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2023年5月 ミサ説教

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主の昇天の祭日

関根 悦雄 神父

5/28(日)10:00- 聖霊降臨の主日


 今日私たちは、聖霊降臨の祭日を祝っています。今、聖書の言葉を聞きました。第一朗読「使徒たちの宣教」の中の聖霊降臨の様子と、「ヨハネによる福音」の聖霊降臨の様子はちょっと違うのではないでしょうか。これは、教会には2つの伝統がありまして、1つは「ルカ福音書」、それから「使徒言行録」。その他の福音書も同じですけれど、イエスは十字架上で亡くなり葬られ、3日目に復活し、そして40日後に天に昇り、50日目に聖霊を注がれた。そういう流れで描いています。それに従って、今私たちが行っている典礼もそのようになっているわけです。


2023年5月28日 聖霊降臨の主日 主司式の関根神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ところが、「ヨハネ福音書」の方では、今日の出来事は週のはじめの日の夕方、つまりイエスが復活したその日の夕方ということです。ヨハネの福音書では、十字架上の死、埋葬、復活、昇天、聖霊降臨というのは1つの出来事として、つまり主の過ぎ越しという1つの出来事として描いていて、何日目ということはないのです。ですから復活してすぐに弟子たちに現れて、聖霊を注がれたという描写になっているわけです。


 どちらにしても、聖霊というものがイエスから送られた。私たちの信仰の理解によれば、天に戻ったイエスは御父と共に、聖霊を私たちのために送ってくださったということです。今日の聖霊が送られたときの聖書の描写は、聖霊がどういうものであるか、聖霊は何者であるか、そしてどういう働きをするのか。それを理解するために、いくつかのヒントが聖書の中にあると思います。


 「使徒たちの宣教」の中で、「五旬祭の日にみんなが一つに集まって、イエスの弟子である使徒たちが、イエスが復活したということを人々に述べ伝えていたところ、炎のような舌が下りてきて、一人ひとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。


 今まで、弟子たちはイスラエルの言葉、ヘブライ語しか話せなかったかもしれません。あるいは、その方言で語っていたでしょう。しかし、そこにはいろいろな国の人がいたとあります。ここには、パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポントス、アジア、フリギアなどたくさんの国々の人々がいて、その人たちは自分の言葉でそれを聞いている。そういう経験を体験をした。つまり、これはどういうことなのか。私たちも外国の人となかなか通じませんね。今はいろいろ便利な機械があって翻訳機で同時に通訳されるようなものも出てきてはいるようですが、そういうことではないですね。使徒たちが語るイエスの言葉、イエスがどういう方であるか、それを使徒たちが語っていると、それを聞いて、わかったのです。
 そういう聖霊は言葉の壁を取り除いてくれる。そして私たちお互いに違った民族、 違った文化の中で育ったものどうしでも互いにわかり合える。そういうことではないかと思うのですね。


2023年5月28日 ミサ中の主聖堂。説教台の関根神父と会衆席 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 第二朗読の「コリントの教会への手紙」では、皆1つの体となるために1つの霊によって洗礼を受けたということが強調されます。そして、教会を本当に1つにしていくためには私たち一人ひとりの神の民がみんな同じことをしてもそれは成立しないのです。社会にはいろいろな仕事がありますね。


 一人ひとりが一つひとつの仕事を、私たちが自分の分に応じて、「あの人はこれが得意だからこれをやってもらいましょう」、そして「私はこれが得意だから、これをやってみんなに仕えましょう」。このようにして教会が成り立っていくということ。一人ひとりに霊の働きが現れるのは全体の益となるためです。体は1つでも多くの部分から成り、体のすべての部分が数は多くても体は1つであるように、キリストの場合も、私たちがそれぞれの役割を果たすことによって、本当に1つのキリストを中心とした共同体をつくっていくことができるのです。それが神の国になっていくということではないでしょうか。


 「ヨハネの福音」の記述から見ると、まずイエスは現れて弟子たちに「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。これは単なるあいさつだけではないでしょう。たしかにイスラエルでは「シャローム」というあいさつの言葉としても使われているようですが、それだけではなくて、あなたに本当の平安があるように、そのためには何が必要なのでしょうか。


 今日の福音の後ろの方でこう言っています。息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたが赦せばその罪は赦される。互いに罪を赦し合いなさい」。互いに違った人たちを、意見が違うから、あるいはあの人は私に何か不利益を与えたからとその人を排除するのではなく、赦しなさい。イエス・キリストも祈りという形で私たちに教えてくれましたね。「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」。互いの赦し合いがなければ私たちは一致できません。


2023年5月28日 聖霊降臨の主日・司祭たち(オチョア神父、関根神父、レンゾ神父)

 聖霊はそのような方向で私たちを促してくれる。とくに現代社会の状況を考えると、いろいろな違いによって、たしかに世界の中で国々の違いというものを強調して、「その人たちは私たちの仲間ではない」と言って排除するようなことが現に起こっている。あの人たちは私たちに従わないからということで戦争を起こして攻めるということも現実にある。しかしそういうことが起こり続けるならば、神の国は完成しないです。もちろん悪いところは指摘してもいいと思います。しかし、違っているから、十分に自分たちの言うことに従わないからと言って排除してしまうならば、神の国はいつまでも完成しません。世界の平和は実現しないと思います。


 どうか私たちがそういうことがわかって、聖霊の導きに従って生きていくことができるように祈りたいと思います。聖霊は、イエス・キリストの代わりに私たちに教え、私たちを導き、愛してくださる。そのような方です。そして、いつでも共にいて、私たちがイエスの教えに従って愛を実行し、神の国の完成に向けて働くように導いてください。これが聖霊だと言っていいと思います。聖霊は、私たち一人ひとりを本物のキリストの弟子にし、神の子にしてくれ、神の国の完成のための働き手としてくださる方です。そういう聖霊の導きに従って、私たちが歩んでいくことができるように、この御ミサを通して祈りましょう。


 そして、来週は「三位一体の祝日」です。三位一体も私たちの信仰の確信。父と子と聖霊が1つである。前もって言ってしまうと、これがなぜ1つなのか。これは神であって100%の愛でやり取りをしているからと言っていいのではないかと思うのです。私たちもそれに少しでも近づくことができるように恵みを願いたいと思います。


ミサの終わりにイエズス会レンゾ日本管区長の送別セレモニーがありました。
レンゾ神父様、ありがとうございました!


主の昇天の祭日

ハビエル・ガラルダ 神父

5/21(日)10:00- 主の昇天の祭日


 キリストの昇天の意味は、キリストが物理的な地球から離れて御父にお帰りになったということです。言い換えれば、キリストの人生には幕がおりたという意味です。救いの使命を成し遂げて勝利の冠を手にして、栄光と勝利を受けるということです。これは事実ですが、キリストの場合には2つの種類の事実があります。


2023年5月21日 主の昇天の祭日ミサ 聖体拝領 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 一つは、たとえば人生とか受難とか十字架とか。それは歴史的な事実です。ところが、キリストが死んでからいろいろな出来事がありますね。それは私たちクリスチャンが事実だと信じていますが、超自然的な事実で、自然を超えるような事実です。目には見えない事実です。たとえば、聖霊降臨やご昇天などですね。それは目には見えないことです。だからどのように表すでしょうか。ルカ以外の福音者たちは、実はあまり触れていません。しかも使徒たちの選挙のときにパウロはキリストの昇天に関しては一切言わない。なぜでしょうか。


 それはたぶん、復活自体はご昇天を含むからです。復活することと神に帰ることは同じことですので、わざわざご昇天のことを述べないのです。しかも、すべての福音者は必ず「遺体は見つからなかった」ということを指摘しますね。キリストが死んでから遺体は見つからない。それはご昇天の意味です。ところが、ルカはそれを第一の朗読で詳しく表しています。みんなの目の前で上にあげられ、天国に行くのです。そして右の座につく。場所を変えてここから向こうに行く。これはアニメに過ぎないですね。本当の事実ではないのです。目に見えない事実、超自然的な事実を表すためにわかりやすくするため、彼がアニメとして作ったわけです。ですから、イエス・キリストはロケットのように上がったわけではないですね。そして天国は上にあるということでもないのです。イエス・キリストは、この場所から他の場所へ行ったということも事実ではない。ここに書いてあることを文字通りに信じる必要はないのです。


 なぜかというと、少し難しいことを言います。私たちの次元には、時間と空間がありますね。ところが神の次元には時間も空間もないのです。困ったものですね。空間がないので残るのは無限のここ。そして時間がないので残るのは永遠の今。つまり、「無限のここに永遠の今を生きる」と言われると、「全然面白くなさそう」と思いますが、私たちは「永遠にそんなことするのですか。冗談でしょう」と。ですから想像してみない方がいい。頭では少し理解できますね。空間と時間のない時間、それは神の場です。想像しようと思うと貧血を起こすかもしれません。


2023年5月21日 青空の鐘楼 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 では、もっと簡単なことを言います。とにかくイエス・キリストが上げられた。ところがまたおいでになって、いつも私たちと共にいるということがあります。これはもっとわかりやすい。もっと嬉しいことです。キリストが御父に帰ったけれどもそのままではなく、またおいでになって、いつも私たちと共にいるということ。では、どういう有様でキリストがまた戻ってくると思いますか。ここに書いてありますね。


 福音の最後の言葉「雲に覆われて見えなくなった」。登っていったのですね。そして「同じ有様で、またおいでになる」。つまり雲の有様で。なるほど、ダニエル預言書の7章13節には「人の子(キリスト)は雲に乗ってくる」とあります。聖書における「雲」という言葉の意味は深いです。シンボルです。何のシンボルかというと、神の身近な存在。隠れた存在。作ってくださる存在。これは雲です。旧約聖書にも新約聖書にも何度も雲が現れます。イエス・キリストの変容のときにも洗礼のときにも雲が現れる。雲は神の身近なところで救ってくださる、隠れた存在です。この形で来てくださいます。目には見えない。でも身近にいつも一緒にいて助けてくださる。私たちはどのように感じるでしょうか。キリストが来てくださってあなたは感じますか。感じにくいですね。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。どこにいるのですか。


2023年5月21日 主の昇天の祭日ミサ司式のガラルダ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 小山信夫神父様が、この言葉を使いました。神がどこにいるかと言いますと、物事の最も深いところにおられる。”deep down in friends." 芸術の最も深いところ、音楽の最も深いところ、自然と人間の心の最も深いところにおられる。だから深く愛するときには、キリストを感じるのです。イエス・キリストをいつ感じるかといいますと、それは愛し合うときですね。人と愛し合うときに神と愛し合って、神と仲良く生きるときには、イエス・キリストがいつもそばにいてくださることを感じます。人間と愛し合って人間と仲良く生きるときにもイエス・キリストを感じる。譲り合って、許し合って、助け合って、分かち合っているときにはキリストがいつも私たちと一緒にいることを感じます。


 つまり、電車で席を譲るときにも、席を譲っていただくときにも、イエス・キリストが世の終わりまでいつも私たちと共におられると感じます。この意味のご昇天、おめでとうございます。


復活節第6主日

ボニー・ジェームス 神父

5/14(日)10:00- 復活節第6主日


 今日の日の特徴というのは、母の日ということですね。そして今日のテーマは「つながり」です。今日のパンフレットのいちばん上に書いてあります。「つながり」というテーマなんですね。考えてみると、私たち一人ひとりが一番つながりがあった存在というのは、おそらく母親なんですよね。みんながお母さんのお腹の中に約10カ月いて、この世に生まれてきたという話ですね。とてもつながりが深いですね。それが一つの大きなつながりなんですけれども、そのほかにもたくさんのつながりがあります。


 それが家族の中で、お父さん、あるいは兄弟とのつながり。そして、皆さんのお友だちとのつながり、たくさんのお友だちが集まってきているんですね。みんなと仲良くなる、それも一つの大きなつながりなんですね。


2023年5月14日 復活節第6主日ミサ 司式のボニー神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そして、この次元を超えて学校のつながりがある。そして、もう少し大きくすると、社会のつながりがある。そうですね。そうやって、いろいろなつながりがあって、人間が生きているわけですね。


 つながり、あるいは仲間になるとか、関係性とかそういったことが、人間が生きる中でとても大事なことだと思います。神様が一番最初に人を作ったとき、何を言ったと思う?一番最初何を言ったでしょう。「なんで自分を作ったんだろう」と。そのような話もしたんですね。人間が一番最初に作られたとき、そういうふうに思っただろうと思います。なんで自分一人だけが作られたと。神様もそういうふうに思ったそうです。そして、神様は言うんですね。「人は一人でいるのは良くない。彼にふさわしい友だちを作ろう」と。


 一番最初の『創世記』という本の中にあります。人は一人でいるのは良くないと。そうやって、最初のときから神様は「つながりの中に生きるように」と望んでいたそうです。


 それが、私たちのさまざまな家族であって、あるいは社会であって、この教会の中でもそうなんですよね、教会というのは、一つの共同体ですね。その中で、皆さん一人ひとりがこういうふうに生きて育てられてきているということなんですね。


 このつながりが、私たちが生きている中でとっても大事なんです。でも、なかなかつながりといってもそう簡単にいかないですね。みんなとつながりたいんですけれども、そんなにつながりを持ちたくない人も時々出てくるわけですね。仲間にしたくないとか、いろんな理由で話したくないとか、そういった人たちが出てくるわけなんですね。これが、私たちは生きる中の一つのチャレンジなんですね。


2023年5月14日 復活節第6主日ミサ ミサにあずかる子どもたち カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 たとえば、私たちの教会だったら、私たちは日本語のミサで一緒に礼拝して祈っていますね。でも、もう少し大きな共同体があるんですね。多言語の共同体があったり、ほかの言語でミサにあずかっているたくさんの人たちも、この教会にあるんですね。みんなたくさんのいろいろな考え方を持っている人たちもいるんですね。とくに、そういうところで、私たちは言葉の上でこういうふうにつながりをきれいに言えますが、なかなか実現しにくいですね。


 私はイエズス会なのですが、今住んでいる修道院の隣のSJハウスなのですが、そこに約25カ国の神父様方が一緒に住んでいます。前はもっといたみたいですね、30カ国とかそれ以上の国の神父様方が一緒に生活していたみたいですね。25カ国の人たちというと、25の性格と文化がありますね。その人たちは一緒にこうやって生きて、生活を共にして、食事も共にして、ミサも共にして、活動も一緒にして生きるわけですが、この人たちをつないでいるのはなんだろう。


 もちろんこのイエズス会という一つの組織があって、その中に何か会憲とかがあるのですが、でも、それ以上の何かがあります。そうじゃないと難しいですね。私はインド人なんですけど、言われてるのは朝、昼、晩カレーを食べる国ですけれども、でも、カレーを食べない、食べられない、そういう神父様方もいるわけですね。食事の面、あるいはその他の面でさまざまな面での違いがあって、どうやってこの人たちは一緒に生活するんだろう。


 ある神父様は、こういうふうに言いました。「私たちのこの共同体というのは、聖霊が生きているということの一つのしるしである」と。「聖霊というものによって結ばれている」と。私たちは見えないところで何かによってつながっているということなんです。そういうつながりがあって、この共同体ができているということなんですね。


2023年5月14日 復活節第6主日ミサ 聖体拝領を受ける会衆 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 だから、私たちはいつも言ってる聖霊とか、そういった話がちょっと難しいか話かもしれないですが、この聖霊、「父と子と聖霊」といつも言いますが、その聖霊というのは何であるかというのは、今日の福音のメインのテーマになっていますね。そして、その聖霊というのは、ちょうど「つながり」というふうに訳すことができます。


 何と何の間のつながりかというと、難しい言葉を使うと、「父と子との間のつながり」、「父と子と聖霊の祝福」と私たちは言いますけど、父と子の父という存在と子いう存在の間のつながり、それこそ聖霊である。


 それが、私たちは愛とか親しみとかそういったいろいろなわかりやすい言葉で言ってるわけなんですよね。だから、私たちのこの愛というものですね。家族の中の愛、皆さんの共同体の中の友だちとしてのつながり、愛。これは全部聖霊がいるということ、聖霊が働いているということの一つのシンボルです。聖霊が私たちとともに働いている。そういう一致なんですね。これを言い換えると、一致がないところに聖霊が働いていないということになるわけです。


 だから、どこかで分裂が見えだしたら、そこに聖霊の働きが少ない。聖霊の働きが少ないから分裂が起きているということなんですね。そういう聖霊の話が、今日の聖書の朗読のメインのテーマとなっています。私たち一人ひとりの家族の中で愛、聖霊の働き、そのつながりを強めていくことができるように。そして、この教会という空間の中にも、その聖霊の働きを見出して、友だちとしてのその生き方の中で聖霊の恵みを願いましょう。今日はとくに復活祭後、初めての「子どもとともにささげるミサ」なんですね。


 私たちの1年の活動の中に聖霊の働きがあり、神様の恵みがたくさんあり、そして、私たち一人ひとりが神様の子どもとして生きることができるように、このミサの中でお祈りしたいと思います。


復活節第5主日

柴田 潔 神父

5/7(日)10:00- 復活節第5主日


 復活節も後半になり、2週間後には「主の昇天」です。 「わたしが父のもとに行く」。復活されたイエス様が天の父のもとに帰っていく、弟子たちから去っていくことを意味するのでしょう。今日は天に昇られるイエス様と、この世での人生を終えて天に旅立つ方と私たちとの関わりで考えます。


2023年5月7日 復活節第5主日ミサ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 去って行かれる寂しさは、大切なご家族を亡くすときに実感します。「もう自分は生きてはいけない」と喪失感で打ちひしがれる方もおられます。
 マグダラのマリアもそうだったでしょう。彼女もそうでしたが、天に昇られたイエス様との新しい絆を築くには時間がかかります。けれどもやがて「去っていかれることが、失うだけではないこと」に気づきます。


 イエス様は去って行かれる前に2つのことをなさいました。1つ目は、天の国で居場所を用意することです。「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたのために場所を用意する。場所を用意したら、戻ってきてあなたを私のもとに迎える」。天の国での居場所。ある方は、モンテッソーリ子どもの家を30年近く切り盛りされていました。寝ても覚めても子どもたちのことを考えていました。経営は度外視してすべてを子どもたちのために注ぎました。そして亡くなられる前、病院の近くに保育園があるとその子どもたちのために折り紙を作られるほどでした。


 だから神様は、子どもたちがよく見える特等席を用意してくださるでしょう。イエス様は、天に旅立つ方に合わせた居場所を用意してくださる。天に旅立つご本人にとっても、残されるご家族にとっても、どんなに心強い言葉でしょう。だから、私たちは父なる神様に大切な方を委ねることができます。


 2つ目に、天に昇られるイエス様は聖霊を送ってくださいます。イエス様は「私は父のもとへ行くが、もっと大きな技を行えるように」と聖霊を送ってくださいます。聖霊が送られるおかげで、弟子たち、また私たちがイエス様の業を受け継いでいきます。独り立ちしていきます。殉教を恐れず勇敢に宣教していきます。


晴れの日に陽射しを受ける主聖堂脇の聖母子像 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 あるお母様は、「手に職をつけなさい」「子育てしながらでも教えられる音楽を学びなさい」と娘さんに言われました。お母様の言葉を受けた娘さんは、生活の糧を得る目的を超えて本物を目指していかれます。留学して本場で学ぶ。お母様はそこまでしなくてもという思いがあったかもしれませんが、応援し続けます。娘さんはほどほどのものではなくて真理を求めていきます。


 学んだ音楽は、言葉と宗教を超えて、人の心に直接響いていきます。親の言葉は「わたしは父のもとへ行くが、もっと大きな業を行えるように」と聖霊を注ぐイエス様と重なります。
 学んだ音楽は、言葉と宗教を超えて人の心に直接響いていきます。お母様の言葉は「私は父のもとへ行くがもっと大きな技を行えるように」と聖霊を注がれるイエス様と重なります。


 信仰を持った私たちは、根無草のようにうつろうのではありません。居場所を用意し聖霊を送ってくださるイエス様に守られ、導かれていきます。
 イエス様にしても大切な家族にしても、去っていかれるのは寂しいことです。でも、独り立ちできるように残してくれたものがあります。天の国と地上と別れても、新しい絆が築かれていきます。神様は計らってくださる。そう信じられることが、私たちの強みでしょう。


 その強みを 自分たちのものだけにするのではなく、広めていく。ほどほどのものではなくて、音楽の世界なら人の心に響かせていく。そんな独り立ちした私たちになっていきましょう。

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