2023年9月 ミサ説教
9/3(日)10:00- 年間第22主日 ハビエル・ガラルダ 神父
9/10(日)10:00- 年間第23主日 ボニー・ジェームス 神父
9/17(日)10:00- 年間第24主日 髙祖 敏明 神父
9/24(日)10:00- 年間第25主日 森 晃太郎 神父
年間第25主日 新司祭 初ミサ
森 晃太郎 神父
9/25(日)10:00- 年間第25主日(初ミサ)
イエズス会に入り、最初の二年間に修練期という期間がありますが、修練期の間に山口県の教会で教会実習をしていたことがあります。その時のことなんですが、イグナチオ教会で昔主任をされていたカンガス神父さんがおられました。ある時聖書を手に持って、ニコニコしながら私のところに来るんですよ。何かなと思っていたら、質問されました。「ここの聖書箇所、あなたはどのように考えますか。どのように信者さんたちに話しますか。」当時の私は偉そうに好き勝手に言っていたと思うんですけど、神父さんは「面白いですね」と私の話を真剣に聞いてくださいました。そして二人で、神様の気前の良さを理解するのは難しいですね、と話していたことを今でも覚えています。
まさか初ミサでこの聖書箇所があたるとは思ってもみなかったですけれども、皆さんはこの聖書箇所、どのように理解するでしょうか。特にキリスト教的な価値観、あるいは信仰を前提にしない人にとって、労働者へのあまりにも不当な扱いであると思ってしまうこのような話を、皆さんはどのように周囲の人に話をすることができるでしょうか。多分これは、司祭がただここで説教の形で語ればいいものではなくて、きっと皆さんが普段の生活の中で答えを出していくものなんだと思います。
この不当な扱いに見えるもの、今日ここで、たとえば私が「神様は皆さんを平等に愛しています」という一言を言って説教を終わってもいいんです。きっとそれでは「神父様、今日の説教はとてもよかったです、短くて」というふうに終わると思うんですね。ですので少し、神様の気前の良さをちょっと深掘りしてみようかなと。何か掘り出し物があるかもしれませんので、ちょっと掘ってみましょう。
まず、神の愛が注がれる器は、みんなが同じなのかということです。同じ形のコップに同じ量の水を注げば、きっと平等に与えられているんだなと思うと思います。目に見えますから。しかし、神の愛を受ける私たちという器は、皆それぞれに個性や特徴があり、弱さがあり、傷があり、違う罪を犯します。そのような形の器に愛を注ごうとするなら、きっと人間の目には愛の注がれ方、愛の量が違うように見えると思います。それを私たちが、あの人の方が多く愛されていると比較しても、器が違うのですから、私たちの目から違うように見えるのは当たり前なのではないでしょうか。
次に、仮にもし神様が人それぞれに注ぐ愛の量が違うように見えてしまうとしましょう。しかし、もしあなたが朝早くから働いた人であっても、その働きが神様のために今日一日働いていると思えるなら、それは幸せなことのように思います。一日の終わりに1デナリオンという、目に見える形で表された神に愛されたというしるし、それはその目に見えないところに一日中その愛のうちに生きたという、神様のために働くことの充実感があると思います。きっとその1デナリオンの価値は、人間の目には限界の中でしか見えないものであったとしても、同じ1デナリオンの重みが違うように思います。私たちは自分が受け取るこの同じ1デナリオンにおける見え方の転換が必要なのではないでしょうか。
そしてこの1デナリオンの価値に気づいた時私たちは、誰も雇ってくれず、一日中広場で立っている人を迎え、同じ代価を与える神様の気前の良さに、妬みではなく、神様と同じようにこの人たちを愛することへと変えられていくのだと思います。そのようにこの世界を、人々を見れる時に、今日の第二朗読で言われているように、生きるとはキリストであるということの意味、自分が死ぬことが利益であるということの意味が理解できるように思います。
とは言うものの、私たちの価値観で見ると、第一朗読で言われるように、神様の思いは私たちの思いを高く超えている。そのため神様の注ぐ愛はなかなか理解できるものではありません。しかし日常生活の中で、人と比較し、気前の良さを妬む自分に気づく時こそ、そこに一日
働いたことによる報酬の1デナリオンという価値を超えた1デナリオンの価値を見出すチャンスがあるのではないでしょうか。自分に生じるネガティブな働きを、神様の愛に気づけるチャンスに変えてしまいましょう。大丈夫です、できます。なぜならすでに、神様は皆さんに1デナリオンを渡す約束をしてくれています。今日このミサで自分の分を受け取って、喜びのうちに帰りましょう。
9/23(土) 司祭叙階式が行われました。
森神父様・渡辺神父様 おめでとうございます!
年間第24主日 敬老ミサ
髙祖 敏明 神父
まずは、ようこそ敬老ミサに、と申し上げたいと思います。コロナ禍のため、教会に来る人数の制限があったりしていましたので、久しぶりに教会に足を運ばれた方も多いのではないかと思います。今日のこのミサは、皆様のこれまでの歩みに敬意を表し、共にいて導いてくださっている神様に感謝する日であります。皆様とご一緒にこのミサを捧げられることを神様に感謝し、これからの導きも共にお祈りしたいと思います。
皆様もご存じの方がいらっしゃるでしょう。イグナチオ教会で講座を長く担当されていて、先年亡くなられましたけれども、ペトロ・ネメシェギという神父さんがおられます。この方がある記事で、フランスの哲学者ティボンという人の言葉を紹介しています。「青年は美しい、しかし、老人はもっと美しい」。そのこころは何ですか?と突っ込みたくなるような気もしますけれども。
今日の第一朗読はシラ書でした。今日の朗読の2章ほど前のところにこういう言葉があります。「健全な判断は年輪を重ねた者に、確かな勧告は長老にふさわしい。知恵は年を経た者たちに、理解力と忠告は尊敬すべき年寄りにふさわしい。豊富な経験こそ老人の冠であり、主を畏れることこそ彼らの誇りである」(25:4-6)。これは皆さんのことを言っているんですよ。
皆さんの中には物知りの方がいらっしゃるかもしれません。日本の平安時代の終わり頃から明治の初め頃まで、庶民の初等教科書で使われていた「実語教」というのがあります。これの書き出しはこんな言葉です。
「山、高きがゆえに貴からず、木あるをもって貴しとす。人、肥えたるがゆえに貴からず、智あるをもって貴しとす」。
山は高いからといって優れているわけじゃなくて、木々が生え出ていて初めて皆から貴ばれるんだと。人は肥えてるからといって、この場合の肥えてるとは体が肥えてるという意味だけではなくて、裕福である、金持ちである、いろいろなものを持っているということですが、そうであるがゆえに肥えているわけではありません。知恵があることによってその人は貴ばれるんですよ、という言葉があります。ただ、この「実語教」とシラ書を比べてみますと、共に知恵を重視するんですけれども、聖書の場合には主を畏れること、主を畏敬し、主に従うことこそが一番大事な知恵だと言っています。皆さんはその歩みをずっとこれまで続けてこられたと思います。
ネメシェギ神父さんは先ほどの「青年は美しい、しかし、老人はもっと美しい」という言葉に少し説明を加えた後、「老年期は人生の収穫期、いろいろな実りを収める収穫期であると同時に、苦しい試練の時でもある」というふうにおっしゃっています。確かに視力、聴力、記憶力をはじめ、生活機能がだんだん低下していきます。いろいろな変化に適応していくという能力もだんだん弱くなっていきます。自分がこれまで築いてきた地位だとか影響力、名声や富、場合によっては健康、あるいは友人や伴侶などが奪われていくという試練をいろいろと受けていきます。
日本の古いことわざで「艱難汝を玉にす」というのがありますけれども、確かに試練によって鍛えられて気づきや悟りを得て、人間が円熟していくというのは事実だと思います。そして老年期、老後をどう生きるかによって、その人のこれまで積み上げてきた人生の実りがどうなるかということが確定してくるというふうに言われます。皆さんは今、ちょうどそういう段階にいらっしゃるかと思います。
しかし、新約聖書のペトロの書簡の中にこういう言葉が書かれています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです」(一ペトロ4:12-13)。試練、さまざまなことは突然来たように見えても、実は長い人生の中での神様の計らいの中にあるということでしょう。その計らいを私たちがどういうふうに受け止め、そこを理解し生きていくかということを問われているメッセージになっていると思います。
2日前の9月15日は悲しみの聖母の記念日でした。十字架にかかったイエス様のそばに聖母は立たれていた。そのことを特に記念する日のミサですけれども、その日のミサの拝領祈願、ご聖体を拝領した後にこういう祈りがあります。「御子イエスと共に苦しむ聖母に倣い、キリストの苦しみの欠けたところを、その体である私たちが進んで満たすことができますように」。私たちの信仰では、自らが体験している苦しみをイエス様の受けた苦しみと一致させて、その救いの業に自分も招かれ、そこに自分も参加しているという神秘を生きるようにと勧められています。
一方、そういう聖書の言葉を聞きながらも、私たちの心の中にはいろいろとふつふつと湧いてくるものがあります。私たちがこれまで人生の中で味わってきた喜怒哀楽を思い起こしていく、その中で憤りや怒り、あのことはどうしても赦せない、あの人は赦せないという、心に受けた傷は結構深く残っているものです。そして今でも私たちの心の中で疼いているという現状があるだろうと思います。
今日の第一朗読は「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう」「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」(シラ27:30、28:2)というふうに教えています。また今日の福音も「7回どころか7の70倍までも赦しなさい…あなたがたの一人一人が心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18:22、35)というふうに書かれれています。わかるんだけれども心がついていかないという現状もあるように思います。
こうして、怒りや心に受けた傷の疼きが続く一方、老いに伴って衰えていく。次第にすべてのものが奪い取られていくという中で、自分は死をどう迎えるのかという終活を始める時期に今、至っています。その中で、永遠にとどまるものは何だろうかと、自分がどんどん失っていくんだけれども、何が永遠にとどまるんだろうかということも同時に自分に問い、神様に問い、いろんな人に問うているかもしれません。皆様がそれぞれこれまでの人生の中で身につけた知恵の出番です。青年に勝る老人の知恵が、そこでどういうものですかと問われているし、それが発揮するところですし、自らのこれまでの人生の歩みにどういうまとまり、実りをつけるんですかということが問われています。
一つのヒントは赦しという言葉の中にあると思います。私たち人間は赦す、赦したいというときに、過去の出来事を見て赦す、赦さないということを言っています。神様が私たちに与えてくださる赦しは、過去のことに関連していますけれども、その人の、私の将来を見て赦しというものを与えておられます。これからの道を祝福するための赦しです。過去に振り向いた赦しではなくて、将来に向けた赦しだというところが、イエス様が私たちに与えてくださる赦しの大事なところじゃないかと思います。
ネメシェギ神父さんもそういうようなことを考えていらしたんでしょう。聖霊の導き、恵みがなければそういう赦しはなかなか得難いものだと。聖霊の続唱という祈りがありますけれども、その中に「心の痛手をいやすのは聖霊、真理に目を開いてくださるのも聖霊、慰めを与えてくださるのも聖霊」だというふうに祈っています。
今日このミサを捧げる中で私たち一人ひとりに聖霊の恵みが豊かに与えられて、心に疼いている傷があるとすればそれをいやしていただけますように。心の中に赦せないという気持ちがあるとすれば、神様に赦しをいただいて、将来に自分たちの実りをつけていく、そういう歩みができるようにお祈りしたいと思います。
私たちの信仰は、一人ひとりが神様に名を呼ばれ、愛されている。受難を経て復活の主となったイエス、今日のパウロの手紙の、キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主とされるためですとありましたけれども、その復活の主となったイエスが聖霊によって私たちと、あるいは私と共にいて、共に歩んでくださっていることを信じていますし、それを毎日生きています。この日まで生きてこられたこと、永遠の命に至る道を歩んでこられたことを神様に感謝いたしましょう。そしてこれまでの自分を支えてくれた家族や友人、仲間にも感謝を捧げましょう。そしてこれからの歩みも、聖霊の助けをもって私たち一人ひとりを神様が導いてくださるように、心を合わせてお祈りしたいと思います。今日この場に来れなかった私たちの友人もいるでしょう。その方々にも神様のこの聖霊の助けをもっての導きがありますよう、心を合わせてお祈りしたいと思います。
年間第23主日 子どもとともにささげるミサ
ボニー・ジェームス 神父
9/10(日)10:00- 年間第23主日(子ミサ)
今日は二つのことについて話したいと思います。一つは聖書の中の話、そしてもう一つはこの夏にリスボンで行われた世界青年大会についての話を短く話したいと思います。
今日の福音の中に出てくる一つの言葉なんですが、祈りがかなえられるために何をすればいいかということをイエスさまが言っています。祈りがかなえられるために何をすればいいんですかと。わたしたちは祈りをかなえるために、わたしたちの祈りを神さまに聞いてもらいたいと願っている人がほとんどだと思います。わたしたちはみんなそれぞれの祈りがあると思います。でもなかなか、祈りがかなえられる時もあれば、そうじゃない時もあります。
イエスさまが今日の福音の中で、一つ小さなコツを教えてくださいます。祈りがかなえられるためのコツ。こういうふうに書いてあります。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と。
心を一つにして願うという話ですね。わたしたち一人で祈る時もありますけれども、でもわたしたちの祈りがかなえられるために大事なことというのは、他人と心を一つにして祈るということなんですね。わたしたちの心の中にいろんな意味で人との反感とか、あるいはうまくいかない時に怒りとか、いろんなことがあると思います。でもそういうことを心に置きながら神さまに祈ると、なかなか神さまが聞いてくれないかもしれないですね。だから心を一つにして祈る。これが一つの大きなコツではないかと思います。だからこれから神さまに何か願い事をする時にですね、わたしたちは他の友達とか、あるいは嫌な人とか、そういう人たちがいたら、まず心の中にその人をゆるす気持ちを持つ。そしてそれから神さまに願い事をする。そうすると神さまがわたしたちの祈りをかなえてくださる。こういうことを心におきましょう。
そして2番目の話ですが、この夏、さまざまな活動がありました。その中でわたしも含め、このわたしたちの教会の若い世代が、大きな一つのプログラムがヨーロッパのリスボンの方であって、それに参加してきました。カトリック教会の若い世代が集まってお祈りする、そういう出来事でした。150万人の若い人たちが世界各国から集まって、教皇さまを囲んで一週間ほどお祈りの時間を共にしました。お祈りだけじゃなくて、さまざまな文化交流とか、他の国の人との交流とか、さまざまなことがありました。その出来事の様子を少し動画で見せたいと思います。これから3分ぐらいの動画を流します。動画なので、皆さん気楽に見ていただきたいと思います。
小さな動画なんですけれども、この動画の中でわたしにとって一番印象に残ったのは、若い人たちの喜びなんですね。その場にいる喜び。今日の福音の一番最後のところにこういうふうに書いてあります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と。二人か三人が神さまの名によって集まるところに神さまがいると約束してくださっているんですね。この集まりではおよそ150万人くらいの若い人たちが神さまの名のもとで一緒に集まってきました。どんなに大きな喜びでしょう。神さまが一緒にいるということの一つの大きなしるしとは喜びなんですね。喜び。わたしたちの心が喜んでいる、それが神さまが一緒にいるという大きなしるしなんです。
この大きな大会を通して、教会の若い世代に神さまが何を語っただろう。教皇さまの言葉にもあったんですけれども、恐れることはないと。そして自分たちの信仰を恐れることなく宣べ伝えなさい、というメッセージを教皇さまが語ってくれたんですね。福音そのものが喜びであり、それを使う。これが一つ大きな使命だと思います。この大会についてのわたしたちの教会から参加された12人の若い人たちの話、これから報告会とかもありますので、その時皆さん、もしよかったら行って聞いていただければと思います。
今日の福音の中の和解の話、そして人と心を一つにして祈ること、祈りをかなえるためのコツ、そういうことを覚えていてくださいね。そしてわたしたち一人ひとりが、今日は神さまに願いたいと思うこと、この教会にいるすべての人と心を一つにして神さまにささげたいと思います。
年間第22主日 WYD感謝ミサ
ハビエル・ガラルダ 神父
今日の福音のことについて考えますが、キリストについていくということについて考えましょう。キリストについていく。24節に「わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と書いてあります。この「自分を捨てる」「十字架を背負う」「キリストに従う」という3つの動詞を簡単に説明します。
まず「自分を捨てる」。自己否定、これでいいのか。私は好きじゃないんですね、それは。好きじゃないだけではなくて、なぜ自分を捨てるんですか。なぜ自分を否定するんですか。これは掟に背いているんじゃないんですか。思い出しましょう。聖書の根本、基盤である言葉、「聞け、イスラエル。心を尽くし、体を尽くし、精神を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。そして自分を愛するように隣人を愛しなさい」。ですから自分を愛するということは掟ですね。根本的な、隣人と自分を愛する。
そうすると、キリストが自分を捨てるとおっしゃった時には何を言いたかったでしょうか。多分これでしょう。自分を捨てない、自分の好きな、欲しいものを困っている人に喜んで譲る、という意味で捨てるのです。ですから、自分を捨てるんじゃなくて、自分の好きなものを、捨てるのではなくて喜んで譲る。良いサマリア人のたとえ話は明らかですね。彼はその怪我人のために自分を捨てた、自分を犠牲にしたと思っていなかったでしょう。ただ、自分のお金、自分の時間などをもっと困っている人のために喜んで譲ったのです。この意味で譲るのです。
2番目の動詞、「十字架を背負う」。主に2つの種類の十字架が考えられます。1つは日々の面倒なこと、日常生活の嫌なこと。朝早く起きること自体は不条理ですね。十字架です。その1日の出だしが悪いですね。それから混んでる電車に乗って、仕事の疲れ、面倒くさい同僚もいるし、そして細かい上司に従うなど、面倒くさいですね。これは仕方がないですね。人生ってこんなものですよ。みんなそうですから、あまり気にしなくていい。
2番目の種類がもっと大きいですね。自分の特別な悩み、それがありますね。時々すごい悩みがありますね。たとえば健康の悩み、家庭の悩み、金銭的な悩み、人間関係の悩み。失恋、これは若者たちの専門ですね。若者たちは失恋のオーソリティです。これは大変な悩みですね。その時にはどういうふうにそれを背負うのかというと、相田みつをがきれいな言葉を書きましたね、昔。「人間には絶対に歩きたくない道があります。しかし、いつかその道をどうしても歩かなければならない時が来ます。その時には、黙って歩くんだ。愚痴をこぼさないで、涙を流さないで、文句を言わないで黙って歩くんだ。そうすれば、自分の人間としての根は深まる」という言葉を書きました。こういうふうに十字架を背負うことにしましょう。
そして3番目の動詞、「キリストに従う」ということですが、キリストに従うにはやっぱりキリストのように、キリストとともに生きるのですが、それよりも私の好きな方法があります。それは、聖パウロがガラテアの信徒への手紙に書いた言葉です。2章20節です。「わたしは生きる。しかし、それよりもキリストがわたしたちの内に生きる」。この言葉ですね。わたしが生きる、それよりもキリストがわたしの内に生きる、これがいいですね。ですから、キリストに従って生きるではなくて、キリストが生きる。
例で言うと、昔のアイススケートの夫婦が優勝した、オリンピックの金メダルになって素晴らしかった。どういうふうに練習しますかと聞かれた時に、「練習ですか、私たちはもちろん技術の練習はしますけれども、アイスに入って2人で目をつぶって音楽を聴くんです。何回も長く深く聴く。音楽に満たされて、それから音楽に従って踊り出すのではなくて、音楽が踊る」。これがいいですね。ですからキリストに従って生きることよりも、キリストが生きるように、それがいい。ただ、危険がありますね。自分の好きなことを、自分がわがままに従って、独断と偏見で決めてしまって、それからどうでもいいことをイエスさまに向かって、イエスさま、何をなさりたいのですか、という危険性があります。そうではなくて、私はどうすればいいのか、と聞くよりも、イエスさまが何をしたいんですか、とキリストに聞けばいい。何をしたいんですか、じゃあどうしましょう。この生き方をすればいいと思います。そのためには音楽に満たされる必要性がありますね。キリストに満たされる必要性があります。祈りと愛によってキリストに満たされる。ではこの意味で自分を捨て、十字架を背負って、キリストに従うという恵みを願い求めましょう。
今日は若者たちによるイグナチオ・ユース・デーが行われました
WYD報告会で展示された、巡礼者が交換した品々
WYD巡礼団の寄せ書き
10時ミサ後に避難訓練も行われました