トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2026年10月の説教

2026年10月 ミサ説教

2026年9月


年間第29主日 幼児洗礼式

髙祖 敏明 神父

10/18(日)10:00- 年間第29主日(幼児洗礼式)


 改めて今日、幼児洗礼を受けられますご家族の皆様、おめでとうございます。ミサの最初に申し上げました通り、教会にとりましても本当に大きな喜びでございまして、今日こうして教会のメンバーと一緒に洗礼の恵みを受けることができることを神様に感謝しております。先ほど、皆様のお手元の聖書典礼の集会祈願を唱えたんですけれども、「喜びの源である父よ、あなたに感謝をささげるために、わたしたちはここに集まって」います。ミサは感謝の祭りですので、その感謝のために集まっているというのは当然なんですけれども、本日は特別に4人の赤ちゃんが、ご両親と大父母の申し出によって洗礼の恵みを受けるということですので、私たちみんなで心を込め、そして心をつないで神様に感謝を捧げるとともに、この子どもたち、またご家族のために祈りを捧げたいと思います。


10/18(日)10:00- 年間第29主日 幼児洗礼式 祭壇の髙祖神父と柴田神父

 先ほど読んでいただいた第二朗読の中に、「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」という言葉がありましたけれども、まさに今日この洗礼を受けられる方、またここに集まっている皆さんも神に選ばれ、聖霊に支えられてここに来ているでしょうし、洗礼を受けています。今日の「世界宣教の日」にこの洗礼が行われるというのも、とっても意義の深いことだと思います。身近な家庭内、家族内に福音を伝えていく、宣教をしていくということの一つの実りでもあるし、そのチャレンジでもあります。同時に、幼児洗礼は教会の信仰の中で行われ、ご両親や代父母とともに、教会の信仰の中で育てるものと言われています。そして受洗する子どもも年齢とともに信仰面でも成長し、成熟していくことが期待されています。


 後ほど共同祈願を唱えますが、その祈りの一節に「すべてを治められる神よ、世の煩いに心を乱されがちなわたしたちを力づけてください」と祈りますけれども、これは私たちの祈りでもあり、今日洗礼を受ける子どもたちのこれからの歩みを思っての願いでもあります。また、ご聖体拝領の後に「いのちの源である神よ、わたしたちが人生の旅路を歩む力を受け、あなたの国の希望に励まされますように」と祈りますけれども、この祈りは、今日の、特にこの幼児洗礼式を祝う私たちの祈りでもあります。


 先ほど私が読み上げた福音、非常に印象的な話でございまして、イエスの言葉じりを捉えて罠にかけるために質問をする。あくどいですよね。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問をする。それに対して「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられる。皇帝の納税を良しとしないファリサイ派の弟子も、それを良しとするヘロデ派の人、どちらを答えてもどちらかが攻撃できるような仕組みで考えていたんですけども、両方ともが驚いて、尻尾を巻いて退散せざるを得なかったという、そういうストーリーになっています。


10/18(日)10:00- 年間第29主日 祭壇で手を合わせて祈る髙祖神父

 では、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエス様の言葉は、今日の幼児洗礼式に何かメッセージがあるんでしょうか。この言葉を少し調べてみますと、皇帝の治める政治と、神様が支配していらっしゃる世界、つまり宗教との分離を言っているんだ、というふうに解釈するグループがあるそうです。しかし、こういう政治と宗教を区別して考えるのは近代以降のことでありまして、この時代、政治と宗教が分離しているということはありません。また、皇帝に納める税金は人頭税で、神に返せというのは神様の神殿に納める神殿税との区別を言っているんだ、つまり税金の区別だというふうに解釈するグループもいるそうですけども、イエス様は別に税金の話をしていません。今日のイエスを罠にかけるために言った人の言葉を借りれば、イエスは「真理に基づいて神の道を教える方」です。では、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉にある神の道とはどういうことでしょうか。


 これは人間を神とすることへの戒めがあるだろうと思います。デナリオン銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていた。その銀貨には同時に皇帝を神格化する、神様であるかのように崇める言葉が刻まれていました。人間である皇帝を神とみなすことを否定し、真の神へと導かれる。今日の第一朗読のイザヤの預言書が言っていました。「わたし(主)はあなた(王や皇帝)の名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしのほかは、むなしいものだ」。私たちの現代の日本でも、世界を見ても、人間を神かのようにしようとする、神かのように振る舞おうとした人たちがいろいろいます。今日のこの福音は、それはまことの神様を知らないからですよ、ということを私たちに気づかせようとしています。


10/18(日)10:00- 年間第29主日 幼児洗礼式 侍者からろうそくの灯を受ける保護者・代父母と、抱っこされた赤ちゃん

 洗礼において、私たちはまさしく「皇帝(人間)のものは人間に、神のものは神に返す」。人の命も、この世での存在も、日々生かされて生きるのも、神様が支えてくださっているからです。もちろん、与えられた命を十分に成長し、成熟させて、豊かな実りをつけるように努めるのは、私たち人間の務めでもあります。「人間のものは人間に、神のものは神に」という言葉をそういうふうに捉えることもできるかと思います。よく教会の中で言われますけれども、神様に祈る時、自分は全く無力で、神様に100%委ねるということで祈る。しかし何かを実行する時には、神様からの力が何にもないかのように、自分の力を100%出してそれを実現しようとする。こういう生き方をするように、というふうに言われています。赤ちゃんの命も存在も神から私たちに委ねられたものです。それを洗礼式で神様にお返しし、改めて教会の信仰の中で、ご両親と代父母の信仰の中で、神様からの祝福とこれからの導きを願います。


 神様は私たちが「お父さん」と呼ぶことを厭われず、いつくしみ深く、「我が愛する子よ」と恵みと救いを与えてくださる方です。改めて父である神に信頼し、私たちは心を合わせて「命の源である神よ、わたしたちが人生の旅路を歩む力を受け、あなたの国の希望に励まされますように」と、ご一緒にお祈りを捧げたいと思います。少し聖書を味わってから、共同の祈りをご一緒に唱えたいと思います。



年間第28主日

サトルニノ・オチョア 神父

10/11(日)10:00- 年間第28主日


10/11(日)10:00- 年間第28主日

 ただいま耳にしたこのたとえ話は、初めて聞くと分かったような気がしますが、分かっていないポイントはあります。たとえ話ですので大げさな言葉で語られているんですけれども、もしかしたら私たちがただ常識を使って、あ、こうだということだけだったら、たとえ話のポイントを見失うかもしれない。まず第一に、このたとえ話は誰に向かって話されているかということですね。司祭たちと長老たちです。彼らは、私たちが選ばれた民だ、私たちは本当に特別だ、私たちは神様の前には特別な目で見られているということだったんですが、そこでイエス様は彼らに言うんです。「あなたがたは見ていることをまだ分かっていない。あなたは送られた神の子、人間として出てきているこの人の子を受け入れていない。受け入れていないだけではなく、この人をあなたがたは殺してしまう」。イエス・キリストは、いつも聖ヨハネの福音に出てくる時には、ご自分の民に来たのにこの人たちに受け入れられなかったという、そのことですね。


 このたとえ話は、同級生の結婚式に招かれたということではない。王様の子の結婚式です。考えてください。英国の宮殿から招待状があって、王子様の結婚式に来てくださいと招かれたんだったら、「いえ、私は会社で忙しいから行かれない」、あるいは「いえ、私はちょっとこちらでテニスをしなければならないのでお断りします」ということは考えられないですね。それでその王様は「外へ出て誰でも来るように招いてください」と言います。これは非常に意味のあることです。「良い人たちも、悪い人たちもみんな招いてください。善人も悪人も」。それでいっぱいになります。少し考えてください。私たちの教会です。みんな招かれているんです。良いからじゃなくて、悪いからでもなくて、愛されるからです。神の子だから、みんな招かれているんです。


10/11(日)10:00- 年間第28主日

 王様がその婚宴に出ると、説明しにくいことですけれども、婚礼の服を持っていない人がいるんです。「友よ、どうしてこちらにいるんですか」。私は何もしなかった、来いと言われたから来たと言えるんですけれども、日本の文化の中では多分よくわかると思います。今、日本のホテルは靴を履いたまま入ります。部屋は普通の部屋ですけれども、旅館に行ったら段階があって、そこにスリッパが整えられているわけです。それから後で、もしかしたら寝間着とか入っている。そのようなことがあります。


 昔は婚礼に誘われている人たちは、招いている人がその人たちに特別な服、法被、浴衣みたいなものを整えていて、それを着て参加するわけです。ちなみに、私は神戸で六甲の有名な酒屋さんの娘さんの結婚式に誘われたことがあります。普通の披露宴とまったく違うことは、そこに入ると特別な法被が用意されていて、それを着る。畳ですので、もちろん裸足で入る。後で酒を飲む時にはコップではなく、グラスでもなく、枡に入れて飲む。それは礼儀です。しない人は、協力したくないということで失礼に当たるんです。多分こういうふうに読めばいい。招かれたのに靴を脱ぐことさえもできない人です。そのまま履いてパッパッパッと歩く。招かれた人たちは協力しながらこの宴会に参加するはずです。それがたとえ話の意味だと思います。


10/11(日)10:00- 年間第28主日

 アウグスティヌスはこれについて非常に有名な文章を残しているんです。「神様があなたを創造した時にはあなたの協力はいらなかった。あなたは生まれたんです。けれども、神様があなたを救うためにはあなたの協力が必要です」。だから私たちは存在している。まったくただでいただいた大きな恵みです。感謝します。けれども、そのいただいた存在、命は、本当にそれを実らせるには、私たちの努力がどうしても要る。そのような努力はこれです。礼服です。私たちは罪人でありながら、模範にならなくても神の子です。神の子、愛されている人でありますので、その愛に私たちは感謝しながら参加するということです。私たちは良い行い、隣人を愛することによって、この礼服を着て神様の本当に素晴らしい宴会に参加することができますように。


年間第27主日

コエリョ・ニティン・リスボン 神父

10/4(日)10:00- 年間第27主日


10/4(日)10:00- 年間第27主日 説教台の二ティン神父。聖イグナチオ教会での日本語初ミサ

 兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 あるところにおじいさんと孫がいました。おじいさんは自分の畑を孫に貸していました。「道具も水も全部使っていいよ。好きな野菜を育てなさい。だが、ただ収穫の時は家族のために少しだけ持ってきておくれ」。


 初めはうまくいきました。しかし次の年、孫は採れた野菜を全部売って、自分のお金にしてしまいました。おじいさんが「私の分は?」と聞くと、孫は怒って言いました。「これは僕が汗を流して育てたんだ。全部僕のものだ」。孫は大切なことを忘れていました。彼は持ち主ではなく、畑を預かっていただけでした。


 今日の福音に出ているぶどう園の農夫たちも同じでした。ぶどう園の主人は垣根を作り、搾り場を作り、すべてを準備して農夫たちに預けました。しかし、農夫たちは「これは自分たちのものだ」と思い込み、主人の召使いや大切な息子まで殺してしまいました。


 このぶどう園とは何のことでしょうか。それは私たちの人生です。私たちの命、家族、仕事、健康、時間、これらはすべて私たちがゼロから作ったものではありません。神様が愛をもって私たちに預けてくださった恵みです。


10/4(日)10:00- 年間第27主日 祭壇の二ティン神父、右側に髙祖神父

 しかし、私たちは時々、孫や農夫たちのようになってしまいます。「これは私が働いて稼いだお金だ」「私の時間だから私の好きにしていいはずだ」「私の人生だから神様には関係ない」等々。そう思うとき、私たちの心から感謝が消えてしまいます。そして不満や争いや不安が生まれます。


 神様が私たちに求めている良い実とは何でしょうか。今日のパウロの手紙に書いてあります。それは真実、正しさ、清らかさ、そして愛です。私たちが、すべては神からの贈り物だと思い出すとき、心に平和が戻ります。パウロは言います。「どんなことでも、感謝を込めて祈りなさい。そうすれば、神の平和があなた方の心を守ります」。


 今週、静かに自分の心に問いかけてみましょう。「私は神様から預かったものを独り占めしていないだろうか」。神様からいただいた時間、才能、そして愛を、周りの人や神様にお返ししていきましょう。



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