかける。「何かお手伝いすることある?」と声をかける。一生懸命勉強する。
 お家なら、お父さんお母さんに「いつもありがとう!」と言って、肩たたきをする。お家で肩たたきをしているお友だちはいますか? いますね。今日も、夜、お母さんがご飯を作ってくれたら、肩たたきをして「ありがとう」と言ってあげましょう。

 できることはたくさんあります。大人も子ども、神さまのために「働いて」神様の国をみんなで作っていきましょう。


11/5(土)に七五三祝福式が行われました。皆様、おめでとうございます。


年間第32主日

ヘネロソ・フローレス 神父

11/6(日)10:00- 年間第32主日


年間第32主日 10時ミサ中 司式のフローレス神父様のお説教。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の福音書のイエスの言葉を見て、いろいろと反省させられます。

 1つは最後の文章です。「すべての人は、神によって生きている」ということです。神は命そのもの。神は愛そのもの。神は光そのもの。神は美そのもの。これは、ときどき私たちはあまり考えない、あるいは忘れる、あるいは気にしない、あるいは当たり前のこととしています。 当たり前のことではないのです。毎日目覚めるとき、「今日も私は生きている」ということ。生きているという命は、神の賜物です。だから、目覚めてからも感謝です。「今日も生きている」。そして、命ということは我々にとってご存じのとおり、生まれて生きて、生きるとき体はだんだん大変です。年寄りとして感じます。ものを忘れる。病気になる。そして死ぬ。


 神が与えてくださった命は終わりますが、今日のいちばん大きなポイントは「復活」があるということ。「復活」は、私たちはときどき誤解します。復活はもう一度戻るということではない。戻ることはないんです。もう一度戻ったらまた死にますよ。

 イエス様は、復活させた。ラザロ、ナインの未亡人の息子もよみがえったけどまた死ぬ。復活というときは「新しい命」、神の命に入ってしまうということです。神のようになる。永遠の命。私たちは、毎日あるいは毎日曜日ミサの中でそれを宣言します。「体の復活を信じます」、「永遠の命を信じます」。問題は「復活」ということば。あるいは、「永遠」というイメージ。想像できないのです。見たことがないし、それを感じることがないのです。だから、これは神秘です。神秘を信じるほかないのです。


 人は、死んで火葬場にいって終わりではない。この私は復活させられるわけです。神の命に入る。神の子になる。イエス様はここにいるのに、この人たちは、復活。「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり」。ここで誤解しないでください。人は、あることで天使に等しいけど、完全に等しいわけではないのです。私たちは体がある。天使には体がないのです。


年間第32主日 教会の門の前から見た朝の青空。カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 私は体が復活させられる。復活のとき、完全に神の子どもです。今私たちは神の子どもですが、何も見えないですね。洗礼を受けたとき、私は洗礼のおかげで少し頭が良くなったりすることは全然ない。洗礼を受けるとき、流れる水の形で神の霊が入って、私は神の子ども。神の家族に入れていただく。それは復活です。カルワリオで十字架の場面ですが、良き強盗はイエスに言った。「御国(みくに)に入るとき私のことを思い出してください」。そしてイエスの言葉です。「言っておきますが、今日、あなたは私と一緒に天国に」ということです。


 私たちはやはり、今日はできるだけ復活のことをもっと深く信じる、悟る。恵みを。そしてそれを「味わう」喜び。私たちは何のために存在させられたか。あとで存在が終わるためではないのです。存在は神のようになります。
 神は天地創造主である。宇宙万物を創った神は、言葉によって創造した。存在しないものを存在させる。御言葉(みことば)で言われた。「光あれ」と光を与えた。人間を創るとき、その言葉は使わない。神は言われた。「我々に似せて人を創ろう」。神にかたどって神に似せて。太陽と月は素晴らしいものですが、神にかたどって創られていない。人間は、神にかたどって神に似せて創られたので、神とコミュニケーションができる。太陽や植物、動物は神とコミュニケーションできない。神にかたどって創られていないから。


 人間は、私たちの存在は、どうして存在させられたか。神が私を、あなたを愛したからなのです。愛してなければ創らない。あなた、私は復活のために創られています。

 これをできるだけ考えてほしい。今日はこれを祈りましょう。復活の神秘をより深く悟って信じることができますように。復活、喜び。キリスト者の生涯は復活に向かって歩んでいく。私たちはできるだけ、それに向かって生きる恵みを願いましょう。


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