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2025年1月 ミサ説教

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神のことばの主日

髙祖 敏明 神父

1/26(日)10:00- 神のことばの主日


 ミサの始めに共同祈願のことを申し上げましたけれども、その結びの祈りに「いつくしみ深い神よ、御子キリストのことばは、わたしたちの心を希望で満たし、救いへと導いてくださいます」というふうに唱えます。今日のこのミサの中で神の言葉を聞き、御言葉に与らせていただいているこの恵みにまずは感謝いたしましょう。そして、神の言葉に活かされる、さらに深い意味で私たちが活かされる恵みをご一緒にお祈りしたいと思います。


2025年1月26日 神のことばの主日

 そういう目で今日の3つの朗読を読んでいきますと、例えばネヘミヤ書の一番最後のところに「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」という言葉が目に入ります。このミサは、みことばの祭儀と感謝の典礼から成っていますけれども、これを通して私たちは力の源をいただいています。そのことに感謝するとともに、そしてさらにこれを深めたいと思います。答唱詩編も先ほど歌ったように、「神の教えは完全で、魂を生き返らせ そのさとしは変わらず、心に知恵をもたらす」と言っています。ルカ福音書はただ今読み上げた通りですけれども、イザヤの預言書の一節、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」というこの預言を読まれた後、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と語っておられます。


 私たちにおいても実現している。でも、どう実現するのでしょう。今読み上げたイザヤの預言書の中の一番最後の「主の恵みの年」。言うまでもなく、50年ごとに負債のすべてが免除され、奴隷が解放されるヨベルの年、聖年のことを言っています。そして今、私たちは聖年を祝っています。もう皆さんもお気づきだと思いますが、主聖堂を入ってこられた右手のところに「希望の巡礼者」のロゴマークを扉に貼り付けてありますし、その前に巡礼のスタンプ台、その両横にはルーチェと名付けられたマスコットを飾っています。このマスコットはベトナムの共同体のグループが作ったものです。2体あります。まだじっくりとご覧になっていない方はご覧になってみてください。なかなかよくできているものです。


 いろいろと各教会のことを聞いていますと、ミサに与らなければ巡礼のスタンプを押させないという教会もあるようです。その意味では私たちの教会は少しオープンに過ぎるのかもしれませんけれども、ただこの聖年を祝うにあたりまして、巡礼を単なる巡回に終わらせないで、ご聖体訪問、祈り、赦しと解放の恵みをいただく。そのために1ヶ月以内にゆるしの秘跡を受ける。そういうことがこの聖年を祝うことの大事な柱として進められています。主の御言葉の恵みを、私たちも深く味わう。そういう機会にしたいと思います。


2025年1月26日 神のことばの主日

 皆様の多くの方々は、この「希望の巡礼者」のパンフレットを手にしておられると思います。ここにはこのロゴマークのことが詳しく説明してあります。まだお読みでなければどうぞじっくりとお読みになってみてください。地球の四方から集まってきた全人類を4人の人物に図案化している。そしてその足元には波が押し寄せていまして、人生の荒波を象徴している。そして、先頭の人は十字架をつかんでいますけれども、その十字架をずっと上から見ていきますと、下側は錨の形をしている。そしてその荒波のところに降ろされている。船乗りの間では、嵐の際、船を安定させるため海に投げ下ろす錨のことを「希望の錨」と言うんだそうです。この図案は、十字架こそ、人生という荒波の中で私たちを安定させる「希望の錨」なのだという意味が込められているようです。


 この聖年を行うということを、教皇はこの「希望は欺かない」という大勅書を出されまして、ここにいろいろと説明をしておられます。この中の一節をご紹介いたしますけれども、一節といってもこれの結びのところです。「聖年に向けて、聖書に立ち戻り、わたしたちに向けられた言葉に耳を傾けましょう」と、今日のこの「神のことばの主日」にちょうど合うようなことをおっしゃって、ヘブライ書の聖書の中から「わたしたちがもっているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」というこの言葉を引用され、こう説明を加えておられます。「錨のイメージが雄弁に示唆するのは、人生の荒波にあっても、主イエスに身をゆだねれば手にできる、安定と安全です。嵐に飲まれることはありません。わたしたちは、キリストにおいて生きて、希望に根を下ろしているからで、その希望は罪と恐れと死に打ち勝つことができるようにする恵みであり、試練を乗り越えさせ、招かれている目的地である天国のすばらしさを見失わずに歩むようにと背中を押してくれるものです」。


2025年1月26日 神のことばの主日

 「希望の錨」に思いを込めて、私たちの教会のこの2025年のテーマは「さあ出かけよう 心をつないで イエスと共に~希望に錨を下ろして」。これを私たちの教会のテーマにします。そして教皇は先ほどの言葉を受けて、結びとして5つの祈りを捧げておられます。今日、私もその祈りを皆様と一緒に、教皇に心を合わせながらお祈りしたいと思います。


 この聖年が、教会と社会とに、人間どうしのかかわりに、国際関係に、すべての人の尊厳の促進に、被造界の保護に、なくてはならない信頼を取り戻せるよう、わたしたちを助けてくれますように。

 信じる者のあかしが、この世におけるまことの希望のパン種となり、新しい天と新しい地―主の約束の実現へと向かう、諸国民が正義と調和のうちに住まう場所を告げるものとなりますように。

 希望が、わたしたちを通して、それを望む人たちに浸透していきますように。

 わたしたちの生き方が、彼ら(希望を望む人たち)に「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」と語りかけるものとなりますように。

 主イエス・キリストの再臨を信頼のうちに待ちながら、わたしたちの今が希望の力で満たされますように。わたしたちの主イエス・キリストに賛美と栄光が、今も、世々に至るまで。


年間第2主日

関根 悦雄 神父

1/19(日)10:00- 年間第2主日


 今日の福音は皆さんよくご存じのお話だと思います。カナで婚礼があって、イエスと弟子たち、そして母のマリアもそこに招かれていたということです。そして、その当時の婚宴というのは、1日何時間で終わるものではないんです。1週間くらい続いたようです。人々は何もかも忘れて、1週間そこに行って飲み食いしてお祝いをしたと言うんです。ですから、ぶどう酒がある程度あってもなくなるというのは不思議ではない。特にたくさん飲む人がいればそうなるでしょう。

2025年1月19日 年間第2主日 司式の関根神父

 しかし、このぶどう酒がなくなってしまうということは、その招いた人にとっては恥ずかしいこと。それに気づいたマリアはイエスに言います。「ぶどう酒がなくなりました」。ただこれだけ言ったんです。イエスはマリアが何を言いたいかよく分かったんでしょう。それで「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。このように言ったんです。「わたしの時」、これはヨハネ福音書では大事な言葉です。「わたしの時」というのは、イエスが十字架につけられて殺され、そして3日目によみがえる。そして天の父のもとに行って聖霊を与えてくださる。そういう大事なこと。これが「わたしの時」です。


 じゃあ、そのように答えたんだったら何もしなかったんですか。そうではないんです。イエスはそれで、このパンフレットのここ(表紙の絵)にその当時の水がめがいくつありますか。水がめが6つあるんです。この6つというのはどういうことか。その当時でも7つが完全な数。それでこの水がめは旧約の時代を象徴しているんじゃないでしょうか。この旧約の時代が終わって新しい時代が始まる。これがカナの婚宴の大事な意味だと言っていいと思います。イエスのこのわざによって新しい時代が始まる。ではこの新しい時代、このぶどう酒は私たちが作り出したものですか。いいえ。イエスによって私たちが受けたものです。大事なことはこれです。旧約の時代が終わり、新しい時代に入って、今、私たちはこの新しい時代に生きています。しかし、まだこの新しい時代、神の国の到来、これには到達していませんね。まだまだ私たちがしなければならないことがたくさんあるように思います。


 今日、マリアはぶどう酒がなくなったということに気がついて、イエスにそれを伝えました。これが大事なことだと思うんです。私たちの今生きている世界には何が足りなくなっているでしょうか。私たちはそのために何をしているか、あるいは何ができるでしょうか。このことが大事だと思うんです。私たちはもちろん、イエスに祈りの中でいろんなことをお願いしていると思います。しかし、その祈りの中でお願いするということだけで十分でしょうか。今日のこの婚宴では、そこに水がめがあった。そしてそこに召使いたちもいた。マリアはその人たちに、イエスの言葉に従って、何か言われたらやってくださいと言いました。イエスは水でいっぱいにするように言った。これですよ。マリアは、私たちにとって大切なものがない時には、それをイエスにお願いしました。


2025年1月19日 年間第2主日

 私たちが今生きている世界で何が足りないでしょうか。一言で言うと愛が足りないでしょう。ウクライナ、そしてパレスチナで戦争が起こっていました。パレスチナの方は一応停戦に合意したということですが、本当に平和になるかどうかまだ分かりません。そういう中で平和のために働いている人たちもいます。そこで多くの病人や怪我人が出ている。そういう人たちを助けようとして国境なき医師団が派遣されたり、いろんな支援活動、食料支援のためにいろいろやっている人たちもいる。しかし、本当に必要なのは、戦争などはもうごめんだ、戦争ではなくて、互いに赦し合い、助け合って生きる世界、これを作らなければならないということ、これをしっかり受け止める必要があるんじゃないでしょうか。そのために私たちは何ができますか、そのできることを探してやってみましょう。


 私たちの日本の状況も決して神の国に近いとは言えないでしょう。私たち割合高齢の人もいるから、今までにどういう社会を経験してきたか。戦後何もなくなってしまった、それからみんな頑張って、ちゃんと生活できるような社会を作り上げてきた。そこでは確かに自分の力も出して、互いに助け合いながらそれをやっていた。そしてある程度の豊かさにまで到達した。今はどうですか。この社会の中の格差が広くなって、本当に一部の人がほとんどの富、80%以上の富を所有して貧しい人が多くなってしまった。その貧しい人の中には、生きていくために必要な食べ物を十分に得ることもできない、そういう状況にもあると聞いています。そういう中で政府は何をしていますか。


 去年、能登半島の方で大地震が起こりましたね。その後政府はちゃんと支援しましたか。地震で住むところを失われ、自由に行動する、移動することもできないような状況があっても、それがなかなか直らない。そういう状況でした。これは私の考えですけれども、本当は自衛隊が行って、復興のために力を尽くすべきではなかったでしょうか。以前には自衛隊が外国にまで行って道路工事をしたりしたということもありました。なぜ能登半島でそれができないんですか。こういう現状の中で私たちはしっかりと現実を見て、祈りの中で何が必要か、そして祈りだけではなくて、何か自分が具体的な行動をする必要はないのか、と問うてみたらいいんじゃないでしょうか。


2025年1月19日 年間第2主日

 今日のこの共同祈願の意向の中でも、「すべての人が、聖霊の導きのうちに互いに理解し合い、1つになって」とあります。これを目指していますか。私たちの社会の中、世界には人と人とを分断するような力が強く働いているように思います。私たちそれに乗ってしまってはいないか、もっと人と人とが結ばれるように、違った考えの人であっても、違った国の人でも互いに理解し合おうと、そして助け合おうと、そういう動きをしていますか。それをするのが神の子の役割ではないでしょうか。

 次には「心を豊かにする平和な社会を築くために力を尽くす」とありますが、今こそ本当の平和が必要でしょう。互いに戦争を戦って何の得がありますか。そういう具体的な戦いがあって得をするのは、一部の武器を作るところであるとか兵器を作るところでしょう。他の人はそのためにますます貧しくなっていく。それはそのままにしておいていいのでしょうか。


 そして次の項目にはこうあります。「一人ひとりが大切にされ、温かく互いに育て合う場になっていくように」と。本当に一人ひとり、どういう人ものけ者にされることなく大切にされる。そういう世界の有りよう、これを求めて私には今何ができるんでしょうか。そういうことを考えて、マリアに倣って私たちもそれをイエスにお願いする。そしてそれと同時に、お願いするだけではなくて、私たちにできることを積極的にやっていくことができるように、そういう導きを今日はご一緒に願いたいと思います。


主の洗礼の祝日 子どもとともにささげるミサ

柴田 潔 神父

1/12(日)10:00- 主の洗礼の祝日


 今日は、シンデレラが洗礼を受けたい、ということで教会に来ています。シンデレラのお友達に来てもらっています。どうかシンデレラ、ご一緒に来てください。第一朗読に続いてあおいちゃんに登場してもらっています。シンデレラはちょっと恥ずかしいそうなので、あおいちゃんに間に入ってもらってお話をしてもらいます。


2025年1月12日 主の洗礼の祝日

 (お人形を見せて)シンデレラちゃんですね。今日、洗礼を受けたいということで教会に来てもらっています。シンデレラちゃん、ちょっと緊張しているので、どうして洗礼を受けたいのかあおいちゃんに聞いてみたいと思います。


「シンデレラは、どうして洗礼を受けたくて教会に来てくれたのかな」
「私は、いじめられたり、つらいこともあったけど、自分のことより、戦争や病気の人がいるから、みんなが幸せになってほしいの。だから、洗礼を受けたいの」


 今日は、こういう覚悟でシンデレラちゃんが教会に来ています。シンデレラはご存知のように、意地悪な人から辛い思いをさせられましたが、明るい希望を持って生きてきて、カボチャの馬車に乗って、美しいドレスを着て舞踏会に出かけます。


 ここから、タイムスリップして古代教会に入ります。古代教会の洗礼式は今のスタイルとは違っていて、水の中に完全に沈められて、何回か息ができないんじゃないかという苦しい思いもしながら、3回水に浸かってから洗礼を受けていました。今日、シンデレラちゃんはその昔の方法で洗礼を受けてもらいます。洗礼槽と言いまして、本当の洗礼槽はですね、人間が入れるぐらいの大きいもので、キリストのお墓とも言われていました。イエス様の苦難、十字架に与った後、復活の喜びに入るということなんですが、シンデレラちゃん、結構大きかったので、教会にあった洗礼槽は少し小さいんですけれども、顔が水の中に完全に入る、ちょっとシンデレラちゃんには辛い洗礼式になると思いますが、皆さんご一緒していただければと思います。


2025年1月12日 主の洗礼の祝日

 それでは、シンデレラちゃんに洗礼を授けます。
「私は父と」、ちょっとシンデレラちゃん、苦しいですね。息ができなくて苦しい。はー、息ができた。
「子と」、うー、苦しい、苦しい。
最後、「聖霊の御名によって洗礼を授けます」。ああ、息ができない。死んでしまうかも?
その時、天から「あなたは私の愛する子シンデレラ。あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえました。


 「シンデレラ、洗礼おめでとう」。おめでとうございます。シンデレラちゃん、びちょびちょなのでね、ちょっとバスタオルで拭きましょう。 昔の洗礼は、このように完全に水の中に浸かって息ができない。そういうある意味、臨死体験のようなものを体験してから、生まれ変わった自分というのを感じる洗礼のスタイルでした。今は額に水を注ぐということなので、この臨死体験と言いますか、苦しい思いをするところには至っていないんですけれども、昔は今のシンデレラちゃんのように洗礼を受けていました。 シンデレラは自分のことより、戦争や病気で苦しんでいる人、みんなが幸せになってほしい、そういう思いでいたら、「あなたは愛する子」という神様からの祝福の言葉がありました。洗礼は水に浸される苦しい体験ですが、その後、復活という新しい命、神の子としての命を生きるようになります。


 シンデレラの他にも「こんな自分になりたい」と思って洗礼を受けた女の子がいます。


2025年1月12日 主の洗礼の祝日

「せんれいをうけて いままでよりも かみさまのそばでやくだたせてください
心を込めて楽器を演奏します 人の心をうごかせるようにしてください
かみさまがおこなわれることを わたしにもてつだわせてください
せかいがへいわになって みんながあん心してくらせるようにみまもってください
かみさまがよろこぶことをするようになれますように」


 教会学校の皆さんも、大人の私たちも、こんな自分になりたい、新しい人になりたいと思って洗礼を受けていると思います。「主の洗礼」の日は、「新しい自分になりたい」という思いを強くするお祝いの日だと思います。新しい一年、なりたい自分に変わっていけるように頑張りましょう。そして、そんな私たちに「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声が聞こえるように願っていきましょう。


10時ミサの後、新年祝賀会が行われました


主の公現の祭日

ハビエル・ガラルダ神父

1/5(日)10:00- 主の公現の祭日


 幼子イエス様の福音は将来の予告になっています。予告、つまりキリストの生涯に行われる主なテーマは、その幼子イエス様の福音の時には手短に取り扱われています。例えば1つの重大なテーマは、イエス・キリストを受け入れる人もいれば、受け入れない人もいるということです。これはイエスの人生には重大な出来事でした。これはここに扱われています。この幼子イエス様の福音では、イエス・キリストを受け入れない、幼子を受け入れない人は誰かというと、まずヘロデ王。そしてあの当時の宗教の指導者たちはキリストを受け入れない。大きくなったイエス・キリストもこの人たちに殺されたんです。


2025年1月5日 主の公現の祭日 説教をするガラルダ神父

 一方、キリストを受け入れる人は誰かというと、まず、自然。自然はイエス・キリスト、幼子キリストを受け入れますね。一番最初に受け入れてくださったのは、飼い葉桶の草と動物の匂いと土の香り。自然は受け入れてくださった。もう1つは、羊飼いたちが受け入れます。羊飼いたちは貧しい人です。そんな辛い仕事は貧しい人でなければやりたくないんです。貧しい人で、そしてあまり教養がない、勉強してない人ですね。そして罪人。悪いことをしていた。評判が悪かったんです。自分の群れを勝手に人の土地に入れていっぱい食べさせて、何も払わないでサッと帰ったことでよく訴えられたのです。ですから、貧しい教養のない素朴な人で、そして罪人。ところがこの人たちは探し当てたんですね。探し当てて、そして飼い葉桶にいたのに信じました。そしてみんなにそれを知らせました。立派な方々です。


 もう1つ受け入れてくださったのは、今日の祝日のことですが、占星術の学者たちです。この方々は金持ちだったでしょう。お金がないとこの旅行はできないんですね。そしてまたインテリでした。学者ですね。ですから、頭のいい人はインテリの人もイエス・キリストを受け入れるという意味ですね。そしてまた一番大事なことです。この人たちは異邦人です。外国人です。この意味で「主の公現」と言います。全世界に開かれるんです。ユダヤだけではなくて、全世界に開かれる主の公現です。この人たちは、イエス・キリストを王として認めました。それはしるしとしてその贈り物ですね。黄金、乳香、没薬という、あまり便利ではないものです。チーズとか毛布とか、お年玉とか、もうちょっと便利なものを捧げればいいのにね。そうじゃなくて、この3つのことは王のしるしです。王に捧げる適切な贈り物です。この人たちはキリストを受け入れます。


2025年1月5日 主の公現の祭日 博士たち

 では、もう1つのことを考えましょう。星について考えたいと思います。今この年が始まったばかりですので、私たちの星について少し考えてみたいと思います。この福音の星は「先立って進み、幼子の上に止まった」と書いてあります。ですから、道を示さない。道を照らさないんです。目的を示す。なるほど、私たちには星がありますね、見ないかもしれませんけどあります。今年こそ自分の星を見て、そこに向かっていきましょう。ある人にとって今年の星というのは自分の夢、自分の憧れ。ある人は幸せになるという目的のために生きる。それはちょっと甘いと思います。幸せは目的ではないんです。幸せは結果です。蝶は幸せのようなものだという話があります。蝶をつかもうと思えば逃げる。その代わりに何かをじっと見つめていれば、蝶が静かに肩に止まってくれる。幸せもそうです。つかもうとすれば、目的にすれば逃げる。結果として、何かを見つめて、何かを本当に求めていれば、結果的に幸せが感じられるのです。ですから、私たちは夢を見ましょう。ある人にとっては具体的な夢があります。たくさんの人にとって、今年は例えば卒業です。入学式とか、あるいは結婚するとか、お父さんになるとか、仕事、海外旅行、いろんな目的があります。それを大事にして、それに向かって生きるのが嬉しいことです。


2025年1月5日 主の公現の祭日 鐘楼と星

 そして、この個人的な目的と同時に、根本的な目的を求めましょう。生きる根本的な目的、それは何かというと、キリストの言葉です。「私のおきては、愛し合いなさい」ということです。愛し合うということは、根本的な共通の目的です。今年はより深く、より純粋に愛することを私たちの星、私たちの夢にしましょう。この話があります。ある結婚のコンサルタントに行く男性は、「私の妻はもう耐えられないな」と言います。もっと愛しなさい。彼女をもっと愛してください。「でも喋りすぎるよ」。もっと愛してください。「でもいつも大声で怒るんですよ」。もっと愛してください。「でもいつも私が冷たくされる」。もっと愛しなさい。これは全ての解決です。もっと愛すれば解決になる。愛さなければ、いくらいろんな方法を使ってもうまくいかない。もっと愛しなさい。これを私たちの今年の星にしましょう。目的にしましょう。すなわち、助け合って分かち合う、赦し合って譲り合う、大切にし合って仲良く生きるということを一番大事にしましょう。自分の星です。


 ところがこの星のための道は、この目的の道はどうなるんですか。道はないんです。目的だけです。歩いているうちに道が開かれる。歩きながら道を作るのです。柔軟性でもって、自然の成り行きに身を任せて歩み続けるのです。ある詩に書いてあるように、窓ガラスを流れる雨のように、海へ流れる川のようにまっすぐは行かないんですね。いろんなことで。でも結局行くんです。その雨のように、川のように目的に向かっていきましょう。それだけではなくて、何よりも私たちの心の中の光、心の中の星は聖霊ですね。聖霊に満たされて、聖霊に導かれて、自分の星を喜んで求めて生きることにしましょう。イエス・キリストのように、イエス・キリストと共に。おめでとうございます。


神の母聖マリアの祭日

ハビエル・ガラルダ神父

1/1(水)10:00- 神の母聖マリアの祭日


 良い年になりますように。悩んでいる人たちのためにも今年は良い年になりますように。

 さて、今日は3つのことを祝っています。神の母聖マリア、それからイエス・キリストの名前、そして新年。この3点について少しずつちょっと話してみます。まず、神の母聖マリア。聖母を通して私たちはイエス・キリストを迎えるようになりました。マリア様は教会の母親で、私たち一人ひとりの母ですので、これからこの年を始める時に、母マリアの手を取って歩き出しましょう。これはこの年の好調な立ち上がりです。良い出だしです。マリア様の手を取って歩き出します。


 もう1つの点は、イエス・キリストの名前のことです。まず、その名前をつけたのはヨセフとマリアですけれども、決めたのは彼らではないんです。名前を決めたのは天使、つまり神様が決める名前です。親はつけただけです。と言いますのは、名前をつけるということは、名前をつける人は上になる。例えば、アダム。旧約聖書のアダムは動物に名前をつけた。つまり支配する、上になる者です。ところが、イエス・キリストの上には誰もならないんです。名前を決めたのは神様で、それをつけたのは親です。


2025年1月1日 神の母聖マリアの祭日

 もう1つのポイントですけれども、この名前の意味です。聖書における名前という言葉の意味です。私たちの場合、自己紹介の時に私の名前は○○ですというような、それではないんです。名前というのはその人の使命、天職、生きる根本的な目的です。何を求めて、何を慕い求めて生きているのかということが名前です。イエス・キリストの名前は「人を救う」。人を救う人、きれいな名前です。人を救うイエス・キリスト。私たちはイエス・キリストの弟子ですので、私たちも人を救うようにしましょう。人を救うということは、天国に行かせるということよりも、深い喜びを感じさせることです。自分の愛の行いをもって人に深い喜びを感じさせるのは救いです。その人の救いです。心が望む喜び、心を満たす喜びを感じさせるのは救いです。では、キリストのように、キリストとともに、今年こそ人を救うために、人に深い喜びを感じさせるために生きることにしましょう。


 3点目は新年です。新しいことが多いけれども、私たちは新たになると思いますか。あなたの周りの環境が新たになると思いますか。思わないでしょうね。なぜならモーリアックというフランスの作家、カトリックでノーベル賞だったフランスのモーリアックが言った言葉ですが、「人間は変わらない。生まれつきの欠点は変わらない。しかし、本当の自分に戻ることはできます」。大切な言葉だと思います。変わらない、でも、本当の自分に戻ることができる。それをしましょう。本当の自分とは何かということは難しいことですけれども、簡単に言えば、自分には浅い自分がいて、深い自分もある。浅いところの自分、深いところの自分があります。浅いところの自分というのはエゴイズムと高慢によって汚されている自分。私たちは大体この浅い自分とコミュニケーションを取っている。話し合っているんですね。


2025年1月1日 神の母聖マリアの祭日

 一方、深いところの自分があります。それは愛したい自分、本当の自分、自分らしい自分。私たちはその自分から離れているかもしれません。ですから、人間は変わらないけれども、その自分に戻ることはできます。それをしましょう。それで思って新たになることができるのです。つまり、どういうふうに自分に戻ることができるでしょうか。まずその深い自分とコミュニケーションを取ること、よく話すこと。例えば喧嘩があったとします。あるいは嫌なことがあったとしますね。浅い自分と話している時には、何回もこのことを考える。いかに自分が正しかったか、いかに相手がずるかったか、そういうことを繰り返すばっかりですね。それとは反対に、深い自分と考えると、その人の立場からも物事を考えるようになり、その人の良いところも見ることができるんです。ですから、深い自分と話すように、深い自分をコミュニケーションの相手にするように。充実した沈黙です。深い自分と話す。


 私たち神を信じる人にとっては、深い自分の中に神様がいらっしゃると信じて、感じていますので、深い自分と話すことは結局、神様と話すことになります。つまり、祈るということです。黙想するということです。自分に戻るための1つの方法は祈り、もう1つは、この深い自分がしたいことは何ですか。それは「愛したい」です。愛することは自分に戻る方法です。愛することです。心が、本当の自分が求めているのはそれです。ですから自分に戻るには、まず自分とよく話して、神とよく話して祈り、そして愛。愛というのは、助け合って分かち合う。赦し合って譲り合う。大切にし合って仲良く生きる。この愛を求めている自分は、それに従って生きるのは、自分に戻るための方法にもなります。


2025年1月1日 神の母聖マリアの祭日

 ですから、私たちはこれからこの年を始めますけれども、いい年になるということを願うよりも、いい年にすることを願い求めましょう。なることは、つまり環境がすべていいという時はほとんどないんですね。苦しみと悲しみも来るんです。ですから、なることよりも、する。良い年にする。例えばスキーに行く時には、天気が良くて滑りやすいゲレンデの粉雪を気持ちよく滑っている時もありますけれども、そうとは限りません。吹雪の時もあります。雪で見えない時もあります。寒くて雪が凍っていてアイスバーンになって、凸凹になって急斜面があって、最低の時もあります。それもスキーの中です。そこでフォームでもって、姿勢でもってそれを乗り越えるんです。私たちも今日始まりますこの年で、悲しいこと苦しいこと、辛いことがいっぱい来るかもしれませんが、それは姿勢でもって乗り越える。どういう姿勢かというと、マリア様の手を握って、キリストのように、キリストとともに人に救いをもたらす。この生き方で生きましょう。この生き方は本当の新年になります。

 新年おめでとうございます。


神の母聖マリアの祭日(深夜のミサ)

髙祖 敏明 神父

1/1(水)0:00- 神の母聖マリアの祭日(深夜のミサ)



 改めて皆様、新年明けましておめでとうございます。
過ぎた年、様々な出来事がありました。色々と回顧している中で、自然災害や戦争、社会的な分断だとか、不安定化していることが増しているということが非常に目立つ年であったということも色々と言われていますけれども、皆様の歩みの中でもきっと実感していらっしゃるでしょう。そういう様々な困難、課題がある中でも、神様は私たちと一緒に寄り添いながら歩んでいてくださっている。その信頼をもって今日の第一朗読にありました民数記のこの祝福を私も皆様にお捧げしたいと思います。


2025年1月1日 神の母聖マリアの祭日 お説教をする髙祖神父

 古くからイスラエルに伝わる祝福の言葉ということで今日紹介されていますけれども、「主があなたを祝福し、守られるように。あなたを照らし、恵みを与えられるように。御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。新年を迎えての私からの皆様へのお祈りでもありますし、皆さんのいろんな人へ向けてのお祈りかと思います。今日1月1日は教会のカレンダーでは神の母聖マリアの祝日であり、世界平和の日、そしてまた今年は世界大戦、太平洋戦争が終わってちょうど80周年を迎えております。平和ということが大きなテーマになります。ご存知のように、教皇はこの世界平和の日に、世界の人類家族に向けてメッセージを出されます。その全体をぜひお読みいただきたいと思いますけれども、教皇フランシスコの今年のメッセージの冒頭はこんな言葉で語られております。


 「天の御父が与えてくださったこの新しい年、希望を掲げる聖年の幕開けにあたり、お伝えします。すべての皆さんに希望と平和がありますように」。ちょっと横にずれますが、さっきまでやっていましたNHKの紅白の大きなテーマも希望と平和でしたね。何かそこが重なっているような気がいたします。「とりわけ、自分の境遇に打ちひしがれ、自らの過ちに苛まれ、他者の裁きに押しつぶされ、もはや人生に光がなく未来を描けずにいる人にこそ、平和があるよう切に祈っています。今年は、贖い主の御心からもたらされる恵みの年だからです」という言葉で平和のメッセージが始まっています。


2025年1月1日 神の母聖マリアの祭日 真夜中のマリア様と幼子

 これを読みながら私も思ったんですけれども、イエスの誕生の神秘、クリスマスから今日8日目を迎えていますが、そのイエスの誕生の神秘にはいろいろな不思議な点がありますけれども、教皇がメッセージの中でおっしゃっていることと通じ合うような点があるように思います。いくつかその不思議な点を指摘いたしますと、神の御子が死を避けることのできない人間となり、全く無防備な赤ちゃんとして生まれてくる不思議。また、マリアから生まれた幼子について、天使は「私は、民全体に与えられる大きな喜びを伝える。今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれなった」と告げます。しかし、告げる相手はダビデの町の有力者や長老たちではなく、その地方で野宿していた羊飼いたち。しかも、生まれた場所は町中の然るべき家ではなく、場末とも言うべき家畜小屋で、人知れず生まれるという不思議。さらに天使は、「あなた方は布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなた方へのしるしである」と言う。救い主が乳飲み子として布にくるまって飼い葉桶に寝ている。それが救い主であることのしるしだと告げるこの不思議、などなど指摘できると思います。


 世界平和の日の教皇のメッセージの冒頭の言葉もこのご降誕の神秘のラインに重なる。聖年は様々な意味での負債が消される年、リセットされる恵みの年。それが始まり、全ての人に希望と平和を祈りつつも、特に自分の置かれた境遇に打ちひしがれている人、自ら犯した過ちに心と体が苛まれている人、他者の裁きに人生を奪われ、押しつぶされている人、もう生きていく光や導きが見出せず、未来を描けずにいる人、心と体に負債を持つ人にこそ、贖い主の御心からの恵み、希望と平和があるように、と教皇は祈ります。私たちのこの新年の祈りもここに重ねたいと思います。教皇はその趣旨を少し語っておられますけれども、恵みの年、聖年の開始は旧約の時代からすべてのために次のことを思い起こさせるんだと。虐げられるためにこの世に生まれてきた人は誰もいない。私たちは同じ御父の子ら、兄弟姉妹であり、主の御心のままに自由な者となるように生まれてきたんだ、ということをみな思い起こす。ですから、負債を帳消しにして、兄弟姉妹として新たに始めようという年です。


2025年1月1日 神の母聖マリアの祭日 深夜ミサの様子

 今日の福音では後半のところに、幼子は体内に宿る前に天使から示されたイエスという名前を付けられました。イエスという名は、ヘブライ語のヨシュアがギリシャ語化してイエスとなったというふうに言われていますが、その意味は「主は救う」です。「主は救う」という名を持つ方が生まれてきた。救いの業が本格的に動き出したということです。今日のガラテア書はそれを受けて「時が満ちると、神は御子を女から生まれさせて遣わされたが、それはわたしたちを神の子となさるためであった」と言っています。すべての人が神の子となるため、同じ父の子らである兄弟姉妹がみな神の子となるためにこの世に生まれてきている。虐げられるために生まれてくる人は誰もいない。みな神の子となるためにこの世に生まれてくる。そういうことを考えていますと、最初に祝福として皆様にお伝えしました民数記の祝福の言葉の「あなた」とは、私たちのことを「あなた」と言いますけれども、こういう流れで読んでいきますと、今や地球に生まれているすべての人がこの「あなた」というところに入っているというふうに理解できると思います。

 新年を迎え、神の母聖マリアの取りなしに信頼して、先ほど詩編で「神よ、あわれみと祝福をわたしたちに」と祈りましたけれども、この憐れみと祝福の願いは、家族や友人のために祈ることは当然としても、これを超えてこの地球にいるすべての人、私の兄弟姉妹、人類家族すべての人のためにこの祝福と恵み、平安、希望と平和を祈りたい。特に教皇がおっしゃっているように、虐げられ、心と体に負債を背負っている人のために祈りたいと思います。そして、私たちは洗礼を受けてみな祭司職というその務めもいただいています。祭司としての私たちが神から派遣されて、人々に神の祝福、希望と平和を伝える人になることができますようにお祈りしたいと思います。聖母マリアのお取りなしを願いながら、この祈りをご一緒に捧げたいと思います。新年を祝うにあたり、私たちの心からの信仰宣言をご一緒に唱えまして、共同の祈りも捧げたいと思います。


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