2024年12月 ミサ説教
12/15(日)10:00- 待降節第3主日 髙祖 敏明 神父
待降節第3主日
髙祖 敏明 神父
今日のこの第3主日は「喜びの主日」と言われています。皆様がお手元に持っていらっしゃる聖書と典礼にもそのことが書いてございまして、「主がすぐそばに来ておられる喜びが、3つの朗読に共通している」というふうに書いてあります。実際に先ほど朗読していただきましたゼファニアの預言の最初のところにも「娘シオンよ、喜び叫べ」と喜びが出てきますし、フィリピ書も冒頭のところに「皆さん、主において常に喜びなさい」という言葉で始まっていますし、先ほどの答唱詩編も「喜びに心をはずませ」と、喜びという言葉が重ねて出てきております。他方で、今私が読み上げた福音書の中には、喜びという言葉が一言も出てまいりません。何が理由で喜ぶのかということを、改めて私たち一人ひとりが聖書の御言葉の中から、あるいは私たちの毎日の生活の中から探し出すように、というふうに招いているようにも思います。今日の3つの朗読を手がかりにして、私なりに少し感じたこと、気づいたことを申し上げたいと思います。
ゼファニアの預言書を改めて見ていきますと、何が喜びの理由かということについては「主はお前に対する裁きを退け、お前の敵を追い払われた」というふうに言っていますし、「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」。また「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって、勝利を与えられる」。私たちの中に主がおられるということが1つの喜びの大きな理由になっているようです。そして私もハッとしたんですけれども、その後半のところに「主がお前のゆえに喜ばれる」。つまりこの喜びというのは私たち人間が喜ぶだけではなくて、神様の方も私たちのことを喜んでくださる。この喜びは両方の喜びなんだという、これが何か大切なメッセージになっているような気がいたします。第2朗読のフィリピ書、「主はすぐ近くにおられます」ということから始まりまして、喜びの理由がずっとその後半に書かれています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。それが喜びの理由だというふうに説明しているようにも思います。
こういうふうな聖書の箇所を読みながら私の心に浮かんできましたのは、「すべての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである」という、数日前の平日のミサで読まれた箇所ですけれども、その日の私たちの「教会の祈り」の朗読の箇所には、アウグスティヌスの言葉が引用されていました。アウグスティヌスは、救いの約束を告げる時期、つまりそれが旧約の時代だと、そして救いの約束を実現する時期が新約の時代なんだ。洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者であり、新約の始まりを告げる預言者。その中間にいる預言者が洗礼者ヨハネなんだというふうに言って、その救いの約束を実現する時代に入ったので、神の御子が聖霊によってマリアに宿り、イエスが誕生して、イエスは生涯をかけて私たち人間をご自分の兄弟、「神の子」に高めたんだ、というふうに説明しております。だからこそ、クリスマスのイエスの誕生に際して、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」というふうに天使が羊飼いたちに伝えました。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」、こういうことを少し祈りの中で思っていました時に、私の心に浮かんできたのは創世記の言葉でした。「神は人をご自分の似姿に造られた」というこの創世記の言葉。私たち人間は神の似姿であるというのは、人間一人ひとりが尊厳を持つということの聖書的な根拠であるというふうにも言われますけれども、神の似姿である人間というのは、ここだけ読むと過去にそう造られたっていうふうな読み方もできるんですけれども、神の似姿というのは、かつて造られたという過去の出来事を言うだけではない。神の似姿に造るということは、今もその創造が続いており、未来への完成に向けて歩み続けている預言の言葉と理解する方が適切なのではないのか。つまり私たち一人ひとりは神の似姿として造られたんですが、神の似姿としても完成しているわけではなくて、その神の似姿の中身を一人ひとりがちゃんと身につけるように成長、成熟していっているということです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とイエス様はおっしゃいます。そして私たち人間は、人を裏切ったり、誠実さを欠いたり、神を裏切ったり、神に対する誠実をないがしろにしたり、自分さえも裏切ることができますけれども、神ご自身はご自身を裏切ること、自分に対して誠実でなくなることはできない。それが神であるから。それを他の言葉で言うと、ひとたび語られたことは、どんなことがあったとしても必ず実現していく。私たちが神様から離れてそういうふうな生活を送っていたとしても、神様から与えられた言葉は、いろいろな紆余曲折があるにしても必ず実現していく。ですから、神の似姿に造られたという私たちは現在進行形です。現在もそれが続いている。私たちはイエスの兄弟として「神の子」となる。それはこの額に水を注がれて、聖霊と火で洗礼を受けることによる。しかし洗礼を受けたら終わりというのではなくて、洗礼を受けてからこそ始まり、新しいスタート、新しい創造がそこから始まって今も続いている。そういうふうに考えていきますと、今日の朗読した福音書に喜びという言葉はありませんけれども、洗礼者ヨハネの後に来る方は、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ」るように清めと収穫の取り入れを果たして、神の似姿に造られた人間が、その似姿に本当になっていく。そういう道筋と恵みを与えてくださる。それがすなわち神の子となる救いであり、それをパウロはキリストに似た者になる、キリストの背丈まで成長するという表現で表しています。
洗礼者ヨハネは、私たちが本当の意味で神の似姿となり、神の子となるよう主の道を準備するよう神様から託された存在。その具体的勧めが本日の福音書の前半に、こうこうしなさいというふうに書かれています。「下着を2枚持っている者は、1枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。それから税金を集める人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」。兵士に対しても、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。こういうふうな言葉で、それぞれの置かれた状況に神様の方からのメッセージ、アドバイスが与えられております。そういう神の御子の誕生、それが実現する日が近い。それが今日の福音の伝える喜びの理由だというふうに教えているように思います。
このように見ていきますと、ゼファニアの「お前の主なる神はお前のただ中におられる」というのは深い意味での神の似姿、神の子が実現することを預言していますし、パウロは、それがもうすでに実現していることを、「主はすでに近くにおられます」、あなたのそばにいるんだという言葉で、私たちにそれをはっきりと伝えています。しかもそのことは私たちにとっての喜びだけではなくて、神様の方からも喜びであるという、双方が喜びを持つ、分かち合っているという、これも今日のこの喜びの主日の大事なメッセージだと思います。神の似姿、神の子となる喜び、キリストに似た者となる。あるいは他の言葉で、キリストを着る者になるという言葉も言われていますけれども、そういう喜びを味わう恵みを願いながら、これから信仰宣言を唱え、共同祈願をご一緒に唱えてまいりましょう。
待降節第2主日
李 聖一 神父
12/8(日)10:00- 待降節第2主日
待降節に入って2週目を迎えるわけですが、皆さんそれぞれに主の降誕を準備する、そうしたことをなさっているだろうと思います。毎年待降節のどこかの日曜日でミサの当番が回ってくるので、私は大体この第2の主日か、第1の主日ぐらいにミサをすることが多いですが、先ほど手話の通訳をなさる方が「今日はどんな説教をなさいますか」って言われたので、「そうですね、聖書については触れないと思います。馬小屋と、あと『待つ』っていうことの意味、それを話そうと思います」と言ったら、通訳の方が「イルミネーションは?」って言われたので、ああ、そうか、この方は私がどういう説教をするか大体わかってらっしゃるんだなと思って。手話の通訳は大変だと思いますけれども、なるべく分かりやすくお話ししたいと思います。そしてその指摘通り、馬小屋とイルミネーションと、そして「待つ」ということについてお話ししようかと思います。
待降節ですから私たちは、クリスチャンの家庭であればそれなりの雰囲気を作っていかなければならないし、教会もそうしたことを心がけるわけですが、やっぱり1つは馬小屋って大事になってきますね。イエスが生まれたそのことを想像させるためにとっても必要なことですから、この教会もそうですが、教会では馬小屋の準備をしますし、そして最近ではベトナムの信者の共同体がベトナム風の、とってもゴージャスな馬小屋を作って私たちの目を楽しませてくれますが、ただですね、日本はこの馬小屋を作っても、そこにイエス様を置くんですね。それを私は見るたびに注意するんです。「まだ生まれてない」って。そんな早く生まれちゃいけませんとかって言うんですが、私、上智大学で働いていますけれども、事務室のどこかにはもう置いてあるんですね。これはいかんいかんと思いながら、このカトリックの習慣っていうものはですね、それなりに大切にしなければならないと私は思っています。
昔、もう15年も前ですが、スペインにちょっとスペイン語の勉強をしに行ったことがありますが、その時に「もう馬小屋飾った?」っていうのがその時の季節の挨拶だっていうふうに習ったことがあります。それをスペイン語の先生に言ったら、「もうそんな言葉は使わない」って言われましたが、スペインのカトリックの事情がなんとなくわかってきましたね。スペイン語では馬小屋のことをベレンって言うんですけども、これはベトレヘムっていう名前から来るもので、そのベトレヘムでの様子っていうのを表す。これが一般的に馬小屋を示す言葉だっていうのも初めて知りました。ぜひ皆さんの家庭、あるいはまた職場、そういったところに小さなものでも構わないので、馬小屋を想像させるものを置いておくっていうのは1つの準備としていいんではないかと思います。
もう1つはイルミネーションですけれども、最近の調査かなんかで、幼稚園児にクリスマスでもってイメージするものは何ですかっていう質問に対して、幼稚園の生徒、園児たちは馬小屋とかクリスマスツリーとかプレゼントだとか、そういったことを言わないんだそうですね。何かっていうと「光」って言うんだそうです。へー、と思います。これ、先週の聖書と典礼のコラムにあったような気がしますが、へー、あんな幼い子たちがクリスマスに想像するものって光なんだ。これもとっても大事なことだと思いますね。暗闇に光が輝く。そういう意味で、私たちはこの冬の季節、もう日本はあっちこっちでイルミネーションを飾ったり、あるいはまた宣伝もしてますよね。何年か前に足利にあるフラワーパークっていうところに行ってそのイルミネーションを見てきましたが、これは見事でしたね。普通に藤の花を見に行くのもいいんですが、その藤の花をかたどったイルミネーションっていうのには、もう本当に感動しました。皆さんもぜひこの機会に、時間があれば夜どこか街の中に出かけて行って、光を体験するということをなさったらいいと思いますね。
実はこの上智大学の北門にも1本クリスマスツリーがあって、この間の月曜日でしたか、ちょうど1週間前点灯式をやりました。去年ですね、ある中国人の留学生が私のところに来て「上智大学のイルミネーション、クリスマスツリーの点灯っていうのはしょぼすぎる」って言うんですね。なんでと言ったら「青山学院大学とか立教大学はもっとすごいんです。完全に負けてます」って言われたので、電球を3倍にしてもらいましたが、道行く人もそれを眺めておられる。私たちは毎週金曜日、この待降節の間、そのイルミネーションの下で祈りの集いっていうのを行い、平和のために祈りながらクリスマスを待つっていうこと、こんなことを工夫しています。
最後にもう1つ、「待つ」っていうことを、やはり私たちは大事にしなきゃいけないんだろうなとつくづく思います。携帯電話とかスマホとかっていうのが現れて、何か私たちは待つっていうことをしなくなったような気がしますね。街中を歩いていくと、みんなスマホの画面見ながら、あるいは地下鉄や電車の中でもみんなスマホを見ながら何か読んだり、何かしてますけれども、私は日本人が待つことを忘れたっていうふうに感じています。それでこの待つっていうのはどういう意味があるかっていうと、待っていること、あるいは待っている人、そのことに対する思いが高まってくるっていう意味があるんですね。待つという姿勢というのは、その待っている事柄、待っている人、その人に対する思いが高まってくる。そしてそういう意味を持つからこそ、昔から日本では和歌とか短歌とかって言われるような言葉の、そういうものの中に、待つっていうことは非常によく使われたわけですね。そしてそれは多くの場合、愛する人であったり、思いを寄せる人に対して待つっていうことをいつも大事にしてきた。私たちカトリックはこのミサの間にも、待つという言葉を何度も使うんです。主の訪れを待つ、この世の終わりを待つ、主が来られるのを待つっていうことを言う。それは主に対する思いを私たちが高めていく、愛するという思いを強めていくためだというふうに言ってもいいだろうと思います。そして、もう待つことをしない、待てないということになったならば、そのものに対する関係を断ち切るということですから、私たちは待ち続けるということをずっと続けていくことが大事になってくるんだろうと思いますね。
そこで皆さんに1つ提案ですが、私は最近よく言うんですけど、「信号待ちの祈り」っていうのを皆さん心がけられたらいいと思います。そこの四ツ谷の交差点をよく渡るわけですけど、もう本当にね、青信号がチカチカしてるのに走っていこうとする人いっぱいいますよね。私はそれを見るたびに、ああ、もったいないと思うんですよ。次の信号まで待てばいい。そして待っている間に祈る。自分が今まで何をしてきたか、これから何をしようとしているか、今の私の思いは何か。そうするとですね、なんとなく忘れ物を思い出したりすることもあるんですね。あ、そうか、待つっていうこと大事だなぁと私はやっぱり思う。それを大事にするためには日々の生活の中で、信号待ちの祈り、ホームで電車を待つ間の祈り、車を運転していて、黄色だからすぐ行けとかって言うんじゃなくて、止まって赤信号の間祈る。そうした心の余裕っていうものを私たちは取り戻す必要があるんだろうなと思います。この待降節の時期、いろんな工夫をしながら私たち自身が「待つ」ということを大切にする。それも非常にいい準備になるんだろうなと思います。
最後に、このクリスマスに受洗する方も多いと思います。旅する教会とともに信仰の旅を始めようとする方々の上に、神様の豊かな祝福があるように、またご一緒にお祈りいたしましょう。
待降節第1主日
柴田 潔 神父
待降節第1主日、3つの聖書が朗読されましたが、第1朗読の方が救い主の誕生を予感させてくれるように思います。エレミヤは紀元前6世紀に活躍していた預言者です。「ダビデの子孫から生まれる王『若枝』が救いをもたらす」と書いています。「若枝」はメシア(救い主)を意味します。この「救い主」が直接イエス様のことを指しているという考えと、そこまで明確には言えない、という考えがあります。いずれにしても長く苦しい外国からの支配からの解放を長い間待ち望んでいました。
福音書は、過越祭が近づき、イエスを殺そうとする人々の計画が練られている状態のことを書いています。「終末にはどのような徴があるか?」という神殿にいた人々からの質問にイエス様が答えています。イエス様は、エルサレムの滅亡と世の終わりを予告しています。すべての人に突然襲いかかる終わりの日が来る。その日に備えて「いつも目を覚ましていなさい」と命じます。「滅亡の日」と「解放の時」が同時に語られています。この「解放の時」は、キリストの十字架による贖いの日です。「ご自分の血という代価で、罪を赦す」「贖いの業」を意味しています。
待降節の文脈では理解しにくいところもあるかもしません。そこで今日は、新しい命をどのように待ち望むのか?周産期医療を題材にしたドラマ「コウノドリ」で今橋先生が演じた豊島勝昭先生が書かれた『NICU命の授業』という本からご紹介いたします。こちらがこの本です。(参考:「NICU命の授業: 小さな命を守る最前線の現場から」(豊島勝昭 著・赤ちゃんとママ社・2020年))。本の中に「輝いた6日間のいのち」というタイトルの女の子のお話が紹介されています。
お母さんのお腹の中に“こはるちゃん”が生まれました。18トリソミーという染色体異常の女の子がお母さんのお腹の中に宿りました。家に帰ることはできず、亡くなってしまうかもしれない赤ちゃんでした。生まれてからも1週間くらいの命になるかもしれない。そう聞かされたお母さんはものすごくショックを受けて涙が止まりませんでした。少しでも長く生きる集中治療をするか?家族で過ごす時間を優先するか?迷った心で出産の日を迎えました。無事産まれた、こはるちゃんの顔を見て、家族で一緒に過ごすことを心に決めました。母乳をスポイトで飲ませたり、お風呂に入ったり、夜は3人で川の字のように並んで寝ました。その表情はとても可愛かった。
そして生まれて7日目の朝に、お父さんとお母さんに見守られながら、こはるちゃんは天に還りました。
このことを伝えると「たった6日間の命」「早く忘れて、次の赤ちゃん産んだら」という言葉をかけられたりします。でも、ご両親にとって「あの6日間はとても楽しいこともたくさんあって、決して忘れたくない、かけがえのない時間」でした。「娘のありのままの姿、生きる力をみんなで見守った時間」でした。
ここからは私の想像ですが・・・ご両親は、こはるちゃんを天に見送ってから、深い悲しみに襲われたり、小さい子を見ると「こはるも生きていたらこれくらいになっていただろうに」そんな思いがあったように感じます。悲しみ・苦しみを抱えながら新しい命を待ち望みます。
それから3年、こはるちゃんに妹が生まれました。妹さんには、1日1日を後悔しないように生きるという意味を込めて「日々」という名前が付けられました。こはるちゃんと一緒に過ごした日々から気づいた大切なことを、お父さんとお母さんは、妹さんにも伝えたかったんだと思います。
こはるちゃんの6日間の命、3年後の「日々」ちゃんの誕生は、長く苦しい外国の支配からの解放を待ち望んだイスラエルの人々の心と重なるように思います。
今の私たちに当てはめたら、日々を神様に感謝して生きること、今苦しくても新しい命・新しい恵みを神様からいただけるよう待ち望むこと。この2つが考えられます。
短くても精一杯生きたこはるちゃん、それから3年して生まれた待望の赤ちゃん「日々」ちゃん。待降節、神様からの恵みを新しい心で日々受け止め直していきましょう。そして新しい命・神様からの恵みを待ちわびる。いつも目を覚まして祈る待降節にしてまいりましょう。