トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2023年8月の説教

2023年8月 ミサ説教

2023年7月 | 2023年9月


年間第21主日

関根 悦雄 神父

8/27(日)10:00- 年間第21主日


 今日のマタイの福音書をご一緒に考えてみましょう。イエスが弟子たちと一緒に、ユダヤではなく、異邦人の地であるフィリポ・カイサリアに行ったとき、弟子たちに質問します。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」。イエスは自分のことを人の子と呼んでいました。ですから、「私のことを何者だと言っているのか」という質問です。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだ」。このとき、ヨハネはもう殺されていなくなっていますね。それから、「エリヤだ」とも言います。エリヤは偉大な預言者です。そのほか、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます。


 人々はどうしてこう言うのですかね。これは、自分がイエスのことを聞いて連想したからでしょう。自分の知っている知識でもって、なんとか答えようとしています。これは私たちも同じなのではないでしょうか。私たちにも、いろいろな質問が問いかけられます。そのような答えをしたところ、イエスは次にこのように言うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。あなた方というのは弟子たちです。とくに十二使徒。


 この使徒たちは、イエスの後に続くものとして、イエスの元に集まって、イエスからいろいろな教えを受けたり、イエスが実際に行ったことを自分の目でしっかり見ていたのですね。そういうものとして、「あなた方は私を何者だというのか」。シモン・ペトロが代表して答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。これは正しい答だと思いますね。


早朝・人のいない主聖堂 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 でも、ご存じのように、ペトロはこのように答えましたが、まだまだイエスのことを十分に知ったということは言えないのではないでしょうか。1つの証拠は、イエスが十字架につけられる前には捕まって、受難を受けるときには自分の身の安全のために隠れてしまったのです。そして十字架の元には残れない。もう逃げてしまった、そういう人です。でも、このときには、たしかに今までの教え、見たことを元に正しい答えをした。「あなたはメシア。生ける神の子です」。


 これは、私たち一人ひとりにも同じ質問がされています。私たちは今までに、イエスと出会い、そして、イエスのことをいろいろ聞いて、イエスに従っていこうと洗礼も受けたと思うのです。そういう者として問われているのです、「何者ですか、イエスは」。それに本当に答えているでしょうか。日本のような状況ですと、キリスト者というのは、プロテスタントの人を含めても、1%ちょっと。カトリックだけだと0.5%もいないかもしれませんね。まだ、そういう小さな群です。


 そういうところで、もし、自分がキリスト者だと言ってしまったら、他の人はどう思うのだろう。変なふうに見られはしないかとか、いろいろな思いがあって、はっきりと答えられていないということはないでしょうか。これが1つです。「私はキリスト者です。洗礼を受けています。教会に通っています」。それだけ言っても、別になんてことはないと思うのですが、私たちには使命があるのですよ。そのことがその後の話で出てきます。


 イエスはシモンに対して、こう言います。「わたしも言っておく。あなたはペトロ」。ペトロは岩という意味です。では、何のための岩なのかというと、次に書いてあります。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。福音書の中で教会という言葉が出てくるのはマタイ福音書だけなのですが、ここでの教会ってどういう意味なのでしょうか。下の解説にもありますように、言語は「呼び集められた者」の意味で、集会や会衆を指す。福音書ではマタイにのみ登場すると書いてあります。


 教会というのは、神の国を地上において表すものです。神の国というのは、神のみ旨が実際にそこで行われて、実現している、そういう場です。場所ではない。どういう状況か、神のみ旨が行われていること。これが教会だと。それの礎として、ペトロに役割が与えられました。その教会は、現代まで2000年以上続いてきているわけです。


青空の鐘楼 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そこで、私たちはその教会の一員として、本当に教会が教会であるために働いているでしょうか。神のみ旨が、私たちの周りで実現していますか。 神のみ旨。その中で一番大切なことは何でしょうか。ご存じですね。イエスは、私たちにたった1つの命令を残しました。掟を残しました。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」。イエス・キリストからそれを聞いて、人を愛すること、別の言葉で言えば大切にするということ。人が困っていたら、自分にできることを提供していく。これを行うことによって、人と人とがまた結ばれていく。これが教会でしょう。私たちはそのために自分のできることを人のために提供していますか。もしそれが提供していないとすれば、なかなか私たちは十分に教会の一員であるとはいえないのではないでしょうか。


 もちろん、教会にはいろいろな掟などがあります。罪を犯さないようにとか、それも大事です。しかし、これは忘れないでください。私たちにとって本当に大切なものは、イエスが言われた、「わたしが、あなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」ということ。愛し合うというのは、ただ感情的なことではない。相手を大事にする。相手に必要なものを、自分にそれがあるならば提供していくということです。


 今日の福音からそのようなことを考えて、皆さんと分かち合いたいと思いました。私たち一人ひとりは、もちろん私たちは人間ですから、不十分なところがいろいろあるでしょう。しかし、特に今のような社会においては、困っている人が本当に多く出てきているということも知っていると思うんですね。ですから、こういうときにこそ自分にできるものを提供していく。そして、そういう困っている人が本当に生きていくことができるように、そういう恵みを今日はご一緒に祈りたいと思います。


年間第20主日

サトルニノ・オチョア 神父

8/20(日)10:00- 年間第20主日


 今日のマタイの福音を耳にしたとき、皆さんの印象はどうでしたか。私にとっては、昔からこの箇所はあまり好きではないのです。イエス様の使いの人への態度は、差別のようなところがあるのではないかと思います。その差別は2つのところから出てきます。


 1つは異邦人ということです。あの女の人はイスラエルの人ではない。それからもう1つは、この人は女性だということです。ご存じのように当時女性たちは非常に差別されていました。今でもその地方では、そのような気配がまだ残っています。女性として、それから異邦人として差別されている人ばかりか、イエス様ご自身はこの人たちのために来ていないように私は感じます。だからこれを読み直して、マタイの福音の箇所の厳しさを見て、女性の娘さんが癒されるより、まず第一にイエス・キリストが自分のミッションがわかるようになります。イエス・キリストは「私はこの人たちのところにしか遣わされていない」と言いますが、みんなのために遣わされているのです。


年間第20主日 ミサ中の様子 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日のミサのしおりを見れば、言葉のことはたぶん理解できます。ティルスとシドンは非常に富んでいる町でした。昔から、文化的にも貿易的にも経済的に恵まれていた町です。それと同時に堕落もしていたということです。だからティルスとシドンの女の人というと誉れの言葉ではない。その女の人はティルスとシドンの人だったのです。カナンの女が出てきますが、カナンというのはイスラエルに近いけど、異邦人です。ユダヤ人ではないということです。


 その女の人の言葉は珍しい。「主よ、ダビデの子よ。私を憐れんでください」と言います。その女の人は異邦人であるにもかかわらず、「ダビデの子」という表現を使うことによって「あなたはメシアです」と言っているのです。「ダビデの子」は信仰の言い方です。「先生」と言わないで「主よ」と言うのです。「主よ、ダビデの子よ」と信仰の告白を言い、彼女はイエス・キリストのところへ来て「助けてください」と言うのです。


 あれだけ頼まれているのに、イエスは何もお答えにならなかった。これは非常に理解しにくいですね。それから弟子たちは「この女は邪魔になるから追い払ってください」と言います。イエス様の言葉としてはポイントかもしれませんが、「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになります。イエス・キリストのミッションがそれだけだったら、私たちは入っていません。イエスは、時間が経つにつれて彼に与えられたミッション、遣わされた目的は一体何かがわかるようになります。


 イエスは、イスラエルの迷った羊のためだけではなく、みんなのために来たのです。イエス・キリストの言葉で言えば「正しい人たちと正しくない人たちのために来た」のです。健康な人たちと健康ではない病気の人たちのために来ました。どちらかといえば、本当に優先されるのは罪人です。小さな人です。その人たちが先になるのです。「あとの者が先になり、先の者があとになる」(マタイ20:16)と言います。先になる人たちは異邦人です。


 「子どものパンを小犬にやってはいけません」と言います。そのような文化的なことはどこにもあります。日本にも聖書の言葉で、「豚に真珠」(マタイ6:7)という言葉があります。もっと日本的な「猫に小判」という言葉もあります。その文化、社会の中では、部落のような人たちと偉い人たち、侍や商人によって、社会はいろいろな差別が出てくるのです。


主聖堂の十字架と鐘楼の十字架 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 でも、その女の人は謙遜に「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑を食べる」と言います。そのときイエス様の態度が変わるのです。もう女と言わない。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言います。このような信仰はイスラエルでまだ見つかっていない。マタイの福音では、はじめから終わりに至るまでイエス様が自分のミッションの視野が広くなっていき、イエス・キリストを信じるようになる人たちは、ほとんど異邦人です。女性です。あるいはローマの兵士たちです。ご復活のときにイエス様がはじめに現れているのは婦人です。婦人たちは信じるようになります。弟子たちは信じない。


 イエス様は最後のマタイの福音の言葉で「全世界へ行って地の先まで行って、みんなに差別なく、この福音を述べ伝えてください」と言います。「私はあなた方と一緒に最後までいる」ということです。けれども、マタイの福音では、一番先に第2章で特別な場面が出てきます。占星術の3人の博士たちの場面です。イエス・キリストはベツレヘムで生まれて受け入れられない。大司祭たちに受け入れられない。受け入れるのは異邦人です。みんな民族としても言葉としても、イスラエルに属していない人です。この占星術の話は聖書の博士によると、一番先に置かれているのですが一番最後のことです。イエスはみんなのために生まれてきましたが、特別に優先されるのは異邦人なのです。


 成長しているイエス様を見るのは私にとっては、とても好きです。はじめからイエス様はすべてのことを知っていたわけではないのです。自分はどんなミッションが与えられたのか、何のために遣わされたのかは、彼は経験しながらわかるようになります。私たちも同じだと思います。私たちも、神様の御旨によって生きる、神様の御心にかなう人として生きるということは、一番先にわかっているということではなく、毎日の祈りの中で私たちの歩まなければならない道がわかるようになると思います。そうでありますようにお祈りいたしましょう。


年間第19主日

柴田 潔 神父

8/13(日)10:00- 年間第19主日


 このミサは、ミャンマーの子どもたちのためにお捧げしています。

 2つのお話をします。最初は、福音の1つの動詞からです。原文のギリシア語ではタラッソーという「強く動揺した時に使う」動詞です。新約聖書で使われている箇所の説明です。

 1つ目、祭司ザカリアに主の天使が現れた場面です(ルカ1:12)。「不安になり」と訳されているのがタラッソーです。ザカリアは、天使の言葉、妻、エリザべトが神の恵みによって男の子を産むことが信じられませんでした。

 2つ目、ヘロデ王が占星術の学者から「新しい王が生まれる」と聞かされて「不安を抱いた」と訳されている箇所です(マタイ2:3)。ヘロデ王は、神様の計画をつぶそうとしてベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにします。

 3つ目が、今日の朗読箇所です。弟子たちは、イエス様が湖の上を歩いているのを見て「幽霊だ」と怯え、恐怖のあまり叫び声を上げた(マタイ14:26)と訳されています。

 3つとも同じ動詞ですが、反応の仕方も、後にとった行動も違います。ヘロデ王のように「拒むのか?」ザカリア、弟子たちのように「信じきれないか?」

 私たちも、思いもよらない出来事に「強く動揺して」「恐怖」を感じて、それぞれが行動します。


主聖堂ステンドグラス 魚と舟 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 2つ目のお話です。「強く動揺して」「恐怖」を感じた時に、どのように行動するのか?
 今、上映されている映画の「キャロル・オブ・ザ・ベル」の予告編をご覧いただきます。


 1939年1月、現ウクライナ、イバノフランコフスク(当時はポーランドのスタニスワヴフ)にあるユダヤ人が所有する1つの建物に、ウクライナ人とポーランド人の家族が引越してきます。その後、第2次大戦が始まって、ウクライナは、ソ連による侵攻、ナチス・ドイツによる侵攻、さらにソ連によって占領されます。

 ウクライナ人の娘ヤロ・スラワは歌の先生である母ソフィアの影響で歌が得意です。特にウクライナの民謡「シェド・リック」=「キャロル・オブ・ザ・ベル」(ホーム・アローンで有名になった曲ですが、元はウクライナの民謡です。)を歌うと「みんなにいいことが訪れる」と信じて、大事な場面で披露します。しかし、戦争が進み、ポーランド人とユダヤ人の両親は迫害によって捕まってしまいます。ソフィアは、残された娘二人を「自分の子」と偽って必死に守ります。


 「誰の子だ?」「私のです」。誰か一人を助けることは家族全員を危険に晒すことになります。2022年のロシア軍によるウクライナ侵攻による厳しい状況でも、子どもを守る、強く優しい家族の姿を連想させます。


 「ただ、怖いの」「何を教えた?」「ウクライナの民謡を」。歌は、ウクライナ人のアイデンティティ、自分の文化を愛する信念です。ソフィアは、恐怖を抱えながら子どもたちに歌を教え、希望を持たせます。ウクライナ人としての尊厳を生きる子どもたちの、純粋で美しい歌声が私たちの心に染みます。


 映画の中では「ウクライナなど存在しない」というソ連兵の台詞もあります。「キャロル・オブ・ザ・ベル」は「ウクライナ人が存在しているよ」と世界中に叫んでいる歌になっています。ウクライナ人の誇りを呼び覚ます曲として、今注目されています。未来を生きる子どもたちの平穏な毎日を奪う権利は誰にもありません。


 このミサは、ミャンマーの子どもたちのために捧げていますが、ウクライナと重なるでしょう。「私たちには何ができるのでしょう?」今日の献金もその1つです。ミャンマーの避難民の子どもの教育のために使われます。


2023年夏 難民支援のために頒布されたカブトムシ(オス) カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 私はといえば、難民支援のカブトムシ募金が32万円になりました。ご協力をありがとうございました。送金先の難民支援協会さんからのお礼の言葉です。「連日30人の難民の方々が相談にいらしています。夏休みで海外からの観光客もたいへん多く、急場を凌ぐ宿泊先のホテルもひっ迫しています。そのうえ値段も高騰しています。この時期のご支援は、特に大変ありがたいです」。


 今、世界で「恐れ」を感じている人たちがいます。恐れの中で、ソフィアのように危険を顧みないで「自分の子どもの子」と、かくまう人もいます。歌を教えて、未来に希望を持たせている人もいます。緊迫した方に共感する心を持ちながら、自分にできることを果たしながら、平和旬間を過ごしましょう。



主の変容

酒井 陽介 神父

8/6(日)10:00- 主の変容


 ペトロをはじめとする数名の弟子たちは、主の変容の出来事を目撃しました。その後、ペトロが第二朗読で伝えているように、この栄光の出来事が、暗い時を行く時も灯火となって、力づけるだろうと彼は後世に伝えています。それはイエスの受難の出来事と復活の出来事と関連しているからなのでしょう。だから復活するまでこのことを言うなと言ったのは、その意味があるんだろうと思うんです。ですから、主の変容は、これから、イエスが通らねばならない受難と死を乗り越えて行き着く復活の栄光を表しているのです。


 そしてそれは、神の介入があって、はじめて起きる出来事であることをはっきりと示しています。天から声が聞こえたというところですね。ペトロも理解が追いついてはいませんでした。弟子たちにとって、復活したイエスを受け入れ、全てのイエスの言葉や出来事を理解するために、まずはこの変容の出来事は不可欠でした。ペトロも後になってわかったのだろうと思います。


 「変容」にはさまざまな変容の形があります。変容といえば、今日、日本が思い出している〈広島の原爆〉も、人類が忘れてはいけない一つの大きな「変容」の出来事です。それは、栄光の変容ではなく、戦争によってもたらされた「むごい」変容です。助け合うとか連帯するという選択ではなく、非情で、憎しみに満ちた破滅的な変容をもたらしました。


 1945年8月6日に16名のイエズス会員たちが広島で被爆しました。そのうちの一人に、のちの日本管区長、そしてイエズス会の総長になるペドロ・アルペ神父がいました。彼は当日の朝8時15分に広島市街地の長束にあった修練院の自室で原爆の威力を体験し、翌日爆心地近くに入りました。そこで目撃した惨状をこう伝えています。注釈を挟みますが。


主の変容のミサ 司式の酒井神父のお説教 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 「原爆の被害を初めて目にし、私はその光景を決して忘れることができない。(中略)15万人ほどの行列が、あてどなくひっきりなしにやってきた。これが、広島の恐怖の光景の一端を物語っている。……私たちは、このような大量殺戮を目の前にして、唯一できることをした。それは、人間の力が全く及ばない中で、ひざまずき、導きを願うしかなかった」。


 人類史上初の原爆によって惨状と化し、変容した広島を前にして、なすすべもないと感じたアルペ神父は、それでも、神に導きを願うしかありませんでした。アルペ神父は、仲間のイエズス会員や修練者とともに、長束の修練院を野戦病院のようにして、かつて大学で学んだ医学の知識とわずかながらの医薬品や包帯で、150人もの負傷者を受け入れました。変容した広島を前にし、それを目撃した彼らは、そこで嘆き、希望を失うのではなく、うろたえはしたのでしょうが、受難と復活を遂げられた主に向かって祈りました。そしてできることの行動を起こしました。


 変容は、私たちが「変容」することも含まれていると思います。キリストだけが変容すればいいんじゃないんですよね。神だけが私達のために変容する。それだけを求めるんじゃないと思います。私たちも変容されていく。私たちも変わっていかないといけない! 弟子たちが、復活した主との出会いで変わっていったように、アルペ神父と仲間のイエズス会員たちが、広島のむごい変容を前にして変わっていったように。それに伴う変容は、具体的な変化なのです。


 今の世の中を見渡してみるといろいろな「変容」があります。シノドスでは、再び「ともに歩もう」としている教会が変容しようとしています。今、リスボンで行われているワールドユースデーに参加して変容を遂げる青年たちもきっと出てくることでしょう。しかし、歓迎すべき変容だけではなく、例えば、今なお世界中のいろいろなところで起きている戦争や迫害、そして日々私たちが感じている気候変動という変容もあります。今、そうした厳しい変容が突きつけられています。自分たちの子供たち、孫たちに、次の世代に、今より状況しか残せないとしたら、それは今を生きる私たち大人の責任放棄とも言えるでしょう。私たちが変容しなければならないんです。神だけが変容するんじゃないんです。私たちがそれによって変わっていかないといけない。復活したイエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章 20節)だから恐れるなと約束されました。この希望を胸に私たちが変わっていくしかないのではないでしょうか。

主聖堂前の花壇に蝶がとまる カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今、私たちは、ある意味、ペトロが言う「暗いところ」を歩いています。私たちは自分たちが変容するために、どんな輝く灯をともすことができるでしょうか? どんな灯を見つけているでしょうか? 気候変動は、私たちに重い腰を上げさせ、生活を変えていくでしょうか? 戦争や侵略への不安は、攻撃や避難ではなく、対話や和解の重要性と私たちを目覚めさせているでしょうか? 広がる経済格差は、私たちに分配や配慮へ駆り立てているでしょうか? 広島や長崎の原爆の記憶は、私たちに核の威力に頼らない平和構築やエネルギー創出へと向かわせているでしょうか? 私たちの日常で起きている「変容」に敏感であることは、私たちがこうした経験をある種の「宗教的経験」として、捉えることができることを教えてくれます。「この惨事にあって、ひざまずいて、主はどこにいるのか」と問うことだと思います。そして具体的に変わっていくこと。今できること。それを探していくこと。そうしないと、私たちは、責任放棄していることになる。次の世代により良い形が残せない。今よりももっと厳しい世界しかなくなってしまうんですよね。


 私たちは、これらの変容の中に、キリストを探していますか? それは、全ては神のみ旨だと簡単に片付けてしまう態度ではなく、私は、どんなふうに具体的に変わっていけるだろうか、信仰者として、人間として変容していけるのかを問い、行動を起こしていくことではないでしょうか?


 あの頑固で、弱虫で、理解に乏しかった弟子たちは、復活したキリストに出会い、ともにいる主を信じて、使徒になっていきました。皆さん、そうであるならば、私たちも使徒になれるのです。日本にいる私たち、日本の教会は、平和の使徒として変わっていけるのだと私は信じています。


PAGE TOP