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2023年2月 ミサ説教





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四旬節第1主日 洗礼志願式

サトルニノ・オチョア 神父

2/26(日)10:00- 四旬節第1主日


2023年2月 四旬節第1主日 洗礼志願式 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の福音は、非常に私たちに素晴らしい深い教えをもって、私たちの心の反省を招いている箇所だと思います。まずはいろいろな言葉の意味を、はっきりしなければならない。だいたい私たちの日常生活の中で「誘惑」ということはちょっと特別な響きを持っている。あまり良くない、これは悪だと。


 今日の福音はこの言葉で始まります。
 イエスキリストは、誘惑されるため霊性で導かれました。 だから誘惑そのものは悪ではない。誘惑されているからといって、私たちは悪だらけだということでもない。


 誘惑のいい響きで言葉は試みです。スポーツの世界、挑戦です。チャンスです。議会です。誘惑です。「どうだ」と。私たちはそのとき、自由に選ばなければならない。選択、決めなければならないということです。


 そこから考えてみると、誘惑は私たちに大きなオポチュニティ、機会です。愛を見せるためのチャンスです。こういうふうに、私たちは誘惑されるときに本当に落ち込んではいけません。今こそ私たちは自分の心を決めるときなのです。


 第2のことは、場所。このイエスキリストの3つの誘惑は、場所はいつも違う。そうであったかどうかではなくて、この物語の中で場所ということは何か私たちに見せているのです。


 第1の誘惑は砂漠です。何にもない。あの40日間の間何にも食べていない。非常に空腹を覚えられたと書いてあります。そのときは、一番誘惑されているのはダイヤモンドではないです。パンです。食べる、飲む。物質的なことということですね。それは私たちの人間としての経験の中では、いつも強いことですけれども、程度の低い誘惑です。


 たとえば、子供の時代は私たちは、最高の誘惑は多分チョコレートのアイスクリームになったかもしれない。チョコレートのアイスクリームのために何でもやるとか。


 第2の誘惑は別です。第2の誘惑は神殿です。神殿といったらたくさんの方々が集まってきて本当に自分を見せるということです。私たちは舞台に入って「私です」と。そこの誘惑は、パンではなくその誘惑は名誉です。「認められたい」「私はこんな人だ。こういうふうにこのような才能があるのです」「このようなタレントもあります」「テレビに出る」「本を書いた」。「どこに行っても受け入れられる」という名誉です。これは非常によくあります。


2023年2月 四旬節第1主日 洗礼志願式 司式のオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 人間だって、男性も女性も認められたい。褒められたい。それのために物質的なものさえも犠牲にする。


 第3の誘惑はもっと程度が高い。場所は非常に高い山。そこまで誰も行かない。そこからサタンは「私を拝みなさい。そしたら全世界をあげる」。その誘惑は1つの言葉で言えば、「傲慢」です。ワシしかいない。ワシの 権利によって 善と悪を決める。神がいらない。そのことです。


 程度が違うでしょうけれども、私たちの日常生活の中で3つの誘惑があり、そのエスカレートもあり、それに対して新しいアダム、誘惑に負けたアダムと違って新しいイエス・キリストは主である神を拝めなければならない。 頭を尽くして心を尽くしてすべてを尽くして、主である神を愛する。それからその反面はそれを見せるために隣人を自分のように愛する。


 洗礼の志願者に、言っておきたいと思います。もう洗礼を受けた人たち、私たちの信仰生活の中で何回も模範的な生活でもないんですけれども、本当にこの信仰を持ってイエス・キリストとともに私たちの日常生活の誘惑に打ち勝つことができますように。誘惑には多分負けることがあるでしょうけれども、最後まで戦うことができますように。最後に、サタン、誘惑もするものは外の人ではないのです。自分の心にある。それから、またその人その誘惑の声に負けてはいけない。そのかわりイエス・キリストの声に従って、私たちはすべてを犠牲にしてイエスキリストとともにその道を歩みましょう。


灰の水曜日

サトルニノ・オチョア 神父

2/22(水)19:00- 灰の水曜日


2023年2月 灰の水曜日 司式のオチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ただ今耳にした「マタイの福音」の箇所を読むたびに、たくさんのことを、自分の行動、自分の生き方で反省させられます。


 この箇所ではいつも繰り返されていることは2つのことがあります。

 一つは、見てもらうためにこれをする。そのようなやり方でそのような心構えでいいことをしても、特別な価値が消えてしまいます。
私たちの信仰生活は、私たちの神様に対しての祈りは公なものでありますが、その意味は本当に私たちの心のプライバシー、プライベートのものです。


 もう一つの折り返しがあります。あなたのやっている隠れたことを見ている父である神様。神様とは言わない、父です。私たちは、神様に対してただ義務だけでこれをしなければならないということだったら、奴隷になります。


 私たちは天の父の前に動く。天の父の前に祈る。天の父の前に、私たちは貧しい人たちに施しを捧げる。私たちは神様を、天の父のことを考えてみると、私たちは「本当に愛されている」ということを感じて、場合によっては恥ずかしくて本当に謙遜にならなければならない。けれども、私たちの父である神様は、正しい人たちを呼ぶために来ていないのです。正しくない人たちのために来ているのです。


2023年2月 灰の水曜日 右からボニー神父、オチョア神父、柴田神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 私たちの信じている父である神様は、非常に広い心を持って私たちの模範になります。なぜなら、いい人たちのためにも悪い人たちのためにも、雨を降らせてくださる。正しい人たちのためにも正しくない人たちのためにも、太陽を毎日昇らせてくださる。


 そして彼は私たちの天の父だから、私たちは断食するときにはただ決まっていることだけなら本当に心から出てくる断食じゃない。あるいはただ別の目的で、痩せるため、健康のためならいいことですけれど、それは断食ではない。ダイエットです。私たちは心の断食を狙って、それをします。


 そして心の祈りを狙って、隠れたところへ行って、そこでは父である神様の前で神様に祈る。これが私たちの四旬節の目的でありますように。私たちは、謙遜に頭を下げて、けれども「愛されている罪人である」ということを考えながら、最後までご復活の喜びまで頑張りましょう。


年間第7主日

レンゾ・デ・ルカ 神父

2/19(日)10:00- 年間第7主日


 今日の朗読は3つとも、「赦し」また「愛」について語ってくれています。

 「敵を愛する」という言葉は、クリスチャンでない人でもだれでも知っていると言っても大げさではない有名な言葉です。イエスが言った言葉の中で、ほかの霊的指導者、リーダーたち、宗教者にもだれにも言わなかった、言えなかったことです。


 しかし、この「敵を愛する」という言葉、私たちがキリスト教と関わっているときから、私のように幼児洗礼であっても、小さいときからそういう話を聞いていますが、多くの場合は、「敵」という言葉を聞くと、宗教も文化も違っていて突然襲ってきて暴力をして逃げ去る人だと思うかもしれません。


年間第7主日ミサ 司式のレンゾ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 しかし、本当は、ここで言われる「敵を愛しなさい」という言葉は、ほとんどの場合は私たちの近くにいる人なのです。1回会ったということではなく、毎日一緒にいる人を、自分の心の中で愛するということ。「あの人さえいなければ」と思うと、結果として、自分の心の中でその人は敵になります。


 イエスが「敵を赦しなさい」「愛しなさい」と言うのは、近くにいる自分が気に入らない人を赦せない、愛さないなら、当然ながら離れる。戦争しているところは、「赦す」ということを私たちが言葉にしたとしても、本当の赦し、本当の愛にならないということになります。


 「赦し」あるいは「愛」は、こちらから一方的なことではなく、相手からも、赦すと赦されるということですね。分けられないのです。「自分がされたことを赦します」と言って、相手がしたことを自分が赦すかどうか、あるいは、「赦します」と言ってくれたときには、それを素直に受けられるかどうか。心の中で「もしかすると、そのうちにまた何かを使って攻めてくるのではないか」と思うかもしれない。


 そうであれば、赦しや愛になっていません。私たちも、「主の祈り」を唱えているときには「私たちも赦しますから赦してください」と、愛の具体的な表れとしては、敵意を持たないということです。それだけではなく、敵意を持っていてもおかしくない人に対して素直に受け入れるかどうかも含まれていると思います。


 もう一つやはり大事な「赦し」のレベルは、「自分を赦すこと」ができるかどうかですね。多くの場合は、自分が一番敵になっている。自分のことがきらい。自分はこんな欠点さえなければ、自分がこんなところに生まれてなかったら、自分のそばにあんな家族がいなければと思うときには、当然ながら自分を敵に回している。敵とみて赦していない、愛していないということですね。


 ですから、「敵を愛しなさい」とイエスが今日の福音書で教えてくださっていることは、そういうことも含められていると私は思います。私たちは、自分を赦していない。あるいは神さまからいただいた赦しを受けていないなら、当然外にいる敵、周りにいる人、あるいは遠くに住んでいる知らない人も赦せるわけではないのですね。「赦します」と言ったとしてもそれは偽りの言葉になります。


主聖堂地下・クリプタへ向かう階段と洗礼盤、ステンドグラスの光 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ですから、今日の福音書が私たちに対して、自分に対して、人に対して素直になるように。「受け入れるような自分には資格はない」と思って逃げてしまうより、自分がやはり、神さまの友だちになる資格はないけど、神さまが赦してくださるのなら受け入れる。


 私たちは神さまが敵だと思っているかもしれません。悪いことをすればすぐに攻めてくる神さまがいると思うかもしれません。そうではなく、赦しの善人にも悪人にも雨を降らせる神さま、御父イエスももちろんそうです。そういう方が私たちの神さまであるということを、私たちが繰り返して、頭では知っているかもしれませんが、生き方を見るとそうでもないということに気づかされます。


 そのような生き方の模範として私たちが殉教者たちのことを考えると、まさにそうですね。この前この教会で、二十六聖人の映画が上映されましたが、パウロ三木たちの最後の言葉、役人と自分の死にかかわる人々に対して恨みがなく、むしろ赦しを感じ、また彼らもキリストの教えを受けられるように、遺言として残したのです。


 400年前の時代には、今と同じように仇討ちや弔い合戦と言ってましたが、やられたらやり返す。自分が殺されるなら、親戚か部下が敵をやつけるということを約束させていたような時代に、パウロ三木がそれを望んでいなかった。「武力を武力で返すことは私の望みではないから頼む」と言って最期を迎える。赦しの言葉ですね。敵を愛する、具体的な表れですね。パウロ三木たちはそういう最期を迎えることができたのは、周りの人との赦しができ、自分との赦しができたからこそだと私は見ています。


 私たちにできることではなく、祈って恵みとしていただけるしかない大きな恵みですが、神さまにできないことはないから、その意味で今日のミサを通してその心を私たちが願いましょう。


年間第6主日

柴田 潔 神父

2/11(日)10:00- 年間第6主日


ある日のミサを司式する柴田神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 朗読された箇所は、山上の説教の一部、真福八端(しんぷくはったん)、先週の「地の塩・世の光」に続く箇所です。トピックがいくつもあるので、説教が難しい箇所です。いろいろ考えましたが、最近、あるカトリック学校で平和についての練成会があったので、その内容とつなげてお話しします。


 私は『アンネの日記』などを題材に、平和についてお話をしました。ご存じのように、アンネはナチスのユダヤ人迫害を逃れるために、父の経営する事務所の隠れ家で2年間息を潜めて生活します。


 隠れ家での生活中、何度かヒトラーの暗殺計画のニュースをラジオで聞きます。

「あいにく暗殺作戦は失敗しましたが、いいドイツ人がいることが実証されました。一部にそういう人たちがいるとすれば、ほかにももっといるかも知れない。一度でもヒトラー暗殺計画があったのなら、そのうちにまた起こることもありうる。そして今度は成功するかもしれない。そう考えるのは、あまりに虫の良すぎる望みだろうか?」と記されています。
(『思い出のアンネ・フランク』ミープ・ヒース著 深町眞理子訳 文春文庫 1987年)

 1943年1月13日、隠れ家の外は悲劇そのもの。

「戦争がもたらした惨禍についてはまだまだ語ろうと思えば何時間でも語れますが、そうすれば私自身が落ち込むだけです。こうした不幸が終わるまでただじっと耐えて待つしかありません。ユダヤ人も、ユダヤ人以外の人たちもみんな待っています。全世界が待っています。そして、その一方では大勢の人が死を待っているのです」
(アンネ・フランク 時を超えるストーリー NHK Eテレ 2020年8月15日放送)

 1日でも早く、戦争が終わって解放されるのを、息を潜めて待っていました。


 アンネの家族をかくまったミープはこう書いていています。
(以下は『思い出のアンネ・フランク』 ミープ・ヒース著 深町眞理子訳 文春文庫 1987年)

「アムステルダムは昔から、あれやこれやの政治的圧力を逃れてきた人々に、隠れ家を提供してきた伝統がある。今でも、ナチの厳しい移民制限法にもかかわらず、市内は政治的難民と宗教的な難民との両方ではち切れそうになっている。…どこにも空き部屋はなかった」

 それでも「3人で住めるものなら、7人でも住めないことはなかろう」と4人家族をアパートに受け入れた支援者もいました。


 ミープ自身はこう言っています。

「占領下ではナチスに協力する者と、ナチスに抵抗する者、2種類の人間しかいなかった。自分はたまたま抵抗する側にいました。でもそれは、特に勇敢に振る舞おうと意図した結果ではありません。当然のことをしたまでです。自分たちだけが脚光を浴びたくない」

と強調しています。
 一方、アンネ・フランクハウス館長のロナルド・レオポルトは、

「この歴史から倫理的な教訓を得るとしたら、人々がどのような行動を選んだかに注目することだと思います。ユダヤ人を助ける道を選んだのか。ナチスの悪事に加担したのか。しかし、多くの人は何もしないことを選んだのです」
(アンネ・フランク 時を超えるストーリー NHK Eテレ 2020年8月15日放送)

 徐々にドイツが後退していきます。
(以下はアンネ・フランク 時を超えるストーリー NHK Eテレ 2020年8月15日放送)

1944年6月6日
「ああ、キティー(日記の宛名)、ノルマンディ上陸作戦が始まって何よりうれしいこと。それは味方が近づいているという実感が持てることです」。

 その日、アンネは興奮してまるで本物の新聞記者のように、戦果のニュースを追いました。しかし、その後、ユダヤ人虐殺の動きが加速します。

1944年7月15日、
「親愛なるキティーへ、こういう時代の難しいところはそこです。私たちの中に芽生えた理想も夢も、大事に育んできた希望も、恐るべき現実に直面すると、あえなく打ち砕かれてしまうのです。自分でも不思議なのは、私がいまだに理想の全てを捨て去ってはいないことです。どれもあまりに現実離れしていて、到底実現しそうもないと思われるからです。にもかかわらず、私は理想を捨てきれずにいます。なぜなら今でも信じているからです。たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを」

 アンネはまだ1944年の夏が最後の夏であることを知りません。アンネの日記は1944年8月1日で途絶えます。
(以下は『思い出のアンネ・フランク』ミープ・ヒース著 深町眞理子訳 文春文庫 1987年)

 3日後(1944年8月4日)、ナチスがやってきて彼女を連行します。彼女の部屋は静まり返りました。隠れ家が見つかってしまった後、ミープはナチからアンネたちを取り戻そうとします。かき集められるだけの金を集めて、ナチと交渉して連れ戻そうとさえします。南アムステルダムにあるゲシュタポの本部に電話をかけます。 出直しになり2回目、ミープは即座に要点を切り出します。「いくら差し上げたら、この前捕まえた人たちを釈放していただけますか」。担当のナチと、上司のナチの高官にも交渉を試みますが、願いは叶いませんでした。ミープの心の声がささやきます。「もうほかに手はないかしら?」「でも、もはや取り付く島もないことは、わたしにもわかりました。いよいよ本当に万策が尽きました」


雪の日の聖母子像 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 アンネの「こんな世の中でも人間は本来善なのよ」という言葉。命がけでアンネの家族をかくまい、捕まった後もナチから取り戻そうとするミープの勇気。悪が支配するユダヤ人狩りのアムステルダムで善の力も働いていました。


 ロシアによるウクライナ侵攻が起きて間もなく1年。また、トルコとシリアでは地震がありました。
 「私はどうなのだろう?」と考えさせられます。カブトムシで難民支援をしてきましたが、1日でも早く、戦争が終わってほしい気持ちが薄かったことを感じています。逃げている人を必死に守ろうとする人たち。生存者を探し続ける努力。遠いところから眺めていたようだったと反省しています。イエス様は、「私が来たのは、律法を完成するためである」と言われます。アンネとミープの心を思い浮かべながら、戦争・地震に見舞われている人々のために祈り、支援していきましょう。


柴田神父のお説教集


年間第5主日

ハビエル・ガラルダ 神父

2/5(日)10:00- 年間第5主日


 今日の福音と第一の朗読「イザヤの預言」をご一緒に味わいたいと思います。メインテーマは「光」にしましょう。「あなたがたは自分の光を輝かせなさい」。これについて考えましょう。


 真の光はイエス・キリストです。ヨハネ福音書が1章の9節にはっきり言っています。「キリストは真の光である。世を照らす真の光である」。真の光は私たちに言います。「あなたがたは、世の光である」。つまり、イエス・キリストは自分の火を私たちに灯させてくださるのです。


復活のろうそく カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 思い出しましょう。聖土曜日の夜の聖堂のカトリックの礼拝を思い出してください。真っ暗になっていますね。聖堂に人が入ってますが、暗い。そこで1本のロウソクが入りますね。それはイエス・キリスト、真の光です。イエス・キリストが私たちに、その火を灯させてくださる。私たちは一人ひとり、そのロウソクから芯を一緒にして火を取って火をいただいて、周りの人に下さったり、いつの間にか、暗かった聖堂が明るくなるのです。


 イエス・キリストは本当の光。その光を私たちに映すわけです。その灯させてくださる瞬間が大事ですね。ロウソクがあって、その芯に小さな芯を近づけてしばらく一緒にいて点くのです。つながるのです。それは祈り。私たちはキリストの光に近寄って、じっとして燃えるまで一緒にいる。それから輝かせて人に伝える。


 「光を輝かせなさい」。何のために光を輝かせるかというと、人に教えてあげるためではなく、目立つためでもなく、自己満足のためでもなく、人が神を仰ぎ見るためです。神に近くなるためです。あなたの良い行いを見て、人が励みを感じて、希望を感じて、自信を感じて、自分を愛である神に近寄りたくなる。そのために「光を輝かせなさい」と。


 もう少し考えましょう。光を輝かすということは何でしょうか。この福音にはっきり書いてあります。あなた方の立派な行いは、光を輝かすことです。良いことをする。それによって光る。良いこととは何でしょうか。それは自分で分かるのです。自分の状況で、自分の性格に、自分の可能性に、その精神状態に合うように良い行いがあります。自分で分かります。それを行うということです。


 一般的なことを言えば、第一の朗読の「イザヤの預言」はいい事例です。「飢えた人にパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかける」。これは、立派な行いです。


青空の鐘楼 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 思えば、マタイ25章にも、同じことをイエス・キリストは言います。「飢えている人に食べさせて、のどが渇いている人に水を飲ませ、見舞いに行って、家に受け入れて、衣をあげて」。同じことですね。


 神様が望んでいる断食、望んでいる立派な行い、イザヤの預言者の言葉が中心になると思います。人に助けを惜しまないこと。これは神が望んでいる行い。これは光を輝かすことです。人に助けを惜しまないこと。言い換えれば、人が助かるために人に仕えるという姿勢で生きる。


 あなたの周りに困っている人が多いですよ。人が助かるために人に仕えることです。というのは、純粋な愛が求めるのは、「私が人を助けることより、人が助かること」です。「私が人を助けることより、人が助かること」は純粋な愛が求めることです。ですから、頭を使っていいことをしなければならないのです。


 これは、果たしてこの人のためにいいことになるかどうか、今だけではなく、これからいいことになるかどうか、そこまで考えて人が助かるために人に仕えるという姿勢で生きるのです。


 言い換えれば、良いサマリア人の精神で、人生の道を歩き続けるということです。人生の道を歩きながら、右か左にだれか困っている人がいれば、その人を助ける。この姿勢で人生の道を歩き続ける。しかも、目に見えるケガだけではなく、目に見えない心の傷もありますね。目に見えない心の涙があります。目にまであふれ出てこない心に残る涙、その涙もわかってその人が助かるようにする。そして口まで出てこない声もありますね。いちばん悲しい言葉が心に残って口にまであふれ出ない。その言葉もわかって、その声もわかって、その人の心の傷を癒すようにする。


ミサの前のガラルダ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 その姿勢で生きることは、神さまが望んでおられる光の輝き方です。そして結果としてどうなるのですか。今日も、第一の朗読にイザヤが同じことを言います。まず、その人が助かります。私はその人のために何かをすれば、その人が助かります。これは第一の朗読の大事な、すばらしい結果。助かるだけでなく非常に喜ぶ。心が望む喜びで、心を満たす喜びで、その人が助かります。喜びます。


 そして、見ている人々は励みを感じます。私も、勇気も感じ、自信も感じる。良いことをしたくなるのです。愛に近寄りたくなるのです。神を仰ぎ見るようになるのです。周りの人たちも助かります。そして、私たちはどうなるのですか。「イザヤ預言者」が言います。「あなたは、このようなことをしたら、もし神さまを呼べば、神さまは『私はここにいる』と言われる」。


 あなたが困っているときには、あるいはうれしいときには、あるいは感謝したいときには、神さまを呼べば、光を輝かせていたならば、神さまを呼べば神さまは「私はここにいる」「あなたのそばにいる」。これは、最高の報いです。


 どんなことがあっても、神さまがそばにいてくださる。これは、最高の恵みです。では、私たちは、イエス・キリストからいただいた光を輝かすように願い求めましょう。



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