2024年12月 ミサ説教
12/15(日)10:00- 待降節第3主日 髙祖 敏明 神父
12/22(日)10:00- 待降節第4主日 酒井 陽介 神父
12/24(火)19:00- 主の降誕(夜半のミサ) 髙祖 敏明 神父
12/25(水)10:00- 主の降誕(日中のミサ) 髙祖 敏明 神父
12/29(日)10:00- 聖家族の祝日 関根 悦雄 神父
聖家族の祝日
12/29(日)10:00- 聖家族の祝日
今日、私たちは聖家族の祝日を祝っています。聖家族は、私たちが家族として何を大事にしていかなければならないのかを教えてくれていると思います。聖家族は私たちの家族の模範です。集会祈願でも「わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて」とあります。ここです。聖家族は愛の絆に結ばれていた。これが家族として最も大切なことではないでしょうか。
家庭はまず人が愛を学ぶ大事な場所である。夫婦はまずお互いを自分にとって大切な人として遇する。そして愛の絆で結ばれる。そして子どもができれば、その子を自分たちにとってかけがえのない存在として大事にする。子どもは生まれた時、何もできない者としてこの世に登場します。ですから親が目をかけ、手をかけ、何でもしてやらなければならない。だんだん乳幼児から幼児になり、少年少女へ、そして青年へと成長する。その子を自分にとっての大事な存在として見守り、その時々でその子が必要としているものを惜しみなく与えていく。これが家族のやりとりではないかと思うんです。
ここで最も大切なのは、愛です。愛というのはただ可愛いとか、そういうことじゃないでしょう。その子をその子という存在として大事にする。大切にする。これですよ。ですから何でもかんでも、親が勝手に思い込んで、良かれと思って何でも与えてしまう。これは違うと思います。その子どもの成長にとって、その人格形成にとって最も大切なのはやはり愛です。その家族の一人ひとりが私にとってかけがえのない存在なのだということが分かって、その人を大切にする。そういう結びつき、これが家族でしょう。
乳幼児の頃の親の苦労というのは大変なものでしょう。しかし、子どもが成長するに従って自分でできることも増えていき、親はその成長を不安を持ちながらも温かく見守ることでしょう。家族の中での愛の交換、これはもちろんずっとある程度続きます。しかし、子どもが成長するに従って、この子どもはただ家族内の愛だけではなくて、家族外での人々とのつながりを作り、そしてそういう人々への愛も向けられるようになると思うんです。この愛というのは、相手が自分にとってかけがえのない存在であるから、その人を大事にするということだと思います。家庭で最も大切なことですから、互いに愛し合うことと言っていいと思います。全く不自由がないように何でもしてやるというのは違うでしょう。というのは、そうすると、その子は自分では何もできない者になってしまう。
私は家族のことを考えて、ちょっと今、心配になってきているんですよ。今、本当に望ましい在り方を保っている家族、家庭がどのくらいあるのか。果たして日本では、その家族がお互いに協力しながら愛の関係を強めていくような方向で動けているのかどうか。残念ながら、そういうのは少なくなってきてしまったんじゃないかと思うんです。それは、この愛が人々を結びつけるために最も大切なことだということを、ちょっと忘れてしまっているからじゃないでしょうか。この家族の中で養われた愛の関係というものを、成長するに従って、私たちは外の世界でもそれを行っている。自分に与えるものがあるならば、必要な人にそれを与えていく。そしてそれは私たちの小さなサークル内で起こるということだけではないと思うんです。
世界では本当に愛を必要としているという状況が私たちに日々告げられます。そういうところにも具体的にできることというのは、そんなにないのかもしれないけれども、そういう現実を無視して生きるのではなくて、そういうことも何とかしたい。そういう気持ちを持って自分にできることを少しでも、小さなことでも何かやっていく。そういう愛の人になっていくというのが、家族で愛を育んだ人の生き方ではないかなと思うんです。家庭において最も大切なことは、互いに愛し合うことです。本当の家庭の在り方が可能なような社会、世界にしていくためにはどんなことができるのか。これを考えてやっていく人が増えればいいのではないかと思います。
今、私たちの周りの日本も、家族がなかなかまとまっていかない。むしろ家族を分裂させる力が働いているとも考えられるんです。それは何が悪いのか。いろんな悪いこともあるでしょう。ですから、家庭でしっかり愛を育んで、愛の交換をするようなことを許さない、母親であっても家庭を離れて働かなければ生活ができないというような状況があれば、それはおかしいはずなんです。皆さんのところはどうでしょうか。いろいろな差があるでしょう。しかしどういう状況であっても、私たちは神の子として、まずこの愛を最も大切なものとして受け止めて、それを家庭の中で具体的に行っていく。これを目指していきたいと思うんです。
家庭の中でもお互いに、家族の間でもわからないこともあるでしょう。その時はマリアの姿を見てください。マリアはイエスのしていることがすぐに理解できなかった。それでどうしたんですか。文句を言ったんですか。その時、分かろうとしても分からなかったでしょう。ですから、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」。
どういう意味なんでしょうか。この子はどういうふうになっていくんでしょうか。不安もあったかもしれないが、期待をもってそのイエスに必要なものを与えていった。これだと思います。私たちがそういう聖家族にならった家族を作っていくことができるように。そしてその家族というのは、血縁で結ばれた家族だけではなしですね、私たちが成長すればまた新たな家族を作る。そういうことも可能ですし、家族にならなくても、人と人とが結ばれていく。これも私たちにとっては神の家族として大事なことだと思います。
私たちはそういう生き方を目指していくことができるように、互いに祈り合いましょう。
主の降誕(日中のミサ)
ミサの始めにも申し上げましたけれども、皆様、主のご降誕おめでとうございます。
「子どもの誕生はいつも希望の源です」と教皇フランシスコは語られています。昨日24日から聖年、聖なる年が始まりました。希望の巡礼者として、神から特別な恵みを私たちもいただき、私たちの身近な社会に、世界に、その希望と恵みを伝えていきたいと思います。私たちのこの教会も「希望の巡礼者」の巡礼教会の1つに定められております。東京教区で14か15の教会が指定されておりまして、この近くですと神田教会とか築地の教会も指定されています。29日から巡礼を始める時に、この教会に行きましたということをちゃんと押せるスタンプももう出来上がっております。28日から用意いたしますので、どうぞ皆様、これもご活用いただければと思います。
ちょっと妙なところから話を始めますけれども、先日の新聞を読んでいましたら「クリスマス粉砕!」とプラカードを掲げて街を練り歩く2人組の話が記事に出ておりました。読んでいきますと、自分たちはクリスマスの趣旨に反対しているんじゃないんだ、と。しかし今の日本は、クリスマスと聞いたら商業主義、物を売るという、本来の趣旨から離れたところにいってしまっている。これに対して自分たちは反対しているんだ、というふうに言っている。そういう記事でありました。その記事を読みながら、なるほどとも思ったんですが、同時にクリスマスの趣旨が理解されずに認められていないというのは、今に限ったことではないなという気もいたします。
今日のこの朗読、ヘブライ人の最初のところに「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」と、このクリスマスのメッセージの大事なところを伝えてますけれども、福音と読み合わせますと「世は言(ことば)によって成ったけれども、世は言を認めなかった。言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」と記しています。キリストがご降誕したその時でさえ、必ずしも受け入れられていなかったということを伝えています。
しかも、このような状況は旧約の時代からずっと続いているようです。皆様、お手元に聖書と典礼をお持ちでしょうか。お持ちでしたら、ちょっとその表紙の絵をご覧ください。聖書と典礼の表紙にご降誕の場面が描かれております。真ん中にまぐさ桶らしきもの、ずいぶん立派なまぐさ桶ですけども、そこに横たわっているのがどうもイエス様のようです。しかしずいぶん大人びた赤ちゃんです。大人からなんか小さくなったみたいで、見てみると8頭身ぐらいありますもんね、これ。普通、赤ちゃんは2等身か3等身です。そして右側にマリア様、左側にヨゼフでしょうね。そして右の上に天使がいて、そのいずれもが手をイエス様の方に差し出して「幼子を見よ」というふうに言っているようです。イエス様のところを覗き込んでいる2匹の動物がいます。左の方は牛だとすぐ分かります。右の方は馬小屋ですから馬なんでしょうかね。ずいぶん耳だかなんだかとんがって、上の方に伸びています。
実はこれは馬ではなくてロバです。イザヤの預言書の始めに「牛は飼い主を知り、ロバは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、私のイスラエルの民は見分けない」という言葉が書かれています。アシジのフランチェスコがこの馬小屋を始めたと言われていますけれども、ヨーロッパやアメリカでは、これは馬小屋ではなくて飼い葉桶と呼ばれています。中国や日本で馬小屋と言うんですけれども、飼い葉桶と言われるのがイタリアでも普通です。牛もロバも飼い主を知っており、食べ物をもらう飼い葉桶を知っているのに、私の民は自分を養い育ててくれている主なる神を知らないという、そういう趣旨です。「私の民は見分けない」という言葉からは、単に気づかないという意味だけではなくて、無視しているというニュアンスも読み取ることができます。
このように今日の第一朗読の終わりのところに、「主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」とイザヤが預言したその旧約の時代も、同じようなことがやはり言われている。「すべての人を照らす光」で、私たち人間の命となる救い主が生まれ、「神の御子によってわたしたちに語られた」新約の時代も、民は言を受け入れず、「暗闇は光を理解しなかった」と聖書は記します。
しかし、今日のヨハネ福音書の後半にありますように、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与える」。ですから世が神の御言葉を信じなくても、神様の到来を気に留めなくても、神は預言者たちを通して語られた人間の救いを実現していきます。それだけ人間の救いということを大事にしていらっしゃるということでしょう。神ご自身は、ご自分が語った約束を裏切ることができません。ですから、準備をして定められた時、この終わりの時代に御子を人間として送ってくださいました。その方を受け入れる人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた。その神の子というのも、人間の血筋とか家柄とか知恵とか、そういうのではなくて、「神によって生まれた」神の子にしてくださる。私たちに与えられたこの恵み、そして私たちが生きるこれが本当のことだという意味の真理に感謝したいと思います。
同時に、教皇フランシスコが語られた言葉を皆様と一緒に味わいたいと思います。「イエスの他には、御父である神を知る者はいません。しかしイエスは、まさに御父がどういう方であるかを私たちに啓示するために、この世に来られました。この幼子のおかげで私たちは、大陸や言葉や文化の違いを超えて、互いを父なる神のもとでの本当に兄弟姉妹と呼ぶことができるのです」。「キリストは限られた人のためではなく、すべての人のために来られました」。たとえ拒絶する人がいても、すべての人が神様の視野に入っているし、その救いの恵みが届けられています。私たちが洗礼を受け、またこうしてミサに与って恵みを受けるこの恵みも、自分自身のためでもありますけれども、それはまた同時にすべての人のためのものでもあります。
クリスマスシーズンにI wish you a Merry Christmasと言いますけれども、このyou(あなた)という言葉の中に、私の知っている人、親しい人、隣人、そこに限らないで、これまで一度も出会ったことのない人に出会うこともあるでしょう。名も顔も知らない人と出会うことはあるでしょう。その一人ひとりにMerry Christmas and Happy New Yearと言える。そういう使命に私たちは召されています。それを通してイエス様のメッセージをこの世の中に、社会に伝えていくこと、そういう思い、恵みを今日のこのミサの中で特にお祈りしたいと思います。
主の降誕(夜半のミサ)
主のご降誕、皆様おめでとうございます。
新しい命は希望を私たちにもたらしてくれます。闇に輝く光を象徴するロウソクを手に、幼子がもたらす平和と希望に、私たちも世界全体も満たされますようにお祈りしたいと思います。ミサの前に読まれた絵本「羊飼い」。星の招きに導かれて幼子イエスと出会うストーリーですが、星は大きな町も立派なお城も通り越して、野原の小さな小屋に導きます。「静かな夜」の出来事であることが強調されています。「静かな、静かな夜です。みんな眠ってシーンとしている」「静かな、静かなクリスマスの夜でした」。
火を灯したロウソクを手にして歌った「しずけき」の歌は、この「静かな、静かな夜」が舞台になっています。日本では「きよしこの夜」という曲で知られていますけれども、カトリックの世界では「しずけき」という題で知られています。この曲の元となったストーリーは今私が読み上げた聖書の場面で、その英語版の歌い出しはSilent night, holy nightです。もうお気づきかと思いますけれども、「きよしこの夜」はholy nightの方に、「しずけき」はsilent nightの方に注目して日本語に訳されています。もっとも英語版も翻訳でありまして、オリジナルはドイツ語の“Stille Nacht, heilige Nacht”。英語版はその直訳です。
この曲が作られたのは1818年のクリスマスイブ、24日から25日にかけての真夜中の深夜ミサで初めて歌われました。作詞はザルツブルクから山に入ったオーベンドルフという村の聖ニコラ教会司祭、ヨゼフ・モール。作曲はその教会専属のオルガニスト、フランツ・クサーヴァー・グルーバーです。日本で年末恒例のベートーベンの交響曲第9番がオーストリアのウィーンで初演されたのは1824年5月。Stille Nachtの誕生はその6年前、その誕生には次のようなエピソードが伝えられています。
1818年12月24日、クリスマスイブの日の朝、オルガニストのグルーバーが司祭モールにとんでもないことを知らせてきた。オルガンの音が出ない。調べてみるとオルガンに空気を送るふいごがネズミにかじられていた。修理工をザルツブルクから呼ぼうにも雪が深く積もっており、ミサの時間には間に合わない。オルガン演奏のないミサなど考えられない。ましてやクリスマスという大祝日なんだ。モールもグルーバーも自らの役目を果たせなくなる大きなピンチになりました。
悶々としているモール神父に、村の農夫に赤ちゃんが生まれたので家に来て祝福してほしいとの依頼が届く。深い雪道を分け進んで祝福を与えてその帰り道、母親の胸に抱かれてすやすや眠る幼子。先ほど目にした愛らしい光景を心に残しながら、今晩祝うはずのイエス様の誕生のことを思う。そうした時、天使たちが羊飼いたちに「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」と歌って喜びのメッセージを伝えたことに思い至る。彼は少年時代ザルツブルクの教会の聖歌隊のメンバーで、歌が大好きな人でした。
自分の教会に戻ってすぐ、今日の福音の話にある幼子の誕生、イエスを胸に抱く母マリアとそれを見つめる父ヨゼフ、静かな夜空に響く天使の歌声、喜びのメッセージを授けられた羊飼いたちの訪問などを思い巡らしていると、感動があふれ、言葉が自然に出てきた。思いの流れるままに言葉を書き連ねると、10節も超える詩が出来上がった。聖書の記述に基づくクリスマスストーリーで、ドイツ語の本来の詩を見るときちんと韻も踏んでいます。
「そうだ、これを歌ってクリスマスを祝おう」と思ったものの、曲になっていない。そこでモールはグルーバーを呼んで「この詩に音楽をつけてくれ、これを深夜ミサで歌うんだ」と頼む。「オルガンが鳴らないのに曲などできっこない」「それならギターがあるだろう」「あるけど、ギターのコードは簡単な3つぐらいしか知らない」「それなら簡単な曲でいいから、その3つを使って作ってみてくれ」。
こうして1時間も経たないうちに出来上がったのがStille Nacht(しずけき)の曲です。深夜ミサではモールのギター伴奏に乗って、モールがテノール、グルーバーがバス、二人の女性がソプラノとアルト、四重唱の歌声が響いたそうです。ベートーベンの第九より庶民的で、世界中で歌われる賛美歌がこうして誕生しました。1週間後でしょうか、2週間後でしょうか。ようやくやって来たオルガン修理工が、修理の終えたオルガンでグルーバーが奏でるこの歌に心を奪われ、楽譜を持ち帰ったことから、ザルツブルク一帯でこの曲が知られるようになりました。次いで、それがドイツのライプチヒで紹介されるや評判を呼び、ドイツの当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世も大いに気に入って、クリスマスを祝うときにはこのStille Nachtを真っ先に歌うように命じる。こうしてドイツ全域に、そしてヨーロッパ各国へ、アメリカへ、さらには日本へと、歌詞は各国語に翻訳されながら曲が広がっていったのでした。
一方、皆様、もうお気づきになったでしょうか。ベートーベンの第九の初演は1824年の5月。今年はちょうどそれから200周年です。第九はフリードリヒ・フォン・シラーの詩「歓喜の歌」を第4楽章で合唱として取り込みまして、交響曲に新しい分野を切り開いたというふうに言われています。この「歓喜の歌」は1785年の作で、人間賛歌とも言われ、ここには救い主とかイエス・キリストとかの言葉は一切出てきません。しかし、このシラーの詩の終盤にこう書いてあるのを皆様ご存知でしょうか。
「兄弟たちよ、天空の上には愛すべき父なる神がおられるのだ。諸人よ跪いたか、世界よ、創造主の存在に思いを示したか。星辰の彼方に神を求めよ」
と歌われているのです。私たち人間が皆兄弟、兄弟たちと呼ぶのは、単なる言葉の綾、飾り言葉に過ぎないのではありません。創造主である神が、私たちの共通の愛すべき父なる神として天におられるからだと、何の疑いもなくシラーは謳っています。
この考えは聖書の教え、イエス・キリストの教えと重なります。創造主として私たちの存在を支えている神は愛すべき父なる神で、その神と、様々な限界、寿命があって死を避けることのできない存在である私たち人間。争いや憎しみ、妬みなどから解き放たれない存在である私たち人間。国籍や人種、言葉の違いを乗り越えることがとても難しい私たち人間。その神と人間の両者の間に和解の橋を架け、神の命と交わりに私たちが与ることができるように道を開いた方。その方を救い主と呼び、その救い主を誕生を祝うのが今日のクリスマスの祝いです。
だからこそ、天使は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言ってますし、「今日、あなた方のために救い主がお生まれなった」と告げている。
「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」というこの言葉は、神と人との橋が架かったということを私たちに伝えようとしています。Stille Nacht(しずけき)はルカ福音書の記述に基づいてクリスマスストーリーを歌っています。第九は「歓喜の歌」を用いて、愛すべき父なる神と私たち人間とが結びついていることを歌い上げます。私たちも「歓喜の歌」のメッセージを改めて味わい、「しずけき」が描くクリスマスストーリーをたどりながら、希望を新たにして生きる糧にしたいと思います。
本日24日から1年間の聖年、聖なる年が始まります。聖年に向けて教皇フランシスコは、聖書の言葉を引用して「希望は欺かない」とおっしゃっています。私たちも「希望は欺かない」ということを信頼し、希望を生きる糧にして新しい年を迎えることにしたいと思います。
皆様、メリークリスマス、アンドハッピーニューイヤー。
待降節第4主日
酒井 陽介 神父
12/22(日)10:00- 待降節第4主日
今日の福音のテーマとして1つ皆さんと分かち合いたいのは、誰かに、またどこかに向かって歩みゆく霊性があるということです。特に今日の聖母マリアの姿から、私たちは誰かのために、どこかに向かって歩み行くということ、私たちにもそれが問われている、招かれているということを分かち合いたいと思います。
今読まれた福音のこのマリア様の姿、あり方は「ご訪問」です。訪問ですから、自分のいる場所ではなくて新しいところに、または大切な人がいる場所に、必要とされているところに向かって歩み行くということです。ご訪問のマリア様。このことを今日、私たちは身近に感じることができたらと思います。身重のエリサベトのために、ご自身も身重であったにもかかわらず、「マリアは急ぎ足で山里に行った」とあります。誰かのために彼女は自分の心、そして体を動かしました。単に心と体が動いただけではなくて、実際に必要のある場所へ、そして必要としている人に向かって歩み行くということを具体的にしたわけです。彼女は今日のこのご訪問をもって、具体的に関わる、そしてその人の、その場所の傍らに留まるということを私たちに見せてくださっています。マリアも身重でしたから、そこに何の葛藤も感じないと誰が言えるでしょうか。
そこで今日私たちが考えてみたい1つのことは、この自分のとらわれから解放され、他者に向かう姿ということです。私たちはみな色々な形でとらわれだったり、こだわりだったり、執着だったり、そういったものがあると思います。強いエゴであったり、他者への配慮に欠けるどこか自己中心的な見方であったり、自分の正しさへのこだわりであったり。それゆえに相手の弱さを裁く心持ちとか態度。こうしたことは私たちが人間である以上、完全に自由になるということはなく、こうしたものの中で生きていると思います。私たち一人ひとりにはこのようなとらわれがある。その中でも、私のとらわれ、強いとらわれは何だろうか。そんなことを考えてみるのも、この待降節の1つのテーマかもしれません。
しかし、とらわれは何か私を不安にさせ、私を惨めにさせるものでもないということなんです。なぜならば、やっぱり自分のとらわれを知ったり、それを強く感じるということは、いい学びの時だと思うんです。そしてその時に、ああ自分はダメだとか、なんてつまらない人間だということではなくて、「大丈夫、大丈夫、神の愛の中で全てはうまくいくんだ」と、そのように自分に語りかけてみる。その時に私たちは自分の心からの促し、深い促しに従って任せて、具体的な一歩を踏み出すことができると思います。とらわれとか、しがらみとか執着とか、そこから自由になって、もちろん完全に自由になることは私たちはできないわけです。しかし、そこに私を留めておく、そこに私の足を引っ張るということではなくて、それを持って一緒に歩いていけばいいんです。なぜならば、神様がそれをうまく変えてくださる。神の愛の中で全ては変わっていくんだ、と信じていく。今日の聖母マリアの姿は、そうした自分のとらわれから解放されて他者に向かう姿を私たちに示してくれていると思います。
そしてもう1点ここで皆さんと分かち合いたいことは、マリア自身、実際にエリサベトの元に行って、彼女から自分自身について教えてもらう、伝えてもらうということです。「あなたは女の中で祝福された方、体内のお子さまも祝福されている」。このように伝えてもらう。マリアはこの出来事、この体験を通して自分の中にいるイエス、救い主を、その存在、そして自分の生き方、自分の在り方を改めて意識する体験になったと思います。そしてエリサベトはこう言います。「神の言葉は必ず実現すると信じる方は、なんて幸いなんでしょう」と。それは先ほど言ったように、私たちが自分のとらわれというものから一歩足を踏み出した時、新しさへと向かっていく時に、具体的に誰かと関わる時に、必要なところへ向かっていく時に、「大丈夫、大丈夫、神の愛の中で全てはうまくいくんだ」、このことを私たちが自分に言い聞かすだけではなくて、実際にそのように語りかけられているということです。それを1番最初に、まさに人間として体験したのは、もしかしたらこの聖母マリアだったかもしれない。聖母は自らの生き方をもって私たちに教えてくださいます。
さて、私たちが向かう先にいるのは誰でしょうか。向かう先はどこでしょうか。私の存在や関わりを必要としているのは、どのようなことでしょうか。そしてそれは単に誰かのためとか、自分の身を粉にして働く云々ではなくて、実は私もそこに行く必要があるんだということです。私もそこに行くことで、関わることで、私が誰かを教えてもらえる。私の在り方を知ることができる。さらに私も幸せだと思うことができるということです。これは私たち一人ひとりがなす旅、巡礼です。
私たちが向かう先にある山里はどんなものなのでしょうか、急いで行く必要もないかもしれません。ゆっくりでいいと思います。でもきっと私たちのこの日常の中に、現実の中に、私たちが歩んでいかなければいけない、登っていかなければいけない、下っていかなければいけない山里があると思います。その先にきっと、私たちのことを待っている人たち、案外そういう人たちは近くにいるかもしれないし、実際に遠いかもしれない。それは人それぞれです。でも、そんな場所がきっとある。そして私たちより先に歩いてくれた聖母が共に歩いてくれるということも私たちは忘れないでいたいなと思いますし、行った先で必ずイエスと出会えるんだ。そして気づかせてもらいます。ああ、イエスは一緒にいてくださるんだ。クリスマスを迎えるにあたって、もう1度私たちはこの恵み、この旅路、私たちの山里を振り返りたいと思います。
待降節第3主日
髙祖 敏明 神父
今日のこの第3主日は「喜びの主日」と言われています。皆様がお手元に持っていらっしゃる聖書と典礼にもそのことが書いてございまして、「主がすぐそばに来ておられる喜びが、3つの朗読に共通している」というふうに書いてあります。実際に先ほど朗読していただきましたゼファニアの預言の最初のところにも「娘シオンよ、喜び叫べ」と喜びが出てきますし、フィリピ書も冒頭のところに「皆さん、主において常に喜びなさい」という言葉で始まっていますし、先ほどの答唱詩編も「喜びに心をはずませ」と、喜びという言葉が重ねて出てきております。他方で、今私が読み上げた福音書の中には、喜びという言葉が一言も出てまいりません。何が理由で喜ぶのかということを、改めて私たち一人ひとりが聖書の御言葉の中から、あるいは私たちの毎日の生活の中から探し出すように、というふうに招いているようにも思います。今日の3つの朗読を手がかりにして、私なりに少し感じたこと、気づいたことを申し上げたいと思います。
ゼファニアの預言書を改めて見ていきますと、何が喜びの理由かということについては「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた」というふうに言っていますし、「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」。また「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって、勝利を与えられる」。私たちの中に主がおられるということが1つの喜びの大きな理由になっているようです。そして私もハッとしたんですけれども、その後半のところに「主がお前のゆえに喜ばれる」。つまりこの喜びというのは私たち人間が喜ぶだけではなくて、神様の方も私たちのことを喜んでくださる。この喜びは両方の喜びなんだという、これが何か大切なメッセージになっているような気がいたします。第2朗読のフィリピ書、「主はすぐ近くにおられます」ということから始まりまして、喜びの理由がずっとその後半に書かれています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。それが喜びの理由だというふうに説明しているようにも思います。
こういうふうな聖書の箇所を読みながら私の心に浮かんできましたのは、「すべての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである」という、数日前の平日のミサで読まれた箇所ですけれども、その日の私たちの「教会の祈り」の朗読の箇所には、アウグスティヌスの言葉が引用されていました。アウグスティヌスは、救いの約束を告げる時期、つまりそれが旧約の時代だと、そして救いの約束を実現する時期が新約の時代なんだ。洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者であり、新約の始まりを告げる預言者。その中間にいる預言者が洗礼者ヨハネなんだというふうに言って、その救いの約束を実現する時代に入ったので、神の御子が聖霊によってマリアに宿り、イエスが誕生して、イエスは生涯をかけて私たち人間をご自分の兄弟、「神の子」に高めたんだ、というふうに説明しております。だからこそ、クリスマスのイエスの誕生に際して、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」というふうに天使が羊飼いたちに伝えました。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」、こういうことを少し祈りの中で思っていました時に、私の心に浮かんできたのは創世記の言葉でした。「神は人をご自分の似姿に造られた」というこの創世記の言葉。私たち人間は神の似姿であるというのは、人間一人ひとりが尊厳を持つということの聖書的な根拠であるというふうにも言われますけれども、神の似姿である人間というのは、ここだけ読むと過去にそう造られたっていうふうな読み方もできるんですけれども、神の似姿というのは、かつて造られたという過去の出来事を言うだけではない。神の似姿に造るということは、今もその創造が続いており、未来への完成に向けて歩み続けている預言の言葉と理解する方が適切なのではないのか。つまり私たち一人ひとりは神の似姿として造られたんですが、神の似姿としても完成しているわけではなくて、その神の似姿の中身を一人ひとりがちゃんと身につけるように成長、成熟していっているということです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエス様はおっしゃいます。そして私たち人間は、人を裏切ったり、誠実さを欠いたり、神を裏切ったり、神に対する誠実をないがしろにしたり、自分さえも裏切ることができますけれども、神ご自身はご自身を裏切ること、自分に対して誠実でなくなることはできない。それが神であるから。それを他の言葉で言うと、ひとたび語られたことは、どんなことがあったとしても必ず実現していく。私たちが神様から離れてそういうふうな生活を送っていたとしても、神様から与えられた言葉は、いろいろな紆余曲折があるにしても必ず実現していく。ですから、神の似姿に造られたという私たちは現在進行形です。現在もそれが続いている。私たちはイエスの兄弟として「神の子」となる。それはこの額に水を注がれて、聖霊と火で洗礼を受けることによる。しかし洗礼を受けたら終わりというのではなくて、洗礼を受けてからこそ始まり、新しいスタート、新しい創造がそこから始まって今も続いている。そういうふうに考えていきますと、今日の朗読した福音書に喜びという言葉はありませんけれども、洗礼者ヨハネの後に来る方は、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ」るように清めと収穫の取り入れを果たして、神の似姿に造られた人間が、その似姿に本当になっていく。そういう道筋と恵みを与えてくださる。それがすなわち神の子となる救いであり、それをパウロはキリストに似た者になる、キリストの背丈まで成長するという表現で表しています。
洗礼者ヨハネは、私たちが本当の意味で神の似姿となり、神の子となるよう主の道を準備するよう神様から託された存在。その具体的勧めが本日の福音書の前半に、こうこうしなさいというふうに書かれています。「下着を2枚持っている者は、1枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。それから税金を集める人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」。兵士に対しても、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。こういうふうな言葉で、それぞれの置かれた状況に神様の方からのメッセージ、アドバイスが与えられております。そういう神の御子の誕生、それが実現する日が近い。それが今日の福音の伝える喜びの理由だというふうに教えているように思います。
このように見ていきますと、ゼファニアの「お前の主なる神はお前のただ中におられる」というのは深い意味での神の似姿、神の子が実現することを預言していますし、パウロは、それがもうすでに実現していることを、「主はすでに近くにおられます」、あなたのそばにいるんだという言葉で、私たちにそれをはっきりと伝えています。しかもそのことは私たちにとっての喜びだけではなくて、神様の方からも喜びであるという、双方が喜びを持つ、分かち合っているという、これも今日のこの喜びの主日の大事なメッセージだと思います。神の似姿、神の子となる喜び、キリストに似た者となる。あるいは他の言葉で、キリストを着る者になるという言葉も言われていますけれども、そういう喜びを味わう恵みを願いながら、これから信仰宣言を唱え、共同祈願をご一緒に唱えてまいりましょう。
待降節第2主日
李 聖一 神父
12/8(日)10:00- 待降節第2主日
待降節に入って2週目を迎えるわけですが、皆さんそれぞれに主の降誕を準備する、そうしたことをなさっているだろうと思います。毎年待降節のどこかの日曜日でミサの当番が回ってくるので、私は大体この第2の主日か、第1の主日ぐらいにミサをすることが多いですが、先ほど手話の通訳をなさる方が「今日はどんな説教をなさいますか」って言われたので、「そうですね、聖書については触れないと思います。馬小屋と、あと『待つ』っていうことの意味、それを話そうと思います」と言ったら、通訳の方が「イルミネーションは?」って言われたので、ああ、そうか、この方は私がどういう説教をするか大体わかってらっしゃるんだなと思って。手話の通訳は大変だと思いますけれども、なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。そしてその指摘通り、馬小屋とイルミネーションと、そして「待つ」ということについてお話ししようかと思います。
待降節ですから私たちは、クリスチャンの家庭であればそれなりの雰囲気を作っていかなければならないし、教会もそうしたことを心がけるわけですが、やっぱり1つは馬小屋って大事になってきますね。イエスが生まれたそのことを想像させるためにとっても必要なことですから、この教会もそうですが、教会では馬小屋の準備をしますし、そして最近ではベトナムの信者の共同体がベトナム風の、とってもゴージャスな馬小屋を作って私たちの目を楽しませてくれますが、ただですね、日本はこの馬小屋を作っても、そこにイエス様を置くんですね。それを私は見るたびに注意するんです。「まだ生まれてない」って。そんな早く生まれちゃいけませんとかって言うんですが、私、上智大学で働いていますけれども、事務室のどこかにはもう置いてあるんですね。これはいかんいかんと思いながら、このカトリックの習慣っていうものはですね、それなりに大切にしなければならないと私は思っています。
昔、もう15年も前ですが、スペインにちょっとスペイン語の勉強をしに行ったことがありますが、その時に「もう馬小屋飾った?」っていうのがその時の季節の挨拶だっていうふうに習ったことがあります。それをスペイン語の先生に言ったら、「もうそんな言葉は使わない」って言われましたが、スペインのカトリックの事情がなんとなくわかってきましたね。スペイン語では馬小屋のことをベレンって言うんですけども、これはベトレヘムっていう名前から来るもので、そのベトレヘムでの様子っていうのを表す。これが一般的に馬小屋を示す言葉だっていうのも初めて知りました。ぜひ皆さんの家庭、あるいはまた職場、そういったところに小さなものでも構わないので、馬小屋を想像させるものを置いておくっていうのは1つの準備としていいんではないかと思います。
もう1つはイルミネーションですけれども、最近の調査かなんかで、幼稚園児にクリスマスでもってイメージするものは何ですかっていう質問に対して、幼稚園の生徒、園児たちは馬小屋とかクリスマスツリーとかプレゼントだとか、そういったことを言わないんだそうですね。何かっていうと「光」って言うんだそうです。へー、と思います。これ、先週の聖書と典礼のコラムにあったような気がしますが、へー、あんな幼い子たちがクリスマスに想像するものって光なんだ。これもとっても大事なことだと思いますね。暗闇に光が輝く。そういう意味で、私たちはこの冬の季節、もう日本はあっちこっちでイルミネーションを飾ったり、あるいはまた宣伝もしてますよね。何年か前に足利にあるフラワーパークっていうところに行ってそのイルミネーションを見てきましたが、これは見事でしたね。普通に藤の花を見に行くのもいいんですが、その藤の花をかたどったイルミネーションっていうのには、もう本当に感動しました。皆さんもぜひこの機会に、時間があれば夜どこか街の中に出かけて行って、光を体験するということをなさったらいいと思いますね。
実はこの上智大学の北門にも1本クリスマスツリーがあって、この間の月曜日でしたか、ちょうど1週間前点灯式をやりました。去年ですね、ある中国人の留学生が私のところに来て「上智大学のイルミネーション、クリスマスツリーの点灯っていうのはしょぼすぎる」って言うんですね。なんでと言ったら「青山学院大学とか立教大学はもっとすごいんです。完全に負けてます」って言われたので、電球を3倍にしてもらいましたが、道行く人もそれを眺めておられる。私たちは毎週金曜日、この待降節の間、そのイルミネーションの下で祈りの集いっていうのを行い、平和のために祈りながらクリスマスを待つっていうこと、こんなことを工夫しています。
最後にもう1つ、「待つ」っていうことを、やはり私たちは大事にしなきゃいけないんだろうなとつくづく思います。携帯電話とかスマホとかっていうのが現れて、何か私たちは待つっていうことをしなくなったような気がしますね。街中を歩いていくと、みんなスマホの画面見ながら、あるいは地下鉄や電車の中でもみんなスマホを見ながら何か読んだり、何かしてますけれども、私は日本人が待つことを忘れたっていうふうに感じています。それでこの待つっていうのはどういう意味があるかっていうと、待っていること、あるいは待っている人、そのことに対する思いが高まってくるっていう意味があるんですね。待つという姿勢というのは、その待っている事柄、待っている人、その人に対する思いが高まってくる。そしてそういう意味を持つからこそ、昔から日本では和歌とか短歌とかって言われるような言葉の、そういうものの中に、待つっていうことは非常によく使われたわけですね。そしてそれは多くの場合、愛する人であったり、思いを寄せる人に対して待つっていうことをいつも大事にしてきた。私たちカトリックはこのミサの間にも、待つという言葉を何度も使うんです。主の訪れを待つ、この世の終わりを待つ、主が来られるのを待つっていうことを言う。それは主に対する思いを私たちが高めていく、愛するという思いを強めていくためだというふうに言ってもいいだろうと思います。そして、もう待つことをしない、待てないということになったならば、そのものに対する関係を断ち切るということですから、私たちは待ち続けるということをずっと続けていくことが大事になってくるんだろうと思いますね。
そこで皆さんに1つ提案ですが、私は最近よく言うんですけど、「信号待ちの祈り」っていうのを皆さん心がけられたらいいと思います。そこの四ツ谷の交差点をよく渡るわけですけど、もう本当にね、青信号がチカチカしてるのに走っていこうとする人いっぱいいますよね。私はそれを見るたびに、ああ、もったいないと思うんですよ。次の信号まで待てばいい。そして待っている間に祈る。自分が今まで何をしてきたか、これから何をしようとしているか、今の私の思いは何か。そうするとですね、なんとなく忘れ物を思い出したりすることもあるんですね。あ、そうか、待つっていうこと大事だなぁと私はやっぱり思う。それを大事にするためには日々の生活の中で、信号待ちの祈り、ホームで電車を待つ間の祈り、車を運転していて、黄色だからすぐ行けとかって言うんじゃなくて、止まって赤信号の間祈る。そうした心の余裕っていうものを私たちは取り戻す必要があるんだろうなと思います。この待降節の時期、いろんな工夫をしながら私たち自身が「待つ」ということを大切にする。それも非常にいい準備になるんだろうなと思います。
最後に、このクリスマスに受洗する方も多いと思います。旅する教会とともに信仰の旅を始めようとする方々の上に、神様の豊かな祝福があるように、またご一緒にお祈りいたしましょう。
待降節第1主日
柴田 潔 神父
待降節第1主日、3つの聖書が朗読されましたが、第1朗読の方が救い主の誕生を予感させてくれるように思います。エレミヤは紀元前6世紀に活躍していた預言者です。「ダビデの子孫から生まれる王『若枝』が救いをもたらす」と書いています。「若枝」はメシア(救い主)を意味します。この「救い主」が直接イエス様のことを指しているという考えと、そこまで明確には言えない、という考えがあります。いずれにしても長く苦しい外国からの支配からの解放を長い間待ち望んでいました。
福音書は、過越祭が近づき、イエスを殺そうとする人々の計画が練られている状態のことを書いています。「終末にはどのような徴があるか?」という神殿にいた人々からの質問にイエス様が答えています。イエス様は、エルサレムの滅亡と世の終わりを予告しています。すべての人に突然襲いかかる終わりの日が来る。その日に備えて「いつも目を覚ましていなさい」と命じます。「滅亡の日」と「解放の時」が同時に語られています。この「解放の時」は、キリストの十字架による贖いの日です。「ご自分の血という代価で、罪を赦す」「贖いの業」を意味しています。
待降節の文脈では理解しにくいところもあるかもしません。そこで今日は、新しい命をどのように待ち望むのか?周産期医療を題材にしたドラマ「コウノドリ」で今橋先生が演じた豊島勝昭先生が書かれた『NICU命の授業』という本からご紹介いたします。こちらがこの本です。(参考:「NICU命の授業: 小さな命を守る最前線の現場から」(豊島勝昭 著・赤ちゃんとママ社・2020年))。本の中に「輝いた6日間のいのち」というタイトルの女の子のお話が紹介されています。
お母さんのお腹の中に“こはるちゃん”が生まれました。18トリソミーという染色体異常の女の子がお母さんのお腹の中に宿りました。家に帰ることはできず、亡くなってしまうかもしれない赤ちゃんでした。生まれてからも1週間くらいの命になるかもしれない。そう聞かされたお母さんはものすごくショックを受けて涙が止まりませんでした。少しでも長く生きる集中治療をするか?家族で過ごす時間を優先するか?迷った心で出産の日を迎えました。無事産まれた、こはるちゃんの顔を見て、家族で一緒に過ごすことを心に決めました。母乳をスポイトで飲ませたり、お風呂に入ったり、夜は3人で川の字のように並んで寝ました。その表情はとても可愛かった。
そして生まれて7日目の朝に、お父さんとお母さんに見守られながら、こはるちゃんは天に還りました。
このことを伝えると「たった6日間の命」「早く忘れて、次の赤ちゃん産んだら」という言葉をかけられたりします。でも、ご両親にとって「あの6日間はとても楽しいこともたくさんあって、決して忘れたくない、かけがえのない時間」でした。「娘のありのままの姿、生きる力をみんなで見守った時間」でした。
ここからは私の想像ですが・・・ご両親は、こはるちゃんを天に見送ってから、深い悲しみに襲われたり、小さい子を見ると「こはるも生きていたらこれくらいになっていただろうに」そんな思いがあったように感じます。悲しみ・苦しみを抱えながら新しい命を待ち望みます。
それから3年、こはるちゃんに妹が生まれました。妹さんには、1日1日を後悔しないように生きるという意味を込めて「日々」という名前が付けられました。こはるちゃんと一緒に過ごした日々から気づいた大切なことを、お父さんとお母さんは、妹さんにも伝えたかったんだと思います。
こはるちゃんの6日間の命、3年後の「日々」ちゃんの誕生は、長く苦しい外国の支配からの解放を待ち望んだイスラエルの人々の心と重なるように思います。
今の私たちに当てはめたら、日々を神様に感謝して生きること、今苦しくても新しい命・新しい恵みを神様からいただけるよう待ち望むこと。この2つが考えられます。
短くても精一杯生きたこはるちゃん、それから3年して生まれた待望の赤ちゃん「日々」ちゃん。待降節、神様からの恵みを新しい心で日々受け止め直していきましょう。そして新しい命・神様からの恵みを待ちわびる。いつも目を覚まして祈る待降節にしてまいりましょう。