2023年11月 ミサ説教
11/5(日)10:00- 年間第31主日 ハビエル・ガラルダ 神父
11/12(日)10:00- 年間第32主日 柴田 潔 神父
11/19(日)10:00- 年間第33主日 髙祖 敏明 神父
11/26(日)10:00- 王であるキリストの祭日 ハビエル・ガラルダ 神父
王であるキリストの祭日
ハビエル・ガラルダ 神父
11/26(日)10:00- 王であるキリストの祭日
非常に大切で中心的な福音です。最後の審判。王であるキリストが、天使たちをみな従えて栄光の座につく。何か一見ではものものしくて怖いくらい。しかも審判のために来ますので、若者の言葉で言えば「やばい」。これはやばいです。でも、これは結局は私たちの人生の評価ですね。人生の評価、今からそれを考えればいい。
評価するために何かの基準が必要ですね。では、イエス様は何を基準にして私たちの人生を評価してくださるでしょうか。それは当たり前です。キリストの掟です。「互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。この掟こそ基準になります。あなたを必要としていた人に対しては何をしたんですか。無視したんですか、それともできるだけのことをしたんですか。それです。これは基準になります。しかもこの試験には一問だけしかないんですね。一つだけ。
でも私たちはミサにも来てましたし、洗礼も受けました。はいはい、それはよろしい。大変よろしい。けれども人を大切にしたかどうか。あなたを必要としていた人に対してどういう態度をとったんですか。それだけ知りたい。それを知っていればあとは全部わかります。先生は試験の時にはできるだけこのような質問を選びますね。この問題に対して生徒が正解、正しいことを答えれば、全部わかっていると認めてもいい。これがわからなかったら何にもわかっていない、ということになります。このような質問です。愛し合いなさい、ということです。しかもこの質問はもうすでに発表していますね。だからもう準備しておいていいです。
そして考えてみれば、あなたが悪いことをしたかどうかということよりも、あなたがすべき良いことをしたかどうかという質問ですね。悪いことをしたということはもちろんいけないけれども、それだけではなくて、すべき良いことをしたかどうか。善を行わないのは悪を行うことになります。考えてみれば厳しいですね。ですからあなたは人と分かち合いをしたかどうか、あなたのお金と食べ物と友情と時間など、分かち合いしたかどうか。赦しましたか。その人が赦しを必要としていた時に、あなたは赦しましたか。譲りましたか。話し合いしましたか。厳しい質問ですね。善いサマリア人のたとえ話もそうですね。一番目と二番目の人は悪いことをしていない。ただ、良いことをしなかったから問われるのです。すべきことをしたかどうか。
そして最後に、その基準にはこの特徴があります。「この人たちに、最も小さな人々のためにしたことは、つまり私のためにしてくれたのである」。これは大きいですね。これで明るくなります。ものものしいところがすごく明るくなります。厳しい王様と思われた方は、結局愛してくださる神様です。愛に満ちる王様です。というのは、その人に良いことをしたら私がその人の喜びを感じ、その人に対して良いことをしなければ、私はその人の寂しさと苦しみを感じます。愛によって一緒になっているので、相手のことを外から見るのではなくて、相手の喜びと苦しみを自分で感じるほどです。
たとえば中学生の女の子がちょっとけがして入院しているとしますね。お母さんは隣に座っていて、友達が来るんです。娘と仲良く、喜んで笑っているんです。そのお母さんはわかっています。この子は私のために来ていないんです。娘のためです。でも娘の喜びを見て私が喜びます。娘の喜びは私の喜びになります。愛によって一緒になっているのです。このことですね。イエス・キリストはそう言うんです。ですから厳しい、やばいのではなく、憐れみ深い王様、この世の中で悩んでいる一人でも多くの人間がいやされることを本気で望んでいる神様、王様です。この王様を誇りに思って、私たちもキリストのように、キリストとともに生きることを願い求めましょう。
年間第33主日
髙祖 敏明 神父
ただいま読み上げました福音「タラントンのたとえ」というタイトルで私たちに知られている箇所です。
与えられたタレント、このタラントンがタレントという言葉の語源だと言われていますが、私たちに与えられたタレントを活かしてその成果を上げたかどうか、それがやがて清算する日・判定される日が来ますよ、という大きな枠組みがあるかと思います。
皆様が持っていらっしゃる「聖書と典礼」の下の方に解説もございますが、1タラントンというのは6000デナリオン、1デナリオンは1日分の給料だと言いますので、約20年分の賃金だというふうに説明してあります。仮に年収を500万円だとしますと、この金額は1億円ということになります。
そうすると5億預かった人、2億預かった人はそれを活用して、すると同じだけの成果を上げた。それに対して、主人は「お前は少しのものに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21)というこの清算と判定が行なわれる。一方、1億預かった人、この方は地面の中、土の中にこのお金を隠す、そして清算のときに「これがあなたのお金です」と差し出して言うんですけれども、主人の方は「怠け者の悪い僕だ。さあ、そのタラントンを取り上げて云々」(マタイ25:26-28)というふうにして厳しく裁かれます。
5億・2億というと私たちからすると多くの本当に大きなお金だと思いますけれども、この聖書の中で「少しのもの」という表現をされていますのは、考えるに、主人と共に喜ぶ祝宴の大きさを際立てるためかな、というふうに思います。他方、土の中に保管していた、これは自分に与えられた恵み、タレント、タラントンを活用しないことの象徴として描かれているようです。主人は成果に厳しい人だと考えて、自分が預かった資産の大きさ、責任の重さから冒険に足を踏み出すことができない、あるいは清算されるときに預かったお金をそのまま返せば自分は安泰だろう、というふうに考えたのかもしれない。それに対して主人の方は「外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ25:30)という厳しい言葉が返ってまいります。
このタラントンのたとえの中の5億・2億の成果を上げた人、これは第一朗読の有能な妻の話と結びつけて読むことができるように思います。
第一朗読のところにございましたように「彼女は生涯の日々、夫に幸いをもたらすが、災いはもたらさない。手ずから望みどおりのものに仕立てる」(箴言31:12-13)というふうに書いてございます。しかしこういう箇所を読むと、心のどこかである種の小さな反発も感じます。こそばゆくなるような理想句を並べられてもちょっと困っちゃうな、という感じの反応、あるいは、では立場を変えて、妻のことを褒めているけど夫はどうなの?という形で問い返しをしてみたいような、そんなふうな気持ちも一方であります。私自身この箇所を読んで感じた1つがそれでした。
2つ目に感じたことは、人間は人間として平等だけれども、生まれとか、与えられた恵み・タレント、あるいは育つ環境などから見ると、不公平だと。人間としては平等なんだけれども、生まれは不公平だ。実際に力に応じて5タラントン・2タラントン・1タラントンと書かれていますけれども、私たちの毎日の生活の中でも、生まれた家庭環境、その家庭を含めた持っている経済的な基盤であるとか、文化的な資本だとか、そういうものによって、その子どもの将来の開き方がずいぶん変わってきているというのは、私たちが日常的に体験しているところです。
ただ、私たちの聖書も信仰も、そういう自分に与えられたタレントや恵みを自分のための恵みとして自分の成功のためだけに使うのか、それとも、他者と分かち合い、他者に奉仕するため、他者と共に一緒になって成長するための恵みとして捉えるのか、この辺が問われている点だと思います。与えられた恵みを人々と共同体に相互に与え合い、共同体全体が成長し成熟していく。この共同体は、家族であったり、教会共同体であったり、社会であったり、もっと広く考えれば世界全体ということも言えるかもしれません。その意味で、数日前の平日のミサの知恵の書にありましたけれども「上に立つものは厳しく裁かれる、力あるものは力による取り調べを受ける、多く与られた者はその責任を多く問われる」(知恵6:3-6)ということを知恵の書はまた教えています。
3つ目に私が今日のこの朗読から感じ取ったことは、この1億を預かった人が、ご主人が怖い人だからということを知っていて、その怖さに冒険できなかったということを申し上げたのですけれども、私たちは自分自身の考え、自分が身につけた尺度やはかりによってはかり返される、ということです。「私が蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集めることを知っていたのか。それならこうすべきだった」(マタイ25:26-)という形で、と言われるのですけれども、私たちの日常生活あるいは周囲の人との関わりの中で、自分の思い込みによって自分の可能性だとか自分の未来を狭めているということよくあります。知らず知らず自分で自分を縛り付けている。聖書を聞いたり、人と話したり、いろんな体験することを通して、自分が捉われていた小さな世界にいたということから抜け出ることはよくあります。
「あなた方は自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7:2)これはマタイ福音書の山上の垂訓の中にある言葉です。あなた方は自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。自分の思い込みによって自分を縛り付けるということが一方にあれば、福音書の中にいろいろな癒しの場面がありますが、その癒しの場面の結びにイエス様が仰るのは「あなたの信仰があなたを救った」あなたのその思い・心の広さが自分の救いを引き寄せたのだ、ということを仰っています。ですから自分の尺度によってはかり返されるという点では、人間は公平なのかもしれません。しかしこれは厳しい現実でもあります。福音書の中の「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが云々」(マタイ25:29)というところが何かちょっと文脈から言ってよくわからないなと私は思っていたのですけれども、自分の尺度によってはかり返されるという点から見ると、これは誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人、自分の可能性や自分の未来を自ら狭める人は持っているものまでも取り上げられる、というふうに読むとするならば、非常に私たちに対するメッセージになっていると思います。
つまり、自分で自分を縛っているところから解放しなさい、自分を解放するのですよ、それによって自分に与えられた恵みをより活かすことができるという、そういう生き方への招きというか、そういうふうに見ることができるかと思います。
今日の3つの朗読は、お聞きになられた通り、終末、主の日、主の清算される日、私たちの人生を清算される日・判定される日に向かって、現在をどう生きているか、それが大事なんですよ、それが問われていますよ、という大きなメッセージになっているんだと思います。
今日の私が感じた3つのことになぞらえて申し上げますと、1つは、自分に与えらえたタレント・恵みをどのように活かしていますか?という問い。2つ目は、それを他の人のため・共同体をより良くするために使う・奉仕していますか?3つ目は、自分が人生の中で身につけている尺度は何ですか?それをどのように使って人々を見ているか・出来事と関わっているか、自分自身をどういう尺度で見ているか、神様をどういう尺度で私たちは見ていますか、という、そういう問いがかけられているように思います。
パウロは私たちを励ましています。「しかし、兄弟たち、あなた方は暗闇にいるのではありません。あなた方は光の子、昼の子だからです。従って、眠っていないで目を覚まし、身を慎んでいましょう」(一テサ5:4-6)というふうにパウロは勧めています。今の私にとって目を覚ましているとは何を意味しているのか、身を慎むとは何を示唆しているのか、本日のこの御言葉・聖書の言葉が招くメッセージとして、それぞれ自分の心に感じることを味わい深めたいと思います。そして、その気づきを祈りとして捧げ、気づいたことを実行できますように、お祈りを捧げたいと思います。そして、聖書が持っている知恵を、私たちもそのいくつか・いくらかでも味わい、自分の人生の糧とすることができますように、それを通して、やがて来る清算する日・判定される日に備えることができますように、心を合わせてお祈りしたいと思います。
来週は「王たるキリスト」の祝日を迎えます。そういう終末に向けての今日のすすめの言葉を、私たちも正面から受け止め、私たちの祈りとして捧げたいと思います。
年間第32主日
柴田 潔 神父
11/12(日)10:00- 年間第32主日
今、朗読されたように、今日は、賢い乙女と賢くない乙女のたとえ話です。この箇所を読んだ時、神父さんは「あれ?」と思いました。「賢い乙女はせこいなぁ。ケチだなぁ。 “油” くらいあげたらいいのに!」と思いました。教会学校のお友達はそう思いましたか?(一部の子どもが手を上げた)ケチだと思った人もいた、はい、ありがとうございます。どうして “油” はあげられなかったのか。今日はそこを考えます。あげられない “油” とは何なのか、です。
イエス様が「こうなってほしい」と思った国を「み国」と言います。「神様の国」です。どうしてそうわかるかというと、イエス様は聖書の中で100回くらい「み国」「神の国」と言っているからです。
拝領の歌 “マラナタ”でも「主のみ国が来ますように」と歌います。「み国」「神様の国」をどうしても作りたい、イエス様はそう思っていました。
では、どうしたら神様の国はできるのか?
昨日の夜、神父さんは路上生活、お家がなくて外で暮らしている方のところへ行ってきました。(白いおにぎりを子供たちに見せながら)わかりますか、これが何だか?(子ども「お米」)何、お米?ああそうね。(おにぎりを握るジェスチャーを子供たちに見せながら)お米を炊いて?炊いて、結んで、何かできる?おにぎりができる、そう、おにぎり。おにぎりをね、渡してきました。
「四ッ谷おにぎり仲間」って、みんな知ってる?「四ッ谷おにぎり仲間」に一緒に入れてもらいました。この「四ッ谷おにぎり仲間」は、10年以上前から、毎週土曜日の夕方、100人くらいの路上生活の方に、おにぎりをお配りしています。大きいおにぎりをね。このおにぎりを作るためには、何が要りますか?(子ども「お米」)そう、お米。米。(10キロの米袋を持ち上げて見せながら)これ持ってみる?ちょっと持ってみよう!(子どもに持ってもらった米袋が開いていたらしく、米が溢れだすハプニングが発生)この米は修道院からちょっと借りてきたのですが、ひょっとすると口が開いていたのかもしれません。ハプニングが起きてしまいましたが、お米は無駄にしちゃいけないからね。後で洗って神父さん食べようと思います。
このお米は、天から降ってくるわけじゃなくて、プレゼントしてくれる人がいます。この10キロのお米を、教会に持ってきてくれたり、送ってくれる方がいます。「四ッ谷おにぎり仲間」には、5つのグループがあって、献米グループ、献米班、お米をどうぞプレゼントしてください、それでプレゼントしてくれたお米を大事にとっておく係の人がいます。みんな、このおにぎりに、もう一つ何かあったら美味しくなるかなっていうの、わかる?(子ども「昆布」)昆布?!昆布はちょっと用意してこなかったけど。(焼き海苔を見せながら)これわかりますか?(子ども「海苔」)そう、海苔!海苔とか、それから梅干しとか。あるともっと美味しくなるよね。だからお米の他にも、海苔とか梅干しを寄付していただけるととても喜ばれます。
それでこのお米はそのまま路上生活の人にプレゼントはできないから、炊いて、おむすびにする、制作チーム、おにぎりを作る人たちがいます。毎週土曜日1時くらいパントリーでね、夏は汗びっしょりになりながら、おにぎりを作ってくださいます。そして訪問チーム、昨日は5つくらいのグループに分かれたのだけれども、あの東京駅とか、あの銀座とか、色々なところに分かれて、お茶の水とか、秋葉原とかに配りに行きます。
それでその時に「お元気ですか?」「何か困っていることはないですか?」そういうふうにききます。「私はコロナのワクチンを受けたい」と言われたときに「ああそうですか、じゃあ頑張ってくださいね」だとね、ちょっとワクチン打てないかもしれない。福祉班、福祉チームの方が「わかりました、では、千代田区はこういうふうにしたらワクチンが受けられますよ」と窓口まで一緒に行って、会場までお連れして、ワクチンの接種が受けられるように、お手伝いをしてくれました。それから「生活保護」と言いますが、国が困っている人の生活をお手伝いしましょうというシステムもあるので、その「生活保護」が受けられるようにもお手伝いをしています。
その他にも編集班といって、「おにぎり通信」という最近のニュースをお伝えする、その新聞を作ってくださる方もいらっしゃいます。
「四ッ谷おにぎり仲間」には5つのグループがあります。たくさんの方が準備して、協力して、おにぎりが配られています。 このおにぎりは、どうぞとポンとお渡しすることもできますが、「四ッ谷おにぎり仲間」というグループはポンとは渡せません。10年以上頑張って、毎週毎週頑張って作ることができたものなので、ポンとはお渡しできません。
聖書のお話に戻ります。
分けてあげられない“油”、それは「み国」「神様の国」を作りたいという強い想いと頑張る力だと思います。この頑張る力はね、ポンとね、おにぎりみたいに分けてはあげられません。賢い乙女は、頑張る力、「神様の国」を作りたいという憧れと強い願いを持っていました。
「四ッ谷おにぎり仲間」は賢い乙女だと神父さんは思いました。分けてあげられない “油” をしっかり持っています。イエス様が憧れた「み国」「神様の国」を作るためにずっと用意して頑張っていました。
他にも “油”を持っている活動グループがあります。今日のこの御ミサも、御ミサチーム、手話チーム、たくさんの方が、教会学校のリーダーが、心を合わせて、「神様の国」のミサを作りたいと思って頑張っています。明日、月曜日は「カレーの会」といって、みんなが好きなカレーを200人分用意してお配りしているグループもあります。
神父さんが大事に育てているカブトムシも、東日本大震災が始まった2011年から来年でもう13世代目です。準備する人、お手伝いする人が増えて、だんだんと広がっています。
今日のまとめです。
賢い乙女たちは「神様の国」を作りたい強い気持ちをずっと持っていました。賢くない乙女たちは、その “油”がちょっとなかったのだね。今日ここに集まっている私たちは、「神様の国」を作りたい、そういう強い想いをずっと持って、み国を作るお手伝いをしていきましょう。
年間第31主日
ハビエル・ガラルダ 神父
人の前に豊かな人間になるよりは、神の前に豊かな人になってみましょう。人に見せるために、人の前に褒められるために、得するために、感謝されるためにするのはすごく楽しいことです。誰だって求めることです、どうしても。見られて褒められる、感謝される。それは嬉しいけれどもむなしい。というのは、自分の心の中では、これは嘘だとわかっているからです。言われますね。「天知る、地知る、我知る」。人に褒められていても、神様も、そして自分の深いところの自分がわかっている。これは嘘だ、これは偽善だ。痛くなるほどむなしい。
アルバート・カミュの「転落」という作品がありました。その主人公は誠に評判の良い人でした。若い弁護士で、頭の切れる人で、仕事としても人間としても非常に評判が良かったんです。貧しい人のためにただで仕事をしたりして、いつも優しい、いつも心の良い素晴らしい人間だと思われていたけれども、彼は心の底で非常に悩んでいました。その評判についていけないとわかっているから。嘘だとわかっていたんです。矛盾ですよ。すべては偽善です。すべてのことは褒められるためです。しかも、ひどいことをしたのに後悔しなかった。誰にも言っていない。ですから嬉しいけれどもむなしい。
それとは反対に、神の前に偉い人になるのは本物です。それを狙いましょう。マタイ6章にイエス・キリストが仰る言葉ですが、「あなたが祈る時にも、施しをする時にも、断食をする時にも、隠れたところにおられる神に向かってしなさい。そして隠れたところにおられる神が、隠れた行いをするあなたに報いてくださるであろう」。これですね。しかしマタイ5章では、イエス・キリストはこれにちょっと見れば反対の言葉を仰ることもあります。「自分の光を人の前に輝かせなさい」と言うんです。これは前のと矛盾してるんじゃないですかと思われるけれども違います。ですから、私たちは偉い人になってみるのは素晴らしいことです。時々カトリックは、謙遜であればいい、目立たないようにしていればいい、と。それは嘘ですよ。向上心が必要です。自分の光を人の前に輝かせなさい。偉い人になりなさい、自分なりに。
ところが何が違うかというと、神の前に偉い人になるとは何かというと、違うのは目的と姿勢です。何のために偉い人になりなさいと言われるかというと、それは仕えられるためではなくて仕えるためである。人に仕えることができるために偉い人になりなさい。役立つ人になることができるために、偉い人になってみなさい。自分の才能を全部実行してください。自己実現しなさい。目的は違う。自分が褒められるためではなくて、みんなが私の良い行いを見て、私の光の輝かしを見て、神を仰ぎ見ることができるためです。神に近寄るために、あなたは良いことをしなさい。あなたの良い行いを見る人は、神を仰ぎ見る、神に近寄ることになるのです。そのために良いことをしなさい。自分が褒められるためではなくて。
しかも考えてみれば、光を輝かせなさいと言われるけれども、みんなが光を見ないんですね。眩しくて。地面を見ている。地面を、道を見ている。光を利用して、照らしてくださる道を歩いている。光を褒められない。でも、その人が仕えると助かる。仕えられる。助かる。歩くことができるためです。ですから1つは目的が違う。人の前にするのか、神の前にするのか、目的は違う。
もう1つは姿勢も違う。ですから人を見下さないで、威張らないで、謙遜に目立ちなさい。謙遜に偉い人になりなさい。結局、稲穂のようになればいい。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」、素晴らしい俳句ですね。実るほど頭を垂れる。豊かさの上で謙遜になります。本当の価値のある人は、その豊かさの重さの上で自然に頭が下がる。わざわざ謙遜になろうとしないで、その重さの上で自然に謙遜になります。イエス・キリストはこの俳句を知っていたならば「こうだ、これだ、これだ」と言ったでしょう。その謙遜がいいですね。無理しないで自然に豊かさの上で。それとは反対に実らない稲穂は、ビョーンとそびえて偉そうなことを言うんですね。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。では、私たちは人の前に偉い人になるよりは、神の前に偉い人になることを願い求めましょう。