2023年1月 ミサ説教
1/1(日)10:00- 神の母聖マリアの祭日 関根 悦雄 神父
1/8(日)10:00- 主の公現の祭日 ボニー・ジェームス 神父
1/15(日)10:00- 年間第2主日 ヘネロソ・フローレス 神父
1/22(日)10:00- 年間第3主日 サトルニノ・オチョア 神父
1/29(日)10:00- 年間第4主日 関根 悦雄 神父
年間第4主日
関根 悦雄 神父
今日の福音はマタイの福音書の5章にある真福八端(しんぷくはったん)です。マタイの5章~7章には山上の説教という箇所で、イエスの教えがまとめて語られています。
これは、イエスが順番通りに話したというより、イエスがいろいろなところで教えた教えを、マタイがまとめたものと考えられています。
今日の山上の説教の最初、昔は真福八端と言われましたね。「本当の幸せは何なのか」を8つの事柄で示しています。皆さん、何度も聞いたでしょう。
「心の貧しい人々は幸いである」。これをどのように受け止めているでしょうか。エピソードをお話ししますね。
私がこの言葉を初めて聞いたのは、1968年でした。田舎から大学に来て、上智大学には当時宗教学が必修であり、宗教学のはじめのころの授業で、イエズス会のアイルランドの神父様が、これを読んだのです。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。
こともあろうに、キリスト教について何も知らないし、聖書を開いて見たこともない。そういうものが目の前にあったんです。「関根さん、どう思いますか」と聞かれて、困りましたね。でも、ちょっと考えて答えました。「心が貧しいというのが幸いというのは、おかしいです」と。「心は豊かである方が幸せなのではないですか。だから、ここで言う『心が貧しい人は幸い』だったのは納得できません」という趣旨の話をしました。
そのとき信者ではありませんでしたが、上智大学にはその年の前から学生紛争があって、そういうことも一つのきっかけになり、大学4年生のときに洗礼を受けることになりました。そのとき勉強した中でも、「心の貧しい人々は幸いである」というマタイの福音書を読みました。しかしそれからも、何度もこの話を聞いているのですが、十分に納得したかというと、だいぶん時間がかかりました。
皆さんは、これを聞いてからどのくらい時間が経っているか知りませんが、「心の貧しい人々は幸いである」。本当にそう思いますか。これが、この世の価値観とは違うということだと思います。幸いというのは、一般的には、人間の幸福追求によって得られる幸い。ギリシア的な理解で日本でも一般的にそう思われているでしょう。
ところが、神の国でいう幸いというのは違う。聖書的には、神から与えられる賜物としての幸いということ。このことは、しかしそれでも、「貧しい人が幸い」というのが本当に皆さん思ってますか。私は、だんだんとこれが本当だと思うようになりました。なぜかというと、イエスを見たからです。イエスの姿、イエスはこの世で人々の間にいたときに、どのようにしたか。彼は富を持っていましたか。違いますね。何も持たず神の国のことを人々に語り、弱い人たちを助け、弱い人たちを助けながら、「神に信頼しなさい。神から恵みが与えられます。神の国はあなたたちのものですよ」。このメッセージを伝えていった。
今日は真福八端ですので、8つの幸いが言われています。どれもこの世の価値観とは違う。違うだけでなく、全く反対のことだと思われるようなことばかりです。
心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人々、義に飢え乾く人。正義が行われないで、その正義が行われてほしい。それを本当に待ち望む人。
憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人。そういう人が幸いだという。
皆さん、これを求めますか。私たち一般的な社会、日本のような資本主義の国では、自分の思い通りになることがたくさんあります。貧しいのではなくお金も稼いで、いいものを得ようとしています。迫害されるなんて、とんでもない。
しかし、イエスを見ると、全部に当てはまると思うのです。「心の貧しい」というのは、解釈はそれほど易しくないと思います。ルカの福音書ですと、「心の貧しい人々が幸いだ」と言っているのです。イエスは何も持たず、すべてを天の父に委ねた。父親のものは天の父からいただく。この確信でもってやっていった。本当に貧しい人だったと思います。
「悲しむ人」。人々が悲しむのを見て一緒に泣いた。「柔和な人」。私は、この中で一番好きです。人の心につながっていける。そういう優しさのある人。
「義に飢え乾く人」「憐れみ深い人」。これはイエスが言い始めたということだけではない。今日の第一朗読でもいろいろ言われますね。
「主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきたこの地のすべての人々よ、恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ」と言われています。苦しみがあるのです。それに耐えることを求めてください。
答唱詩編の中でもこう言いました。「神はとこしえにまことを示し、貧しい人のためにさばきを行い、飢えかわく人にかてを恵み、捕らわれびとを解放される」。そういう人たちが大切にされる。これが、聖書の世界、神の国の論理だと言っていいと思います。
「コリントの教会への手紙」の中にもあります。「神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力的な者を選ばれました。また、神は地位のあるものを無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」。
ここから皆さんに少し訴えたい。神の国の論理、真福八端に示される価値観、幸福感、本当に自分のものとして生きていますか。また生きていこうとしているでしょうか。時間がかかるのはしかたがないと思います。でも本当の幸せ、真の幸せに到達するためには、この価値観を自分のものとして生きることが必要なのではないかと思うのです。
マタイの福音書では、今日の福音だけでなく来週もその次も山上の説教の中から出てきます。最初聞くと、びっくりすることばかりです。でも、それを理解するためにはやはりイエスの具体的な生きた姿を見てください。イエスの言葉を聞いて、イエスのなさったことをしっかり見て、そこに真実があるかどうかを私たちが見極める。これが大切なのではないかと思います。私たち一人ひとり、本当のイエス・キリストの弟子となることができるように。そして、神の国の価値観を生きていくことができるようになるために。
そのために、今日の御ミサでいっしょに祈りたいと思います。
年間第3主日(神のことばの主日)
サトルニノ・オチョア 神父
1/22(日)10:00- 年間第3主日(神のことばの主日)
今日の福音を理解するには、私たちにとっては少し難しい点があると思います。それは地理です。ご存じのとおり、4つの福音、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネでは、対象になる人たちが違います。
たとえばマルコの福音では、対象になる人たちはローマに住んでいるクリスチャンです。ルカの福音ではどちらかと言えばギリシア語を話しているクリスチャンです。マタイの福音はエルサレムとイスラエルに住んでいるユダヤ人で、イエス・キリストを信じるようになった人たちのためです。
だから、彼らにとってはゼブルンの地、ガリラヤの地は特別な意味があります。もしかしたら日本では、北海道や九州、関西は日本人なら特別な意味があります。フランスの人にはそれは説明しなければならない。
イエス・キリストは、洗礼者ヨハネが逮捕されたときに、イスラエルのユダヤ、エルサレムあたりにいられなかったので、少し北の方、ナザレに行ったわけです。
イエス・キリストはマタイによるとベツレヘムで生まれました。ベツレヘムはダビデ王の町で、エルサレムの神殿からベツレヘムには歩いて1時間で行けます。だから、ベツレヘムはエルサレムのそばの町です。とにかく、イエスは危なかったので、ナザレに行ってそこで育ったわけです。
新約聖書では、「ベツレヘムのイエス」と言われることは一度もありません。イエスはいつも「ナザレのイエス」です。十字架にも「ナザレのイエス」と書かれています。だから、あのときは「異邦人のガリラヤ」です。国境くらいのことで、その人たちはユダヤ人でも言えますが、セカンドクラス。エルサレムあたりのユダヤ人は本当のユダヤ人であるということがありました。
ゼブルンの地とガリラヤの地は、ヨルダン川を越えていますので、ある意味異邦人になります。だから、ユダヤのユダヤ人にとってはそれほど認められなかった。
イエスは異邦人のところに行って異邦人のために宣教します。イエスの宣教はエルサレムではない。イエスの宣教は、北の方、湖のあたりです。
そのとき、私たちにとって、異邦人であるとの誇りを持っていなければならない。「私たちのためにこの星が来た」。星に照らされているのです。私たちはセカンドクラスのクリスチャンではない。私たちはもしかしたら優先される人です。
もう一つのことがあります。イエス・キリストは湖のあたりで弟子たちを呼びます。呼び方は、日本の文化からすると失礼なくらいです。お招きではないのです。「もしかしたら、あなたはいかがでしょうか」ということではないのです。忙しい人たちですが、「私に従いなさい」と言います。その人たちは、すぐに仕事を辞めてイエス・キリストについて行きます。私たちは、あまりにも聖書を読みすぎたから、そのように感じられなくなってしまいましたが、また小舟で働いている二人にも「私に従いなさい」と言います。彼らは仕事も親も残して、すぐイエス様のあとについてきたわけです。
この預言者の呼び方です。「私はついて行きたいからよろしくお願いします」と求めているわけではないのです。私たちの常識とは違います。この人はピアノをよく弾いている人だけど、自分の腕を磨きたいなら先生を探すのです。いい先生を見つけると、先生のところに行って「お願いします」と言っているのです。
こちらは全く逆なのです。イエス様は「私に従いなさい」と言い、その人たちはみごとにその呼びかけの力を聞いて、何もしていないわけではなく仕事をしているのに、全部捨てて、そのイエス・キリストの声の力によって彼らはついて行くのです。
これは使命ですか。聖書では預言者が言われるときにはいつも預言者は遠慮します。「私は無理です」と。やはり預言者は、呼ばれたいからではなく、預言者は呼ばれたらすべてを捨てて神のみことばを宣べ伝えなければならない。
私たちにとっては、一人ひとりではそのようなこともあります。あるとき、わけもないくらい心の中で声が聞こえる。その声は優しい声ではなく、厳しい声です。「悔い改めよ」とか「それをしろ」とか。私たちは、自分の好き嫌いを乗り越えて、その声に従う。従わなければならないような呼びかけが心の中で感じられるようになります。
たぶん私たちは教会のため、あるいは家族のため、いろいろな意味で自分のミッションが入っています。そのミッションは、「イエス・キリストを宣べ伝える」ということです。
最後に、イエス・キリストを宣べ伝えるということは、ザビエルを宣べ伝えるということではない。パウロを宣べ伝えるということでもない。ザビエルはありがたい人ですが、ザビエルは私たちのために十字架につけられていない。パウロやいろいろな素晴らしい宣教師や先生はありがたいですが、私たちの先生はただ一人。イエス・キリストです。
パウロが言っているように、私たちの名によってあなた方は洗礼を受けていないのです。イエス・キリストの名によって洗礼を受けます。そうすれば、私たちもこのような気持ちで、私たちの主はただ一人。そのイエス・キリストを私たちの心に迎え入れることができますように。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」とあります。旧約聖書と違って、逆さまのような動きがあるのではないかと私は思います。モーセの言い伝えは、約束された国に入るために砂漠に行くのです。マタイの福音では、全く逆ですね。あなたがたが行くのではなく、「天の国が近づいた」。私たちにとってはいったいどんな意味ですか。イエス・キリストは私たちの世界、私たちの一人になって来たということです。私たちが出ていくということより、私たちは自分の心のドアを開けて、イエス・キリストが問題なく妨げもなく私たちの心に入ることができますように。
「天の国が近づいた」。天の国はイエス・キリストそのものです。イエス・キリストは私たちの一人になった。それで、私たちは喜んでイエス・キリストを迎えることができますように。
年間第2主日
ヘネロソ・フローレス 神父
今日のミサの聖書朗読は、ものすごく豊かです。それは、イエスが洗礼をいただいたとき、ヨハネは水だけです。けれども、ヨハネが見たのは、天から鳩の形で聖霊が降ってイエスにとどまったということでしょう。
今日の福音書は、私たちにとって洗礼のことを少し深く心の中で思いを巡らして、その素晴らしさを味わうということです。
イエスが洗礼を受けたときに、聖霊は鳩の姿でイエスに降ってとどまったわけです。それはヨハネが証しした。神の子であるということですよね。
私たちは皆さん同じことです。私たちの洗礼のときには鳩はなかったですね。見えるのは、注がれる水だけです。司祭は、「父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授ける」と言います。
三位一体という家族は、注がれる水の形で、聖霊が我々の心に入ってとどまってしまう。これは皆さん、ときどき人間の限界ですね。慣れっこになるということでしょう。考えないとか、気が付かない。認識しなければならないですよ。
今日はこのような恵みを願いましょう。私たちはいただいた聖霊、これは、神の愛ですよ。神の力、神の命。それをいただいたということを認識する。今日は、恵みを願いましょう。
私自身は幼児洗礼だったので、なおさら慣れっこになってしまいます。私は、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けられたときに、私は、神の子ども。神の三位一体の家族の中に入れていただいたということでしょう。洗礼を受けた皆さん、同じことです。神の家族、三位一体の家族の中に私たちは入れていただきました。だから、みんなは兄弟、姉妹です。
教会は神の家族であって、我々は兄弟、姉妹である。だから、イエス様がいる前は十戒がありました。今度は、新しい掟を与えます。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。
神は愛です。そして、私たちはその子ども。その息子、娘になっています。だから、復活されたイエス・キリストは兄貴です。長男です。これを再認識する恵みを願いましょう。
水を注がれたとき、私たちは何をいただいたか。聖パウロが言うように、私たちにたまわった聖霊によって神の愛が私たちの心の中で、あふれ出ている。
皆さん、神の愛はあふれ出るほど私たちに注がれています。洗礼によって私たちは無限に愛する能力をいただいています。これを認識する。私たちは無限に愛する能力をいただいています。
ときどき私は言われます。「『敵を愛する』と神父様は言うけど、私は赦せない」。できます。私たちの心には、あふれ出るほど神の愛を注がれていますから。これを認識して、思いめぐらして、それを味わう。そして、それを感謝する。
今日は、自分の洗礼のことを深く思いめぐらして。私たちには無限に愛する能力がある。大きな恵みです。そして、人生が変わる。これを願いましょう。
あふれ出るほど神の愛が、あなたの心に注がれています。それを認識するよう願いましょう。願えば、与えられます。
主の公現の祭日
ボニー・ジェームス 神父
クリスマスが終わり、第2週目になりました。
今日は、聖書の中で博士たちの話が読まれました。この博士たちは、聖書の中で、占星術の学者たちと名前をつけられています。学者たち、あるいは博士たち、王たちとも呼ばれています。この博士たちの祝日ですが、場所によって、この博士の日はとても重要なお祝いの日となります。
私たちがよく知っているのはサンタクロースなのですが、私たちにクリスマスのときお土産を持ってきますね。皆さんもこの前クリスマスのとき、ミサの中でサンタさんからお土産をもらったと思います。場所によっては、サンタさんではなく博士たちがお土産を持ってきます。そのような習慣があります。クリスマスの日、3人の博士がやってきてお土産をあげるところがいろいろな国であります。
その元となる理由は、今日の福音の中で出てくる贈り物の話なんですね。この3人の博士は3つの贈り物を持ってきたと書いてあります。その贈り物の名前ですが、一つは黄金、もう一つは
この3つの贈り物の意味は何でしょう。とても深い意味があるそうです。黄金は
金を持ってきてイエス様にあげたということの意味は、イエス様が王であるという意味なんですね。王であるというと、何の王でしょうか。私たちは、王であるというとすごい力を持っている王様とか、そういったことが頭に浮かんできますね。
でも、イエス様が力を持っていましたか。イエス様は本当に小さな赤ちゃんの形を通してお生まれになりましたね。赤ちゃんはそんなに力を持っていないですね。どちらかというと、人間のいちばんいちばん力の弱いときなんですね。だれもが赤ちゃんというときを経て今にいたっていると思いますが、人の助けがないと生きられないときなんですね。その赤ちゃんを王としてあがめるんですね。
もう一つの意味は、その当時いろんな王たちがいて、人々が王様の権力の下にあって苦しんでいたわけです。ローマ帝国の王様とか。その当時たくさんの人たちが、その王様からの解放を求めていた。だから、みんなを救ってくれる王様を待っていたわけです。それをイエス様に見出したわけです。だから、黄金を捧げるということが「イエス様が私たちの王である」という意味なんですね。
それから2番目の乳香というのは、簡単に言うと
1番目は「イエス様が私たちの王である」という意味、2番目は「イエス様が私たちの神さまである」という意味なんです。私たちをよくしてくれるとか、改心をもたらしてくれる、あるいは私たちの罪を赦して清くしてくれる。そういった意味にもとることができます。
そして3番目は没薬。これはあまり皆さん見たことがないかもしれないですが、この没薬というものが昔、人が亡くなるときに使うものでした。どういうふうに使うかというと、ご遺体を葬儀まで保つ薬でした。でも、この没薬をイエス様にクリスマスのとき捧げるというのは不思議なんですね。
黄金と乳香はわかりますが、没薬をどうして捧げたのでしょう。人が亡くなったときに使うものを、イエス様が生まれたときにどうして捧げたのでしょう。そこに、キリスト教の大きな一つの意味が含まれています。それが、イエス様が王であり神さまでもあるにもかかわらず、私たち人間と同じ体を持って、人間と同じように歩み、人間と同じように「死」というものを経験する。死ぬものであるという意味が含まれているんですね。イエス様が十字架の死を経験するわけですね。そういう意味も含まれています。
イエス様に捧げた3つの贈り物は、イエス様がどんな人であるか、あるいはどんな存在になるのかという意味を持つものでした。イエス様が王であり、神さまであり、そして人間でもあったという話ですね。なかなかわかりにくい話だと思いますが、これがキリスト教の基本となる教えでもあります。
だれか友だちに「なんでイエス様のところに日曜日に行ってミサをするのですか」と聞かれたら、イエス様がどんな人であるのか説明ができると思います。3つの贈り物のことを思い出すと、「イエス様が王であり神さまであり人間である」と簡単に言うことができると思います。こういう3つの捧げものを捧げたわけです。
私たちはクリスマスに、みんなにプレゼントをあげるときがあります。いちばん大きなプレゼントは何でしょう。私たちにとってイエス様が私たちのところに来てくれたというのが、神さまからの大きなプレゼントです。
それに対して、私たちのプレゼントは何でしょうか。それは「感謝」ですね。神さまが私たちのところに救いのためにこの世に来てくださったという話ですね。その「感謝」をいちばんよく表すのはどこですか。それはミサですね。実は、ミサのもう一つの言い方は、「感謝の祭儀」です。ミサは感謝そのものです。だから、今皆さんがこうやってここに集まっているということの一つの大きな意味というのは、感謝をささげるために来ているということです。
何のための感謝でしょうか。たくさんいただいた恵みのための感謝。そして、ある人にとって、それほど恵みがないとか思われるときがあると思います。でも、考えてみると、さまざまな形で、私たちはたくさんの恵みをいただいたと思います。昨年は、いろいろなたいへんなこともありましたけど、でも私たちは周りを通して、お父さん、お母さん、友だち、リーダーたちを通して、たくさんの恵みをいただいたと思います。そのすべての恵みに感謝するというのは、この日のいちばんの大事なポイントではないかと思います。
私たちも、この感謝の心を持つように、博士たちと同じようにイエス様に感謝の心を持って、ミサの中でお祈りしたいと思います。
父と子と聖霊のみ名によってアーメン。
神の母聖マリアの祭日
関根 悦雄 神父
今日は、神の母聖マリアの祝日ですが、神の母マリアについて、皆さんには十分伝わっていることと思います。イエスの母となったマリアは、キリストの母、そして神の母という称号を受けました。そして、このマリアは私たち一人ひとりの母でもあります。教会の母、そして私たち一人ひとりの母。
ですから、このマリアの態度から私たちは大事なことを学ぶことができると思います。それは、今日の福音の言葉にあった「マリアはこれらのできごとを全て心に納めて思いめぐらしていた」。何を意味するのか、それをしっかり理解しようとした。神のメッセージは何であるのか。
「わからない」と言ってあきらめるのではないのです。すぐわかることではないかもしれない。ですから、そのできごとはどういうことなのか、この世界の状況の中で、思いめぐらしていた。これは、私たちが学べることではないかと思います。
さて、最初にもお知らせしたように、今日は世界平和の日でもあります。毎年、教皇は世界平和の日に向けてメッセージを出しているのです。今日はそれを紹介したいと思います。
2023年もよろしくお願いいたします!