トップページ おしらせ ライブ配信2023年4月の説教

2023年4月 ミサ説教








2023年3月 | 2023年5月


復活節第4主日

ヘネロソ・フローレス 神父

4/30(日)10:00- 復活節第4主日


2023年4月30日 主聖堂ステンドグラス カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 皆さん、今日の福音書の最後のイエス様の言葉に、やはり私の答えはこれですね。最後の言葉はここです。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。私たちの答えはちょうど答唱詩編の「主はわれらの牧舎、わたしはとぼしいことがない」です。 イエス様は、豊かに与える。私たちはとぼしいことはない。でも、今のこの福音書のいくつかのところを、私は皆さんと一緒に、心に巡らして味わいたいと思います。味わってほしいですね。


 たしかに、イエスが言うのは、彼は羊をよく知っている。名前も。マグダラのマリアのお墓のところで「マリア」。 そして、彼女はそのときわかった。私は、心で味わっていただきたいのはこれです。あなたも私も、イエスは名前を知っている。名前だけではなく、ニックネームがあればニックネームも。そして、それを言ってくださる。私たちはその声を聞いて、わかる恵みを願いましょう。イエス様は、私たちを名前、ニックネームで呼びかけてくださる。 そして、彼は先頭に立っていく。私たちはその声を知っていますから、 私たちは彼を信じるから、イエスを信じるから、私たちはその声を聞いて、聞き従うということですね。これは、我々の日常生活の中でイエスを知っている。そして、一番大切なのは、私たちはイエスに知られるということですね。名前で呼ばれる。


 時々、これは人間の限界ですけど、慣れっこになる危険、危険だけではなく、本当のことでしょう。 しかし、このイエスの言葉、私たちは羊飼いを知っている。そして彼に知られているけど、このような私たちのイエスに出会ったということを、我々は時々忘れる。イエスの言葉ですよ。 私をお使わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私の元に来ることはできない。そして、私たちはイエスの元に行くことができました。イエスに出会った。これは全く恵みです。信仰です。これは、私たちは時々忘れ、あるいは慣れっこになるということ。私たちはイエスに出会ったのは、イエスに出会わされたからでしょう。


2023年4月30日 主聖堂脇の花に囲まれる聖母子像 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 天の父は、私をイエスのところに引き寄せてくださった。そして、イエスは大歓迎しました。そして、神のことを教えてくださった。私たちは神を知らなかった。しかし、今知っているのは、神は親である。父、母であるということ。これはイエスの教えです。


 だから、私たちは「主は我らの牧舎、私は乏しいことはない」ということ、この言葉によって、そして、ご自分の御身体と御血によって、私たちを養って、豊かに養ってくださる神に、今日は特別に感謝しましょう。この感謝の祭儀であるミサは、今日はやはり私たちはものすごく羊飼いに世話される。豊かに、ということ。それに対して感謝しましょう。信仰は、私はイエスに出会わされた。そして、このイエスを私たちはできるだけ、より深く知り、より熱く愛し、より近くから従っていく恵みを願いましょう。


復活節第3主日(改宗式)

髙祖 敏明 神父

4/23(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式)


 ただいま読み上げました福音の中に、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」という言葉があります。
 皆さんの中にも、自分自身にも、イエス様からこのように叱られてみたいと思っている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、物分かりが悪くて叱られた弟子たちの姿と、今日の第一朗読で、ペトロを中心にした弟子たちが証人になっていき「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちはみな、そのことの証人です」と言うことと、その間の落差といますか、この違いはいったい何なのでしょうか。


2023年4月23日 復活節第3主日・改宗式 10時ミサに参加する会衆 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 遠藤周作さんは、1923年にお生まれですから、今年生誕100周年をお祝いしていますが、その遠藤周作さんも、十字架にかかって死んだイエス、そのときの弟子たちの姿は、悲しみ、ユダヤ人たちを恐れて、自分たちの家に閉じこもりドアに鍵をかけて、臆病であった。それがイエスの復活を物おじしないで人々に聖書を語り、自分の証言をしていく。復活の証人となっていく。ここの違いは、いったい何があったのだろうということに非常に関心を持たれた方です。
 そして、ご存じのように『死海のほとり』というイエスの生涯をたどるような本を書き、イエス様は奇跡を行ったかもしれないけど、人生の同伴者であるという、イエス様の姿を描きました。


 実は、この落差が今日の福音の中に描かれています。物分かりの悪かった弟子たちがイエス様と出会った。イエス様を見つけたということがあり、遠ざかろうと思っていたエルサレムに帰って自分たちの体験を話し出す。そういう落差といいますか、違いが今日の福音に書かれています。皆さん、ご存じのようにエマオの途上でのイエス様のご出現の箇所は、ミサの基本的な構造がそこに描かれていると言われます。


 たしかに、聖書の話とパンを裂く話が出てまいりますので、ミサとつながることがうかがえるかと思いますが、今日はこのエマオへの途上のイエス様のご出現の話を、もう少していねいに読んでみたいと思います。現在のミサも開催に続いて言葉の典礼、御言葉の祭儀があります。感謝の典礼、ご聖体の祭儀があります。それから閉祭となります。この二つがミサの大きな構成要素となっています。今日の朗読でみますと、イエス様がモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明されたというところまでが、御言葉の祭儀、言葉の典礼にあたるところのようです。


2023年4月23日 復活節第3主日・改宗式 使徒信条を持つ侍者 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 その直前に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と、叱責をおっしゃいますが、なぜここでイエス様は嘆かれ叱責されたのでしょうか。もちろん、物分かりが悪いからなのですが、もう少しテキストに沿って見てみたいと思います。


 エルサレムからエマオに向かっている二人の弟子にイエス様が一緒に旅を続けていく。同伴者として歩いていっている。そして、問答していく。何を論じ合っているのかと聞かれるわけですが、この数日エルサレムで起こったこと、ナザレのイエスをめぐって話し合い論じ合っている。聖書に書いていることを見ますと、説明するときに、暗い顔をして立ち止まった。心に重い苦しみ、悲しみを持っていることがわかります。


 あの方こそと望みをかけていたことも読み取ることができます。「望みをかけていた」と過去形ですから、それが失望に変わったこと、期待が裏切られたこと、私たちの信頼する祭司長や議員たちが死刑するために渡して十字架につけてしまった。十字架刑という最もひどい罰に処してしまった。その悲しさ、やりきれなさ、そういうものを読み取ることができます。


 さらに、それから3日たって婦人たちが墓に行ったけど、ご遺体を見つけることができないで帰ってきた。天使たちが現れて「イエスは生きておられる」と告げたというのです。「死んだ人が生きているなんて信じられる?」という思いに心がとらわれていることを読み取ることができると思います。イエス様が十字架上で亡くなったという重い事実に圧倒されている。心も思いも目も。


 死んでしまったということを見て、あまりにも圧倒されてほかのことが見えない。さえぎられている。ほかの可能性について思いをいたしたり考えたりする余裕もない。そういう心理状況におかれていることを想像することができます。


2023年4月23日 復活節第3主日・改宗式 パンとぶどう酒をささげる髙祖神父とオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そこにイエス様が「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱責されますが、かつを入れるといいますか、ショック療法と言えるかもしれません。メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。あなたたちが囚われている死、苦しみということには違った意味があるんだよ。あなたたちが気づいていない。それに気づく機縁を与えてくださり、心の目を開くためにモーゼとすべての預言者から始めて聖書全体にわたってご自分について書かれていることを説明されていく。


 「私自身も、そのような叱責を受けながら、イエス様からこの説明を聞いてみたい」と思う方もいらっしゃるでしょう。しかし、実はミサがそういう体験をできる儀式となっています。聖書の意味を知り、イエス様と出会う場になっている。今日の聖書朗読は、そのことを改めて私に思い起こし、深く感じるように招いていると思います。


 ただ、今日の福音書を読んでみますと、イエス様と聖書の意味を聞き取り、イエス様と出会うためのある種の準備も必要なようです。それは、「イエス様がやってくる」といいますが、イエス様は私たちは気づいていなくても、いつも同伴者として一緒に歩いていらっしゃるのです。そして、問いかけているのです。歩きながらやりとりしているその話は何のことですかと問いかけていますが、弟子たちが問いかけに答えて、自分の体験してきたことを順番に話していく。


 ここ数日自分が体験していること、思い悩んでいること、心に少し重さがあるような、悲しみがあるような、つらさがあるように感じていることを、ほかの人に説明できるように、自分で整理してみる準備、そのように心を整えていくことが必要なようです。それらを踏まえて、ミサは改心の祈りを唱え、いつくしみの賛歌でいつくしみを願い、栄光の賛歌で神様の栄光を歌いあげ、聖書の言葉に耳を傾け、耳と心の耳の両方を傾ける構造になっています。


2023年4月23日 復活節第3主日・改宗式 改宗者を祝福するオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 他方、聖書はいくら読んでも、自分自身もそうですが、謎は謎として残ります。わかりきることはできません。ですから、そういう意味ではイエス様からはいつも「物分かりが悪い。心が鈍い」と叱られるのは、絶えず繰り返しているのが私たちの人生かもしれません。しかし、さきほどの答唱詩編の中に、「あなたは死の国に見捨てられず、いのちの道を示してくださる」という詩編の言葉がありました。まさに、イエス様は同伴者として、私たちに絶えず語りかけておられます。それを聖書で味わうことを受けて、目指す村に近づいて、イエスは一緒にお泊りになるのですが、弟子たち二人は無理にイエス様を引き留めたと書いています。イエスは、ともに泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだとわかった。


 この食事の席に着いて、パンを取る。賛美、感謝の祈りを唱える。パンを裂く。それを渡す。この4つの要素が感謝の典礼の基本的な動作だと言われています。そのことは、福音書のほかの箇所で5つのパンを大群衆に分けたときの動作もそうですし、最後の晩餐のときのイエス様の動作も4つが繰り返されています。
 そして、弟子たちは道で話しておられたとき、また聖書を説明したとき、「私たちの心は燃えていたではないか」。失望から希望へ、悲しみから喜びへ気持ちが変わっていくプロセスを自分で振り返ってみているのだろうと思います。


 そして、時を移さず、12㎞くらいの距離だったそうですが、エルサレムの共同体に戻って、自分の体験したことを伝える。復活の証人としての務めを果たしています。これは、私たちがミサでイエス様をいただき、ミサが終わったあと、何を私たちがすればいいのかということを暗示しているようにも思います。復活の証人としてそれぞれの生活の場で生きること。今日のミサをご一緒に捧げる中で、私たちの目、耳、心の目と耳が、今まで以上に開かれてイエス様を見出すことができますように。聖書の意味を悟ることができますように。そして、イエス様と出会い、ご復活の証人になることができますように、心をあわせてお祈りしたいと思います。今日のパンと葡萄酒の典礼は、そのような願いをこめた典礼としてご一緒に捧げたいと思います。


復活節第2主日(初聖体)

柴田 潔 神父

4/16(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体)


2023年4月16日 復活節第2主日・初聖体 入堂するこどもたち カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 復活したイエス様が現れてくださったとき、トマスは仲間と別のところにいました。トマスはとても寂しい気持ちになりました。「あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘跡に入れてみなければ私は決して信じない」。トマスは、本当はイエス様を信じたかった。逃げ出してしまったけど、イエス様からゆるしてもらえなかった。でも、仲間はずれになってしまって「決して信じない」と言ってしまいました。


 初聖体を受けるお友だちは、復活徹夜祭の前にゆるしの秘跡を受けました。ゆるしの秘跡は、心の中でずっと「ごめんなさい」を言いたいけど、なかなか「ごめんなさい」を言えない。心が苦しいときにします。神父さんは、昨年の今ごろ、大好きだったお父さんが亡くなりました。お父さんは、神父さんに野球を教えてくれたり、お仕事も教えてくれました。お父さんは、神父さんにパパになって孫の顔を見せてくれるのを楽しみにしていました。でも「神父さんになりたい」と思ってお父さんに打ち明けました お父さんはびっくりして考え込んでしまいました。悩んで悩んで、こう言ってくれました。「よく考えたならしかたない。でも神父さんになる道が違うと思ったら、いつでもお家に帰ってきなさい。ここがお前のお家だから」と畳を叩きながら送り出してくれました。


2023年4月16日 復活節第2主日・初聖体 司式の柴田神父のお説教 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 それから10年経って、神父様になる叙階式にお父さんとお母さんが見に来てくれました。このイグナチオ教会にいっぱいの人がお祝いに来てくれました。でも、神父さんの心の中にはお父さんに「ごめんなさい」の気持ちがずっとありました。いつか「ごめんなさい」を言おう言おうと思っているうちに、時間が過ぎてしまいました。1年前の聖金曜日の日、お父さんは病院のベッドにいました。だんだん弱くなっているお父さんに、今しかないと思って勇気を出しました。「お父さんの望んでいたことができなくてごめんなさい。神父さんになることをゆるしてくれてありがとう」。そう言うとお父さんは、左の手を挙げて「いいよ、気にするな」と言ってくれました。お父さんはゆるしてくれていました。神父さんになることも認めてくれていました。心が軽くなって晴れやかになりました。


 復活したイエス様に会えて、トマスも同じような気持ちになったと思います。心の中でずっとイエス様に「逃げ出してしまってごめんなさい」を言いたかった。イエス様にゆるしてもらいたかった。でも、仲間はずれになって悔しくて、「決して信じない」と言ってしまいました。イエス様は、トマスの心を軽くしてあげたくて、特別にトマスに現れてくれました。イエス様も、神父さんのお父さんも「気にしなくていい。自分のやりたいことを頑張りなさい」と応援してくれました。


2023年4月16日 復活節第2主日・初聖体 感謝の祭儀 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日みんながこれからいただくご聖体は「気にしなくていい。やりたいことを頑張りなさい」というイエス様からの応援です。みんなはリーダーから、ご聖体の大切さを勉強してきました。ご聖体は十字架につけられる前の晩に、イエス様が体を捧げて弟子たちを愛してくださったしるしです。嬉しいときにイエス様が一緒にいてくださる、心が重くなったらイエス様がゆるしてくださる、心が弱くなったらイエス様が励ましてくださる、これからたくさんたくさん経験していきます。


 大人になって、おじいちゃんおばあちゃんになって、それまでにたくさんたくさんイエス様を体験します。ご聖体はいただいて、みんなの体の中に入ります。食べ物はみんなの体を強くして大きくしてくれるけど、イエス様のご聖体は、みんなの心を大きくして、希望と信仰と愛を増やしてくれます。知らない間にイエス様に似ていきます。新学期、心配そうなお友達を見たら「何か手伝いすることない?」と声をかけられるようになります。「戦争が早く終わりますように」と一生懸命お祈りできるようになります。ご聖体をいただくのはとても嬉しい。その嬉しい気持ちをリーダーに、ご家族に、そしてイエス様に伝えましょう。 そしてイエス様に喜んでもらえることを、これからどんどんしていきましょう。初聖体おめでとうございます。


初聖体おめでとうございます!


復活の主日

髙祖 敏明 神父

4/9(日)10:00- 復活の主日


 皆様改めて主のご復活のお慶びを申し上げます。本日の集会祈願にありましたように私たちは「主イエスの復活を記念しこの神秘にあずかる」ために今日ここに集まっています。「神の霊によって新たにされ、永遠の命に復活させていただく」。そういう希望と願いを持って、今日こうして祭壇を囲んでいます。
 「主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかる」恵みをいただいていることを感謝し、「神の霊によって新たにされ、永遠の命に復活させていただく」恵みを祈り求めたいと思います。


 それも自分自身のため、ご家族や友人知人のため、この私たちが住んでいる日本社会のため、また世界の私たちの兄弟姉妹のため、とくに感染症や病気、地震や災害、戦乱で苦しんでいる人々が、神の霊によって新たにされ、主の復活の恵み、平和と喜びが届きますようにお祈りしたいと思います。


 今年2023年度の本教会、イグナチオ教会のテーマは、「イエスにつながり、互いを受け入れ、御父の家へ共に歩もう」というものです。集会祈願とこのテーマとを重ね合わせて、主の復活の神秘にあずかりイエスとつながることができますように、今日の御言葉を少しご一緒に皆さんと味わってみたいと思います。


2023年4月9日 復活の主日 司式の髙祖神父とオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 先ほど私が読み上げましたヨハネの福音書ですけれども、3つの段階でイエス様が葬られた墓の中に入っていくように、招いているように読むことができます。第1の段階は、マグダラのマリアです。墓から石が取り除いてあるのを見た。墓の入り口を見た。しかしなぜそれが「主が墓から取り去られた」ということに結びつくのかは、必ずしもはっきりしていません。


 第2番目は、主に愛されたもう一人の弟子です。知らせを受けてペトロと一緒に走るわけですけれど、ペトロより先に着いて身をかがめて中をのぞくと亜麻布が置いてあった。第1段階は墓の入り口を見たのですが、第2段階のもう一人の弟子は、かがみこんで墓の中をのぞき込んでいます。


 そして第3の段階はペトロがやってくる。墓の中に入り亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは亜麻布と同じところには置いてなく、離れたところに丸めてあったと記しています。墓の中に入っていろいろと観察した様子がそこからうかがえます。


 しかし、遅れて入ってきたもう一人の弟子が入ってきて「見て、信じた」と書いたわけですけれども、「亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところに置いてなく、離れたところに丸めてあった」というところをいくら読んでも、この見て信じたということの中身がよくわかりません。そこはどうつながっているのだろうということで、私何度もこの聖書を読みながら考えてみました。


2023年4月9日 復活の主日 新しく任命される聖体奉仕者に任命書を手渡す カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 十字架上で 息を引き取られたイエス様のご遺体はユダヤ人の習慣、埋葬の習慣に従って香料を添えて亜麻布で包まれ墓の中に入れられました。
 そして、聖書の今日の一番最後のところには、イエスは必ず死者の中から復活されることになっていると聖書に書いてある。その聖書の言葉をこの二人の弟子はまだ十分わかってなかったんだと書いてあります。


 なぜ亜麻布が置いてあることと、丸められて置いてあるということが、イエス様の復活と結びつくのでしょうか。そういう疑問を持ち、他の聖書の訳もちょっと読んでみました。
 たとえば、フランシスコ会の聖書の訳があります。その聖書の訳にはギリシャ語の微妙な意味を汲んで訳したという注釈がついていますが、それを見ますともう一人の弟子が身をかがめてのぞき込むと「亜麻布が置いてあっただけではなく、平らになっているのが見えた」と書いてあります。


 「ペトロが墓の中に入ってよく見ると、亜麻布がここでも平らになっており、イエスの頭を包んでいた布切れが亜麻布と一緒に平らになっておらず、元のところに巻いたままで置いてあった」と書いてあります。このイエスの頭を覆った布切れについても注釈がついていまして、人間は死ぬと自然に 顎が開いて口が開いてしまいます。それを閉めるためにイエスの頭から顎を縛り付けたその布切れが、輪の形を保ったまま平らになった亜麻布の中に残されていたということですね。


 山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)さん、皆さんご存知だと思います。ケセン語に聖書を訳された方です。大船渡や気仙沼で話されている言葉で、普段自分たちが生活の場面で使っている言葉に聖書を訳された方です。この人の訳を見ると、もう一人の弟子がのぞいてみると、「イェシュー様の御亡骸を包んでいた亜麻布が、中身の亡骸が抜けてペシャンコになっているのが見えた」と書いてあります。平らになったということはペシャンコだという意味ですね。


2023年4月9日 復活の主日 聖体拝領 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 シモンが「墓に入ってよく見ると、あの亜麻布ペシャンコになっていて、イェシュー様の御亡骸の口が開きっぱなしにならないように下顎と頭を縛った手ぬぐいの方は、あの亜麻布と一緒にペシャンコになってはいなくて、元あった場所で輪の形にぐるぐる巻きになっていた」と書いてあります。今日読み上げた聖書よりも、このフランシスコ会の訳や山浦玄嗣さんの訳の方が何かイメージがわくような気がいたします。


 墓の中に入って、そこにはイエス様のあるはずの遺体の衣服のところが、亜麻布のところがペシャンコになっていて頭に巻いていたものがぐるぐる巻きになって、墓の中に入っている衣服に私が注意を向けるように聖書は招いていますが、それは墓が空であること、イエス様が死んだままになっていないということに気づかせる、そういう聖書の説明になっているように思います。


 もう1つ私が調べてみたのは、ヨハネ福音書が少し前に書いてあるラザロの復活の場面との比較です。皆さんもご存じのようにヨハネの11章にございますが、聖書と典礼ではイエスは「ラザロ出てきなさい」と大声で叫ばれた。すると、「死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた」と書いてあります。


 フランシスコ会の訳を見ますと、イエスは大声で「ラザロ、出てきなさい」と呼ばれた。すると、死んでいた人が手と足を布で縛られたまま出てきた。顔の周りは手ぬぐいで包まれていた。手と足を布で巻かれた、その布で縛られたまま出てきた。それとイエス様の亜麻布の中に遺体がなく、頭に巻いてあったぐるぐる巻きにして残してあるけれども、遺体が見当たらないということの違いに気づくように私たちを招いているように思います。


2023年4月9日 復活の主日 信徒代表から花束を受け取る前主任司祭・オチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエス様は、ラザロの場合はこの世界によみがえり再び人生の終わりが来て死を迎えることになります。イエス様は体ごと亜麻布から抜け出て死の支配から解放されていること、それを聖書では「イエス様は生きている」という言葉で表現していますが、そのことを暗示していますし、今日の福音書はこれを「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」と聖書が記しているんだと説明しています。


 今日の集会祈願を改めて読んでみますと、「神が御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠の門を開いてくださいました」と祈っていますが、その短い言葉の中には今申し上げたようなことが込められているようです。こうして、聖書の言葉、とくにヨハネの福音書にはさまざまな言葉にいろいろな意味が込められているようです。


 私たちの日常生活で感じ見る世界と、信じる人の目に見える世界の意味とは、ダブるような形で描かれているようにも思います。たとえば、「石が取り除けてある」「墓の入り口から人間の誰かが石を取り除いた」と読むこともできますが、石を取り除いたのが人間ではなく、神様からの何らかの介入があったというふうにも見ることができます。


 そうしますと、マグダラのマリアが最初に「主が墓から取り去られました」というこの言葉も、人間が遺体をどこかに持って行ったという意味と、もう1つ別な意味を私たちにヒントを与えているようにも思います。死者と世界と私たちの間に石があって、墓と私たちが生きている世界と区別します。その石が取り除いてある。ということは物理的な意味もあるでしょうが、「死んでしまった」ということと「生きている」ということの間にある私たちの思い込みによる障壁も取り払うようにとおっしゃっているようにも聞くことができます。


2023年4月9日 復活の主日 新主任司祭・髙祖神父と前主任司祭・オチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 マグダラのマリアの知らせを聞いて、外に出て墓に行って、外に出るという言葉にもいくつかの意味があるようです。ユダヤ人を恐れて隠れていた家から出る。自分の恐れ、イエス様のむごい死を見たその恐れ、頼みの主が亡くなったという絶望、希望が失われたこと、自分は主を知らない、恨んでしまったという心の痛み、そういう恐れや思い込みから外に出ること。そういうところにこの「外に出る」という言葉にも読むことができるように思います。復活の神秘にあずかるには、そういったさまざまな石を、私たちの方からも取り除くこと、あるいは神様から取り除いていただくこと、恐れや思い込みから出て、希望や自己嫌悪から出て、イエス様の死に直面するその死を正面から見据えて、その意味に気づくこと。そこにある恵みをいただくこと。それが復活の神秘にあずかるということだろうと思います。


 パウロはローマへの手紙の中で、私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました それはキリストが御父の栄光によって死者の中から 復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。キリストと一体となってその死の姿にあやかるならばその復活の姿にもあやかれるでしょうと教えています。


 それを私たちはミサの中で聖変化の後、「信仰の神秘」という言葉に答えて、「主よあなたの死を告げ知らせ、復活をほめ称えます」と答えます。今日、祭壇を囲んで捧げるミサはまさにこの復活の神秘を共に味わう場です。私たち一人ひとりの心に、その復活の喜びと平和が訪れますように。そして、私たち自分たち自身だけではなくて、家族、知人、友人、この日本社会の隅々まで世界の隅々まで、この復活の喜びと平和が行き届きますように。そういう願いを込めて、今日の御ミサをご一緒に捧げてまいりたいと思います。改めて皆様、ご復活おめでとうございます。


2023年4月9日 復活の主日 新主任司祭・髙祖神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

聖体奉仕者任命式・セレモニー

10時ミサ中に聖体奉仕者任命式と、前主任司祭オチョア神父様へのお礼&新主任司祭の髙祖神父様歓迎セレモニーが行われました。

復活の聖なる徹夜祭

サトルニノ・オチョア 神父

4/8(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭


2023年4月8日 復活の聖なる徹夜祭 司式のオチョア神父によって祝福されるろうそく カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ご復活おめでとうございます。ご復活はただ感覚的な体験ではなく、心の経験だけではなく、信仰の体験です。残念ながら、信仰の体験ということは私たちの感覚的な体験をはるかに超越しますので、私たちにとってはご復活を言葉で表すのは大きな問題です。ご復活を言語上で見て、復活を文字通りに見ると、失われた命に戻るようなことです。それだけ違います。ご復活は失われた命に戻るよりも、新しい永遠の命に突破するということです。


 そのご復活は、私たちにとっては希望と信頼と信仰をもたらしてくれるものです。復活されたキリストは、本当にパウロの言葉で言えば、「初穂」と言うのです。初めの種のようなことで、もう実ったのですけど、私たちはその「初穂」イエス・キリストの復活を見て、「私たちもそうだろう」と信じています。イエス・キリストとともに復活する永遠の命に入るということです。


 ただいま読まれた福音で、それから他の福音にもいつも、ご復活のことの共通点があるとすればこれでしょう。「弟子たちはそれを信じてくれなかった」のです。いろいろなことを見ても信じない。トマスは特に、「私は本当にイエス様の傷跡に指を入れないと信じません」と言いました。


 マグダラのマリアや婦人たちは、お墓に行っても多分復活しただろうと思ってはいないんです。薬を持って、それから香油を持って体をきれいにするということだったのです。マグダラのマリアは 墓へ泣きに行くのです。エマオの人たちは話しても目で見えないのです。心の目で見ることができない。彼の声を聞いても信じられない。


2023年4月8日 復活の聖なる徹夜祭 司祭の祈り カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 さらに、愛される弟子とペトロは一緒にお墓へ行くときには、きれいに書かれているんです。「弟子はそれを見て信じた。ペトロは全く同じことをして、見て信じなかった」ということです。この信仰への道は突然できることではなく、いろいろな長い道があります。けれども私たちはこの信仰の体験は、このように言えるかもしれません。見える段階、歴史的なことがあるかもしれませんけれども、あとで見る。積極的に私たちは、このイエスの御言葉、イエスの約束したことはそれを見て、客観的にどこまで受け入れられるか。また見抜くということもあり、見抜く中で、その印の中であるその神秘を突然見ているわけです。それは感覚的なことよりも理性を持って見抜く。


 悟るということもあります。見ていることの中に潜んでいる神秘。でも、もう1つの段階があります。信じる。その信じるということは、私たちのいつもの課題です。その信じるということはイエス・キリスト、神の御言葉は、私たちにとってはイエス・キリストは父である神様の愛そのものです。私たちは、イエス・キリストを信じているときには私たちのように人間になった人。肉となった。私たちのように感じる。私たちを本当に受け入れて私たちの罪を赦し、それから私は道であり真理であり、命である。私を信じる人はたとえ死んでも生きる。でも、その生きるということは信仰によって生きる。信頼を持って私たちも神様に愛される。


 私たちも、自分の弱さを持ってイエス・キリストとともにイエス・キリストの命に与かって、神様の前に出る。たぶん、放蕩息子、放蕩娘として出るかもしれませんが、1つのことはたしかです。私たちは受け入れられる。抱かれる。最後に福音を読むと、いくら探しても聖母マリアは出てこないのです。このご復活のとき聖母マリアに現れがない。どうしてでしょうか。このイグナチオの教会ですので、イグナチオはこのように書いています。マリア様は目で見る必要がありませんでした。はじめから信じていたからです。はじめからイエス・キリストの命に完全に与っていたからです。 私たちも聖母マリアとともにこの信仰をいただいて、それから今日も洗礼を受ける方々とともにパウロの言葉を持って、イエスキリストとともに葬られ、イエスキリストともに永遠の命に復活するのです。


主のご復活おめでとうございます!


主の受難

越智 直樹 神父

4/7(金)19:00- 主の受難


2023年4月7日 主の受難 入堂する十字架 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。そう語られたイエス様でした。弟子たちを、人々、そして私たちを愛して愛して極みまで愛し抜かれたその愛を、私たちは十字架の上に見出します。張り付けにされた愛、これこそ「私は真理を証しするためにこの世に来た」とおっしゃるイエス様による証しそのものであったように思います。


 しかし、この主イエスのご受難のこの局面において、「この方こそ罪なき方」「この方こそ正しい方である」「ナザレのイエスこそ救い主神の子である」。そう証しする声が力強く響くことはありませんでした。何とかしてイエス様を亡き者にしようとする人々がいます。


 興奮して「殺せ、殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ人々がいます。この殺意のうねりの中で、弟子たちは息をひそめ声を殺して、そのことの成り行きを見守るしかありませんでした。 あんなに熱心だったペトロも、何とか近くに行こうとしましたけど、見つかって「あなたもあのイエスの弟子ではないか」と聞かれたときに三度否定したのでした。


 「私が何を話したのかは、それを聞いた人々に尋ねなさい。それを聞いた人々が私の話したことを知っている」。裁判の席でイエス様はこう言いました。しかし、「この方は神様の愛を教えてくださった。この方は癒してくださった。この方は食べさせてくださった。この方は共にいてくださった。この方は触れてくださった。この方は清めてくださった。この方は生かしてくださった。この方は救ってくださった。この方は愛してくださった」。そう証言する人が現れることはありませんでした。


2023年4月7日 主の受難 司式の越智神父によって顕示される十字架 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 裁きの場にイエス様をかばう声、「イエス様こそ正しい方である」という声が届くことはありませんでした。皮肉にも、取り調べをしたフォンティオピラト総督だけが「イエス様の中に罪を見つけることができない」と言ったばかりです。しかし、ピラトもまた最終的にイエス様を十字架に引き渡した張本人となってしまいました。「イエス様こそ神の子である、正しい人である」ということが届かない。この沈黙が結果として、イエス様を十字架上での死へと引き渡してしまうことを許してしまいました。こうして張り付けにされた愛が成し遂げられたのでした。


 このイエス様のご受難の場面には、福音書には直接描かれていない弟子たちの思いが詰まっているように感じます。それは、「殺せ、殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ大群衆の中で声にすることができなかった思いとして、弟子たちの心に渦巻いていたそんな思いです。それは今日、ご受難の朗読を共にした私たちが「十字架につけろ」と声に出して読まなければならなかったときの、あのざらついた思いにもつながるものです。イエス様はおっしゃいました。「私は真理を証しするためにこの世に来た」。イエス様を通して真理に出会った弟子たちでした。しかし弟子たちは、イエス様を消し去ってしまうとする大きな力を前にして、「この方こそが道。この方こそが命。そしてこの方こそが真理である」と告白することができませんでした。


2023年4月7日 主の受難 十字架上のイエス カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 弟子たちがこれをできるようになったのは、ご復活の後のことです。十字架上でたしかに亡くなったイエス様との再会を機に、隠れ家から飛び出していった弟子たち。彼らは力強く、「イエス様こそが神の子である。メシアである」と宣べ伝えていったのでした。そしてたくさんの弟子たちが時を越え場所を越えて、イエス様の愛の証しとなり、友のために命を捧げていきました。イエス様はおっしゃいました。「真理に属するものは皆、私の声を聞く。成し遂げられた」。こう言って息を引き取られたイエス様の御声を私たちも聞くことができますように。


 イエス様が十字架の上で成し遂げてくださった、張り付けにされた愛をしっかり見つめ、受け止めることができますように。十字架の印によって集い、十字架に張り付けにされた主を礼拝する私たちが、「この張り付けのイエス様こそが神の子である。救い主である。そして愛そのものである」と力強く証ししていくことができますように。


主の晩餐の夕べ

レンゾ・デ・ルカ 神父

4/6(木)19:00- 主の晩餐の夕べ


2023年4月6日 主の晩餐の夕べのミサ 司式のレンゾ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 聖木曜日が私たちにとって大きな祝いであるということは言うまでもありません。毎回私たちはミサに参加するときには今晩祝っているこの出来事を記念しています。
残念ながら慣れてしまって、それをあまり意識しないような形になってしまうことがあるかもしれませんが、そうであるからこそ、今日あえてこの出来事を深く味わいたいと思います。


 おそらく福音書の中でも皆さんが感じたように、全体の流れについて、ヨハネ福音書ではありますが この世を愛しておられたイエスや愛の掟など、非常に一般的というか永遠の言葉や事柄に全体的な流れがある中で、非常に具体的なイエスとペトロのところにスポットが当てられた場面があるような雰囲気ですね。


 他の福音書でも、やはりこの最後の晩餐ですね、イエスが裏切りまた救いなど御父に対しての態度について話すのですが、具体的にパンを取ってそれを割いて「これは私の体だ」と言って、弟子たちはあまりわからないような話の中で具体的にわかったのは、「パンを取ってこれを食べなさい。これは自分の体だ」「杯を出して飲みなさい。これは自分の血だ」という目が覚めるようなところですね。


 今日の洗足の場合は、このペトロとイエスのところもある意味儀式的に流れている中で、他の弟子たちは、イエスがそうなさるのだったら、あまり何も言わない。ただペトロが「これは普通じゃないんだ」と目が覚めて、「足を洗うなどありえない」ということですね。


 その意味では、ヨハネのこの洗足の場合と他の福音書のご聖体のところの似ているところは非常に大きいですね。つまり、ヨハネ福音書の中では ご聖体と同じような力、あるいはメッセージを持っていると言ってもいい場面だったということですね。ですから、パンを割いて渡して杯を回すという場面より、今日の福音書の中に私たちが参加するような形で一緒に味わいましたが、この関係ですね。ペトロとイエスの関係です。一つの大きなテーマになるのです。イエスがペトロの足、他の弟子たちの足を洗うと、自分が奴隷であるかのような関係を示すのですね。


2023年4月6日 主の晩餐の夕べのミサ 感謝の祭儀 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 とくに、あの時代は同僚でもそうですけど、自分より上と見ている人が自分の足を洗うということはありえなかったんですね。ですから、他の弟子たちももちろんそれは感じていたのですが、ペテロだけが「これはいくらイエスであってもさせてはいけない」と言う。ある意味では常識といいましょうか。そういうことをペトロが意識していたんですね。自分がイエスの上に出るものではないから、足を洗っていただくことは拒否するというペトロの正しさですね。


 まさにイエスはあとで話すように、あなたたちは主とか先生と言うけどまさにその通りですから、ペトロが何かおかしくなって過剰反応を起こしたわけではないですね。その通り、イエスの方が当然ながら主である救い主であるけど、その救い主がペトロや私たちの足を洗う。つまり罪を取り除く。そういうことですね。


 自分たちの責任ですから、自分たちが犯した罪は別にイエスが洗わなければならないということではなく、イエスがその道を選んだと。そうするとペトロがその関わりをまず受け入れることを学ぶと言いましょうか。イエスからそういう姿勢を見て、自分たちも相手が自分より上とか下は関係ない。相手を大事にして相手の奴隷になるというような心を持つ。言うのは簡単ですけれども 私たちは、現代でも「あなたに言われる筋合いがないんだ」というようなことが残念ながらあります。私たちの良い行為、寛大な返事あるいはちょっと手を貸すということを止めてしまうというようなことですね。


 ですから、その態度を私たちが今晩この晩餐に与ることによって、また毎回のミサに与るときにはやはり思い出す機会になればいいと思います。ペトロが当然ながらイエスと関わりを持ちたい。ですから結果としては「足だけではなくて全部洗ってください」と言う。


 このような大げさな表現ということにもなるかもしれませんが、やはりイエスがこの関わりを受け入れるということが、イエスが示す形で受け入れるというポイントになっていくのですね。ですが救い主である私たちの神であるということは、ペトロも私たちも誰でも知っている。ただ、その救い主である神である主は十字架を選んだということが関わりとはいえ私たちは受け入れがたい。ペトロたちもそうです。ですが受難を予告したときには何回も「いや、それはあってはならない」と。救い主になってほしいですけども、十字架にかかって私たちの罪のために亡くなる。命を捧げるということはもうそこまで誰も当然ながら考えられないと。


2023年4月6日 主の晩餐の夕べのミサの後、ザビエル聖堂に安置されるご聖体 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエスはそうなさったから結局私たちも自分に対して死ぬ道を選ばないといけない。自分のわがままや都合、好き嫌いとかそういうことをペトロもそうしたように、そう学んだように、私たちも学ぶような場面があれば、イエスは模範を残してくださったということですね。言うのは簡単ですけども、毎回の関係の中で私たちがそれを実行していくときにはやはり難しいですね。自分の都合やプライドなどあって、その中でイエスの模範、死に至るまでの奉仕、まさに奴隷のような立場。あるいは姿をとったイエスの姿が私たちの救い主の姿でもあるし、私たちが本当にいい信者になるつもりであるとすれば当然ながらそれを受け入れる、その道を選ぶということですね。


 もちろん苦しみがあったり殉教者たちはまさに自分の死を受けて、イエスの模範に与ったのですが、そこまでいかなくても私たちがやはりイエスに従うことによって相手を大事にすると主の体と御血をいただくことによって、私たちも少しでもイエスの血が姿に近づく。


 ペトロと同じように、足を洗っていただくということを決して私たちはそれにふさわしいわけではないですが、イエスがそうしたかったからイエスの選んだ道を受け入れるということですね。このミサを通してそのような心を持って、私たちもこの毎回与っている主の晩餐、御ミサを深めるきっかけになれば、その恵みを願いたいと思います。


受難の主日(枝の主日)

サトルニノ・オチョア 神父

4/2(日)10:00- 受難の主日(枝の主日)


 およそ14年前のことですが、私はこの日、枝の日は、九州の熊本の教会に誘われて行きました。 典礼の後で熊本城を見に行き、熊本城の入り口の右の方では素晴らしい印象があります。加藤清正将軍のことです。立派な馬に乗って、権力のサインを持って兜(かぶと)をかぶっている姿です。


2023年4月2日 受難の主日(枝の主日) 司式のオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そのとき、私がちょうど典礼では子ロバに乗っているイエスが、聖なる都に入るということを見て、突然私のご受難の見方、それから今日の祝日の見方は変わってきたのです。今の典礼では私たちはこのイエス・キリストはエルサレムに入ると大きな勝利として祝っているのではないかと。


 けれども、これは信仰の目で見ているからです。肉眼で見ると全く逆なんです。大きな失敗です。そのロバのこと、それから後でみんな笑いながら楽しみながら「ホザンナ、万歳、ホザンナ」「誰が来るんですか」「メシアだ」「私たちの王だ」と。けれども、隣の人は本当に何も知らない人に、「一体この人は誰ですか」「ナザレの預言者だと言っている」と言うと、イエス・キリストを素直に歓迎しているということではない。嘲笑っているんです。イエス・キリストが都に入ると嘲笑われる。それだけじゃないのです。後で、ただ3日間だけで「ホザンナ、万歳」と叫んでいる人たちは「十字架につけろ」と叫んでいます。


 それから、犯人と比べられるときには「イエスがダメです」「バラバを釈放しなさい」。それだけではないんですね。12人の中で1人に裏切られる。もう1人に1回、2回、3回も「私はこの人知らない」。ほかの10人は1人も残らず逃げてしまいます。彼だけ、ゴルゴダまで歩くのです。十字架を背負って茨の冠をかぶって、このイエスです。全く失敗のイメージです。敵に責められているということではなく、味方に捨てられる。それで、十字架につけられるときには、2人の泥棒の間に、泥棒たちも同じように死にかかっているのに、認めない。


 後でイエス様は、ほかの福音と違ってマルコの福音では何も言わない。「御手に私の霊を委ねます」と言わない。ただ2 回叫んで、息を引き取る。本当に恐ろしいことです。でも、それによって彼は自分の同胞から捨てられる人です。異邦人の手に渡される。恥の最低のところでは彼は神殿を壊して自分の体が神殿になり、自分のその神殿で行われる生贄は、自分自身が神の子羊になる。それによって私たちの悪意、私たちの罪の責任を全部取って、こういうふうに私たちの神の子羊になります。


2023年4月2日 受難の主日(枝の主日) 潅水を受ける会衆 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 世の罪を取り除く神の子羊。私たちはこのイエスを信じています。それから聖アウグスティヌスが言われたとおり、希望のないところに希望を持って信頼します。私たちもいろいろなことでいろいろな災いと病気のことで悩んでいることもありますが、私たちは捨てられない。父である神さまに捨てられない。イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んでいますが、それは詩編の言葉です。そのようなことを体で感じていますが、信仰によって私たちはいくら悪意の塊(かたまり)であっても絶対に父である神さまに捨てられない。


 最後に多分黙示録では特別な手紙があります。ある教会の信者さんたちは、熱心さを失ったのか少し熱心ではなかったのですが、その黙示録ではこの手紙があります。「私は あなたの心のドアに待っています。 叩いています。開けてくれれば入る」。


 一緒に食べましょう。それで私たちはこの1週間の間苦しんでいるイエス様と一緒に苦しみながら、けれども、この愛、この救いの神秘を味わいながら、このイエス様の十字架、それから後で一緒に食べるこの復活の喜びを味わいましょう。


PAGE TOP