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2023年3月 ミサ説教




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四旬節第5主日

酒井 陽介 神父

3/26(日)10:00- 四旬節第5主日


 第一朗読のエゼキエルの書に「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。…そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と書いてあります。
 第二朗読には「あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」とあります。


 そして、今読まれたこのヨハネの福音には、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言ったイエスが、愛していた親友のラザロを生き返らせるという場面が語られています。

 ここから分かるように、皆さんと分かち合いたい今日の言葉、キーワードは〈生かす霊〉です。別の言葉で言えば、〈神の霊の力〉と言い換えてもいいかもしれません。とはいえ、霊と聞くと何やらつかみどころのないものを感じるかもしれません。
 しかしここで皆さんと分かち合いたい、そして私たちの信仰の中で語られる、私たちの霊的生活で中心的なもの、大切なもの、この霊というのは、そんなぼんやりしたものではないのです。それはイエスご自身がおっしゃるように、生きる力と強く結ばれています。生きる力と強く結ばれているもの、それが霊なのです。

2023年3月26日 四旬節第5主日 お説教の様子 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 人間を〈生かす霊〉を与えることができるのは、このキリストの霊だということが、まさにヨハネの福音書から私たちは感じとった、読み取ったことだと思います。しかし、霊は目に見えません。霊は、手に触れることもできません。でも霊は、それでも私たちに語りかけ、働きかける不思議な力を持っています。
 別の言い方をするならば、見える人には見え、場合によっては触れることもできるのです。

 考えてみれば、御聖体拝領とはそういうものではないでしょうか。イエス様をいただく、というのは触れているでしょう。霊の力がなければ霊の力をもって、私たちは本当にそこにイエス様がいるのだ、イエス様をいただくのだとつながりますからね。


 さて私は、今月の頭に8日間ほど、ローマとアッシジに大学生たちと巡礼に行ってきました。素晴らしい時間を、巡礼の経験をいただきました。

 普段、教室やキャンパスで知ることのできない学生たちの態度や新たな顔というものに接する機会となりました。その体験を一言で言うならば、彼らは、学生たちは「求めているなあ」「探しているなあ」と言うことだったのです。彼らが「信じているか」とか、「信じたか」ということは、彼らの自由に任せますし、私がわかる範疇を超えているのですが、私が何よりも印象に残ったのは、彼らが何かを求めて集ってきている。言ってみれば、それこそが巡礼の核なのでしょう。


 求めて集まってきている学生たち。21名の学生たちでした。求めるところには、霊が働くのです。
 8日間一緒にいて、彼らの中に霊が働いていることを私ははっきりと感じ取ることができたような気がします。

 訪れる教会で、祈るひとときを皆で持ちました。それが、ペトロ岐部も祈ったイエズス会のかつての修練院のサンタンドレア聖堂の十字架の前であれ、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のSalus Populi Romaniの聖母子の絵の前であれ、アルペ神父の墓前であれ、ザビエルやイグナチオの墓前であれ、そしてまたアッシジのサンダミアーノの十字架の前で祈った時も、彼らに霊が働きかけていたと私は信じます。


2023年3月26日 四旬節第5主日 鐘楼と満開の桜 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 1人のキリスト者ではない学生が、行く先々の教会で、自ら献金し、ろうそくを灯し、何かを静かに祈っていました。
 このように、彼らが何を祈っていたのかは私が見通すことはできません。しかし、キリストの霊が彼らを導いているのだなあ。神の霊が彼らの中に働いているのだなあということは、はっきりと分かりました。それは、人間を生かす霊が「吹き込んで」いた現場でした。学生たちは聖堂で目を閉じながら、それぞれに何かを見ていたと思います。彼らだけが見える光のようなもの、きっとそんなものを見ていたのではないかと思います。


 ラザロの蘇りの出来事は、ヨハネの福音書の中では、言うなれば公衆の面前での最後の奇跡と言われています。そして、その出来事を目撃し、多くの人々がイエスを信じたとあります。さらに彼のエルサレム入場に際し、歓喜で迎えました。しかし同時にそれは、リスクを伴うものでした。祭司長たちはこのラザロの蘇りを目撃し、人々の反応を目撃し、イエスを殺さなければ、ラザロも殺さなければとそう彼らは決断したとあります。イエスは、いのちをもたらしますが、それは自身の死と隣り合わせです。イエスは、自分の死と引き換えに人間を生かすのです。イエスは、人間のために自分のいのちを惜しみません。それは、何も、2000年前のユダヤで起きた1度きりの出来事で終わるものではないはずです。


 少し考えてみてください。皆さんがキリスト者であるのは、新しいいのちを与えられたからじゃないのですか?私も含めてです。そして、それゆえに、ここに集まっているのです。

 とはいえ、私たちの存在は、ある意味どこか「はかない」ものです。有限です。完全とは程遠いのです。
 でも、キリストのいのちと引き換えに私たちがいただいたこの新しいいのちは、永遠のいのちにつながるものですが、この世にあっては、何度も、何度も新しくされ、霊が吹き込まれ、強められる必要があるのです。何度も何度も新しくされる必要がある。その度ごとに少しずつ少しずつ私たちが成長していく。変わっていく。何歳になろうと、私たちは完成されたものではないのです。


 はっきり言えば、私たちの持っている悩みや苦しみは消し去られることはなく、ずっと私たちの中に残るのです。残念ながら。「イエスを信じたからもう無くなりますよ」とは言えない。残るのです。
 パウロでさえ言っています。「私の中に『とげ』が残っているのだ」と。「私の身に刺さったままの『とげ』があるのだ」と。ずっとうずくのです。その「とげ」は。

 それでも、それを恥じることなく、恐れることなく、引け目に思うことなく、
 「そうだ、神の霊がこの私に吹き込み、キリストのいのちによって、私は新しくされ続けていくのだ!」
 「今私が抱えているこの痛みは、急には無くならないかもしれない。それでもキリストの新しいいのちによって、吹き込まれた霊によって、私は新しいものになる。光が見えるはずだ!」
 それはキリスト者独特の誇りといいますか、楽観性というか、それを私たちは持っているのだと思います。


2023年3月26日 四旬節第5主日 満開の桜 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 現代の私たちは自分の力にどこか頼りすぎたり、自分の考え方やこだわりに偏りすぎているかもしれません。自分の持てる力や思いや計画を超えて働くキリストの霊、神の霊にもっと委ねることを学ぶことができたら、少し自由になれるかもしれない。そうすれば、自分が作り上げたり、場合によって社会のなかで当たり前のように問われることなく存在する「しばり」から少し自由になれるかもしれない。

 そうだ、私は神の霊によって新しく生まれ変わりつつあるのだ。社会の目とか、他の人の目ではなく、自分の中の拘りではなくて、神の目、神の霊、そんなものを意識する。それは責められたり、怒られたりするような、そんなものではなくて、神様のいつくしみ深いまなざしです。それを意識できることが私たちキリスト者の享受というのでしょうか。だから、思うように行かずに、こころが折れそうな時も、「とげ」の痛みから解放されずに苦しんでいる時も、あのイエスの言葉を思い出しましょう。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」。そして、ラザロにイエスが言ったように、暗闇や混乱や痛みから「出て来なさい」、そんな呼びかけが、私たちにも呼びかけられている。そのイエスの言葉に、その声に信頼して一歩を踏み出したいと思います。


 霊の働きによって、呼びかけられる方向に、普段は見えない光があるはずです。それはもしかしたら、ろうそくの灯火ほどの小さなものかもしれない。でも求める者、信じる者には見える光です。何よりも、心強い光のはずです。

 キリストの霊によって、私たちは死んでも生きる、生かされるのです。このことを忘れないでいきたいものです。


四旬節第4主日

李 聖一 神父

3/19(日)10:00- 四旬節第4主日


 3年と少しにわたって私たちを閉じ込めていたコロナが次第に収まりを見せてくるようになり、教会でもマスクをしたままですが歌を歌うこともできるようになり、次第に私たちの信仰生活も元に戻りつつあると言っていいのかもしれません。


 私はコロナが始まったときから40カ月で終わると言っていましたが、最初の感染者が見つかったのが1月、それから40カ月経つ5月、2類から5類へと引き下げられるということですから、私の預言は当たったということでしょう。


 ここで言う40という数字は心に留めておかなければならないですね。四旬節の40という数字でもあり、イスラエルの民がエジプトを脱出して約束の地に至るまでが40年。モーセが市内の山で神と出会い、十戒を授かるのが40日。イエスが砂漠で誘惑を試みられるのが40日ですから、何か新しいことが始まる前に「40」という期間を
 過ごすということは意味があることなのでしょう。
 私たちも今日、コロナ禍を40カ月ほど経験することになったわけですが、そこから新しいものへと向かっていく。そうしたシンボリックな意味を持つものだろうとも思います。


2023年3月19日 四旬節第4主日 お説教の様子 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日は「レターレ」という主日だと言いました。入祭唄の中でいちばん最初に「レターレ」(神の民、喜びなさい)という言葉から始まるので、「レターレ」と言われ、そのときは紫ではなく、ピンク色、バラ色の祭服を着けてもいいということなので、今日はピンクの祭服を着けていますが、知っておいてください。これは私が4年前に李 相源(イ サンウォン)神父とともにローマまで行って買ってきたものです。イエズス会の神学院、ベラルミーノ神学院があり、世界中から神父たちが集まって神学の勉強、聖書の勉強をしているところです。そこから近いエミナリオ通りに、教会用品を売っている店がいくつもあり、そこでウィンドウショッピングをしながら見つけたものです。
 そこには、司教用のものや枢機卿用のものを売っていて、私と李相源 神父には全く関係ないので、司祭用の祭服を選んで私の体形に合わせて買ったものです。


 年に2回ほど待降節のガウデーテ(喜び)、四旬節といった喜びの日と呼ばれる日にこの祭服を着るのです。そして、不思議なことに私はイグナチオ教会で四旬節、待降節に1度くらいミサをすることがあるのですが、たいていそれに当たるのです。自分が買ってきたからかなと思うのですが、うれしい日だなと思います。


 今日の3つの朗読を統一して「本物が見えるように」といったテーマだと解説書には書いていますが、そうなのでしょう。


 「サムエル記」を読むときはいつも、ダビデという人物をサムエルが「この人こそ王だ」と見抜くわけですが、最初にこう書いています。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言っています。容姿などによって人を判断してはいけないというのでしょうが、ダビデを選んだとき、「彼は血色が良く、目が美しく姿が立派だった」と言っているのです。けっきょく、そういうふうに選ぶのかという話になりますが、皆さんご存じでしょうか。


 イエズス会の会憲というのがあり、どういう人をイエズス会員として受け入れるかと書いてあるのです。それを読みながら、私はイエズス会に入れるかなと思ったのですが、そこには「記憶力があって、知性も立派なものがあって…」と条件がたくさん書いているのです。「イエズス会員は、頭が良くて判断力もあってという人じゃないと入れないんだな」と思うわけです。「外見に関しては、良いほうがよい」と書いてあるのです。


 イグナチオという人はとても面白くて、「注」を書いてあるんです。「そういうものを持ち合わせない者は『少なくとも人に不快な思いを抱かせないこと』」と書いています。そのへんを読みながら、私は鏡で自分を見て、「私は不快を与えるような人間かな」と時々思ったり、周りのイエズス会員を見たりします。
 しかし、イエズス会に入って、そこで磨かれるということもあるので、私もイエズス会に入って、あと数年で50年になりますが、「どんなふうに磨かれたのかな」と思うとあまり自信がありませんが。


2023年3月19日 四旬節第4主日 朝日の中の開花したソフィア通りのソメイヨシノと鐘楼 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 そうした、神さまがお選びになることを考えていくのですが、その人がどういう人なのかを問われるに違いないと思うのですが、ちょうど今日もいろいろなところで、洗礼志願式のための典礼が行われると思いますが、ときどきこういう質問を受けます。「洗礼を受けるためにどういう資格が必要ですか」という問いです。カトリックの信者になるためには、そのような問いがだれにもあるのでしょうが、そういう問いを受けるたびに考えてみますがとくに思い当たらないのです。ただ、1つだけ思い当たるのは、「自分自身の弱さを身に負う人」が洗礼を受けるうえで大事なことかなと思うことがあります。


 昔、神学を勉強しているときに、ある記事を読みました。「司祭になるのに資格がいりますか」という問いかけの中に、自分自身の弱さを身に負うがゆえにそうした道を歩むという記事があり、私は非常に深い感銘を受けました。それは単に司祭職に召された者だけではなく、洗礼というものに招かれる人に共通しているだろうなと思うのです。


 最近、私の持っているグループで「使徒言行録」を読んでいくのですが、使徒が宣教に旅立っていき、あちこちでキリストのメッセージを宣べ伝えていくという物語ですが、異邦人と呼ばれる人々が洗礼を受けるという話になるとき、必ず出てくる言葉があるのです。それは、「神がその人の心を開いた」という言葉です。神さまがその人の心を開き洗礼に導かれるというのが、「使徒言行録」の1つのパターンであるということに気がついたのです。


 今、私の周りにも多くの信者ではない人がいて、キリスト教に関心を持ち洗礼に至る場合がありますが、そうでない場合もあります。そのとき私は、「神が心を開く」というのはどういう意味なんだろうと考えることがあるのです。そして、洗礼の資格について考えていくとき、「神さまはなにゆえにその人の心を開くのだろう」と思ったとき、「自分自身の弱さを知る」あるいは「自分自身の弱さを身に負う」ことを知っている人々を神さまは心をお開きになるのではないかという思いがしたのです。


2023年3月19日 四旬節第4主日 開花したソフィア通りのソメイヨシノ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今度、私も洗礼を授ける人が何人かいますが、その人たちに共通するのは、自分自身の弱さを身に負っていることを知っている人だと感じています。皆さんもおそらく洗礼を受けるとき、基本的に、自分自身の弱さを知る人たちだということが共通しているのではないかと思います。


 そして、イエスが生まれつき目の見えない人が目を開き、見えるようになさったという奇跡の話です。これはずいぶん長い話です。生まれつき目が見えないという弱さ、それゆえに社会的に排斥されていく。そうした弱さ。それを持つ人。その人の目を開かれたということです。その目が開かれた人は、本物を見たということなんでしょうね。「あの方は預言者です」「その人はいったいだれですか」「私ですよ。あなたは人の子を信じますか」。そして、その人の前にひざまずいて、「あなたこそ、神から遣わされた方だ」。そのことを知ること、あるいは信じることができるようになった。そのような物語として、私たちは受け取ることができます。


 この四旬節をとおして、私たちは復活に向けて心を準備していくのですが、私たちは洗礼の恵みを受けたいちばんの原点は、自分自身がいったい何者であり、自分の弱さを知り、何に向かって生きていくのか、どのように生きていくのか、それらを考え、希望をもつ。それゆえに私たちは洗礼を受けた。そのように捉えていいし、そのことを思い起こすことが大事だと思います。


 この四旬節、そして復活の準備、そしてまたコロナから新しい時代を迎えようとしていくとき、私たち自身の生き方、私たちが何に招かれているのかということを、もう一度自分自身に問いかけながら、この四旬節を過ごし、希望のうちにイエスの復活を迎えることができますように。ご一緒にお祈りいたしましょう。


四旬節第3主日

森晃太郎 助祭 (司式:柴田潔 神父)

3/12(日)10:00- 四旬節第3主日


2023年3月12日 四旬節第3主日 子どもとともにささげるミサでお説教をする森助祭 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 本来、神の御言葉を伝える説教はこの説教台から語られますが、今日は子どものためのミサということで、子どもたちの前で話をすることをお許しください。画面越しに参列されている方々も、少し見づらいことがあるかもしれません。イエス様が子どもたちを温かく迎え入れたように寛大な心でこれから話す話に耳を傾けていただけたらと思います。


 最初に確認したいのですが、土曜学校の人、日曜学校の人、中学生会の人、高校生会。侍者会、子ミサ係、聖歌隊。ホームに帰ってきた感じがあるのですが、この時期、学校や幼稚園、保育園、あるいは教会学校、そしてリーダーたち。きっと卒業シーズンだと思います。今日卒業式なのですか?卒業式にアルバムってもらうよね。


 ちなみに、幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校、卒業する人はどれぐらいいるの?けっこういる?おめでとうございます。教会学校ではもうもらわないのかな、学校ではアルバムをもらうと思いますが、アルバムを開くといろいろな写真があるよね。自分が写ってたりすると、「あのとき懐かしい」とか言って思い出すと思います。


 聖書の言葉って、今日の話も難しいように感じるのですけど、聖書ってイエス様とイエス様が出会った人たちの思い出のアルバムみたいなものです。思い出のアルバムみたいな。今日その1ページを開いてみると、イエス様とそのサマリアの女性が井戸の前で出会うっていうお話になってるね。


 今日の話、すごく珍しいことが1つあるんです。何かって言うと、いつも人々はイエス様に「助けてください」「病気を治してください」とイエスに求めていくのね。しかし、今日はなんと、イエスがサマリアの女性に「水をください」ってイエスからみんなにお願いをするんですね。


2023年3月12日 四旬節第3主日 子どもとともにささげるミサ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 けっこうこれ珍しいんですよ。聖書の中でイエスからお願いする。でも、話を読んでいくと不思議なことが生じます。何かって言うと、いつのまにかそのサマリアの女性がイエスに「その水をください」って言うんですね。最初イエス様が「水をください」って言ったのに、だんだんだんだん話していくと、その女性がイエスから「水ください」って言うんですよ。この「水」。これが、話をするのが非常に難しい。とくに子どもたちに話すのは非常に難しいです。リーダーたちだったらこれどうやって話す?けっこう難しいよね。


 そこで、ちょっと私の人生の思い出のアルバムから1 ページの 出来事を皆さんにお話ししたいと思うのですが、私が思い出に残っているシーンは、私がイグナチオ教会で教会学校のリーダー、日曜学校のリーダーやってましたが、リーダーの卒業式がヨセフホールでありました。ヨセフホールで壇上に上がって、最後リーダーたちに何かあいさつをするのです。そのときに、初めてみんなに「明日からイエズス会に入ります」って言ったんですね。「えー」って言われました。そのとき初めて言ったので、そのシーンはすごく自分でも覚えてます。


 私が初めてイグナチオ教会に来たのは21歳のときです。みんなぐらいの子どものころに1人お世話になってた神父さんがいて、その神父さんが自分の田舎の教会の神父さんだったのですが、十数年ぶりにイグナチオ教会にいるから「会いに来よう」と思って会いに来たんですよ。その神父さんにあったのがたまたま日曜日で、それで話し終わって「今日空いてる?」って聞かれました。「空いてますよ」と軽く言ってしまったのですが、「ちょっと」と言って、信徒会館の一番上のフロアの奥にある部屋、何の部屋かわかる?今もそうなのかな。リーダー部屋なんですよ。


 どこに連れて行かれるのかなと思ったら、リーダー部屋に連れていかれました。そしてよくわからずそのまま同じぐらいの年代の人と初めて会って、田舎の教会出身なのでショックを受けたんですね。おじいさん、おばあさんしかいなかったんです、教会には。そしたら10代、20代の人がいっぱいいてびっくり。当時、教会学校で100人ぐらい日曜学校に子どもがいたのです。「これが教会?」ってすごく自分でもびっくりしたのですが、そのままリーダーたちに「じゃあ今度何々手伝って」と言われて「いいよー」という感じで手伝っていて、「そろそろリーダーやらない?」と言われて「まあいっか」「いいよ」っていう感じでリーダー始めて、初聖体のお手伝いや中学生の巡礼、山口の方の巡礼の手伝いなどいろいろやってたんですね。その結果、リーダーの卒業式を迎えるのですけど。


2023年3月12日 四旬節第3主日 子どもを祝福する森助祭 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 何が言いたいかというと、私にとって最初はこのサマリアの女性みたいに、自分が求めたというよりも向こうが求めてくれた。その求めてくれたものにだんだん答えていったら、いつのまにか私自身がイエス様から水をいただいていた。みんなから水をいただいていた。それが今こうして、神父さんになるための道を歩む道につながってるんですね。


 だから、サマリアの女性の人も最初はよくわからなかった。けれど、だんだんだんだんいつのまにかイエス様に水を求めるようになったので、水が何なのかってすごく難しいのですけど、自分の中でその自分の思い出のアルバムを開いたときにどんなことが思い出されるかなという、その思い出の一枚一枚が、実は自分がイエス様からいただいている水かもしれません。
 サマリアの女性にとって、水は生活をする上でとても大切なものでした。みんなにとって、大切なものがあると思います。私にとっては、イグナチオ教会で出会った子どもたちやリーダーたちがとても大切な存在でした。


 その大切なものがきっとみんなにとって、イエス様があげたい水なんじゃないかなと思います。ですから、今日のミサの中で祈りたいのは、もう1回この四旬節に自分の大切にしているものを、あるいは卒業する人たちは教会で出会った人とか、いろいろ得た恵みがあると思うので、それを思い出しながら「自分にとっての恵みの水って何なのかな」というのを、ぜひ思い出してみてください。


四旬節第2主日

ハビエル・ガラルダ 神父

3/5(日)10:00- 四旬節第2主日


 キリストの変容の福音です。簡単に流れを確認してから、1つの言葉について一緒に考えてみたいと思います。


 イエス・キリストと弟子たちは、エルサレムに向かって道を歩いていました。エルサレムで待っていたのは、受難と死と復活です。弟子たちと一緒にいたのですが、弟子たちは元気がなかった。沈んでいました。希望がなかった。将来は暗い。なぜかというと、2つの理由があります。


2023年3月5日 四旬節第2主日 司式のガラルダ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 1つは、自分の受難と死と復活のことを報告したからです。予告しました。「復活」はピンとこなかったので、たいへんだということで沈んでいました。もう1つの理由は、前から彼らが疑問に思っていたのですが、「この人は本当にメシアかな」と思っていたくらいです。なぜかというと、キリストには角が多くて、もっと丸くなればいいのに宗教の指導者とは仲が悪い。それは、失敗が目に見えています。


 もっと仲良く、妥協して合わせてみればいいのに対立しているのです。もっと一緒にすればいいのに、イエスさまは昔の人たちの言い伝えについて興味がないし、安息日を守らないときもあります。ご聖体について難しい話をします。ですから、すごく疑問に思っていました。


 イエス・キリストは彼らのうち3人だけをつれて、祈るために山に連れて行った。祈りで元気をつけることができるから。なるほどそうですね。私たちもそうしましょう。何か悩みがあるとき、「祈り」。


 イグナチオ・ロヨラが言ったように、「もしも、彼がもっと年寄りになったときに、教皇様が『イエズス会を廃止する。解散しなさい』といきなり言ってくだされば私はショックで沈むでしょう。しかし、お御堂に行って15分間祈っていればその悲しみを乗り越えるでしょう」。私たちもそうしましょう。


 とにかく山に登った。そのときには、真っ白になってこれは専門用語では「セオファニア」と言います。「神の現れ」です。真っ白になって輝くのです。白というのは神の子である。そしてキリストが復活したときには墓の隣に、白い服を着ている天使がいた。「白」というのは復活の意味です。


 そして モーセとエリヤが来るのです。なぜこの2人が出てきたかというと、ちょっと長い話ですから手短に話すと、モーセは立法の代表、エリヤは預言者の代表で、聖書は立法と預言者です。2つの柱があるのですね。ですからその2人が現れてきます。イエス様と仲良く語り合っているんです。


 それを見るペトロが感動して、ここにいるのはすばらしい。平等にいるので対等に立法、預言者、イエス・キリスト。そのつり合いの取れた関係がいいですね。だから「よろしければここで3つの仮小屋を建てましょう。1つはあなたのため、エリヤのため、モーゼのため」。そこで雲が来るんです。輝く雲は神の存在の現れです。聖書における雲というのは、どういう神かというと、隠れた存在。
 神の隠れた存在、身近な存在、救いに導いてくださる存在。これは雲で現れる。その雲の中でこの声が聞こえたんです。みんなに聞こえたのです。


 これは、愛することです。「これに聞け」の「これ」は、キリストの中に預言者と律法も含まれているんです。完成されて含まれているので、キリストだけに聞きなさいと言うんですね。それで彼らが顔を上げてみると、イエスのほかにはだれもいなかった。山を下りて旅を続けたけれども元気を取り戻して希望を抱いて、キリストのようにキリストとともに歩き続けた。この流れです。


2023年3月5日 四旬節第2主日ミサ カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 では1つの言葉について考えましょう。「イエスのほかにはだれもいなかった」。イエスだけですか。たとえば私たちの信仰、カトリックの信仰ですね。それだけですか。たくさんの人は、主に第二バチカン公会議の後では、狭くなるのは良くないです。外にはすばらしいものがありますので、イエス・キリストだけ、カトリックだけにすると心も頭も狭くなるので良くないですね。もっと広がる。そうかといって、何でも屋さんということではないですね。ですから、今キリスト教ですけど、その後ヒンドゥー教に入りたい。それからイスラム教、それから仏教…、そうではなくてカトリックの根はイエス・キリストですね。


 例で言うと、国際人になればいい。国際人である日本人。国際人というのは27枚のパスポートを持っている人ではなくて、国際人というのは日本人だったら徹底的な日本人で自分の国があってなおかつ他の国に対して心開いて学びたい精神があって、感動したりして興味があって、そして互いに豊かにし合うという気持ちでいるのは国際人。でもオリンピックのときは、たとえばやっぱり日の丸が上がると、国際人である日本人は涙が出るほど感動するんですね。そして日本人の選手たちは日の丸が上がるために必死に戦うんですね。必死にプレイするんです。その意味の国際人。


 もう1つのことです。自分が悲しんでいるときもありますね。そのときに、イエスの他にはだれもいないときもあります。私たちには時々悲しみがきますね。長い悲しみ。夜は長い。夜明けが遠い。毎晩これです。すごい深い悩みがあるときも。しかもその悩みは隠れた悩みです、隠れた苦しみ。目には見えない。他の人にはわからないけど、あります。


 隠れた川底を流れる悲しみの川。隠れた川底。表は芝生とお花と木があるんですけど、その下にはすごい苦しみがあるときもありますね。しかもその悩みは時々孤独な苦しみですね。孤独な悲しみです。大切な人が助けてくださるけれども、あるときにはだれも入れない。自分の悩み、自分の痛みにはだれも入れない。そこですね。


 イエスの他にはだれもいなかった。そのときもあります。イエス様はそのときに私たちを抱きしめてくださって「お前の悲しみを知っている。お前の悲しみを知っている」と言って慰めてくださる。ところが慰めてくださることだけではなく、この福音に書いてあるように「起きなさい。恐れることはない」。それで、イエス・キリストと一緒に山を降りて道を歩き続けるのです。元気を取り戻して希望を抱いて、イエスのようにイエスとともに歩き続けるのです。これを願い求めましょう。


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