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2022年12月 ミサ説教





2022年11月 | 2023年1月


主の降誕の祭日

サトルニノ・オチョア 神父

12/25(土)10:00- 主の降誕の祭日


主の降誕 主聖堂 司式のオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 昨日、クリスマス・イヴのとき、ミサの中ではこのマタイとルカの福音の朗読、クリスマスのことです。イエス・キリストはどういうふうに生まれたかということで、私たちにとっては目で見えるほどきれいに現れているマリア様、ヨセフ様、イエス様、赤ちゃん。ベツレヘムへ行って受け入れられない。宿もない。それで、マリア様はイエス様を生んだときに馬小屋であった。家でもない、宿でもない、部屋でもありませんでした。


 このような、目で見えるぐらいの言葉で昨日のことが読まれたのですが、今日は、非常に難しい言葉ですけれども非常に深い意味で、ヨハネの福音では「初めに言葉があった」。この言葉は、本当に御子です。神様です。言葉の意味は表現です。神を見た人はだれ一人もいないです。けれども、イエス・キリストによって、御言葉でやるので、その神の説明、表現、神を表している言葉はイエス・キリストそのものです。「その御言葉によってすべてのものは作られている。御言葉によって作られている、なっている」とこちらに言われているんですね。


 その言葉は、人間の世界で認められなかった。受け入れられなかった。そこで、非常に衝突のような問題がある。御言葉はすべてをお作りになって、人間も御言葉によって作られたのに、人間はその御言葉を受け入れられない。ご自分のところに来てそれから受け入れられなかった。


主の降誕 主聖堂 司式のオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 それはルカの福音では、宿のことです。宿に行って「すみませんけど、あなた方のために、部屋がない」。それはお金のことじゃなくて、受け入れられない。


 そしたら、御言葉は本当に信じられないことが起こるんです。肉となった。「御言葉は肉となって私たちの間に宿られた」。これこそクリスマスです。私たちは神のところへ行こうとして努力するということではなく、神ご自身、その彼を受け入れてくれない人たちの世界に入り込んで、それで彼の言葉は、私たちのように肉となる。彼が人間になったと言えばまだわかる。「彼は素晴らしい偉い人間になった」という言葉を使わないんです。「肉となった。肉体となった」ということです。


 というと、力のある神は私たちの弱さを自分のものにする。それによって受け入れられる 。私たちのものです。イエスキリストは聖パウロの強い言葉で、「女から生まれ、法の下に法律の下に、動く。生きる」と言うと、あくまでも人間です。神でありながら、私たちのような肉体の弱さと誘惑とすべてを自分のものにして、彼が私たちの一人になった。これはただクリスマスのことじゃなくて、キリスト教の中心です。イエス・キリストは神でありながら、人間である私たちと全く同じ。差があるなら、彼は罪を犯さなかった。けれども全てにおいて、天地ではないんです。霊だけでもない。彼はあくまでも人間。それで人間である御言葉は、本当に私たちは親しさも感じる。


主の降誕 主聖堂 祭壇と聖家族 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ただ人間になっただけではなく、この肉の中で一番一番弱い肉の塊になります。赤ん坊です。赤ん坊は何もできない。赤ん坊はただ泣くしかない。御言葉、表現そのものはですね、何にも喋ることもなく、ただ泣いている。弱くなって、逆に私たちが彼を守ってあげなければならない。育ててあげなければならない。これはクリスマスの神秘です。


 このような弱い神様に近寄ってもいいんです。このような神様に触っても、祟りがない。祟りがあるとすれば私たちは本当にその子どもを受け入れて、私たちが良くなる、私たちが本当に神の子と資格を与えられる。


 このような素晴らしいクリスマスの神秘を考えながら、私たちもこの弱い人間の社会、本当に悪に染まったこの人間の社会、この子どもを受け入れることによって、私たちは清められる、救われるのです。クリスマスおめでとうございます。


主の降誕(夜半のミサ)

サトルニノ・オチョア 神父

12/24(土)19:00- 降誕前夜祭


主の降誕(夜半のミサ)主聖堂

 あらためて、クリスマスおめでとうございます。

 クリスマスになると、私たちの心と頭は別々になります。一致しない。と言いますと、クリスマスの物語はあまりにも私たちの価値観を攻撃するので、わからなくなってしまう。それは本当に信仰を持って、あまりにも素晴らしすぎることであるので、頭だけでは間に合わない。心を持って、それから赤ちゃんを見て、本当に受け入れるしかないと思います。


 と言いますのは、昔から旧約聖書で「罪だらけの人間はいつも救いが来る」という預言があるでしょう。救いがあります。けれども救いがあるということは、天から私たちが与えられるということよりも、本当に起こったのは救い主が私たちのところに降りてきた。本当にご降誕です。


 救いはただ「救い」ということではなく、私たちのようになった救い主が私たちのところに来たということです。


 第一の朗読があったのですね。イザヤはこの旧約聖書の「その救い主は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられた。


 私たちの救い主、驚くべき指導者。王様のようなことですが、本当にこのようにいらっしゃるのならどこで生まれるのですか。お城ですか。エルサレムの神殿ですか。素晴らしい家ですか。


 実はこのクリスマスの話によると、宮殿ではない。お城でもない。馬小屋です。信じられない。神は本当に私たちを救うために来られるとき、馬小屋です。遊牧民みたい。旅の途中。自分の街へ行くけど、自分の街ベツレヘムで受け入れられない。追い出されてしまう。それで、外へ出てベツレヘムの人たちは彼を受け入れることがない。隣のエルサレムの人たちも、祭司たちも、ユダヤの人たちはそれも知らない。


主の降誕(夜半のミサ)キャンドルサービスのあかりがともる会衆席 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 けれども、そのような素晴らしい便りを初めて受ける人たちは、また遊牧民です。羊飼いたち。彼らも差別されて、ベツレヘムに入ってはいけないということだった。わからない。イザヤは、本当に彼は力のある人ですが、私たちはこのクリスマスの話によるとその力のある指導者。誰ですか。泣くしかできない赤ん坊です。


 それで私たちは、「御言葉は神となった」。その御言葉は、本当に私たちの見ている通り話すこともできない赤ん坊で、泣くしかできない方です。その方は私たちの救い主。その方は私たちを汚れた人間であるにもかかわらず、私たちの家に入って、私たちのようになって、私たちの一人になる。私たちの主、私たちの救い主。けれども、私たちの兄弟、私たちの子。


 だから、「恐れることはない」。天使は、羊飼いたちに言った。「怖くなってはいけません」。赤ん坊です。それは、私たちの神。あまりにもおかしく信じられないぐらいです。あまりにも私たちの価値観を攻撃するので、私たちは信じる時間がない。私たちの信じている神様はこの赤ん坊です。私たちのように弱さにまとわれている人。私たちのように泣く人。私たちのように本当に苦しむ人。私たちのように私たちのちっぽけな喜びにも参加します。結婚式にも参加します。私たちの一人です。と同時に私たちの救い主です。


 聖書では、この赤ん坊の名は2つあります。一つはイエスです。イエスという意味は、「救い主」。救いそのものです。けれども、もう一つの美しい名前もあります。「エンマヌエル」。イザヤです。エンマヌエルの意味は、「神が私たちと共に住まわれている」。神が、私たちと 共に、一緒に住まわれているんです。


 だから、また他のわからないことも出てくる。神が私たちを愛しているということはなんとか納得できる。でも、そんなに私たちを愛して私たちの一人になるということは、これも信仰の神秘だと思います。クリスマスおめでとうございます。


主のご降誕、おめでとうございます!


待降節第4主日

サトルニノ・オチョア 神父

12/18(日)10:00- 待降節第4主日


待降節第4主日 司式のオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 待降節のとき、私たちは待ち望んでいるのですが、何を待っているのですか。
 それは、神が私たちの社会、私たちの世界、私たちの一人になるということを待っています。私たちが主のところへ行くということではなく、主が、呼ばれていないのに私たちの世界に、私たちの社会に飛び込んで私たちと共にいる。


 このことを考えてみると、50年前、私の日本語学校では一人の先生が私たちに日本語のことわざを教えてくださったんです。「触らぬ神に祟(たた)りなし」です。私はそれを考えて、ある意味で本当に普通の知恵ですけれども、キリスト教と全く逆なんです。


 「触らぬ神に祟りなし」というと、「神に近寄っていくと困ります」ということです。だから、 献金するなら「はい、します」。これをするなら、「はい、します」。けれどもあなたは上、私たちはここ。この世、あの世。


 クリスマスの知恵は全く逆なんです。私たちの世界に神様がやってきて、「触らせてください」と。それから、私たちと一緒になります。私たちの子になる、マリア様の子です。女から生まれ、近寄ってきた神様です。


 だから、私たちがクリスマスのときクリスマスキャロルを歌っても、本当に心のクリスマスだったら神様に困らされるんです。


待降節第4主日 4つ目のろうそくがともるアドベントクランツ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 マリア様のお告げを見ましょう。ヨセフ様のお告げを見ましょう。マリア様はお嬢さんで、婚約していた。その村では、小さな村でみんな知っていたんです。突然身ごもっているということはみんな明らかになっていたので 、マリア様は「ああ、めでたしめでたし」ということではないと思います。かえって、困っていた。村八分になるかもしれないし、どういうふうに説明したらいいのか。


 イエス・キリストがこの世に来ると、本当に素晴らしいことでしょうけれど、まず第一に私たちを困らせるために。ルカの福音ですが、今日読まれた福音では、ヨセフの観点から見るイエス・キリストのご降誕ですね。ヨセフは「マリア様にだまされた。どういうふうにしたらいいのか」。それで、ヨセフは聖書を読むと、マリア様について表現が出てきますけれど、マリア様は「これをした。どうしてこれをあり得ましょうか」あるいは、「はい、わかりました。お言葉の通りこの身に」。


 でも、考えてみれば、調べてみればヨセフ様の言葉は聖書で一つもありません。ただ言われるようにする。ヨセフについて言われるのは、本当に男として、最後の最高のほまれの言葉。「正しい人だった。 正しい」。本当に心の中で言われる通り、この言葉を、このメッセージを、この使命を必ずやります。その意味で、本当に主のしもべです。彼は何も言わないけれども、言われることを必ず実現する。必ず果たします、最後まで。それも男らしく。


 彼がエジプトから帰ってきナザレに住んだときには、消えてしまっていてどんなことをしたのか何も知らない。もういらないんですから。


 彼は 聖家族の影です。影で働いていて、影でイエス・キリストを育てていくんですね。彼は、本当にイエスキリストの里親。全部彼のために生きる。マリア様のために生きる。必要になっていないときには消える。素晴らしい。


 本当に私たちにとっては、素晴らしい。素晴らしい模範であります。けれども、ヨセフも自分のプライドをのみ込んで、イエス様が本当にマリアの体内で来られるときに、ヨセフはやはり、イエス様が私たちの一人になると、私たちを困らせる。それで、「私たちが改心しなければならない」と困ったんですね。


 それによって私たちは本当に改心して、自分の心の中にイエス様を迎えるとき、はじめにはいろいろな犠牲が出てくる。いろいろな問題が出てくると思いますけれども、それによって私たちは、本当の平和と喜びの雰囲気になると思います。


待降節第4主日ミサ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 もう一つのこと、イエス様の御子が肉になるときには、私たちの一人になると、1つの名前だけじゃなくて2つの名前を受けるんです。「イエスと名づけなさい」という言葉が出てくるんです。どうして「イエスと名づけなさい」なのかというと、ヘブライ語で今でもその名前はけっこう使われています。その名前の意味は、「救う人」。今日の福音では「その子をイエスと名づけなさい。この子は、自分の民を罪から救うからである」とあります。


 でも、一番最後にもう1つの名前も出てくるんです。「その名はエンマヌエルと呼ばれる」。エンマヌエルの意味は、「神は我々と共におられる」。イエスは救うけれども、「天から救いや赦しをあげるからどうぞ取ってください」じゃないんです。その救いはどういうふうに行われるかというと、神は私たちの一人になり、私たちの兄弟、私たちのお兄さんあるいは私の子ども、いずれにしても私たちと一緒に住むことによって救う。それはクリスマス。それはキリスト教。


 私たちが神へ行きたいけれどもできない。だから、神は私たちの世界に来られる。私たちが謙遜に、「本当に汚い家ですがどうぞ。ようこそイエス様」と。


待降節第3主日

越智 直樹 神父

12/11(日)10:00- 待降節第3主日


待降節第3主日 司式の越智神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 捕らえられた洗礼者ヨハネが、牢屋の中から弟子たちを通してイエスに質問しています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。


 洗礼者ヨハネはずっと待っていました。預言者たちが告げたメシアの現れを。そして先祖代々に言い伝えられてきた救い主の到来を固く信じ、ひたすら待っていました。一人荒れ野で暮らし、獣の皮を身にまとい、イナゴと蜂蜜を食べ物とするという、当時でも異彩を放つ生活を送りながら、救い主の到来を今か今かと待っていたのです。


 「そのときは近い、もう間近に迫っている」そういう自覚があったのでしょう。人々に向けられた
「今こそ神に立ち返るように」という叫びは、いよいよ切迫感を帯びたものとなりました。改心へと招く神のメッセージは、多くの人に神に立ち返る望みを呼び起こすこととなりました。


 これを聞いて改心を望むようになった人たちは、彼の前に列をなして、こぞってヨルダン川で悔い改めの洗礼を受けました。しかし他方、その突き刺すような痛みを伴う彼のメッセージを、またその姿を快く思わない人たちがいました。


 彼の存在は、今の生活を変えたくない人々には、あまりにも不都合でした。現状に安住している人々にとって、洗礼者ヨハネが突きつける悔い改めの要求は、この人たちの安定した生活、富、地位、特権、身分といったものを手放すことを求める裁きの言葉と響いたのです。このような人々にとっては、現状のすべてをひっくり返すことになる、そんな救い主メシアの到来だということは、ますますとんでもないことと映ったことでしょう。


 結果的に、ヨハネは捕らえられて牢屋につながれて、言葉も行動も封じられてしまいました。もう、すぐなのに、時は来ているのに身動きが取れなくなってしまったヨハネでしたが、それでも牢屋の中から、人を介してでも、直接確認したかったことがありました。


 それが、今日の福音の中でイエスに向けられた問い、「来るべき方は、あなたでしょうか」という問いだったのです。まさに、すがるような思いだったでしょう。


 この洗礼者ヨハネの問いかけに対して、イエスは直接には答えません。ただ、「実際に何が起こっているかを見て、聞いてそれを伝えなさい」と言うだけです。「目の見えない人が見えるようになる。耳の聞こえない人が聞こえるようになる。足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。


待降節第3主日 説教台の司式の越智神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 第一朗読で読まれた『イザヤの預言』が、そのまま現実のものになっているというのです。イザヤは言っています。「神は来て、あなたたちを救われる」。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。


 「イエスが何者であるか」という問いには、今、人々の間に起こっていること自体が答えている、というのです。ここで一つ注意しなければならないことがあります。「目の見えない人が見えるようになる」と言及されているこの一連のできごとは、神が来たこと、またイエスがメシアであることを証明するために起こっているできごとではないということです。


 むしろ全く逆で、目が見えない人が見えるようになるため、耳が聞こえない人が聞こえるようになるため、重い病気の人が癒され、亡くなった人が今も生きているように、貧しい人々が喜びの知らせに喜ぶように、救い主がこの世に来られたのは、このためでした。


 だからこそ、ヨハネの問いに対するイエスの答えは、「今まさに、いつくしみ深い神の力が、今、現実に働いておられる」という返答になったのです。そしてこの事実の報告が、メシアの到来を待ちに待っていた洗礼者ヨハネに、約束された救い主が来たということを確信させるものとなったことだと思います。


待降節第3主日 3つめのろうそくがともるアドベントクランツ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ヨハネの弟子たちが去ったあと、イエスは自分の弟子たちに次のように言い加えています。「洗礼者ヨハネの存在自体もまた、約束されたメシアの到来の先触れなのだ」と。現実の生活の中でも希望を失うことなく、今か今かと救い主の時を待ち続け、人々を神への立ち返りと招きつつ、人々の間に実現しているいつくしみ深い神の働きを、なんとかして見出そうと努め、協力し、来るべきメシアの到来を告げることによって、人々を励まし、救い主の進む道を整えるものの存在となりました。


 その存在そのものが、メシアが来られることの先触れだというのです。夜明けを待ちわびる夜回りにもまして、「私の心は死を待ち望む」。今はまだ直接には見えなくても、太陽が地平線のすぐ先にまで迫っているからこそ、空は、橙(だいだい)色とピンク色の混ざったような、あの美しい曙(あけぼの)色に染まるのです。


 暗いニュースに事欠かない毎日です。少し、うれしいこともありますけど。たくさんの人が、この瞬間も苦しみ、悲しみ、惨めな思いを強いられています。しかし、キリストが来られるのは、このためなのです。まさにその救いのためです。改心とは、神さまの思いに立ち返ることです。


 ですから、イエスのご降誕を祝うことを待ち望む私たちも、今また改めて、来るべき方の御心にかなうように、救い主の到来のしるしとなり、その準備をするようにと、招かれているのだと思います。それがキリストの降誕を待つということであり、この世界における神の思いの実現の一端となり、ひいては救い主の到来の先触れとなるということなのです。


 そのとき、きっと私たちもまた、待ちわびた希望の成就のように、すなわちキリストの光に照らされた喜びの曙色へと染められていくことになるでしょう。


待降節第2主日

柴田 潔 神父

12/4(日)10:00- 待降節第2主日


 今日は、「主の道を整える」について考えます。

待降節第2主日ミサ 聖櫃の隣に飾られたアドベントクランツに2つ目のろうそくがともる カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 洗礼者ヨハネの「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉は、第1朗読のイザヤ書40章3節から取られています。紀元前6世紀、バビロンで捕囚されていたイスラエルの民は、エルサレムへと帰されるときに、神様が特別な近道を通されました。普通はユーフラテス川沿いに北上するルートを使うのですが、神様は、民を慰めるために、荒野に広い道を通して、まっすぐ西に進ませる道を作って、早く帰国させたことを意味しています。


 福音では、同じ「主の道を整える」という言葉が使われていますが、意味合いが違っています。バビロンからエルサレムという、場所から場所へと移動する「道」のことではなく、信仰の「道」になります。「信仰の道」がでこぼこになっているからそれを「整えなさい」と言っています。


 「整えなさい」と言われても、なかなか整えられない自分がいます。その理由は、することがとても多いからです。「どこまでしないといけないのか」「どこからはお断りしていいのか」。判断はとても難しいです。頼まれたことをしっかりしようとしたら、仕事以外のことには目を塞ぎます。


 サッカーのワールドカップも見ていません。「それどころじゃない」というつもりで仕事をしています。でも、仕事は尽きることはありません。健康で働けるだけ幸せ。やることがなくなったときに比べて幸せ、と考えたりもします。


 昨晩は、防災の実務チームの初めての集まりをしました。夜までにミサが3回あり、スケジュール的にきつかったですが、年内に実現できてよかったです。メンバーの顔合わせをして、これまでの防災計画の概略を事務職員にしてもらいました。その後、場所を移してヨセフホール、地下、備蓄品を保管している場所で、皆さんで確認しました。


待降節第2主日 司式の柴田神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 「どのように備蓄品を分けるか」「帰宅できなかった人を、どの部屋にどのように割り振るか」さまざまな意見が出ました。うれしかったのは、人の顔色を見ないで、意見が出し合えたことです。教会を愛し、信徒を愛し、帰宅できなくなった人も受け入れようとする熱意と優しさを感じました。


 同時に、際限なく受け入れることもできません。許容範囲を見極めていく冷静さも必要です。仕事が多くて凸凹だった自分が多少無理することで、整えられる体験でした。


 私たちの凸凹したものは、プライドだったり、名誉だったり、妬みだったり……それらを突破するには、自分をかなぐり捨てて打ち込むこと。それが、周りの意見を出しやすくし、みんなが神様に向かっていくことだと感じました。


 私が防災に関心を持ったのは2011年の東日本大震災です。それ以来、山口県から春休み、夏休みにグループでボランティアに出かけていました。3年前の年末には、宮城県石巻市の旧大川小学校を訪ねました。そして、当時小学6年生の娘さんを亡くされた佐藤敏郎さん(中学の国語の先生)からお話を伺いました。


 「目の前にいる子どもたちが、かけがえのない、命、一つしかない命をもっていて、学校は安全で安心なところという前提がある。少なくとも日本の学校はそうなんですよね。学校にいるから安心だって、私をはじめ、みんなそう思っていた。……それは、間違いじゃなかったというようにしたい」

 宮城県の反省は「巨大地震と津波が来るよ」と聞いていたのに、「行動したくなかった」こと。家が流される、悲しむ人がいっぱい出てくる……そういう「未来」を想像したくなかった。だから「大丈夫じゃないか」「たいしたことないんじゃないか」と油断して、言い聞かせた。


 違いますよね。私たちが想像しなければならない「未来」は、ものすごい津波や地震が来ることを想像して、みんなが亡くなって悲しむのを想像するのではなくて、みんなが「念のため」にできることを準備して、避難して丘の上で再会して「良かったね」と抱き合う「未来」を想像すること。その「未来」を作るのは「教育」。脅しではなく、ハッピーエンドの「教育」のために現実を知って、「念のために」を深めていく。


 佐藤さんは、涙を抑えながら、娘さんに、「お父さんは大切なことを伝えたよ」という思いで話をされていました。「私たちの体験を使ってください」。佐藤さんはご自身の大切な娘さんを失われた辛い体験を皆さんにはしてほしくない、同じことを繰り返してほしくない思いで、語り部をされて、防災教育に出かけられています。佐藤さんのお姿が、「多少無理してもやってみよう!」という気持ちにさせてくれましたし、防災チームの皆さんが仕事の忙しさの凸凹を整えてくださいました。


 「整え方」はそれぞれです。量を減らす方法もあれば、無理してでもさらに注いで整えられることもあります。皆さん、それぞれに信仰の道を、生活の道を整えて、イエス様のご誕生の準備をしましょう。


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