トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2023年7月の説教

2023年7月 ミサ説教

2023年6月 | 2023年8月


年間第17主日

髙祖 敏明 神父

7/30(日)10:00- 年間第17主日


 皆様がお手元に持っていらっしゃる聖書と典礼、私は聖書の短い方を読み上げましたが、その下のところに真珠についての説明が書いてあります。「古代では非常に高価なものであった。44節『畑に宝が隠されている』のたとえ同様、人が求めるべき宝というテーマは、第一朗読や答唱詩編とつながるものである」と書いてあります。


年間第17主日 ロヨラの聖イグナチオの記念ミサ 司式の髙祖神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 皆さんも朗読をお聞きになって、ピンときているかと思いますが、たとえば第一朗読で神様がソロモンに「あなたの願うことを願いなさい。何でも叶えてあげよう」と言われたときに、ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断できるよう聞き分ける心を与えてください」と祈りました。ソロモンにとってこれが宝だったのでしょう。そして、主はそれをお喜びになったと書いてあります。私たちは、お祈りをするとき、願い事をするとき、自分が長生きすることや自分の富を願い、自分の敵を、「あの人を抹殺してください」などと祈ることがありますが、そういうものを求めず、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めました。「あなたの言葉に従って、知恵に満ちた賢明な心を与える」と主がおっしゃる。


 そうおっしゃったすぐ後に、今日の朗読に続くところでは、2人の女がそれぞれ自分の産んだ子どもを巡って争いが起きる話、皆さんもご存じだと思います。夜中にそのうちの1人が死んでしまった。そして 2人の女性が、生きている方が自分の子どもだと言い張って争うわけです。そしてソロモンのところに訴えてくる。
 ソロモンは両方の訴えを聞いて、それぞれがこの子が自分の子だと言い合っていたのだなと。「じゃあ刀を持ってこい」と言い、「子どもを真っ二つに上から切って片方ずつやったらいいだろう」と言う。そうすると、生きている赤ちゃんの本物のお母さんは、子どもが殺されるよりも生きていた方がいいという判断のために、「その子はこの女にやってあげてけっこうです」と言います。それによってソロモンは、この子どもの本物の母親はどちらかを見分けたという話が続きます。ですから、 神様が訴えを正しく聞き分ける知恵、 知恵に満ちた賢明な心を与えたということが、そういう話によって裏付けられるという展開になっています。


 一方、詩編は、「神様の教え、あなたのすすめ、あなたの定め、あなたの言葉は、すべての金や純金に勝る」。そして詩編の最後に、「すばらしい宝を見つけた人のように、私はあなたの仰せを喜ぶ」ということで、神様からのメッセージ、言葉が、私たちにとっての宝であるということを、私たちに伝えようとしています。


 今日、私たちは、この教会の聖イグナチオの祝日をお祝いしていますが、ロヨラのイグナチオも、自分にとっての宝物を見つけ、それによって人生を変えていった。それは、回心と言われていますが、その1人です。皆さんもご存じだと思いますが、イグナチオはバスクの小さな貴族の子どもとして生まれました。かなり宮廷で仕えた後、大きくなってからスペインとフランスがバスクを舞台にして戦争が起こります。イグナチオはスペイン側についている。ザビエルの家族はフランス側についているということで、両方が戦ったということも歴史的に言われています。どんどんフランスが攻めてきて、スペイン側の形跡が悪くなってくる。パンプローナというお城の攻防戦で、イグナチオは城の中で守り抜こうとしますが、敵が放った大砲の破片が自分の足に当たって大けがをしてしまう。自分では歩けないが勇敢な人ということで、フランス軍によって送り返される。そこで手術をし、生涯その手術のおかげで、右と左の足の長さが少し違っていたそうですが、療養生活をしているときに宮廷で仕えていました。宮廷で仕えるということは、その当時ですと、「騎士物語」ですね。はるかな恋心も持ちながら位の高い女性にお仕えし、自分の名声を高めていくという小説を読んだり、そういう生き方をしていました。


年間第17主日 ロヨラの聖イグナチオの記念ミサ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 療養生活が落ち着いていくと、そういうことを自分で想像して、再び自分が健康を取り戻したらこういう生活をしていくんだということを考えていきます。それに飽きてくると、別の本を読みたくなり、家にいる人に何か本を持ってきてくれと頼むのですが、それに類する本は一冊もなかった。あった本はキリスト伝と聖人伝だけだったので、その2冊を家の人が持ってきました。最初はあまり関心がなかったけど暇で仕方がなかったから、ちょっと開けて読んでいきます。すると、だんだんそこに書いてあることにも関心を持つようになっていく。聖フランシスコがあの清貧の中でさまざまなことをやった。それを自分が同じようなことをすればどうだろうか。聖ドミニコがこういうことやった。それと同じようなことを自分がやったらどうだろうかと考えたりする。しかし、それに飽きてくるとまた「騎士物語」を読む。に返っていく。そういうことを行ったり来たり、ずっとしているのですよね。


 あるとき、しばらくそういう状態が続いた後、はっと自分の目が開けた瞬間があります。それは何かというと、 騎士の物語を自分で思い巡らして楽しんでいる。しかし、そういう思いに飽きてやめてしまった後には、心が何か枯れてくるような、少し物憂い気持ちが自分の心を襲ってくる。もう一方、聖人の行ったことを自分がやろうとずっと想像し、自分はあんなこともしたい、こんなこともしたいと思ったときには、思っているときも嬉しかったし、それを辞めた後も、自分の心の中に、やる気、生きる気力がずっと続いてる。私たちの心の中に働くいろいろな思いが、実はそういう働き方に違いがあるということにこの人は気づくわけです。この違いは一体何だろうか。ということから、神様の世界にようやく目を向けることになっていきます。これがイグナチオの回心の始まりです。


 神のことに目が開かれた最初であったと本人は言っています。そして、この違いは何か。どこからこれが来るのかということを、自分としての人生の大事なこととして追求していく。その巡礼の旅がそこから始まります。人間に働きかけ、人間をやる気にし、喜ばせ、励ましを与える。そういう働く霊と、自分にちょっと憂鬱になる、重い気持ちにしてしまう、そういう霊があるということに気づいて、それがのちに識別を自分でやっていく始まりになっていきます。そのときから長い魂の巡礼が続きますが、イグナチオにとってはその気付きが今日の福音でいう宝を見出したという体験でした。そこで、宮廷で生きる、あるいは宮廷で有名な人になるとか、富を身にけるとか名誉を身につけるという生き方を捨てて、巡礼者になっていきます。ただし、一足飛びに聖人になったわけではありません。


 当初は自分の読んだ物語の聖人の外面を真似る。たとえばフランシスコが自分の商人として持っていた財産や衣服を全部投げ捨てて貧しい人にあげたことを真似ることもあるでしょう。自分が貴族として身につけていた衣服を乞食の衣服と取り替えて、乞食の衣服を自分が着る。そのうち巡礼の姿となっていくのですが、宮廷にいるときには身だしなみにものすごく気をつかっていた。その反動もあるのでしょう。髭も伸ばし放題、髪もボサボサという生き方をする。そして、断食にしろ、祈りにしろ、強ければ強い断食、長ければ長い時間の祈りこそいいんだと、それを強いていく生き方をしばらく行います。


年間第17主日 ロヨラの聖イグナチオ像 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 少し突き放して言えば、自分の外の世界に、回心の歩みの基準があったといえるでしょう。しかし外の基準ということの歩みを、スペインのマンレザというところで、ご自分の修行を積みながら、だんだん学んでいきます。そのときに、 主イエスの教え、詩編で歌われた勧め、定め、言葉、それが自分にとっての大きな基準になるということに目覚めていきます。外側にあった基準が、神様から働きかけられる。その言葉こそ、そのメッセージこそ、自分の大事な基準になっていくんだということですね。ですから、自分にとっての真珠、宝物は、イエスの教え、勧め、定め、言葉であることを体験的に学んでいきます。と同時に、勧めや言葉以上に、イエス様ご自身が真珠であり、宝物であるということに、心の目が開かれていきます。主キリストとの交わりを持つこと、もっといえば、聖三位の神様、父と子と聖霊の交わりの中に自分自身が加えられているというこの体験。そこに私たちの宝物があるということに気づいていきます。


 今日の説教でこの辺のことを少しご紹介していますが、ごく最近、7月25日発売で、 上智大学の神学部長である川中仁神父様が、この霊操についての新しい翻訳を出しました。1,100円で売っていますのでお買いになったらいいかもしれません。ただし、これは手にとってパラパラ読めばいいものではありません。どなたかの指導を受けながら、識別をしていくという生活を一緒に歩んでいくことが必要なものです。


 ですから、主イエスの言葉、行い、 思い、それらの背後にどういう心をイエス様は持っていらっしゃるのかをじっくり知り、味わう。イグナチオは言います。私たちの心を満たすのは、多く知ることよりも、深く味わうことだと。深く感じ、深く味わったことこそ、私たちの生きる力になっていくということも伝えています。それを思い起こしながら、典礼聖歌の「キリストのように考え」ということと通じるなと。キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そうというこの典礼聖歌、もはやこの身に生きることなく、キリストによって生きるためにと歌います。


年間第17主日 ロヨラの聖イグナチオの記念ミサ 祭壇のひまわり カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そういう目で今日の第二朗読を読み返してみますと、神は、前もって知っておられた者たちを御子の姿に似たものにしようと、あらかじめ定められたイグナチオをキリストに、イエスに似たものに導いていかれる。神は、召し出した者たちを義とし、神さまの前でちゃんと生きていける人にし、義としたものに栄光をお与えになった。イグナチオはイエズス会のモットーとして、 神のより大いなる栄光のためにと言っていますが、そういうところと結びつくかもしれません。そのような生き方は、イグナチオの「自分を捧げる祈り」に凝縮されていると言えるかもしれません。


 自分を捧げる祈り、浅井先生が作曲されて、この教会のテーマソングみたいになっております。先ほど聖歌隊に聞きましたら、今日の聖体拝領のときの1曲目でこの歌を歌うそうですので、典礼聖歌集の祈りの70ページに「自己を捧げる祈り」が入っておりますので、聖歌隊の歌う響きに合わせてお祈りを捧げられると、今日の祝日を祝うのにとてもいいかなと思っております。この9日間、ミサの前にノベナというイグナチオに向けた9日間の祈りを捧げてきております。今日のこのミサでの願い、祈りを私たちとしてもご一緒に捧げたく、高価な真理を見つけたイグナチオの姿を思い起こしながら、私にとっての真珠、私にとっての宝は何だろうかという問いかけが聖書にありますので、自分の心の中で味わいながら、パンと葡萄酒をご一緒に捧げたいと思います。


年間第16主日

李 聖一 神父

7/23(日)10:00- 年間第16主日


 梅雨も明けて、多くの小学校、中学校、高校では夏休みに入ったというニュースが耳に入ってきました。私が育った広島の祇園教会という、イエズス会の神父さんたちが司牧活動をしておられた教会では、夏休みに入ると、日曜日のミサの説教も夏休みになり、神父さんたちも説教しないという習慣がありました。


 私はその習慣が大好きで、子どものときに神父さんたちの説教を聞いても面白くもないし、わかりもしないしと思ったところに、説教をしないという習慣があって、ミサもだいたい30分ぐらいで終わりますので、いいなと思っていたのです。その習慣が、私の中にも身に染みているというか、夏休みになると説教しなくてもいいのではないかなという誘惑が私の中にあるのですが、イグナチオ教会にはそういう習慣がないらしいので、簡単にお話をしようかと思います。


中庭と回廊 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日のたとえ話、私にとっては自分自身がいつもこういうことに注意しなくてはいけないなと思うたとえ話です。どういうことかというと、私は長く中学、高校で働いていました。30年間働いていましたが、生徒指導部長をやっていたのです。生徒たちは生徒指導部長のことがあまり好きではない。いろいろなことを取り締まられる。男子校だったので、女子高とは違っているのでしょうが、頭髪検査があったり、私がちょうど教壇に立っていたころは、生徒の生活がだいぶん変わってきて携帯電話を誰もが持つようになり、それを学校に持ち込ませるか持ち込ませないかということで大議論したり、髪の毛を染めてくるとか、耳にピアスの穴を開けるとか、ずっと見ているのです。そして、そのような生徒を捕まえては説教する、時には親を呼び出す。そういったことをやっていたのです。


 中高生ですから、学校には校則といいますか、私たちの学校には生徒心得というものがあって、それを参考にしながら、生徒の日常生活を見守っていかなければならないという役割があります。そういったところから逸脱する生徒はいるし、悪さをする人もいるし、時々、警察にお世話になるようなこともあったりしますが、私はそういう生徒とどのように向き合うかというときに、このたとえ話をいつも思い出していたのです。


 人間の心の中には、良い麦となぜか悪い麦もあって、そうしたものを見つけたときに、毒麦を抜いてしまおうと言って、その生徒の悪さや問題行動をとがめて、あるいは叱責して、ちゃんとしなきゃダメだと言わなきゃいけないと同時に、そうした毒麦を抜くことに一生懸命になってしまって、良いものまで抜いてしまうことがあるのではないかと、私はこのたとえ話をいつも読み返しながら思っていたのです。


 まだ中高生ですから、自分たちが本当にその学校の生徒として、あるいはこの家の子どもとして何がふさわしい行動なのか、何がふさわしい振る舞いなのかをきちんと学んで、それをそのまま自分自身の振る舞いとする年齢にはまだまだ遠いところがある。だからこそ、いろいろなことを教えなくてはいけないだろうと思うのですが、一人ひとりの子どもの中にある良いものまで抜いてしまうほどに罰したりすることに、果たして意味があるかというようなこともたびたび考えさせられました。


 それは実は子どもたちだけではなく、私たち自身もそうであって、私たち自身の中に良い麦、悪い麦は育っているといってもいいかもしれない。悪い麦を抜くことに一生懸命になってしまうと、私たちの中にある良いものまでも抜き去ってしまうということもないわけではない。そのようなことを心に留めておかなければいけない。そのさじ加減というのがあって、どの程度生徒を叱ったり、それなりの対応を取るかということもあるでしょうが、しかし、その生徒に対して逃げ場がなくなるほどの問い詰め方、追い込み方は絶対してはいけないということは、私は学んだことでもありました。


主聖堂ステンドグラス「麦」 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そして、私たち自身も、毒麦を抜くために、自分自身をどんどん追い込んでしまう、あるいは、他人を追い込んでしまう、逃げ場がなくなるような対応の仕方は絶対にするべきことではない。そして、そのときその場にあって、ふさわしい振る舞い、ふさわしい生き方、 ふさわしい行動というものが一体何であるかということをきちんと見定めて行うことが、実は識別という言葉の意味でもあるわけです。


 今日からイグナチオのことを記念してノベナが唱えられますが、イグナチオという人の生涯とその体験というものを通して私たちが学びたいのは、実は識別ということなのです。私たちがそのときその場にあってふさわしい行動は一体何かということです。識別というのは、人生において重大な決断をするときだけに必要なことではありません。日々の生活の中で自分の本当にふさわしい振る舞いは何であるかをきちんと識別するといったことから識別の霊というものを体験することができる。フランシスコ教皇もそうおっしゃっていますが、まさにそうだと思います。


 この暑い中に電車に乗って、今日は日曜日だから、イグナチオ教会に行ってミサに与らないといけないときに、行きたくないなとか、めんどうだなとか、この暑いのにどんな祈り方だっていいじゃないかと、いろいろな思いが働くと思います。そういう中にあって、ある意味でいろいろな言い訳をしながら、正当な言い訳もあるだろうと思いますが、そのとき自分にとって、自分の信仰のあり方にとってふさわしいものは一体何であるかということを心に留めておいて、そこにある識別というものが働くようになっていく。そういった小さな日々の生活の中のいろいろな出来事の中で識別をしていくものだということをイグナチオは教えてくれていると思います。


四ツ谷駅前から見た鐘楼と青空 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そういう意味で、私たち自身の中にある良い麦と毒麦を見分けていくことも、注意していかなければならないことだと思います。とくに夏休み、子どもたちにとっては、非常に豊かな経験ができる時期でもある。そしてまた同時に、自分にとってふさわしくない方向へと導くようなものに出会ってしまう時期でもあります。そういったことを通して、私たち自身がキリスト者としてのふさわしさというものを身につけていくことができますように、ご一緒にお祈りしたいと思います。


 そして、ワールドユースデーがリスボンで開かれるということで、若者たちが大勢リスボンに集まっています。イエズス会から参加する若者たちも昨日出発しました。ワールドユースデーには教皇様もいらして、8月6日に大きなミサが行われるということですが、世界の若者のためにも、今日ご一緒にお祈りして、実り豊かな大会になっていくように祈っていきたいと思います。


年間第15主日 幼児洗礼式

髙祖 敏明 神父

7/15(日)10:00- 年間第15主日


 先ほど、答唱詩編で「あなたは地を訪れて喜ばせ、豊かな実りでおおわれる」という一節がありました。今日の幼児洗礼を祝福しているような御言葉だと思います。


 私が読み上げましたマタイの福音の種蒔きのたとえも、まさにこの小さな赤ちゃんあるいは幼児に神の種が蒔かれるという意味では、ふさわしいと思いますし、第一朗読の「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。そのように、私の口から出る私の言葉もむなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ私が与えた使命を必ず果たす」という御言葉を私たちにまた味わうように招いています。


2023年7月16日 年間第15主日 司式の髙祖神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 両親からの信仰を我が子に伝えていく。代父母の皆さんがそれを支えていく。教会共同体もそれに一緒にあわせて祈りを支え、共同体としての喜びにあずかっていく。そういう大きな流れを見ていきますと、「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない」と同じように、神様から与えられた言葉が回りながら実りをもたらしているというふうにみることができると思います。その意味で、ご両親、ご家族そして今日代父母を務めてくださる皆さまにも御礼申し上げたいですし、今日ここに一緒に集まって喜びの日を迎えてくださるイグナチオ教会の共同体の皆様にも感謝を申し上げたいです。また、私たちと一緒に共にいていつも招き導いておられる主イエス、あるいは私たちに働きかけている聖霊に心から感謝を捧げたいと思います。


 今、宗教二世の問題もありまして、幼児洗礼というのは子どもの意思を無視して親が勝手に洗礼を授けるのではないかという意見も聞かれないわけではありません。もっと育ってから自分で選ばせればいいじゃないかという背景があるかと思います。皆さんが子どもを家庭で育てるとき、食べるもの着るもの、子どもの環境を注意深く配慮し親が良かれと思うものを子どもの世話をしながら育てていきます。そして、子どもはその家庭の中で親の姿を見て、家族の中の雰囲気を汲み取りながら行動様式、人との関わり方、生活様式あるいは価値観というものをどんどん身につけていきます。


 そういう中で、自分たちが大事にしている信仰が後回しになっていいのでしょうか。むしろ信仰も同じように伝えていくというのが親の務めでしょう。ただ、洗礼は一つの実りではありますが新たなスタートであるということも同時に知っておく必要があるます。洗礼を授けたら終わりというわけではなく、洗礼を授けたからこそ、これから洗礼を受けた本人もご両親もご家族も代父母になる方も、さらに新しい成長に向けてスタートをしていくお祝いの日でもあります。まさに「親を見て子は育つ」ということ、信仰についても同じことが言えるでしょう。


2023年7月16日 年間第15主日 ミサ中に幼児洗礼式が行われました カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 その意味で今日の福音は、私たちに心の中でよく味わってみるような招きがある福音だと思います。もちろん日本で種を蒔くということをよく知っている人から見ると、今日の福音の種蒔きは種を蒔いて後で土を耕すというのですから、とんでもない種の蒔き方だという気がしないでもありません。ですから、私たちからすると種の蒔き方が違うのではないかと感じる福音でもあるのですが、日本のような種蒔きをしていては、今日のたとえ話は生きてこないですよね。いろいろなところに種を蒔いているので、種がいろいろな育ち方をするということが今日のたとえ話の大事なところになっているようです。ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまう。ほかの種は、石だらけの土の少ないところに落ちた。すぐに芽を出すのですが、日が昇って暑くなると、根がついていないため水を吸い上げる力が弱いので枯れてしまう。3つ目の種は、茨の間に落ち、自分も育ったけど茨の方が伸びてそれをふさいでしまった。


 そして4つ目が、良い土地に落ちて100倍、60倍、30倍に実を結ぶ。このように今日のたとえ話は私たちに語っていますが、良い種が巻かれた場所を自分自身の心、自分自身の生活というふうに捉えてこの箇所を味わうこともできるでしょう。私たちの家庭という広がりで見ることもできるかもしれません。あるいは、私たちの共同体という中でも、ある部分では道端に落ちて鳥に食べられてしまうようなあり方。あるところでは石だらけ。あるところでは茨におおわれてしまう。ある部分では良い土地。そういうあり方が私たちの普通のあり方かもしれません。


 今日洗礼を授けると同時にその種が落ちた土地で豊かな実を結ぶように、私たちもその土地をおそらく耕していく。その実が育つように世話をしていくということが同時に期待されているのでしょう。環境を整え、肥料を与え育てていくということ。もちろん、子どもが成長するにつれて親が与えていた食べ物や着るもの、環境も、子どもがしだいに自分の好みで選んでいくようになっていきます。ものの見方、考え方、人との接触のしかた、価値観も、思春期を迎えて徐々に自分自身のあり方を選んでいきますし、親から与えられたものを取り直しながら、「これは取り入れる。これはいらない」と選んできます。それを通して大人になっていきます。


2023年7月16日 年間第15主日 主聖堂内マリア様のご像から祭壇を見る カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ちょうどその時期に教会は堅信の秘跡を用意しています。それぞれが自分自身で選び直しができる環境を整えるということです。しかし、堅信の秘跡にいくまでに家庭で何もしなくてもいいというわけではないですね。むしろ先ほど申しましたとおり、家庭で子どもたちをいろいろな形で育てるのと同じように、信仰の面でも育てていく務めがあることも事実です。今日、幼児洗礼を受ける4人のご家族の喜びに私たちも心をあわせながら、その子どもたち、ご両親、ご家族、それから代父母をお務めくださる皆さんが、神の言葉、導きを受けて大きく成長し、豊かな実りを結びますように皆でお祈りしたいと思います。そして同時に、4人の子どもたちの洗礼式にあずかる私たち一人ひとりイグナチオの教会共同体が神の望まれることを成し遂げ、神が与えておられる使命を果たして豊かな実りを結ぶことができますようにお祈りしたいと思います。


 そして、「あなたは地を訪れて喜ばせ、豊かな実りでおおわれる」というこの御言葉が私たちの中でも実現していきますように、心あわせてお祈りしたいと思います。


年間第14主日 子どもとともにささげるミサ

柴田 潔 神父

7/9(日)10:00- 年間第14主日


 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」というイエス様の言葉は、「神様は素晴らしい。私はとっても嬉しい」と同じだと思います。教会学校の友だちは、最近嬉しいことはありましたか? 神父さんにも嬉しいことがありました。今日はそのお話です。


 でも、なかなか嬉しいことはすぐには起きないですね。神父さんはとてもお仕事が忙しいです。たくさんお仕事があって、嬉しいというより失敗しないで良かったとホッとすることが多いです。なかなか休めません。また次のお仕事が待っています。「失敗しないようにまた頑張らなきゃ」の繰り返しです。


2023年7月9日 年間第14主日 2023年度カブトムシ難民支援で頒布された柴田神父様のカブトムシ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そんな神父さんが、好きで頑張っているのはカブトムシです。そのカブトムシは、難民という困っている人のためです。ウクライナではまだ戦争が続いているけど、難民は自分の国で戦争があって住めなくなって別の国に逃げている人たちです。日本にも毎年、たくさんの方が逃げて来られます。日本に着いてから住む場所がなかったり、食べるものがなかったり、言葉がわからなかったり、そんな寂しい思いをしている難民を助けたいと思って、今年も地下で200匹育ててきました。


 でも、地下は地上よりひんやりしています。温度が低いからなかなか成虫になりません。6月にはある小学校から「イエス様のみこころの祝日」のミサを頼まれました。すると理科の先生から「カブトムシをください」とお願いされました。カブトムシを連れていきたいけど、神父さんが育てているカブトムシはまだサナギ。どうしようと思っていたら、それを聞いた教会学校の女の子が「私のをどうぞ」と持ってきてくれました。


 でも、あとからこんな気持ちだったことを聞きました。1年かけて大事に大事に育ててきたカブトムシ。お友だちに喜んでもらいたい、でもお別れはやっぱり寂しい。お友だちに譲るカブトムシを選ぶとき涙がこぼれました。女の子のほかにも、成虫のカブトムシを「どうぞ」と連れてきてくれた家族もいます。お父さん、お母さんとお姉ちゃんも一緒に車で届けてくれました。カブトムシの育て方が神父さんよりずっと上手なのでびっくりしました。ほかにも、大人の方が2回も成虫を届けてくれました。そのカブトムシを、先週の日曜日、オスメス30つがい分けました。


 ところが、困ったことが起きました。カブトムシがほしい教会のお友だちには、もう分けてしまっています。地下では毎日10匹くらい成虫になって嬉しいはずなのに不安です。カブトムシをもらってくれる人が見つからなかったらどうしよう。そんな心配を教会の評議員の人に相談しました。評議員の皆さんは、教会の皆さんのために一生懸命考えて働いてくださる方たちです。その評議員の方が「オスメス、30つがいほしい」という学校を見つけてくれました。ほかにも「11匹ください」という学校も現れました。神父さんが1年かけて育てた難民支援のカブトムシも行き先が決まりました。「カブトムシはどうなるの?」と不安だった神父さんが嬉しい神父さんに変わりました。「神様は素晴らしい! 神父さんはとっても嬉しい!」という気持ちになれました。


2023年7月9日 年間第14主日 司式の柴田神父様と髙祖神父、ボニー神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 神父さんは思いました。「はじめからうまくいく」とわかっているときよりも「大丈夫かなぁ?」と不安だったときの方が嬉しさが増えることです。神父さんが育てたカブトムシは「どうなるかなぁ?」と心配だったけど、小学校のお友だちにも難民支援のカブトムシが広がりました。カブトムシを育てて、難民のお友だちを助ける優しい心が広がっていく。こんな素敵なことは想像していませんでした。昨年よりもっと嬉しい気持ちになりました。


 教会のお友だちが嬉しくなるのは、自分がこっそり嬉しくなるのではなくて、みんなに広がっていく喜びです。周りの人に喜びを分けていく嬉しさです。そんな素直な心。「神様は素晴らしい、私も嬉しい」。そんな心で毎日を過ごしましょう。お説教のあと、新しい侍者のお友だちの祝福式、ワールドユースデーの派遣祝福式があります。侍者は神様の食卓に一番近いところで集まったみなさんに代わってイエス様にお仕えします。だから、とても心配になるかもしれません。心配するのは、一生懸命頑張っているからです。神父さんもカブトムシを育てて心配でした。でも嬉しくなりました。


 「ミサは素晴らしい。私も嬉しい」。そんな気持ちになれるように侍者で頑張りましょう。そして、ワールドユースデーに参加する皆さんも、一生懸命準備をし、本番で心を合わせると思います。「教会は素晴らしい、私たちも嬉しい」。そんなたくさんの体験をされてください。お土産話を楽しみに待っています。どうか安全で元気で過ごせるように、ともにお祈りしていきましょう。


【参考】カブトムシ難民支援2023(柴田神父のお説教集)


ミサ中に侍者祝福式と更新式、ワールドユースデー派遣祝福式が行われました。


年間第13主日

関根 悦雄 神父

7/2(日)10:00- 年間第13主日


 今日の福音は、私たちにとっても厳しいものと聞こえるでしょう。まず最初に、イエスが使徒たちにこう言います。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。皆さんどうですか。私たちは家庭の中で親に育てられた。それを思うと、お父さんやお母さんを愛するのは、ある意味当然のことではないでしょうか。しかし、イエスは、家庭的なつながりで愛することより、わたしをもっと愛するようにと言います。そして、「わたしを愛するときには十字架を担って私についてきなさい」と言うのです。


 イエス自身、自分の家庭についてどう考えていたか、皆さんもご存じでしょう。イエス自身は「わたしの母とはだれか」「わたしの兄弟とはだれか」と、家族が会いにきたときに言ったようです。そして、イエスはこのように言います。「わたしの天の父の御心を行う人が私の兄弟姉妹、母である」。


 たしかに、血縁によって、父、母、兄弟姉妹のつながりができますが、イエスは「新しい絆によって、私たちが父、母、兄弟姉妹になる」ということを教えてくれたのではないのでしょうか。非常に厳しい要求でありますが、このことによって、イエスに従うのかどうか。それによってすべての人との新たなつながりが生まれる。このように私たちに教えているのではないでしょうか。

2023年7月2日 年間第13主日 説教台の関根神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ところで今、家庭ということは日本の社会では問題になっていますね。たしかに昔より、家庭の中のつながりが弱くなってきたかもしれない。しかし血縁関係によるつながりが弱くなった一方、新たなつながりができているのでしょうか。残念ながら、イエスの望むような、イエスを中心にして人と人とがつながっていく現実は、まだできていないように思います。


 皆さん、ご存じでしょう。旧統一教会でも家庭を大事にしていると言っています。しかし、そこで大事にされる家庭というのは、昔の型の家庭です。日本の国家で考えれば、右翼の人も神道系の人もいます。天皇を中心にしてすべての人が一つの家族になる。でも、私たちの家庭像は違うと思います。すべての人とつながっています。これが神の国の実現に向かう家庭像ではないでしょうか。


 残念ながら今の古い家庭観からは、人権の大切さは出てこないように思います。そのため、最近の国会で成立した法律、入管法なども途中で変えられてしまった。すべての人に人権があります。ですから、難民と言われる人たちも大切にし、その人たちの人権も認めていかなければならないという世界的な動きの中で、最終的に多数者の立場も守らなければならない。難民を申請していても、はっきりした証拠がなければ認めない。3度提出して認められなければ本国に帰す。帰ったらどうなりますか。その人は殺されることもあるのです。法律によってその殺人を認めるということでいいのですか。そのように非常に残酷な排外主義というものが起きている。しかし、イエスの考えはそれでしょうか。しっかり考えなくてはならないと思います。


2023年7月2日 年間第13主日 朝の中庭 青空とシロツメクサ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエスは「父や母を愛する者はふさわしくない。自分の十字架を担って従わない者は、わたしにふさわしくない」と言います。「自分の十字架を担う」。皆さんこれはどう思いますか。今、十字架はありますか。いろいろ考えられると思いますが、人間的な弱さや自分の欠点などが十字架ではないと思います。十字架というのは、イエスに従って生きようとするとき、福音的な生き方をしようとするとき、それとは違う現実に対して強く抗議したりするとき、そのときそれに反対する外部からの暴力的な傾向が十字架であると言っていいと思います。


 十字架を解釈するとき、まず、イエスはなぜ十字架につけられたのか、なぜイエスに十字架が与えられたのですか。イエスが神の国の運動をただ静かにしているだけでは殺されるところまではいかなかったと思います。しかし、本当の神の国を実現するためには、今の現実の社会のおかしなところに対してしっかりと「これではいけないのではないでしょうか」とはっきり攻撃したのです。すると、攻撃された方は、このままにしておくと自分たちがますます不利になると思ってしまう。ですから、言論を封鎖する必要があると思い、十字架につけてしまう。


 ですから、私たちも十字架を担うときは、まず自分が本当に神の国の福音を生きる。そしてそれに反対する者に「それは、おかしい。それは本当の社会の有りようではない」ということをしっかり発信していく。そうすると、十字架があるかもしれません。最終的には殺されるかもしれません。十字架が与えられたときには、できるならそれをはねのける努力があってもいいと思いますが、あくまでも福音がすすめる生き方を続ける。神の国の時間を生きる。それを続けて最終的には引き受けて生きていく。これが十字架を担うということではないかと思います。


2022年夏に配られたペトロ岐部のご絵が聖歌集の上に置かれている カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 日本のことを考えてみると、昨日、7月1日はペトロ岐部と87人の殉教者の記念日でした。キリシタン時代に、キリスト教が伝えられてから多くの人がキリストに従った道を歩み続け、権力者が「それはだめだ」と言っても変えなかった。そして十字架が与えられて殺されていった。これが日本ですよ。私たちは、今の社会をしっかり見て、おかしなところにはやはり「おかしい」と言っていくことが、私たちにとって大切なのではないかと思います。


 最後に、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れる」「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われています。ここに、イエスの弟子として私たちには何が要求されているのかがしっかり表されていると思います。「小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませる」。つまり、必要な人に私たちができることを与える。愛を実行する。これが求められていることだと言っていいでしょう。


 どうか、私たちがこの福音を証しするため、神の国に生きるため、そして神の国を広げていくため、イエス・キリストにしたがって生き、行動し、愛を実行していくことができるように。そういう恵みを今日の御ミサで一緒に願いたいと思います。


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