2024年1月 ミサ説教
1/1(月)0:00- 神の母聖マリアの祭日(深夜ミサ) ボニー・ジェームス 神父
1/1(月)10:00- 神の母聖マリアの祭日 ハビエル・ガラルダ 神父
1/7(日)10:00- 主の公現の祭日 ハビエル・ガラルダ 神父
年間第4主日
酒井 陽介 神父
1/28(日)10:00- 年間第4主日
今日の福音の中で一つの大切なテーマとして挙げられているのは、権威ある者ということだと思います。人々は、今まで誰にも感じたことのないような権威と、そこで語られることの新しさを非常に強く感じたんですよね。イエスという人物とその教えが、今まで自分が知っていた権威とは異なるんだ、そんなことをはっきりとわかったんです。
このギリシャ語の本文の言葉はエクスシアという言葉で、それはこの新約聖書の中、福音書の中、新約聖書の他の手紙でもかなりよく使われる言葉なんですが、それは権威とか権能、力量とか支配、支配者というような訳で使われます。そんな意味合いがある言葉なんですが、イエスの言葉と振る舞いは、自分たちがよく知るこの律法学者やファリサイ派など、その当時の社会的、宗教的な権威を持っていた人たちの権威とは随分違う。彼らとは違う権能を持ち、力量がある。そんなことをきっと彼らは悟ったというか、理解したんだろうと思います。それは何か特別に与えられた権威だ。そんじょそこらのものじゃないということかもしれません。
さて、ここで少し考えてみたいのは、権威とか権威的というものと、権威主義的という言葉、この違いを見ていきたいと思います。前者はこの福音書や聖書の中では、神から与えられたもの、または委託された権威ということです。後者は、いわゆる権威主義的というものは、我々がどこかしがちな態度と言えるかもしれません。場合によって、何か高圧的になってしまったり、今でいうマウントを取ったり、平たく言えば偉そうにしたりと、それはその多くが自分には本来ないものであるにもかかわらず、あたかも自分のものかのように言ったり、また自分の知識とか経験をひけらかしてしまったりという、そんな行為を指します。上から物を言うとか、押しつけがましく言ってしまうとか、私たちも気をつけなければついついそうした態度を取ってしまうことがあるかもしれません。 第一朗読では、神が選び立てた預言者の務めと、その声に耳を傾けるべき民について語られています。またその反対も言及されていて、「その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」。かなり強い表現が使われていますが、それくらいですね、神によって権威を授けられた人間は、自分の好き放題な振る舞いではなく、きちんと神の心を伝えているかということ、それを意識しなければいけないということだと思います。その意味でも私たち司祭や司教など叙階を受けた者たちの振る舞いというもの、また言葉は本当に神の心を分かち合っているんだろうか。神の思いを伝えているんだろうか。一緒に神の御心を探しているんだろうか。はたまた、自分勝手な言動や自分勝手な思いを押し付けてしまっているのか。そんなことを、私たちは特に振り返らなければいけないと思います。それは決して簡単なものではないわけです。
だから第二朗読でパウロは、ひたすら神のことに心を遣う者、ひたすら神に仕える者、その意味合いを説いているんだと思うんですよね。そのコンテキストの中でこの第二朗読も読むと私たちに迫ってくるものがあると思いますし、ひたすら主のことを考える、主に仕える。すごくチャレンジがあるんです。決して簡単なことではないわけですが、それでもやっぱりこの私たちのありようということを考えるヒントがここにたくさんあると思います。
イエスが身をもって教える権威、それは仕える者という態度です。これがイエスの持つこの新しさの本質ですよね。かしずかれたりチヤホヤされたりすることに安住して、あたかもその権威が自分にあるかのような態度を持つのではなく、自分が膝を折り、腰をかがめ、支える側、寄り添う側に回れるかというのは、何も司祭や司教だけの話、修道者だけの話ではなくて、キリスト者がイエスから学ぶことのできる、イエスの示した本当の意味での権威ある者が示すことのできる仕える者の姿です。
それは別の言葉で言えば、分かち合うという表現でもいいかもしれません。ただ、ここも少し注意しなければいけないのは、押し付けや独りよがりではないというポイントがある、ということですよね。ちゃんとコミュニケーションをとっているか、信頼関係を結べているか、赦し赦される関わりを生きているか。そして何よりもまず、相手の生きているスペースとかペースをリスペクトしているか、土足で上がり込むようなことはしていないかということを考えること。意識的にそう振る舞うことは大切かなと思うんです。どんなにこれ素晴らしいことだから、これいいことだから、これしてあげたいから、という分かち合いたい気持ちが大きくても、どんなに素晴らしい考えや体験であるというふうに思ったとしても、人間が考えている以上、そこに決して絶対的なものはないわけです。本当に大切なことならば、またそれが神の御心に沿うものであるならば、焦らずとも相手のスペースとペースの中でちゃんと伝わっていったり、受け止めてもらえたりするものです。
イエスの権威には神が働いている、ということを人々は理解しました。そして驚いたわけです。その権威は人間がひけらかす類のものではなく、神の国の到来を告げたいと思う他者に向けられ、その他者に関わること、仕えること、そういうことで初めて生きてくる権威です。それは勲章とかトロフィーのようなもの、また学歴とか地位などで測れる権威ではないということです。前者は神から来る権威、神に委ねられた権威、神から託されたもの、賜物です。しかし後者は、もちろんそこには人間の努力はあるんですが、どこか自分のエゴとかプライドの影もちらつきます。だから、私たちはどのような形で関わっているのかな、ということをやっぱり日々問うていかなければいけないと思います。
この権威の利用というのはいろいろなものがあります。例えば、親としての権威というものも、きっと神様から来るものでしょう。それは第一に賜物であります。それは親として子どもを束縛したり押し付けたりするのではなく、やはり第一に仕える、支える、育んでいく、そして何よりも愛するということで果たすことのできる権威の在り方です。自分たちに与えられている権威をしばし見つめてみましょう。権威主義的な振る舞いではなく、仕える、寄り添う、支える、分かち合う、そして愛する行為へと駆り立てるものでありますように。そしてそれは他者がいて初めて成り立つものです。関わりの中で初めて成り立つものです。イエスが生き、そして示してくださった模範から、彼が示された、その関係性の中で育まれた、導かれた権威、力、それらを意識して私たちの在り方を見つめていきたいと思います。
年間第3主日 神のことばの主日
髙祖 敏明 神父
1/21(日)10:00- 年間第3主日(神のことばの主日)
ミサの初めに申し上げましたように、今日は神の言葉を祝い、学び、広めることに捧げる「神のことばの主日」です。神の御言葉、神の言葉に少しこだわって今日の私の分かち合いをさせていただきたいと思います。
お聞きになられた通り第一朗読のヨナ書では、主の言葉を託されたヨナが「あと40日もすればニネベは滅びる」と言うのを聞いたニネベの人々は、神を信じ、断食し、身に粗布をまとって悪の道を離れて回心への道を歩む。神はこれを見て、宣告していた災いをくだすのをやめられたと伝えています。福音書の「悔い改めて福音を信じなさい」という、このメッセージに呼応しているようにも読むことができると思います。パウロのコリントへの手紙では、福音を受け入れたキリスト者が、時間とともに過ぎ去るものに心を奪われないで、神に心を向けて生きるよう促しているというふうにここにも説明があります。マルコの福音書では、イエスの宣教開始と最初の弟子を召し出す場面が今朗読されましたが、マルコの福音に関わって私が感じたこと、考えたことを皆様に分かち合いたいと思います。
2点あります。1点目は、最初の2節、14節、15節に宣教を開始した次第が述べられていますが、このわずか数行の間にマルコ福音書の基本的な骨格がそこに描かれているんだ、と言われています。それはどういう意味なのかということが1点目。2点目は弟子たちの召し出しの場面ですけれども、この箇所を読んでいって、え?と思うのは、普通、イエスに呼びかけられてイエスについて行くという時、イエス様がもうそれなりの奇跡を行っているとか、癒しを行っている、有名になっているということが前にあってついて行く、というのが私の自然の気持ちです。しかし、そういうことを一切マルコは書かずに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われてすぐ、弟子たちに呼びかけて弟子たちがついて行く。何か人間的な感覚からするとちょっと不思議だなという気がする。この2点です。
最初の方の、マルコ福音書の基本的な骨格が集められている、ということを3つの側面から申し上げたいと思いますが、最初に出てくるのは「ヨハネが捕らえられた後」ということです。洗礼者ヨハネは旧約の終わりを象徴しています。そして、このすぐ前のところで洗礼を授けているヨハネが、私よりも優れた方が後から来られる。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになると宣べ伝えた。ヨハネが捕らえられた後、その後から来られる優れた方イエスが「時は満ち、神の国は近づいた」と、新しい時代の到来、新しい契約の時代、新約が始まったことを告げている。この「ヨハネが捕らえられた後」という言葉の中にはそういうことがここに込められている。
その次に「イエスはガリラヤへ行き」。イエス様はガリラヤで育ったんですから、ガリラヤへ行き、というのは何だかちょっと妙に聞こえます。しかし、マルコの福音書を見てみますと、イエスは確かにガリラヤで育ったんですけれども、ヨハネから洗礼を受けるためにユダヤ地方のヨルダン川に行って、そこで洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その近くの荒れ野で試みも受けています。そしてヨハネが捕らえられたというその後、ガリラヤへ行くというか、ガリラヤへ戻ってきて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教します。ここにはもう1つ背景があるそうです。イエスの宣教活動は、私たちは聖書を読んでいると、ユダヤのいろんな地域で宣教したと考えているんですけれども、イエスの宣教はガリラヤとその周辺が中心です。その周辺の異邦の地が中心です。
マルコ福音書は16章ありますけれども、1章から10章は全てガリラヤ、ないしはその周辺の舞台での様々な癒しであるとか説教であるとか、そういうものが書かれています。11章から15章の5章は御受難に関するところですけれども、エルサレムに入って十字架にかかられて亡くなられる。それはわずか1週間の出来事ということでマルコは書いています。そして16章が御復活の場面です。ということは3年間の公生活のほとんどはガリラヤとその周辺が舞台で、マルコのこの骨格といいますか、考えていくと、正統的ユダヤ教の指導者たちによって代表されるのがエルサレム。イエスが福音を説いた民衆を代表しているのがガリラヤ。そういう構図で書かれていると説明されています。
確かにそういう目で見ますと、私たちがよく知っている「ガリラヤの風かおる丘で」というあの美しい聖歌がありますけれども、その1番、2番は「ガリラヤの風かおる丘で ひとびとに話された 恵みのみことばを わたしにも聞かせてください」。ガリラヤです。「嵐の日 波たける湖(うみ)で」これはガリラヤ湖での話です。3番目のゴルゴタ、これはエルサレムですね。4番目はエマオの道です。でもこの「ガリラヤの風かおる丘で」の歌の4節のうちの2つはガリラヤが舞台になっている。
そしてさらに、私も常々どうなのかなと思っていた箇所なんですが、イエス様が復活された後、天使たちが婦人たちに現れて「行って弟子たちとペトロに告げなさい。あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていた通り、そこでお目にかかれる」ということを言う。それは御復活の時のメッセージとしては、ガリラヤでイエス様が宣教活動を行っていたところと呼応している。そういうマルコ福音書の書き方になっています。ガリラヤに行けば会えるというのは、ガリラヤでこそ宣教活動が行われたその地であった、ということとこれはつながっています。
「聖書と典礼」には神の福音について、良い知らせ、神の国の到来のことだ、神の国とは神が王として支配することで、人々の解放、救いを実現するというようなことが説明されています。福音という言葉の中には、イエス様が福音を告げるということと同時に、イエス様ご自身が福音であるという、それも私たちとしては見落とすことができない大事な点。イエス自身を知り、道であり、真理であり、命であるイエス様と親しい交わりに入ることを通して私たちの救いが実現していく。そういう点もこの福音という言葉でおさえておく必要があります。
「時は満ち」。これも「聖書と典礼」に、神の計画の中での決定的な救いの時が来たという意味だと説明してあります。悔い改め、メタノイアという言葉で言われます。心が変わること、心が変えられていくことと一般的に言われるそうですけれども、キリスト教、特に福音の意味では、私たちの存在、全存在をもって神に立ち返ること、そして神に従うこと。これを悔い改め、回心という言葉で言われる。その意味ですね。ですから、ちょうどニネベの人々が悔い改めて悪い業から離れていった、そういうことと繋がるように思います。
そういうことが1点目で、2点目が最初の弟子たちの召命です。イエスはまだ何も奇跡も癒しもしていないのに「わたしについて来なさい」とこの2組の兄弟に言われる。ペトロたちは「2人はすぐに網を捨てて従った」。すぐに従ったと聖書に書いてありますし、ゼベダイの子たちは「父親を雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」。私たちの人間的な感覚からすると、まだ何者ともわからないイエス様について行くというのはなんかちょっと不思議じゃない?というふうに思いますが、マルコの意図からすると、悔い改めて福音を信じるということを強調しているのかもしれません。実績があるかないかよりも、そういう呼びかけを聞いてそれにすぐ従っていく。ちょうどニネベの人々が滅びるということを聞いて応えていったわけですけども、この弟子たちは「ついて来なさい」という言葉の中に時代の新しさ、神の国の到来、悔い改めの必要を感じ取ってそれに応えていった。全存在を切り返してついて行った。
とはいえ、福音書がずっと書いていくように、これは悔い改めのプロセスの始まりにすぎません。イエス様と一緒について行っても、なかなか十字架の神秘ということがわからない。理解できないということがずっと続いています。私たちの信仰の歩みも、すべてがクリアにパッと分かるということではないようです。神様の招きに従うというのもプロセスがあって、だんだん深いところに行くという、そういう歩みがあるようです。 今日、神の言葉を祝い、学び、広めることにつなげる日ということで、私なりに感じたこと、考えたことをここでお話しさせていただきました。皆さんもそれぞれ、今日の御言葉を聞いて心に感じていること、思っていること、響いたことがおありになると思います。それらを通して、このミサの中で祈りを深めていっていただければと思います。そして、その祈りをもって、これからのパンとぶどう酒の感謝の祭儀をご一緒に捧げ、イエス様から新しいこの力をまたいただくことができますように。そして御言葉を理解する力、味わう力、それが生きる力となり、エキュメニズム、教会一致の方向に向かって私たち自身も歩み出すことができますように、ご一緒にお祈りを捧げたいと思います。
ミサ後に協力司祭として赴任されたグエン・バン・テー神父様の紹介がありました。これからよろしくお願いします!
年間第2主日 子どもとともにささげるミサ
柴田 潔 神父
1/14(日)10:00- 年間第2主日
少年サムエルは神様からの呼びかけを聞くことができました。教会学校のお友達、そして私たちも神様からの呼びかけがあります。今日は神父さんがどういうふうに神様からの呼びかけを聞いたかのお話をします。
神父さんは大学を卒業してからお家を建てる仕事をしていました。最初に神様からの呼びかけを聞いたのは、難しいお仕事をしてほっとした時でした。お家を建てるってすごくお金がかかるんだけど、みんな5000万円ってわかる?そう、高いよね、5000万円って。5000万円のお家を契約してもらえるか、してもらえないか。契約っていうのは、お宅の会社でお家を建てますっていうお約束なんだけど、そのお約束をしてもらえるかどうかで神父さんはすごく悩みました。夜寝ている時も、あのお客さんがお家を建ててくれる約束をしてもらうためにはどうしたらいいのか、夢の中で一生懸命考えます。でも、その夢の中では断られてしまいました。
夢で断られたのにお客様のところに行くのはすごく不安だよね。不安で不安でしょうがなくて大丈夫かなと思ったら、何とかお客様は、お宅でお願いします、柴田さんでお願いしますと言ってくれました。ほっとして車の運転をしていたら、神様からどんな言葉があったと思う?お疲れ様でした、よく頑張りましたって言ってもらえたと思う人。あんまりいないんだね。頑張ったんだけどね、あんまりいないね。どんな言葉がかかってきたかというと、「あなたの仕事は他にある」って言われたの。せっかく5000万円契約して頑張ったのに、神様は、あなたの仕事は他にあるって言うんです。その時もう10年同じ仕事をしてて、今からそんなこと言われても無理無理と思って、その時はね、何言ってんのと思って忘れることにしました。
それからしばらくして、クレームって言って、みんなクレームってわかる?お客さんが怒り出しちゃったの。こんなところで建てるんじゃなかったとかね。もう失敗したとか、怒り始めちゃったの。その時も、何とかこのお客様と仲直りしなきゃいけないと思って、また夢の中も含めて、一生懸命、あのお客さんがどうしたら許してくれるか考えてました。夢の中でもお客さんは怒ってます。それで、その怒ってるお客様のところに行ってお話をしたら、分かりました、また柴田さんでよろしくお願いします、と言ってくれました。車の中でホッとして運転していたら、今度、神様は何て言ってくれたと思う?よく頑張りました、だと思う?今度はどうだったかな?またね、「あなたの仕事は他にある」って言われたの。これだけ頑張ってるのに、他に仕事って言われても困ってしまいました。
でも2回目だったから、これはもう少し考えなきゃいけないと思って、神父さんはお家に帰ってね、お祈りをしたり、何なんだろう、他の仕事って何なんだろうって考えました。そしたら、大学生の時にちょっとだけ神父さんになろうかなと思った時があったことを思い出しました。でも、神父さんになるのにはとても時間がかかります。何年かかるか、ちょっとみんなに聞いてみたいと思います。神父さんになるには5年だと思う人、手を挙げてください。5年、5年頑張れば神父さんになれるという人。ありませんか?次、7年。7年頑張ったら神父さんになれると思う人。1人手が挙がりましたね。じゃあね、10年、10年かかると思う人。はい。みんな10年だと思ってますね。ありがとうございます。
神父さんはその時35歳。35歳から10年、また哲学とか神学とかを勉強して、35歳に10年経つと何歳になる?45歳ね。35歳から45歳までずっとお勉強するって、みんなどう?やってみたいと思う?あんまりやりたくないよね。あんまりやりたくない。そう思う。勉強好きな子もいるかもしれないけど、だいたいはやりたくないと思いますね。そんなに勉強好きな方じゃないし、働き盛りなのにまた勉強?と思って。絶対になれるわけじゃないし、神父さんになりたいと思ってもなれない人もたくさんいます。途中で挫折したら、ダメになったらどうしよう。不安で不安でいっぱいです。
そんな時にマリア様が助けに来てくれました。ガブリエルのお告げがあった時に、マリア様が何て言ったか、みんな知ってますか?はい、「お言葉どおりになりますように」って言ったんだよね、マリア様はね。お言葉通りになりますように。神父さんもお告げの祈りでね、「お言葉どおりこの身になりますように」ってお祈りしてました。お祈りしていたから、10年かかるからお言葉どおりになりませんとかね、お言葉どおりは嫌ですって、みんな言える?言えないよね。そう、みんな言えないと思う。いつもはお言葉どおになりますようにお祈りしていても、10年は長いからね、ちょっとお断りします、とはなかなか言えません。神父さんも思い切って会社を辞めて、イエズス会に入りました。結局、神父さんになれてるんだけれども、神様から声が呼ばれてる。それをちゃんと聞けるかどうかとか、それに従えるかどうか、3つポイントがあると思います。
1つ目。もうこれ以上頑張れない、夢の中までお仕事して、もうこれ以上できないと思った時に、神様が「あなたの仕事は他にある」って言ってきました。普通だったらね、ご苦労さん、次も頑張ってね、だと思うけれども、神様はその時、「他にお仕事ありますよ」と言ってくれました。適当にお仕事してたら、多分神様の声は聞こえなかったと思うんだよね。ああ、やれやれ、家に帰ってビール飲もうとかね、ちょっと映画見に行こうとかそう思ったかもしれないけれども、真剣に仕事してたから、もうこれ以上無理ですというところで神様が声をかけてくれました。
2つ目は心を静かにする時間があること。神父さんは会社に行く前に朝6時半、シスターの修道院のミサに与ってからお仕事に行ってました。シスターがお祈りする姿を見て、心を静めて自分の人生を考えよう、神様が何を考えているのか聞いてみよう。そういうふうに神様の前で静かにお祈りする時間を持てました。
3つ目は気晴らしに逃げないこと。気晴らしっていうのは、心が神様じゃないところにフラフラフラフラいっていることね。みんなはできないけど、大人だったらパチンコに行ったりお酒飲んだりとかね。ゲームしたりとか、いろいろあると思います。そういうことをしないで、神様は私に何を望んでおられますか、望んでおられることを実行できるように力をお貸しください。そういう気持ちでいることが大事だったと思います。
今日は神父さんのお話をしましたが、教会のお友達にも神様は呼びかけています。あのお友達を助けてあげてねとか、このお勉強は大事だからしっかりやろうね。今日はお父さん、お母さんのお手伝いしてあげようね。今地震で苦しんでいる能登半島の方のためにお祈りしたり、募金したりしようね。そういう呼びかけがあります。サムエルのように、神様からの呼びかけをみんながしっかり聞けるようお祈りしながらミサを続けましょう。
ミサ後に教会学校の子どもたちも防災ヘルメットの着用の練習をしました
主の公現の祭日
ハビエル・ガラルダ 神父
まず、この主の公現の意味をすごく簡単に言ってみますけれども、この占星術の学者たちはイエス・キリストを受け入れました。拝みに来ました。この人たちはインテリの代表ですね。ですから羊飼いたち、素朴な人たちだけではなくて、インテリの人もイエス・キリストを受け入れるという意味です。この人たちは金持ちでした。金持ちでなかったならばそんな旅をできなかったはずです。そして彼らは貴族階級だったでしょう。なぜかというと、捧げる贈り物は珍しいですね。黄金、乳香、没薬。何の役にも立たないもので、普通だったらもっと便利なものを捧げるでしょう。チーズとか毛布とか、折りたたみのゆりかごとか、何かあげればいいけど、なんと黄金、乳香、没薬。ところが、これは王様に対する贈り物となっていました。彼らはそれに詳しかったので、キリストを王として認めるということです。最後に、この人たちの一番大切な特徴は外国人でした。イスラエルだけではなくて、輪を広げて、キリストとキリスト教は全世界につながるという意味で、主の公現になります。
今度は星について少し考えましょう。この学者たちをイエス・キリストに導いた星。その星は懐中電灯とは違いますね。懐中電灯で私たちは道を選ぶ。そして選んだ道を歩けるように道を照らす。また、自分で消したりつけたりすることができます。その星は違います。星は手にあるものではなくて、空にある天からいただく恵みです。天からくる恵み。ですから、その上を先立って進む。道を示さないで目的を示す。どういうふうに行く?それは、ただキリストはここにあります、そこに道を探して行きなさいと言うんですね。目的に先立って進む。そして、思いがけなく現れたり、思いがけなく消えたりする時もあります。そういうことになっていました。そして具体的な場所を示さない。だいたいエルサレム、そしてあとは自分で探してみなさい。そして近くなったらその時、その上に止まる。それで彼らが入って、母マリアと一緒に子供に会うことになりました。これはこの学者たちの道。
では今度私たちは、私たちもこの学者たちに倣って、その星に従ってイエス・キリストのもとに行きましょう。まずこの人たち、この学者たちに現れる素晴らしい特徴は、イエス・キリストに会いたいという熱意は深かった。どうしてもキリストに会いたい。これは私たちにはありますかね。私たちはこの点ではちょっと弱いですね。もちろん会いたい。でも会わなくてもそれほど困ることはない、という程度ですね。そうではなくて、本当にキリストに会いたい、キリストのように、キリストと共に生きたいという熱意を願いましょう。ラビンドラナート・タゴールが書いたように「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください。あなたがそばにいない時には、私が痛みを感じるほど虚しく寂しくなるようにしてください」。きれいな祈りですね。ぜひしましょう。「あなたの不在の痛みを感じさせてください」。
そしてこの人たちはいつも星を見つめていたんですね。私たちも星を見つめて歩きましょう。上を向いて歩こうということでありましたね。いつも見つめて歩きましょう。見えない時もありますけれども、見える時だったら、見える時にはちゃんと進めて一緒に行くことにしましょう。上を向いて歩こう。足元にも注意しながら。そしてこの人たちは、キリストに出会った時には喜びにあふれました。喜びにあふれたと書いています。これも願いましょう。先ほど言ったように「主よ、あなたの不在の痛みを感じさせてください」。今度は、「主よ、あなたの存在の喜びを感じさせてください」。キリストと一緒にいる時には、喜びにあふれるようになることを願い求めましょう。これは恵みですので、頼まなければならない。一緒にいると嬉しい。一緒にいないと虚しい、痛いほど寂しい。それから、この人たちは贈り物の宝の箱を開けて贈り物を捧げたんです。私たちもキリストに会う時に心の箱を開けて自分自身を捧げましょう。聖イグナチオの祈りのように「主よ、私のすべてをあなたに捧げます」。
それから最後に、この学者たちは国へ帰っていった。羊飼いたちもそうでしたね。イエスに会ってから家に帰っていった。私たちもそうです。キリストを感じて、キリストに出会って、キリストのもとに行ってから普段の生活に帰る。普段の日常生活に帰る。何も変わりません。変わるのは心。キリストに出会った心は変わります。そのことでキリストのように、キリストと共に日常生活を送ることを願い求めましょう。主の公現おめでとうございます。
10時ミサ後の新年祝賀会では、ガラルダ神父様のイエズス会入会75周年のお祝いがありました。
神の母聖マリアの祭日
ハビエル・ガラルダ 神父
富士山が真っ白くそびえている元日、おめでとうございます。
今日は3つのことを祝います。1つはマリア様のこと。人間となった神の母、聖マリア。だからこのカズラをしています。これはマリア様のカズラです。かなり重いですけれども、綺麗だと思います。それからイエス様の名前、そして新年。これについて少しずつ考えましょう。
まず、人間となった神の母聖マリアは、教会の母となっています。なぜかというと、私たちが聖母を通してキリストを迎えるようになったから。そして十字架の時に、十字架上でキリストがヨハネに向かって、ヨハネが私たちの代表だと信じてますが、ヨハネに向かって「あなたの母です」と言ったからです。ですから教会とは何かと言いますと、私の言葉で言えば、教会はイエス・キリストを信じて、キリストのように、キリストと共に生きるようにしている人々です。
もっと広い意味では、というのは、これはここにいる人たちだけで、その外の人たちはどうなっているんですか。広い意味で教会になっている人が多いと思います。すなわち、広い意味の教会はこれです。キリストのように生きるようにしている人です。キリストは神だと信じない人です。だから、キリストと共に生きるということはピンとこないけれども、キリストのように生きることを喜んで務めています。これも教会の中に認めていると思います。その母は聖母マリアです。ですから、母マリアと一緒にこの1年の歩みを始めます。これは大船に乗った気持ちです。マリア様の手を握ってイエス様のところに行きましょう。マリア様ともっと親しくなり、もっと願って、もっと一緒にいるようにしましょう。
そして、2番目のことはイエスの名前。イエスという名前の意味は「救う人」です。イエスは救う人。私たちもイエスのように、イエスと共に生きるので、どういうふうに人を救うことができるかというと、それは人が助かるために人に仕えるという姿勢で生きていれば、人を救うことになります。人が助かるために人に仕えるという姿勢で生きることで、私たちも救いに協力することになります。
3番目のことは、もうちょっと長く考えましょう。今年の方針、計画について、私は1つの提案があります。聖パウロの言葉で言えば「いつも喜んでいなさい」。これを私たちの1年の計画にすればいいと思います。聖パウロが言う「いつも喜んでいなさい」。どういうふうに喜んで生きることができるかというと、聖パウロが言う「絶えず祈りなさい。どんな時にも感謝しなさい。聖霊の声に従うように」。この3つのことをすれば、つまり、いつも祈りなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、聖霊の声に従うようにすれば、結果的にいつも喜んで生きることができます。他の言葉で言えば、何事も喜んでするという方針がいいと思います。何事も喜んでする。もちろん、何事もというのは主な仕事、主な人間関係、主な信仰生活、その意味の何事も喜んでする。ですから一生懸命にすることよりも、喜んですることの方が大事だと思います。なぜかというと、一生懸命にすると余計な力を入れすぎるかもしれません。喜んですれば、余計な力を抜いて余裕を持って着々とできるようになりますので。
しかも一生懸命にやってても喜んでやらない時もあります。マルタとマリアを思い出しましょう。マルタは一生懸命に仕事していました。それで文句を言ったんです。イエス様は「マルタ、マルタ、あなたは一番大切なことを忘れています」とおっしゃいます。何だったのか。彼女は一生懸命にしてたけれども、喜んでしていなかったんです。なぜ喜んでしていないと分かったかと言いますと、文句を言ったから、喜んでないと言われました。喜んでしていたならば文句を言わなかったでしょう。文句を言ったので喜んでしていないと分かりました。なぜ喜んでいないかというと、この時には愛が足りないから。ですから、愛を深めて喜んでやってください。
私たちは時々すごい仕事をするけれども、なんか暗い。暗くて、なんで私がこんなことをしなければならないのか、ブーブー言いながら、みんなずるいね、調子いいな、なんで私は、と。それはやめなさい。「マルタ、マルタ、一番大切なことは、喜んですればそんなことしない」。でも、どうやって喜ぶことができるか。努力をもって喜ぶんですか。よし、喜んでやってみるから見てろ、という、そういうのはあんまりもたないんです。三日坊主で終わってしまいます。努力よりも喜べる根拠を、喜べる理由を心から引き出すと喜べると思います。喜ぶ理由を引き出す。
例えば、あなたはお見舞いに行くんですね。ちょっと寒いのに、そして遠いのに、行くのはめんどくさいなと思っているんです。でもね、これを考えればいい。この人が喜ぶでしょう。この患者さんが助かるでしょう。そしてイエス・キリストが嬉しくなるでしょう。「この人のためにしたことは私のためにしてくれたことになる」とおっしゃったんじゃないんですか。イエス・キリストも嬉しくなる。そして私の心が清められる。心がきれいだったら物事の良いところも見ることができるようになるんです。物事の大切なところを見ることになります。そして人間の心の涙を見ることができるようになります。心がきれいであれば。
ですからこの理由がありますね。私が見舞いに行ったらめんどくさかったけれども、相手が助かりました。イエス・キリストが嬉しくなった。そして私の心が少し清められたので喜ぶ理由がある。それを引き出していれば自然に喜んですることができると思います。つまり、イエス・キリストがおっしゃったこと、愛し合っていれば喜んで生きることができます。愛を深めなければ喜べないんです。ですから、心を込めて感謝しながら喜んで何事もすることにすれば、この年はきれいな有意義で豊かな年になると思います。
最後に神様に向かってみましょう。神様、去年本当にありがとうございました。今年もよろしくお願いします。そして皆さんに向かって、去年ありがとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。新年おめでとうございます。
神の母聖マリアの祭日(深夜ミサ)
ボニー・ジェームス神父
皆さん、改めて新年おめでとうございます。
教会の典礼歴では、いつもこの新年1月1日は神の母聖マリアの祭日」になっています。このマリア様と共に新しい年を迎えるということにも大きな意味があると思います。マリア様はイエス様とずっと、イエス様が生まれる前から、そしてイエス様が活動していた時、又、イエス様が十字架上で亡くなられたあとも十字架の下で、すべての時に一緒にいてあげた人です。
それと同じように、マリア様は昨年も、そしてこれからこの新しい年にも、私たちみんなと一緒にいてくださる。そのような意味が含まれていると思います。ですからこの神の母聖マリアの祝日にあたって、この1年間、私たちはいただいたたくさんの恵みに感謝すると同時に、この新しい年に必要な恵みもマリア様を通して願いたいと思います。
ここでマリア様の話をもう少し深めていくと、今日の聖書の中に出てきますけれども「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と書いてあります。これが救いの出来事、マリア様を通して実現される大きな出来事だったわけですね。マリア様にとってそれは分かりにくいことだっただろうと思います。それでもそういうことを受け入れて、「お言葉どおり、この身に成りますように」とマリア様が言います。それでもこういうことが不思議なんですね。聖書の中に出てくるんですけれども、羊飼いたちとか、その他の人たちはみんな不思議に思っていました。そこでマリア様がこれらのことを心に納めて思い巡らしていたという話ですね。
私たちも振り返ってみると、昨年様々な意味で、様々な災いがあり、あるいは戦争があり、いろんな不思議なことがあったと思います。今も続いています。そういった様々なことがあったにも関わらず振り返ってみると、いろんな面で、いろんなところで私たちは恵まれた経験もあったと思います。神様から恵みをいただいた経験もあったと思います。一人ひとりの個人の生活を見ても、あるいは教会全体として見ても、様々なところでその恵みの体験があったんじゃないかと思います。
ですから、教会として考えると、この4年間のコロナの時代が大体終わって、人々が教会に戻ってきたというのは1つ大きな恵みだと思います。毎回、日曜日のミサが終わると、オチョア神父がみんなに挨拶するために外に立って、挨拶してから修道院に帰って食事とかする時は喜んで言うんですね。毎回のミサが終わって、毎回言いますね。教会は戻りました。やっぱり人が戻りましたと。神父様の顔のその喜びを見て、私たちも喜ぶようになる時があります。
それだけじゃなくて、昨年、教会学校の子どもたちの聖劇があったんですね。4年ぶりのこの聖劇がとてもよくできていて、それが終わってからいろんな人から、とても良かったというふうな意見もありました。みんなで協力してとてもうまく聖劇を作って、それをすることができたことですね。これも1つ大きな恵みだと思います。その他にですね。少し外国語圏の、外国語のミサの人たちとも関わっているので、そこでも喜びを見ることができます。教会に、このミサに自由に参加できるという雰囲気に戻って、それも1つ大きな恵みだと思います。
そのように見てみると、いろんな不思議なこと、あるいはわからないこととかある中でも、いろんな面で恵みがあったと思います。今日はそのすべての恵みを思い出す。そしてマリア様のようにその恵みを少し思い巡らす。この1年間通して一人ひとりがいただいた様々な恵みを、少し思い巡らしてみるといいと思いますね。思い巡らすというのはですね。味わうという意味なんですね。味わうという意味には、何か試練とかがあった時に何度も繰り返して思って、その痛みが何度も出てきて苦しむ時がありますね。でも、喜びも同じように考えることができますね。この恵みを思い巡らす。恵みを何度も思い巡らす。それで私たちも喜び、あるいは喜ぶ心を持って新しいことに挑戦する。新しい年を迎える。そういうふうにも考えられると思います。
ですから今日はまずですね、昨年いただいたたくさんの恵みに感謝しましょう。そしてこの恵みを今年1年、いただいた恵みをですね、人々と分かち合っていくことができるように、この御ミサの中でお祈りしたいと思います。